はてなキーワード: 多寡とは
今、20~30代の年収のボリュームゾーンは中央値420万くらいで、300~500万の間に収まってる訳だけど、彼らの大多数は、大学に通ってんだよね。
年間100万~+仕送り120万あたりを4年間使う程度の経済力を親も持っている。
塾にも通ってるだろうし、大多数は新聞配達など児童労働のために勉強する時間もなかった、なんて家庭ではない。
これで結果が出ないなら、本人が無能なだけ。
・増田は「大多数は」ってしきりに言うけど、日本の大学進学率ってせいぜい55%なのよね。
参考)https://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2019/08/08/1419592_1.pdf
自分が貧しいのは社会のせいだなんて言ってる奴らの90%は、単に無能なうえに怠惰に生きて来ただけだよ。
「俺が貧しいのは社会の問題だ。政治が悪い」と言ってる奴の圧倒的多数は、行くだけ無駄だった私立大学や専門学校の学費を払える家庭に育ってる。
「俺が貧しいのは社会の問題だ。政治が悪い」と言ってる奴って、だいたいは増田が言及していない(無視している?)45%のほうにいるんじゃないかな。
・大卒(55%)についても、「これで結果が出ないなら、本人が無能なだけだ」と増田は言うけど、日本人の平均年収って90年代前半をピークに減少に転じて、ここ数年少し持ち直した程度なんだよね。要するに、いつ育っていつ就職したかが年収にあからさまに反映されている。
もっとはっきり分かる例を挙げるなら、このコロナで就職難になる新卒について考えてみればいい。その人たちはコロナ前に楽勝で就職していた世代よりも無能で怠惰だから就職難になるのかな?能力や勤勉さより、生まれてきたタイミング、就職するタイミングがあきらかに物を言っているよね。
参考) https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/kako/2017/documents/useful2017_21_p304-348.pdf
・増田はなぜか日本と他国を比較しないけど、例えばミャンマーの人たちが日本の人たちと比べて相対的に貧しい傾向にあるのは、ミャンマーの人たちが無能で怠惰なせいだと思う?おれはミャンマーの人たちと日本の人たちの年収の多寡の違いを生んでいるのは、基本的に単に生まれた場所とタイミングによるものだと思うけど。
日本人の20~30代が今の年収なのは、その人たちが20~30年前に日本で生まれて日本で育って就職したからで、結果としてミャンマーの人たちよりは裕福で、親世代と比べれば貧しい。それは無能や怠惰が原因ではなくて、繰り返すけど、20~30年前に日本で生まれて、日本で育って就職したから、だ。個々人で見れば、それに加えて誰から生まれて誰に育ててもらったかなどが影響している。
総合点評価としてメリットが上回ると判断すれば収入のパラメーターが凹んでいてもするわけよ。
でも金のなさを相殺出来るだけの価値を提供できていないわけじゃん。
提供しようにも労働時間の縛りとか社会の仕組み的にも無理だったじゃん。
その点地獄の沙汰も金次第というけど、他のパラメーターの不足分は金で埋め合わせが利く部分も大きいわけよ。
既婚未婚男女問わず世帯収入の多寡で言えばそりゃ多い方が良さがわかりやすいのよ。
若くて高収入の女性は絶対数が圧倒的に少ないんだから、競争激しいよ。
金持ってるキャリアおばさんは狙い目だぞ。
若くない女性も稼げれば結婚できるとすれば夢のある話じゃないか。
ちなみにイケメンは言う程有難がられていないぞ。
id:Dr-Seton の以下の記事について
https://dr-seton.hatenablog.com/entry/2021/04/23/222208
フェミニストは、外形的な要素(収入、容姿、年齢など)で格付けせず、「人としてどうか」で判断しているから正しいって言ってるんですけど、マジでアホかと思う。
この「人としてどうか」という判断が、実質的に、コミュ力、発達、容姿、収入等の諸要素を変数として、ブラックボックス化した中学校の内申点のようなものになってるわけでしょ?
それとも「フェミニストの判断は公正公平だ」と強弁するの? そんな無茶な方便に騙されると思ってるの?
