はてなキーワード: 所沢とは
補足すると、そういうところにいる「無能な高学歴」は大体早慶が多い。旧帝まで行くと、さすがに勉強が出来ないと入れないので無能率も低くなるが、早慶だとアホでも入れる方法がいろいろあったり、学部によっては偏差値もそこまででも無かったりするので、出身大学を聞いて「その大学出てそれなの?」というのが出やすい。慶応SFCや早稲田にAO入試で入った奴は高確率でゴミだ。更にそこから東大院などで学歴ロンダすれば完璧である(例:古市憲寿)。履歴書やプロフィールには出身学部まで書いてあっても、入試方法までは書いていないのでわかりづらい。
こういう連中は、大して頭も良くないくせにやたらとプライドが高かったり、意識高い系(笑)だったり、平気で嘘をついたりずるをしたりする人格破綻者も多いので要注意だ。そういうわけでますます「高学歴な無能」が悪目立ちしてしまうのである。
なんか俺の書き方が不味かったせいで勘違いしている人いるから補足するけど、早慶全体というよりも早慶の特定学部(早稲田なら所沢、慶応なら藤沢)に一般受験以外で入った人(AOとか帰国子女枠)に入ったような人にアホが多いわけですよ。不思議な事にICUとか東京理科とかの人はこういう人はあまり見かけない。東京理科は勉強しないと卒業できないからだろうし、ICUはその性格上ブランドで集まるようなアホはこないからなのかもしれない。
場所は、埼玉県と山梨県との県境に近い山中。山頂付近に社殿があるもんで、標高もかなり高い。
幸いにも上のほうまで道路が通じているので、クルマでも行ける。
でも今回は、路線バスで行ってきた。雪降ったり路面凍結したりで、事故るのやだったから。
西武秩父駅から1日5本(平日は3本)しかない路線バスに乗って、75分!で着く
…はずだった、定刻なら。
初詣客やら登山客がいっぱいで乗り降りに手間取るのはしょうがないとして、
バス停に着いてから両替しはじめるグダグダな客がいるのも諦めるとして、
マイカー参拝客の駐車場待ちのせいで、あと1kmってとこでバスが渋滞にはまって止まっちまったのには参った。。。
バスの運ちゃんも「お急ぎの方は、降りて歩いたほうが早いかも」ってアナウンス。
みんなわらわら降りて歩き始めたんで、うちらもさっさと降りて自力で歩く。
「熊谷」「所沢」、なかには「宇都宮」「多摩」「足立」なんて車を見ながら、
この時はまだ「あーバスで来てよかった。クルマで来たら、駐車場待ちで何分かかったんだろう」
なんて思ってたんだけど、本当の悲劇は帰る時に起きた。
行き(登り)のバスが渋滞にはまってるんで、折り返しの帰り(下り)のバスが全然来ないわけ。
そもそも本数少ないバスだし、山の一本道だから別ルートでバスを回送するわけにもいかない。
目の前に並んでるマイカー連中がさっさと参拝終えて出てってくれない限り、バスは来ない。
15:20 バス停で並び始めた
15:45 バスの発車時刻のはずだが、バスは来ない。この時はまだ楽観ムードが漂う。「しょうがねぇよ渋滞だもん」
16:00 ちょっと先まで様子を見てきた人が「ぜんぜんバス見えないよ」
16:15 足元からじわじわ冷えてくる。駐車場のクルマの誘導方法にケチをつけ始める。
16:30 日が沈み、太陽の光が届かなくなる。急に寒くなる。足がかじかむ。太陽って偉大だな。
16:40 中国の九寨溝で、国慶節に観光客が殺到して数千人が取り残されたニュースを思い出して、最悪のケースをシミュレーションし始める
16:45 遠くに路線バスのオレンジ色に輝くLED案内表示板がちらっと見える。。。あぁ助かった。
16:50 バスが反対車線を逆走して渋滞をバイパスして到着。結局1時間10分遅れで折り返し発車。
おい、その技さっさと使えよ。
さっさと追い抜いて逆走して来いよ。
いや、バスの運ちゃんを責めるのは酷か。反対車線のクルマとぶつかっちゃまずいし。
敢えて釣りっぽいタイトルにしたが、エントリではなるべく客観的な記述を心がけたいと思う。
また、当事者は筆者ではなく、74歳の父である。父は私の援助を一部のみしか受け取らず、生活保護の受給も拒んでいるため、フルキャスト等の登録制の派遣バイトで生計を立てている。
本エントリは紹介者のフルキャスト(所沢支店)と紹介先のSBSロジコム株式会社の対応に不満を持ったために、個人を特定されることを覚悟で、抗議の意味を込めて書いている。加えて、派遣法改正によって成立した”日々紹介”というシステムに強い疑念を持ったことも、投稿する理由となった。
以下、時系列的に。
2014/12/03
・無事審査を通過して、紹介先決定。
2014/12/04
・「○○(父の名前)とSBSロジコム株式会社は、次の条件のとおりに雇用契約をいたします」と書かれた労働通知書を貰う。
・年齢を理由に1分も働かされずに、帰らされる。
( 父は以前に、何度も違う会社でも仕分けやピッキングの経験あり)
父からこの内容を知らされ、フルキャスト側の対応に不満があったので、筆者が代わりに電話。
以下、電話の内容を羅列する。内容が繋がっていない部分も多い。
1.
