はてなキーワード: 不見識とは
コミュ障なので、大学で所属していたサークルはあんまり行ってなかった。
結果、同期とは卒業以来ほぼご無沙汰で、そのうち数人とFBでつながっている程度。
そのFBで、たまたま東京近くに住んでいた仲間数人が忘年会をやっている写真が上がって来た。
「あれ、この女性は?えっと誰の奥さんだっけ?」
という人物が写っていた。
一応パンツスタイルなのだが、アウターの形、色柄のチョイス、コーディネート、肌の色、そして何より髪型が、女性にしか見えなかったのが理由だ。
コメントで後輩が「○○先輩ですか?久しぶりですね!」などと言っていて「おお!確かに▲▲が昔と変わってない!間違いなく○○だよ!」とやっと気付いた次第。
「ああ、今思うと確かに、当時の彼の言動からしてそれはあり得る」
何より本当にいいヤツだったし、いいヤツに男も女もLGBTも関係ないわけで、むしろ純粋に応援したい。
あと、GID当事者(MtF)の漫画家2人が、それぞれご自身の手記を漫画にまとめていて、それをたまたま今年になってから読んでいたこともプラスに作用した気がする。
自分が理系修士卒で、かつ最近までリア充だらけの職場で働いていたこともあり(自分自身はキモカネおっさんだけど)、ご両人の感覚にもわかりみがあったというか。
勿論GIDにしろ異性装しろ、当事者やその肉親・友人・恋人・家族といった関係者にしか分からない悲喜こもごもがあるんだろうから、軽々しいことは言えない。
「おんな城主直虎」を見ているんだけど、ポリコレ的に正しくない表現が多すぎる。
↑これらを美しく、しかも肯定的に描いているドラマだった。放送禁止にしろとは言わないが、時間帯を深夜にするなど、ゾーニングをしなくていいのだろうか。
浜松駅に立ち寄ってみたとき、ポスターがたくさん貼ってあった。ファン同士で楽しむのは否定しないけれど、街中に広めるのはちょっと自粛してほしい。
そういえば昨年のドラマ「真田丸」にも、最終回には、主人公の真田信繁がヒロイン(きり)にキスをするシーンがあった。
内容はと言うと、男が女に唐突に抱きついて、女はそのことに驚いて固まってしまう。男はそれに無理やりキスをしたのである。これって性暴力だよね?
もし現実だとすれば、男女がキスをするときは、たとえ口頭で許可を得ないとしても、まずは体を寄り添わせたり、相手の気持ちを確認するためのステップを踏む。いきなり抱きついたり、強引なキスをするのは性暴力だろう。
ドラマのストーリーでは、事後承諾でこれを相手が受けいれてくれたからよかったものの、子供とか、一部のバカな大人がこのマネをしたらどうするんだろうか? 当時、私はこのシーンを問題視していなかったが、先般に少年ジャンプの「ゆらぎ荘の幽奈さん」という漫画が炎上していたのを見て、ハッとした。子供も見るようなTV番組では、性暴力を肯定的に描写することを許してはいけなかったのだ。
私はかつての不見識を反省するとともに、NHKの配慮のなさが許せなくなってきた。
こういうものを平然と受容しているドラマ視聴者のことも許せない。漫画のように叩きやすいものだけに目くじらを立てる、インターネットのリベラル勢力に対しても怒りがわいた。
言うまでもなく、ポリコレに反しているものであっても、表現の自由はある。だからゾーニングすればいいのだが、それが十分に行われているとは言いがたい。
私はリベラル勢力にすこしは良識があると信じていたが、大河ドラマのような大衆文化に対しては、彼ら・彼女らもロクに反応を見せないようだった。これが日本の現状だ。
私は憤懣やる方なくて、頭がおかしくなりそうだ。
「ポリコレなんか知ったことじゃねーよw」「フィクションだから自由だろw」という態度で、まっとうな人権感覚を捨てないかぎり、この世界で娯楽作品を楽しむことは難しい。そして、それができる普通の人たちがうらやましい。
共産党を懸命に支援するある新聞も、テクニックを駆使して頑張っとる
「条約、対テロ目的でない」 国連指針を執筆・米教授 「共謀罪」政府説明と矛盾
