はてなキーワード: パチンコとは
まず大前提として僕はきわめて子供が好きだ。あやしかたなんかうまいほうではないけれども彼ら彼女らはとても愛らしい
ただ僕が子供を好きであることと子供自身が持つ人生は全くの別だ。100%の主観で他人を見て関与するのはやめておいたほうがいい
それがたとえ愛だとしても
現代は歴史上で最も人間が人間らしく生きることが難しい時代だと感じている
「なにをバカな、昔は宗教戦争があってコロッセオで人を虎に食わせて結核にかかったら必ず死ぬ時代だったんだぞ。今は飢えて死ぬことはどんなに貧乏でもありえなくどこにでも行ける交通手段があって子供に武器なんか持たせなくていいんだぞ」
とおそらく人は言う
けれど闘争も弱肉強食も宗教という信念に準じた戦争も尊皇攘夷も日本赤軍もアーリア人の強烈なナルチシズムもどれも人が自然に生きる中で生じた出来事であり、人としての感情が素直に発露した結果である。ここで書きたいのはそれが良い悪いの話ではない
現代は暴力や権力、自意識、怒りなど人が最もエネルギーを発揮する感情は全てそれがどんなに小さいものでも即座にたたきつぶしにくる
かわりに悲しみや平和ばかりが讃えられる。何か犯罪が起きた時に被害者遺族の悲しみには同情しても加害者の怒りにはほぼ誰も同情しない。特に女性は100%と言って良いだろう、聞いてみればいい
生まれた時からほぼ全員が道徳や正義、常識にそぐわない怒りというものをこれでもかと封じ込められてきた
しかしまともに生きてきた人間なら怒りほど行動力や思考力や集中力を高ぶらせるものはないと知っているはずだ
けれど「私」に蓋をすれば同時に悲しみや喜びにもふたをする。エーリッヒ・フロムはそれを抑うつの正体だと言った
これは何も先人達の闘争によって獲得された現代の平和を否定する話ではない。ただ人が有機体として生きるとは何かという話である
東京を歩いているとたまにどういう気持ちでいればいいのかわからなくなる時がある。人はその時々の環境によって見せる顔も役割も気持ちも違う
意識せずとも経験や自然な感情の流れでその場その場に適応していく
悲しい時には泣けばいいし笑いたい時には笑えばいい。そうやってその場の温度がつくられる
けれどどういう気持ちでいればいいのかよくわからなくなる時がある
貼り付けた笑顔で接客するファミリーレストラン
二面性を否定するほど子供ではないがそれでも憂慮も沈黙も罪悪感も置き去りにしているように見える無機的に見える事物が多い
愛よりも金や資本、有機体よりも無機質な物の趨勢がかなり強くなっているように感じる
I have to do 私は何かをしなければいけない
I am to do 私は「可能性、責任、運命、予定、意志」で何かをする
何かを持って何かをするというのはしなければならないと訳される一方で後者は自らでいるために何かをすると訳される。言語というのはかくも面白い
例えば笑って接客する店員はHe has the job to laugh at strangers with no reason.となる
直訳は彼は理由もなく他人に笑顔を振りまく仕事を持っている、省略すれば彼は笑わなければいけない、だ。
持つことを否定するわけではない。仕事も金も車も恋人も持つために持つと書くと強制になってしまう。欠乏している他人をさげすむ人は必ずこの思考様式である
僕自身も金に脅かされほとんど逆転してしまっている。もう抗うことは不可能なほど機械化もとい無機化が進行している
アメリカン・コミックスにウォッチメンってのがあって、映画にもなってる。
長く冗長で無駄に大味なセックスシーンとか暴力描写とかアメコミの再現度は高いんだが、おすすめはしない。
その中に、ロールシャッハってキャラクターが出てきて、白黒ハッキリ付けたがる。絶対に妥協しない。悪を許したりグレーな領域を認めたりしない。
杓子定規というのとはちょっと違って、Justiceという単語がぴったりな、盲目で剣を持ち天秤で判断する正義の女神のグロテスクな表現に見える。
パチンコ、という遊びがある。まあギャンブルだ。スロットもそうだな。
法の下の平等や、実態としての賭博の規制などを鑑みると、そこにあるのは不正義だな。正しくない。
射幸心を煽り、勤労意欲を削ぎ、経済に影響を及ぼすので、ギャンブルは悪いことだとされている。
ただ、公営ギャンブルという存在を見ても分かる通り、お上の管理する賭博は良しとされている。
昭和の時代までは、競輪競馬競艇オートレースは、地方自治体を潤すお財布だった。
意識している人が少なくなるようにイメージ操作してるが、宝くじもギャンブルには違いない。
