はてなキーワード: 膾炙とは
日本の地質学界ではマルクス主義思想が強かったことや、ソ連が推す地向斜造山論に傾倒していたことなども重なり、センメルヴェイス反射状の反応を起こし、学会で受け入れられるまでには一般社会で普及してから10年以上を要した[58]。
科学と言いながら、結局それは政治や権力や、もっと究極的には世俗世相の膾炙に大きく依存するということ。
天動説派と地動説派の終わりなき永劫の憎悪の応酬に過ぎないのではないのかね。
勝ち負けを科学の基礎に据えればそうした革命もどきの浅ましい構図に堕落する。
だが、本当に科学を求めるのなら、
そして、新しいことを科学者として受け入れなくてはならない究極の悲しみに直面することになるだろう。
信じるが故に信じもしなかったことを現実として信じることを受け入れさせられるのだ
…育んだ命が死に、
命とも思えぬものが芽吹くのが科学なのではなかったのだろうか、・・・?
そこに世俗の勝ち負けだ政治だ権力だ、名声だ名誉だ怒りだ憎しみだ執着だ望みだ富だ正義だ、正統だ、だのが絡んできたら・・・
自らが求めていた正しさの果たして何が正しかったのか、私は一体何を求めていたのか、
見失うことは想像に難くない。
こんな不安定な世界の中では、"正しさ"の輪郭や背骨、根幹などは、何らの頼りにもよすがにもならない
それでも私は、科学が正しいと、
そこにずっとあり続けるものが正しい、というか、信じ続ける、というものが、あるかどうか
そうしたものへの尊崇が共有できない限り、人はきっと、決して、科学というものを語り合い、
況してや分かり合うなどということは適わないのだろうと思う
韓流なんかはやたらと掃いて捨てるほど日本の情報で溢れてるんだが、
それに対して中国の文化が入ってこないのは本当に不気味なんだよな。
また韓国の漫画なんかも、ネット広告に入っている漫画は韓国系が多いと聞いて、
なるほどなんか変な雰囲気やノリだと思っていたがあれは韓国系だったのかと得心するとともに、
ああいった韓国漫画系は韓流のような日本の広告宣伝ラインには決して乗ってこないというところも不気味だ。
さて、前置きはさておき。
ウィキによるともう2016年くらいから始まった文化のようだ。
こんなに中国が世界を席巻しておいて我が国ではこんな一文程度ですら解説を多くしなければ理解できないほど中国文化が人口に膾炙されていないのかと感じる。
「1990年代に生まれた若者の一部の、受け身、無関心で、高望みをせず、世間を冷めた目で見る生き方」といった現状があるのか。
「下の世代の子供を養う必要があるとともに上の世代の両親の面倒を見る必要のある集団であり、それに家賃が加わる場合もあり、
そのため生活上のストレスが大きく、喪文化に染まりやすい集団」
人民網は喪文化を「精神のアヘン」と批判し、喪文化の流行がもたらすマイナスの影響を警告し、その背後につきまとう文化の侵食を警戒すべきとした。
また中華民族の精神を発揮して、挫折や失敗には、後ろ向きに対応して喪文化の際限ない蔓延を許すのではなく前向きな態度で対峙するように述べている。
中国青年網は、人生において失敗や挫折に遭遇するのは必然であり、だれにとっても避けられないことであって、
喪文化による逃避は実際の問題をまったく解決できず、歪んだ価値観を形成するとする。
前向きに対応すれば、困難に打ち勝ち、人生の進む先を発見し、人生の理想を実現することができるという。
また中国青年網は、中国の若者は喪文化に抵抗し、中華民族の偉大さの復興にむけ戦うべきだとも述べた。
これが実に中国の真骨頂で、思想すら中国共産党が"指導"していくということだ。
…こういう部分が、日本のマスコミ等々が中国文化を紹介することを躊躇う一因であるのかもしれない。
何のことはない。
復旦大学の経済学博士、林采宜は、喪文化は名誉や利益を求めず、自らの身を大切にすることを提唱しており、
道教文化の体現であって、功利が重視される現代社会への一種の解毒剤だと考える。
澎湃新聞の曾於里は、喪文化の生まれた原因を考え、現代の若者が「喪」に走るのは、彼らが進取を嫌がるからではなく、
かつて成功を求めようとしたにもかかわらず、現代社会の競争の厳しさなどのさまざまな問題によって成功しなかったためだと考える。
幾度もの失敗と挫折という打撃を受けたために彼らは喪文化の受容層となったという。
ある意味、中国という国家の「鬱病の初期症状」なのかもしれないな。
これを抑圧すれば、パッと見社会という名の会社に一時的には復帰できるかもしれないが、
ひとたび「壊れた」ら、全治数十年は見積もらなくてはならないのかもしれない。
まあそれは脇においといて。