「新規立法が必要か」との質問に、パッサス氏は条約に加わるために(1)組織的犯罪集団が関与する重大な犯罪行為への合意(2)組織的な犯罪集団に参加――のいずれかを処罰する法律が必要だと説明したうえで、「既存法で加盟の条件を満たすのであれば、新法の必要はない」と語った。ただ、日本の既存法がこの条件を満たすかどうかについては、答える立場にないとした。
原文も全文、載せろや。政府説明と矛盾してないようにも読めるぞ。肝心なところがバッサリなくなってるんじゃねえの? 外国人のインタビューだからって、ごまかせると思うなよ。
共謀罪でもテロ等準備罪でも、どちらの呼び方でもいいよ。21世紀の警察は組織犯罪との闘い。組織犯罪に限っては、手遅れになる前に共謀段階で捕らえなければいけない。私は共謀罪は必要な法律だと思う。
共謀するという行為を罰するわけだから、やっぱり共謀罪だ。共謀した段階で捜査が介入することが大切。他国と歩調を合わせて共謀段階を取り締まるというのが筋だと思う。
ただ、テロ集団も組織犯罪には変わりないわけだし、五輪前でテロについて関心が高まる中で、政府のやり方が「けしからん」というほどでもない。
共謀罪必要だよね、もっと厳しくしないと、って話だろ。タイトル変えろや。
――「一般市民」には関係ない法律になるか。
捜査当局による乱用を懸念する声があるが、どんな法律でも解釈の仕方によっては常に乱用の恐れがある。この法律ができることと乱用の恐れは関係がない。社会と警察の間にきちんとした緊張関係があり、監視の目がしっかり作用していれば乱用は起こらないはずだ。それが民主主義社会のおきてではないか。
共産党が大好きな民主主義についての、とってもありがたい話やで。ちゃんと聞いておけよ。
https://www.youtube.com/watch?v=s3orflPoBfw
「北朝鮮にリアルな危険はない」と日本共産党は国会の非難決議にも反対した。朝鮮労働党とはかつての兄弟党と言われていた。北朝鮮は地上の楽園だと帰国事業も主導した。こんな不見識、無責任な政党に国民の生命を預けるわけにはいかない。だまされてはいけない。
1. デビッド・ボウイ
実はよく知らない。昔やんちゃしてた、でも今は素敵なおじさま、程度の認識しかなかった。
なくなる数日前BLACKSTARのMV見て、何で今までノーチェックだったのか己の不見識をなじってるタイミングで逝かれたので、結構ショックは大きかった。
2. グレン・フライ
イーグルスの人。親父がLPよく聴いてた。アメリカらしいアメリカ人アーティストという印象。
3. モーリス・ホワイト
P-FUNKやラムゼイ・ルイス大好きで聴き漁ってたけど、EW&Fには何故かたどり着かなかった。
でも皆September大好きだよね。
4. キース・エマーソン
リック・ウェイクマンと「どっちだったっけ?」ってなる人。幻魔大戦の方。ヒラヒラしてない方。
5. プリンス
彼の死は自分が想像していたよりも、遥かに大きなショックだった。
初期アルバムジャケから存分に伝わるキモさに覆い隠されがちだが、ガチの天才。
もしまだ聴いていない人がいるなら、PurpleRain ~Parade前後数枚でいいから是非とも聴いていただきたい。
事故死。なくなる数日前、現場を家族で訪れていたのでびっくりした。孤高の人。
7. ピート・バーンズ
Dead Or Aliveは聴いたことはあるはずだが、全く記憶にない。プリンスよりはマシだが充分キモかったのは憶えている。
8. グレッグ・レイク
KingCrimson時代しか知らないが、一般的に認知されるよりベーシストとして素晴らしいと思っている。
この人はジョン・ウェットンとかぶる。見分けるポイントはあまりない。歳とってまん丸になったのがグレッグ・レイク。
断るまでもなくアンソニーもフリーもチャドもジョシュもご存命である。が。
今年6月新作「The Getaway」発売。前作IWYがそんなに好みでもなかったので、しばらく手を出さず、たまたまタワレコで見かけたので入手。
家に帰って聴いてたまげた。二度見ならぬ二度聴きした。最低だった。
そのまま自棄酒飲みながらタワレコで買ったくせにAmazonレビューに罵詈雑言を書き散らした。後悔はしていない。
