はてなキーワード: スパンとは
基本的に移植版であるが、新規イベントなどもある完全版と言える。
全ての始まり。
真3のときより短いスパンで出しているが、追加ディスクだけのバージョンも出すことで無印版を買ったユーザーも完全版から始めるユーザーもWin-Winの関係に。
なぜこの対応を今でもできないのかと言われる。
オリジナルから丸4年経ってることと、据置機から携帯機ということもあって移植リメイクというイメージが強い。
前作より期間は空いたが、まあ出るだろうなという感じ。
DLCが当たり前の時代なのに完全版を出す。PS3版を出さなかったことで叩かれる。
P5と同じく3年ほど空けての完全版。
これの問題は完全版ではなく、1の時点で続編があることを公表しなかったことだろう。
よく間違われるが続編である。
最近のいろいろな出来事をみるに、リベラル側ってアップデートアップデートいうけど、じゃあ「変化」という概念のアップデートは出来てないよなと思ってる
インターネット、特にSNS以降、世論の流れって可視化されたように見えるけど、実際の生活のスピードやリズムは変わってないし、
日本全土が東京や大阪の都市部のような生活も送っていなければ、名門大学のゼミみたいな知的環境に追い付いてるわけでもないのに
アップデートアップデートつっても出来るわけないじゃん、という、「無名の人々の意志」を全く無視してるよね(SNSは全員名前がある、「有名」だけど)
変化というものの持つ危機の側面をほとんど無視してるとしか思えない
無理やり例えるなら、原子力の、放射能の恐ろしさの側面を無視してるのと同じ
今の社会でリベラルが盛んに唱えているアップデートだとか進歩だとか倫理的うんぬんかんぬんって、本当に政治的や技術的要因による切羽詰まった要請による進歩や変化ではなく、
空手形みたいないつ必要になったのかそしてなるのかわからない概念や、大学のゼミの中での思考実験みたいなもので(そして大昔の教授たちはそれを必要以上に社会に持ち出さなかったわけだけど)、
じゃあインターネットでたとえば一万倍加速した言論を、ほんの二十年前まで身の回りの出来事が一年に1.05とか1.25とかぐらいしか進歩していなかった人々や、
地方都市で自分の家業や地域や交友関係に誇りを持って働いていてそれほど急激な進歩を必要としていない人々に無理やり押しつけても、従えるわけないじゃん
新幹線が通ったから地域社会に大きな変化が起きたとか、バブルが起きた弾けたとかでも、そういう変化は数年数十年単位のスパンで考えられていることで、「19XX年Y月Z日を機に社会は1500倍進歩しました!」みたいなことは無い訳でさ
まあ明治維新とか1945年8月15日とか象徴的な日付を年表的にかなりかいつまんで教えている義務教育の影響もあるのかもしれないけど、ともかくある日ある瞬間をきっかけに何かが急に加速するってことは無いのに、リベラルの中ではそれが起きてるように見えてるのかね
上の文章の中で1.05とか1.25とか仮の適当な数値出してるけど
イギリスでは社会保障などを整備するときに、ちゃんと社会にどんな変化が起きるのか、どんな職種の人々の生活にどんな影響が出そうか、
難しそうな概念や変化も本当にかなり数値化して練りに練って構築していて、少なくとも「変化」を制御しようという動きはしているんだよね
アメリカでもギャラップの世論調査とかは「数値」というものに現れる人々の意識の変化を何十年も積み重ねて追い続けているんだよ(そしてそこに、「数日で一万倍になる世論」とかは存在しない)
もちろんインターネットもない時代にこれだけの周到さが必要だったわけだし日本も整備の時恐らく同じことはしている
じゃあインターネット時代のリベラルの皆さんはどうなの?ちゃんと自身の言論を数値化・論理化して、その「進歩」「アップデート」を人に説明できるの?
