はてなキーワード: 現実逃避とは
ダイの大冒険のフレイザードみたいに「俺は戦うのが好きなんじゃねェ! 勝つのが好きなんだよオオオォ!!!」的な、手段は卑怯でも正々堂々と悪役でいるタイプじゃなく、なんというかこう生き方そのものが胸くそ悪い悪役が思いつかない。
そいつの身勝手な判断が原因で皆が酷い目に遭っていくのに「僕は悪くない、あいつが決めたことだ、あいつさえいなきゃ、あのことが原因だ、だって仕方ないじゃないか」と、ひたすら責任転嫁と現実逃避に走って被害者ヅラして、最後まで反省も成長もしないタイプ(しかも何の報いも受けず生き残ってると胸くそ悪さが増して一層いい)。
個人的にこの手の奴は幻想水滸伝のルカ様みたいなマジキチよりよっぽど恐ろしい絶対悪に思えるので、もしそういう作品があるなら読んで(見て)みたい。
正義側のキャラクターが、キャラ描写や筋書きの悪さのせいで(作者の意図しない形で)結果的に上記のような役回りになってしまうケースはたまに聞くが、最初から悪役として登場するケースとなるとあまりいないんじゃないかという気がする。
うつつを抜かしているのも、困難に直面できないせいで現実逃避を図っているにすぎない。
物事をぶち壊したり、台なしにしたりするには、手腕ではなく腕力があれば十分だ。
バカであろうと粗野であろうと、何も困りはしないのである。
キレて逆上した連中は、ものの三十分もあれば、すべてをメチャクチャにしてしまう。
これを埋め合わせるには、
英知と先見性を持った者たちが、百年にわたって熟慮を重ねても足りない。
従来のシステムの過ちや弊害は、誰の目にもハッキリと映るため、
たいした頭がなくとも容易に批判できる。
ましてや絶対的な権力を握っているのであれば、ひとこと指示を出すだけで、
それらの過ちや弊害をなくすという名目のもと、
システム全体をぶち壊すことができるだろう。
かかる姿勢は怠慢にしてせっかちであり、
横着を好みつつ何かせずにはいられない。
はたせるかな、新しいシステムをつくり上げる際にも、
議会は困難に直面しようとしなかった。
物事をこれまでと正反対にするのも、安直さにかけては、
すべてをぶち壊すのといい勝負である。
問題点を指摘されたところで
「とにかく一度やらせてみよう」という雰囲気さえつくることができたら、
あとは事実上、誰にも邪魔されることなく、やりたい放題やれることになる。
対象的なのが、システムを維持しつつ、同時に改革を進めていくやり方である。
新たな要素がつけ加えられる。
ここでは大いに知恵を働かせなければならない。
システムの各側面について忍耐強く配り、
従来の要素と新しい要素を
どう組み合わせたらいいかを決めることが求められるのだ。
「いまのシステムには飽き飽きした」と軽率に見切りをつけたがったりもするので、
こんな反論が寄せられるかもしれない。
「それでは遅すぎる。議会の偉大さは、普通なら長い歳月かけて達成される事業を、
成果があがるまで何年も待たねばならない。」
むろん、そうだろう。そうあるべきなのだ。
その一つは、変化が起きているとは思えないほどペースが緩慢な点にほかならない。
慎重に用心深く作業を進めるのが賢明であることは、大工や職人も承知している。
われわれはレンガや木材を扱っているわけではない。
ひどく悲惨な結果を招くことになるだろう。
平気で改革を進めていくことこそ、
偉大な政治家の条件だと見なされているらしい。
だが、私の考えはまったく異なる。
真の政治家たるもの、温情あふれる心をもっていなければならない。
そのような人物は祖国と同胞を愛しつつ、
おのれの能力をつねに疑ってかかる。
到達すべき目標をとっさに把握する才覚をもっていたとしても、
実際の行動においては一歩一歩じっくりと進んでいく。
政治を良くしていくには、人々の心をまとめあげねばならないものの、
これは一朝一夕にはできない。
力任せに押し切るより、我慢強く気長に頑張るほうが、
「フランス革命の省察/エドマンド・バーク (1790年刊行)」訳 佐藤健志
これ以上の橋下批判は聞いたことがない。
急進的な改革は上手くいかない、やるなら徐々に行うべきだ。
後はどういう失敗の仕方になるか。
橋下が改革を成し遂げられず失敗するか、改革をやり遂げた結果、フランス革命のように全体主義を呼び込んで失敗するか。
後者なら目も当てられない
どこの集計かもよくわからんのですが、ヱヴァQの評判が悪いそうで。
そう思う人が多いのも仕方ないとも思うのですが、個人的には楽しめたのでそのあたりについて
「ヱヴァ解釈論ブーム」が落ち着いてきた感のある今頃になって適当に書き綴ってみる。
ヱヴァQを語るうえで前作とのつながりについては言及しないわけには行かないですね。
たぶん今回ヱヴァQでがっかりした人は結構な割合でヱヴァ破のラストにグッと来ていたと思います。
かくいう私もグッと来ました。シンジさんかっこよかったっすね。
でも、あれってヱヴァQ見てから再度見直すと、シンジさんのちょっとしたミスが気になってしまいます。
それは、
「僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい、だけど綾波は…せめて綾波だけは、絶対助ける!」
これがシンジさんをシンジさんたらしめているセリフなんですが、ここに含まれるちょっとしたミスが
そうです。「世界がどうなったっていい」という部分は口にしても願ってもいけなかったんです。
だって、ヱヴァ初号機とシンジさんの組み合わせではその願いが具現化してしまうんですから。
シンジさんの願いを叶えるべく、初号機さんは世界を犠牲にしてでも綾波を救おうとしちゃうんです。
ここでのシンジさんの不幸は、己の力量を正確に把握できていなかったことでした。
己の何気ない考えや言葉が世界に及ぼす影響をまったく考えていなかったことでした。
あの時のリツコさんの言葉が本当なら、とことん貪欲に「世界も綾波も救って幸せに暮らしてやる」って願えば
世界への甚大な影響はなかったんじゃないんでしょうか?それとも「古い生命体は滅ぶ」の方が優先されるんでしょうか?