刑法が取り締まるギャンブルもそのものズバリ「賭博及び富くじに関する罪」だ。富くじは宝くじと同じだな。
どうやったって一定数そういうのをしたがるヤツがいるなら、お上がコントロールしてやるのが一番効率が良い。
変に潜らず目に見えるところでやるなら、パチンコみたいに、民間委託するのも、まあコントロールの範囲内だ。
繰り返しになるが、これは不正義だ。まったくもって正しくはない。
じゃあこれが正義、つまりは法律が正しく運用されて、かつ、ある程度吸収できるような方策を考えると、手詰まりになったりする。
つまりパチンコパチスロに慣れたジャンキーを吸収できる公営ギャンブルを設立できるかという問題だ。公営カジノが一番近いがやはり違う。
あの客層をそっくり収容できる娯楽施設が、まだ世の中に存在しない。
何度もパチンコが危機を乗り越えて存続している一つの大きな要因だ。
ただ、この世界もそろそろ終わりになってる。何度も繰り返しになるが、いままでが不正義で、正しくなかった。
ドヤ街に日雇い集めてその中で完結させる、日雇い払いの賃金を酒や焼き鳥で消費させて次の日に回す、働けなくなったらホームレスになって、働けないほど体が悪いから遠からず冬を越せずに死ぬ。つまりはそういうスラムが日本にもあった。他所の国のスラムに比較すれば健全なのかもしれないが。
本来正しくは生活保護を受けて、健康で文化的な生活が送れることが保障されている人たちだ。
この国が整備しているシステムが正しく運用されていれば、乞食は存在しない。
浮浪者も、餓死者も、それを望まない人たちはそうならないように文面では既になってる。
そして正しく運用されていないという不正義が問題視される程度には、日本は先進国となり、社会的に成熟してきつつある。
苛烈な正しさは、見える範囲の綺麗さと見えない部分への皺寄せという形をとることが多いが、シワを隠せる領域が減ってきている。
見えないところに追いやってそれとなく回していた不正義が許されなくなり、破綻しないようにさらに外側にシワを寄せようとしている。
東京のイベントに向けて、都内は綺麗になっていき、そのシワを吸収するべく既に受け皿ができていくように見える。見えない人もいるだろうけど。
でもきっと、そういう外出しした不正義も、糾弾されていくんだろうな。
例えばフィリピーナをネット越しに英語教師にするのは、日本に連れてきた移民を低賃金で働かせるより問題になりにくい。
同一労働に対して低賃金払っていることには変わりないけれども。
さらに苛烈な不正義を先に糾弾すべきというのは方法論として正しいし酷い現場はまだまだある。
海外へ仕事出す先が高賃金化でどんどん移動してるというのも、不正義だとはみなされにくい。
結局何が言いたいかというと、盲目のまま正義を無条件に実行すると、そこには正義だけが残るんじゃないかってこと。
理念への純粋性は美しいけど、たいてい現場の泥臭さが勝ってきた。
ものすごく卑近な例で言えば、シリア難民を救うために、とりあえず日本人とシリア人とで子作りして、それから在留許可を求めるという手段は難民申請よりもずっと現実的だし少子化対策にもなる。もちろん足元を見た人身売買だし、偽装としない為に子供を産むことになるし、当然に非人道的だろう。
この例は極端だから、この例なら文字通り死ぬほうがマシだったりするだろう。それがほんとにマシかは本人にしか解らないけれども。
でもきっと、正しければ多少の人死はやむを得ないというのは、すぐそこだと思う。
浮浪者はテントを張れなければ死ぬが、収容施設に入らない人間が死ぬのは自業自得だと思う人間が多数派になった時、対象は浮浪者から高齢者になり無職者になり、いずれ低所得者になるんじゃないかと、今から自分は怯えている。
ソーシャルゲームのガチャは、もっと世間的に悪者扱いするべき。
ソーシャルゲーム=悪じゃない。ソーシャルゲーム内のガチャが悪。
ガチャで課金する要素のあるゲームは『ギャンプル』の類だと、もっと世間で広まるべき。
そんなものを未成年もプレイできるなんてイカれてるとしか思えない。
ソーシャルゲームという一見健全そうな皮を被り、平然と「ギャンブルじゃないよソシャゲだよ」みたいな顔してるのが、強い違和感を覚える。
ガチャなどの射幸心をあおるソーシャルゲームアプリの製作に関わっている人たちは、もっと罪悪感をもつべきだ。
自分をコントロールしきれない子供や大人から時間とお金を搾取していることに気づくべき。
重課金、廃課金と揶揄される人たちがいることに、反省を感じないのか?
