はてなキーワード: 個人商店とは
業界内での慣習ってあるよな。
法令違反ではあるんだけどまかり通っちゃってるようなこと。
もちろん、誰かに迷惑がかかるようなことはマズイけど、そういうのではないこと。
それをさ、まぁ特に罪の意識もなく続けてしまっていてさ、ある時突然親会社が変わって、それは違法だから処罰するって言われても…
慣例的にやっちゃってたことなんだからさ、今後はやめましょうね、っていうアナウンスがあって、それでもやってるなら処罰も仕方がないんだけどさ。
会社側はアナウンスしていたって言うんだろうけど、していないのも同然な程度だった。
まぁ、その程度問題ってのがあるから、そりゃヤバイのに手を出してたヤツはそりゃダメですよ。親会社の変更関係なくダメなもんはダメだ。
個人商店では普通にやっているようなことなのに、コンプライアンスの遵守だとか言ってギチギチに締め上げるのはどうなんだろう。
親会社が変わる前の方が良かったなぁ…
なんでもかんでも、ひたすらに正しく、白か黒かでバッファーが全くないのは性に合わないんだよな。
昨日の夜9時ごろ、にわかに「そうだ、天下一品に行こう」という気持ちが湧いてきました。
思い立ったが吉日ですから、ぼくは天下一品に向かう準備をはじめました。
なにせ最寄りの天一まで車で1時間半という僻地に住んでいるので、なんの対策もなしに
ふらーっとラーメン屋に寄るみたいなことをすると後悔すること請け合いなわけです。
具体的な準備の内容としては音楽を用意しました。それだけです。
ぼくは未だにニコニコ動画にかじりついている時代遅れマンですので
ボーカロイドとか演奏してみた動画から音声をぶっこ抜いていたわけです。
動画ファイルの音声コーデックはaacでした。ぼくのスマホではちゃんと再生できます。
というわけで、ちょっと前に買った64GBのmicroSDに音楽どもをぶちこむわけなんですが、
スマホにUSBケーブルをつないでも何かぱそこんがスマホを認知してくれなかったので、
このパソコンはなんてひどいパソコンなんだと憤りながら、スマホからmicroSDを引き抜き、
足の踏み場のない部屋の中からmicroSDからSDへの変換アダプタを探し出し、やっとのことで
完了したのは夜の10時近くになっていました。かれこれ1時間近く格闘していたことになります。
さてようやく天下一品に向けて車を走らせるターンになりました。
わたしの車は家族のおさがりですが総走行距離はせいぜい3万km程度ですのでよい車です。
それにしても深夜の休日の田舎道というのはおそろしいものです。
えらいまっすぐでだだっぴろい道路です。人も車もまったくおらんのです。
音楽に乗りに乗っていることもあり、いえ具体的な速度を書くとアレなことになりますので書きませんが、
気づいたらスピードメーターがえらいことになっているというわけです。
これではいかんと思い、スピードメーターをちらちらチェックしながら慎重に走行をしました。
しかしこのスピードメーターちら見もあまりよくない対処法であるように思われます。
田舎道特有の出来事として、深夜の他に誰もいない真っ暗な道路のわきを、おじいちゃんおばあちゃんがゆっくりと歩いている
なんてこともたまーにあるわけですが、そんなチラ見をしていては、いくら制限速度で走行していたとしても、
彼らに気づけないということがありうるのです。
よってこれに対処する方法としてよりよい解決策であると思われるのは、
体内に備わっているスピードメーターの精度を高めることです。
ぼくのような素人が深夜の田舎道を走行するのは大変危険ですのでやめたほうがいいです。
しかしそのときのぼくはどうしても天一のこってりを食いたいという気分がありましたので走行を続行しました。