外形的な、収入の多寡や容姿で選んで、それを堂々と言うのは、クソだけど正直なだけマシ。
むしろ、それを「人としてどうか」のような全人格的価値の問題にすり替えて、実質的に人を格付けしているのがミエミエだから猛反発されるんだよ。
って言うよね。
構造的にそうなんだけど、
今、とられるお金が多いことと、
将来もらえるお金が少ないことの原因は
イコールではない。
取られるお金が多いのは大人数の年寄りを少人数の労働人口で支えているから。
老人を羨み妬む気持ちは仕方ない。
財政が逼迫して財源を増やせないのも同様。
子供がたくさん生まれ、現在に至るまでほとんど死ななかったので人数が減らず大量の老人を抱えるに至ったという過去は変えられない。
でも将来もらえる金額が低いのは、自分たちのせいでもあるのだ。
そう、少子化。
これが突然、空前絶後のベビーブームになって毎年人口増えまくりになれば
また違った展開はありうるのだ。
どんなに可能性が低くとも。
子供なんて無理、まずそう言うだろう。
じゃあ何が揃っていれば子供をほしいと思えるようになるか。
一番やっかいな問題はカネに困るくらいなら子供がいない方が自分の人生は充実するという風潮である。その人にとってはそうかも知れないが、そうではない生き方、子供が欲しい、できるなら育ててみたい、そういう生物としての本能に逆らわない生き方も認め、妬みから揶揄したりしないでほしい。
子供を持つ人が増え、幸せそうに暮らしていれば、いつかは自分も子供を育てたい、と思う子供も増えるだろう。そういう地道な連鎖をつなげないとこの問題は解決しない。
それができるのは今の自分たちだけ。
老人達でも、子供達でもない、労働人口の自分たちだけが唯一の希望なんだ。
もちろん日々のお金を稼げないとか、相手がいないとか子供ができないとか問題はあるだろう。
でも、子供を育てたい人が沢山いて、声を揃えなければ、サポートを求める声すら聞いてもらえない。
最初から自分にそういうのは無理と決めつけて、KKOだ弱者だと理由をつけて諦めるのは簡単だ。
それどころか、そこに向かって努力する人を嘲笑うことで溜飲を下げる人もいる。
でもそうした自虐を繰り返した結果、ますます将来の自分たちの首を絞めるんだ。
変えられるチャンスを持っているのは自分たちなんだ。
いかに老人の人口が多くとも、実際に稼いでいる労働人口全体が現状をおかしいと言えば無視できない。
それが怖いから政治家も老人も労働人口を世代や性別、収入の多寡で分断させて、政治や世の中に文句は言うけど何もしない人間になるよう仕向けている。
そこにまんまとひっかかるな。
このままわきまえたお利口さんで居続けていれば辛い老後は予定よりさらに辛くやってくるだろう。
それどころか下の世代からはお前らが無能だったから国は衰退したし、俺たちはお前らのために苦労させられている、と恨まれる。
斜に構えた姿を格好良いと勘違いしないでくれ。
今から、ここから変えていけば、諦めて何もしないより良い未来になるはずだ。
それがたとえ自分達が死んだ後にやっと実るくらい時間のかかることだったとしても。
この話に具体的な施策は書いていない。
抜けてる視点もあるだろう。
そう思うなら、馬鹿にせず、罵らず、丁寧に意見を出してほしい。
これだけ必死に叫んでも、多分誰にも届かず、
でも、伝えたかった。聞いて欲しかったし、2021年の時点でこんなことを言っている人がいたらしい、と未来から見返してほしい。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
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なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
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「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
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「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともと赤木智弘氏がフリーターという就労状態をもとに立ち上げた切り口で、基本的には「属性弱者派」のうちの
「経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
今更言及しなくても散々言われてきていることであるが、あえて言いたい。
もちろん全てが高レベルのキャスト(可愛くてスタイルが良くて性格が良い)というのも僅かながら存在し、大抵ランキング上位になっている(ただし、絶対的な1位はそうではないことのほうが多い傾向がある)のだが、そんなの当たり前すぎることなのでここでは言及しない。
そして、たまにどっちも低レベルのキャストも存在するのだが、(普通の店ならとっくに淘汰されている)かなりの少数派なのでもし遭遇したら逆に宝くじに当たったとでも思っていれば良い。
つまり、どんな仕事でも同じようなことが言えるが、超絶美人で態度が悪い子よりも、多少スタイルやルックスが悪かろうが、ちゃんとコミュニケーションが取れて仕事ができる子のほうが総合的な点数は高くなるということである。
どういう子が性格が良さそうか?というのは、実際に指名してみる以外の方法として、日記(ブログ)の更新頻度や内容からある程度推測できる。
前項ともつながっていることだが、要するに「何事も高ければ良いってもんじゃない」ということである。
そもそも、風俗店における料金設定というのは「ビジュアルがメチャクチャ良い」か「著名人(AV女優・元タレントなど、所謂正しい意味でのセレブリティ)である」かが握っている(超高級店やSM/フェチ系の専門店などで一部例外はある)。
これは、一般的な恋愛市場がそういう価値観に縛られているため、一般的な風俗店においてもそういう市場原理が働く、ということだ。
そういうわけで、ぽっちゃり専門店は料金帯が低く設定されている場合が多いのだが、安かろう悪かろうであるか?というと、必ずしもそうとは言い切れないのである。
そして、通常の風俗店では「性格が良い」ことで(金銭的に)評価されることはほぼないのだが、そういう特化型の店でプラス料金が設定されているキャストはビジュアルよりも性格やサービス面での評価がなされて高ランク待遇になっていることが多い傾向があるため、良いキャストを探し当てやすいという利点がある(もちろんルックスや「他の在籍嬢より痩せているから」という本末転倒な理由で高ランク待遇にされているケースもなくはない)。
あまりにも太ってるのは嫌、という場合には在籍嬢のウェストサイズの傾向から判断できるケースが多いのでよく調べてみると良い(W60より上だとヤバいとされる吉原ソープと同じように、店によって多少前後するがW75を超えると誰が見てもスタイル的にはアレなキャストが出てくる傾向が高い)。
