はてなキーワード: オロとは
ただし、現実のお友達ではない。ネットのお友達、所謂ネッ友(死語)が作れないのだ。
ネット上では、右を見ても左を見ても、語らい会う人々で溢れている。ツイッター上のごくごく小さなアカウントであっても、必ず一人は語り合う仲間がいて、リプライを送り合っている。
私も、好きな作品の話がしたい!「こんな事件あったんだ」なんて共有できるネッ友が欲しい!「こんなこと思いついたんだけど」なんてくだらない話をしたい聞きたい眺めたい!
しかし、それがどうしてなかなか、全く出来ないのであった。
まずツイッターを始めてみて、何から始めればいいか分からず、まごつく。そもそも誰をフォローすればいいか分からないのだ。
今を生きるオタクなので好きな作品くらいは勿論ある。が、好きだからと特別詳しいわけでもない。ジャンルの有名人なんて全くわからない。調べてみても検索に引っかかるのは既に少人数でのちょっとしたやり取りを楽しんでいるようなファンたちで、このフォロー3・フォロワー0のオタクが飛び込んで受け入れられるような相手では断じてない。
そもそも周りを見ればみんなフォローフォロワーが二桁・三桁で釣り合った「始まっている」アカウントばかりで、フォローもフォロワーも一桁のアカウントはマゴマゴしてしまう。一体どこからそんなに沢山の人間が集まり、いつからコミュニティを形成しているのか。
わかってほしいのだけれど、これは別に文句じゃない。「始めたばっかのオタクにも優しくしろよ!」とかそういうことではない。そもそも人見知りで知識も少ない自分が悪いのは分かっているのだ。
ただ、みんながどうやってネットに居場所を見つけたのか。どうやってツイッターを「始めた」のか。それが知りたくて仕方ない。
みんな最初はこうだったのか。私の知らないノウハウがあるのか?語り合う友人の、ひとりふたり欲しいオタクは、今日も未発達なアカウントでオロオロするばかりだった…。
実家の親が年とったのでときどき手伝いに行ってるんだが、百姓の成れの果てで小さな畑がある。家からはちょっと遠いので親はもう行けないから、たまに行って、草取りぐらいする。
というようなことを書くとずいぶん田舎のようだが、実はこの畑、住宅地の真ん中。住宅地に畑をつくったんでなく、もともと田んぼばっかりだったところがいつの間にか住宅地になって取り残された。資産運用とかうるさいけど、面倒だから放っておいたらそうなった。
今日、その畑に行く前に便所に行って「だいじょうぶ」と思ってたんだが、急にさしこみがきた。山の中の畑だったら迷わずそこでズボンを下ろすのだけれど、まわりは住宅地。向かいには保育園まである。ここでしゃがむわけにはいかない。中途半端な住宅地なので、コンビニとかもない。
最終的に納屋の中でどうにかしようと決断したときにはもう手遅れ。増田らしく漏らしてしまった。
この納屋、畳1畳分ぐらいしかないところに耕運機とかその他の農具や資材がつめ込まれていて、そもそも身体を入れることすらままならない。それでもそこに無理やりねじ込むとアクロバットのような姿勢で用を足した。
納屋の床は土のままなので、シャベルですくって外の畑の肥料に埋めた。
そこから、またアクロバットのような姿勢で、汚れをどうにかして、汚れたパンツを水道で洗って柿の木に干したところで、遠縁の親戚だかなんだか知らないけど、地元のあんちゃんがきた。
「ちょっと遅くないか? 早く来てくれないとこっちも困るんだが」
「まあ、いつもの寄り道だろうね」
「寄り道?」
それを知らない兄貴が尋ねてくる。
「ほら、あそこだよ。いわゆる“貧困街”」
最近のタオナケは、通学中に寄り道をすることがマイトレンドだった。
俺たちはそのエリアのことを、『貧困街』って勝手に呼んでいる。
その荒廃した様相がタオナケの美的感覚に触れたようで、彼女は暇さえあればそこを通ることが多かった。
俺たちにとってはいつものことだったのだが、兄貴はそれに怪訝な表情をした。
「そこ大丈夫か? 治安が悪いってよく聞くし、この団体の管轄外だぞ」
それを聞いて俺たちは途端に不安に駆られる。
「まあ、今まで大丈夫だったんだから、今回も大丈夫だって可能性も高い。治安が悪いって言ったって、早々事件に巻き込まれるってわけでもないし、ましてやタオナケには超能力があるだろ……」