ところでぼくはVOICEROIDが好きなんですけれども、走行している最中は、いわゆる車載動画のような感じで脳内実況していました。
暗い田舎道を走りながらえらいゆるい雑談をだらだらとしているような動画がぼくの脳内で再生されていました。
なかなか楽しかったです。深夜のドライブの醍醐味のひとつであると言っても過言ではありません。
妄想が醍醐味というのはどうなんだというツッコミをされるとまあたしかにそれはそうですよねとなります。
音楽聴きながら脳内車載動画を再生しつつとろとろ運転すること1時間半くらいでしたでしょうか、
やっとのことで天下一品につきました。
侵入には右折が必須なのが面倒なので、以前はわざわざ回り込んで左折進入することもあったのですが、
深夜で交通量が比較的少なかったことも影響していたかもしれません。
ここの駐車場は住宅街の中にありまして、排ガスを家にぶっかけないためにも、前進駐車でお願いします、
みたいな看板がありましたので、看板に従いまして前進駐車をしました。
しかしぼくは前進駐車がえらい苦手なので正直いやだなあという気分もありました。
ぼくはバックが下手くそなんです。
前進駐車してバックで発進するのと、バック駐車して前進で発進するのとを比べると、
個人的には後者の方がめちゃくちゃやりやすいという気持ちがあります。
しかしぼくは理性を働かせて前進駐車をしました。これはとてもえらいので褒めてください。
あとで駐車場から出るときはえらいゆっくりでバックしながら慎重に国道に戻りました。
それよりもラーメンのことの方が気にかかってあまり集中できなかったので、
なるほど今のわたしはまさしく頽落した実存ちんぽであることだなあと思いました。
そうこうしているうちにラーメンが届いてきまして、食いました。おいしかったです。
やや麺が粉っぽい感じがしないでもないでしたがスープがおいしかったのでどうでもいいです。
ぼくは家系とかも大好きなんですけれども、あれがすばらしいのは
ラーメンといっしょに米を食うとめちゃうちゃうまいところです。
こってりのスープがちょっと残ってしまったのでなおさら米を頼んでおけばよかったと後悔しながら飲み干しました。
で食い終わって会計をすませてバック発進しながら天下一品を後にしました。
帰りにローソンによってオレンジジュースとおにぎりを買いました。
なんでおにぎりを買ったのかよくわかりません。米への執着が残っていたのかもしれません。
ここのローソンはえらいやる気のないローソンだという印象が残っています。
なんか照明が暗かったのがあれだったのかもしれません。
そういえば店長のエントリにも照明の効果について力説してたやつがあった気がします。
そんでちょっと休憩したあとにまた車を走らせおうちに帰りました。
もう2時くらいの感覚でいました。なんだか得した気分になりました。
しかし本当に天下一品に行っただけなのでたぶんあんまり得していないです。
父は貧しい個人商店の長男で、奨学金を貰いながら大学に通った。やがてお見合い結婚をし、母との間に私と妹が生まれた。妹が生まれる直前に、土地付きの家を買った。家族旅行にもよく連れて行ってくれた。私も妹も、名の通った私立大学を出ている。
専業主婦の母と娘二人を養ってくれた、世間的には平凡だが立派な父。
理屈ではそんな風に考えられるのに、私は父を愛することが出来ない。30歳になった今でもだ。
子供の頃、我が家には大きなピアノがあった。私がピアノ教室に通い始めてすぐ、音楽の心得のある父が付きっきりで練習を見てくれたことがある。幼稚園児だった私にとっては、トラウマと言ってもいいような記憶である。
私がうまく弾けないでいると、父は厳しく叱り付けた。正しい運指を見せて、この通りにやれ、と言う。殴られたわけではないが、涙が出る程度には恐ろしい口調だった。両手が塞がっているので、涙も鼻水も垂れるがまま、いつ間違ってしまうかと怯えながらピアノを弾いた。見せてもらったばかりのお手本の真似も出来ない自分は、きっと出来の悪い子供なのだと思った。