そのおかげでMIBのピカってやるやつのように、記憶からこの新譜は消去された。はずだった。
それからしばらくはポケモンGOで冒険していたのでiPodからは少し遠ざかっていた。
「RHCPのUKツアーにBABYMETAL参加」。大ニュースだ。
むくむく新譜の悪夢が蘇る。聴き直す。そびえたつクソSucks So Muchアゲイン。
しかし待てよそうだRHCPといえばライブ。生粋のライブバンドだ。ツアー出てるんか。つべにライブ動画上がってるか?上がってた。
そこで私は屍を見た。かつてRHCPと言われたものの残骸がグシャグシャに打ち砕かれて転がっていた。
誰しも老いる。容姿についてとやかく言うのはアンフェアだ。でも一言いわせて!ヴィーガンなって体ダルダルってお前それどないやねん。
動画に映るメンバーは「はいココ!」とアクセルを踏んでいるように見えるのだが、その車はまったく前進していない。
アメ車なのにコーナーでアウト側から3歳児の三輪車に抜かされるぐらいのスピードしか出ていないのだ。
正直、前作IWYから戦犯はジョシュだと思っていた。やっぱりジョンFUCKINGフルシァンテじゃないとダメとか思っていた。
ところがそのライブ動画は、全く逆の状況を明確に映し出していた。
残り3人がジョシュについていけてないのだ。1人の介護士がたちの悪そうな要介護3老人におんぶに抱っこさせられているブラックな現場が、ただひたすらに映し出され続けている。要介護ROCK。
ジョシュ、すまない。申し訳ない。誤解していた。君は才能あふれる最高のプレーヤーだ。君は今輝くべきだ。
そんなダメ親父どもは捨て置いて、君自身の音楽を世に見せつけてほしい。
ダメ親父3人、おまえらはMTVでMCでもしてろ。けっこういけるやろ。
90歳ぐらいまで続けて、曾孫みたいなアイドルに「儂ら昔世界一のバンドじゃったんじゃ」「えーウソー」とかやって、ちんぽソックスとか電球頭とか珠玉の名作見せつけてドン引きされとけ。
今までどんなアーティストが老いさらばえても、ちっとも気にならなかった。そう、誰しも老いるんだ。
エアロスミスのライブで、声出てなすぎて声かホワイトノイズか区別つかんかったって言われても、仕方ないやろ、としか思わなかった。
ロブ・ハルフォードがバイクで現れてステージ中央で立ちごけながらメロイックサイン上げてた、って言われても、歳はバランス感覚から攻めてくるからなぁ、で済ませた。
ジミー・ペイジがギター弾かなくてもオジーが芸人になっても、心は揺れなかった。
でもな、RHCP、お前らだけはダメだ。そんな姿になったお前らなんて、絶対見たくなかった。
ライブの曲間に繰り広げられる、あの張り詰めたJAMは到底言語化なんてできない美しい瞬間で、それは私自身の音楽を愛するヴァイブそのものだった。
いつも新譜を心待ちにしていたし、ライブ映像が届けば鳥肌を総動員させたし、WetSandのイントロ間違えた大阪の夜だって最高だった。
今回の新譜が最低で、ライブが見れたもんじゃなくて、でもその現実を受け止めきれずに悔しくてネットでお前らのこと漁りまくった。
そしたらさ。
あの小さかったクララ・バルザリーがさ。あの時のまんまの顔で、素敵な女性になって、誇らしげな親父と並んで写真に写ってんのさ。
アンソニーが某ブランドの公告で息子を膝の上に乗せてドヤってんだよ。
私にも息子がいる。6歳。アンソニーとその息子の距離感が、私自身と息子のそれにものすごく似ていて。
どう?いい父親になれそうかい?大変なこともあるけど、素晴らしい色々なことを共有できるよな、って。
私がそうであるように、彼らも人生のステージをひとつひとつ進んでいるんだ。
そんな彼らに、あの頃に戻ってくれなんて、とても言えない。
分かってる。たとえ止めたくてもお前らは止められない。お前らの周りには何千・何万の人達がいる。お前らをサポートすることに人生をかけているスタッフだっているだろう。
だから私は今年をもって、自分の中のRHCPに死んでいただくことにした。そうすることで、私は死ぬまでRHCPを愛す。
2008年、僕はその世界に恋をした。