S&P500やダウの信者ではなかったんだけど
結局30年というスパンを考えるとこの2つのどちらかをやるしかないとは思う
負けるリスクは有る、あと何十年勝てるか?は誰にもわからない、10年かもしれないし100年かもしれない
ただ他よりはマシ
オルカンは知らない、データがまだ短すぎて、オルカンでもどうせ似た結果になるそうだけど
まずチャートは対数表示にして、週足と月足にする、それ以外は見ない
・200週移動平均線を表示する
これだけ
200週を明確に下抜けたら、ノーポジになる、上抜けたら再度買う
(明確に上抜けずともタッチしたらでOK、その後少し下がるかもしれないが大きくは下がらない)
これだけ
10年くらい苦しいシーンも有る
あと大きく下がった時に取りたくなるだろうけどあまりおすすめはしない
どこまで下がるか基本誰にも分からないんだよね
その歴史の中で必要となるような技能が義務教育に組み込まれて専門学校や大学なんかで教育されてる
このあたりはそういう職業に就くために最低限必要な知識として教育されているし
それを土台にして専門知識を付けられるような社会設計が出来上がっている
これらの基本的技能を教育する中で「適性のない者は除外される」ような仕組みになっている
そもそもコンピュータの登場・普及から100年も経ってないわけで歴史がもの凄く浅い
それでも「コンピュータを使う側」の教育はそれなりに歴史があるので進んでいるが
「プログラミングする側」の教育は最近10年といって過言では無い
「内燃機関の自動車開発の教育を受けたのに今は電気自動車の開発が全盛期で、更に来年は原子力になるらしいし、その次の核融合も始まってるらしい」
ぐらいの変化が3年スパンぐらいで起きている
(こういう状況なのでだんだんと「コンピュータを使う側」の教育も微妙になってきている)
また現在一線級で活躍しているようなITエンジニアは特にまともな専門教育を受けたわけではなく
そもそもが天才なのに加えて独学し、天才達と切磋琢磨することで育成されてきている
他の分野のように「適性のない者は除外される」のではなく
「適正があって興味のあるものが偶然に採用される」という構造になっている
これは全く教育や育成なんかではない
これではマズイということで高校教育に情報が導入され、GIGAスクールで小学生にタブレットが配られているわけだが
そこで行われている教育が適切なのかどうかはまだ全然評価されていない
このあたりが米国なんかだとそれなりに教育の歴史が積み重ねられたので
そこから統計的なデータなんかを使って有効な教育法が模索されているが
とはいえそういう取り組みも50年も経ってないのでまだ2周目ぐらいで始まったばかりである
日本はどうかというと、そもそもの社会構造や義務教育の違いを無視して米国スタイルを取り入れているか
もしくは一線級の天才に意見を伺って教育法を立案していて、これは
というぐらい無謀である
「ぐーっときたらバッとやるんですよ」
と言われても分かるのは松井ぐらいなのと同じように
俺もそれ系の代表選手としてよく挙がるシュタゲとか色々やってきたけどさ。
俺は昔からその「記憶消してやり直したい」って発想にならないし、意義がよくわからんのよね。
物語の背景を走っていた葉脈を知り、作品を理解するということは、一プレイヤーとしての進歩だろ?
なぜ巻き戻して同じことを繰り返し、同じ感動を得ることに意義があると思うんだ?
そんなポルノのようにゲームを消費しようと思うことは、醜悪な懐古主義か、知的ボーダーじみた仕草でしかない。
俺だったら、むしろ逆。
「完結までやったあとに、全部理解してる状態で一からやりたい」。
そう思えるくらいに、細部まで伏線が張り巡らされ凝った世界観で作られたゲームをやりたい。
買い切りのゲームだと単に2周目に突入すればよく、容易に実現可能だから、この「やり直したい」ネタにはならない。
必然、こういう感想を持つべきなのは、非常によく作られ長年続いてきた運営型ゲーム、ということになる。