これは「個々の感想が参考になる」というよりは「口コミの多寡によってある程度の傾向がつかめる」という意味である。
風俗系ポータルサイトの口コミというのは、一般的な飲食系口コミサイトやGoogleマップの口コミなどとはやや性格が異なっており、あからさまに低評価な口コミは運営に弾かれるようなガイドラインが設定されているため、事実上「高評価な口コミ」しか書けないような作りになっている。
ということは、「サクラや店側による虚偽の口コミが蔓延るのでは?」と思われるかもしれないが、利用ユーザーのリテラシーが低い分、他のジャンルの口コミサイトよりも運営側が厳し目に審査をしているため、そんなことをしている店はとっくに掲載リジェクトを食らっているはずである。
(とあるサイトでは多重アカやサクラによる投稿を行ったアカウントを晒し首にしていたりする)
口コミ投稿に関するガイドラインは(店側の虚偽の口コミを禁止する以外にも)割と細かく設定されており、具体性のないもの(「最高でした!」みたいなのとか)、キャストに対する誹謗中傷(「デブスでした」みたいなのとか)、他の口コミに対する非難(「こんなのに★5入れるなんて…」みたいなのとか)などを禁止している(この辺は他ジャンルのサイトでも同じかな)。
また、風俗系サイト特有のポイントとして、上記の運営による審査を通った後、店側の掲載許可が必要になっているサイトがほとんどである、ということが挙げられる。
つまり、そもそも「サイトに口コミを書く」ということ自体がハードルの高い行動であることに加え、店側(ないしキャスト)が気に入らない口コミは掲載されないことがあるということだ。
(というか、自分が受けた性的サービスの内容をある程度事細かく書いて公開する、という行動に心理的ハードルを感じない素人なんてほとんど居ない)
従って、口コミの質よりも口コミの量の多寡により、キャストがどれくらい熱量ある客に支えられているか?ということや、お店と客の信頼関係などが推測できるというわけである。
これは、逆のパターンにも言えることで、ある程度の期間在籍しているのにも関わらず口コミが全く無いキャストは、そういうところに口コミを書きようがない(低評価な口コミは事実上書くことができない)ので、あまりよろしくない可能性が高いキャストである、ということも推測できる(単純に出勤頻度が少なくて指名客が少ないだけのケースもあるが、それでも人気なキャストはちゃんと口コミ掲載があることが多い)。
やりたい放題の 5ch などの匿名掲示板では当てにならないことのほうが多いと思われるが、悪評については(ポータルサイトなどで大っぴらに書けない分)真実である可能性が高い傾向があると感じているので、そっちは参考にしてみても良いかもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20210322080839
ジャーゴンを使って暗に「角が立つ内容だけど正論だ」と称賛する。白饅頭は第三者には制止したテイを取りつつ、書き手と読み手に〈内輪の連帯感〉を与える。こういうやりとりの中で、人は陣営脳化していくんだと思う
墨東さんのまともさが際立つ…。/一時期の猫猫先生とかイケノブにも似た、自家中毒的な陰湿さがある。モロにエコーチェンバーにやられちゃった人の挙動。鍵垢の本当の怖さって本人がSNSで見当識を失うリスクだね
muchonov
「好意の多寡」云々と強弁してるけど、勇壮な表現の自由戦士たちが権利者の意向には簡単にゴロニャンするという構図は変わらない。自分たちからオモチャを取り上げる権利を持つ相手に屈服してるだけ
https://anond.hatelabo.jp/20210318185716
最初に言っておくと、“擁護”という言葉、muchonovさんこそが批判されているというフェイズにおいてその様に用いられる“擁護”という言葉は、ただの批判回避でしかありません。『「xx批判」に対する批判』を「xx擁護」という事にしておくと、あくまで批判されてるのはxxだけという事に出来て、「xx批判」こそが批判されてる事実を誤魔化せる、そういう小手先のテクニックです。これはその意図の有無に関わらず、です。
自分は、著作物に対する著作者の諸権利には二次利用者の表現の自由に優越する要素が確実にあると思う。だから、著作権を持つコンテンツホルダーに対して二次利用者が配慮を示すこと自体は、何らおかしなことじゃない。「コンテンツに対する権利を持ってる人達がガチで怒ったらどうなるかわからないから、謙抑的にやりましょう」というのは二次利用者としてごく常識的な判断だし、自分だって似た状況が発生したらフツーに相手の「お願い」に従うし、何ならゴロニャンする。日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
いやいや、意味わかんないですよ、これ。
だって「発端」のブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/4699940658477561058/comment/muchonov)は
「好意の多寡」云々と強弁してるけど、勇壮な表現の自由戦士たちが権利者の意向には簡単にゴロニャンするという構図は変わらない。自分たちからオモチャを取り上げる権利を持つ相手に屈服してるだけ
ですよね。
それに対してこちらが、それは“事実上の『私は「表現の自由」について全く理解していません』宣言”だよねと指摘して、そこにmuchonovさんから返ってきたブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/4699974732078626146/comment/muchonov)が
そうかなあ? 自分は著作物に対する著作者の諸権利は二次利用者の表現の自由に優越すると考える一方で、元増田は「グロく描こうが殺そうが馬刺しにして食おうがなんでもあり」だと言ってるんですけど。
この時点で、もうだいぶ「????」なんですが、これについてこちらが『“著作物に対する著作者の諸権利は二次利用者の表現の自由に優越すると考える”様なmuchonovさんが“コンテンツホルダーの意向には簡単にゴロニャン”とか言っちゃうの、さすがに意味不明すぎでは。』と指摘して、それに対する応答が上の増田なわけですよね?(こちらへの応答だけのつもりではないにせよ)
日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
とか仰ってますけど、笑ったの、他ならぬmuchonovさん自身ですよね。その“笑われても構わない”って、それ「笑う側のmuchonovさん」からしたらつまりは「“表現の自由戦士”たちは、おとなしく我々に笑われてろ」の意味なわけですよね?うん、やばいですね☆
って、muchonovさんの中では、「著作権」と「表現の自由」が、かめはめ波の撃ち合いか何かみたいになっていて、「著作権」の方が勝ってる…という様なイメージなのでしょうか?