そう、あれは今から8年も前のことで、僕はまだ大学生だった。軽い気持ちで入ったオタサーに所属しており、新作アニメで目についたものを、取り敢えず視聴するのを習慣にしていた。それらの内容について、サークルメンバーとうだうだ語るのが日課だった。とはいえ、ぬるま湯めいたモラトリアム生活にそろそろだれ始めたまさにその時、破格のアニメ、既存の枠組みをぶちこわすような、エポックで世界観をもったアニメシリーズが放映され始めて、僕は瞬く間に虜になった。アニメ一期の遥か前からOVAや企画などの展開があって、物語の背後にとてつもない情報量を含んだ異世界が広がっているのを知って、沼にはまり込むようにその世界へ沈んでいった。DVDを買い、マンガを買い、小説を買い、ゲームを買い、記事の載っている雑誌を買い、ドラマCDを買い、同人誌を買い、SSを読み、ラジオを聞き、イベントに足を運んだ。絶叫上映会で吠えた。自分がこんなに深く、何かに夢中になれると初めて知った。
就職活動をして、社会人になり、いつの間にか新作アニメを追う習慣が失われていっても、そのアニメに対する想いは失われなかった。劇場版やライブイベントに、欠かさず足を運んだ。声優イベントや歌手のライブやアニメ会社のイベントもだ。補給が何度か途切れそうになっても信じて待ち続けていた。だからイベントで、テレビアニメの第3期制作が発表された時には狂喜乱舞して、夜、サイゼで仲間と祝杯をあげた。
1期、2期、劇場版、OVAと違って、今回からは新キャラたちの物語になるのだけれど、大した問題ではなかった。もう一度あの世界がテレビで観れる、と考えるだけで多幸感に満たされた。 第3期の第1話はまず先行上映会で観た。少し引っ掛かる部分はあるにはあったけれど、その場の興奮や、長い時間を経てようやく新作を観れた感激が、不安を押し流した。先行上映会の帰りに、アニメショップで即座にBDを予約した。第1巻にはイベント参加チケットも付属していて、早めに予約しないと参加券が無くなるという危惧もあった。 その後、第1話をとうとうTV画面で観ることになり、少し引っ掛かっていた、違和感めいたところが更に目立つようにはなっていたけれど、それでもまだ、この世界をもう一度TVで観れたという喜びが上回った。録画を何度も視聴し、次回を待つのは幸福な時間だった。
その1週間後、第2話が放映され、地獄に叩き落とされるまでは。
第2話の大半を占め、物語全体でも重要な転機となる戦闘シーンが、正視に耐えない代物だったのだ。いまや流行りのアニメを多少追うくらいの超ライトオタクに過ぎない自分が、耐えられないほどの惨状だった。1期、2期、劇場版、OVAと、8年続いてきた映像の魔法が、一夜にして解けたようだった。海面は水色の板になり、艦船は書き割りになり、航空機は張り子になり、キャラクターは棒人形になった。画面を覆っていたのは、僕を釘付けにした踊るようなキャラの動きではなく、素人でも稚拙と分かるCGの人形遊び、ハリボテの継ぎはぎだった。これがいわゆる「作画崩壊」ならまだ救いはあった。円盤での修正に望みを繋げばいいのだから。でも、そこには欠片の希望も残されていなかった。CGでボロを出さないようにするためだろう、一定の距離を置き続けた、単調で臨場感皆無のカメラワーク、物語や世界観や戦いのリアリティを根こそぎ崩壊させるコンテがそこにあったからだ。万一円盤に修正が入ったとして、コンテから切り直されることはないだろう。
そこからの1週間は、うってかわって、処刑を待つような気分で過ごした。まともな第2話が放映される夢を2回見て、2回とも、目覚めた後、激しい悲しみに襲われた。そうして迎えた3話は、ストーリーに集中することさえできなかった。前話のことは何かの間違いだったのでは、と、祈るような気持ちで画面を見つめ、もう一度裏切られた。戦闘シーンに移るたび魂が削られ、どうかもう日常だけ映していてくれ、と思った瞬間に、突然、反射的にテレビを消した。そしてもう一度電源をつけることも、続きを見ることもできなかった。電源を落として真っ黒になったテレビ画面の前で、リモコンを握り締めたまましばらく金縛りにあったように動けなかった。激しい動揺が自分の中で荒れ狂っていた。
たかがCGが壊滅していたくらいで、自分が、もうこの世界の実在を信じていないのだ、と、気づいてしまって、もはや、続きを見ることはできなかった。