サービス初期からあった設定が何年越しで解説されて衝撃が走ったり、はじめは意味が分からなくて適当に読み飛ばしていたり。
そういったものを、年月を越えてやり直すことでより高い解像度で味わい直すことができるのは、有意義だろう。
例えば7年くらいかけて第一部が完結した暁には、新規サブ垢で半年くらいかけて駆け抜ける、みたいな感じになるはずだ。
ただ、俺はオンラインゲームは月額が主流だった00年代頭頃から、あらゆるオンラインゲームをやってきたが、
そういう欲求が湧くくらい精緻に作られていると感じた運営型ゲームはほとんど出会わなかった。
物語が素晴らしいと感じるネトゲ・スマホゲに出会っても、まず完結することがなく、売り逃げのような業態が常だった。
99%の運営型ゲームは、収益を得続けることが至上命題になってしまうから、挑戦的で刺激的な物語を定期的にアップデートしていく、ということは二の次になる。
質を求めるほど更新頻度は下がり、代わりに課金欲を煽るようなものや、物語の展開にあわせた実質上位レアリティのキャラや装備の追加、そして膨大な反復作業コンテンツ……
そういったもので物語の空白を繋ぎ止めることが常態化しており、いずれ「慣れた」ゲーマーの大半は物語をスキップし、数字を増やす遊びしか気にしなくなる……
そうしてスカスカな作りになるのが運営型ゲームの限界だと思っていた。
ところが最近になって、運営型ゲーム業界にイレギュラーが現れた。
原神やスターレイルなら、この調子でいけば、「完結までやったあとに一からやりたい」運営型ゲームになる予感がある。
一応同社の崩壊3rdもサービス開始当初からやっていたが、ローカライズに不満がありブランクを空けていた時期が俺は数年あったため、理解も半端だ。
7年を経て到達した第一部・第1.5部の完結に立ち会って、いたく感動こそしたものの、それでも「一から振り返ろう」という領域には個人的には一歩及ばなかった。
この作品はSF的なテイストと難解な設定で雰囲気は非常によく作れているものの、話の脈絡としての精緻さはあまり重視されておらず、
ご都合主義とまではいかないまでも、どちらかというとノリで強引に納得させられている印象が日本語版ユーザーとしては強かった。
こういったノリに頼りがちになるのも、柔軟に作って継続させていかなければならない運営型ゲームの「縛り」要素ではある。
この「縛り」を目立たなくするために、物語を実装地域ごとに完結するオムニバスのように細かく区切ることもできる。
実際MMORPGなどではそうした形態で作られるものがほとんどだ。だが、それでは物語を貫く背景を掘り下げていく部分がどうしても手薄になり、深みが出せない。
膨大でカッチリした物語的構造をあらかじめ練って、10年くらいのスパンを見据えて確実に開発運営していける大資本でなければ、
おそらく物語の面で品質と誠実さを備えたコンテンツ開発ができる段階には至らないのだろう。
例えば、物語は優れていたのにサ終で打ち切って、クラファン小説とグッズ製作のファン商売だけで4年近くIP展開を続けている、ららマジのようなやり方さえ、ゲーム発のIPビジネスとしては一つの正解なのかもしれない。
ただ、このWFSのやり方は俺は誠実だとは思えない。ちゃんとゲームとして続きを作ってほしいし、初出のゲームの作りが古くなってきたなら、グラブルリリンクのように立派に別の形で作り直すのが誠実だと俺は思う。
結局のところ資金力の問題なのだろうが、そういった難しい問題を抱えるからこそ、「優れた物語の運営型ゲーム」は青いバラのように求める価値があることだと思う。
何の話だ。しらんけど。
俺もそれ系の代表選手としてよく挙がるシュタゲとか色々やってきたけどさ。
俺は昔からその「記憶消してやり直したい」って発想にならないし、意義がよくわからんのよね。
物語の背景を走っていた葉脈を知り、作品を理解するということは、一プレイヤーとしての進歩だろ?
なぜ巻き戻して同じことを繰り返し、同じ感動を得ることに意義があると思うんだ?