フルキャスト(以下、フル)「派遣先の会社は多くの経験を積んだ人事が人を見極めている。したがって、合理性がある判断だ。そもそもうちは紹介業務を行っているだけなので、正式に雇用契約を結ぶのは派遣先へ着いてからである」
2.
フル「交通費の支給はしても良い。しかし、その場合は、今後紹介先を減らしてもらう。なぜなら、貴方の父を紹介するのはリスクがあると判断したからだ」
3.
私「もし、年齢を理由に断るのなら、募集要項に力作業が必要などと明記しておくべきだ」
フル「それは確かにそうだ。書きなおしておく」
私「それは責任を認めるということか?」
フル「いや、リスクを軽減するための処置である。そもそも『お歳暮のピッキング』と書いているのだから、力作業であることは予想できたはずだ。責任を転嫁するつもりか?」
(今思えば、転嫁するも何も父に責任があるとは考えにくい。大体、『お歳暮のピッキング』が力作業だとは限らないだろう。)
4.
フル「そんなことする人は、リスクが高すぎるので、今後の紹介先をぐっと狭めるけどいいのか?大体、弁護士を雇うほうが金かかるぞ」
私「友人が弁護士なんだから、ちょっとした相談くらいは簡単にできる」
5.
フル「時間が経つと、有耶無耶になってしまうから、早めに解決してもらわないと困る」
電話での対応はこんな感じだった。あちらも慣れているようで、どんな言葉にも即答してきた。私のほうは抗議するべきポイントを押さえられず、何度もどもってしまった。悔しい。
【所感】
派遣法改正によって、日雇い派遣は原則禁止となった。そのために生まれたシステムが”日々紹介”というのはよく知られているところだ。このシステムの実態は、派遣とほとんど変わらないが、建前上、派遣先企業に「紹介」という形を取っているので、派遣としては扱われない。「紹介」であるから、実際に採用・不採用を決めるのは、その紹介先に到着してからである。不採用となったとしても、紹介者及び紹介先企業には、給与や交通費支給の義務はない。
不採用の場合、フルキャスト等の斡旋業者には法律的な責任は無いであろうが、道義的には責任があると考えられる。なぜなら、派遣法改正の目的は、被雇用者の処遇を改善するためであるから、「紹介」が改正前の「派遣」より劣悪な処遇(不採用の余地があるにも関わらず補償はない)になることは道義的に許し難いからだ。 また、被雇用者(正確には被紹介者)がどんな人物であるかということは、紹介先企業よりも斡旋業者のほうが格段に詳しいはずであり、紹介先の業務内容に関しては被雇用者(被紹介者)よりも詳しいはずである。その点も斡旋業者の責任が大きい理由と言えよう。
今回のケースで考えてみる。
被紹介者である父の年齢や就業記録等、人物像を把握していたのはフルキャストである。もちろん、紹介先の業務の内容(力作業が多いこと)も把握していた。それにも関わらず、就業内容的に無理がある紹介先を決定して、いざ不採用となったら交通費も給与も1円も補償しない。 法改正の目的を無視して、被雇用者の処遇を悪くしているのは倫理的に問題がないだろうか。
こんな対応を続けられていては、不安定すぎてたまったもんじゃない。これでは斡旋業者が潤うだけで、被雇用者の処遇は悪化する一方である。派遣法改正は、まさに本末転倒の政策と言えよう。
最後に思い切り、主観を言うが、フルキャストには腹が立って仕方がない。
遅刻やら欠勤をしたら、ペナルティだ!とうるさい割には、自分たちが不適切な紹介をしたときは責任を全く被らない。それどころか、こちらに責任があるような言い方をする。どんだけてめえは偉いんだって。
追記
賃金の60%全額が支払われることで解決した
→http://anond.hatelabo.jp/20141205230214 (『続・74歳だがフルキャストの日雇いバイト紹介先で1分も働かしてもらえず帰らされ、給与も交通費も支払ってもらえなかった件→一言でフルキャスト側の対応が変化。賃金の60%を支払ってもらうことになった』)
そういや前に(カレシという人とオツキアイしてた時)「一緒に暮らそうよお♡」という話をしていて