驚いたのは、自分の中にこんな逆鱗があったと気付いたことだ。自分のようなライトオタクとしては、キャラの絆や誇りさえ美しければ良いとまで思っていたし、このアニメについて他人に紹介するときも、世界設定や関係性の話ばかりしていて、戦闘シーンがカッコいいから観て、と言ったことはなかった。そんな自分の不見識を心より恥じたい。あまりにも当然のように実現されていて意識にのぼっていなかったが、この世界や、キャラの喜怒哀楽といったものは、戦闘シーンを含む特殊な動きのリアリティによって説得力をもたされていたのだ。それに以前は、一般論として「作画に比べてCGはダメ」と言われているのを見ても、老害の迷信に過ぎないと考えていた。あの戦車アニメのCGは凄いし、あの劇場アニメのCGは格好いいじゃないか、などと思っていた。今なら分かる。CGは、舐めて使う連中、省エネを考えて安易に利用する者たちの手にかかれば、作品を抹殺する、世界を絶命させる力さえあるのだ。
円盤をキャンセルすると決めた理由は、最初は怒りだった。この世界をこんな風にした連中に、一文たりとも落としてやりたくない。あり得たはずの3期を奪った奴らに、免罪を与えてはならない、と。アニメが壊れていても、まだ小説やマンガは次々出る予定がある、そう考えて、自分を慰めようとした。これまで集めた小説やマンガを読んで、心を鎮めようとした。 しかし、駄目だった。かつて僕の心を満たした幸福も興奮も甦ることはなく、ページをめくるたびに、奪われたものの大きさが実感され、胸を絞られるような痛みが襲った。もうこの世界は壊れてしまったのだ。いま僕の本棚に収まっている無数の物語は、かつて確かに存在した、けれど既に潰えてしまった世界の残骸でしかなく、僕の心は、死者の生前の姿を眺めて安息を得られるような、鈍感な構造をしていなかった。やはり耐え切れなくなって本を閉じた時、怒りよりもずっと深い悲しみが僕を包んで、ああ、きっと僕はもう、この物語の円盤どころか漫画も小説も何もかも楽しむことはできないのだろうと悟った。
僕より度量の広いファンは、「この程度で円盤を買わないというのなら、お前はファン失格だ」と言うかも知れない。だが僕にとっては、円盤を買ってこの作品を認めてしまったら、その時こそ僕は、ファンとして死ぬのだ。
今シリーズも、爆発的にではないだろうが、そこそこ売れるはずだ。昔からの視聴者でも僕より大らかな人間は、作品に満足し、あるいは満足しなくてもお布施として、ソフトを買うだろう。当初目標とされた売上からは大きく落ちつつも、まだ戦える、と、制作側は思い込む。既に戦争は最悪の形で終わってしまったことにも気づかずに。 そして4期なのか劇場版なのかOVAなのかが既定路線的に作られ、しかし売り上げはジリ貧となり、遠からず作品を閉じることになるだろう。そうなったら、なぜコンテンツが死んだのか犯人探しが始まり、新しいキャラや新声優やシナリオが濡れ衣を着せられ、いわれなき誹謗中傷を受けるかもしれない。その時のために、だから、僕は、宣言しておく。
CGだ。あのCGを作った連中が、翼を折り、魔法を潰し、少女たちと世界の息の根を止めた下手人なのだ。
今考えれば、電話などで済ませられたのかも知れないが、円盤のキャンセルなどしたことのない僕は、予約したアニメショップまでもう一度赴いた。ここまで辿り着いたのに踏ん切りがつかず、広くて階層もあるアニメショップをうろついて、このシリーズの小説新刊が目立つように並べられているのが目に入ってしまって、出し抜けに嘔吐しそうになった。声優の結婚が発覚して吐いた、みたいな、よくある都市伝説が、自分の身に起きかけると思わなかった。すっぱいものが、何の前触れもなしに体の奥、心臓のあたりから、とがった感じでせりあがってくるのだ。それを無理やり押しとどめなくてはいけなかった。ほとんど破れかぶれでレジに向かった。キャンセルをしたいという僕の説明が下手で、BD予約に来たと勘違いしたらしい店員が、一旦は、新たな予約申し込み書とイベント参加券を渡そうとしてくれた。ああ、急いで予約したのに、まだ余っているんだな、とぼんやり思った。あまりにも、精神の均衡が狂っていた僕の説明が要領を得ず、店員さんにキャンセルの旨を伝え、イベント参加券を返却して、前金を返してもらうだけの行為に、20分もかかってしまった。