そんなポルノのようにゲームを消費しようと思うことは、醜悪な懐古主義か、知的ボーダーじみた仕草でしかない。
俺だったら、むしろ逆。
「完結までやったあとに、全部理解してる状態で一からやりたい」。
そう思えるくらいに、細部まで伏線が張り巡らされ凝った世界観で作られたゲームをやりたい。
買い切りのゲームだと単に2周目に突入すればよく、容易に実現可能だから、この「やり直したい」ネタにはならない。
必然、こういう感想を持つべきなのは、非常によく作られ長年続いてきた運営型ゲーム、ということになる。
サービス初期からあった設定が何年越しで解説されて衝撃が走ったり、はじめは意味が分からなくて適当に読み飛ばしていたり。
そういったものを、年月を越えてやり直すことでより高い解像度で味わい直すことができるのは、有意義だろう。
例えば7年くらいかけて第一部が完結した暁には、新規サブ垢で半年くらいかけてメインシナリオを駆け抜ける、みたいな感じになるはずだ。
ただ、俺はオンラインゲームは月額が主流だった00年代頭頃から、あらゆる運営型ゲームをやってきたが、
そういう欲求が湧くくらい精緻に作られていると感じた運営型ゲームはほとんど出会わなかった。
物語が素晴らしいと感じるネトゲ・スマホゲに出会っても、まず完結することがなく、売り逃げのような業態が常だった。
99%の運営型ゲームは、収益を得続けることが至上命題になってしまうから、挑戦的で刺激的な物語を定期的にアップデートしていく、ということは二の次になる。
質を求めるほど更新頻度は下がり、代わりに課金欲を煽るようなもの、物語の展開にあわせた実質上位レアリティのキャラや装備の追加、そして膨大な反復作業コンテンツ……
そういったもので物語の空白を繋ぎ止めることが常態化しており、いずれ「慣れた」ゲーマーの大半は物語をスキップし、数字を増やす遊びしか気にしなくなる……
そうしてスカスカな作りになるのが運営型ゲームの限界だと思っていた。
ところが最近になって、運営型ゲーム業界にイレギュラーが現れた。
原神やスターレイルなら、この調子でいけば、「完結までやったあとに一からやりたい」運営型ゲームになる予感がある。
一応同社の崩壊3rdもサービス開始当初からやっていたが、ローカライズに不満がありブランクを空けていた時期が俺は数年あったため、理解も半端だ。
7年を経て到達した第一部・第1.5部の完結に立ち会って、いたく感動こそしたものの、それでも「一から振り返ろう」という領域には個人的には一歩及ばなかった。
この作品はSF的なテイストと難解な設定で雰囲気は非常によく作れているものの、話の脈絡としての精緻さはあまり重視されておらず、
ご都合主義とまではいかないまでも、どちらかというとノリで強引に納得させられている印象が日本語版ユーザーとしては強かった。
こういったノリに頼りがちになるのも、柔軟に作って継続させていかなければならない運営型ゲーム特有の「縛り」要素ではある。
この「縛り」を目立たなくするために、物語を実装地域ごとに完結するオムニバスのように細かく区切ることもできる。
実際MMORPGではそうした形式で作られるものがほとんどだ。だが、それでは物語を貫く背景を掘り下げていく部分がどうしても手薄になり、深みが出せない。
膨大でカッチリした物語的構造をあらかじめ練って、10年くらいのスパンを見据えて確実に開発運営していける大資本でなければ、
おそらく物語の面で品質と誠実さを備えたコンテンツ開発ができる段階には至らないのだろう。
例えば、物語は優れていたのにサ終で打ち切って、クラファン小説とグッズ製作のファン商売だけで4年近くIP展開を続けている、ららマジのようなやり方さえ、ゲーム発のIPビジネスとしては一つの正解なのかもしれない。
ただ、このWFSのやり方は俺は誠実だとは思えない。ちゃんとゲームとして続きを作ってほしいし、初出のゲームの作りが古くなってきたなら、グラブルリリンクのように立派に別の形で作り直すのが誠実だと俺は思う。
結局のところ資金力の問題なのだろうが、そういった難しい問題を抱えるからこそ、「優れた物語の運営型ゲーム」は青いバラのように求める価値があることだと思う。
何の話だ。しらんけど。
結論から言えば、任天堂の偉い人たちにオンラインゲームの素養がない、もしくは、伝統的価値観への固執。
任天堂に限らず多くの日本のゲームメーカーは家庭用ゲーム機のソフトで成功してきた。
今でこそ大手も焦ってオンラインゲームを作り始めているが、13年くらい前まではオンラインゲームを作りたい人が就職する会社は外資を除けばソシャゲメーカーくらいしかなかった。