ネットで部屋さがしたり不動産屋まで行ったりしてなんかいろいろ探して
そのすえに「郊外でもいいのではないですか。所沢など家賃が安いですよ」ということを言ったら
「今(自分の実家)より都心寄りに住むのでなければ一緒に暮らすメリットはない」と言われたことについては相当カチンと来ていて
なんていうか
「一緒に暮らしたいから暮らす」んでなく、なんかそこにメリットを提示しなきゃいけないの
って
すげーーーーーーめんどくせーーーーーーーーー!!!!
って思った。
メリットってなんだよそもそも。
そっちにとってはメリットかもしれんがわたしにとってはデメリットだし。
わたしが新宿で職を探し直すってハナシだっけ?あ?そっちは同じ職場のままなのに?おまえが立川来いよ。新宿厨め。
ていうかだったら新宿に実家がある人とつきあうのがいちばんいいんじゃねーか。
そうしろよ。
ていうかまじで、都内に実家がある人が実家を出るメリットなんてひとっっっつもないと思う。
じゃあもうわたしも福島の実家に帰りますねって思う。帰んねーけどさあ。
一緒に暮らすにあたってメリット提示しなきゃねんねーの。めんどくせ。じゃあ一緒に暮らさなくていいわ。
メリット提示しないと一緒に暮らせないのであれば、結婚するメリットもない気がする。
結婚することによって雑事が増えるだけじゃん。苗字変わるとか引っ越しをしなきゃいけないとか。
だったら現状維持がラクじゃん。
紙ペラ一枚の社会システムに踊らされてるだけじゃん。メリットなんかねーじゃん。税金か?扶養控除か?
子どもほしいなら孤児院でも立てればいいし自分の遺伝子の子どもが欲しいならそのへんの女と中出しセックスしまくればいい。責任? しらんがな。
子どもを生むメリットもなんもねーよ。幸福なんて脳の幻想だって。なあ。子どもひとり育てんのに一千万かかるとかいうじゃん。だったら生まねーほうが金銭的なメリットあんじゃん。オンナのほうのカラダに負担かけてまで生む必要ねーじゃん。なあ?まあ男は中出しするだけでいいもんな。肉体的な話。十月十日の間に浮気するもんな。いいご身分だ。去勢したほうがいいよ。
ヒトが一緒に暮らすことのメリットとしては、場所が狭くて済むということであると思う。
日本中のヒトがみんな一人暮らしだったらたぶん土地が足りなくなる。いや計算したことないけど。
なんでヒトは誰かと暮らすんだろうな。生まれついての環境以外で。
ルームシェアとかならまあメリットはわかるよ。家賃折半とかそういうメリット。
ていうかメリットを求めるならべつに好きなヒトと一緒に暮らす意味はないんだな。
おかねもちの家に転がり込むのがいいと思う。メリット。でもそれヒモとかニートってやつ。メリット求めるぶんにはヒモでもニートでもいいんじゃねーかな。自尊心とかがなければ。
メリットとか意味とか考えるならそもそも生きること自体がひどいロスでしかない。
死というゴールに日々近づいていくだけの人生だ。
だったら生まれてすぐ死んでもいいじゃん。そしたら今死んでもいいじゃん。死ね。死なない。
何かを成さねば生きている意味が無いと思う。わたしの話。他の人には適用されない。私は何かを成さなくてはいけない。そうでなくては自分で納得がいかないからそのために努力をする。そこにメリットなんかなんもない。無駄なロスや苦しみがあるばっかりだ。それでもわたしは、わたしがそうしたいからって理由で、そうする。
オンナ側に子どもを三人生ませるメリットはどこにあるんですか。オンナはあなたの楽しみのために子どもを生むのではありません。
そういうアタマでつきあいたくない。好きだからっていう単純な理由でヒトとつきあいたい。
友達づきあいってそういうもんだと思う。友達といるのが楽しいから友達でいる。
与え与えられみたいなことか。
ヒトとの接し方がわからなくなりそうになる。なんかもっとポヤポヤした感じでいいと思う。誰かと一緒にいて楽しいって思うとき、メリットとか別に考えない。