もう何度も述べてきている事ですが
「表現の自由」で最も重要なのは『価値観の自由競争(市場)』。『公権力からの自由』はあくまでその手段の一つ(もちろん重要だが)。『表現の自由度』はその結果。
です。
これは、『絶対に「正しい」とされる、そんな「思想」は存在しない。だからこそ、「思想」の媒体たる「表現」は常に「自由競争」の下にあらねばならない。』事こそが、「表現の自由」の根幹である、という話です。
また、「市場」の中で自身の「効用」を最大化する事は、個々の主体が持つ権利であるべきだから、という考えに基づくものでもあります。
ですから、もしこれを否定しようとするならば、『全人類が、それぞれの権利を放棄してでもコミットすべき、絶対に「正しい」とされる「思想」が存在する』と主張し、証明しなければなりません。完全に狂気であり、全知全能の神の召喚でも試みた方が早いレベルだと思います。
つまるところ、その根幹が「自由市場」である以上、各々の「私的所有(財産)」を認める事は「表現の自由」に織り込み済みだと考えるべきです。「表現の自由」vs「著作権」、どちらの方が“優越する”か(アクセルとブレーキ、どちらの方が強いか)みたいな話とは違います。
ですから、“日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして”も、「私的所有」を認める事に“ギャップ”はありませんし、もちろん笑われる理由も存在しません。
これはmuchonovさんに限った話ではないと思いますが、恐らく『「権利がある」というのは、「その“権利”を行使した時に不評を買わない権利がある」の意味ではない』という事を理解されていないか、もしくは失念されています。
他の言い方をすれば、『「ルール」に従うか/逆らうか』と『「ルール」を肯定するか/否定するか』は、それぞれ別の事柄だという話でもあります。
(一応言っておくと、個人的には例の“お願い”について、曖昧であり「忖度学級会」を誘発するものだとして、2018年6月時点で批判的にコメントしています。)
また、「私的所有」を認めるという事は、その是非(その「大きさ」の妥当性や、そもそもの有無等)を問わないという意味ではありません。それは「表現の自由」とは別個の問題として論じる事ですし、今回の流れで言えば、もう少し著作権に関する是非は、議論の俎上に載ってもよいだろうと考えます(個人的には著作権はもっと「小さく」していくべきだと考えていますし、むしろ逆に「大きく」なる傾向のある現状については危惧しています)。
実際、話題になった「馬名のパブリシティ権」の話は、その辺りが問われた件だとも言えるかもしれません。もちろん逆に、「せやかて、やっぱ馬名については馬主が優先的ステークホルダーであるべきやろ」と主張するのも、それはそれで一つの考えでしょう。
どうであるかと、どうあるべきかは、やはりそれも別の事柄なのですから。
muchonovさんは二者の関係を「権利者と利用者の力関係」と述べており、もちろん嘘ではないのですが、それ以前にまず「供給主体と需要主体」の関係である事を忘れてはなりません。
コンテンツの二次利用は権利者のお目こぼしのもとで成り立ってるグレーゾーンで、『お願い』を無視し続ければより厳しい使用規制が課せられたり、コンテンツ自体が供給されなくなっちゃう危険があるから、みんなそれを避けるために『お願い』を遵守してる。
供給側としては、コンテンツに対する需要がなくなってしまう事こそが最も恐れる事態の一つであり、つまり(馬主のご機嫌よりもよほど)需要側のご機嫌こそを気にしなければならないわけです。趣味で製作しているアートか何かではないのですから。
恐らくは、だからこそ曖昧な“お願い”なのであり、また2018年6月20日なのでしょう(せめてアニメ放映中には冷や水を浴びせたくない、夏コミが控えてる、ゲームはしばらくリリースできそうにない…というタイミング)。
そしてもし、muchonovさんが記した様な「逆転現象」が起こるのだとしたら、それこそが「惚れた弱み」であり、正に元増田が述べていた状態そのものなのです。
「お客様は神様」と「殿様商売」との間で揺れ動く、その実に「自由市場」的な動きの中で「表現」の在り方も変動するというのは、むしろとても「表現の自由」的である、とすら言えるでしょう(元増田に、そこまでの考えがあったとは思わないし、個人的にはやはり「忖度学級会」には否定的だが)。
にもかかわらず、それを“バカみたいじゃん。”と切って捨てるmuchonovさんの発言のほうが、よっぽど“バカみたい”なのではないでしょうか。
HanPanna 価値観の自由競争というのはrag_enさんの造語なので、法学だと思わないように(もし学説があれば教えて下さい)"思想の自由市場"について知りたいならコチラのブログのが良いです。https://arecolle.hatenablog.com/entry/2021/03/06/124923
“法学”ってどこから出てきたん?というか、『公権力からの自由』はあくまでその手段の一つでしかないよ(大切だけどね)って話、してありますよね?ちゃんと読んでます?