その後も父にはしばしば、「同じところで何度も間違うな」と注意されたことを覚えている。間違えると叱られる。私にとってのピアノとはそういうもので、演奏を楽しんだり、褒められた記憶はない。今でも鍵盤を前にすると、誰かに監視されているような気がする。弾くことは、もう一生ないと思う。
子供にも音楽をやらせたい、最初に正しい型を叩き込むのが肝心。それは父なりの愛情表現だったのだろう。ピアノは高価な買い物だったはずだし、月々の月謝も安くはなかったはずだ。何より、わざわざ時間を割いてくれた。練習の様子も気に掛けてくれてはいた。
家族で食卓を囲んでいても、父は原則として、人の話を聞いていない。「お父さんはどう思う?」と水を向けても、大抵は無反応である。
テレビを見ながらの大人同士の雑談なら、それでもいいかと思えるが、毎日の出来事を話したい盛りの子供には辛いものがあった。進路や学費といった相談事まで無視されるのには辟易した。仕方なく何度も話し掛けたり、大きめの声で注意を惹くと、ものすごく不機嫌になる。金は出してやるから好きにしろ、とだけ言って背を向けてしまうので、どのみち会話は成立しない。
そのくせ父の方は突然ウンチクを語り出したり、つまらぬオヤジギャグを飛ばし、望んだような反応が得られないと機嫌を損ねるのだ。
そんな壊滅的な父の対話能力は、酒が入ると完全に消滅する。自分語りやお説教を垂れ流すのはともかく、好意的な反応を返さないと拗ねたり怒鳴ったりするのが厄介である。
体のためにも酒量は控えて欲しいと、家族がどれだけ注意したところで、ネットショッピングで無尽蔵に取り寄せられてしまう。それでも家計に響かない程度に稼いでいるのは父自身なので、経済的な切り口から禁酒を勧めることも難しい。健康診断は既に要注意項目が複数あるのだが、どれも「危険」の一歩手前であるため、「これくらいは大丈夫ってことだろ」と言い張って毎日のように飲む。
酔った時の父について、私は子供の頃、まるで人語の通じない別の生き物みたいだと思っていた。大人になり自分自身が酒を嗜むようになった今でも、その印象は変わらない。お酒は楽しい時間を過ごすためのもので、酔って記憶も正体もなくすのでは本末転倒だと思う。
私は思春期を迎えると共に、夕食を食べ終えた後は子供部屋に引きこもるようになった。妹は部活動やアルバイトで、なかなか帰って来なくなった。
父の帰りが遅かったある日、嫌味を言われたことがある。
「俺の金で生活出来てるくせに、女同士でだけ楽しそうにしやがって」
何も言えなかった。父がいない日は妹も早く帰ってくるし、私だって居間で宿題をやった。
父はたぶん、精神的には幼児のまま、体と職能だけが立派になってしまった人だ。父方の親戚や祖父母の家を見れば、経済的にも精神的にも恵まれない育ちだろうと想像はつく。発達障害の特徴もある。それでも一家の大黒柱として、アルコール依存症気味になりながらも私たちを育ててくれた。
立派だね、頑張ったんだね、育ててくれてありがとう。
きっと、そう言えるのがいい娘であり、いい大人だ。
分かっていても、気持ちが追い付かない。虐待を受けたわけでもないのに、愛情を注がれてきたはずなのに、肉親を愛せない自分に失望する。
食卓に出された料理を、自分が欲しい分だけ取ってしまう父。一人二つずつだからね、と食べ始める時に母が釘を刺したにもかかわらず、無視して三つも四つも食べる。それが久しぶりに帰省して来た娘の好物であってもお構いなしだ。酒が入ると、もう手が付けられない。
だから小皿に分けてって、いつも言ってるのに。ごめん、大丈夫だと思ったんだけど。母とは目と目でそんな会話をして、肩をすくめた。