そんなのみんなで新しい生命体になればいいじゃん!Yes貪欲!No More 遠慮!
そしてヱヴァQの序盤です。
我らのヒーローであるシンジさんが周りからひどい拒絶を受けてしまう序盤ですが、これもこの時の状況を考えると
だって、シンジさんのせいで被害を被ってない第三者である我々視聴者はともかく、ヴィレの面々はシンジさんが
間違った方向に全力出しちゃったせいで甚大な被害を受けた被害者なわけです。
それだけでも拒絶するに十分な理由なのに、あろうことかサルベージ計画実行中に覚醒してます。
回収後の調査で科学的には14年前の碇シンジという個体と同一である可能性が非常に高いという結果が出てるとはいえ、
世界を犠牲にして綾波を救おうとした生命体が情報収集のために碇シンジという生命体に擬態している可能性もあるわけです。
おいそれと警戒を解くわけにも、情報をべらべらしゃべるわけにもいかないのは、ヴィレ側の立場としては仕方ないのではと思います。
いつまた世界を犠牲にして綾波を救い出そうとするやもわからない生命体に心を開けという方が無茶です。
まぁ、結果としては「綾波なんて救えてないよ」という絶望的な現実をシンジさんに伝えてしまうわけですが。
外見や声だけはまるっきり同じの綾波モドキがシンジさんを悲しい現実から救いに来てくれちゃったおかげで
シンジさんは現実から目をそらして綾波モドキと一緒に逃亡します。
「やっぱり綾波は救えていたんじゃないか」という自分の信じたい現実(虚構)が目の前に現れてくれたおかげでシンジさんは
まだ何とかポジティブです。しかしそれも徐々に揺らいでいきます。
自分が救ったはずの綾波(モドキ)が自分の知ってる綾波と違うことが徐々に露わになり始めますが、シンジさんはその現実からも
目をそらしてしまいます。その現実逃避がよく表れているのが「綾波の段ボール小屋の前に積まれた本」ですね。
「お前は俺が救った綾波のはずだ」という願望の押しつけを積み重ね、それでも無視する綾波モドキに対してついには「もういいよ!」と当り散らして
積み上げた本を散らかしてしまいます。高く積まれた本が崩れる様は、シンジが「自分の努力は徒労どころか害悪でしかなかった」という
つらい現実をやっと受け入れたことを表していたように思います。
この綾波モドキとのやり取りと並行して描かれた、ヱヴァQで評判の悪い真夏(かどうか不明)の昼の淫夢にも触れなくてはならないでしょう。
つらい現実から目を背け続けるシンジさんをカヲル君は優しく慰め、つらい現実を優しく噛み砕いてシンジさんに受け入れさせようとします。
拒絶と無関心しかない世間で唯一自分を認めてくれる存在が目の前にあれば、だれでもそれに縋るでしょう。ほかに縋れるものなんてないから。
そしてカヲル君はこのどうしようもない現状の打開策(とカヲル自身が信じている事)をシンジに伝えます。
そりゃやるでしょう。受け入れがたい現実を受け入れたことでシンジさんは自分にとてつもない力があることだけは自覚できたからです。
「自分には力がある。前回は使い道を間違ったけど、今回は道しるべを示してくれる人がいる。これはいける!」
この時点で道しるべを疑うことをシンジさんに期待するのは酷というものです。
不吉な番号が付いた13号機に二人で乗り込み、汚名返上のため再度やる気120%のシンジさんは、視界に入る大好きだった綾波と似て非なる生命体を
そこで、自信満々でシンジさんを導いてきたカヲル君が異変に気づきます。
「何かがおかしい」
でもシンジさんは止まれません。
目の前に広がるクソッタレな現実から逃げられるまであと一歩というところまで来てるんだから。
船頭が迷い始めているのに漕ぎ手が止まりません。
もうすぐ答えに手が届きそうなときに「なんか不安だからやめよう」なんて言われても止まれません。
なぜならこの言葉はシンジさんにとっては「このクソッタレな現実ともうしばらく付き合おう」に等しいからです。
「もうすぐでこのクソッタレな現実から逃げきれるのになんでわざわざつかまってやらなきゃいけないんだ」
と考えてしまうのも無理はない。止まれない。
せっかくやる気を出したにもかかわらず2度やって2度失敗してしまったシンジさんは絶望してヒキニートに戻ります。
仕方ないことですね。頑張っても無駄だったんだもの。むしろ害悪だったんだもの。2度やって2度とも。
「自分が頑張れば頑張るほど他人が迷惑する」というつらい現実と2度も直面させられては、こうなってしまうのも無理はない。
だってこんだけ迷惑かけても、息を切らして自分に駆けつけてくれる絵にかいたようなツンデレ美少女が居るんですよ?
ふざけんな、何がシンジさんだこの野郎。かわいそうな自分に酔ってんじゃねぇぞ。
こんなに幸せな物語ありますか?超絶ご都合主義なアニメじゃねーか。
映画の感想を分かち合う友人もいない、人生の伴侶もいない、電話の着信履歴が1年近く残る、メールが来るのはスパムだけな俺より全然マシじゃねーか。
いっちょまえに絶望気取ってんじゃねぇぞ。どんだけ幸せなんだこの野郎。
シンジさん改めボケカスヒキニートシンジの心の変遷をたどりながら2回見ました。
同じ映画を2回見たのはこれが初めてです。
世間的にはクソ映画なのかもしれませんが、俺にとってはかなり満足度の高い映画でした。
まぁ、こういう意見もあるってことで。
レポートが終わらずに朝を迎えるであろう私が、現実逃避にはてブをさまよってたら
『はてなブックマーク - 左に立っている人には真ん中さえも右に見える - とある青二才の斜方前進』
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/TM2501/20121211/1355218653
一瞬バグかなっとおもい、開いたらそこにはまぎれもなく『「はてブのコメント」に対するコメント』があるじゃないですか
どうやら、はてな左翼騒動の余波らしいですが、私は追っかけてもないので知らぬ存ぜぬなので、それはおいといて。
はてブという、ブログのコメントとは違い一方的にコメントをつけられるものを使い我が物顔でコメントしてきた「我々」が
同じようにレッテルを貼られたりコメントをつけられる それも「我々」自身によって
ていうか、もしかすると新しいコメントツールでもあるんじゃないでしょうか、コメントに対するコメントによるコメントの重層か
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
いけないカフェインを取りすぎた
.....いいよね?(涙
アンタのその愚痴に付き合う私だって疲れてんだよ。ふざけんな。
何かにつけていつも「仕事が辛い、しんどい、疲れた」って、私の反応にお構いなしに繰り返す。そんなに嫌なら今の仕事辞めれば?鬱陶しい。
男は愚痴に解決策を求めるけど女は違うとか、アンタがいつだったか呆れたように私を見て言ったよな?
