2012-09-16

国語において、文法は無意味

学校で習う古典の文法というのは、言語学的にいうところの文法とはちょっと違って、日本語の文法書と日本語辞典を与えれば日本語が話せるっていうものじゃないんだよね。

いまの中学高校でならう文法(学校文法とよばれる文法)が形になったのは、明治時代のことで、江戸時代学者理論が元になってる。

当然のように日本語を話せる日本人が、古いとはいえ同じ日本語解釈する方法を考えただけだもの、いろいろな言語比較考証した末に言語との本質を洗い出すという作業がなされていない。

キリスト教徒キリスト教徒のための神学とか、そういうのとベクトルは同じで、まずキリストを信じないと神のことはわからないように、日本語が話せないと日本語の文法はわからない。

じゃあ日本語を覚えるためにどうやって文法を理解するのかといえば、外国人学校文法とは違う文法で日本語を覚える。

中学高校で習う文法論というのは、伝統文化としての価値しかない。

  • ぶっちゃけ古文漢文にアクセスできる人間って公教育に盛り込むほど必要ないよね ブコメで血眼鼻息フンフン憤青してる人らって現場の外の人間だし

  • 国語の専門家でもなんでもないし、古文、漢文はちんぷんかんぶんwだった俺だが、なんとなく、”文法”というのが良く出来る子はプログラマーに向いてるような気がする。 気のせい...

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