兄貴はその雰囲気から面倒事を感じ取り、慌ててフォローし始める。
だが、もはや俺たちの結論は決まっていた。
「他にもっと頼りになるのがいると思うんだがなあ」
「少なくとも今すぐ付いてきてくれて、その上で頼りに出来るのは兄貴だけだよ」
「……割に合わないボランティアだ」
ここは貧困街 俺たちはそう呼ぶ
貧しくて困ってる エリアなのさ
具体的に何で 貧しいのか
具体的に何で 困ってるのか
知りもしないし 知る必要もない
ここは貧困街 俺たちはそう呼ぶ
廃墟がところせましと並ぶ街
見分けがつかないし つかなくてもいい
貧困街のエリアにたどり着くと、意外にもタオナケはすぐに見つかった。
騒ぎを辿っていくと、そこにいたのだ。
どうやら自治体の抗争に巻き込まれて脱出し損ねたらしく、その中心でオロオロしていた。
「ほら、やっぱり俺たちが来たのも、兄貴を連れてきたのも正解だったでしょ」
「ああ、そうだな……言っておくが、俺の気が沈んでいるのは予想が外れたからじゃなく、今からタオナケを助けるためにあそこに突っ込まないといけないからだ」
「じゃあ、シロクロ。マスダの兄ちゃんを手伝ってあげて」
「アイアイ! どけいっ、みんな、どけい!」
ミミセンの指示で、シロクロは全速力で抗争の渦中に突っ込んでいくと、そのままどこかに行ってしまった。
だが、そのおかげで獣道ができて、兄貴はそれを更に広げるようにしながら進んでいく。
そうしてタオナケのもとへたどり着くと、有無を言わさず抱きかかえて、そそくさとその場を後にした。
「よし、俺たちも逃げよう」
「ワンダーウーマン」を見たので感想。と言うか考えたこととかのメモ。ネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので、見た人向けだと思います。フェミの話とかも出てくるんでそういうの苦手な人も回避でよろしくっす。
まず最初に、「ワンダーウーマン」、個人的にはそんなに評価高くない。少なくとも世間で(特に欧米で)いうほど大絶賛、大感動をすることはできなかった。これは映画を見終わったあとのファーストインプレッション。
「1800円という価格&2時間という投資に見合った体験できるのか?」という視点で自問したところ、その答えは「100点」なのだ。十分高評価だろう。いい加減な脳みそだなあ、オレ。とも思った。
なんでこんな評価のすれ違いが発生してしまったかというと、今年見たアメコミ系映画の先行2本、すなわち「レゴバットマン ザ・ムービー」と「スパイダーマン:ホームカミング」の評価が高すぎた、というのが原因であるらしい。前出の基準で言うと、「レゴバットマン」も「スパイダーマン ホームカミング」も200点くらいの評価なので、「ワンダーウーマン」はタイミング的に損をしてしまったのかもしれない。これが「ドクター・ストレンジ」のあとだったら感激できてたのに。
PC的なディレクション――批判に対して自覚的で先手を打って内容を適正に作っていこう――は最近のハリウッド映画では多かれ少なかれあるのだと思うけれど、そういう制約(どういってもある種の制約ではあるだろう)を逆手に取って笑いやネタにしたり(デッドプールにおける「女性も男同様にブン殴ったほうが公平じゃない?」)、むしろそこに正面から踏み込んでえぐり出す(スパーダーマン:ホームカミングの敵役ヴァルチャーはいま注目されている「見捨てられた白人労働者」)のにくらべ、ワンダーウーマンのそれは踏み込みが浅くどうしても「そういうルールなので設置しました」感が出てしまっている。
おそらく「ワンダーウーマン」という作品――つまり女性が戦場に出て戦うという作品を作るにあたって、制作側は、(フェミニズムを中心に)炎上の可能性を覚悟して作ったのだと思う。だから、予め潰せる問題点は潰しておいた。
それは主人公ダイアナの人物設定にも反映されていて、彼女は美女で、アマゾン族の王女で、めっちゃ強い。すごい跳躍力や筋力を持ってるし、噛み殺しの特殊能力を持つスーパーゴリラだ。だが多分そのままだと脳筋批判も巻き起こすだろうから、島で英才教育を受けてた設定になっている。作中でも数百の言語を操り、古典に詳しく、第一次世界大戦当時の最先端の化学式を読み取るなど知能面でも卓越している。(第一次世界大戦当時の)女性だからといって馬鹿ではないのだ!