中国という国は爛熟期から衰退期にかけて大抵宗教が王朝の転覆要因となってきたが、
21世紀の現代においては、若者文化においてこうした概念が普及することで、
ところで、利路修である。
例のリアリティーショーは、スマホも取り上げて隔絶させるのか。
まあいろいろ"ノウハウ"が蓄積されているんだろう。吐き気がするな。
私生活まで「カネ」に変換させられ、やめれば巨額の違約金。奴隷だなまさに。
家に帰りたい、疲れた、ってことか。
これはまだまだ日本の検索では一切ヒットしない概念のようだが、
若い連中は夢に向かって将来に大きな、バクダイな期待があると思うからこそがむしゃらになって夢に邁進する。
楽しくてしょうがなく、強烈な使命感があるからこそ、あらゆる努力が全て自発的にでき、またエネルギーが生まれてくるのだろう。
【海外の反応】強面な外国人ニキがAdoの「うっせぇわ」聴いたリアクション!!【USSEEWA reaction】【The First Take】【ザファーストテイク】【ボカロ 】【ボーカロイド】
を見ていたら「エイデイ」にものすごい驚いて「日本のスラングは事前に勉強してたんだけど…エイデイときたか!」みたいな反応をしている。
1. 謎
2. everyday の略
しかし 2 に関しては "everyday abbr" とか "everyday abbr urban dictionary" とかで検索しても何も出てこない。
3 の errday に関しては表記法が変わるだけで発音は everyday と変わらないらしい link
あともし字面どおり読んだとしても「エァーデイ」に近い発音になる(definitions.net)。
syudou 氏のtwitterも検索してみたが特にエイデイには言及していなかった。
それで eiday eidei あたりを手当たりしだいに検索していると "A-Day" というワードに出会う。
これは空軍の導入日だったり、歴史的な文脈ではビキニ環礁での核実験を透過した日のことらしい(1946/7/1)
ところでエリントンの曲やジミヘンの曲に出てくる A train は「ア・トレイン」ではなく「エイ・トレイン」と発音されている。
この A は一体何なんだろうなと昔から思っていた。冠詞ではない。ネイティブのオーラルイングリッシュが変化していていっていて、
冠詞の a を「エイ」と発音するようになっていたのだとしても歌詞全体として「ある列車」では意味が通らないのだ。
エリントンの方は歌詞を覚えていないがジミヘンの方は「here my A train is coming.」だし(覚え間違いで「here my train A comin'」だった)。
大文字のAを「エイ」と読むことによって「例の」という意味とする感覚があるのではないかと思う。
再び『うっせぇわ』に戻る。
「あてもなくただ混乱する」という事態が起きているのが複数の日(何らかの形で everyday に帰着する説)なのか「例の日」なのかでどっちか変わる。
しかし前後の歌詞を見るに「その日」を特定する情報はなく、この歌詞の語り手にとって普遍的なことのように思われる。
ここまで調べたがもうわからないので考えるのをやめることにした。
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twitter で「eyday lang:en」を試したがツイートの内容がチャット英語という感じでよくわからない。
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トラバにある通り urban dictionary の範囲で "everyday の省略としての a day"がある模様(トップしか見てなかった)。
やり方は簡単で、幼稚園〜義務教育、高等教育を英語のみで行えば、3世代後くらいには英語が人口に膾炙するだろう。
ただ、それが現実的かってのを考えたほうがいい。誰が英語で教育できるのか。
幼稚園や学校の先生は英語話せますか? この辺りの教育職の人間を英語話者にすげ替えられますか?
明治維新でも敗戦でもできなかったorしなかったことを今からできると思いますか?
メリットはあるかもしれないけれども、費用対効果の面で誰もしない。
例えば雨が嫌だから、山手線の内側を全て天蓋で囲うと便利ですよね。でもそんなことしませんよね。
他の、地下街や屋根付きの通路など、より効果のある小さな方法で対処しますよね。
それと同じだと思います。
また、これは反論あるかもしれないけれども、例えば自分の息子や娘に自発的にジョセフとかジェニファーとか名付けますか?
