はてなキーワード: 生態系とは
折からトルメキアの王都トラスから戦線の崩壊に業を煮やしたヴ王がシュワに向けて自ら出陣していた。彼もまた墓所を狙っていたのである。敗走した生き残りの兄皇子たちもまた、国境警備を命じられたものの、ヴ王の目を盗んでシュワに向かう。そして偶然ナウシカは兄皇子たちの斥候部隊と遭遇する。嬉々として彼らを撃滅する巨神兵を制止したナウシカは、彼を立派な人になるようにさとし、エフタル語で無垢を意味するオーマと名づける。
名を与えられた巨神兵は急速に知能を発達させ、自らを調停者と称する。ナウシカは巨神兵についての伝承に疑問を抱く。巨神兵とは単なる兵器ではなかったのではないだろうか?
一方難民終結地は一瞬即発の危機状態にあった。クシャナによる、ナウシカを追ってシュワに行く為の船を貸してほしい、との要請が火種になり皇帝と僧会という重石がとれ権力の真空状態にあった土鬼難民の間に、侵略者トルメキア軍への憎悪がクシャナを標的として再燃する。クシャナももはやかつてのような攻撃性は失ったものの、自体を平和的に打開する手を打つでもなく、「所詮血塗られた道か・・・」と呆然とすべての終わりを待っているだけであり、
チャルカもまた圧制者たる僧会への民衆の憎悪をなだめるのに手一杯で後手に回ってしまう。しかしユパがクシャナを殺到する兵の刃から身を持って庇ったその瞬間、マニの僧正の霊が彼の体を借りて再臨し、人々の憎悪は打ち消され、衝突は回避される。「そなたには王道こそふさわしい」と言い残しユパは死に、「友達になろう」と差し出されたチククの手をようやくクシャナはとる。
ナウシカとオーマは兄皇子たちの艦隊に合流するが、ナウシカの身体はオーマの発する「毒の光」によって衰弱しきっていた。テレパシーで伝わったユパとほぼ同時に、彼女の旅にずっと同伴してきたキツネリスのテトも死に、テトを埋葬する為ナウシカはオーマとともに艦隊を離れる。ナウシカを逃がすまいとする兄皇子たちはオーマの「裁定」により艦隊から引き離され、身一つでナウシカに伴わなければならなくなる。
テトを埋葬するために降りたオアシスでナウシカは奇妙な牧人に救われ、彼の庭園の館で治療を受ける。彼女の身体はみるみる回復し、とうに滅びたはずの動植物をヒドラの農夫が世話するこの館で、彼女はくつろぐと同時に記憶をなくしていく。しかし同じように記憶をなくし、かつての権力への妄執から解き放たれて別人のようになった兄皇子たちの奏でる、「火の七日間」以前の古典音楽の調べが呼び覚ました「青き清浄の地」のイメージとともに、彼女は忘却から醒め脱出をはかるが、牧人に制止される。
目覚めた彼女は牧人のテレパシーによる誘惑をもはや受け付けず、牧人に真実を語ることを求める。しかし牧人は、二百年ほど前にこの庭を訪れた「そなたに良く似た少年」のことを語る。彼はやがて人類を救いたいと書き置いて、ヒドラを連れて脱出し、初代神聖皇帝になった。「そなたのしようとしていることはもうなんども人間が繰り返してきたことなんだよ」。
くじけそうになるナウシカのもとにセルムがテレパシーで救援に駆けつける。しかし、牧人もまた一種のヒドラであることを指摘するセルムの前でも、彼(彼女)の奏然たる様は揺らぐことはなく、逆にセルムを問い詰める。「青き清浄の地」に今の人間は適応できずに死んでしまう。そのことを森の人は知っておきながら何故それを希望と偽るのか、と。
しかし、問答をきっかけにナウシカは一気に自体の真相に肉薄する。実は「腐海」の地球環境浄化機能は、自然にできたものではなく人為の所産である。そして腐海の周辺の汚染された環境に対する人間の耐性もまた、人為的な改良の所産である。つまり産業文明末期、「火の七日間」の前後に巨大な地球環境復元プロジェクトが組まれ、そのために「腐海」という人工の生態系が創造され、プロジェクトの期間中、「腐海」が副産物として生成する毒物に耐えて生延びていけるように人間も改造されたのだと。
そしてこの庭は復元された環境の中に開放されるべきものたち、農作物や家畜、文学や芸術を保存したタイムカプセルのようなものなのだと。
「この庭にあるもの以外に次の世に伝える価値のあるものを人間は造れなかったのだ・・・」つぶやく牧人にナウシカは「何故墓所には伝えるに値しない技が遺され死の影を吐き出しているのですか?」と問う。答えない牧人に「沈黙もまた答えです」と言い放ち、牧人ももはや彼女を止めようとせず、「そなたのためにこの庭はいつも開けておこう」と別れを告げる。そしてナウシカは館を脱出し、ガンシップで追ってきた風の谷の従者たち、蟲使いの若者たちと合流する。すでにオーマは、病んだ彼女を置いて一人シュワに出発していた。ナウシカたちはシュワに急行する。
シュワにはすでにヴ王の軍勢が到着し、制圧を完了していたが、墓所の門は閉ざされたままあらゆる攻撃を跳ね返し、逆に激しく反撃してくる。そこに到着したオーマは裁定を申し入れ、墓所に対して門を開くように通告し攻撃を加える。これにさしもの墓所も損壊するが、反撃でオーマは傷つき倒れ、シュワの市街ともどもヴ王の軍も全滅する。辛くも生き残ったヴ王とその忠実な道化の前に、門は其の新しい王を迎えるためついに開かれる。
ヴ王に遅れてナウシカも到着し、ともに墓所最深部、主の前に立つ。主はその表面に旧世界の知を記した古文字を浮かび上がらせた巨大な肉塊である。そこから人々(浄化計画を設計した旧世界の科学者達?)の幻影が立ち現れ、「腐海の尽きる日」「青き清浄の地」の復活を予告し、其の準備として用意された技術の貯蔵庫である墓所を守るように要請する。しかしナウシカはそれを拒絶し、「真実をかたれっ」と迫る。
幻影はかき消え主は新たに道化の口を通し、お前は人類を滅ぼそうとするのか、と責めるが、ナウシカは未来と引き換えに現在を犠牲するプロジェクトをあくまで拒絶、かろうじて生きていたオーマを呼び出し、主を攻撃させて破壊する。断末魔の主の反撃からナウシカを庇ったのはヴ王であった。オーマは母の名を呼びながら絶命し、その死を哀しむナウシカはオーマとともに解体する墓所の中に沈もうとするところをアスベルに救われて脱出する。
救出されたヴ王はクシャナに看取られ、彼女に王位とトルメキア再建の責務を託して死ぬ。クシャナは「わたしは王にはならぬ すでに新しい王を持っている だが帰ろう!! 王道を開くために」と、ユパとヴ王の遺志に従うことを決意する。
ナウシカは青き衣のものとして民衆の歓呼に迎えらる。彼女は自分の知りえた真実については黙して語らず、人々を欺き続けることに決める。ただ秘密をセルム、森の人とのみ分け合って。