お望みどおり、「お疲れ様」の代わりに、疲労回復効果のある食材やら料理やら、快眠グッズやら紹介したろうか。「解決策」として。
でもそういう事言うと嫌な顔するんだよな。
知ってるよ。
性別限らず、人には共感して欲しいときはあるだろう。私はアンタの共感を求める心は別に否定しない。それを現実逃避だなどと断罪したり糾弾したりはしない。
ただ、アンタが共感を求めるたびに、苦い気持ちが広がる。私が参って共感を求めたとき、アンタが性別のせいにして私を見下した事実を思い出して。
そして、その事実をアンタがまるで覚えてないところが、何度指摘しても気づいてくれないところが、私をもっと苦しめる。
たぶんこの先もずっと、アンタは変わらねぇんだろうなって確信を持って言えるし。
千キロ以上離れている実家に帰省したところ、お見合いをする事に。
相手はそういう事を一切口にしなかったがどう見ても家が金持ち。
(というか不況に左右されない仕事のため、不況下の現在、同世代の年収平均との差が一時的にあまり無くなってしまって逆に悲しい)
相手は私の仕事を評価してくれる。
しかし遠隔地に住むことには抵抗があるらしい。
相手の家はやはり安定した異なる職種の経営者だが、継ぐ人もおらず、現在親元で働いている本人も継ぐ気はないらしい。(資格取ってない)
私も相手も、親が好き家族が好き動物(ペット)が好き…というタイプなので、お互いあまり地元からは離れたくない。
だが仕事がなければどうしようもないため、私は職業の安定性を優先して遠隔地での勤務もやむなく受け入れ、もう数年になる。
がそれには難関の資格試験に合格する必要があるし、受験する資格を得るだけでも結構な時間がかかる。
今の仕事もしちめんどくさい資格を一年間の勉強の末取って得られた職なんだけど、それ以上に難しい資格。
暴力を振るわれる事さえある現在の職場からはなるべく離れたいが、私よりも苦労している兄弟は「恵まれた待遇なのだから辞めるな」と言う。
私も計算高い性格だからこそ今の安定した仕事に就いたのであって、その意見にはつい頷いてしまう。
今の仕事は上半期わりとヒマなので、仕事で使いそうな資格の勉強したり、試験受けたりして簡単な資格を取ったりしてた。(軽い現実逃避のつもりだったけど)
で、その取った資格っていうのがたまたま、見合い相手の家業を継ぐ上で必要な知識の超入門編、みたいな位置づけにある。
価値観も合うし、ちゃんと現実見てるし、なんていうか男前だし、彼女のことは割と好きだ。
でも話してるとあまり家業を継いでほしくないみたいだ。(親元で働いてるのは安定職種での経験を積んでおきたいかららしい)
世相やそれに年齢の事もあるし、今の私が地元に戻れる可能性は少ないと思う。
私はどうすればいいんだろう。
正確には会社をバックレた。
責任とかモラルとか、もう、わかってるけど、いい。どうでもいい。叩け。
壊 れ る。
「うちの会社はノルマとかはないよ。基本給+枚数をこなせば作業手当として給料は上がる。」
なのに、基本給は実は「最低限の枚数をこなしたという前提」で設定されていたんだ。
作業枚数が、会社の設定した枚数に満たない場合、基本給がマイナスされていく。
募集要項にはこう書いてあったんだ。
基本給+住宅手当+皆勤手当で15万円。アニメ業界の初任給としてはかなりの高額だ。
でもそんなうまい話はなかった。
09:30 会社に行く準備をしていると、じんましんが出てくる。
10:00 出勤。「おはようございます」の言葉が空しいほど皆無言。
12:00 机で黙々と昼食。食欲がないのでせんべい1枚をかじる。特に会話はない。
14:00 外は太陽が降り注いでいるが会社は電気すらついていない。モニターでの色確認などのため。
18:00 夕方を過ぎると微熱が出てくる。時には38度越える。
20:30 パンを食べる。
22:00 集中力が限界だが手を動かさないと仕事が終わらない。
23:30 正直アニメとかどうでもよくなってきて帰る。俺今日誰ともしゃべってねえ。
絵を描くのが好き?そうだっけ?
俺が描いてるのは絵じゃなくて線にしか思えない。
月10万そこらで10何時間も線だけ描いて、俺はいい歳して社会に何を貢献しているの?