すべてが終わって、地下鉄に揺られている間、これまでの8年間で堪えていたたくさんの悲しみが、走馬灯のように蘇って、一挙に僕に襲い掛かってきた。イベントでアニメの発表がされなかったとき。トラブルでコミカライズの終了が決まったとき。小説を書いてくれた作家が亡くなったとき。世界が壊され、死んでいくのを看取ったとき。週末の夕刻、都営新宿線の座席で、ぶざまに泣きじゃくっていた三十歳近いキモいオタクを目撃した人がいれば、それは僕である。
さようなら、僕の愛した世界。8年間、たくさんの楽しい時間をくれて本当にありがとう。そして、あなたが死んでいったときに、何もしてあげられなくて、本当にごめんなさい。
恋愛話をしているとき、「男はみんな浮気性」とか「誠実な男なんて (ほとんど) 居ない」という主語が大きな言葉が飛び交うことは珍しくない。
一方で、こういう会話を耳にすると、「俺の周りでは、浮気をする奴なんて珍しいけどなぁ……」と思う男性も少なくないだろう。
こういう不整合はどこから生じるのだろう。政治的に正しくない思考に汚染されて、認知が歪んでしまっているのか。恋愛で壊れた大脳を癒やすため、運動と瞑想と350グラムの野菜が必要なのだろうか。
実は、このような状況は「ヤリチン分裂現象」として合理的に説明できる。以下に、ヤリチン分裂現象の簡単な解説を述べる。
全ての男性が次の3種類に分類されるような、仮想的な世界を考えよう。
さて、このような仮想世界では、ヤリチン男性は人口の1割に過ぎない。一方、誠実な男性は人口の過半数存在する。
ここで問題となるのは、属性別で見ると、交際人数に偏りがあることである。
上記の状況を女性の立場で考えると、交際する男性のうち、各属性の比率は
ヤリチン男性:誠実な男性:恋愛外男性 = 0.1×100:0.5×4:0.4×0 = 5:1:0
となる。驚くべきことに、女性から見ると、交際相手のうち約83%がヤリチンとなる計算だ!
(人口比では、ヤリチンは男性の1割しか存在しなかったのに!)
ここまでの計算を見た読者には、この原因は明らかであろう。一人のヤリチンが多数の女性と関係を持つ結果、交際相手として何度も重複カウントされ、統計上は「ヤリチンが分裂」しているのだ。
これと同様の分裂現象は、恋愛だけに限らず、世間の至る所で見受けられる。
主語の大きな文章を見かけたとき、そこにはヤリチン分裂現象が潜んでいるかもしれない。たとえ自身の実感が伴わなくても、多数の被害者の存在を頭ごなしに否定しないのが、冷静で合理的な態度だ。
主語の大きな文章を読んで傷ついて、頭に血がのぼったとき。書き手の不見識を取り上げて、袋叩きにしたいと思ったとき。ふと立ち止まって、書き手の境遇に想像を巡らせてほしい。
数多のはてなーの手に握られた斧が、無垢な一般人に向けて次々と振り下ろされる光景を、ただただ悲しく思う。
11/1 追記:
ミスを修正しました。恋愛外男性について、0.5×0=0としていましたが、正しくは0.4×0=0です。ブコメでのご指摘ありがとうございます。
幼少から楽器を習っていたこともあり、大人になった今でも仲間と楽器片手に演奏を楽しみ、ここ10年位はネットの発達で、演奏動画も楽しく拝見している今日このごろ。
しかしその演奏動画で、確かに技巧的にはメチャメチャ上手いんだけど、音作りが残念な人が何人もいて、ずっと気になっている。
問題となるのは、インストではなくボーカルの曲の「弾いてみた」動画で、主にギター、まれにピアノの演奏。
「お前のソロじゃねえ」
「お前は主役じゃねえ」
ということに尽きる。
ギターの場合、とにかく必要以上にジャカジャカパラリラ弾くことで、確かに技を見せつける目的は実現できているのだろう。
でもそれ以前に、お前のギターが歌の邪魔してんじゃん気づけよってか気にならないのかよ?どんだけ不見識なんだよって思うわけで。
その曲の主役は誰なんだ?そこでギターの立ち位置はどうなってる?音楽ってそういう感覚が大事なんじゃねーの?と言ってやりたくなる。