後日談としてナウシカはその後土鬼の地にとどまり、チククの成人まで風の谷にもどらなかったこと、また一説には森の人の元に去ったとも伝えられていること、そして後に「トルメキア中興の祖」とたたえられたクシャナは生涯王位につかず代王にとどまり、以後トルメキアは「王を持たぬ国」になったこと、が記されてこの長い物語は終わる。
チククとチャルカは飛行ガメで彼女を探して粘菌の合流地点へ向かう。そこで彼らはナウシカのメーヴェを手に入れた蟲使いの大群に出会う。蟲使いたちは森の人の呼びかけに応じ、新たに広がった「腐海」の領有権を確認しに来たのだ。チャルカたちはユパを救った森の人の青年セルムに導かれ、奬液に包まれたナウシカを回収する、彼女は心を閉ざして眠り続けていた。
ナウシカを保護して難民終結地へ戻る途中、彼らは皇兄の乗る旗艦に出会うが、そこに肉体を失った皇弟の霊が取り付いており、ナウシカを発見した皇弟はセルムのガードをかわしてナウシカの無防備な心に入り込んでしまう。
他方、旗艦はチャルカが難民救出のために収集した船団に皇弟と僧会の失権を通告し、指揮権を強奪した。新たな混乱を予感したチャルカはナウシカをセルムとチククに託し、戦火の再燃を食い止めるべく、死を覚悟して単身難民終結地へと戻る。
眠るナウシカにセルムはテレパシーで呼びかけ、森の人の秘密、腐海の中の最も古い土地、その浄化作用が一巡して昔の汚染されていない生態系が回復した「青き清浄の地」へと案内する。ナウシカの仮説は正しく、しかもそれは部分的にであれ現実のものとなっているのである。皇弟の霊はこの「青き清浄の地」成仏する。しかし森になろうとしたはずのナウシカはそうしない。
「もどろうね 自分達の世界へ この世界を汚しちゃいけないから・・・・ 土の毒や瘴気に脅かされないで皆とここに住めたらどんなにいいだろう でも今の人間が知ったら また 自分達が 世界の主人だと思い始める たちまち生まれたばかりのこのひよわな土地を食べつくして又同じことの繰り返し 1000年かもっとたって あなたがもっと広くつよくなって 私たちが滅びずもう少しかしこくなっていたら その時こそあなたの元にやってきます」
そして希望を取り戻して目覚めたナウシカは、「私と一緒に森に来てくれませんか」と誘うセルムにも「人間の汚したたそがれの世界で私は生きていきます」と応え、ついに彼女の元に到着した従者や彼女を女神と慕ってきた蟲使いの若者とともに、難民終結地へと向かう。
終結地では皇兄による粛清の嵐が吹き荒れ、チャルカもまた処刑されようとしていた。間一髪でまにあったナウシカはチククのテレパシーを通じて民衆に呼びかけ、皇帝の言いなりになってトルメキアに侵攻するのをやめるように説得する。
「土鬼の地がすべて失われたわけではありません。腐海のほとりに住みそこで生きましょう 腐海は私たちの業苦です でも敵ではありません 苦しみを分かち合って生きる方法を私の一族は知っています。 皆さんに教えられます 苦しみより友愛を 王蟲の心を・・・」
ナウシカの説得は功を奏するが、頭上には巨神兵が到着していた。ナウシカはガンシップで輸送艦ごと巨神兵を撃墜しようとするが、巨神兵本体を破壊することはできず、かえってそれを目覚めさせただけであった。マニ族を説得して駆けつけたアスベルから託された秘石を持って、土鬼旗艦上で巨神兵と対峙したナウシカの前で、巨神兵は自我を生じ、彼女にママと呼びかける。呼びかけに応じたナウシカは、この巨神兵を伴って、シュワの墓所を封印すべく飛び立つ。
土壇場でのクシャナの反乱もあってすべてを失った皇兄は「俺はもう生き飽きた なにをやっても墓所の主の言うとおりにしかならん あとはあの小娘が背負って立てばいい」と言い残し(ここまで単行本6巻
ところがちょうどそのころ聖都シュワの墓所に戻った皇弟は、神聖皇帝の片割れ、超能力を持たないが故に組み敷かれてきた皇兄ナムリスのクーデターによって殺されてしまう。皇兄は人工生命、不死身の怪物ヒドラの軍勢を従え、「恐怖と歓喜の火のような日々を生きるために」自ら出陣する。
ついに本格化した大海嘯の中、いまや戦線は完全に崩壊し、トルメキア軍も土鬼各国の軍勢も撤退を開始し、大量の土鬼の民衆が難民となって動き始めた。その混乱の中ナウシカを探すユパたちは、脱出の方法を失い、兄皇子捜索隊が来たらその艦を乗っ取ることに一縷の望みを賭けて待ち伏せていたクシャナたちを発見する。
クシャナは部下の生命と引き換えに降伏する。アスベルはペジテの仇を前に激昂するが、ユパの説得により復讐を思いとどまる。救出されたクシャナはユパに、大海嘯の後にこそ、残された土地をめぐって戦火が再燃し、より多くの命が失われるのではないか、と問う。かつて古エフタルがそうであったように。「真の王道を歩むものが出現しなければ人間は滅びる。」と彼女は他人事のように言う。
ナウシカたちは粘菌の追跡と難民の救出に奔走するが、粘菌の勢いはとどまることなく大地を呑み込んでいく。「どんな生命でも喜びや充足を知っているのに、憎しみと恐怖しか知らない」粘菌にナウシカは深い哀しみを覚えるが、その粘菌を追跡して力尽きた「腐海」の蟲達の死骸を苗床して生えてくる「腐海」の植物の芽を見て、新たな結論に到達する。
「助けを求めている南の森」とは、人間の作った粘菌に蹂躙される自然のことではなく、異質な環境に放り込まれて恐怖に怯えていた粘菌自体のことだったのである。蟲達は粘菌を攻撃するためにではなく、それを食うことによって「腐海」の生態系の中に取り込んで安定化するために来たのだ。この結論に絶望したナウシカは、暴走する粘菌の合流地点で蟲の群の本隊、王蟲たちの到達を待ち、そこで、ともに「森になろうとする」。しかし死に際の一匹の王蟲が彼女を飲み込み自らの漿液で保護し、かのじょはそのまま眠りに付く。
ユパとクシャナはクシャナの軍が立てこもるサパタの都城に到着するが、そこはすでに瘴気に覆われ、本隊は脱出した後で、わずかな留守番の兵士達はヒドラに襲われて全滅していた。さらにそこに襲来したヒドラの部隊にクシャナは拉致され、後を追ってヒドラの母艦にとりついたユパは皇兄に会う。
彼はクシャナを妻としてそのトルメキア王位継承権と第三軍を手に入れ、トルメキアに侵攻して土鬼トルメキア二重帝国を作り上げようと野心を抱いていた。生き残りの兵を救う為にクシャナはその提案を受け入れる。