50代の作画監督見てたら、あんな大人にはなりたくないとしか思えない。
俺こんなことするために生まれてきたんじゃねえよ。
他人様の現実逃避材料を生み出すために、うどんも食えないほど憔悴するなんて。
最低限の生きる権利を保障されながら金を稼ぎ、納税したい。
社会保険とか年金とかちゃんと払って、いつかは家庭を持って子孫も残して。
当たり前だと思ってたことすべてが、このままじゃ何ひとつ出来ない。
「人並み」の人生を生きるのってこんなに大変だったのかよ。
まじ馬鹿みてー
はてなブックマークのトップページって、正直なんか飽きちゃったし、スクロールせずに表示できるのが数エントリーだけで、やたらヘッダがでかかったり、広告がでかかったり、欲しい情報がほんのちょっとしか表示されないし、気のせいかエロいサイトのサムネイルが表示されなかったり、デザインもまじめくさいし、改善したらもっともっと使いやすくシャレオツになるし、アクセスも稼げるんじゃないのって思います。
ホットエントリーに入った週6フリーターさんのはてブ1000users超え記事アンテナ(´・ω・)|トップページは結構良くて、はてなブックマークのトップページよりも私には使いやすいのだけど、なんかおしい感じでもうちょっとかなーなんて思ったりしてました。
そんな中、最近仕事が忙しくて現実逃避になんか作りたくなって、お手軽でそんなに時間もかかりそうもなかったので、このサイトを作成することにしました。
はてなブックマークに登録されたエントリーを快適に閲覧することを目的として作成しましたが、一人で作成したため使いやすいのは私だけかもしれません。
私は職業プログラマーで簡単なサイトを構築する程度の知識は持っているため、作成時間はほとんどかからず機能的なところは1時間程度でしょうか。使用しているサービスやライブラリは普段使用しているものや「週6フリーター」さんが紹介していたものなので、ゼロから探していたらもっとかかったと思います。
レンタルサーバも既に契約していたものに相乗りしています。はじめは忍者ツールさんの忍者ホームページの無料プランにしたのですが、スマホで表示したら私には耐えられない大きさの広告が表示されたので、やめてしまいました。
また、サイト名をどうしようかとか、ドメインはどうしようとか、デザインを微調整したりとかは、会社からの帰宅後深夜にちょこちょこ行っていたので、そういう時間はもっとかかっているでしょうか。新しいサイトを立ち上げるときはみなさんそうだと思いますが、基本的な部分を作る時間よりも、その他このような作業に時間がかかっていると思います。
サイトの作成に利用したサービスなどを以下に記しますので、他の方のご参考になれば幸いです。
サイトを閲覧してくださった方は、こちらのコメントか、サイトに記載のメールアドレスまでご意見やご感想をいただければ、今後の参考にさせていただきたいと思います。
時間を気にしないで海沿いにぐるっと周ってみたい。徒歩はさすがに飽きそうだ。じゃあ自転車かオートバイ、いや、なんだかんだいってレンタカーが一番かな。車中泊もできるし。
検索すると体験談もざくざく出てくる。その一つに、オーストラリアツーリングの話が載っていた。グーグルマップを見ても驚くほど何もない、ナラボー平原。無人の砂漠を1200km走破。
しかし、ここまで考えて気がついた。お金と時間があれば可能なことしか考えられない、自分の器の小ささに。
アマゾン河をカヌーで遡上とかサハラ砂漠横断とか、冒険的旅行は他にもいろいろある。でも、なんとなーくできそうな、なんとなーくどこかで聞いたことのあるようなことでないと、妄想しても実感がわかず、楽しくない。結局のところ、独創性が乏しいのだ、おれは。それは、イマジネーションの欠如、というより、他人の話を身を入れて聞くという体験の欠如に由来している。いや、他人への共感の欠如を意味していると言っていいだろう。
でもって増田が頼ってくれない事に不満なんだろうなー
でも増田は旦那さんが頼りないから頼る気にもならないんだろうなー
と思った
旦那さんは、自分をイクメンであり、家族サービスに精を出すいいお父さんとして認めて褒めて欲しいのだけど
本心では子供のそばにいる事にうんざりしてて疲れきっていて現実逃避したい
旦那さんに、子供と触れ合わない形で家族サービスをさせてあげてはどうだろう?
簡単で責任が重くなく、twitterで自慢できるような事がいい
トイレ掃除や風呂掃除、食器洗い等、自分から率先してやる事はなくても、頼まれたら表面上はしぶしぶとでも、結構喜んでやるのではないだろうか
家の中でスマホをいじってる旦那が目ざわりになったら「明日食べる果物がない」とか「甘い物が食べたくなった」等と言って、簡単な買い物を頼んで追い出すのもいい
増田のこの考えを改めて、家の中の事にある程度関わらせてあげて、その代わり子供にはあまり関わらせないのが正解だと思う
休日のお出かけは、旦那の両親や増田の両親、ママ友等、外の人を巻き込むといいと思う
こんな事を言ったらなんだけど、やっぱり子供と触れ合うのに向かない人間っているんだよ
単純に適性がない
自分はtwitterやFacebookはやっていないんだけど、「はてなハイク」はやっている。
内容的には同じようなものかな?ちょっとは違うかもしれないけど。
なんか現実逃避したくて。
自分はあまりいいことはしていないし、逆に迷惑をかけることが多々。
しかもよく怒られたりよくストレスがたまったりする。イライラの毎日でした。
正直、はてなハイクはリアル世界から逃げるために使っているのかもしれない。
そこで何か言ってストレスを解消させたり、パソコンのゲームでイライラを静めたり。
あまり長くいるので今現在は家族が嫌な気分になっている状況です。
でも、どうしてもやめられない。
リアルの世界では、別に話す人もいないし、楽しいと思うこともない。
がんばれた、達成したな、っていう気が正直しない。
すぐに心が折れやすいし、何かしら嘘半分の言葉もしっかりと受けてしまうときがある。
