はてなキーワード: 明治時代とは
いまの日本社会の本質的な問題点は、社会の内部が分断されていることにあると思う。
立場の異なる者同士のあいだを埋めるものがなく、異質な者同士では共感が生まれない。以前にはカップラーメンの値段がわからないと揶揄された首相もいたし、いまの安倍晋三君もひもじい思いをして暮らしたことがあるのか、私は寡聞にして知らない。
例えば、御法川氏が朝にテレビで「庶民」の立場でキレていたし、夜には古舘氏が、というのも結局は、「庶民」が自覚している孤立感を代弁してウケを取ろうとしているのだと思う。実際には、「庶民」だとか「官僚」「天下り」「公務員」「東電社員」だとか、そういったカテゴライズでは語れないものだと私には思えるのだが。
47都道府県あれば47通り、さらに市町村はもっと多いし、人口は1億3000万くらいあって、それだけの相違があるのにもかかわらず、その相違を包摂して溝を埋めようとする努力がなされているのだろうか。例えば、ニュース報道は、47都道府県分の各地のニュースを流しているのだろうか。おそらく地方版はその地方にしか載っておらず、在京キー局や在京新聞社などは最大公約数的なニュースを流しているだろう。例えば、共同通信社や時事通信社というできるかぎり無色透明で最大公約数的ニュースを配信する通信社があって、そのニュースに多くの新聞社は依存している。
例えば東京にいても、福島県民や宮城県民や北海道民や沖縄県民や高知県民や(以下略)の「声」が日常的にはどれほど聞こえてきているのか。あまり聞こえてこないと、私は思う。全国に流すための最大公約数的マスコミだからだ。
明治時代以後、そして戦後以降もなお、マスコミや広告代理店も国家機構も最大公約数的な社会づくりをしてきたのではないか。例えば「流行語大賞」だとかいまだに言っているが、「流行語」というのも結局は、相違する人間同士が、溝を埋めていないのにもかかわらず、共感している「気」になっているだけなのではなかろうか。
むしろ実際には、少数であればあるほど、その人の「声」はかき消されて聞こえなくなる。例えば少数民族(例えばアイヌ)にしても、性別的少数(ISやGID)にしても、あるいは最下層の困窮者(例えば貧困や障害や傷病など)にしても。実際には1億3000万のマイノリティの集積がこの日本社会であり、そこから最大公約数だけ取り出せば「効率」はいいのかもしれないが、まちがいなく取り漏らす。
いま、安倍自民党にしても、いわゆる全体主義的な、あるいは国家主義的だともいうような、社会全体のステレオタイプ化された秩序の押し付けに力を入れているけれど、そうした方法では、社会内部の分断された溝は埋まらないと思う。それで真の秩序が保たれるのだろうか。例えば特定秘密保護法を強行採決したり、唐突に靖国参拝をしたりしたけれども、そういうやりかたは民主主義的でない、話しあいが欠けているわけで、つまり、溝を埋める努力をしていない。
http://b.hatena.ne.jp/entry/ddnavi.com/news/174997/
ここで「今の価値観で~」って主張は、以下の一文をどう解釈したのか知りたい
それにしても、大正時代には東大の教授が“第一次世界大戦の終結後から道徳心が低下している”と著書で嘆き、明治時代には貴族院議員が“明治維新以降、日本人の道徳は破綻してしまった”と述べていることからもわかるように、つねに「昔はよかった」と昔を回顧し現状批判をするのが日本人の特性、なのかもしれない。
はてブをリングサイドとして、2013年買ってよかったもの合戦が始まった。
後出しのほうが、質は上がっていくだろうから(例えば使っている写真を張るとか)
今あえて最底辺から苦言を呈する。
ブロガーたるもの無知蒙昧な衆愚を啓蒙する高い志を持ってもらいたいからだ。
今よりも高い水準を要求して余りある能力をお持ちだと信ずるからだ。
これはつまり、我儘というやつだ。
アタリマエのことは省いて欲しい
TIPSは血肉があってこそ
「自動車買ったら世界が変わったよ!やっぱレンタカーともタクシーとも違うな!」
どうだろう。
発言した人間との関係性で反応は異なるだろうが、余程でなければ苦笑いだろう。
もちろん、これが電気自動車であるとか、もっと言えば明治時代に馬車から乗換えた元公卿とかなら判らんでもない。
今あえてルンバを出す価値や、MBAを出す価値が有るだろうか。
アタリマエのことの集合体が意味を持つTwitterのさえずりとは違うだろう。
一つ一つのさえずりは小さくとも、バルスの大合唱は世界を揺るがす。
しかし、ブロガーは合唱団の一員ではなく、孤高の演奏家だろう。
大衆に紛れて声を上げる煽動者ではなく、先導者であって欲しい。
余程のことがなければ、それはそっと追記すれば良いだけだ。
そもそもコンナ偉そうなことを書く価値があると感じたのは、このブコメだ。
現物の写真を撮ってるのに他のサイトとかぶってるという指摘すごいなー。独自性を出すためにチョイスを変えるとか本末転倒だし、記事書くためにわざわざ別の何かを買ってくれば満足なのかな。
実に鋭い切り口で本質を見せてくれる。鋭すぎて傷の治りが早そうだ。
オレのリストは他人とかぶってるつまり通り一遍のリストだと婉曲的に表現するときに僕も使いたいと思う。
珍奇なものをワザワザ買ってくれば良いのか?という所が凄い。素晴らしい腕をお持ちだ。
なかなか返す刀で「オレはどうせワザワザ買ってこないと他人と被る普通の感性だよ≒オマエはどうなんだよ」とは言えない。