しかし、だからこそというか、逆説的にというか、なんだかすごく残念な人物描写になってしまっている。
彼女は世間から隔絶された島で育ったので無垢だ……という設定なので、物語終盤になるまで「人間は悪神アレスに洗脳されているせいで地獄のような戦争をしているのだ。悪神アレスさえ倒せば人間は正義と慈悲に立ち返り戦争は即座に終わる」と信じ込んでいる。ここは物語のテーマなので、外せない重要な要素だ。
それはそうで、重要に間違いはないのだが、それってどうなのだろう。
言語というのは必ずその文化を含んでいる。外語を学んだことがある人ならわかると思うけれど、外語を学ぶというのはその言語を操る民族や地域の文化を学ぶということをニアリーイコールだ。文化も歴史も言語には含まれているからで、そこに理解無くしては言語の意味を理解するなんてできない。ましてや古典まで学んだダイアナが、人間の持つ二面性や、善悪といった内面を「全く理解してない」なんてのはありうるんだろうか? いやまあそこが物語のキーなわけだから、理解していないということにしないといけないのはわかるのだが、そういう描写にしてしまったせいで作品は別のメッセージを持ってしまった。
すなわち「知識も教育も倫理や人間についての理解の助けには全くならない。世界を良くするという意味では、教育は全く無意味である」というメッセージだ。多分これは随分うがった見方だろうし、制作側はそんなメッセージを発信するつもりはないだろう。けれど、物語上ここでねじれが生じているために、そう取られかねない「隙き」が生じてしまっている。批判される要素をなくそうと頑張っていた制作陣が、塞げなかった穴に見えてしまうのだ。こういうねじれが、どうも彼女をそこの浅い子供に見せてしまっている。
「ワンダーウーマン」は「(邦画では珍しくもないが)戦う女性主人公」「女性が監督した初めての大手スタジオによるスーパーヒーロー映画」という点で、フェミニズム界隈から賞賛を受けた。
けれど、個人的にはダイアナは女性ではないのだと思う。すくなくとも、フェミニズムが想定するような「解放されるべき女性」ではまだなくて、子供なのだ。まだ思春期すら迎えていないような子供で、世界に対して良く言えば無垢だし、シニカルに言えば無知で無責任だ。
ダイアナに強い好感を覚えられなかったのがこの映画の評価に加点が少ない理由だと、整理した今なら自覚できる。
多分、自分にとって不幸だったのはこの部分で、それは「ワンダーウーマン」を観るまえに「ウーマンリブ的な文脈でフェミニスト絶賛」みたいな評価を知ってしまった点だ。「そういうつもり」で見てしまったせいで捻じれが目についてしまった。
しかし、見終わったあとに思い返してみると、魅力的な部分がいくつもある映画だ。その最大のものがアメリカ外征軍大尉のスティーブ・トレバーである。
彼はドイツ軍をスパイした結果恐るべき毒ガス計画を知り、逃亡の最中に絶海の孤島アマゾン島に漂着し、主人公ダイアナを「外の世界」に連れ出す役目をする。無垢な美女ダイアナのエスコート役であり物語最終局面まで彼女を支えて導き続ける。
ヌードシーンがあったりもするので、女性向けの眼福要素も担当させられたイケメン俳優だと思っていたのだ。二回もイケメンって言ってしまったよ。
彼は優秀な軍人でありパイロットなのだが当然人間なので、スーパーヒーローで神の子であるダイアナに比べたら喧嘩においてはまったく弱い(軍人として適正に強くはあると思う)。おまけに非文明圏であるアマゾン島では虜囚に近い扱いも受けていたし、さらにいえば彼はアメリカ軍大尉であり、物語中盤の舞台イギリス(&イギリス議会&イギリス軍)では大きな権力を持っているわけでもない。上司に対しては愛想笑いを浮かべたり、自分の意見をひっこめたりもする。
物語中盤、未知の世界である外界に出たダイアナは完全にお上りさん状態であり、大都会ロンドンにおいて常識を知らないことから、スティーヴに迷惑をかける。それにたいしてスティーブはなだめたり、すかしたりしてダイアナに行動を抑制しようとする(そして失敗する)。スティーブはダイアナに「外の世界の常識や考え」を事細かに説明して理解を得ようとはせず、断念する。命の恩人ではあるし天下無双の戦闘能力を持ってはいるけれど、「面倒くさい子供」でしかないダイアナに呆れているように見えることもある。