でもオツキアイをするなら、それじゃあダメなんかな。なんかメリットとか提示できないとダメなんかな。そんなことねーよなあ。ないはずだと思うけどな。わかんねーや。手から石油が出てきたらいいのにな。よくねーよ。
でも先月頭に婚活しようかなって考えたけどもう若くもないし仕事も不安定だし家事も得意でないしクソメンヘラみたいなアレだしってなってやめたんだよな。
マジなんでみんな結婚してんだろうな。わかんねー。
なんかもっと軽いアタマで(好きだから結婚するぐらいの単純さで)結婚したい。結婚したいのか? なんかよくわかんない。メリット提示とかしなきゃいけないなら面倒だからいやだ。メリットってなんだよ。プレゼンすればいいのか?パワーポイントでつくればいい?ワードでもいい?
わたくしと結婚することにより御社にはこのようなメリットがあります。御社て。面接か。就活か?
就活もしてないもんな。できないって思ったし。わたしを雇うメリットなんかねーよ。給料泥棒だ。いやお給料分はたらくしわたしは働き者のほうだと思うけどさあ……
お金のこと考えるとほんと死にたくなるな。
親がわたしを育てるのに掛かったコストに見合うようなにんげんにならねばとか、なんか、そういうの考えるとキリない。たとえばわたしを育てるのに一千万掛かったなら少なくとも一千万は稼がなくてはいけないと思う。一千万ってなんだ?でも年百万だとしても十年で稼げるな。でも純利ではない。どういうことだ。家賃って無駄だな。ホームレス生活なら家賃いらないじゃん。やったね。なにがだ。くそ。
メリットを提示できない。死にたい。メリットを提示する必要なんかない。メリットを提示できなければ一緒に住めないのだとしたら都内に住んでいるヒトとは一緒に暮らせないだろう。そしたらどこで一緒に暮らすヒトを探したらいいんだ?配偶者ビザを欲している外国人とかと結婚したらそれはとてもメリットを提示できるのではないか?「配偶者ビザ」ってわかりやすいメリットじゃん。「わたしと結婚することであなたには配偶者ビザが発行されます」「ニホンで稼いだお金を故郷に仕送りできます」「長期間の就労が可能です」。ねえ。
自分より下位のにんげんを探せばたぶんメリットは提示しやすい。家出少女とか拾えばいいんじゃないか。「わたしと一緒に暮らすことで衣食住を保証してあげます」。これたぶんそのうちお金まで騙し取られるやつ。ていうかあれか、ホームレス拾えばいいんじゃん。拾わねーよ。
双方についてのメリットであるならばなんかもう考えるのめんどくさいからどうでもいいです。
シアワセになりたいならドラッグきめればいい。最高にハッピーだ。
ていうか結局はわたしが奉仕体質ではないから成り立たなかっただと思う。
好きな人のためになんでもするよ♡♡♡とかいう性格じゃねーもん。
よろこんでメリット提示します♡♡♡とかじゃないからな。は?メリット?死ねよ。って思う。
滅私精神みたいなものを持っていない。私は私がいちばん大事なんだよ。それでいいじゃねーか。わたしはそうあるべきだ。わたしはそういういきものだ。
気遣ってほしいというのは甘えだけど気遣ってほしい。甘えだな。わかってるわ。
「メリットがないから恋人と一緒に暮らさない」というのを前提に「お金を出してくれるから恋人でない女と一緒に暮らす」という選択肢を選んだ時点でなんかもうお察し。結局そういうことだよ。
金銭的なメリットを提示しなければコイビトと一緒に暮らせないんだとしたら、だったらさあ、お金でヒトを買うのとなにがちがうの。ホストに貢ぐオンナと同じじゃん。
なんでだよ。
なんでコイビトと暮らすだけなのにそんなにハードル高いんだよ。くそが。だったらホストに貢ぐわ。貢がねーけどさあ。ホストに貢ぐくらいだったら音ゲーとかにつぎこむわ。そしたらもうコイビトとかいらないから音ゲーの筐体欲しい。サウンドボルテックスでよろしくお願いします。よくわかんねーけど世間のコイビトとかフーフってそんなやりとりしてんの?メリットってなんだよ。もうやだ。なんだったんだ。がんばってお金貯めようとかそういう次元じゃない。なんかそういうのと根本的に違う。なんなんだ。
