はてなキーワード: 低俗とは
で、実際それを気にしてる人からすりゃそりゃインパクトが大きいし、お前の周りにそういう人間がいっぱいいりゃインパクトがあった、と感じるんだろうけど、
実際お前は何も感じてないってことは少なくともお前の周りには余り居ないってことだろ?理解できる?
ベビーシッターの事言いたいんだろうが、んなこと行ったらアメリカなんてもっと酷いぞ?
それと、あれは日本みたいに保育園の制度が全然なってないってのが大きい。預けられる場所が少ないし(あっても高いし)、
それと不法移民て、奴隷的な低俗な仕事として想像してるんだろうけど、フランスでベビーシッター頼むのに移民に頼むなんて事はあまり無い、と言うか大概近所のおばちゃん的な
九州のとある山の中に母の実家があって、そこは市街地から車で何十分という距離。
そういう山奥の村で母は育った。
母には妹がいるが、上に兄3人。
俺は、この母の実家がすごく嫌いだった。
全員、憎み合っていて、叔父や叔母には子供の頃から理不尽な暴言や馬鹿にされたような言葉をかけられていたから。
母以外の兄弟たちは全員上京し、大阪か東京に住んでいるが、殆どがうまくいかなかった。
ありていに、社会に適応できなくて職を転々としたり、人間関係屋金銭関係でトラブル多発の人生を送っていたのだ。
高度経済成長機をすごしたもろに団塊世代の彼らなのだが、本当に人格が歪んでいて言葉が悪く、子供相手でもひどい言葉を投げつけ合う。
昔、自分はなぜこんなに親族が集まる場でおじさんたちに馬鹿にされるのかな。。。笑われるのかなって不思議でわからなかった。
へらへら笑って、にこにこしておじさんの罵倒が収まったあと「あんたにはわからんだろうな、俺の言ってることは」とか言い捨てられて気分を悪くしたものだった。
畑道のすみで虫取りをしていたら、急にスコップで背中を殴られたこともある。
チンピラとかまだ上品なほうで、底辺低俗非常識の塊で、いじめや暴力はあたりまえの社会不適合の集まりだったのだ。
叔父の一人は小学校卒、他は中卒、残りが商業高校卒なので良い職業につけなかった。
叔父の一人はマッサージ風俗店勤めでバツイチ本国に子持ちの中国人嫁を持ち、生活保護費を中国人嫁に徴収されながら関東で暮らしてたまにうちの母に金を無心にくる。
ほかの人々もサラ金にはまったり、夜逃げみたいな生活を続けていた
それで、唯一、大阪で母から生まれて育った俺のことを何不自由ない都会で育った子供といびりたかったんだろう。
子供の頃からすごく暴言を吐かれて、本当に苦痛だった。(でも母も父の賭博で借金を抱えて離婚してからはどん底生活を続けていて、とても自分は裕福な家で育ってるわけじゃない)
ばあちゃんには悪いがばあちゃんの生んだ息子娘たちが俺は大嫌いだったんだ。
ばあちゃんが生んだ子供らは、本当にモンスターばかりなんだよ。
そのモンスターの子である自分も、本当にお里がしれてしまうことを恥と思っている。
ばあちゃんがとんでもない親でとんでもない育て方をしたから、あんなモンスターができたんだよってずっとずっと思ってた。
お正月に帰省しては子供を育てているってアピールをするため、自分を無理やり連れて行く母に「おばあちゃんちに行きたくないよお」って泣いて空港で引きづられていたのをいまでも覚えている。
あの頃から、俺は自律神経がおかしくて病気っぽかったし、(周囲には言えなくてずっと我慢してたけど、最近になってようやく治療に書かれた)、自分がとても大人たちのいじめていい餌になってるってことを無意識に覚えていたんだと思う。
今、俺は成人したけど、叔父叔母たちは祖母が亡くなったのをきっかけに急に連絡を取り合いだしていった。
長男、次男が病気になったり病気の嫁の介護をしなくてはならず苦境に立たされていたからだろう。
そんな奴らが、俺の母に看病や療養費の世話を無神経に頼みに来る。
そして、子供の俺にも援助を言ってくる。
この最低最悪な老害ども、早く滅びればいいのに。
以上のような行為類型を相互に重ねるためには多くの場合、主人公とヒロインの両者が同じ空間を共有する必要がある。その上で、これらの行為類型が場面ごとに重ねられていくことで両者の関係は変化していくことになる。本項はその組み合わせ方についてのものである。
空間の共有は大抵の場合共同作業を伴う。そうした共同作業の例として『はがない』における部活でゲームをする例と、『俺ガイル』における部活でクッキーを作る例を比較してみたい。
結論から述べると、筆者は『はがない』における部活は『俺ガイル』と比較してあまり出来がよくない印象を受けた。理由は単純で、『はがない』におけるゲームにおいて主人公とヒロインは相互に信頼や敬意といった点でなんら変化は無い。これに対して『俺ガイル』のクッキー作りにおいては、主人公はヒロインの姿勢に敬意を抱き、ヒロインもまた主人公の洞察に敬意を抱き、認識を改めるという点で両者の関係の変化が描かれている。