こうやって説明すると際立つけれど、スティーブはイケメンが売りなだけのダイアナの介添に見えていた。
しかし、上映後に振り返ってみるとこの映画の中心はスティーブだと思う。
ド派手なCGバトルアクションとか、世間のフェミ的な評価を全部取っ払って、個人的に「ワンダーウーマン」の感想を述べるならば、「ワンダーウーマンはスティーブの映画」なのだ。
全般的に人物の内面描写が浅いきらいのあるこの映画だが、スティーブに関しては脚本も俳優も素晴らしい仕事をしている。
彼は心の中にロールを持っている男だ。それは「善き男」であり「善き大人」であり、おそらくだけど「善きアメリカ人」であり「善き隣人」だ。彼はそういうふうに生きたいのだ。正しさや信念というよりも、自分の中に理想像、ロールモデルがあると表現したほうがしっくりくるのがスティーブである。
彼が軍に身を投じたのは、混迷続く世界情勢の中で、善きアメリカ人として社会に奉仕しようとした時、そのモデルが軍人だったからである。今の価値観で言えばもちろん異論はたくさんあるだろうけれど、その当時の常識で言えばそれは愛国心であったし、善き市民の善き行動だった。
ドイツ軍に密偵した結果、彼は恐るべきマスタードガスの開発と、それが講和間近のイギリス軍へ向けられていることを知ってしまう。彼はこの情報を持ち帰るために命を捨てるような危険を犯す。それもまた、彼の中にある「それが善き男の行動」だからだ。
その過程でダイアナに命を救われ、彼女の「外の世界の戦争を止めたい」という希望を叶えるためにも、一緒にイギリスまで情報を持ち帰ることにする。
しかし、イギリスにそれを報告したが、結果ははかばかしくない。講和が間近に迫ったイギリス軍は、ドイツ軍(の一部)に災厄的な行動があったとしても全面攻勢には移りたくない。スティーブの情報は事実上握りつぶされる。
彼はここで彼自身の行動規範である「善き人」を曲げられる。軍の階級差という世俗の権力構造のせいで、彼がすべきだと信じる行為を行うことができない。
講和のためとは言え、前線舞台をマスタードガスの脅威の前に放り出してよいのか? 良いはずはないが、議会や政府の決定に従うのも「善き国民」の義務ではあるのだ。
でも隣には精神的に子供のダイアナがいて「ねえなんでなんで? なんで正義しないの? まさかここでやめるわけ? 処す? 処そうか?」という視線で見てくる。彼は、その結果、軍の命令を無視して、私費で(というかボランティアのつもりだった?)傭兵を雇い前線に向かう決意をする。彼は心の中にある「善き人」の指し示すところに従ったのだ。ダイアナがあんまりにも無垢なので引っ込みがつかなくなったという側面があったにせよ。
前線に向かい、血みどろの後背地を抜けて塹壕にたどり着き、取り残された村をダイアナの神話的な能力にも助けられて開放して、ダイアナとスティーブの関係は接近する。男女間の性愛的な意味での愛情もあったような描写だったけれど、個人的にはスティーブの父性も強く感じた。その父性というのは、子供でしかないダイアナに「善き大人」を見せるというものだ。戦争なんて醜悪なものなのだけれど、それだけではないということ、世界には「善き隣人」の「善き努力」もあるということを示したかったように見えた。孤島から世界に連れ出した人間として、世界に失望してほしくなかったのかもしれない。
終盤。マスタードガスの大量生産はすでに完了しており、その暴挙を止めるために一行は秘密基地に忍び込む。ダイアナはその中で、アレスの化身だと思われるドイツ軍ルーデンドルフ総監を倒すことに成功する。ダイアナは「これで悪神アレスの洗脳は溶けて戦争は終了する!」と歓喜するが、兵士たちは戦闘をやめない。殺戮の準備を辞めない兵士にダイアナはパニック状態になる。ダイアナにとっては今まで信じてきた世界観が崩れ去った瞬間なのだ。
そのダイアナに向かって、スティーブは今まで何度も説明しようとしてしきれなかったことを告げることになる。
それは「この戦争は人間が開始して人間が拡大させたものなんだ。神はいない。僕たちの責任だ」ということだ。その告白はとても辛い。「善き男」として生きたかったスティーブは、まったく「善き男」ではなかった。戦争をしちゃってるのだから極悪人なのだ。しかし、スティーブは「この戦争は僕達の罪なのだ」ということを認める。なぜなら、戦争の責任を誰かに転嫁するのは、戦争を始めるよりも更に恥ずべきことだからだ。「善き男」として彼は、世界の醜さの責任を取らなければいけないと決意する。