精進したいと思う。
つまり、買ってよかったものリストというのは、その人間を表すものだ。
なかなか買えない高いものを買ったからレビューしてやろう、というのも人間性だ。
安くてちょっとしたものでも生活が変わったならそれをリストに加えて欲しい。
そうすれば「安くてチョットしてものをリストに加える人」なんだと判る。
他人の本棚を覗くような、その人となりを如実に表すバロメーターだ。
TIZEN特集の雑誌が並んでいようとも、Nokiaの仕様書やMeeGo解説書があればその人への評価を改めるだろう。
高くて良い物を買って高いだけあって良かったと叫ぶのは我々で良い。
2013年を総括する、彼にとってこんな1年だったと示して欲しい。
前半Disったように聞こえると本義ではないため、弁明しておこうと思う。
N-Styles(あれっくすさん)のリストは後半流れるように素晴らしい。
人からモノをプレゼントされる人柄、それに引きづられるように泥縄で増えるグッズ、
さすが老舗、(通称)人間がダメになるソファの写真で如何にもなダメさを魅せつけておいて、
Vitantonio マイボトルブレンダーの写真に、テーブルの角のクッションを映し込む感性。
年会費1万円のアメックスゴールドカードに入っても旧料金法人会員プランがお得なのは、
コレこそがあれっくすさんの2013年を振り返り、2014年を感じさせるリストだと言える。
ルンバが見たいのではない、遅刻しないコツからあれっくすさんを観たいのだ。
「床に物を置かなくなる」みたいなのは、Twitterで我々愚民が呟けば良い。
Amazonのリンクを我々が踏むのは、「まとめ」を見たからではない。
購入を通じてブロガーと一つになりたいという
雨後の筍のごとく2013年買ってよかったものリストがまだ出てくるんだろうが、
取り敢えずで書いたそのリストにはそのブロガーそのものが出るぞ。
心せよ、
明治時代とかは少なくともエスタブリッシュメント層は割と養子とかやってたイメージがあるが、なんで廃れたんだろう。
今日は北海道の野生動物、エゾシカの捕獲の現状について説明したいと思います。
全国で発生している野生動物による農作物被害総額のおよそ3割は、北海道に集中しています。この被害額の9割の64億円は、エゾシカによる被害です。北海道の農業を守り、日本の食糧供給地としての役割を維持するため、北海道ではエゾシカの生息数を調査し、計画的な捕獲を実施しています。
近年のエゾシカ調査を見ると、全道の生息数は緩やかに増える傾向にあり、一部では著しく増えている地域もあります。たとえば宗谷地域(北海道の一番北の地域)では、ハンターが山を一日歩くと平均して6頭もの野生のエゾシカを目撃することができます。
捕獲量は、推定生息数が増加している地域で捕獲制限を緩めており、捕獲を促している結果、前述の宗谷地域では、一日平均一人1頭の大台まで捕獲が増えています。
エゾシカの推定個体数は平成14年から増えつづけ、平成21年度に過去最大数を記録しました。個体数がなかなか減らない原因は、ハンターによるエゾシカ捕獲が続いたため、エゾシカが人を警戒して早く逃げるようになり、以前よりも捕獲しにくくなった側面があります。また鹿肉の希少性が下がり狩猟意欲を失うなどの側面も否定しきれません。
海外では、鹿肉は高給食材ベニソンとして扱われており、北海道でもエゾシカは、自家消費を中心に、本州以南とは異なる1000年以上に渡る北海道独自の狩猟文化や食文化があります。明治時代には鹿肉の缶詰は北海道の代表的な輸出品でした。今後は、北海道固有の文化を高めるためにも、鹿肉の流通だけではなく、角・皮・骨等の様々な部位の流通・活用についても考えてまいります。
エゾシカ対策課
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/est/
毎月第4火曜は「シカの日」オフィシャルサイト
このエントリについて。
彼の頭が良すぎて萎えて別れた
わかるような、わからないような。読んですっきりしない部分があったので少し考えてみた。
このエントリの続編で触れられているように、この話の出発点には「高学歴と低学歴の世界の溝」の問題がある。
そもそもの問題として、「低学歴」対「高学歴」の世界の話というのはなぜ「低学歴」ポジションからの発言が多いのだろうか。それも「高学歴の世界」をポジティブなものとみなして、自分の所属する「低学歴の世界」をネガティブなものとして演出するという態度で書かれてるものが多い。
こういうタイプの文章がはてブを集めて多く読まれているのは、それを読むと読んだ人が心地良く感じるからではないかと思う。「高学歴の世界」の人はこういうのを読んで単純に優越感を感じる。一方こういう文章を読む「低学歴の世界」の人は、「低学歴の世界」にいながらにして自分は「低学歴の連中とは違うんだ」という意識を持っているような人なのではないだろうか。だから「低学歴の世界」が「高学歴の世界」に対して否定的に書かれていることに溜飲を下げる。「低学歴の世界」を批判することで、自分がそこから離れて「高学歴の世界」に近づけるような気がするんじゃないか。「低学歴の世界」に満足している人は、おそらくこの手の文章を読んでもピンとこないだろう。
では、自分自身は、こういう文章と向き合う時なにを感じているのだろう、と思った。こういう文章を読んだ時、私の胸には優越感などの心地よく単純な感情ではなく、言うも言われぬ複雑な感情がこみ上げてくる。