なんか理解されてないようですけど、その箇所への反論は「ちゃんとできるようにしてある」んですよ。つまり『全人類が、それぞれの権利を放棄してでもコミットすべき、絶対に「正しい」とされる「思想」が存在する』と主張し、証明してみせればいいだけなんです。はい、頑張ってください。
まぁ、HanPannaさんが同じ話題でやらかすの、これで3回目ですし、間違った事でも言い続ければ押し通せるみたいなの、完全にオカルトなんで勘弁してください(HanPannaさんに許可を頂ければ、過去のやりとりも晒しますよ)。
あとリンク先、よりにもよってU.G.R.R.の人かよ…ギャグで言ってるのか?ってのが正直な感想ですけど、ぶっちゃけ謎の(マジで謎の)出禁を食らってるので(とはいえ、さすがに閲覧不可は無視するが)言及は避けておきます。やさしみ。
Silica ところでこの"価値観の自由競争"の中では寛容のパラドックスはどうなるんだろう、この人の言う"SJ"的な価値観がその競争に勝利したらどうなるの?
https://anond.hatelabo.jp/20210318185716
もし元増田が「コンテンツの二次利用は権利者のお目こぼしのもとで成り立ってるグレーゾーンで、『お願い』を無視し続ければより厳しい使用規制が課せられたり、コンテンツ自体が供給されなくなっちゃう危険があるから、みんなそれを避けるために『お願い』を遵守してる。そうした権利関係のない第三者からああしろこうしろと『お願い』されるのとは状況が全く異なる。それを『態度が異なる』と笑うならどうぞご自由に」と(他の擁護派の方々と同じような)模範解答を言ってれば、多少の揶揄やあてこすりをされる余地はあっても、主張の筋道自体には文句のつけようがなかったと思う。でも実際は、元増田は「二次利用はなんでもありだが、ウマ娘公式はオタクに好意を持たれているから、オタクのほうも彼らの『お願い』を聞いてやってる。でもフェミニストや表現規制派はオタクに好意を持っていないし持たれてもいないから、オタクにも彼らの『お願い』を聞く義理はない」という、何重にも地雷を孕んだ主張をゴリ押ししている。これにウマ娘ファンのみなさんは「そうだそうだ」と乗っちゃっていいのか?という話。
一部の表現の自由戦士を除いて
「好感度や信頼度の話もないとは言わないけど、著作権者だからでしょ」
ってツッコミ入れてるじゃん。
自分は、著作物に対する著作者の諸権利には二次利用者の表現の自由に優越する要素が確実にあると思う。だから、著作権を持つコンテンツホルダーに対して二次利用者が配慮を示すこと自体は、何らおかしなことじゃない。「コンテンツに対する権利を持ってる人達がガチで怒ったらどうなるかわからないから、謙抑的にやりましょう」というのは二次利用者としてごく常識的な判断だし、自分だって似た状況が発生したらフツーに相手の「お願い」に従うし、何ならゴロニャンする。日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
かなり多くの人はガチャピンくんと同じこと言ってたよね?
元増田に賛成してる人でも著作権の話完全に無視してる人少ないよね?
フェミを揶揄するコメントでも「何の権利も持ってないフェミが著作権者と同じでないと満足できないってのはおかしいよね」ってニュアンスだよね?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210317235416
違うっていうなら、それぞれの立場のコメントの数を数えて否定してみなよ。著作権の話完全に無視して信頼や好意の多寡だけの話をしてる人どれだけいる?
なんで一部のバカの方を取り上げてそっちがメインみたいに言ってんの?
ちゃんと「多数派の人はわかってるようだが」って注釈入れなよ。
著作権者のことを
「自分たちからオモチャを取り上げる権利を持つ相手」と表現してみたり
自覚してやってるならいいけど言われてはじめて気づきました、ならかなり病んでるよガチャピンくん。
あとね。
元増田の文章ってさ、フェミのいちゃもんに対しての反論なわけだよね。
「フェミの話を聞く必要がない理由」としてフェミは好意も持たれてないし信頼も持たれてないっていう指摘自体は一定のクリティカル要素ではあるよね。
それがメインの理由だという元増田は間違ってるが、この点はフェミとしては無視してよい話ではなくね?