でもネットなら、自分のことを気に入ってくれてお気に入りにしてくれる人もいるし、
自分の投稿にスター(はてなハイクなので)を付けてくれる人もいるし、
何かしらと支えてくれるユーザーさんがいるからなんとなくだか嬉しく思っている。
それといった答えが出ないまま、出たとしてもやる勇気がない、ダメ人間と化しています。
何度か質問サイトで質問したけど、こんな人間に最適な答えを書いてくれる人なんていないよね。
しつこく怒られ、誰にも褒めてもらえない、話す人がいない、いつも迷惑をかけてしまう、
いつも一人、っていう時が一番嫌な時なのかもしれません。
現実世界での生活が楽しめれば、もちろんそこに依存することでしょう。
今の自分は楽しめていないということ。
誰かに褒められたり、認められたりすればうれしくなるのは例外を除いて普通だと思う。
褒められないから、現実世界が楽しめなくなる、つまらなくなる。
たぶん今の自分はこんな感じかもしれない。
今の自分は、どこにいてもあまりほめられたり認められていない。家族の中でも。
だから飛び込んだかもしれない。
こんな自分が言うのも恐縮かもしれませんが、「仕事お疲れさま☆」とか旦那さんに一言言ってみてはいかがでしょうか。
少しは旦那さんの心の動くのではないでしょうか。
もし違っていたら厳しくw
自分も頑張って生きています。現実世界で誰かに認められるためにね。
仮想世界でのアドバイスはもういいと思っています。分かってくれる人なんていないと思いますからね。
分かってくれる人がいれば・・・・いないですよね。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
昨日、とあるおじさんが語ってくれた。
それは、おじさんが幼い一人息子をアメリカの高額な幼稚園に通わせていた時の話だった。その息子さんは私よりもかなり年上なので、相当に昔の出来事になるだろう。
ある日、おじさんはふと思い立って幼稚園での息子の様子を見に行った。探してみると、息子は部屋の片隅にポツンと蹲り、板切れを叩いていた。傍には先生が一人付き添っているだけ。そこでおじさんは父親として先生に相談した。「息子にもう少し別のことを学ばせてもらえないでしょうか?何と言っても、ここの保育料はあれだけ高いのだし、板切れ遊びをさせておくのではいくらなんでも…あまりに…」先生の説明はこうだった。「ここではただ2つの事を取り扱っております。一つは子供達の安全を保証すること。もう一つは、子供達に自分の好きなことをさせて、それから励ますことです。よく出来ました!と。こうして子供達に自信を持たせてこそはじめて、子供達のその後の人生はしっかり充電されたようになり、原動力に満ち満ちたものになるのです」
この話を聞いて、突如、私に足りないものが何であったのかに気付いた。これまでの人生の長い時間を何が何だか分からないまま、孤独と憂鬱の中に費やしてきたのは、私の人生には充電が無かったからだ。無いどころか、それと真逆のマイナスなものを持っているのが私だ。
裕福な家の子供が良質な教育で人生の加護を受けている時、私達が幼稚園で先生に言われたのは背筋をピンと張って座っていることだった。余計な動作はしないよう両手は膝の上で、ちょっとでも他の動きをしたらすぐに怒られた。小さい頃の私は毎日毎日、どんな事でも先生に家庭へ報告されてしまい、何処に行っても何処からも歓迎されていないようだった。
また一方で、裕福な家庭では決してないけれど、よく気を配った両親に育てられた子供達もいる。彼らは成長していく中で、良い方向を向き、良い導きを受ける。おそらく小さな頃にはこの違いがはっきりと表れることはない。けれども、ひとたび二十歳くらいにもなれば、鮮明に痛快に現れ出してくる。キラキラ輝き始めた人生の中で、子供の頃に受けた導きこそが、すなわち、その人の力の源泉なのだ。
そんな「充電されたことがある」人達は、真面目で継続的な努力家で、自分が何をしようとしているのか分かっている。それが私のように「負のエネルギー」に満ちている人間であれば、もちろん私は極端なケースなのだろうが、迷って困って、心配で不安で、疲労困憊で生きている。私の両親は、私がどう思っているのかを気に留めたりは全くもってしない人達だった。父親は隣の家のおじさんと何ら変らず、よそよそしい存在だった。母親は気分次第で私の成績に介入したり、娘の健康に気づけなかったりだった。私が病気にかかると居ても立ってもいられなくなるものの、普段は何の躊躇いもなくジャンクフードを食べさせていた。昔から今日までずっと、母親は私の事に何でも手を出して支配したがっている。だから私は彼女に握らせ、彼女の好きにやらせる。私がどう思うのか、私の心を彼女は見落とし無視する一方で、取るに足らない些細な事は自分が握って操るのが大好きなのだ。私が病院に行くときは、必ず付いてきたがり、医師に向かって病状を丁寧に詳述し、一瞬たりともその口が閉じられることはない。だからこれまで私は自分で話さず、母親が話すに任せてきた。小学生時代の記憶でも、母親はちょっとでも忙しくなると、すぐに癇癪を起こし態度や感情が激しく変わった。そういう人なのだ。私がまだかなり小さかった頃、母親が自作のお話をしてくれることもあった。私は母親の作ったお話を聴くのが好きだった。けれども、そんな幸せな事は小学校に入学すると、どれもこれも終わりを告げた。まるで、最初から何も起こりはしなかったかのように終わってしまった。もしもそれを証明する母親直筆の手紙がなかったら、そういう幸せな出来事があったなんて私には信じられなかっただろう。実際、私は母親の手紙を読みがら想像するのだ。存在しない幸せの思い出が、実は現実に存在していた出来事かのように。