以上。
それは、ソーシャルゲームのTVCMの放映量がいくら何でも多すぎる、ということだ。
時間帯によっては、ゲーム→他のCM→ゲーム→他のCM→ゲームといった感じの時すらあったりする。
別にソーシャルゲームを全否定する訳ではないし、課金するのも本人の自由だとは思う。
ただ、大人にとって大切な「考える時間」をソーシャルゲームに取られるっていうのは、日本という国にとって大きなダメージになりかねないのではないか、と。
(パチンコも一緒じゃんと思うかもしれないけど、通勤時間から寝る瞬間までプレイできるソーシャルゲームはパチンコより時間泥棒になる可能性が高いと思う。)
CM放映を禁止したらソーシャルゲームの利用者が減る、その分考える時間が増える、といった単純な話ではないかもしれないが、
他人の趣味をけなす行為がどれほど愚かなのかは俺だってわかってるし、現実では言わないよ。
「ほう!ラノベですか!◯◯さん通ですな!最近どンなのが面白いンすか?」
くらいの会話はする。
でもさあ、普通に考えて20歳とか30歳の、ひどいときには40歳以上のいい年した人間がラノベ、漫画、アニメ、ゲームに人生かけてたら俺はやっぱりこいつどこかおかしいんじゃないのとは思ってしまう。
もちろん本人に向かってそんな本音を言ったりはしないし、そんなオタク趣味のない人同士での会話でもわざわざオタク趣味をけなしたりなんてしない。むしろ、けなされてる場面に遭遇したら擁護するくらいだ。
たしかに口に出しては言わない。でも20歳や30歳にもなって、下手したら40歳以上のおっさんがそんな趣味しかないのだとしたら気持ち悪いなあと思うし、べつに見下したりはしないけど(彼らにも妻子はあるのだから)、やっぱりちょっと距離を置きたくなってしまう。
たしかにこういう考えをオタク差別だって言う人はいる。俺としては差別している気はないんだが、気持ち悪いと思ってしまうのはどうしようもない。ただすでに言っているように俺はリアルでそういうオタク差別的な発言はしないし、むしろ「オタクすげえじゃん」くらいのノリでやっている。
まあそうは言ったものの、大人の趣味とはなんぞやってのがあって、これが例えば「鉄道模型」でも同じわけだ。俺は鉄道模型が好きだからなんとも思わないが、それをキモいと思う人たちはいるはず。もちろん彼らもいちいち俺に向かって「鉄道模型が趣味なんてキモいなw」とは言ってこないだろうけど、心の中ではそう思っていてもおかしくはない。
なんだろうな。大人の趣味って救いがないな。要するに大人がなにかを趣味としてやってるってそれ自体がキモいことなんじゃないか?
野球?
サッカー?
パチンコ?
競馬?
競艇?
カラオケ?
筋トレ?
人間観察?