プレイヤー目線でみても、13年前の当時、PCでは既にオンラインゲームが成熟しつつあった一方で、コンシューマゲームは相当出遅れていた。
当時、ゲーム制作サークルの作知り合いの何人かゲームメーカーに就職していったが、彼らは皆コンシューマゲームに憧れ、それらを再生産したい願望を持っていた。
そうしたある種のエコーチェンバー化しやすい環境が、CC2松山さんのプチ炎上発言
https://note.com/wwise/n/ndf5b3d0b161d
を可能にさせるわけだ。
未だに「ゲーム=コンシューマゲーム」という業界なんだなと再認識させてくれる。
当然、そんな人達が集まっているわけだから、オンラインゲーム的なものを作ろうって機運にもなりにくい。
なので、第一の理由としては、作る人達のゲームに対する趣味嗜好が伝統的な家庭用ゲーム機的なものに偏りがあるだろうという説。
パルワールドというゲームが極めて奇抜なアイデアの組み合わせによってようやく成立するなら、まあ簡単には生み出せなかったよね、と言えるのだが、ポケモンの魅力が何かを理解していればパルワールドに近いものを生み出せる時間はいくらでもあった。
ポケモンの最大の魅力はそのペット的性質を持ったキャラクターにあり、この魅力を最大限に引き出すには、「ポケモンと一緒に空間を過ごす」というゲーム体験に必然的に帰着する。
このことはみんな分かっていて、だからNINTENDO64の時代ですら、『ポケモンスナップ』『ピカチュウげんきでちゅう』など、「ポケモンと一緒に空間を過ごす」体験を模索する試みがあった。
でも、2010年代に入っても何も動きがなかった。
3D技術やオンラインゲームの技術はすでに十分成熟しており、PCゲームでは家庭用ゲーム機に先駆けてオンライン対戦ゲームやよりリッチなゲーム体験ができるようになっていた。
ポケモンGOが出てきて、ようやく次の動きが来たかと思えば、これは任天堂が作ったものではなくIPだけ貸しているのだそうだ。
やり方や発想が、没落してゆくスクエニの姿と被っており、嫌な予感を感じさせた。
「今、バトロワが流行ってます。だから弊社の人気IPドラクエと組み合わせれば売れます」
「今、MOBAが流行ってます。だから弊社の人気IPポケモンと組み合わせれば売れます」
IPの切り売りが始まってしまったか、というか、それしかやることがないんだ、という残念感。
ポケモン本シリーズの方も、最新作でも未だに最大4人の協力プレイしかできないらしい。
なぜたった4人? 発想が通信ケーブルの時代から進んでおらず、基本的にゲームがオフラインに閉じている。
なぜ普通に、素直に、MMORPG的なオンラインゲームとして作らないのか。
なぜ未だにコマンドバトル形式を踏襲するのかも謎。それって全然ポケモンの本質じゃない。
ゲームボーイ時代はスペックの制約上あれしかできなかったが、3Dでグリグリアクションができる時代に何をやっているんだろう感。
こんな保守的なポケモンの最新作の出来を見て、誰がこの会社でポケモンをアップデートしたいと思うだろうか。
パルワールドの作者も任天堂にいたらしいが、きっとそんな思いで任天堂を去っていったのだろうと勝手に想像する。
もしこれが、子どもたちを野蛮なオンラインゲーム世界に染めさせない健全なブランドイメージのために、あえてそうしているんだとしたら任天堂は長期的に終わりだと思う。
ゲームの面白さの追求よりもブランドイメージの守ることを優先する会社が、ゲームの面白さを本気で追求する会社に勝てるわけがない。
知り合いの友達同士だけで遊ばせたいみたいな価値観の押し付けをとても感じるのだけれど、ゲームを本気で遊びたい人からするとマジで興ざめする。
仮にも、各家庭の教育方針は様々であるにもかかわらず、任天堂がその上限を勝手に決めてしまっているというこの不愉快さ。
ゲームはもはや子供をあやす玩具ではない。玩具という域を超えて、コミュニケーションのライフラインになっている人も多い。
20年とか40年スパンで想像力を働かせてほしいのだけれど、ゲーム上の世界についてどのようにリアリティを感じるか、何を楽しいと思うか、という価値観の長期的トレンド変化について真剣に考えてほしい。
それはある人の言葉を借りれば「コミュニケーションそれ自体が目的化する」価値観への変化。
ゲームに限らず、アニメなんかを見ても例えば「けいおん」では、友達がワイワイだらだらと過ごすだけの日常が憧憬として消費されている。
これは、コミュニケーションの基盤がリアルからオンラインへ移行し、その分リアルでの人間関係が希薄になることの埋め合わせと考えられる。
つまり、ある時期から、コンテンツ(とその周辺)にはコミュニケーション的な欲求が求められ始めた。