スティーブとダイアナの間にあったものは多分とても複雑で、男女でもあったし、父と娘でもあったと思う。でもその一部には神と人間というものもあった。
彼女の戦闘能力があまりにも隔絶してたからスティーブもその視点を持たざるを得なかったのだろう。
ダイアナの考えは「神が神の邪悪を振りまいたせいで人間が迷惑をしている」から「神の使命を持つ私が人間を救う」というものなわけだけれど、スティーブはこれに「善き人間」としてノーを叩きつける。ダイアナの考えはある種のパターナリズムだが、スティーブの答えはそこからの脱却だった。
神々の戦いは神々であるアレスとゼウスの娘ダイアナが決着をつけるだろうし、人間であるスティーブはそこには関与することができない。
しかし人間の始めた戦争であり、人間の悪意であるマスタードガスは人間であるスティーブが止めなければならない。筋としてそれが正しい。
ダイアナの戦闘能力やスティーブたちの状況を考え合わせると、彼らはここで戦闘を放棄すれば逃げて安全に暮らすことは十分に可能だったように見える。その場合はもちろんマスタードガスで前線の部隊は凄惨なことになるのだけれど、倫理的に考えてスティーブが彼らを救う(その結果命を落とす)絶対的な義務があったわけではない。戦争の悲惨すべてを、個人であるスティーブが背負う必要はないからだ。
スティーブが命をかけた動機として、父(先行者)として娘(後続)に「この醜悪な外の世界にも善はあるのだ」という事を示したかったのか、人間として神に「あなただけにすべてを背負わせない。人間は弱いけれどそれでも自分たちのしでかした行為の責任は取る」ということを示したかったのか、それとも男として女に「俺も戦う」といいたかったのか、それはわからない(そこが返ってスティーブという男のテーマとしてよかったと思う。彼の愛情には名前がつけられない)。
けれど、スティーブは「自分の戦い」として今まさに離陸していこうとする毒ガス満載の爆撃機を止めるために飛び出す。そして乗り込み、爆弾を抱えて、前線を救って、結果としてダイアナを残して死ぬ。
こうやって思い直してみると、中盤、ロンドンの街で常識知らずにうろつくダイアナに手を焼いていたのも、「善き大人」として子育てに苦労してたんだなあ、と思える。
スティーブは大尉だからおそらくエリートなんだろうけれど、まだ若いし、それ以前にすべての人間がそうであるように、不完全で未熟だ。しかしそうであるからこそ、彼には「こんな存在でありたい」という理想像があった。そして常にそうであろうと、努力していた。都会ではトラブルメーカーのダイアナを「善き保護者」として(オロオロしつつも新米の父親のように)導こうと思ってたし、最前線では「善き戦友」として肩を並べて戦った。戦火から救い出した村でチャーリーが歌ったときは「善き男」としてダイアナを熱っぽく見つめた。彼は最終的に、「惚れた美人との安全な生活」よりも自らの役割を優先した。自分自身の信じる正しさに殉じた。それは「善き人間」として神の前に立った時、他の誰でもなく自分が、人間すべての代表として神に「人間の誠実」を見せるべきだと思ったからだ。
それは上野千鶴子あたりの言葉を借りると「男性の安っぽいヒロイズム」であり「戦争に興ずる幼児性」なのかもしれないけれど、物語としてみるとスティーブの人物描写はこの映画の中で一番複雑で深みがあった。魅力的だった。
そんなことを考えると、「ワンダーウーマン」はウーマンリブ的な価値観の映画というよりも、男性的な価値観の、そして「神(あるいは超越的な力を持つスーパーヒーロー)の前に立った『善き人間』の覚悟と誠意」の映画だと思う。そして、そこがこの映画の美点だと思える。
こういう日は泣きたくなる。
どうして誰も彼もが、恋愛話をしたがるのか。
ほっといてくれ。私のことでとやかく言わないでくれ。スカートを履いてきたからどうだとか、彼氏が出来た出来ないとか。
ほっといてくれ。
彼氏の作り方なんか知らないよ。
年上の人とめっちゃ甘えた声だしで笑いながら仕事する事はするよ。それで年上好きなんて言わないでほしい。