つまらないというか、合わない。
目押しとかなんなの。こんなん身につける暇があったなら別のことに使いたい
→アララギがむかつく。
主人公の八方美人の性格が腹立つ。あ、そういえば、恋人も八方美人で異性から気に入られやすいな。腹立つ。
演出や会話が無理やり粋な感じにしようとしてて滑ってる。
今期の新作も毎週追わなきゃならないのがユウウツだ。
→話がむずかしい。
これに尽きる。キャラクターも魅力的ではなく、感情移入しづらい
新作が出ることがユウウツだ。
→声がキモイ。無理。
ちなみに元々好きでかぶっている部分もあるので(仮面ライダー、プロ野球、FFなど)
それほど険悪ではないが
合わないのに合わせるのがとても辛い。
内心「うわーあわないなー」と思いながら楽しそうに振る舞うのも辛い。
世のカップルはどうしてんの?そのへん。
彼とは赤ん坊の時からの仲であり、そのまま幼稚園、小学校、中学校、高校と14年間も同じ学校を通った。
そんな彼の結婚式なので、二次会は同窓会のように、かつての同級生と久しぶりの再会を果たした。
そこで見えてくるのは、変な疎外感と居心地の悪さだった。
今も毎週のように集まって遊んでいるようだ。
彼らの交友関係は十数年変わりがない。
それはとても素晴らしいことだと思うが、あまりに閉鎖的ではないかと、ある種の気持ち悪さを感じてしまう。
今も実家に住んでいる。結婚しても同じ街に住んでいる。同じ街に家を買っている。
そうしてずっと変わらぬ交友関係の仲で、何か停滞しているような世界に住んでいるような気がする。
風俗の話はいつも同じ店のことで、それも新宿や川崎なんてメジャーなところでは無く、各駅電車しか停まらない駅での話だ。
話し方はまるでテレビのお笑い芸人の真似事のようで、同じ話を何度も繰りかえす。
同じネタを何度も繰り返す。
僕はというと、大学卒業後は小中高校時代の友人とほとんど会わなくなった。
実家を出てからはますます顕著になり、今では地元の友人とは2~3年に1回会うか会わないかという具合だ。
実家を出たと言っても、同じ県内に住んでいるので、連絡を取れば簡単に会うことが出来る。
しかし連絡を取ることも無ければ、連絡が来ることも無い。
地元で数年に一度開催される忘年会に、たまに呼ばれるくらいだ。
その呼びかけが無ければ疎遠になる。それくらい薄いつながりしかない。
数年に1回しか、繋がりを保つチャンスは無い。
旧友たちが嫌いというわけでは無い。苦手というわけでもない。
会えば楽しく談笑する。社交的な付き合いでは無く、学生時代から変わらないフランクな付き合いが出来る。
だけど、なぜか自分から連絡を取る気になれない。積極的に会おうという気になれない。
小中高は限られた空間の仲での友人なので、ひょっとしたら無理をして友達付き合いをしていたのかもしれない。
それが大学、社会人になると世界がぐっと広がり、本当に気の合う、気楽な付き合いの出来る友人が出来た。
ストレスの無い友達付き合いが出来るようになったのかもしれない。
社会人になって、SNSで知り合った友人が10人ほどいるが、彼らがいま一番頻繁に会う友達だ。
出身も、仕事も、社会的地位もバラバラだが、SNSという場においてはそんなことは些末な問題で、結局は気の合う人とだけ付き合いが継続される。
そうしてSNS知り合った数十人の人たちから、今も会い続けている10人が残った。これが今一番会っている友人だ。
地元の友人と会わなくなり、SNSの友人とばかり会うようになった。
そして久しぶりに地元の友人と会うと、ひどい居心地の悪さを感じる。
何よりずっと変わらない交友関係で十数年も過ごすことに驚く。息苦しさは無いのだろうかと思う。
学校という閉鎖的なコミュニティの中では否が応でもヒエラルキーが生まれる。
つまり「こいつよりまし」という安心感が無自覚でも生まれてしまう。
それによって生じるヒエラルキーの中で交友関係を形成していくわけだから、友人間でもヒエラルキーが発生する。
僕はそのヒエラルキーの下にいた。仲の良い友人の中でも、頻繁に居心地の悪さを感じていた。
実際に学生時代に「お前よりましだ」という意味の言葉を(もちろん、もっと柔らかくした言い方だけど)言われたことが何度かある。
そして昔の友人と会うと、どんなに年月を重ねても、このヒエラルキーが消えることは無い。
薄れることはあっても、消えることは無い。その居心地の悪さを今も感じているのだろう。
大学でのコミュニティは、ある程度オープンになる。ヒエラルキーが薄くなる。SNSはもっとオープンだ。
閉鎖的なコミュニティでは気に入らない相手でも接しなければならないが、コミュニティがオープンであればあるほど、その必要性が無くなる。
気に入らなければ関係を切ればいい。オープンな環境で出来た交友関係に居心地の悪さは生じにくい。
しかし、そのSNSの友人たちとも、ずっと友達で居られるのかと考えると、その可能性は薄いと思う。
オープンであるゆえに、関係が切られるのも切るのも簡単だからだ。
そんなことを考えていると、僕にとっての友達ってなんなんだろう?