難民達を指導して何とか秩序を取り戻そうとするチャルカは、民衆が大海嘯の到来に絶望し、彼らを救いに飛び回ったナウシカを「青き衣の者」、ただし現世において救いを示すものではなく彼岸へと救済をもたらす者と信じ、腐海に没した故郷で安らかに死にたいと願うのを見て焦燥に襲われる。「おなじ予言が時には生への希望と成り時には彼岸への憧れとなる」。「僧会は人民になにをしてきたのだ虚無をはびこらせただけなのか・・・・」
飛行艇を奪って脱出したユパたちは僧会の追ってによって撃墜され、「腐海」に墜落するが、森の人の一行に救われる。森の人は「蟲使いの祖にして最も高貴な血の一族」、彼ら自身の語るところでは古エフタル王国の大海嘯による崩壊の際、「青き衣の者」に率いられて「腐海」に入り、そこで生きることを選んだ者達の末裔である。彼らは「火を捨て 人界をきらい 「腐海」の奥深く住まう者 蟲の腸をまとい 卵を食し 体液を泡として住まう・・・・」、つまり「腐海」を敵とせず、大地を汚さず生きるものたち、「腐海」の生態系を熟知し、そして当然に、ユパやナウシカが気づいた真実を初めから知っていたものたちである。
彼らもまたナウシカと同じように蟲たちの大移動を察知し、南への探索の途上であった。彼らにつれられてユパ達は「腐海」を突破して土鬼の地に到達し、追ってきた風の谷のガンシップと首尾よく合流を果たす。ところでガンシップは其の途上で、土鬼の浮き砲台がペジテを襲ってトルメキア軍から奪ったとおぼしき巨神兵を輸送しているのに遭遇していた。
他方、クシャナの部隊とともに土鬼の地に到達したナウシカは「腐海」から遠く離れた村までが瘴気に襲われて全滅しているのを目撃する。
クシャナの目的は自分を陥れようとする父ヴ王を欺き、忠実に土鬼を進撃する振りをして、奪われた自らの最強軍団、第三軍に合流し、指揮権を奪還し王に逆襲することだった。瘴気を利用した土鬼の総反抗の中、撤退するトルメキア軍のしんがりをつとめさせられている自軍を救い出す為には、瘴気の謎を的確に追跡するのみならず、優れた技能と母性的カリスマを発揮して兵の心を捉えつつあるナウシカの力が役に立つ。そして彼女はついにトルメキア軍最南端拠点、土鬼サパタ士侯国の都城に立てこもる自軍との合流に成功する。
クシャナが、そこで脱出の血路を開くべき会議を計画する一方で、ナウシカは大量の非戦闘員の捕虜の存在に憤激する。減り続ける労働力不足を補う為の奴隷の獲得は、この戦争の主要目的のひとつであった。ナウシカはクシャナに捕虜釈放を要求するが、クシャナは「手を汚すまいとするお前の言いなりになるのは不愉快だ」戦闘への参加を其の交換条件として提示する。
仕方なく戦闘に参加したナウシカは、会戦目的が敵土鬼包囲軍の殲滅ではなく、攻城砲台を撃滅して脱出のための時間稼ぎをすることにあるのを利して、砲台殲滅を機に、本来「腐海」の蟲を音で脅して追い払うために用いられる鏑弾を撃って敵の馬脚(正確には牛脚。土鬼の常用役畜は「毛長牛」なお、トルメキア、エフタルの常用役畜は「トリウマ」)を乱し、その隙に、「これ以上の流血は無用!!」とクシャナに撤退を求める。
クシャナはコレを承諾し、退却し、敗走中にナウシカに救われた兵士達の分隊がナウシカを援護し全滅する。ナウシカは危うくとらえかけられるが、ユパから贈られた忠実なトリウマ、カイの死を賭けた奮戦によって脱出に成功する。(ここまでで単行本第三巻)
まずはじめに、マンガ「ナウシカ」をお読みになっていない読者のために、そのあらすじをやや詳しく説明しておこう。
すでに多少説明したことでもあるし、本書の読者であれば、マンガ「ナウシカ」を読んでおられなくても、すでに何度となく
テレビで放送され、どこのレンタルビデオショップにも置いてあり、へたをすればほとんど国民的映画扱いのアニメ「ナウシカ」
をごらんになっているであろうから、アニメと漫画双方に共通する限りでの設定の説明は省略する。
しかし、漫画「ナウシカ」のストーリーはきわめて複雑に錯綜しているため、必ずしもテクスト通りには整理できないがご容赦いただきたい。
もちろん、この記述で納得なさらずに漫画「ナウシカ」のテクストに実際に当たられることが一番である。
物語の発端はアニメ「ナウシカ」と同様に、風の谷」付近の「腐海」でのナウシカとユパの再会、ユパの風の谷訪問である。
平和なこの国も別転地ではなく、「腐海」の毒は確実に浸透し、人口は年々減り続けているし、近々始まる戦争にナウシカは
時期族長として、病める父、ジルに変って、同盟宗主国トルメキアの軍に従軍しなければならない。
そんな時、谷付近で不時着した飛行船から隣国ペジテが同盟国であるトルメキアから滅ぼされたとの報が入る。
飛行船に乗っていたペジテの姫ラステルはいまわの際に、ナウシカに謎の「秘石」を渡し、それをトルメキアの王に渡すことなく
兄の元に届けるように依頼する。
ペジテ避難船の動向を察知したトルメキアの部隊は程なく、風の谷に現れ、谷の代表として対峙したナウシカと一瞬即発の事態
の空気が流れるが、ユパの仲裁によって事なきを得る。しかしその際トルメキア兵を一人殺めてしまったナウシカは自分の中に
眠る力と凶暴性に恐怖する。
出発前夜、ユパはナウシカが管理する城の地下最下層にある部屋に案内され、そこでナウシカが管理する「腐海」の植物群を
目にする。通常の「腐海」の環境下では瘴気を発する植物群も、清浄な地下水と土で育てれば、毒を発しないのである。
これを見てユパは腐海の生態系が土壌中の有害物を還元して無害化し、かつての産業文明が汚染した地球環境を浄化している
という自らの仮説に確信を抱き、独力で実験的に結論に到達したナウシカこそ、人類の未来を握る存在だと直感する。
ナウシカは谷の将来のためにあえて、若者を残し、老人達ばかりの戦闘従者率いて、ガンシップ(小型の戦闘用高速飛行艇)とバージ(艀
ガンシップに牽引されて滑空する輸送用グライダー)で、近隣の、同じく「腐海」のほとり(この地域は「辺境」あるいは「エフタル」と呼ばれる。)に位置する小国家郡の軍勢とともにトルメキアの部隊に従軍するべく出立する。彼女達が合流する部隊の長はトルメキアの第四皇女クシャナである。彼女は本来一大軍団の長であるが、自軍の兵力の大半を主戦線に召し上げられ、今はペジテ攻略のためのわずかな兵力しか手元にない。彼女の任務は当初、ペジテで偶然発見され、その危険性を察知したペジテ当局によって封印された最終戦争「火の七日間」の超兵器、巨神兵の奪取だったが、其の復活の鍵である秘石の紛失によって当面巨神兵は役に立たない。
ついで新任の参謀クロトワによって、現有兵力プラス辺境諸族の同盟軍によって「腐海」を突破し、主戦線とは別方向から遊撃を行えとの指令が中央からもたらされる。彼女の側近たちは激昂し、この作戦自体が彼女の政敵である兄皇子たちによる、彼女を陥れる為の罠ではないかと憂慮するが、クシャナはおとなしく指令どおりに行動することを決める。