毎日、私が時間の約60%を費やすのは、怖れ、不安、苦しみ、理由もない悲しみ。私は自分を咎めるばかりで、その後、現実逃避な世界を隠れ家にする。ドラマ、映画、二次小説。今だって相変わらずこんな逃避をしていて、その上、更にまた時間を大量に使っては自分の過ちを悔い改めねばとくよくよしている。かつて幼かったあの頃、私はあたかも養鶏場で飼育されているヒヨコのようで、爪と嘴を切り落とされ、均質な大集団と一緒に狭苦しいゲージの中に閉じ込められていた。互いに足を踏みつけあい、押し合い圧し合い振り向くことすらできない。食べさせられるのは成長ホルモンと抗生物質。こんな画面が頭の中で鮮明になればなるほど、私の気分は少しマシになる。これは多分、ある種の自己憐憫であり悲しい自己陶酔なのだ。成年になれた私が如何に足掻こうとも足掻こうとも、結局は私もまた嘴を切り落とされたニワトリでしかない。
でも、誰にも心の中の思いを打ち明けられない。永久に。例え両親がそばに居たとしても、下の方に底なしの孤独が存在していると感じる。私の居る下の方では、深淵の底は覗き切れない。
とても苦しい、だが、こんなのは駄目あれじゃないと駄目とは言わない。両親や環境の意味を責めたりもしない。もし心のなかに重い苦しみがなければ、こんな風に均衡を失った憂鬱の表情を絵筆で描けなくなる。生涯一文無しでも私は困りもしない。この苦痛に浸されきった精神をただ背負っているだけ。
いじめを根絶することは非常に困難。少なくとも今まさにいじめられている自分が恩恵を受けるということはない。しかし、未来永劫というわけではない、人を介して媒介されるのが病原菌なら社会(共同体)を介して媒介されるのがいじめ。天然痘は撲滅された。
いじめは、食物連鎖、封建制度、カースト制度ではない。システムから抜け出すことは可能。当事者(いじめる側、られる側)・調停者(先生や親)・傍観者(大多数の他人、クラスメイト)という3者の関係が有ることを理解する。
勉強はできたらやったほうがよいが、無理には必要ない(学業という重みからの開放)。何でもいいからやれることをみつけることが大切(現実逃避手段やストレス解消手段になる)
いじめをうけたらやり返さない→権威を利用するときに効果が現れる!(相手に手を出させる、証拠をつかむくらいの狡猾さが必要)写真に収めたり、スマホなどで録画、録音も有効
なるべくオプティミズムを保つ→いじめとか誰でもできる経験じゃない。物事を前向きに考えるようにすることは重要(皮肉屋になっても良い)
人間関係:生徒との関係より、教師との関係を優先すること
弱いものがいたらいじめたくなるのは人間性から切り離せない。加害者個人だけの問題だと思いつめない
あまり被害者面をしない(しても良いが、時と場所を選ぶこと、人としての尊厳は保つこと)
あまり「いじめられている自分」を意識し過ぎない→挙動が不審になりやすくなり、逆効果(進んで餌になりに行くようなもの)
弱者のステータスを上手く利用することを考える(やりすぎは禁物、信用をなくす。あくまで交渉のためのカード、ブラフとして用いる)
自殺というカードはある意味いつでも切れる一方で、挽回の機会を永遠に失うことになる(リスカなどの未遂行為は禁止)。だから他の手を尽くしてみるのが先
更生するにはいろいろとカネがかかる→保険と同じで事前に対策するのは無駄ではない
いじめに関する精神的なケアを両親に期待しない→事が終わった後の関係に差し支える(例えば将来親との間に揉め事が起こった時に、昔のことを持ち出されるといろいろ苦しい。良い関係を維持するのは難しくなる)
両親には学校との連絡や送迎、金銭が絡むことなどだけ頼る(立ち直るにはカネがかかる、そうなってからでは遅い、普段から子どもとのコミュニケーションはしっかり取る、それで必ず防げるわけでもないが)
いじめを傍観するという行為を責めることはできない(積極的にいじめに介入するには誰にでもできることじゃない。同時に、このレトリックは多数派である傍観者を敵に回さないためにも有効)
言葉を大切にするという姿勢をもつ。口汚い言葉を浴びせられてこそわかることである
いじめられる側にも、問題があるというのは認めにくいが一理ある(僕は何もしてないのに〜はたしかに事実だが、それといじめられることにはあまり関係はない。独善に固執しないよう心がける)。
それは、画面の中だけでなく、リアルにおいてもだ。公演、ライブはもちろん、握手会など近い距離でも、僕らは彼女らを感じられる。
日常をただ、平々凡々と暮らしていたのでは出会うことさえ、許されなかった弩級の美少女に。
僕は、彼女に憧憬を好意を覚える。彼女らは資本主義世界でプロダクトされた理想の美少女で、彼女らはマスプロダクトされた彼女らについてのプロダクトを以て、僕に彼女らを伝えてくれる。
好きだ、大好きだ。愛してる。
まるで、この世の理、万有引力に導かれるかのように。不思議な話だ。
現実世界では、近づくことさえ、許されなかった彼女らに、恋することが許される。
彼女らがアイドルになってくれたおかげで。彼女らは僕らの想いを拒絶しない。
しかし、彼女らのファンは残酷な真実に気づくだろう。画面の中で、ステージで、輝く彼女らを見て。
いや、むしろ、無数にいる彼女らのファンや握手会で自分の後ろに立つ係員を見て気づくかもしれない。
もっと、自然に、もっと、普通に。例えば、クラスメイトのように、近くで出会えればよかったのに。
でも、僕は気づく。もともと、彼女らは特別で、本当は、出会えなかった。
だから僕は、彼女らがアイドルでいてくれたことに感謝しなくてはならないのかもしれない。
【秋元康の罪】
今や、過熱したアイドル業界を牽引するAKB48を始めとする48グループ。
古くはおニャン子クラブの時代から、アイドル業界を手のうちに収める彼には、その業界を発展させたという功績がある。
そして、罪もある。
AKB48の最新曲『真夏のsounds good!』でその罪について検証しよう。
この夏を代表するであろうこの曲のPVは彼が指揮したらしく個性的な設定が付与されている。
その最高指揮を執るのが、彼、秋元康だ。
軽快な曲、爽快な歌詞とは裏腹にPVの物語性にはダークなものが感じられるだろう。
AKB48を卒業することが予定されている前田敦子を助けようとする渡辺麻友。