生涯に渡って付き合い続ける友人なんているのだろうか?
などの「本当の友達とは?」という疑問にぶちあたる。
そして、結局答えなんて出ない。
友達を続けるのは簡単だけど難しい。
そうして芽生える感情は「面倒くさい」だ。これに尽きる。
つまりは「友達がいないのは寂しいが、友達づきあいは面倒くさい」という矛盾したわがままだ。
そんなわがままな本質と合う友人なんているのだろうか。とても居るとは思えない。
そんな都合の良い友達は友達と言えるのか疑問だし、1人でもいれば奇跡だ。
こんな僕だから、この疎外感が解消されることは無いのだろうと思う。
一生ついてまわるのだ。
いわゆる「ゲーマー」にとってソシャゲというものは叩かれやすく
よく議論の種になる(ここでいう「ソシャゲ」とはスマートフォン向けゲーム、「パズドラ」とか「モンスト」とかそういう類のゲームを指すと思ってほしい)
スマートフォンというのはとんでもなく高性能なデバイスだけれど
ゲーム機としては最新機種と比べれば遥かに低スペックで操作性も劣悪
そんなゲームに適さないデバイスでゲーム開発をすることはゲーム業界の技術力を退化させ衰退させることに繋がっているのではないか。という意見
(個人的にはスマートフォンでゲームはしたくないが、モバイル高速通信、GPSが標準装備されていて普及率も圧倒的なこのデバイスは、工夫次第で今まで考えもしなかったまったく新しいゲーム体験をさせてくれる可能性を秘めていると思う)
とりあえずゲーム業界にとっての一番の問題は「ガチャが儲かりすぎる」こと
低コストで作ったゲームのほうが儲かるってんならそりゃみんなソシャゲ作る
ハイリスクローリターンとローリスクハイリターンなら後者を取るのは企業として当然のことだけれど
それはゲームを面白くするよりガチャを増やすことがゲームクリエイターのお仕事と化してしまう
(自分のソシャゲに対する意見に一番近い。前述したようにスマートフォンの持つ未来のゲームへの可能性を全て金儲けの可能性にしている。営利目的にやってるんだから金儲けすること自体は悪くないし仕方ないことなんだけれども、ゲーマーとしてはやはり悲しい)
「ソシャゲもガチャだけじゃなくいろいろな工夫がされて面白いものも増えてきた」みたいな意見もある
また、少人数低予算のベンチャーでも作れるから、今まで埋もれていた才能が発掘される可能性もある
(本当にそうだったらいいのにね。後半に関しては特にそう思う。でも僕はガチャを捨てない限りそういう意見は認められない。本当に面白いゲームをスマートフォンで作っているという自負があるなら売り切りにするかガチャなしのアイテム課金にしてみろ。それができないなら結局はゲーム付きパチンコの域を出ていない。極論だけどそう思う)
ゲーム業界…というよりゲームという娯楽そのものに絶望し、諦めているタイプ
無料で楽しめる娯楽(YouTubeとか)が大量にある今の時代
さらにメインのプレイヤーであるはずの子どもたちも少子化で減り続けてる
昨今のソシャゲの隆盛はゲーム業界のドーピングした最後っ屁みたいなもんだ
という意見
(これも自分の意見に近い。無料で暇つぶしできるのに、何故高い金払ってテレビの前に座って、コントローラー握って暇つぶししないといけないんだよと言われたらどうしようもない。悲しいけど)
最近のゲームはグラフィックばっかりで全然面白くない!だからゲーム業界は衰退するのだという意見
(そういう意見は一理あるとは思うけど、たいていこういう意見を言う人は思い出補正全開で、最近のゲームは実況動画なんかをみるだけだったりでゲームをやらないからたちが悪い。あとグラフィックが向上すること自体はいいことなんだけれども、彼らからするとグラフィックが向上することが悪いことみたいになっているのが解せぬ)
ちなみに僕はソシャゲの隆盛は気に食わないけれど
組み体操の是非が騒がれているので、自分の体験から述べてみる。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20150528-00046097/
小学校6年生の運動会、演技種目は空手の演武だった。女子は当時流行っていたSPEEDのダンス。
組み体操の伝統もなかったので平和だったが、去年までは全員でのヨサコイなどの踊りだったので、とても珍しいなと思っていた。
その時、男子空手のお手本役になっていたのが、問題児のKくんだった。