クシャナの軍とナウシカら辺境諸族の軍は「腐海」上空で合流するが、ランデブーポイントに突如ペジテのガンシップが飛来し、攻撃を仕掛けてくる。それはラステルの双子の兄アスベルであった。攻撃に巻き込まれて風の谷のバージは牽引ロープを切られ「腐海」に不時着する。
初めて本格的な戦闘行動に直面したナウシカは、機敏な行動でバージを不時着へ誘導し部下の命を守ったものの、殺戮に軽いパニック状態になりテレパシーでアスベルに攻撃をやめるよう呼び掛ける。
そのため隙を作ったアスベルもまた、クロトワの操るコルベット(戦闘用高速飛行艇)撃墜され「腐海」に不時着する。
「腐海」に降りてバージを救ったナウシカは、そこで「腐海」の主とも言える巨大な蟲王蟲と接触し、アスベルの生存を察知し、ただ一人メーヴェ(一人乗りの動力凧)に乗って救出に向かう。辛くも生き残ったアスベルは「腐海」の蟲たちを殺しすぎ、蟲の群の集中攻撃を受けていた。
ぎりぎりのところでナウシカはアスベル救出に成功するが、二人して「腐海」最下層へ落ちてしまう。気を失ったナウシカを守ろうとするアスベルの前に現れた王蟲は、ナウシカを小サキ者と呼び、彼女がそう望むから殺さない、早く去れ、自分達は助けを求める遠い南の森へ行く、と言い残して去る。
「腐海」最下層は瘴気が無く、空気も水も清浄な場所であった。ここでナウシカは「腐海」が地球環境を浄化しているという自らの直感の裏づけを得る。そしてナウシカとアスベルはメーヴェで「腐海」から脱出するが(ここまでで単行本第一巻)
初めて読んだのは幼稚園くらいの時(父親の蔵書だった)でそりゃ余計怖いわ。
そこで同じく警察が潜入捜査してたのがバレた時に処刑される際に登場した。
コワイからという理由でつけられたのであろうパッチリとした一つ目(絶対機能的にいらない)にトラウマである。
多分コブラと戦うことはなく、出番はそんだけ。まさにビビらせるためだけに出てきた。
要するにベジタブルである。もちろんベジータより登場は十年以上早い。
分厚い鎧を纏った植物人間。
鎧を脱ぐとハイエロファントグリーンのように筋の(血管?)浮いたグロイ肌に、
口がグロ触手になっててそこから人を操る種子を埋め込むというホラー映画顔負けのデザイン。
真ん丸真珠のようなボディにうじゅるうじゅるしたタコアシがくっついた顔がどくろのような生物。
エネルギーを食って巨大化していく。
女性の首筋にとりついて殺すシーンがチビりそうなくらいコワイ。
集合して人間そっくりに化けることができる。
コブラに依頼を頼もうとした女性を襲う前に虫文字で窓ガラスに「KILL」とか書いて脅してくる精神攻撃に震え上がった。(でも今考えると結構お茶目だな)
なんか全身超高熱発火してる全裸のお姉さん。超おっかけてくる。
その姿というより、その時のコブラのパーティの一員だったドグが一瞬で燃やし殺されたという展開がトラウマである。
コブラでは長編においてパーティを組んだ時の仲間って死なないことが多いのだが、
このエピで初めてパーティ組む展開の話だったので、えっ、仲間死ぬの?!って
余計びびった。ドグェ…。
全身ゴムマリのようなボディのサイボーグ手術を受けたお姉さん。
空気を吸ってフワフワ飛べるわ、水道の蛇口からポコンって尻から出てくるわ、
固めて集めて襲ってくる。
なんかロボットぽくない人間ポイでざいんに黒目がちなデザインがクリーチャー気持ち悪い
コブラのあふれんばかりの才能にに嫉妬した人に間違って殺されたお姉さん。
コブラの部屋のシャワーに入った所で温度を上げられる操作をされ、
電子レンジされて焼き殺された。いやすぎというか危険すぎないかその風呂。
逆にアニメではなんかもうすぐ死ぬとか設定を追加されちゃったベガかわいそす。
名前あったけど忘れた。
目をカッとあける様にトラウマ。
なんかエネルギー吸ったりそれを注入して操ったりする。
何日かに一回超放射線が発射され、
なんか雪型のアリのような生物。
女王は超でっかい雪の結晶型でギャーとか吠えてて冷静に考えるとバカっぽい。
この話、ラスボスといい全体的にコワイ。
存在を疑うと消える無茶な山。
ぴゅーって落ちてくの怖い上に殺人事件まで起こるから余計怖い。
人間の体に入り込んで内臓を食い荒らすというひどい奴。
2回登場しました。
冷静に考えるとちょっとブラックジャックに似てるなコブラって。
ちょっぴり哲学的に締める読後感とかが。
プランクトンは生態ピラミッドの中で重要な役割をしてる。いなくなればたちまち生態系は崩壊する。消費だけしてるヲタクも同じだ。ピラミッドを底辺で支えている彼らがいなくなればたちまちヲタク業界は崩壊する。
もちろん生産も消費も出来るハイブリッドなヲタクは確かにいる。質の高い物を生み出せる者達もヲタクの母数全体で見れば少数だが、母数が大きいゆえに沢山いる。彼らはいわばヲタクピラミッドの上位者だ。その最上位がヲタク産業のプロ生産者達だろう。
彼ら生産者だけでヲタク産業が回せるだろうか?答はノーだ。金が枯渇してしまう。なぜなら彼らの大部分はアニメや漫画を作るために時間と金を注ぎ込んでおり、彼ら以外の誰かがそれらを買い支えない事にはその生活を維持できないからだ。
そこで登場するのがヲタクピラミッドの下層にいる消費型ヲタクだ。消費型ヲタクが生産型ヲタクの作ったものに金を払い、その金で生産型ヲタクが作品を作れるような社会環境が維持される。
ここからがいわば本題「消費型ヲタクとしての純度が高ければ高いほど、ヲタク業界外からヲタク業界にお金を引っ張ってくる力が強まる」という話だ。要は消費型ヲタクがいかにヲタク産業に貢献してるかという事だ。
順を追って説明しよう。ヲタクだって大部分は当然のように働いているのだからどこからか給料をもらうわけだ。ヲタク産業のプロはその給料の出処がヲタク業界からであり、それ以外は一般社会からだ。そしてヲタクたちはこの金をヲタク産業に注ぎ込んでいくわけだ。
もしもヲタク業界がプロ生産者しかいなかった場合、ヲタク業界に回る金、プロの給料はやがてなくなってしまう。なぜならプロが生活をするための金を一般社会に払っているからだ。そう、誰かが一般社会からヲタク産業に再びお金を回してやる必要がある。そこで消費型ヲタクが必要になるのだ。