「もういいよ行って。行きなってば先に。私たちは私達が変わるためにここに来た」
次々に倒れていくメンバー。
そんなダークな情景を見せたあとに、PVは青空の下で彼女らが踊るものになる。
真っ白な水着。真っ青な海と空。清々しいほどに爽やかで、それが先ほどの情景と対比される。
これほどまでに綺麗な未来が、つまり、新生AKB48が生まれ得るのだと期待させる。
それはPVの終盤、渡辺が前田を連れていくシーンだ。行く先は、先程、白い水着を着て、砂浜で踊っていたメンバーの下。
生まれ変わるなら、彼女らは前田を迎えるべきではないし、前田はそこを目指すべきではない。
渡辺もそれを助けるべきではないし、助けているということは、前田が抜けた後の新生AKB48の可能性を否定しているとも言える。
前田もAKB48を抜けた後の自分の可能性を否定しているのかもしれない。
つまり、秋元氏は彼女らに新生AKB48の可能性を彷彿とさせるPVを提示しながら、その可能性をPVの中で否定しているのだ。
アイドルグループは予定調和でなく、突き進んだ結果であるべき、ジャンケン大会のようにガチであるべきだという秋元氏の思想とは反するようにも思える。
しかし、よく考えて欲しい。
私にはそうは思えない。
彼は、凋落したことのない、紛うことなき、この時代の寵児であり続けたし、今ではその世界の重鎮だ。
彼に単なる根性論など通用しない。
努力だけではだめだと、成功するには運も必要だと、グーグルプラスで語った彼には美辞麗句に賭された、文字通り飾り物の世界ではなく、本当の世界が見えている。
だから、単純にがんばれば、努力すれば認められるというメッセージを発さないのだろう。
それは、彼の信念に反するから。
そう、彼の思想はこの世界を精緻に写しだしたものであるように思えるし、それに僕は同意する。
だが、この思想が彼の罪を生んだ。
つまり、それは、その一種リアリティ溢れる思想、イデオロギー性を伴った作品を彼女ら、世界で認められうる美少女らに歌わせ、演じさせてしまったというところ。
僕らは、アイドルに夢を見ている。
小難しいことを、批判めいたことを歌ってほしくはない。
社会批判。その歌詞、そのメッセージ性は痛いほどに、僕の胸に届く。
しかしそれを彼女らに歌わせることで、彼女らは政争の具のような体裁を見せてしまう。
なんの色付けもされていない、ピュア=純真な女の子を僕は見たいのにも関わらず。
別の例では、秋元氏は純真な、つまり、彼女らが思っていることを彼女らが歌っているという構図の作品を生み出すことに成功している。
それが、SKE48(KⅡ)の『お待たせsetlist』だ。
選抜総選挙で高柳明音は、秋元氏にこう叫んだ。「私達に公演をやらせてください」と。
彼女らは、それまでリバイバル公演(他のチームの公演楽曲で公演する)ばかりを行い、自分たちのオリジナル公演が行えなかった。
だから、彼女らSKE48(KⅡ)とファンの思いを高柳は秋元に代弁した。総選挙の会場で熱を込めて語った。
秋元氏はそれに呼応するように公演楽曲を書き、オリジナル公演を与えた。
『お待たせsetlist』には、SKE48(KⅡ)の思い、そして、ファンの思いが込められている。その歌詞は秋元氏が書いたものだが、聞く者にとっては、彼女らの気持ちそのものが歌われているように感じられる。
僕は、彼女ら=色付けされていないプレーンな彼女らを望んでいるのではないか。
そこには、如何に崇高な思想やイデオロギーであっても介在するべきではないのではないか。
だからこそ、僕らは秋元氏が秋元氏の思想、イデオロギーを彼女らに歌わせ、演じさせることに強烈な違和感を覚えるのである。
さて、散々彼の罪を述べてきたが、彼の功績は大きい。夏に控える前田敦子の卒業に関して、彼はこのように述べている。
「相変わらず表現は下手だが、その分、ストレートに伝わってくる。時々見せるはにかんだ表情は、あの頃の“あっちゃん”のままだ」と。
彼女につまり、この世界で美少女と認められたアイドルにバイアスをかけることなく、アイドルというひとつのステージを卒業させる。
そのことには頭が下がる思いだ。
さて、そのようなイデオロギー性の濃いアイドルの対極にハロープロジェクト系列のアイドル、モーニング娘。やスマイレージといったアイドル勢がいる。
一時程の勢いはないが、それでも業界内で存在感を放っている。そんな彼女らはイデオロギー性から解放されたアイドルといえる。
彼女らの歌う曲の歌詞や、日常を何の疑問も持たずに歌いこなすものであり、楽曲名からさえ強い思想は感じられない。『プリーズミニスカ ポストウーマン』(スマイレージ)『ピョコピョコウルトラ』(モーニング娘。)といった曲名からは、いわゆるおバカな空気さえ感じられる。
純粋な気持ちを歌っているかどうかで言えば、アイドルを眺める視点では、こちらの方が、彼女らの気持ちが歌われていると想像できる。
まさか、つんくがうぶな乙女の気持ちを持って生活しているとは思うまい。
【つんくの罪】
そんなつんくにも罪はある。
それは、作品そのものではなく、それらを歌いこなす際の彼女らについてである。疑問に思ったことはないだろうか。
彼女らの楽曲は、つんくが曲詩ともに担当する。48グループの秋元氏が詩のみの担当であることとの差がここに出ているのかもしれない。
よくよくハロプロメンバーの歌い方のくせを聞いていると、そのくせが似たものであることに気づくはずだ。
そう、つんくの歌い方のくせに似ている。と。
つんく自体、アーティスト時代の歌い方のくせは強いものだった。
それ自体はなんら問題がないのだが、その歌い方のくせを彼女らに楽曲提供することで一種押し付けているのではないか。
ピュアな彼女らの、女の子らしい歌い方を黙殺してしまっているのではないか。そう感じられて仕方ないのだ。
ここでも、僕らは嘆くことになる。彼女らの気持ちを彼女らの歌いたいように歌っているものが欲しいのに。本当の彼女らが欲しいのに。
資本主義に浸け置きにして、彼女らの骨を抜くのはもうやめてよ!そんな不自然な美少女見たくないよ!