父は視野の狭い、ただの子供だ。悪気はないんだ。ならば歩み寄れる、愛せるようになるはずだ。
そう自分に言い聞かせようにも、欲のままに飲み食いする還暦過ぎの酔っ払いは視覚的インパクトがあり過ぎる。卑しい、醜悪だ、という感情を打ち消すことが出来ない。自分の血肉の半分がこの男から受け継いだものだと思うと、身の毛がよだつ。どうして母は、こんな男と一緒に暮らして正気を保っていられるのだろう。
私には、父を愛することが出来ない。
こんな経験ないだろうか。店員さんに、ちょっと気まずい世間話をしてしまう人。
気まずい世間話、というのは説明が難しいんだけど、例えば商品をオススメされたときに「結構です」とか「またの機会に」という事ができず
「今財布に3000円しか持ってないのよ、おほほ。ヘルニアで今仕事休んでて、いつ復職になるかわからんけど、また復職したら買いますわ、おほほ」みたいな風に言ってしまう人
関西の田舎なこともあり、地元の昔なじみの個人商店とかはこういうノリでいいんだけど、初対面の、チェーン店のバイトとして働いてる店員にもこういう感じで接してしまう
私はそれを横で聞くたびに顔から火が出そうになる
ああいうのはやめておいたほうがいいよ、と言っても「気取ったところでお前がブスなのは変わらんやん」という斜め上の返答が返ってくる
じゃあもう距離とるしかない、となって私たち兄妹が親から距離を取るようになると拗ねる
昔の人って感じなんだろうな……
でいつも悩む。
基本的に大企業や顧問弁護士が居るようなところは、結論から書いて、あいまいな表現を避けて、端的な文章を目指す。その結果強い口調になったとしてもしゃあないと割り切る。相手も分かっているから反発は無い。冷静な回答・反論が来るだけ。
中小企業や個人商店が相手の場合、あいまいにあいまいに書く。上のような文書を送るとまず間違いなく狼狽して怒りの電話がかかってくることになるから。普段文書のやり取りをしないから、慣れていないのもあって仕方ないのだろう。
若手社長のベンチャーが相手の場合はホントに分からない。高学歴で留学経験もあり、大企業との取引実績がある社長が、意外と上の中小企業みたいなパターンになったりする。他方、大企業の勤務経験があったりすると、あいまいな文書を送るとこちらの能力を疑われたりするので、判断に困る。
隣の田無駅はそれなりに大きくて色々な店があり、東伏見は学生が多いので飲み屋とかが多くてまあまあ賑わっている。
その間の西武柳沢は、数件のコンビニを除けば駅の周りにチェーン系の店がほとんどなく、一見何もない、寂しい街だ。
ただ、その分、古くからある個人商店が生き残っているところが多い。
南口のサンドイッチ屋「チャオ」、味のある珈琲屋「ピーベリー」、シベリアが風立ちぬのモデルになった洋菓子屋「サンローザ」、北口は老舗の洋食屋「じれいと」など。
例えば駄菓子屋の「ヤギサワベース」、珈琲屋「百豆」と洋菓子屋「ビスケッタ」の小さくて可愛い2件の並び、クラフトビールの飲める「ヤギサワバル」、ラーメン屋の「野口」も人気店だ。
線路沿いに眺めの良い大きな公園もできたので、子供達の声を聞きながら稲荷神社まで散歩するのも楽しい。
静かな街ではあるのだが、降り立つたびにいろんな発見があって、すごく好きな街だ。
都内にこういう感じの、全然話題に上らない、一見めちゃくちゃ地味なんだけど、チェーン店があまりなくてよく見ると古い店と新しい店も混在してるって感じの街が他にあれば行ってみたい。
知っている増田がいたら教えてほしい。
八億円の値引きと言うが、近畿財務局が忖度した考えたらむしろ不自然な気がする。
産廃の処理には金がかかる。不法投棄の処理には様々な問題がある。
八億円はもしかして、適正な値段だったのではないだろうか?