この消費型ヲタクが一般社会からヲタク産業に回す度合いは、彼らの消費傾向が強いほどに大きくなる。彼らが「俺も同人誌とか書こうかなー」と思って生産活動に手を出すと、ヲタク産業に回るはずだった金の一部が印刷業者とかadobe(Photoshop作ってる会社)とかに流れてしまう。つまり、ヲタクとしての生産活動をしようとすることで、ヲタク産業に流れるはずだった金の一部が一般社会の方に戻っていってしまうわけだ。
つまり、より純粋に消費だけをするヲタクこそがヲタク業界を支えているという見方もできるということだ。
結論、消費だけをするヲタクはヲタク産業に無くてはならない存在であり。彼らがいなければヲタク産業は成立しない。消費だけしか出来ない自分を悲観せずに、消費をする自分を誇ってじゃんじゃんヲタク産業にお金を流して欲しい。ありがとう消費型ヲタク、君たちが養分となってくれたからこそ今のヲタク産業は存在しているのだ。
P.S
細かい所にケチをつければいくらでも叩けるような文章になってしまいましたが、内容自体は本気で言ってます。読んでくれた人、ありがとうございました。
もうちょい調べれば?
ブルーギルはブラックバスの餌として調度良いので、ブラックバスの違法放流と同時にブルーギルを放流してた、という事実はあるよ?
元々ブルーギルは外国からもらってきたものを養殖しようとして上手くいかなそうだから放流してそこから日本に広まってったものみたいだけど、
ブラックバスの居る場所にさらにブルーギルを放流してた、っていう事実はあるわけで。
元々天皇が譲り受けた形のものが最初だから、それが下手に広まっちゃって、
心痛めてる、って話まであるわけで。
http://www.asahi.com/eco/articles/NGY201309070047.html
悪質な釣り人が、ため池にブラックバスを違法放流したという話。別にこの記事が嘘だと言うつもりはないのだが、「本来いないところにブラックバスがいるのは釣り人の違法放流のせい」というイメージが過剰に流布されていて、皆もそれを疑っていないという気がする。誤解してほしくないのだが、違法放流は実際にあると私もわかっている。ただ、分布が全国津々浦々に広がってしまった要因としては、違法放流よりも、かなり小さな水路も含めて水系の中を移動し、旺盛な繁殖力で生息域を広げた彼らの能動的な繁殖力のほうが圧倒的に大きいのではないかと考える。違法放流が原因というのは、マスコミがニュースにしやすい。自らの利益のために生態系を破壊する釣り人というニュースのストーリがー作りやすいだけに、それは実態以上に過剰に流布されたイメージであり、真の原因はブラックバス自身の絶望的な繁殖力であり、より深刻な状況なのではないかと思う。すなわち、池干しした後、違法放流がなくてもまたすぐに池にブラックバスが出てきてしまうおそれが高い。
なぜそう思うかというと、同じ外来肉食魚であるブルーギルの存在だ。ブラックバスがいるところには大概ブルーギルもいる。しかしブルーギルをわざわざ違法放流する釣り人はほとんどいない。ブルーギルはブラックバスに比べて格段に小さく、厚みもペラペラなので釣りのターゲットとしては魅力がない。仮に釣れても「あーあギルかよ」とガッカリするのが普通のバス釣り人の反応である。さらに、ブルーギルは在来種の卵を食べることで問題になっているが、ブラックバスの卵も食べるのだ。そのためブラックバス釣りの愛好家からはむしろ嫌われる存在である。
このブルーギルももはや駆除不能なレベルで全国津々浦々に拡大してしまっている。これが示唆する事実は、違法放流がなくてもバスやギルは全国あまたの河川・湖沼に拡大していく力を持っているということだ。一方で違法放流で新たにブラックバスを生息させるには、少なくとも数匹以上を放流する必要がある。もちろん、特に過去において、しばしばそういうことが行われていたことは知っている。
別に釣り人の方を持つわけでもなく、一方でバス・ギル問題の解決策を持っているわけではない。そして誰からも歓迎されない指摘だと思うが、ひとつの池単位であっても駆逐は不可能だと思われる。その水系すべてからバス・ギルを締め出さない限り。例えば、最終的に利根川に繋がる河川、池、沼のどこかにバス・ギルがいたら、それが全体に拡大していく。おそらく想像よりもずっと小さな水路も含めて。そして、ギル問題から推察すると、水系すら何かに混ざって跨いでいる可能性がある。それが何かはわからないが。
勿論、匹数をコントロールするというのが目的であれば池干しは有用であろう。
何の役にも立たないエントリで恐縮だが、ここで言いたかったのは、悪辣な釣り人の違法放流が外来魚問題の主要因のような形の報道がなされているが、事実はそうではないのではないか、という冷静な事実の指摘である。
イルカ漁が悪く、牛や豚の畜産が許されている理由は只単に多数派の合意が得られているからである。
多数派の合意の下、さまざまな(かつ非合理な)規制が行われてきたのは生きているなかで幾度となく経験されていると思うが、
それと全く同じ議論が成立する。
反面、イルカ漁の合理性を考えたとしてもこれほど無意味な風習はない。
海域の生態系の維持を目的とするにしても、この合理性を科学的に証明したものを寡聞にして知らないし、
マグロやウナギで失敗続きの日本の漁業でそもそもイルカの生態系が維持されるのか非常に疑問である。
徒に他人を煽って敵を作るよりも、彼らとどのようにうまく付き合っていくかを考えるべきで、
http://anond.hatelabo.jp/20140119001755
1億年経てばいろいろあるでしょう。氷河期、温暖化、火山の噴火、大地震等の環境の変化。
地球上の生物に対して生き残りをかけた数多くの試練が与えられる。同時に環境に適応するために進化する必要を迫られる。
しかし、それは野生の動物の話。超科学力を手にした人類の庇護を受けた動物ははるかに生き残りやすい。
現時点で「かわいい」という武器をもったイルカが無条件に保護されようとしていることからわかるように
今地球上では「かわいい」動物のほうが生存競争に勝ち残りやすい。
生態系の頂点に立つ人間から攻撃されることはないのに加えて、環境の変化で個体数が減ったら「かわいそう」だから人間は必死に増やしてくれる。
同様に美味しい動物も増えるでしょうな。
ペンギンなんかとても環境の変化に弱そうだけど、奴らには盤石のかわいさがあるから大丈夫でしょう。
逆に言えば「醜い」動物は淘汰されていく。
蛇なんかはかなり危ない。ただでさえ気持ち悪いのに、毒持ちとか人類に害をなす敵なのだから。
ゴキブリなんかも大部分は消える。ゴキブリ嫌いの狂った科学者が根こそぎ殺す。一億年あれば方法も変な人も現れる。