私自身はおそらく「高学歴の世界」に属する人間だろうと思う。曽祖父の代から大学教授の家系で、女性も祖母の代から高等教育を受けている。私は大学付属の小中高に通ったが、クラスメートの父親はおおむね医者か弁護士、研究者、大企業勤務のどれかだった。大学に入るときは、東大、京大、早慶上智、国立医学部までしか選択肢になかった。実際にクラスメートの大部分はこれらの大学に進学した。残りのMARCHレベルに進学した人たちが、私にとってとんでもなく「低学歴」の人たちだった。親類のなかでは東大京大以外は大学ではない、というくらいの認識であったし、私自身、ちょっと勉強すればだれでもMARCHくらい入れるものだと思っていた。この認識が変わったのは、大学に入って予備校でバイトを始めた時だった。どんなに必死で努力してもMARCHはまだ夢の夢という生徒が大勢いるのに衝撃をうけた。
こうして書くと自分は嫌な人間だなと思う。けれどこういった「高学歴の世界」が居心地のいいものだったかというと、そんなことはない。「高学歴の世界」は息苦しいものだ。「高学歴の世界」を定義づけるのは「今日よりも明日」だ。今日よりも明日、より良くなっていなければならない。より良く、より賢く、より豊かになっていること、それが「高学歴の世界」が求めるものである。失敗は許されない。一度失敗したものは、この日々の前進のルートから脱落し、また追いつくためには絶望的な努力を強いられる。「高学歴の世界」は失敗に敏感だ。私の両親はよく「一事が万事」と言っていた。たった一度失敗すれば、それは全て失敗したのと同じ。このスローガンに、子供の私は恐怖しか覚えなかった。遊びも教育の一環だった。教育的でない遊びは排除された。常に成長することが求められた。それは大人になっても続く。昨日よりも今日、今日よりも明日、より成長して改善していること。「高学歴の世界」を統治するのはこの原理である。
このような世界が自分にとって当たり前だったのだが、それはまたひどく息苦しくもあった。そこには「明日」と「未来」はあっても、「今日」と「いま」はない。なにもかもが「明日のため」であるとき、いまここに生きているという感覚はどんどん摩耗していく。今、この瞬間どんなに成功していても、それを100%として認めてもらえることはない。明日さらに良くなること、明日さらに成功することが求められる。それは絶え間ない自己否定でもある。この自己否定がなければ、改善も成長も望めないから。
やがて神経衰弱のような状態になって、ふとある趣味をはじめた。そこには私と同じような育ち方をした人もいれば、そうではない人たちもいた。このとき私ははじめて「低学歴の世界」に触れたのだと思う。その「低学歴の世界」のひとたちは、多くが高卒で、男も髪を染め、女性はミニスカートや露出の多い格好をしていた。タトゥーを入れている人もいれば、道端でケンカをする人もいた。この仲間のなかに入って、私ははじめて「今を楽しむ」ということを知った。お酒を浴びるように飲んで、馬鹿な話をして、大笑いして、そういうことをしても、明日のためにはならない。明日に残るのは、二日酔いだけだ。けれどその瞬間は、ものすごく楽しい。彼らは遊ぶことがものすごく上手だった。季節ごとにいつも楽しい遊びを考えていた。バーベキュー、花見、キャンプ、スノーボード。「今、この瞬間を楽しんで生きてもいい」ということを知ったのは、自分の人生が大きく変わるほどの体験だった。
こういう経験を通して考えてみれば、「うちらの世界」の価値観も理解できる。「高学歴の世界」は未来の為にという価値観がとても強い上に、一度失敗するとその損失を取り戻すのが非常に困難であるという認識を共有している。彼らにとって「バイト先での醜態を公衆に晒すこと」は大変な過ちでありなんとしても回避されるべきものである。一方「低学歴の世界」にとって大事なのは今この瞬間である。今この瞬間を楽しむことが何より大切でなので、その行為が未来にもたらす影響は考慮しない。今、バイト先の飲食店で食材をおもちゃにすることが楽しくて、目の前にいる友人を楽しませることができるのであれば、そのことがなにより重要なのだ。
「明日のために生きること」と「今を思う存分生きること」は、本来両立しうるものであるけれど、どちらかにかたよるとそれぞれ問題をひきおこすのだなと思う。自分の生きてきた世界のことは、みなよく知っている。だからこそあらも見えるし、別の世界に憧れもする。それはもちろん幻想なのだ。どの世界にも光と影がある。ユートピアはいつだって「どこにもない場所」なのだ。
さて冒頭の「彼の頭が良すぎて萎えて別れた」というエントリーであるが、これを読んで再びなんとも言えない気持ちになった。この人はなぜこんなに彼との間に線を引きたがるのか、そこに溝を認めたがるのか。なぜそこに溝を認めた上でそれでも相手を受け入れることができないのか。この場合、二人の間にあるのは「学歴の溝」ではなくて彼女の方のコンプレックスなのだと思う。自分が手に入れたくて仕方がないものを、もう自然にもっているように見える相手への嫉妬なのだろう。けれどそれは「毎日より良く」という価値観のなかで研鑽されてきた結果なのであって、同時にそのなかで切り捨てられてきたものも存在するのだと思う。そういう自分が切り捨ててきたものを恋人に求める気持ちが、私にはよく分かる。私が強く惹かれるのは同じ世界の人ではなくて、別の世界の、ある種の「生きる智恵」を持っている人だ。多く笑い、気楽で、今を楽しむ人だ。この話で、彼は彼女にたとえばそういう魅力を求めていたのかもしれないのに、紋切り型の階級差を持ちだして自己完結する姿になにか割り切れないものを感じる。