「わかりました。オタクが著作権者のいうことなら聞くと言ってるんだし、今後はオタク無視して著作権者に直接働きかけて権利行使させます」
都合の悪い2点「大勢の人はガチャピンが指摘するまでもなく突っ込んでる」「フェミの信頼性のなさについて指摘している」
を豪快に無視して、
都合の良い点「著作権を無視して語ってる」という点だけを大げさに取り上げて。
ガチャピンくんはミステリにおける信用できない語り手でも目指してんの?
と、ネガティブな印象を持ったが
それはコンテンツホルダーの権利との関係でそうするのが当然だと思うからで、間違っても「あいつらのお願いに従うかどうかはこちらの腹ひとつだが(何だったらエロく描いたりグロく描いたり○したり馬刺しにして食うこともできるんだが)、あいつらには好感を持っているし、我々の評価を落とすような事件も起こしてないから、今はその〈お願い〉を聞いてやってるんだ。テメーらはそうじゃないだろ!」なんてことを第三者に向かって言わない。
これについては「ガチャピンくんだけでなく大勢の人からツッコまれているように」同意してるからね。
ガチャピンくんさあ…色々省略して語るのは構わないんだけど、省略するなら省略したって書こうぜ。
元ガチャピンの人は勇み足で微妙な発言をしたけどちゃんとそれについて自分で尻をふこうとしている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4699940658477561058/comment/muchonov
「好意の多寡」云々と強弁してるけど、勇壮な表現の自由戦士たちが権利者の意向には簡単にゴロニャンするという構図は変わらない。自分たちからオモチャを取り上げる権利を持つ相手に屈服してるだけ
この発言自体はひどいと思うけれどそれに対する批判に対してきちんと受け答えしている。
・確かにそうですね。読み返してみると、自分の論点にはあまり関係ないところで棘がある表現を使ってるなと思った。
・そうかなあ? 自分は著作物に対する著作者の諸権利は二次利用者の表現の自由に優越すると考える一方で、元増田は「グロく描こうが殺そうが馬刺しにして食おうがなんでもあり」だと言ってるんですけど。「グロく描こうが殺そうが馬刺しにして食おうがなんでもあり」と言ってるのは元増田で、自分は「またまたぁ、実際はそうじゃないでしょ」て立場です
・子増田に言いたいことを書いたよ。 https://anond.hatelabo.jp/20210318185716 fukkenさんとかpeta0227さんと、言ってること自体はそんなに違わないと思うけど。
・ありがとう。自分は自分のことをSJW的な表現規制派とはやや立ち位置が違うと思ってます。宇崎ちゃん騒動の時も「撤去しろ」という立場は取らなかったように思う(違ったらごめん)
・元ガチャピンです。元ブコメ最後の「〜だけ」は表現が強すぎると少し反省してます。一方で、一次創作者の権利関係への配慮は二次創作の創作・鑑賞者の態度を根本で規定してると思うし、元増田がそこに全く言及せずにあたかも両者が対等の立場で(元増田的にほぼ「好意」のみで、現増田さん的には「恋人関係」のように)取り結ばれた結果そうした関係が築けているという見立ては、多くのファン当事者の認識とも違うように思いました
・②は増田の言うように著作権者を「オモチャを与えたり引き上げたりできる権利者」としても大差ないと思う…③オタ全体を嫌悪・蔑視してるように取られるのは本意でないので、今後はより書き方を工夫します①は(続①は「やめろ」と言われて「そうだな」と思ったのでやめた。/ゲイや黒人に偏見や嫌悪感を抱く自由はあるが表現する自由は一定の社会的制約を受けるという話をした。対国籍ではヘイトスピーチ解消法で実現済みのこと
「書き方がまずかったが自分の主張は間違ってない」ということで反省はしていないようであるが、少なくともツッコミに対してちゃんと返している。
★追記
「ウマ娘をフェミニストが叩いている」という誤解等について追記を別増田で書いたのですが、末尾に載せたため余り読まれずに誤解がそのまま広まってしまって居る様です。すみません。
誤解やその他コメントへの返信は以下の増田で書いていますので、合わせてお読み下さい。
https://anond.hatelabo.jp/20210319115128
★追記終わり
はじめに言っておきたいのですが、私にフェミニストの方やフェミニズムへの敵意はありません。
この件に関して他の方も説明はされていますが、なにぶんフェミニストへの敵意が露わになっている物も多く、理解が難しい場合が多いと想像しています。
そこでこの件に関して一次創作者と言う立場から、フェミニストの方への敵意無しに説明することで、理解頂けないかと思い、筆を執ります。