どちらかと言うとガキ大将的なやんちゃな子で、すぐに暴力を振るう感じだった。
自分も5年生頃に1度ザリガニ釣りに一緒行ったことを覚えているが、
その後、何度かケンカして遊ばなくなったように覚えている。
ただ、そんな乱暴なことが禍してなのか、あまり友達が多くなかったようだ。
一度、机にくさったパンが詰まっていたのを見つけたことがあるが
自分で突っ込んだものなのか、だれかに入れられたものかは定かではない。
練習期間は演舞を教えることでリーダーシップも発揮していたし、
なにより、空手ができる彼はカッコ良く見えた。
私が知っているのはこれだけで、それまで彼がいじめられていたのか、
クラスで孤立していたのか、はたまた、その後の人生がどうなったのか、全く知らない。
卒業アルバムに、かっこ良く写って卒業していることは間違いない。
今になって思い出すと、このエントリのようhttp://anond.hatelabo.jp/20150920224758]に、
きっとうまく行ったのだろうと思う。
これをやればうまくいく。ではなくて、誰かを受けれてもらうために
http://anond.hatelabo.jp/20150920000919
25ぐらいからずっと結婚相手を探してて今年30になってしまった女だけど。
最低限の要望はこんな感じ。
・20代半ば〜35くらいまで
・東京勤務
・服のセンスがいい
・身長175cm以上
・同性からも異性からも好かれてて濃くて良質な人間関係を築ける人
・アニメ、漫画、ゲーム、パチンコ、風俗などの低俗な趣味をもたない
・何か一つ得意なスポーツがある
・相手の両親との同居はなし。相手の家族が老後の資金を確保している
・セックスが上手い。平均的な大きさのモノをもってる
こんな感じで探してるんだけど全然見つからない。こっちは見た目も中の上だし、家事料理得意だし、親の社会的ステータスも高いし、健全な子供を妊娠できる年齢だし、婚活市場でも悪い人材じゃないと思うんだけどな。
上の条件関係なしに付き合って家族ぐるみで仲良くなって、結局親の反対で結婚ダメで別れるっていうことがあった。中途半端に条件で絞ると余計に合う男性がいなくなるんじゃないかと疑ってる。
違くね?
つかどっちかっつーとアニメ・ゲームと同じじゃねーのって感じかね
エンタメとは「娯楽」「気晴らし」「余興」「演芸」「軽い読み物」といった意味の英語"entertainment(エンターテインメント)"の略である。意味もエンターテイメントと同じように使われており、単に語呂のいい形に簡略化されただけである。エンタメは映画やドラマ、アイドル、小説、パチンコやゲームと様々なものを対象に使われるが、同じカテゴリーにあってもそこにエンターテインメント性(娯楽性)がなければエンタメには区分されない。例えばニュースを扱うサイトの中で政治、経済、事件を主に扱うサイトはエンタメサイトに分類されないが、芸能や映画、スポーツなどエンターテインメント性が強い記事が中心のサイトはエンタメニュースサイトとして扱われる。人気お笑い番組「エンタの神様」のエンタはここからきている。
同人誌でもプロレスでもいいんだけど、コミュニティが面白くて安定していて(=内部の人間関係がよくて)閉鎖的(=新規参入者が少ない)状況の時、新規参入者を歓迎しないっていう風潮があるよね。
新規参入者が一定の割合(10%とか?)以下ならいいんだけど(うんちく語って先輩風孵化してドヤ顔だよね)、一定の割合を超えて一気に流入すると、自分たちが今まで作ってきた雰囲気や文化が壊れるので、新規参入者に否定的になる。まあ、ただの派閥問題なんだけどさ。
最近だとラブライブで「アニメから入った新参は情弱なので黙ってろ」みたいな言説も見た。
(こういう風潮はコミュニティの存続にマイナスだと思うけど、その話は今回脇道なので横においておく)
思うんだけど、社会において女性差別だとか蔑視って言われている者の幾割かは、この「新規参入者に対する嫌悪」なんじゃないかなあ。
一般社会、特に職業や職場においては、男性構成員がその文化を作ってきたので、そこに「新規参入者(=女性)」が入ってきて軋轢が生まれてることが結構あるんじゃないかと思うんだ。
この場合ポイントは「女性が入ってきたから反発してるわけじゃない」ってこと。
ホモソーシャルかよ死ねって思うかもしれないけれど、旧コミュニティメンバーの根底にあるのは「俺たちのコミュニティの雰囲気を一方的に変えるなよ」とう既得権益意識なんだ。