一方で、このエントリーで語られている話自体がすでに紋切り型のものであるとも言える。語り口が現代風であるというだけで、話の中身は明治時代からでもありそうな話だ。とりわけ語り手を男にしてみると、既視感が強くなる。身分差のある恋をした男が、バックグラウンドの違いを感じて、女を捨てる。「彼女の頭が悪すぎて萎えて別れた」と男が語る。あるいは女が男を思って身を引く。でも私達が生きているのは現代日本だ。好きなように生きればいい。相性が悪ければ別れればいいし、よければ付き合えばいい。けれど「高学歴」「低学歴」という単純な構図に当てはめて自分の生き方を縛るのは、愚かなことだと思う。自戒を込めて。
簡単に言うと歴史や戦争語る人間の中に非常にゲームチックな考え方する個体がいるから
乙女ゲームでシンデレラ妄想に浸ってる人のが乙女ゲームしないで現実で「いつか王子様が…」と
妄想してるよりは程度が軽いと思うんだわ、なんというか
それをフィクションで発散してるむしろ健気な人間馬鹿にするってどういうことだよ! というか
実際ゲーム発想する人間ってゲームを見下してたりゲームしたことがなかったりする
あ? 面倒いってタイプはこの限りでもないけど、そういう奴は歴史語りもしない
趣味歴史になってから長いからそのほうが都合が良いだけだけどね
艦これで当時のじーさまたちと交流出来たらいいよなぁ、とか思ったりしないでもないけど
誰も誘ってくれない
武道をする人たちは、スポーツより武道が上、という意識が強いように思う。
とくに精神性の面で、武道はスポーツよりも上だと思っているようで痛い。
今日でいうところの武道というのは、ぶっちゃけてしまうと、明治時代からだ。
加納治五郎が、それまでの武術としての柔術を、柔道と昇華させた。
ルールの中で、技を磨きあう。
そのことで、遊戯性をもたせ、スポーツを通じて、身体の健康と、人格形成を行う。
殺人術、護身術が、本来の目的から離れて、スポーツになったことは、堕落なんかではない。
本来の目的から離れて、遊びに昇華しなかったら、和算は微分法や行列式の発明しなかった。
それによって精神性が失われたというのも、誤解はなはだしい。
ある人は「人生で大切なものはみんなテレビゲームから教わった」
と言う。
追記
柔道の父というだけじゃなく、スポーツっていう概念もなかった日本で、こんだけのことをやれば、そりゃ初代IOC委員にもなるって。
「付き合わない」という選択肢は、ない。いいか?「付き合わない」という選択肢はない。
この国際化の時代に付き合わないなんて選択肢はないの。それこそファンタジー、妄想、夢想のレベルでありえないの。
まずそこを理解しよう。
次に、「武器」はどっちももってるの。しかも「武器に、より金をかけているのはこちら」なの。それでお互い相手のもってる武器にケチをつけてるの。どっちがどうと言える話ではないの。
それから、「お前のものは俺のもの」について言えば、どちらかと言えば「それを『した』のはこちら」なの。
有史以来数千年間のスパンで考えれば、大陸→列島への侵攻は、鎌倉時代の一度(まあ2回と計算しても良いけどさ)。一方、列島→半島・大陸への進出を図っての出兵は、百済の件、秀吉の件、そして明治時代には一時的に成功して国までぶっ建てたの。百歩譲っても「お互いさま」と言われれば感謝されるレベル。むしろ、「蒙古系(元)のやったことへの文句はモンゴルに言え。オレらは有史以来一度も列島へ侵攻なんかしたことねえ」って中国と半島の人々に言われても何も言えないの。
まあ対馬に関しては「何言ってんだこの○○○○」と俺も思いはしたけどさー。でも、ちょっと調べてみると、対馬を代々支配してた連中も結構怪しいぜ? 連中、密貿易を私物化して儲けるために日本列島と半島の間でうまく双方の権力者に顔を使い分けながらコウモリかヌエ的な感じでいろいろ小細工してるんだよね。それ考えると、せいぜい、この前ニュースに出ていた「日本は元宗主国として台湾の独立に力を貸す義務があるのでは?」とかいう、台湾の独立派の与太程度には聞き流せる話だと思う。
一応、論理的思考力はあるようだから、この辺を手掛かりに、再度結論を組み立て直してみてはどうかね。そうしたら少しはその人の言うことも分かるんではないかな。
まあね。君が中国大陸・朝鮮半島の国やその人々に対して「何考えてんのか分かんねえ。信用なんてできるわけねー」ってのは分かるよ。でも、それは向こうも同じ。日本が安全な国なのか? 日本人は何考えてんのか、なんて、向こうにだって分かるわけないわな。違う文化に生きてる違う人間なんだし、そもそも日本が侵攻を企てているかいないかなんて、本当のところオレにも分かんねえもん。なんであれだけの事故があっても原発がなくならないか。半ば公然と「いずれ核開発するためだ」なんてことを、真顔で公人が言ったりする国なんだぜ? 国際的に見て、日本人がおおむね安穏でノンポリで馬鹿でエロくて、でもって愛すべき文化をもつ人間だということは重々オレも実感しているけれども、かといって日本という国が周囲の国にとって公正で平和的で安全な国と言えるかどうかは、オレには分かんねえ。新聞とかTVにさーっと煽られたら、あっという間にこの国はまた正義なき戦争であっても突き進むんじゃないかという不安は常に抱えてる。どこの国も、そんなもんじゃないか?