ウマ娘では著作権を持っているCygamesから「競走馬のイメージを著しく損なう表現を行わないようご配慮いただけますと幸いです」という注意事項が出て、大多数のオタクはそれに従っています。(例外は居るようです)
しかしオタク達は(という括りは中々大雑把ですが)過去に宇崎ちゃん献血ポスターなどの際に「どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」とし、フェミニストに基準の明確化を迫っていた、
対応が違うのではないか、とフェミニストの方が違和感を持たれている、という話です。
一見して確かにそのようなオタクの対応は異なっています(勿論こうした対応を行っていないオタクもオタクの中には居ますが)
ただしここには「二次創作」を取り巻く環境の特殊さが関わっているために、そう見えてしまっている面があります。それを説明したいと思います。
二次創作は法的にグレーな行為です。その為二次創作者は一次創作者や権利者(アニメの制作会社や出版社等)に「二次創作をやっていいか」と明確に問い合わせない慣習があります。
また一次創作者側も二次創作を厳しく取り締まったり、明確な基準を出したりしない事が多いです。これは一次創作側も二次創作を歓迎している側面もあるからだと思います。(ここにも例外はあり、明確な基準を出すケースもあります)
ウマ娘での具体的でも明確でもない注意事項が受け入れられている背景には、こうした二次創作独特の慣習と事情があります。
(少し想像が入りますが)ウマ娘側は競技馬の馬主やファンとの関係を重視する一方、二次創作の過度な委縮も望んでいません。そこで明確ではない表現で二次創作者側に判断をゆだねつつ、馬主やファンとの関係性を悪化させるような二次創作については牽制を図っているのだと思います。
こうした関係性は一般的なものではありません。いくつかの条件を満たした特別な関係でしか成立しないものであり、「一次創作者と二次創作者(やオタク)」の間ではそれは成立しますが、「フェミニストとオタク」の間では成立しない。その為に対応が変わっているのです。
ではこうした暗黙の関係が成立する為の「いくつかの条件」とは何なのか。以下私に分かる範囲の2点を書きます。
一次創作者は「度を越えた表現はしないだろう」と二次創作者を信頼しているので、明確でない基準を出せます。
二次創作者は「このくらいなら訴えてはこないだろう」と自分の中に目安があり、その点で一次創作者や権利者を信用しているので、基準が明確でなくてもそれを受け入れられます。
ウマ娘ではまさにそうした信頼関係が成立している様で、(一部を除いて)ウマ娘達の性的な二次創作をする者は少なく、また現時点ではCygames側に怒られたという例は聞きません(私の観測範囲の問題かもしれませんが)
ではこうした信頼関係がフェミニストとオタクの間にあるかと言えば、残念ながらNOです。
ただこれは仕方が無い側面もあります。そもそも個人間ならともかく、集団と集団の間でこのような信頼関係が成り立つ方が異常だと思います。
一次創作者と二次創作者の間にあるこの信頼関係は、これまでの歴史が積み重なって出来たものです。ファン活動や同人誌、コミケ、等々、長い時間を掛けて生まれた信頼関係を他の集団が持っていなくても、それはおかしいものではありません。
また、不幸にもフェミニストとオタクの間には信頼関係をむしろ壊すイベントも数多くありました。
オタクの一部はより過激な表現を好み、その結果フェミニストは「度を越えた表現はしないだろう」とオタクを信頼することはできません。
宇崎ちゃんのポスターやキズナアイ騒動など、フェミニストが批判した表現は不適切かどうか人によって判断が異なる微妙な物もありました、その結果オタク達は「このくらいなら批判されないだろう」とフェミニストを信頼できません。
互いに疑心暗鬼になっている状態では、ウマ娘のような明確でない基準では意識を合わせることができないのです。
二次創作についてとやかく言わない事は一次創作者と二次創作者双方にとって都合が良い事でした。
一次創作者側はファン活動からモチベーションを貰ったり、二次創作によりファンが増えたり、といった利益が見込めます。
これは二次創作が法的にグレーである事も関わっています。細かいことを言うとそもそも違法である事に抵触してしまい、その作品の二次創作全体が潰れてしまう可能性も有る。
だから一次創作者と二次創作者の現在の関係は、双方に都合が良い側面があり、受け入れられる訳です。
対して、フェミニズム的な観点による批判の基準が明確でない事はフェミニストとオタク双方にとって利益が有る事でしょうか?