彼氏の作り方なんて知らないよ。
30年生きてきて知らないよ。
好かれても嬉しいけれど心の許し方なんて知らないよ。
わからないよ。ただ人に自分の近況で賭け事みたいにされたら、不愉快だよ。放っておいて。泣きたいよ。
こういう時に泣けるキャラなら良かったのかも知れないけれど、でもみんなそんな弱い人は足手まといだからいらないんだ。面倒だからそういうキャラはお呼びじゃないんだ。
私は目が二つ付いていて鼻が一つあって口が一つなだけだから、そういう面倒なキャラじゃない付加価値がないとダメなんだ。
だから泣けないんだよ。
だって泣かれたって相手は負担になってどうしたらいいか分からなくなってオロオロしてしまうだけじゃないか。そんな負担はかけられないよ。
言う人たちは悪気があっても瞬間的な悪意でシリアスなものじゃない。シリアスに受け止めなければいいんだ。受け止めてしまう自分に原因はあってそれはどこか図星な点があるからだ。
自分が原因の部分を自分が心底嫌っているわけじゃない人には押し付けられない。
とまぁ自分の心の内を吐露すると、他人を慮っているようで自分の責任を無駄に重たくしてバッカじゃねーの。と冷めた視線が降りてきたところで、
彼氏の作り方は知りたいけれど、結局のところ行き着く先は自分の心をいかに相手に預けられるかというポイントになるとまた泣きたくなる。
仕事のおじさま方おじい様方なら、あんなに甘えられるのになぁ。
返信?のやり方がわからない…。悲しみ。
婚活はちょっとやってみてる。三回くらい?いろんな人とパパーッと会うやつ。会ってライン交換して今度会うけれど、そこから発展するとはとても思えなくてどうすればいいのやら。
https://anond.hatelabo.jp/20170727140517
コメントくださった方ありがとうございます。
ペットを飼うっていう解決方法は意外でした。確かにペットって癒しになりますよね。
出社しただけで感謝される職場っていうのも、確かにそうだなって思いました。転職先は、入ってからまだ数ヶ月しか経ってなくて、中途採用とはいえ、第二新卒ですし、即戦力人材でもないので、そういった発想がなかなか生まれませんでした。
こういうブログって、どんなコメントが付くかわからないからドキドキしてたけど、自分が考えたこともない意見が出たりして、すごく新鮮だった。
その後の顛末。
ブログを書いた日、わたしは過呼吸発作を起こしてしまった。その日は心療内科の先生の指示で安定剤を飲んで収まったけれど、次の日は普通に出社できると思って、薬を飲まずに行った。でも、駅前で、あの満員電車に乗るかと思うと胸の動悸が激しくなってひどい過呼吸を起こし、駅前で動けなくなってしまった。
夫はオロオロして、通勤途中のたくさんのひとたちに見られて、どうしようもない、もうだめだって思って余計に発作がひどくなった。
何人か優しいひとが紙袋くれたりしたみたいで、それが余計に申し訳なくて、発作は収まらず、息が苦しくなるばかりで、結果警察官が来て救急車に運ばれる羽目になってしまった。
何やってるんだろう、私って思った。
仕事はやりがいがあるはずだし、勤務時間だってそんなに長いわけでもない。
なんとなく抑圧された気持ちの原因は分かってる。
茶色いビンに入ってる清涼飲料水(オロナミンとかアリナミンとかそんな感じのやつ)を飲んだことがない。ついでにレッドブルとかもない。ユンケル的なものもない。
ただの栄養添加されてるだけのジュースだってのは分かってるんだけど、何となくイヤだなと感じる。下品というか…。いや偏見ですけども。
TVCMで、家族全員で茶色のビンのドリンクを飲んでいて、冷蔵庫のストックがなくなったから家族全員が買って帰ってきた、みたいなのやってて、わー下品な家族だなーと思ってしまった。
自分の家も、配偶者も配偶者の実家も身近な友人たちも、茶色いビンのドリンクを飲む習慣のなさそうな人ばかりで飲んでいる人自体をほとんど見たことがない。
こないだ、客先で打ち合わせの流れからちょっと一杯行きましょうかとなって、客と一緒に繁華街を歩いていたのだが、
ドラッグストアで足を止めた客がちょっと待っててと、飲む前に飲む、みたいなドリンクを買ったなりクイっと飲みほして出てきたのを見て