いやむしろ安いぐらいだったのではなかろうか。
管理不行き届きで責任問題だ。撤去には莫大な費用、さらに水質汚染。地下水脈に繋がっていれば取り返しはつかない。
問題は山積だ。臭いものには蓋をしろと、担当者が埋めてしまってもおかしくない。
しれっと売ってしまえ。でもしっかりした法人は駄目だ。必ず調べるはずだ。
個人商店に毛が生えた程度の幼稚園を騙せ。小学校を作る?なら急がせろ。
ゴミがバレた。しかし籠池はバカだ。金を握らせ、瑕疵担保外させて擦り付けてやれ。向こうも金が必要だし、どうせ八億円でゴミ処理はしないだろう。たぶん運動場の下に何が埋ってても、大きな問題は起きない。それどころか開校までいけば発覚する事もなくなる。
そんな事が起きていたのではないだろうか?
セブン-イレブンの加盟店で、シフトに穴を開けたパートタイム雇用従業員(俗称「アルバイト」)に制裁として減給していたということで、各所で報道されている。
当然だが、シフトを埋めるのは雇用主の責任だ。それなのになんでこんな気の狂ったことが行われたのか。そこに問題の本質がある。
「コンビニエンスストア」というもののほとんどはフランチャイズビジネスで、店を経営しているのは中小企業や個人事業主が多い。シフトに穴が開いて埋められなければ、オーナーとかその家族とかが入ったりする。もしも反対にオーナーがそれなりの会社だったとしても、正規雇用の従業員を応援に入らせたら本来業務に穴が開く。
コンビニに家族経営が多いのは、売上が少なかったら人件費を削れるからだ。売上が多ければ非正規雇用(俗称「アルバイト」、差別語「パート」)を増やせるとして、そういう「入れ食い」の状況は限られる。個人事業主やその家族は大概、雇用契約ではなくてあってもせいぜい委任契約だから、人件費を削れるし、労基法すらまるごと適用されるわけではない。
時給は固定費であるから、売上が少なくとも、掛かってしまう。売上比例で人件費が掛かる、代理店ビジネスとか請負契約とかフランチャイズビジネス(コンビニ本部(笑))とは異なる。「成果主義」(人件費を減らすための理屈)にあてはまらない。
儲かっている店ならば、シフトに穴があかないくらい多めに従業員を用意しもするかもしれない。そんな店は多くはない。また、物凄い不況と貧困で、少しでも多く入らせてくれと泣く従業員が少なくないので、オーナーとしては用意する従業員数を減らして一人あたりたくさん入れるようにする「温情」を働かせている店もあるかもしれない。
それで、穴が空くリスクが潜在的に高まる。穴が空いて、オーナーとか家族ぐるみで穴埋めをしてタダ働きとか予定が狂ったとかなると、その分差し引きたいという欲望というかわがままというか怨念というか、そういう主観的発想がでてきもするかもしれないわけである。
コンビニには、街の、寂れてどうしようもないような個人商店を再生したり、地域住人の需要に応えたり、そういった貢献をしていた側面もある。なんで自分とこの店が売れないかもわからない人とか、金融的信用がないから改装資金すら借りられないとか、借りても売れる保障がないからやれないという人とかがいる。そこにコンビニ本部があるお陰でオーナーや従業員の生計が助かっているという側面もある。(ただそれは過去の話で、いまはむしろオーナー募集してオーナーにリスクを付け替えてポンポン新店建てて、それでコンビニ本部が経営を成り立たせている面が大きい。上場すると、増収増益を強要され、店舗数拡大を期待される。)
しかし他方で、物凄い不況が何十年も続く中で、売価を削り粗利を削り、人件費を削り、賃金や雇用を削り、といったことが全国的に一般的になった。経済社会の退潮がコンビニビジネスを活況にしたのだし、コンビニビジネスというのは、物凄い不況と貧困の結果の一例にすぎない。
問題の本質は、コンビニのビジネスモデルにあるし、そしてそうしたビジネスモデルのときに末端にしわ寄せがいくような政治経済と、こうした階級化(ひとことでいえばイジメ、差別)を容認し推進しすらする日本人と社会の文化・慣習(江戸時代に確立されたもの)にある。
2040年、amazonが小売を壊滅させるかと思ったけど、意外と個人商店はamazonの見方だ。
マーケットプレイスの売り上げがリアル店舗の売り上げを上回ってるからだ。
街中でもamazonコイン、amazonポイントで買物出来て、日本円を使うことより多いくらいだが、amazonは通貨発行じゃないと言い切ってる。
amazonコイン、ポイントでの売り上げはamazonが日本円に替えて支払われる。
法人税を払わないで済んでるのは、その見返りなんじゃないかって思ったりする。
ただの噂なのかもしれないがみんなそれを信じてるので、誰も脱税しない。
わが町の商店街には、やたら小さい規模のスーパーのような店がある。
見る限り、どこにでもあるような個人商店だ。
しかし、あの店はなぜ今までやってこれたのだろうと不思議に思う。
なんせ、見えるところに別の大きなスーパーがある。横断歩道を2つ渡ればすぐそこだ。
宅配サービスでもやっているのかもしれないが、それにしては新聞の折り込みチラシも出していない。
卸で稼ごうにも、食堂など数えるほどしかないようなクソ田舎である。
数多くの店が現れては消えていった中で、なぜ今まで生き残れたのだろう。
実は店主がこの町の実力者で、ここで買い物するしかない人でもいるのだろうか?