原発なんか廃止すればいいだけのことで、きわめて容易な問題だ。廃止しても生きていけるのだから、廃止すればいいだけのことだ。こんなことで騒いで争っていることがくだらない。同じように、タバコにしてもパチンコにしてもさ、廃止すればいいだけのことだ。多くの地域では、ここ数年にわたって爆発原発から流れてきている放射能よりも、例えば副流煙のほうが健康被害の点でヤバい。ずっとヤバい。
「安全が確認されていない」、もっと言えば「安全ではない」というものは世の中にたくさんある。
本当にヤバいのは、例えば「遺伝子組換」だとかトランス脂肪酸だとか人工甘味料だとかだ。
結論から言えば、本当にヤバいのは、食糧危機に対してどう取り組むかという問題だ。いま世界的に深刻な食糧危機にあって、さらにひどくなるのは目に見えている状況で、どうやってこの膨大な世界人口を支える食糧を確保するのか。
「遺伝子組換」というのはその解決案でもある。だが、ご承知の通り「安全が確認されていない」し、また生物を作り替えるというキモいことをしていて、生物の虐待でもあるし、また新生物をつくりだすことで環境破壊につながる(生態系を壊す)。それでも我々自身の食糧がないとなると、おそらくほとんどの人は、遺伝子組換でもなんでも、悪魔に魂を売ってでも、生きようとするだろうね。
廉価に大量に生産したりロス率を下げたり(歩留まりを上げたり)するには、「遺伝子組換」でも、農薬や肥料でも、トランス脂肪酸や人工甘味料や保存料などでも、使っているわけだ。
多くの人は、「安全が確認されていない」という理由で、例えば食えなくて、自分が死ぬということになるのならば、危険を冒すだろう。だが、自分一人や自分たちや人類が生きようとして危険を冒した結果として、かえって人類が絶滅したり、世界生物が滅んだりする危険性がある。本当に難しい問題はそこにある。それに比べれば、原発ごときは廃止すればいいし、我々が省エネを徹底したらいいだけだ。実にくだらない。
中国人などが時々、日本に来たらゴミのポイ捨てが少なくてビックリした、などと記事に書いているのを見かける。私は中国に行ったことがないのでわからないが、中国の都会はそれほどまでにポイ捨てが多いのだろうか。日本では残念ながら近年は特にポイ捨てが増えており、そのために罰則が設けられている市町村が増えた。中国人に「日本人は昔は法令がなくたってポイ捨てはしなかったよ」なんて言ったら驚くだろうか。
日本人にポイ捨てが少ないのは、残念ながら、おそらくは、民度によるものではない。一部の外国人は、日本を訪れたときに気づくようだ。日本人にポイ捨てが少ないのは、道徳倫理のルールで洗脳されてきたからだ。なぜ悪いのかということではなく、悪いと言われているから悪いのだと思っている。昔は、悪いものは悪いのだから人目がなくてもやらなかったが、いまは道徳倫理観ではなく法令順守と言うから、バレなければやるという人が増えたように思う。
近代西洋国家の「民度」というのはつまり、民主主義国家だから自分たちが決めたルールには遵う、という論理である。街も市民の共有物であるから、自分のものを汚染しないのは当然だと考えている。ところがこの日本には、そうした民度はきわめて低く、ルールはお上が決める、政治家や官僚が決めるものだと思っている。
「徳」というのはもともと儒教から来ており、中国生まれだ。韓国も日本も、中国科学を受容し、儒教や道徳も輸入したのである。日本人にとって、「道徳」とは少なからず、他人から教えられるものであって、自分で考えるものではないようだ。ついでに言えば、道徳先進国であったはずの中国だから、ポイ捨てが多いのだとすれば残念なことだ。
さて、本来の倫理観というのは、他人から教えられるルールではない。地球で暮らしているうえでの人としての責務である。例えばアボリジニでもイヌイットでもアイヌでもネイティブアメリカンでもなんでもいいが、彼らは自らを地球(という概念を彼らがもっているかは別として、そうした総体的感覚)の生態系の一部だと認識して暮らしており、だから他人のみならずあらゆるものに対して、汚染すまい傷つけまいと努力する。ほどほどにとどめておくという意識が高い。ほどほどにとどめなければ、環境破壊でとっくに破滅していたはずだ。採り過ぎたら食糧はなくなる。
こうしたいわゆる先住民的な思想というのは、近代西洋人からはしばしば「野蛮だ」「未開だ」つまり「プリミティブだ」とも言われてきた。その近代西洋人たちは地球をことごとく破壊して生物を採り尽くしてきて、いまがある。
実は、日本人にしてももともとは先住民的な、「未開の」人たちで、国土と交じり合って暮らしてきた。だからいまでも農業や漁業などの根本思想のなかには、採り過ぎてはいけない、ほどほどにしてつりあいを保たなければならない、という発想がある。そうした「個人」や二分論のような理屈では割り切れない思想をもっていた日本人は、近代西洋人からするといわば「ぬえ」のような存在なのかもしれない。彼らからすると、日本人というのはいまでも、得体が知れない。
ポイ捨てをしないということを元来の日本思想でとらえればすなわち、国土を汚損しないように努めなければならないから、である。それが本来の倫理観なのだ。こうした倫理観が欠如しているいまの日本人たちには、他人から教わるような成文法的「道徳」だとか、あるいは「法令順守」だとかいう理屈ばかりが出てきてしまう。言い換えれば、「思考停止」と言う。
今日も、「荒れる新成人」という毎年恒例の話が出てくる。しかし、新成人に文句を言って嘆く既成人たちは、「なにがなぜ悪いのか」を説明して叱れるのだろうか? 叱責が説得力をもつためには、なにがなぜ悪いのかを説明し、しかも叱る当人が己を律していなければならない。
「人を殺してはなぜいけないのか」という疑問が話題になったことがあったが、「そうした疑問をもってはならない」という社会気質が、この国にはある。何も考えずにただ「殺人=悪」だと言う。しかし、そんな思考停止では、真の倫理観は育つまい。究極的には、刺すか刺されるかの状況になれば他人を刺すものが必ず出るし、「死にたい」と思っている者には「他人を殺すまい」という抑止力はきわめて働きづらい。ただ単に「殺人=悪」だと言って洗脳するのでは、ものごとは解決しない。
この社会にあるのは、道徳倫理ではない。潔癖症なのだ。言い換えれば、怖いのだ。多くの者が、死を怖れると同時に、快適に暮らしたいと思っている。その、自分たちにとって心地の良いような潔癖な社会にしようとする理屈でできているのであって、真に「なにが悪いのか」は考えていない。