フェミニスト側は利益が有るかも知れません。基準を曖昧なままにしておけば色んな批判ができ、その批判が適切かどうかを基準との適合性で検証される事もありません。
しかしオタク側、というより表現を批判される側(多くの場合は一次創作者)としては、これは非常に困ります。表現をする際に何がアウトなのか分からないままに表現をすることになってしまう。そして後でアウトだったと知って炎上し、表現の修正や撤回を迫られてしまう。
一次創作者の立場から申し上げますが、これが非常に怖いのです。次出すこの作品は、この話はアウトかも知れない。作品の出来不出来に対する批判はある程度覚悟がありますが、差別的な表現だと批判される場合はその後の影響が全く異なります。今後作品を出せなくなったり、もしかしたら作家生命が終わるかもしれない。
私は幸いフェミニストの方に批判されるような表現は少ないジャンルの創作者なのでそこまででは無いのですが、やはり恐怖を感じる事はあります。
恐怖、そう、個人的な見解ですがオタクの一部がフェミニストに抱いている感情も実はこれだと思います。
自分がセーフだと思う作品、好きな作品も、フェミニストに批判されて修正させられたり、降板させられたり、作品を停止されるかもしれない、そういう恐怖を抱えている訳です。
そうした恐怖は信頼とは正反対のものです。そのような恐怖が無い状態、「本当に不正な場合は批判されるだろうが、そうでない場合は批判されないし、作品を潰される事もない」と双方が思える信頼関係が出来ればいいのですが、現状を見る限り難しそうです。
以上2つの条件をどちらも満たさないので、フェミニストとオタクの間には基準を曖昧なままにしておける暗黙の関係性はありません。だから対応が変わる訳です。
重要なのは「二次創作者と一次創作者」の関係の方が特殊なのであって、暗黙の関係性はほとんどの関係で成立しない事です。
分かりやすい例えかどうか分かりませんが、一次創作者と二次創作者は恋人だと考えて見てください。2人はキスなど特別な行為を行いますが、他人(フェミニスト)とは行いません。
それはおかしなことではないし、恋人でない人が「私ともキスしろ」と要求することはできない筈です。
以上の事をフェミニストの方々にご理解頂く事は、実はそれほど難しい事では無いと思っています。
何故かと言うと、フェミニストの中にはオタクを兼任している人も居るからです。女性のオタクや腐女子かつフェミニストの方からすれば、これまで説明した二次創作を取り巻く特殊性は言われるまでも無く理解されている事でしょう。
特に女性の消費者の多いBLでは二次創作は盛んですから、釈迦に説法です。
オタクや腐女子ではないフェミニストの方にはもしかしたら理解が難しいかもしれませんが、それでも理解頂けるよう、言葉を尽くしたつもりです。届いていれば幸いです。
実はもう少し書きたいことが色々あるのですが、既に長くなってしまいました。論点を足早に述べます、後日詳しく書くかもしれません。
・ウマ娘がオタクに配慮されるのは馬主が社会的な強者だからだ、という意見がありますが、誤りだと思います。
というのも強者ではない私の様な一次創作者の意向も二次創作者の方々の大部分は尊重してくれます。それは私がお金持ちだからではなく(お金持ちでは無いですし・・・)私が権利者だからです(作品への愛や誠意もあるとは思いますが)
・私は私の作品について「性的な二次創作をしないで欲しい」と表明することは正当な権利だと思います。一方私のものではない作品(例えばドラゴンボールやセーラームーン)について「性的な二次創作をしないで欲しい」と言ったとしてもそこに効力は無いと思います。
ウマ娘も同様です。Cygamesが権利者だからその意向が尊重されるわけで、それ以外の方の意見が強制力を持たないのは私の「ガンダムの二次創作をしないで」という発言に効力がないのと同じ、当然の事です
・二次創作者が「一次創作者の意向には従うが、フェミニストにはそうじゃない」という異議は、他に少し奇妙な所があります。と言うのもフェミニストの方々が批判対象とするのは多くの場合二次創作ではなく、一次創作やその公式コラボだからです。
つまり二次創作者は一次創作者に対して法的にグレーな事をしている(だから曖昧な基準でも従う)という負い目があるのに対し、フェミニストの方々は一次創作者の作品に対する権利者ではありません。
勿論作品の消費者である可能性はある訳で、フェミニストの方々の意見を無視することはありませんが、それは二次創作者に対する一次創作者の様な特別な地位ではない、という事が見逃されているケースが散見されます
・私がこの問題を知るきっかけの一つが以下の増田さんなのですが(この増田さんの語り口はフェミニストへの敵意が多い為、理解は得られないだろうと思い別の立場から書くことにしました)
https://anond.hatelabo.jp/20210317235416
この反応で気になるものがありました。
一生懸命正当化してるけど、勇壮な表現の自由戦士たちがコンテンツホルダーの意向には簡単にゴロニャンする構図は変わらない。好意の多寡じゃなく、自分たちからオモチャを取り上げる権利を持つ相手に屈服してるだけ
というものです(個人叩きになるのは本意ではないので、idは載せません)
二次創作者(やオタク)たちが明確では無い基準でも受け入れているのは双方に信頼関係とWin-Winな関係があるからで、「自分たちからオモチャを取り上げる権利を持つ相手に屈服してる」からではありません。
彼らと一定の信頼関係を築けていると考えている一次創作者としてそのような言い方はフェアではないと感じます。(また、オタクには女性も含まれるし、腐女子も含まれる事を忘れていないか、心配です)
ただ、この事についてこの方に理解頂くのは難しい事ではないと思います。
何故ならこの方はガチャピンをアイコンにされていました(今見たらアイコンが変わっていました・・・)。過去にこの方がそれが著作権的にグレーである事を自覚しているというコメントも見た事があります。
ガチャピンアイコンがグレーである事を知りながらガチャピンや権利者に「アイコンにしていいか明確にしてくれ」と明確化を求めなかったのは「自分たちからオモチャを取り上げる権利を持つ相手に屈服してる」からでしょうか?
私は違うと思います。「アイコンにすることで訴えてきたり止められる事は無い」と信頼しているからではないでしょうか?
だとすればそれは二次創作者と一次創作者の間の信頼関係と同じです。理解は容易い筈です。
以上だいぶ長くなってしまいましたが、フェミニストの方にご理解頂ければ良いなと思います。自分なりに誠意をもって書きました。
ブックマークのコメントで気になったものに返信を追記しようとしたのですが、長すぎて切れてしまったので、別増田にしました。以下です。