あーもういい、いいや、めんどくっせ。なんでこんな終わったことばっか考えてんだ。なんにもなんねーよ。益体なさすぎ。まったくもって建設的でない。
メリットなんか提示できない。同棲のメリットどころかオツキアイのメリットも提示できない。だからやっぱりわたしと別れてよかったんだと思います。精神安定?しらねーよ。それだって幻想だ。ドーパミンでも分泌させればキモチヨくなって不安定な精神も忘れられる。もしくは心療内科に行きましょう。わたしはあなたのお医者さんではありません。
親類が秩父在住ということもあり、秩父は幼少から慣れ親しんだ第二の故郷だったりする。
そして気がついたらアニオタになっていた自分にとって、あの花のヒットは本当に凄い出来事だった。
個人的には皆野寄居バイパスによるアクセス超短縮などよりも嬉しかったというか。
地元民でもないくせに、なんだか誇らしげに感じている。
そんな秩父は、もう空気の匂いからして好きだけど、気になることもいくつかあって、そのうちの一つを書いてみる。
あの花では、ゆきあつとつるこが飯能の進学校に通っているという設定だったけど、あれは今も昔も完全にフィクションらしい。
基本的に秩父地域在住の、中学3年時点で上位10%に入るような優秀な子は、高い運賃と長い通学時間を飲んで、熊谷高校or熊谷女子高校に通うと。
そもそもあの地域は公立校からして数えるほどしか無く(普通科に限っては秩父高校のみだったと思う)、私立なんてあったっけ?という感じ。
これはもうれっきとした埼玉の秩父地方とその他という、地域内教育格差じゃないかと思ってしまう。
ちなみに他の地域の進学校をざっと調べた感じだと、県立に限っても
という具合に、県外の人間でも一度は聞いたことがあるような伝統校が必ずある。
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を高度に形式化して使える人がいるのは、正直こわいです。
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
10月21日(日) ハロウィンデモンストレーション in くにたち (東京都国立市)
http://nonukes-kunitachi.blogspot.jp/
10月21日(日) 原発いらない 亀有 集会&パレード (東京都葛飾区)
http://katusika-action.jimdo.com/
10月21日(日) 反原発派からの被災者支援要求デモVol.,2 (東京都中央区)
http://ameblo.jp/kouteisha/entry-11377452681.html
http://ameblo.jp/tachikawaasuka/entry-11363713046.html
10月27日(土) 原子力政策ー原発ゼロ、核燃料サイクルの撤退を 集会とデモ (日比谷)
http://www.peace-forum.com/gensuikin/katsudou/121027yotei.html
10月28日(日) 原発再稼働反対デモ in 富津 (千葉県富津市)
http://seisakukenkyukai.blog.so-net.ne.jp/2012-09-30
10月28日(日) 右から考える脱原発集会&デモin海老名 (神奈川県海老名市)
https://twitter.com/harada_hirofumi/statuses/253852956431110144
一日目(http://anond.hatelabo.jp/20100517171401)、二日目(http://anond.hatelabo.jp/20100518161547)と連日更新したが、正直書くべきものはあまりなかったのが実情である。
二年も経つと変化がある。
これは近隣にお住まいの方はご存じの方も多いと思うが、小手指の西友は近隣で一番大きい。かつ改装したことで中もキレイになった。改装するだけ売上もいいのだろう。所沢駅や新所沢駅隣の西友はボロくて店も小さい。近隣で唯一まともに家電を扱っているのが小手指店である。家電量販店には品数で見劣りするものの、安いものはやはり安い。どうしても高いなら期間中のチラシを持ってくれば安くなるそうだ。私はそこまでする気にはならないが。