ゲームを楽しみたいという以前に、人々はコミュニケーション的欲求をゲームを通じて満たしたいと思うようになってきている。
パルワールドとは、そのような新しい欲望や価値観の中で生まれたオンラインゲーム体験がベースにある。
ゲームをあくまでも玩具と割り切って楽しむのか、それとも、ゲームをリアル世界の延長のライフラインの1つとして暮らすのか。
このような価値観の変化を任天堂の幹部らのおっさん達が、理屈でなく、体感として、自らの経験に基づいて理解できているのだろうか。
1度もソシャゲをやったことがなかったけど、競馬が好きだったのでウマ娘は無視できずプレイ。とはいえ2年で課金は1万円位。
熱心なファンとはいえないが、ビコーペガサスの様な初期のキャラが全然実装されず、ウマ娘3期のキャラクター重視で進んでいる現状に不満を感じる。
とはいえ金儲けが最優先なので、自分が経営側でも3期組を売っていくと思う。
などとグタグタ書いたけど、結局の所初期組が好きで、キタサン含め3期組にどうも愛着が持てないだけの愚痴です。
世の流れだとは理解できても、早いスパンでメインキャラクターが変わっていくようなソシャゲはおじさんには向いていないのかもしれない。
https://togetter.com/li/2293203
この方はn=1としてC99の体験の話をしているけれど、C99に限らず直近のC103(冬コミ)まで参加して相性悪いよなあ、と思ったので書こうと思います。
C99に矮小化してしまってるので、「あの回は特別で他のジャンルも似た感じだった」というコメントが散見され、自分もそこを加味してしまうとよくないなあ、と思ったのと、
書いているのはC100まで女性向けサークルでサークル参加(と日によっては一般参加)、以後は一般参加のみの人です。
また便宜上女性向け・男性向けという呼び方を使い、比較として現在女性向けの主流である赤ブーブー主催イベントの内容を書いています。
あくまで個人の見解であり、これもまたn=1の話というのは念頭に置いておいてください。
まず筆頭として「午後チケット」というものが女性向けと相性が悪すぎます。
公式によると午後チケットの人は12時30分から入場とありますが、C103は午前チケットで11時頃着の12時頃会場入りできたので、実際はもう少し後だったのではないか、と思います。
Togetterのコメントなどにもありますが、女性向けサークルは撤収が早い傾向にあります。
これは
という理由がよく挙げられますが(最後は男性向けもそうじゃないかと思いますが)
・搬出で並ぶのが大変
というのもあります。
マンレポでも「箱を持って並んでいたが台車に乗せてもらえて助かった」というのは鉄板の投稿内容です。
https://www.comiket.co.jp/info-a/MR/mr.html
箱1個でも本(紙)がみっちり詰まっていると重たく、腕力のない女性は搬出大変です。それを抱えてずっと並ぶのは結構きつい。
コミケの搬出は並びます。この辺りも過去のマンレポを参照してもらえると明白なんですが、閉会間際に出そうと思うと1時間は見込まないといけなかったです。
なので、早めに撤収し、列が出来る前に搬出してしまいたい、というのがあります。
昔はウエストウイングもHakoBookもなく、翌週にある赤ブーブーのイベントの搬入がクロネコヤマトのみというものあり、長蛇となっていました。しんどかった。
赤ブーブーは現在セルフ出荷といって予め専用伝票を受け取り、それを貼った箱を搬出場に持っていって渡して完了というシステムがあります。すごく楽です。
長くなりましたが、「女性向けの場合は撤収が早い為、一般参加者の中で午後チケットという選択肢は除外されてしまう」という話でした。
それはそうだろう、と言われそうですが、赤ブーブーのイベントは現在でも10時開始で遅くとも12時には一般待機列はなくなります。
規模が小さいイベントだったけれども、一番早かった時は10時30分に一般待機列が解消していた記憶があります。
コミケも以前は12時~13時頃にはフリー入場になっていたと思いますが、現在は上記の通り午前チケット・午後チケット別で並ばなければいけません。
並んでも買いたい本があれば別ですが、女性向けサークル数も減ってる現在ではちょっと遊びに行く程度では参加がしにくくなっています。
それならば通販を使って並ばず確実に手に入れたい、となってしまうのも道理です。
また、コミケの一般参加者は男性の方が比率が高いです。少し古い情報ですが、下記の資料が公開されています。
https://www.comiket.co.jp/info-a/C81/C81Ctlg35AnqReprot.pdf