OK。なら、これ訂正しなよ。
男女関係の問題ではなくて、生まれてくる子どもをどうするか、子どもを犠牲にしても家制度を守るか守らないかという、明治時代につくられた家父長制度という統治システムの問題であることがわかると思う。
「男女関係の問題という側面もあるかもしれない。だが私が注目したいのは子どもの犠牲についてだ」。とすれば、同意できる部分もある。
という具合に考えると、貞操とか性道徳だとかの話題の多くは、男女関係の問題ではなくて、生まれてくる子どもをどうするか、子どもを犠牲にしても家制度を守るか守らないかという、明治時代につくられた家父長制度という統治システムの問題であることがわかると思う。
いや、離婚後一定期間がたつまで、子ども作らなきゃいいだけじゃね?
まさに男女関係の問題だと思うんだが。
以下のアンケートを見る限り、貞操については、多数派は重視していないようです。少なくとも法で強制する必要性を感じる人は少数派。
民法772条問題について法相は「性道徳や貞操義務についても考えないとならない」とコメントしたようです。法相コメントは妥当だと思いますか?
妥当だ110
妥当ではない190
ちなみに民法772条というのはコレ。この条文があるために、戸籍を持たない無戸籍子が作られてしまって医療、福祉、教育、入学、就職、結婚ができないという事態が生じている。生まれてくる子どもにはなんの責任もないので、そんな条文は変えてしまえばいいのだが、無戸籍子という犠牲者を出してでも性道徳や貞操義務を優先させたいと考えている卑劣な連中がいるのも事実。
第772条(嫡出の推定)
2.婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。
という具合に考えると、貞操とか性道徳だとかの話題の多くは、男女関係の問題ではなくて、生まれてくる子どもをどうするか、子どもを犠牲にしても家制度を守るか守らないかという、明治時代につくられた家父長制度という統治システムの問題であることがわかると思う。
他人に馬鹿という言葉を使うのは好きじゃないけど、本当に馬鹿だと思うわ。まだ気づかない。
それは私が説明してあげた説明でしょう。ホモソーシャルから女性が「性」をに価値のあるもの(商品化)だと自覚した話でしょう。
で、この説明は「性の個人売買」について書かれたもので、恋愛欲求が絡む話ではありません。
では従来の男女の恋愛観はどうだったのか、という話をしなければいけない。
「愛される」から「モテ」に移ったのはなぜなのかという話をしなければならないので、http://anond.hatelabo.jp/20130424015252 で、説明しました。
一方、あなたは「同性愛回避のために男は体目的。それにあわせて女性は媚びる」と説明してるんです。さも連動現象であるかのように。
そして「食料(お金)を渡したがる」と、こじつけをしてるんですよw
「目的」や「モテるため」や「思う」という意志的な動きに対して、作用反作用で「男がこうだから女はこうする」と決めつけている。
ホモソーシャルの話をするなら、もっと社会全体を俯瞰した話になるべきです。都合良く言葉を拝借してるからおかしいんですよ。
ホモソーシャル云々と言って、社会学的なものの見方をしたいなら、背景に社会のどんな動きがあって個人の意志選択に影響を与えたか書かなければいけない。
あなたは「男はホモソーシャルだから、女はこうする」という二者間の話しかしてないんですよ。概念を観念的に用いるのは危険な考え方です。
どうして恋愛依存症なのよ?
あなたの説明では、女性は全員が恋愛依存している話になってしまっています。
依存症という言葉をどういう意味で使ってますか?恋愛をしない女性をどう説明しますか?
「思う」の部分に関して、信頼性のあるソースを持ってきてもらえますか。
絵本やアニメなどは、ホモソーシャルを刷り込むためにそういうストーリーになっている訳ではなく、現在の社会がホモソーシャルだからそういうストーリーになっているのです
誤読しないでください。これはすでに説明した通りです。近代化で小説などによって恋愛観の刷り込みが行われたのは事実です。
社会維持のためにホモソーシャルの刷り込みがなされた。この流れは今も続いていて、個人の意思決定にも影響を与えているという話をしています。
いいえ、違います
あなたは作用反作用の話をしているのに「意思決定」を決めつけているんです。そこがおかしいと指摘しているんです。
「男性側が(伝統的に)こうだから」「それにあわせて女性はこうだ」って二者間の話しかしてないのに、普遍なものとして語るのがおかしい。
社会がどういう風に変化していて、個人の意思決定に影響を与えたかはまったく説明していない。
まるでユング心理学の「原型」のように、ホモソーシャルを理解している。これ、間違ってますから。
それまでの江戸時代では、男性同士の同性愛というのはかなり多かったようです
恋愛未文化だった頃の話を飛躍させて、あなたは恋愛観を語っているわけです。
江戸時代の同性愛は、一部にはそういう人もいたって話で、恋愛なのかと言うと疑問符がつく話なんですよ。
その話をするには、前近代の性の在り方がどうだったか説明しなければいけないし「性愛」と「恋愛」を分けるべきです。
あなたはその恋愛未文化時代の性愛の話とホモソーシャルをごちゃ混ぜにしてますが
それまで男性が性の商品化をしていたという事は、男性は性を商品化する女性を求めているという事になります
なので、妻や恋人であっても体目的の交際であっても基本的には変わらないのです
どうして恋愛依存症なのよ?