ピアノについてもギター同様、不必要に元気過ぎで、これまた歌聴こえねえという感じ。
そして個人的には、ネットだけでなくリアルで自分の楽器に伴奏を付けてもらった時にも同じ気持を味あわされていたり。
付けてもらった手前、強い事は言えなかったが、内心「この野郎よくもやってくれたな」という感じで、腸が煮えくり返る思いだった。
それに強い口調では言わなかったものの、合わせの練習の初回から控え目に注文はしていて、それでもしまいには「音量というか、そもそもの音質として弱い音が求められる所だし・・・」とまで言わされる羽目になり、そこまで言ってもなお本番まで一切メロディに遠慮のない音作りで、頼むからそういう気圧される音で弾くなよーという結果になって涙目である。
ちなみに自分がやっている楽器は、むしろ合奏ではメロディを取ることが殆どだけど、それだって歌が主役の時は、楽譜からして歌を盛り立てる合いの手として書かれているし、それを汲んで出るところ・後ろに回るところのメリハリとか、色々工夫するよ?それと比べてお前のそれは何なんだ?と。
何よりお前のギターもピアノも、自分の楽器のしょぼい演奏の数百倍は上手いのだから、そこだけ気をつければ感涙モノの名演奏になると思うんだけどなあ・・・みたいな感じ。
詳細はググれば判るのでここでは繰り返さないが、のうりんポスターは剥がされた。
今後この手のことは避けられないだろうなと思うので、その話をしたい。
と思うだろう。要は「どんなモノでもネットに晒される」という事だ。
例えば、政治家が酒宴でオッサンばっか集まった中で下品な冗談を言った。
現地では大受けゲヒャゲヒャ笑って女性参加者苦笑い、とかなったとしよう。
これ、新聞記者が聞いてニュースで配信されたりすると、当然批判を受ける。
Twitterなんかで「公に発言すると」問題になる社会はもう来てる。
例えば自分の嫌いな人がいて、それを公然と発言すると、問題になることがある。
正確に言えば「俺は嫌いだ」ではなくて「それは異常だ(と俺は思う)」という発言をするとだ。
これはまあ、良いことだと思う。
(いずれ「俺甘いもの苦手なんだよね」と同じニュアンスで「俺、異性愛は苦手」と言える社会になるかもしれない)
のうりんが、一地方の内輪向けの話だから、というのが通用しなかった件。
コレはつまり、「政治家が身内のパーティーで放言した」と同じレベルだ。
小規模だから、ひと駅だけだから、前にもやってるから、と言うのが通用しない。
なぜならば「ネットに紹介された時点で、公の舞台に立った」からだ。
自分からTwitterでアピールしなくても、誰かに紹介されると公の舞台に立ってしまう。
そうすると、文脈から切り離されて「その対象そのものが、正しいか?」を求められる。
株式会社やお役所なんかだと、説明責任、というやつが生まれる。
つまり「コレコレの批判があったのに、何故止めないのか?」に対する説明責任だ。
大抵の場合、強い根拠やしっかりした後ろ盾がないと、「止めない理由が無い」状態になる。
だから、「オマエのやり方に賛成だ。良くやった」という激励の電話や投書は、無駄にはならない。
悲しいかな、文句を言う人は文句を言いたいので電話をするが、賛同するひとはひっそりとテレビの前で応援したりする。
役所の担当者の前に、非難の投書が数通あり、ネット上に賛同の声が多数あると、投書が勝つ。手元の文書は強い。
「のうりんポスター」の件は、今後頻繁に起こるだろう「リアル炎上」の話だと思う。
ほんの少しの「公」要素があれば十分だ。
どんどん晒されるだろうし、晒されればそれはTwitterでアピールしたのと同等に扱われる。
(その意味でガルパンの海水浴ポスターは良く出来ている。アレを批判すると文脈上海水浴場批判に繋がるので「抵抗する理由がある」ポスターになってる)
ある程度、公人や公の場所が、政治的な正しさを求められるのは、方向性としては良いことだと思う。
本来当然配慮されるべきものが、いろいろな言い訳でナアナアに済まされてきただけだからだ。
ボチボチ、そう言うところにリソースを割いても良い頃だろうとは思う。