わー下品…とつい思ってしまった。仕事はいたってスマートに出来る人だしごく普通の紳士なので、茶色ビン由来の偏見である。申し訳ない。
歳の割には若く見えるし頭の回転も速いし会話は楽しい、スーツと眼鏡だけではあるけどファッションの興味も薄れていない
一応世間的には自慢の父になるのではないかと思うけど、ごめん、父面倒くさい。
私が三歳の頃から母が帰ってくるのが遅い、と漏らすと「もうおかあさんは帰ってこないんだよ…」という嘘をつくようになった。
それが20歳超えた今でもしてくる。もうそんなの嘘だって分かってるのに何度も何度も。
わざとオロオロする、嘘でしょと白ける、もうそれ飽きたよ!と怒る、もう反応のバリエーションがなくなってきた。
ついさっき、結婚式の日程まで決めた相手に考え直したいと電話で言われた。
「何か最近ピリピリしてて嫌だ」「急がなくてもいいんじゃないかって」「なんか最近かっこよくない」色々といわれた。
週末には結納が控えていて、両家の両親もくることになってるし会場もあるというのに。
どうすんだよ・・・親になんていうんだよ。どうしてそんな事に・・・。パニックである。
ひとまず明日の仕事は休ませて欲しいと連絡した。無理だ。こんな精神状態で仕事なんてできるわけがない。
思い返せば、最近彼女へのLINEが適当だったり、きづかいが足りなくなっていたかもしれない。
他に気になる人ができたのかもしれない。告られたとか。
このタイミングまで言い出せないほど、私が追い詰めていたのだろう。心底申し訳ないという思いと、どうしてという思いがぐるぐると頭の中を濁流のようにめぐりゆく。
当方40代男性。30代後半の彼女とお見合いサービスで出会って付き合いはじめた。
プロポーズしたのは半年くらい前。夏の海で潮騒の中で思い切って伝えた。そうだね、結婚しようって言ってくれた。
超えないといけないハードルもあった。彼女のお父さんが他界していて、お母さんは一人娘の彼女がいなくなったら一人になってしまうのだ。
それでも彼女のお母さんにも話して承諾してもらって結婚しなさいって言われた。
一番のハードルは越えたつもりだった。
「距離をおきたい」こう言われて復縁した記憶は過去に一度もない。こうなったらもう終わりなのだ。心のどこかで「今度は違うかもしれない」そんなことが流れ星のようによぎる。そのたびに自分に言い聞かす。もう無理なのだ。ダメなのだ。ダメなんだっていったらダメなんだよこんちくしょう!!
当方40代のハゲ散らかし系男子である。斉藤さんにだいぶ近い。家事全般できて年収も平均よりだいぶある。しかし、もう恋愛は疲れ果てている。新しい恋愛とかもう無理だ。
おいなんだよ。結婚ってこんなにもハードルが高いのかよ。20代・30代の後輩達がまぶしく見えるよ。仕事が全然できなくてオロオロしているあいつだって結婚しているというのに何で俺はこの体たらくなんだよ。
先日の話。
都内の住宅地の中にある小さな公園に、これまた小さな池がある。
小さいがそれなりに色々な生き物が暮らしている。
公園の歩道と池の間には小さな石柱が等間隔に置かれていて、鎖や紐で繋がれ柵となっている。
柵の中に入らないで。池の中に入らないで。
そういう注意書きがあるにも関わらず、子供達はその中に入って遊び、生き物を取る。
とはいえ自分も子供の頃わりとわんぱくに遊んでいたし、理屈で動ける子供はいないので仕方が無いと思う。
だからその行いは、近くにいる大人である保護者が注意すればいい。
しかし、注意しない。
その上子供達は自分達が遊びに使っていたプラスチックのカップや道具を池の周りに置きっぱなしにしたり、中には池に投げ捨てる子供がいた。
これを見ても近くにいた保護者達は知らんぷり。
近くにいた老人がそれを見かねて捨てては駄目だよと注意をした(私はびびりな増田なのです。罵って下さい)。
子供達はその言葉をよく理解していないのか、下を向いていたら、保護者の一人がやってきて、
「余計なことを言うな」と老人を怒鳴り飛ばした。
そして老人が何か言葉を放つ前に、その保護者と子供達は住宅街に消えた。
池に忘れ物を残して。
ちなみにこの保護者達は所謂DQNな外見ではなく、ごく普通の大人達であった。子供達も何か障害を抱えている様子ではなく、普通の子達だった。
かわいそうな子供達。大人が叱らず、この子達は自分達でその過ちに気付く事が出きるのだろうか?