生物学的には、原始時代には男性は狩りをして、女性は家庭を守っていました
そのため、女性は家庭に入りたいと思うため、女性は男性と交際したいと思うわけです
姫を助けだすのも、彼女のために戦いに勝利するなどと意気込むのも、社会維持のためにホモソーシャルの刷り込みがなされているんですよ。
絵本やアニメなどは、ホモソーシャルを刷り込むためにそういうストーリーになっている訳ではなく、現在の社会がホモソーシャルだからそういうストーリーになっているのです
たとえば、お金でお菓子を買える社会でお金でお菓子を買うストーリーがあった場合、お金でお菓子を買うという価値観を植え付けるためにそういうストーリーにしている訳ではなく、現在の社会がお金でお菓子を買えるからそういうストーリーになっている訳です
いいえ、違います
女性が肉食化したのは、女性が男性の真似をしているからではなく、女性が男性にモテるためです
基本的に体目的の女性は男性にモテるので、男性にモテたくて体目的になっているだけです
http://anond.hatelabo.jp/20130424232947
それまでの江戸時代では、男性同士の同性愛というのはかなり多かったようです
恋愛観は、近代化の流れで刷り込まれてきたという話をしましたが、
いくら話しても「ホモソーシャル=男性の恋愛観は同性愛回避」と思い込んでいて話が通じないので、参考URLをお知らせします。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130405/p1
恋愛=ロマンチックラブってのは、西欧社会で生まれた特殊な概念で、明治期の日本には「輸入」された概念なんだそーです。これは、近代産業社会において不可欠な「個の労働者」を「再生産」させるために作られた「核家族」というものを支えるイデオロギー装置だったことは、ほぼ解き明かされている
http://www.geek.sc/archives/34
恋(性的自由な状態で明確な恋愛観はない)→恋愛結婚の啓蒙を説明しています。以下、引用。
このサイトでは、日本の見合い婚→恋愛婚の流れまでは書かれていませんが、見合い婚→恋愛婚の流れは別途資料を御覧ください。
日本で「恋愛」という言葉が使われるようになったのは、実は明治時代になってからのことです。当時、『女性雑誌』という雑誌の主宰者をしていた巌本善治が、英語の「love」に「恋愛」という言葉を当てはめた最初の人物であると言われています。彼は、「恋愛」とは「清く正しく」「深く魂(ソウル)より愛する」ことであり、「恋」のような「不潔の連感に富める日本通俗の文字」とは異なって、非常に崇高で価値あるものであると説きました。彼の恋愛論をきっかけとして、「恋愛」という言葉や感情・行為が広く社会に浸透していくことになります。
男女の恋愛観は、近代化の流れで刷り込まれたことは理解いただけたでしょうか?恋愛結婚が啓蒙されて(一般市民も)恋愛するようになったのです。
「男性の恋愛観は、ホモソーシャルだから同性愛にならないために体目的」ではありません。勝手にアッー!にしないでください。
「恋愛って何?」「何のために恋愛するのか」をきちんと調べてください。
戦前には約7割を占めていた見合い結婚は、その後一貫して減少し、1965 ~69 年頃に恋愛結婚と比率が逆転した後、1995 年以降の結婚では1 割を下回っている。
先日の日経に、
「法学部人気急落」という記事があって、明治学院大学とか東大とかが取り上げられていた。
日本の文系大学の中で、法学部は「文系の花形、主流派」的扱いを今までされて来て、
「あぐらをかいていた」が、人気急落で、受験生相手に法学部の魅力のアピールに努めざるを得なくなった、という記事。
そもそも、なぜ日本では法学部が主流で、文系の花形扱いされているのか?
これは推測だが、今の日本の文系大学の多くは、明治時代の「法律学校」創設がルーツだったからではないか?
経済学部とか文学部とか社会学部とかは「後発の学部」なので、大学内では傍流だったんだろう。
もっと突き詰めれば、「なぜ明治時代には法律学校が多く出来、経済学校は少なかったのか?」
という疑問に行き着く。
これも推測だが、当時の日本のGDPの大半は農業生産GDPであり、
つまり農業経済が大半、個人農業が大半であって、企業・資本の経済行動を
要するに、経済学がさほど必要なかった、経済学が必要なほど経済が成熟してなかった、ということ。
他方、近代化のために法律制度を整え、また列強に対抗し不平等条約を改訂するために
「法治国家」をアピールする必要があったため、経済力以上に「法律力」を身につける必要に迫られたため、
農業国であっても法律学校を整備する必要があった、そういうことでは?
しかし、現代みたいに、GDPの殆どが企業の生産活動で成り立っている社会では、
文系のメーンストリームは「法学部」じゃなく「経済学部」であるべきなんじゃないか?
Facebookで次のようなやりとりがあったので、貼り付けます。皆さんの思考の一助となれば。
(補足:本題は、AとC、Eのやり取りです。B、Dのコメントは前振りです。また、イメージがわきにくいので、男女の別と肩書きを付しました)
AKB48メンバーの恋愛・丸刈り問題、フランスの新聞「リベラシオン」にも掲載されました。
タイトルは「日本のダンサー少女の丸刈りに衝撃」で、事実を淡々と伝えています。You Tubeの画像が24時間で300万回以上再生されたとか、日本で大騒ぎになってるとか。彼女は「自分で決めた」と強調しているとか。それで、「第二次大戦後ナチの将校と寝たフランス女性の懺悔を思い出させる」という反応とか、「これが先例になったら困る。青少年への影響を考えろ」というツイッター上の反応とか紹介してます。そのうえで、。「このように日本の懺悔の伝統に少女を追い込んだことについても、恋愛を禁止したことについても、このような有名人プレッシャーをそれを負うには若すぎる少女に課したことについても、誰も罰せられない」と皮肉っています!