それともあの店には、スーパーにはない魅力でもあるというのだろうか?
物販の個人商店やってるんです。
ほとんどいいお客さまで感謝しきりなんですが、たまにちょっと寂しいなという方がいらっしゃいます。
入店されて、無言でお店を見て回って、無言で出ていく。
別に何かのルールは違反していないので、悪くはないんですが、なんか気持ちに引っかかるんですね。
コンビニやスーパーや商業施設のテナントとかならなんとなく分かるんですが、
街中にあって扉を開けて入ってこられる、あまり大きくもない店内なので、
いらっしゃいませとか、迷ってるようなら、それに則した短いお声かけなどするわけですが、
まったく無言、無視で、顔をそらしている。
ゆっくり見たい人もいるのだし、自分も洋服屋の積極接客に辟易したことがあるので、
そういう方は放置接客がいいのだろうと思い、そうするわけですが、
何も買わず店を出るときに、ちらりと一瞥もなく、だいたい不機嫌そうな顔で無言で出ていかれる。
店への、そういう形でのダメ出しなのかもしれませんので、こちらも反省もしないといけないのですが。
そういう方が、後につながるかもしれないとも思うのだけど、覚えている限りで、その類の人がその後、来店されたことはない。
若い人は意外と礼儀正しい。若いとこういう店に慣れてないだろうし、しょうがないな、という気もするので気にならない。
就職してもっと大人になったらまた来てね、という気持ちになります。
外国人も大概礼儀正しい。出るとき目を見てニッコリしたりして。
これは別に悪いことじゃないのだけど、自分だったら「見るだけだけどいいですか」とか「お店見せてください」とか、
出るときには「どうも」や目礼くらいのコミュニケーションはとる。
実際そういうお客さまもいます。もうどんどん見てってくださいという気になるし、そう言う。
大人だなと思うし、買い物されなくても、良い人柄に触れたようでなんだかありがたい。
子連れの方がそういう方だと、お子さんに良い影響があるのではと思えます。
ただなんとなく、ひと言、ひと素振りあるだけで、お互い円滑で気分がいい、と思うのです。
仏頂面で出ていくというのも心理的な防御作用のような気がしますが、お客様の方もそういう小さな緊張を感じる事もなく済みますし。
店側からお客様へ何か求めるというのは、批判も多いかもしれませんが、こういう考えは良くないでしょうか。
追記---------------------------------
・私は日本人です。書いてある通り、普通にコミュニケーションできるお客様の方が圧倒的に多いです。
ですから、筆者は日本の習慣を知らないようだから外国人だろう、日本にはこのような習慣がない、と言い切るのはやや飛躍と曲解かと思います。
こんな記事を読んだ
http://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/miwa04
初めに述べておくけど私は発達障害者だ。
発達障害ならではのどうしようもなさ、うまくいかないしんどさをかれこれ長い事味わってきた。
そうこうするうちに、なんとなく発達障害の人についてはピンときて、この人は自分と同類ではないのか?と鼻が効くようになった。
なったところで何も役に立ちはしないけれども。
発達障害と診断される人は年々増加の一途を辿っている。
というのも発達障害の診断基準がはっきりしてきたのはここ20年くらいのことで、それ以前に子供だった人はかりにその特性があったとしても発達障害と認識されなかったからだ。