そして、いずれは高校生が友達に「アノ黒人が居なけりゃな」みたいな愚痴が晒される世界が来るような気がしている。
少なくとも、ネット上の発言は「Twitterは世界に公に発信している」として判断される社会には既になっている。
これが、隣の友人に喋ったら、ネットに即アップされて特定されて晒される、という社会になりそうだ。
政治家のような公人と、影響力のある私人、そして一般人というのは、それほど高い垣根ではない。
そうは言っても、法律上も判例上も「公人」はワリとハッキリ線引があるぜ?とか言いたいかもしれない。
でも「のうりんポスター」は、法律も判例も、捜査も公判維持判断も、なにもなかったんだぜ。
たった一度のブコメの放言で、社会的制裁を受ける日は、たぶんそこまで遠くない。
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一人増田アドベントカレンダーの1日目としてネガティブにお送りしました。
・どうして男同士の恋愛にするのか?(基本的に恋愛は男女間の物である。)
→まず第一に、「恋愛は男女間のもの」と躊躇いなく口に出せる不見識は恥じた方がいい。
それは腐か夢かとかオタクかそうでないかに関わらず、現代の先進国に生きる人間の常識として。
「男女間の親密な関係=恋愛」「同性間の親密な関係=友情」という図式が、物語内で無批判に成り立ちがちなことに疑問があったから。
仮にその関係性のはじめが明確に友情であっても、二人が男女ならば最後は当然のごとく恋愛になってしまう。
その過程の荒さがいつも気になっていた。
その人に対する感情はなんなのか。友情でも尊敬でもなく恋愛だと認識させる要因はなんなのか?
その辺の揺れ動きを解像度高く描く作品を好んで読んでいたら、そのなかにBL作品も含まれるようになった。
上記の要素がしっかり描かれた作品は男女でも男男でも女女でも好きだ。
ただ、男女カップリングの作品よりは男男、女女の作品の方が好みのものに出会える確率は高い。
→思ったことがない。
私にとってキャラクターに対する「好き」は、作品のストーリー、そのなかでの位置付け、展開における役割、他のキャラとの関係性まで含めたものであり
恋愛対象としての「好き」とは大きく異なる。
→前述のとおり。機微がきちんと描写されてれば男女男男女女どれも面白いし、されていなければどれも退屈である。
そして、「恋愛は男女のもの」と信じて疑わない人の作品はきっと私にとっては退屈だ。
また、男女の恋愛を「ノーマル」と呼称するのは控えるべきだと個人的に思う。
・気持ち悪いと思う人が居る事に対して申し訳無いと思わないのか?
二次創作および性的描写についてならば、私個人の楽しみかたの問題なので「そっかごめんね」くらいは言えるが
同性愛描写が気持ち悪いというのなら、それに対し私が軽々に謝罪することはできない。
・男女同士で健全であるはずの夢をなぜ健全では無い恋愛が好きな腐女子が叩くのか?
→男女ならば健全でそれ以外は不健全という発言をなんの疑問もなくするのはやめるべきだと思う。
私は正直叩いたことがないし、周囲と話題にしたこともないので「なぜ」叩くのかはわかりかねるが、
世の中には、嗜好に何らかの尺度で上下関係を見いだそうとする人がいるようだ。
健全/不健全だとか。腐にもその手の人間がいるというだけのことではないか。
→別に悪いとは思わない。
女性オタク界隈の「自己投影」「感情移入」へのアレルギー反応はいささか過剰だと思う(これは腐女子間でも度々みられる)。
・NLの方がまともだと思わないのか?
→そろそろ回答を省く。
・最終的にヒーローとヒロインがくっ付いた方が楽しいとは思わないのか?
→同上。
・オリキャラはモブとして存在しているかも知れないわけで男同士よりはマシだと思わないのか?
→「マシ」の意味が分かりかねるが、「捏造度が低いはず」という話であれば
心底からどーーーーーでもいいし五十歩百歩だと思う。
・オリキャラはドラマやアニメでも使われる通常の行動なのになぜ批判するのか?
→別に批判したことはないんだが、自分が夢を読まない理由ならば答えられるのでそれをもって回答に代えさせてもらう。