私は、You Tubeは世界中から見られるので、日本の恥を世界にさらさないで!と危惧していましたが、恐れていた通りになりました。 http://next.liberation.fr/musique/2013/02/01/surprise-chez-un-danseur-une-chanteuse-japonaise-se-rase-la-tete_878485
どこかで、次回出すCDに、切った髪の毛を入れて発売するという記事を読みました。すべては商業的に仕組まれたことだったのではと思います。本当ならば、なんとしたたかなことか。
Bさん、私も作為的なものを感じます。でも、それが商業的に成功する国・社会であってはいけないし、フランスはAKBのような存在そのものが成り立たない成熟社会です。
商業的に成功するんでしょうか?さすがに切った髪の毛をCDに入れるのには、ファンも反対すると思うのですが。まあ、ファン以外の人がたくさん買うと思うので、売れることは売れるかもしれませんけど…。
AKBのような存在そのものが成り立たないことを「成熟」と捉えることには反対です。
Cさん、反対の理由は何ですか?確かに「成熟」にはいろいろな意味があるので、ちょっと良い表現ではないかもしれませんが。
Dさん、そうでしたか。うっかり、ひっかかりました。(^^ゞ
端的に、成熟(その裏返しとしての未熟)といえる根拠がないと思うからです。逆に、成熟と捉える理由はなんですか?
ところで、フランスでは、AKBは人気がないですが、モーニング娘。は結構ファンがいるようです。どういう差なんでしょうか…?
私の考える「成熟社会」とは、自由、平等、法の支配がより行きわたる社会です。子ども、女性、障がい者等、弱者の権利がより守られる社会です。
もちろん、この問題1つだけで日本が未熟でフランスが成熟しているという根拠には不十分かもしれませんが、たとえば日本の新聞で、上のように「誰も罰せられないのはなぜ?」と疑問をなげかける新聞があるでしょうか?フランスにももちろん闇の部分はたくさんあるので、100%良い国だなどといいう気は全くないのですが、女性差別とか児童・暴力ポルノ問題への批判に関しては、日本の数歩先を行っています。モーニング娘やコスプレが人気と言っても、あくまで「しゃれ」の範囲で、今回のような丸刈り事件には大多数が反対するのがフランス社会だと考えています。
Aさんのおっしゃるような社会を「成熟社会」と呼ぶことには違和感はありませんが、AKBのようなアイドルが存在しえないことは「自由、平等、法の支配がより行きわたっていること」と関係がないように思います。
児童ポルノ問題については、日本はアメリカやヨーロッパ諸国に比べると遅れていますね。性差別については、議論が盛り上がっているということ自体は先を行っていると言えますが、議論の進展状況については、フランスでのヒジャブ禁止問題を見る限り、単純にそう言えるか微妙なところもあります。
今回の丸刈り事件については、日本でも批判的な見解が大多数だと思います。例えば、朝日新聞の記事はかなり批判的です(http://www.asahi.com/national/update/0201/TKY201302010381.html)。この記事は、むしろ、上記のフランスの新聞よりも問題状況を理解していると言えます(この件について、坊主にされたフランス人女性の話と比較させるのは的外れです。もちろん、単に市民の反応を紹介しただけ、という言い訳はできるでしょうが)。
Cさん、朝日の記事は読みましたが、私には批判的とはあまり思えませんでした。特に、後半の危機管理のプロとかいう方の「謝罪は成功」とか、「アイドルは商品。ブランドコントロールは何よりも重要です」というコメントで締めくくる記事構成は、それを是認しているととられる可能性大です。「反省してるから許してあげて」と言いますが、反省する必要はないし、それを売りにしていること自体が明治時代以来の処女神話というか、女性の商品化(差別)の表れと思うと私には耐えがたいのです。フランス社会はそれに抵抗があるからAKBのような存在が(ごく一部のマニアックな層に人気が出たとしても)メジャーになることはないと思っています。
へジャブ禁止令もそもそもイスラムの女性差別に対する批判からでてきた話で、しかも禁止は学校内だけですから、問題ないと思っています。
察するに、今回の件に関してどのような理由から批判するのか、という点について、Aさんと朝日新聞とでは視点が異なるのだと思います。朝日新聞は、「アイドルの恋愛禁止」をやや批判的に描き、「反省の手段として丸刈りにする」ということを体罰あるいはパワハラに類するものだと批判し、また、マーケティング戦略として失敗したのではないかという角度からの意見を紹介しています。そこには、「女性差別」の話は登場しません。
今回の件を女性差別の問題と捉えることは、的を失していると思います。もちろん、女性の商品化→即差別と考える人がいるのはわかっていますが、自分はそうは思いませんし、そういう考え方が一般的だとも思いません(これに対し、男性女性問わず、性の商品化自体が心地良いものではないという意見は多いと思います。それは差別とは別の問題です)。
ヒジャブ禁止は、フランスの差別解消についての独善性が出たものと思っています。ムスリム女性自身の反対を押し切って、よく施行に踏み切ったなと思います。
それはともかく、AKBが存在しえないことが成熟社会である、という言明は、Aさんのコメント内容から推測すると、結局、「女性の商品化は差別である」→「AKBは女性を商品とするものである」→「AKBの存在は差別である」→「差別のある社会は成熟していない」→「AKBの存在は未熟を表す」という思考過程を経ているという理解でよいですか?