何度か頼んでも全部口頭で連絡してくる上司Bごめんなさい。
なんか言われる
↓
復唱する(ツッコミ入らないので多分言えてる)
↓
↓
アレ?俺今なんて言ったっけ?ってなる
↓
わからないし思い出せない
↓
思い出そうと頭を回転させる
↓
ニッコリ笑ったキュウリとかの、何の関係もなく突拍子のないビジョンが頭に浮かぶ
↓
何を思い出そうとしてたのか、なんの話だったかがモヤがかかったように曖昧になる
↓
どうにか誰と話していたかを思い出す
↓
諦めて聞きなおしに行く
↓
ハァ!?って言われる
↓
ぼく「木曜3時A社ですね」スチャ
ぼく「木曜何時……?水曜…?木曜…?13時?」
上司「木曜3時!」
ぼく「えっ、特上!?目標?……3時はサーズデイ……?」オロオロ
上司「も・く・よ・う」
ぼく「も」メモ
ぼく「く」メモ
ぼく「よ」メモ
ぼく「……シャッシャッシャ(打消し線)……木、と」メモ
ぼく「何時でした……?」
上司「3時!15時!!」
ぼく「12時、と」メモ
ぼく「あっ!(サンシ・ジュウニにやられた)スミマセン……シャッシャッシャ……13時……じゃなくて15時、K社と」メモ
ぼく「エイシャダ・カラナ?」
上司「A社!」
ぼく「眼医sy……?あっ、A社!……シャッシャッシャ……A社、と」メモ
上司「はぁ、まったく」
ぼく「はい!なんでしょう?」
上司「?」
ぼく「……?待てって……?」
ぼく「(マックモーッティイッタンダヨ……?)あ、はい、すみません」
ぼく「(Macモーニングティー行ったんだよ……?)……失礼します」
ぼく「(まったくもうって言ったんだよ、か!)」
ごめんなさい。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170323-00000005-jct-soci
この記事を読んで、(全くの他人事だけども)久しぶりに真剣に腹が立った。
「ポジティブに読むのであれば、子供が泣くのは仕方がないけれど、それを親がフォローしないのは如何なものか、公共の場は皆が気持ちよく過ごせるように全員で協力しましょうね」ていう趣旨なんだろうけど、それでも「うるせー」としか思わないし、本当に腹立たしい。
100歩譲って、公共の場だから少数の人間の特殊事情が大多数の人間の迷惑になる場合は、少数の問題を抱えている方が我慢するというルールを受け入れるとしよう。
それで、そのジャッジをするのは誰なの?
「声の大きな人」「会話をしてる人たち」「酒臭い人」「化粧臭い人」「顔が好みじゃない人」「太っている人」「汗をかいている人」「体臭のある人」「口臭のある人」「見た感じ何か嫌な人」「泣いてる赤ちゃん」みんなデッキから追い出すの?板東英二さんはどれにも該当しないの?最終的に新幹線の席に座ってられる人っているの?新幹線のトイレ足りる?
要約すれば、ただの「いじめ」じゃないの?
あと、親なんだから子供が泣いていたらあやせばいいんだ、というのが本題なんだろうけども。
それこそ本当に腹立たしい話しだと思う。
あやすってなんだよ。
赤ん坊が腹を空かせればご飯をあげる、オムツが汚れたら交換する、怖がっていたら気を紛らわせる。
やってるに決まってるじゃん、赤ん坊が泣いてる親は全員なんもしてないと思ってるの?それ本気かよ???
そんなに育児放棄している親がゴロゴロいたら、もう子供なんて全員死んでるし、児童相談所も孤児院も満杯でパンパンだろうよ。
そうじゃなくて赤ちゃんは泣くんだし、板東英二さんだって僕だって誰だって、みんな赤ちゃんのときは泣いて何かを知らせて、泣くしか出来ないってことでしょ??
こんな発言をを公共の放送でシラフで出来る、その発言を聞いた人が誰も全力で反論しない、1つの意見として成り立ってしまう社会こそがどうかしていると思う。
子供が泣いて親がオロオロする必要なんて全くない、そのまま当たり前に座っていて欲しい、周りの人が協力しろとかでもなく、腹がたっても少しだけ寛容で許しあればいいのに、心からそう思う
いまだに腹が立ったまま書いてるから支離滅裂かもしれないけど、書かずにはいられなかった。
ていうか僕は何にそれほど怒っているのだろうか……。