関係のない話するな、と思うかもしれませんが、これは関係のある話です。関係のない話と思ったならば、想像力が足りないと思います。
呼んだか?(当時エロゲオタだったやつが満面の笑みを浮かべながら
型月がヒットしたのはいくつも理由があってそれらの複合によるものだろうから一言ではとても説明できない。ただまあその「複合」を当たらずも遠からずぐらいで表現すると、「ネットに対する信頼があったから」ということになろうか。
俺自身はたしか2001年ごろにまんだらけで『月姫 完全版』を買った。なぜかというとネットで話題になってたからだ。当時はまだtwitterがなくGoogleもこれからという時代。情報の仕入れ先は主に個人ニュースサイトやエロゲレビューサイトだった。カトゆーだったかsawadaspecial.comだったか。他にもいくつかのサイトを見ていたが既に名前すら忘れたし、果たしてどこで知ったのか定かではない。ただネットで『月姫』が面白いという情報を得、当時学生だった身としては決して安くない金額を払って購入した。噂に違わず面白かった。ネットへの信頼性が増した。
他のジャンルでも同じことがあった。個人制作なのに映像がすごいらしいという情報をたよりにヨドバシまで『ほしのこえ』のDVDを買いに行ったのもそうだし、Sound Horizonの『Thanatos』をサンプルさえ聞かずにオフィシャル通販で買ったのも2chで話題になってたからだ。今ほど選択肢はなく、今ほど情報が流通していない時代にあって、それでも取り立てて情報感度が高くない平均的なオタクのところまで到達するコンテンツはおしなべて面白い。そう無邪気に信じていい時代だった。
型月に話を戻せば竹箒時代に『空の境界』を出したときは6部しか売れなかったという。最初からビッグネームだったわけじゃない。だから拾い上げたやつらがいる。それが個人ニュースサイトやらエロゲレビューサイトやらそこからさらに口コミやらで広まって葉鍵に並ぶ同人ジャンルまで成長していった。
コンテンツが人口膾炙するにはネットで語りたくなったり二次創作したくなる魅力がないといけない(こんにちにおいてオタクコンテンツの人気は≒同人人気とも言えるだろう)。そういう意味では型月の作品にそれだけの魅力があった(俺もネットでいっぱい語った)。
時代のめぐり合わせが良かった面もあるだろう。サウンドノベルから派生したビジュアルノベル(『雫』、『痕』)によって“読むエロゲ”という文化はできていたし、葉鍵の隆盛によってネットでエロゲについて語ることや、それらを題材にした同人文化もすっかり馴染み深いものになっていた。そんなコンテンツの“最低限”が低い玉石混淆の時代に月姫がブチ込まれればそりゃ話題にもなろうってもんである。型月は『Fate』で商業に移行したため同人ゲーム文化の爛熟は『東方』とか『ひぐらし』とかあの辺りによってピークを迎えるのだが。
ところでハード面の話としてパソコンの普及も個人的には見逃せないと思う。Windows95が出た頃はメーカー製PCで50万とかくだらない時代だったが、00年頃になると自作PCも敷居が高くなくなり15万~20万ぐらい出せば一式組めるようになった。ネット回線もADSLやFTTHみたいな定額かつ安価なサービスが始まっていた。今の学生がスマホを持つような気軽さはないが、それでも充分身近になった感はあったのである。俺のまわりはエロゲがやりたいからPC組んだやつ(俺)、『BM98』がやりたいから組んだやつ、『RO』がやりたいから組んだやつ、と概ねこの3つのパターンに分かれるのだが、いずれにしても(95年頃に比べれば)安価になったPC市場もそれらを後押ししたのは間違いない。
話がとっちらかった感はあるが、ざっくりまとめると…
・葉鍵を始めとした先行作品によって、エロゲを語ったり同人にしたりする文化が醸成されていた
・個人ニュースサイトやwebリングのようなハブとなるサイトがインフルエンサーとなって上記を広めた
・新規プレイヤーが入ってこれるぐらいにはPCが身近なものになった
・00年前後はPC+ネットでできること、いける場所がオタク文化の最先端な感じがあった(2ch、エロゲ、ネトゲ、テキストサイトetc…)
ちなみに俺自身は典型的な葉鍵厨で、型月にはそこまでハマらなかった。『空の境界』は講談社ノベルスを模した同人版が出たときにけっこう熱中した(腕に仏舎利を埋め込んで直死の魔眼を無効化する荒耶宗蓮とかやっぱカッコいいでしょ)けど月姫はそれなりって感じ。『歌月十夜』はついぞ未開封で終わったなあ。そんな俺でも『Fate』の盛り上がりは覚えてるよ。発売日、日本橋に買いに行ったんだけどすごかった。どこのエロゲショップだったかフロア1つまるまる『Fate』売り場になってたとかね。なんかあの頃のエロゲオタにとって最後の共通言語みたいな感じはあったなー。みんながやってみんなが語るエロゲはこれが最後だろうなっていうね、なんか祭りが終わるなーみたいな感じがね、何処かしらにあったよ。多分それは、俺の思い込みなんだろうけどさ。
横だが、堀江のIT企業社長としての評価はその動画のとおりだと思うよ
オンザエッジ→ライブドア時代にたまたまITバブルの後押しもあって成り上がったが、
ライブドア時代も企業転がし以外に目立った事業を育てられてないのが何よりの証拠だし、
外部向けの広告塔としてはともかくとして、企業の技術力を伸ばしていく能力はまったくない
内心堀江も自分のセンスの無さ、伸びるIT技術を見分ける能力は2流以下であることを自覚してると思う
やろうと思えば出所後にもう一回ITの世界で挑戦もできたけど、やらなかったからな
やっても勝てないということが自覚していたんだろう
以上の理由から俺は堀江の未来予測や技術評はまったく参考にならない、道化の戯言と思ってるが、
世の中には、堀江には先見の明があり、堀江の提言が社会に膾炙することが、日本のITレベルを向上させると思ってる人たちが
たくさんいるんだよな。全員バカだと思う。