そういう、ある程度年のいった発達障害の人はどのように生計を立てていたのか。
おそらくだが、小規模の小さな商いをひっそりとやっていたのではないか
小規模の自営業者であれば、調子が悪いときは商売を休むことも可能だし叱責してくる上司もいない。
ところで1990年には全国の自営業者は1395万人だったそうだ。これが2011年になると541万人へと減少する。(総務省調査)
この中の何割かは高齢化によるものであったと考えられるが、自営業者をとりまく経済環境が厳しいものへと変化したことを裏付けている。
資本力のとぼしい小規模の自営業者は不景気とか消費税だとかそういった変化のあおりに耐えられないのだ。
もちろん店主自身の高齢化などもある。地方経済の衰退にも原因はあるだろう。いずれにしろ減っている。
時代が進み、人々はより快適なオートメーション化された安価なサービスへと移行していった。
低級国民として働く人たちは、マニュアルの下で歯車になることを強いられる
悲しいかな発達障害の人は優秀な歯車になることができない。能力があまりにも凸凹すぎるからだ。
自営業者の人が1400万人近く存在したのは景気がよかったからだ。まわっているお金があったからだ。
少し年配の人なら「どこにも雇ってもらえなかったしラーメン屋でもやるか」という話はどこにでも転がっていたんだけど、
このところラーメンもどこもかしこもレベルが上がってとんでもなく敷居が高い。
人々は価格以上のサービスを当たり前と思い、提供されるものは質が高くなければ消費者は不満を言う。
安価で質の安定したサービスを提供するためには、ある程度の規模のシステムを構築する必要があり、それを個人商店に求めたら破綻してしまう。
そしてその安定したサービスのため必要とされるシステムには、凸凹の歯車は順応できないのだ。
こうして高齢フリーターの数や非正規労働者の数は増え、さらにsnepと呼ばれる呼び方が出現した。
やはりこういった弱者と呼ばれる層へ否応無く吸収されていったのだろうと推測する。
さて最初のところへ戻ろう。
ここの店主はおそらくなにがしか発達障害を持っているだろうなと個人的には思う。
自分も発達障害なのでわかるのだが、おもしろいことにその凸凹の部分を強烈に気に入ってくれる人が存在する。
発達障害に不具合を見いださず、いびつさを愛してくれる人が実際に存在するのだ。
地方都市にぽつぽつ存在してきた「やる気のない店主がいる汚い店」というのは、肩に力が入らず来るものをホッとさせるところがあって
私はこのような店が日本のあちこちに残っていて欲しいと思う。「そんなに頑張らなくていいよ」という無言のメッセージであるからだ。
美味卯(大阪日本橋にある)ってお店にたまにいってるんだけど、先日行ったら店内にプロジェクターが設置されてアイドルのライブ映像が映されてた。
前に行った時にはなかったんですごくびっくりした。
なんでこんなの店内で流してんの?って思ったらメンバーが大阪に来た時によく食べに行くらしい。
昼食には遅い時間だったので自分ともう一人しかいなかったけど、その客がアンジュルムのファンのようだった。
わざわざ東京から来たとか言ってたし、ファンの間で聖地化しているようだ。
店内にファン向けのノートも置いていて帰り際にファンの方が何か書いてた。
個人商店の生き残り戦略だとはわかってるけど、微妙に居づらい空気を感じた。
店側としても年に一、二度しか行かない客より、ファンが頻繁に通ってくれたり、ライブのたびに来店してくれるほうがうれしいんだろうけど、次から行きづらいなぁ……