(弁護してるわけじゃなく、そういう意識のあるコミュニティは少なくないという話ね)
たまたま女性の集団が入ってきたとき問題が顕在化して昨今ではそれが報道されることが多くなった。
けれど、その集団は例えば一回り違う若い社員が20人いっぺんに入ってきた場合であっても、「あいつら酒もたばこもやらないし就業時間以外はこっちの話聞かないし」「おれがパチンコの話振ってるのに生返事だし」「向上心もやる気もないし出ていってほしい」などと、やっぱり反発して軋轢を起こすんじゃないかな。
「女が出しゃばって」っていう言葉は「新参者がでかい顔をして」と同じ意味である場合が少なくないと思う。
もちろん、だから許せとか放置しろとか、そういう話ではないよ。
でも、女性嫌悪と新規参入者嫌悪は(表面上全く同じに見えたとしても)違う問題だから、それぞれに対応した対処を考えないと、問題が複雑化しちゃうよねとは思った。
大金をつぎ込んでも何も得られない喪失感と、たまに得られる幸福の落差を楽しむ
ソシャゲやってる人を見てると、ゲーム内容について語ってる人をあまり見なくて
だいたいガチャで何でた、いくらつぎ込んだって話ばっかり飛んでくると(単に自分の見識が狭いだけかな?)
ソシャゲが流行ってるというより、単に従来パチンコに流れてたお金を持ち始める青年~おっさん層が、
パチンコをやる感覚でソシャゲガチャに移ってるだけなんじゃないかなと感じたりする
ガチャのために金を借りに来る知人を見ていると、
http://anond.hatelabo.jp/20150902074033
確率の収束は1回の結果が全体の結果に比較して瑣末になっていくことって考えたほうがわかりやすい。
例えば開始から10回連続で1が出た時、試行回数に対する結果の合計は10。
本来の平均は0.5だから、10回なら5。つまり結果に対して5の開きが出ているということになる。
確率でいえば100%。本来の確率から50%も差が開いていることになる。
この時点だけを切り出せば確かに大きな数字だけど、例えばこれを1万回試行するとする。
そうすると平均通り結果が出たとすれば5000という合計数が現れることになる。
5000に対して比較した場合、先ほどの5という開きはとても瑣末な問題になる。
なぜなら、1万回の試行回数で割れば、1回の確率に及ぼす影響は0.0005程度にしかならないから。
パーセンテージで計算すれば、多く出た場合であれば50.05%。少なく出た場合であれば49.95%。
こうして、1回の試行結果が全体の試行結果に対して影響が少なくなることを、確率が収束した状態といいます。
勘違いしてほしくないことは、自然界において確率というのは結果論であるということ。
ある事象の結果を観測したら、特定の確率を見ることができたというだけのもの。
もしその後確率に異なる結果が現れたとしたならば、変化するのはさらにその後の結果ではなく、確率側です。
コンピュータが吐き出す結果は、確率がさきにありきだという点が異なります。
ついでにパチンコ、スロットの確率が収束するのは試行回数10万回と言われているけど、これはプレイヤーにはほとんど関係のない話で、調整する側が目安にするための数値です。
1台では暴れる確率の結果を、島、フロア、店舗単位でしっかり考えましょうということ。
以上、通りすがりでした。
パチンコやスロットは完全確率で抽選されている。例えば1/100の確立だとしたら連荘した後でもハマった後でもその確率は変わらないので連荘した後は出づらくてハマった後は出やすいなんてことはない、と書いてあったりする。1/100だからねって事を考えれば理解できるが、でもこう考えるとどうか?
1/2で当たる機種があったとして、10,000回回してもずっと外れ続けている。でもこれを仮に1,000,000,000,000回回すとその確率は収束して1/2になるんだよ的な話があるけど、仮に完全確率が変わらないものであるとすれば、収束なんてないってことになると思わね?もうちょっと言い方を変えると、大当たりの確率がいくつかわからない機種の大当たり確率を求める時に、何万回も回す、つまり試行回数を重ねてデータを増やすことによってその機種の大当たり確率を割り出すことって可能なはずだけど、これが可能であるのは要するに確率は収束するからでしょ?違うの?