「なにが悪いのか」を考えずに杓子定規に順守して、「俺も守っているのだからお前も守れ」と言うのだろうが、そんな理屈ではよくわからない。ところが、いまの多くの人たちは、「俺はこんなに頑張っているのに」「私はこんなに苦しいのに」と言って他人に八つ当たりする。大流行中だ。
古くは、自分でも「悪い」とは思いもよらなかった行為を、偉い人に怒られたり、天変地異の原因になったと思ったりしたから、「しきたり」ができるようになり、いささか不合理な「しきたり」でも杓子定規に遵守するという社会気質ができた。それがそのまま江戸時代ころにはもう全国家的に流布されて、皆「お上」の言うことをきく「踏み絵社会」ができあがっていた。
さて、そもそも、社会的善悪というのは、真の善悪とは異なると思う。社会的善悪というのは、人間にとっての都合の良し悪しだ。自分たちの自我にとって「得だ」と思うことが善になり、「損だ」と思うことが悪になる。だから、死にたくなければ他の生物も殺すし、インフルエンザウイルスであれなんであれ、徹底的に殺すようにしているだろう。昔も今も、多くの生物を殺戮して、しばしば絶滅させてきた。
昔はもっと、「殺生は悪だ」ということが一般的に言われていた。いまは、平気で生物を殺すし、動物がたくさん殺されて食べられている。動物を殺すのを見たくないから食べない、というのではなく、見ずに食べる方法をつくりだして逃げている。ついには、魚肉や鶏肉に骨がないようにまでしている。もはや、生物っぽくなく、便利に食べられる。もちろん、骨抜き魚肉や骨抜きフライドチキンが出てくる以前に、チキンマックナゲットだろうがハンバーグだろうが、骨を意識することはないのだが。いまの欧米人はこの国の活造りを見ると「残虐だ」と言い出すが、我々はもともとは、生き物を殺して喰らっているという自覚をあえてもって、また、ピチピチしているのを見て「新鮮だ」と言って、喜びと有難みをもってきたのだ。反対に、たとえブロイラーにしようがハンバーグにしようが、動物を殺している残虐からは不可避なのだ。例えばマクドナルドなどにしても、全世界的に食肉を大量生産して流通させているが、膨大な殺生をしている。大量の飼料や水を消費して牛を飼い、また、深海魚まで獲っている。それはムダな消費なのではないか?
まあどうせ昔も、「殺生=悪」という「しきたり」でしかなかったのかもしれないが。だが、きっと、釈尊にしてもそうだし、「無益な殺生をしてはいけない」と言った多くの偉人たちのなかにも、「殺生ばかりをしていたら自分たち人間も生きていけないだろう」と直感していた者が少なくなかったのだろう。ただそれが、日本社会では、形式的にばかり順守される「法令さえ守っていればいい」的な実態になったのだ。それは結局のところが、日本社会のほとんどの人が無教養で思考停止をしているからなのだろう。つまりは洗脳されてきただけだ。
我々が生きていくためには、生物を少なからず殺す必要がある。そうしないと食べていくこともできないだろう。直接にも間接にも、殺生をしている。だが、際限なく殺しまくっていたら、無益な殺生になり、そして殺された生物種がしばしば絶滅する。
自我の屁理屈を超えれば、他の生物を殺しすぎるのは、生態系のつりあいを破ることになるから、我々自身も生きていくことが難しくなる。したがって、無益な殺生は、生きていくという観点でも明らかな悪だ。無益な殺生が悪だということは、合理的に説明可能だ。
いまのこの国では、「本当のこと」が言えない。例えば、政治的な発言が忌避されるのも異常だ。「それはおかしいと思う」と言える社会ではなくなっている。例えば原発にしたって殺生にしたって自殺率にしたって、さらには、インフルエンザだろうがHIVだろうがなにもかもを殺戮して存在を消し去ろうとすることの異様さにしても。
他人を叱れないし、叱る能力(冒頭に書いた通り)がそもそもない人が多いのだろう。なにがおかしいのかを言える雰囲気でもなければ、なぜおかしいのかも言えないからなのだろう。ひとりひとりが叱れない社会だから、マスコミが代弁することで憤懣の捌け口になっているのだろう。
我々は、完全には清廉潔白でいることはできない。殺生をしなければ生きていけないし、他人に迷惑をかけずには生きていけない。
だが、己の穢さを自覚しなければ、不潔であることに対する抑止力は働かないのではないか。
皆がまたぞろ、自分にとって都合のいいと思うことをやりたいから、例えばガソリンなどの資源エネルギーも多用するし、そうして地球温暖化も進んでいるのだろうし、有毒物質もまきちらしているし、将来の資源枯渇へと「ツケまわし」もしている。だが、「それは悪いことだ」とは、ほぼ誰一人として言わない。例えば、「自動車を抜本的に減らせ」とは、ほぼ誰も言わない。乗りたいからなのだろうし、自動車があることで産業があり雇用があるからなのだろう。同じように、「タバコは有害だから禁止すべきだ」どころか「増税すべきだ」と言うことすら、すぐさま自民党などから「葉タバコ農家が〜」という屁理屈が返ってくる。それではきっと、葉タバコ農家は死の商人だね。JTも、その大株主のこの国も、同じ国民から「血を吸って」「肉を喰らい」生きているのだ。
例えば米国人がやっていたら、この国でもやっていいことになる。迷惑駐車でもポイ捨てでもなんでも「他人たちがやっているから自分もやっていい」という言い訳は必ず出てくるだろう。互いに都合のいいことなのだから、みんなして「赤信号も渡る」のだろうし、「崖っぷちへと突撃する」チキンレースをやりもする。
ところで、自分たちにとって都合の悪いと思われる生物を徹底的に殺戮してきたから、HIVが出てきたり、新型インフルエンザが出てきたりしたのだと思う。少なくとも、薬物耐性病原体は、過度の殺菌をしてこなければ出てこなかっただろう。そうして、潔癖に潰しまくってきたから、いわば「テロ攻撃」が他の生物から、地球から、加えられているのだ。
それどころかさらに、いまの我々は、自己の心身にすら欺いて、自我が都合の良いと思うことばかりをしているから、心身の反乱をくらっているのだろう。癌にしても、アレルギーにしても、「精神疾患」にしても。人工的に潔癖な生活空間をつくってきたから、心身にとってかえって不健康なことになっている。
地球の生態系のつりあいも、自己の心身のつりあいも、壊しているからだ。だからかえって危機に陥る。不健康になる。