ちなみに、ここの西友は改装前は「B館」と呼ばれる別棟があり、そちらも西友の扱いだったが、改装を機に管理会社が変わったようだ。そこにあった無印良品は現在、店の3階に移っている。さすが元西武同士。現在B館はハナプラとかいう建物に変わっており、アウトレットショップとTSUTAYAと美容室が増えた。ただし、ここのTSUTAYAは書籍の品揃えが悪すぎて、お話にならない。レンタルがずっと100円になったという価値はある。
次に、駅前のでかいマンション、すなわち「小手指タワーズ」がそろそろ完成しそうである。
一日目の記事で、なか卯とオリジン弁当がかわいそうだということを書いたが、あすこは潰れた。というか、立退きに応じたのだろう。小手指駅前にペデストリアンデッキができるということで、ちょうどそこの下に当たる店はすべて立ち退きにあった。このデッキが開通することで、マンションと駅が直通する。このマンションの一回部分には商業施設も入るということで、何が入るか楽しみであるが、ここに店が入ると駅反対側の商店街は大打撃であろうということだけは指摘しておきたい。
ここ、小手指は西武池袋線であり、今後の東横線直通で少なからず恩恵を受ける地域でもある(http://www.nikkei.com/life/gourmet/article/g=96958A9C93819499E3EAE2E38B8DE3EAE2E6E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;p=9694E0E4E3E0E0E2E2EBE1E3E3E7)
前略、ニート。
暇なので散歩した。
ルートは、所沢~小平(西武新宿線沿いをあっち行ったりこっち行ったり)
途中から暑くて汗がすごかった。
水分補給しつつ、散歩。
その途中、久米川駅近くのコンビニでチキン買って食ってたんだけど、
知らん人に「すいません」って話しかけられた。
よく日焼けした身体で、僕よりちょっと背が高い。
交通量も多くあまり聞き取れなかったので、何度か聞き返したりした結果、
ということらしい。
最初スキを見てひったくるつもりなのかな、と警戒してみたものの、チキン食べ終わってないので
「ちょっと食べ終わるまで待っててね」
というと素直に待ったので、その線はないだろうと判断。
事情はあまり聞かずに、あるだけの小銭をあげた。額にして105円。僕もお金がない。というか、おろしてない。
コンビニで買い物しそうだったから「近くのスーパーならおにぎり買ってお釣り来るからそっちにしなさい」
と言うと、彼なりの笑顔で応えてくれた。十分だ。
いつか僕もああなってしまうのか、という思いがあったことは否定しない。
霊園にはバッタが多い。踏まないように進む。
もう何年も手入れされてないだろう墓が多い。
「御名刺受」というのが付いた墓をたくさん見た。宗派の違いだろうか、私の先祖の墓、周辺では見たことがない。
いつもよりたくさん噛んで、舌で、歯で咀嚼して、味わって食べる。
そして電車に乗って家に帰ってきたのが今。3時間半にわたる長い散歩終了。
まとめ。
なぜ彼はたくさんいる人の中から僕を選んだのだろう。わからない。
http://anond.hatelabo.jp/20100622162551
http://anond.hatelabo.jp/20100622162815
http://anond.hatelabo.jp/20100622165141
役所広司さんはやってくれない(所沢)し、ついったーやってないから、自分で駆除しますー
以上の状況を開始しまーす。
小手指のモスバーガーで昼食を摂っていると、男一人、女二人の大学生と思しきグループが、談笑しながら通りを歩いている。
これから彼らはアパートの一室で3Pをする。そう直感が告げた。