女性の商品化=即差別とは私も思いません。それこそ大人の男女が自らの魅力を演出してそれを売りにすること自体は、職業として成り立つのでしょう。でも、そこに「恋愛禁止」のルールなど入りこむすきはないですよね?その自由の否定とそれを受け入れる社会が未熟だという考えです。校則なども一種の自由の制限として私自身は反対です。
なので、上記の「女性の商品化は差別である」という命題からは出発しません。AKBのような未成年を商売道具として利用する大人に対する批判はあるので、AKBに限らず、「10代のアイドルは大人が子どもを商品とするものである」→「特に処女性を売り物にするアイドル(たとえばAKB)は女性差別である」→「子どもを商品としたり、女性に限らず、差別を許す社会は未熟である」という思考過程を経ているかな?と思います。
このAKBの構成員たる若い女子の丸刈りが、いかに多くの女性から嫌悪感を帯びて見られているか、秋元某はわかってないでしょうね。この嫌悪感は、まさしく「女性がオッサンから商品化」され、「搾取」されていると嗅ぎ取っていることからきます。また、「若いにーちゃんがこれを見て喜ぶだろう欲求」を充たしたと、商業ベースから判断されていることを嗅ぎ取っているからでしょうね。
法や人権に携わる者が、これらのことに鈍感であってはならないと強く感じます。そういう意味での「嗅覚」、とても大切ですよね。頭で理屈づけることなど、後から暇な人がすれば良いことです。これが社会的に、また若い女性、若い男性に与える悪影響から考えると、即刻このような「性の商品化」はやめるべしだと思います。また、森美術館の例の展示も、いま問題の体罰も、根っこに同じものを感じます。
Aさんの仰ること、私には大変よく理解できます。ロースクールも法学部も、真面目にジェンダー法に取り組むべきでしょうね。
そうそう思い出しました。キャリア教育などでも「自分を商品と思って売り出すなら、なんて売り出しますか?」というフレーズを使う講師に、それは不適切だと抗議したことがあります。人間は売り物ではありません!それを、いけしゃあしゃあとやっている大人たち、買う人間がいるから売るという発想の大人、これは本当に断罪しなければなりません。
謝罪って・・・誰に対して?写真集の犯罪については責任者=男性・権力者の落とし前は社会的にも不問で、労働者=女子は人権も人格も否定される不平等が搾取だし、キモい。日本はジェンダーバランスの点では著しく未熟な社会である。
AKBの女の子と同じくらいの年齢の娘がおりますので、この女の子の丸刈り姿を直視できません…。これがもし自分の娘だったら…と考えるだけで、死にそうなくらいイヤな気持ちになります。そんな集団に入ることを許してしまった、親としての自分のあり方を呪うと思います。
この画像に対する嫌悪感は、表現しがたいほどです。女性が「罰として丸刈りにする」という行為自体が、ナチスの収容所に入れられた女性や、大戦後、ナチスとの付き合いがあったことで丸刈りにされた女性たちを連想してしまうのです…。
こんなことがまかり通る「幼稚」な国であるということを、臆面もなく世界にさらしてしまったことは、本当に恥ずかしいと思いますね。
私も朝日新聞の記事を読みましたが、あれのどこが批判的なんでしょ?しかも、その記事の横に「板野友美引退」ですよ?スポーツ紙か?と突っ込みました。
テレビのニュースも然りです。この気持ち悪さ、不快感の本質をついてくれない。
Aさんのスレッドを読ませて頂き、やっと胸のつかえがおりました。
>Aさん
女性の商品化というよりは、子供の商品化が問題であり、また、それとは別に、処女性を売り物にすることが女性差別だということですね。処女神話はたしかに女性差別の意識の発現と言えるでしょうから、処女性を売り物にすることが女性差別意識を払拭することを妨げると言うことはできますよね。
ただ、たしかに「男はあの映像を見て喜ぶ」と演出サイドが思った可能性はありますが、実際にはそんなことはおそらくありませんので(喜ぶ人もいることはいるでしょうが)、演出サイドを責めるならともかく、今回の件に対する批判の声が多い現状に鑑みると、社会を未熟と言ってしまうのは、卑下しすぎではないかと思わないではないですね。
少数派の意見を正当化しなければならないときには「嗅覚」だけではどうにもならないので、理屈付けが必要です。もちろん、問題発見のプロセスでは、理屈付けの前に「嗅覚」が先に立つわけですが、正当化のプロセスにおける理屈付けがなければ、味方同士の馴れ合いで終わりです。
>Cさん
「嗅覚」が働かないような人は、学者にも司法関係者にも人権に携わる人にもはなれませんね。どこぞの弁護士みたいに人権が飯のタネ、なら別ですが。かしこぶっても、痛みをわからない人に理屈をつけられるよりは、まずは気持ち悪さを「共感」できる人でないと、自分はおろか他者の「権利」なんて守れませんからね。「正当化のプロセス」を他者がしたり顔ですることが、問題発生のすぐの時点でそんなに必要とは思えません。それを味方同士の馴れ合いなどと断言されるというのは、やはり第三者である自分を安全地帯において評論する、というところからですかね。
Cさん、大衆論理は常に正しいんですかね。女性のことに関して女性の意見を聞かない男性に何がわかるのでしょうか。古代脳である嗅覚すらないならもはや生物とも思えません。
学校で習う古典の文法というのは、言語学的にいうところの文法とはちょっと違って、日本語の文法書と日本語辞典を与えれば日本語が話せるっていうものじゃないんだよね。
いまの中学高校でならう文法(学校文法とよばれる文法)が形になったのは、明治時代のことで、江戸時代の学者の理論が元になってる。
当然のように日本語を話せる日本人が、古いとはいえ同じ日本語を解釈する方法を考えただけだもの、いろいろな言語を比較考証した末に言語との本質を洗い出すという作業がなされていない。
キリスト教徒のキリスト教徒のための神学とか、そういうのとベクトルは同じで、まずキリストを信じないと神のことはわからないように、日本語が話せないと日本語の文法はわからない。