この国では少子化だと騒がれているが、世界人類はいまも増え続けている。はたして、「人口増=善」なのか? 人類が増えすぎたら、地球の生態系のつりあいは崩れる。すでに崩れている。しかし、自分が生きたいと思っている人たちは、「出産=悪」だとは決して言わないだろう。真実を言わないし、真実に気づきすらしないのかもしれない。
昔から、例えばクリスチャンは「人は原罪を負っている」と言う。また、この国では浄土真宗の檀信徒が最大多数だと言われているが、そもそもの浄土宗や浄土教は、悪の自覚から始まっている。つまり、「自分は悪人だ」と自覚しているからこそ、「地獄に堕ちる」と思い、「どうやったら救われるか」と考えるのである。それに比べると、いまの人間には、悪の自覚が足りない。
自分たちを律することができず、ゆがんでいく。ゆがんだことでトラブルが起こるごとに、対症療法をする。砂糖を入れすぎたから塩を足すかのように、余計なものをどんどんと付け足していき、だからますます錯乱していく。ぐにゃぐにゃにゆがんでいく。
究極的には、己の死に対して覚悟がないとはじまらないのだと思う。人類は、過剰な生存意欲があるからこそ絶滅せずに生きていられたのだろう。だが、だからこそ、生存意欲の過剰さに対する自覚をもたないと、欲望も執着も、いくらでも膨張して肥大化していく。そうして、人類も増えすぎるし、生物も殺戮するし、資源も食い尽くすし、自己の心身さえも傷つける。
異質な他者の存在に対して、多様性に対して、寛容に、しなやかに、ふわっと、受け入れないといけないと思う。究極には己の死に対して覚悟がないと、それはできない。だが、受け入れなければ、「テロ攻撃」が、他人からも、他の生物からも、さらには自分自身の細胞や潜在意識からも、加えられていくのだ。
いまのこの日本社会にしても、やっていることは正反対で、威圧して同調化させようとする傾向があり、それは近年ますます増している。それではきっと、ますます危険で不健康で暮らしづらい国になっていくのだろうと、私は思っている。
ヒトの肉体や遺伝子には、他の生物に感染した形跡や、取り込んだ形跡が残っているそうだ。
腸内がとりわけ知られているが、腸だけではなく、肉体の表面には様々な細菌が棲んでいる。
私たちは他の生物を殺して食べているという意味でも生態系の一部だが、肉体のあちこちに細菌が棲んでいるという意味でも生態系をつくっている。
最近は、「傷を消毒するな」と勧める本すら出ているそうだ。細菌叢の観点からみた美容法の本も出ているそうだ。それは米澤円のブログ記事で紹介されていた(笑)。
生物を殺して食べるという現実を直視するとグロテスクに思えるし、あるいは自分の身体のあちこちに細菌が棲んでいるという現実を直視するのが嫌な人もおそらく多いのだろう。だが、生物と共生している(時に殺しあう)ことで健康でいられるという現実から逃げようとすると、不健康になると思う。
そもそも、例えば乳酸菌にしても、昔の日本人はヨーグルトをほぼ食べていなかったはずなのになぜ生きてこられたのか。それはおそらく、植物に乳酸菌が棲んでいて、野菜などを食べたら一緒に乳酸菌を摂っていたからだろう。江戸時代には糠漬けが流行り、ますます、乳酸菌をたくさん摂るようになっていた。
いま売られている野菜はむしろ、清潔すぎて、乳酸菌がどれほど棲んでいるのかわからない。同時に、肥料や農薬をやっているので、その野菜が健康なのかはあやしい。
イライラするというとすぐカルシウムの話になりがちだ。だが、肉の食べ過ぎと、乳酸菌不足が、かなり大きな原因なのではないかという気が、私にはする。
「肉を食うな」ということすらもマスコミでは必ずしも言わないくらいなのに、「いまの野菜は異常だ」などという話はおよそマスコミにはほとんど流れない。不都合な真実なのだろうと思う。遺伝子組み換え以前に、野菜にしてもコメにしても肉にしても卵にしても(以下略)、時間と労力を削減し、廉価に数量を確保するために、通常ではありえない人工物が広まっている。
以前、ラグナロクオンライン(RO)を日がな一日やっている奴が大学の職場の同僚にいたのですが、楽しいだとか遊んでいるだとかいうよりもきっと、必死なのでしょうし、居場所を求めているのでしょうね。いまだってソーシャルゲームで日がな一日やっていて必死な人間がたくさんいますし。
パチンコ屋に行ったら、カネさえ切らさなければ朝から晩まで居座れるようになっているし、「無制限」だとかいうのならなおさらに、玉がある限り打ち続けるようなシステムになっています。一日中居続けられるシステムになっています。競艇場や競輪場や、たぶん地方競馬もそうでしょうが、平日からやっていますし、そこで日がな一日居座っている人もたくさんいるでしょう。なかには生活保護でやっているのもいるかもしれないし、年金でやっているのなんかならばいくらでもいるでしょう。それで「経済効果」はあるのでしょうけれども、なんだか虚しいものではあります。経済効果っつっても、その収益がどこに流れているのかっていうと、それもまた役に立っているのか疑わしいものですが。競艇だとかたとえ公益団体に流れていたとしたって、貧困者や精神障害者から取ったカネで公益事業をやって、障害者が障害者を支援している構造になっていて、なんだかバカバカしくもあります。
居場所がないのでしょうね。受け入れられていない。仕事に打ち込みまくるのも、実際にはそんなことしたって地球のためになっているかあやしいものばかりだし、それどころか社会のためにもなっているかあやしいものもあります。けれども、仕事にハマっていたら居場所があるのでしょうね。
家庭があって配偶者や我が子がいたら、居場所があって労働する理由になるのかもしれない。けれど同時に、必死に労働して稼いで、悩みを抱え込んで、悩みを吐き出す先がなくて死んでしまう人もたくさん出ています。
居場所がないんでしょうね。孤独なんでしょう。ヒトは、生態系の一部でもあり、社会的生物でもあるのに、他の生物からもわざと孤立して都会の人工環境で暮らして、そしてさらにはヒト同士も孤立して。
ヒトは元来居場所を求めるものなのでしょうし、だから「夢」だとかももつのでしょうしね。学習もし、社会に適応しようともしますし。本能的に。
話をしたのが本当かどうかは知らないけど、実際芸で使えなくなったら殺処分するしか無いでしょう。
山に放つってのが簡単な話じゃないし、その猿自体、生きてくこと難しいだろうし、
下手すりゃそこの生態系おかしくする可能性もあれば、山下って民家に被害出す可能性もあるし。
ペットについても外来種とか本来日本に居ないものなら放つわけにはいかないから殺すしか無い。
エクスキューズの為
なんてものはあり得ない。そもそもエクスキューズになってないし。