女性向けが減った今では更に男性の比率が増えているのではないかと推測出来ますが、それは一度おいておきます。
もうこれはどうしようもないですが、それが参加者がほぼ女性の赤ブーブーのイベントと比べて忌避される理由になります。
個々の体格差の問題ではなく、女性が1000人より男性が1000人の方が質量が大きいです。またパワーもあります。
一般入場列が来ると机が揺れます。揺れるだけならいいですが、ずれます。机上の本が落ちます。押さえていても負けます。
「走らないでください」と言われてもお目当てを目指して早歩きになるし、あちこちに方向転換することによってえらいことになります。
また、一般参加で動くにも男波に揉まれると移動が大変です。容易に埋もれます。あとリュックが顔に当たります。
それと抽選というのもコミケを避ける要因になっていると思います。
ただでさえお盆・年末なのでスケジュールのやり繰りが必要になるのに、当落が出るのは1~2ヶ月前です。
C103ですと12月30日31日の開催で11月10日に当落が出るスケジュールでした。
シフト制の職の人はもうシフトの締切後かもしれないですし、遠方の場合は繁忙期なので新幹線や飛行機、ホテルを早く手配しなければなりません。
また、予約を万全にしておいても落選していたらキャンセルをして行かないということも充分あり得ます。
一方赤ブーブーは基本先着順で、満了近くなるとSNSやサイトで告知もあります。申し込めば不備などを除きスペースは用意されます。
つまり申し込んだ時点から参加に向けてのスケジュールなどのやり繰りが出来るのです。
スケジュールといえば盆・年末という日程がそもそも無理という人もいます。ジェンダーバイアスになりますが嫁仕事というやつです。
逆に「コミケは申し込みから日が長いからジャンルスパンが短い女性向けにあっていない」ということについては懐疑的です。
例えば2024年6月に開催される赤ブーブーのイベントがもうすぐ満了と告知されています。
こちらは募集スペースが倍になってからの早期満了であり、特定のCP(ジャンル)のみのイベントです。
https://twitter.com/AKABOO_OFFICIAL/status/1739187539360260448
https://twitter.com/AKABOO_OFFICIAL/status/1744545230106599600
ジャンルスパンについても昔は男性向けの方が短いと言われていた(「クール毎に嫁が変わる」など)ので、差はないと考えています。
つらつら長くなりましたが、元々C99以前から女性向け参加者が減っていたところ、更に追い打ちとしてチケット制で更に減ったというのが個人的な意見です。
減ったのはサークル参加者が先か、一般参加者が先か、については不明ですが、因果がスパイラルになって減っていっていることは確かだと思います。
ではコミケはこのままでいいのか、ということについては個人的にはこのままでいいと思っていますし、今更女性向け参加者を増やすことは難しいでしょう。
確かにコミケと赤ブーブーのイベントでは空気感も違いますし、評論系の同人誌などは後者ではあまりありません。
しかし、コミケは規模が大きくメディア露出などもしていますが、いってしまえば同人即売会の一つです。
先述の評論系ならば「文学フリマ」「おもしろ同人誌バザール」「コミティア」、さらに特定ジャンルに絞れば「技術書同人誌博覧会」「めしけっと」などのイベントもあります。
なんでも一強の時代というのは長く続きません。色々な同人即売会が存在し、それぞれが盛り上がっていた方がいいのでは、と個人的には思います。
能登半島の端に行くにつれて復旧以前に
おかしい
多少大げさに言えば認知がゆがんでいる、災害のショックでゆがんでいる
実際のところそんなもん道路や電気や通信が生きていればゴリ押し輸送できるんであって
逆に言えばヤバいのは幹線道路や電力通信インフラの整備がそもそもできてないって話で
そこを「災害対策」のフレームワークで全国やろうとすると金額とか継続性のスケールが違いすぎて土台無理で
実際に東日本大震災以降やってきたその方向性は当然のごとく他地方では示されてないってことが今回でもより明確になった
じゃあ常用インフラをもっと金かけて整備するのか、金ないならリスクとって新しいテクノロジー導入するのか
散発的に地方とかの「お題ごと」の予算はそれなりにつくんだけど結局必要性というより政治力で分配決まるし
かといってじゃあもう末端を放棄して地方都市まで撤退戦やってそこまではきっちりインフラ再整備しますよとか
そういう断固としたビジョンを示せるわけでもなく