そんな思いにかられて、すべてに思想やくせのないアイドルを探す。いることはいるのだ。
例えば、SUPERGiRLS
例えば、YGA
天下のavex、そして吉本興業のプロデュース。資金力も申し分ない。ルックスも申し分ない。でも、なかなか売れないのだ。
吉本興業に至っては、NMB48という48グループの力を借りて、アイドル事業に参画する始末。
Webゲームっていうか、ブラウザ上で動くような奴。PHP(5.3)で突貫工事したので、ペラペラな感じだけど、なんとか公開できて、たまに遊びに来てくれる人がいて(一時はVIPに募集スレも立ったらしい)、何戦かして帰っていくので、とりあえずサーバー代を払った価値くらいはあったかなーという感じ。
で、どういうゲームかっていえば、人狼みたいに「陣営に別れて、決められた目標をクリアするゲーム」です。
『レジスタンス』っていう卓上ゲームというのかな?それを参考にして作りました。
ちょうど開発してから、一ヶ月程度になったので、宣伝をかねて、現状みたいなのをメモ。
一応、前提としては、Pythonだったら、何かしらのシェルプログラムを書いてcronしてるけど、それ以上のことはしていない程度の、技術ワナビー。
ほぼ業務経験なし。継続してスクリプトを開発したのは、今回が始めてという感じ。
単純にPHPで何か作りたいなーと思ったから。一度はPHPを書くべきだなあと思ったりした。それで、何かいい題材ないかなーと思って探してた。
「昔、人狼BBSで遊んだことあるなー、でも同じ人狼のゲームを作っても芸が無いしなー」と考えていたところ、知人と遊んだ『レジスタンス』ってゲームにピンと来て、「こういうゲームをWeb上で遊べたらいいかな。調べたところ、Web上でも人狼っぽいって言われるし、上手くそういう層にアピールできそう」ということで作り始めたのでした。
とはいえ、最初は勢いで書き散らしたので、本当にClassとかまったくなかった。それを徐々に整え直して、なんとかファイル分割できるようになった。それでも、全く足りない。具体的には下のような部分が汚い。
本当はCakePHPとかそういったフレームワークを使えば良かったんだろうけど、「重いんだったら仕方ないしなー」というわけで、フレームワーク無しで使ってみたんだけど、結果として表示部分にやたらと処理が入って醜いったらありゃしない。
表示部分と、実際のシステム部分はわけられるべきだし、フレームワークを使わないまでも、そういう風な機能分割は必要。
で、そういうコードを書いたせいで、下のようなことが起きる。
PHPUnit使ってユニットテストは書いているんだけど、まったく足りない。
全部グリーンにはなるんだけど、実際に動かしてみるとバンバンエラーが出る。
幾つかの関数はテストを先に書いたりしたんだけど、表示部分とかは「ここテスト書きにくいから誤魔化しちゃえー」といって書いたりした。
で、何が起きるかっつーと、リファクタリングするときにガンガン機能が落ちる。そして死ぬ。
さすがに一つのClassが1000行くらいになってきたので「うっわー、これは駄目だわ。分割するべき」って、ゴミみたいなコードに手を入れ始めるんだけど、全く歯が立たない。
とりあえず、既存のテストはグリーンになるけど、どこかで処理がつまづいているという状態でこれは駄目。
「うわ、この部分、テスト書きにくい!」って思った時点で、何かを嗅ぎつけてちゃんとテストに落としておけばよかった、と反省することしきり。
結果として手作業で複数ブラウザ起動して……みたいなことになっちゃう。バグの温存。
CSSとか勉強のために、自分で1から書いているけれども、これは本当にだるい。
知人から、綺麗にコードが書けるから、と薦めてもらったSaSSを使っているけれども、なかなか綺麗にできない。
一応、Twitter BootStrapは知っていたけれども、それに頼るよりは一から書こうと決心して書いたためか、ようわからないし、デザインとしてもこなれていないために気持ち悪いことになっている。
上記のフレームワークについてもそうだけど、流行っているものには、それなりの理由があって、それをわざわざ避けても、結果として、それ以上のものは(素人に毛が生えているくらいでしかない以上)ならないような気がする。
ならばとっととそういうものを使って、さっさと済ませてしまえばよかったなーと思ったりした。
ゲームという性質である以上、どんどん情報量が増えていくために、そういうのを表示しまくっていると、本当に画面がぐちゃぐちゃになる。
セキュリティーには本当手をつけられていない。(徳丸本読めという話になると思う)
(略)
で、本当にボロボロになりながら作ってみて良かったことをメモしておく。
自分は割と現実逃避の為に何かに没頭することがあって、その逃げ先としてプログラミングっていいなあと思ったりした。
あと、自分が書いたコードがヒョコヒョコ頑張っている姿をみていると、すごくかわいくなる。形にもなるし、「こういうものを作ったよ」とも言える。それは単純に楽しい経験。
元々、自分が好きそうなものから題材をピックアップしただけあって、自分が作っているものが、自分が一番愛用しているというのは幸せなことだなと思う。
自分が楽しむためのものだから、自分が一番のユーザーであるし、自分が快適に使いつづけるために改良を続けてる。
人から「こうしたらいいんじゃないの?」というのも勉強になるし、自分がちゃんと&楽に機能を拡張できるように、ちゃんと勉強しようとも思う。そういうのは本当にいい循環。
大抵は、自分が使うから自分だけのものだったので、あまり他の人が使ってくれることを期待していなかったんだけど、今回のは、ときどき遊びに来てくれる人が居る。
例えば、VIPでスレが立ってたり、あるいはニコニコ生放送でプレイ実況を配信してくれたり。
割と「くっだらねー」と思うけど、一人で細々と開発していると、そういう些細なことが嬉しかったりする。
なので、ついついみてしまったり、場合によっては、プレイしているところをいつまでも一緒に徹夜して観戦していたりする。人のプレイしている姿が楽しいというのも、自分が作って良かったなあと思う。
逆に言えば、使ってくれる人がいるからこそ、一ヶ月間開発が続いているようなもので、「ああ、自分のプログラムで楽しんでくれる人が居るんだな」という手応えみたいなものが、モチベーションになっている。
遊んでくれる人が見えるというのは、自分にとっては、モチベーション維持に大切になってる。
だいたい三日坊主で終わっている自分としては、開発が長く続いているほうだと思う。
目指すところは、もっと綺麗なソースコードにして、Githubで公開すること(いや、もうアカウントは既に持っているんだけど、公開するのは凄く恥ずかしい)。
「うたってみた」とか「レイヤー」系列は多いだろうね、リア充。
で、そこを切り離して、同じようなオタク趣味をもってる人間を、リア充と非コミュに分ける時、
うん、
一緒でちゅよぉ?
区別つかねーからw
アホかこのツリーw