直感でなくても、最近の高校生はセックスを覚えてから大学にくるので、目的は違っても手段としてカラダを求めることはあるだろう。
不況のさなかに危機感が無いと思われるかもしれないが、あくまでも彼らは、将来を嘱望されたエリート候補である。バッファはそこらの大学生とは比べものにならないだろう。
新学期も始まってまだひと月である。
しかし、彼らの風貌はよくいるリア充そのものだ。髪を染め、適度に着こなし、適度に肌の手入れをする様はまさしく現代の若者その者であると言えよう。
所沢は早稲田大学の巣である。正確に言うと所沢には日芸や他の専門学校もあるのですべてがそうだとは言わないが、その環境は早稲田大学生に特化したものである。
私が昼食を摂っているモスバーガーこそ社長は日大だが、周りを見わたせば西友、西武鉄道、西武タクシー、西武球場と西武グループの管轄内に有り。
銀行も三井住友銀行が支店を出していて、みずほ銀行も出張所こそ出しているが、支店ではない。MUFJに至ってはATMである。なんという待遇の違い。
出している店の数々も早稲田生をターゲットにしている。西友に似つかわしくないスタバ。みずほとマクドナルド、ボボラマーマが西友と同じ敷地内にある。
通りの向かいにミスド、和民、早稲アカなど、「ポスト早稲田生ならここを使え」と言わんばかりのメンツである。
ちなみに小手指駅は始発で鉄道が出る場所でもあり、交通の便はよい。
駅前のバスターミナルには、朝早稲田大学生と見える大学生が、エンジ色で早稲田大学の装飾が施された送迎バスを目当てに、開店前のラーメン屋のごとく列をなしている。ざっと20人はいるだろう。もっとかもしれない。これは大学のイメージとしてどうなのだろう、と個人的には思っているが、まあ彼らはそれで満足しているのだから、何も言うまい。
そんな小手指にも、将来を期待されてか、大手企業が手をとり、「小手指タワーズ」なるものを建設することが既に決定している。先のマクドナルドの向かい、MUFJのATMの隣の建物は、タワーズの外観ショールームを常設展示しており(水曜定休)、小手指で骨を埋めようという人たちに強烈なイムパクトを与えること請け合いである。
しかし、駅前に10階以上のビルが建つと、駅がひどくしょぼく見えるだろう。おそらく、そのタワーズ完成にあわせて駅舎も建て替えるにちがいない。そうでなければ駅前のなか卯とオリジン弁当がかわいそうだ。
ttp://voiceplus-php.jp/archive/detail.jsp?id=105
ホンのしばらく大学で教鞭をとった。1時限目の授業もあって久しぶりに朝早い時間帯に車を走らせる日々を過ごした。
それで気づくことがあった。よその、まあまともと思える国々と日本の朝の風景がまったく違っていた。
何が違うかというと、よその国ではこの時間帯に必ずスクールバスを見受ける。
学校があれば、その正門前にはスクールバスのほかに子供を送ってくる自家用車がひしめいている。
日本ではそんなスクールバスはいっさい見かけない。子供たちは走る車をかわしながら歩道の区別もない道を歩んでいる。
スクールバスの代わりに日本でしか見かけない光景がある。老人介護の車椅子マークをつけた小型バスがやたら走り回る。
日本ではなぜ子供より老人を大切にするのか。答えは共産党か公明党に聞けばいい。
老人には未来などない。しかしいまは投票権をもっている。それがぼけていても1票に変わりはない。
かくて介護だとか老人健保だとか福祉政策がすいすい立案、成立され、国民の税金で老人どもの面倒を見る。
ただ条件が付く。これだけよくしてもらえるのはわが党のおかげ。介護もする、医療費も安くした。投票所には車で連れていってやるから、こういう名前を書き込め。分かったね。
所沢で運転しながら犬の面倒を見ていたおばさんが、集団下校している小学生の列に突っ込んで8歳の女の子を死なせた。
輪禍だけではない。奈良では下校途中の幼女が変質者に連れ去られ、殺された。栃木県今市市でも同じ悲劇が起きたが、どこもスクールバスを走らせようとはしない。票にならないからだ。