その場面の前後で両者の関係に変化がないのであれば、それを伏線として機能させる予定がない限り、そんな場面は不要と言っていいだろう。
あってもなくても話の筋に影響しない様な単調なイベントを大量に重ねることはギャルゲーでは認められるのかもしれないが、小説でやったら飽きられる、とは榊一郎も指摘するところであるが、「ボーイミーツガール」における「話の筋」とは主人公とヒロインの関係構築に他ならない。もちろん、「ボーイミーツガール」であり、同時にバトルであったりミステリであるならば、そうした類型の「話の筋」での必要性が示される必要があるだろう。
「ボーイミーツガール」において主人公からヒロインへ、もしくはその逆に対してなされる行為をこのように類型化し物語に沿って順に並べていくと、それが主人公とヒロインで反転もしくは反復、すなわち「構図の繰り返し」が散見され、さらにそうしたものほど筆者は「よく出来ている」という認識を持つ傾向が強いという認識に至った。
くどいと思われるかもしれませんが、これでも実際の画面になると印象度は思いのほか薄いもので、構図の繰り返しによる主題の強調という手法は、これでもかというぐらいにしつこく繰り返さなければ効果は期待できないものです。
押井が指摘するこの「構図の繰り返し」について、ボーイミーツガールとして認知されていると思われるアニメ『エウレカセブン』で言えば、周知の通り2話と26話は主人公とヒロインの位置、台詞回しを反転させた構図であり、そして26話が(低俗な表現ながら)「神回」と言われていることには、この演出が大きく影響していると言っていいだろう。
そしてラノベである「ボーイミーツガール」におけるこうした「構図の繰り返し」において重要なのは、「同じ構図で同じ行為が明白に異なる意思によってなされること」ではないかと筆者は考えている。
いずれも結果として同じ行為が反復、反転しているが、それぞれの理由は明白に異なったものである。最初の依頼ではヒロインは自分が直面した困難から逃亡するために主人公を利用しようとしてスールになることを依頼するが、主人公は場に流されることをよしとせず拒否する。二番目の依頼では主人公はヒロインの困難の重さを理解しており、彼女を助けるために自分をスールにするよう依頼するが、それが主人公へ自分の困難を押し付けることでもあることの認識から、ヒロインはこれを拒否する。そして三度目はヒロインが自分の困難を解決した物語の最後であり、困難から逃げ出すためではなく、純粋な好意からスールになることを主人公に依頼し、主人公はこれに応じる。
同様に『イリヤ』も見事な「構図の繰り返し」を用いている。1巻において教室におけるヒロインの助けを求める目に対し、主人公は「トイレ」と言って教室から逃げ出して一人トイレにこもるヘタレぶりを見せつける。そして3巻のクライマックスにおいてヒロインの助けを求める目に対し、主人公は1巻と全く同様に「トイレ」と言って、今度はヒロインを連れて逃げ出すための覚悟を決めて一人トイレにこもる。そこから続くトイレ内の描写の凄みについては本稿では割愛するが、この一連のシーンの評価は秋山瑞人のファンの間でも極めて高いと思われる(余談ながら例えば『E.G.コンバット 2nd』においても冒頭、クライマックス直後、そして物語の最後で「格納庫のGARPの前でルノアが泣いている」という同じ構図が繰り返されており、秋山瑞人はこの「構図の繰り返し」を意識的に多用している節が見受けられる)。
また、遭遇と物語最後のシーンで「構図の繰り返し」を用いている例もよく見受けられる。例えば『星海の紋章』においては主人公とヒロインの遭遇、そして物語の最後は「ラフィールと呼ぶがよい!」という、全く同じ台詞が用意されている。『ALL YOU NEED IS KILL』では「日本では食後のグリーンティーはタダだというのは本当か?」というヒロインの台詞で遭遇は始まり、最後は主人公が青緑色をしたカビのコロニーが浮かんだコーヒーを飲み干すことで終わる(こちらはちょっと捻りすぎた感が否めないが)。『俺ガイル』は不愉快そうにヒロインが主人公に毒を吐く場面で遭遇が始まり、ラストは楽しそうにヒロインが主人公に毒を吐く場面で終わるという点で構図が繰り返されているが、それ以上に物語最後の一文がタイトルである点の指摘で十分だろう。
『乃木坂春香の秘密』はヒロインの秘密が主人公に漏洩したのち、ヒロインは物理的、精神的に最後まで守られる存在であり、そして主人公は最後まで守る存在である。両者は精神的に対等な立場とは言いがたい。こうした一方的な依存関係の存在する関係はあまり筆者の好むところではなく、おそらくそれは筆者に限ったものでもないだろう。
『エスケヱプ・スピヰド』や『禁書』も同様に片方が他方を保護し続けるが、これらはヒロインの自己犠牲により保護者は非保護者に救助される場面が組み込まれている点で違いがあり、これによってその立場は対等なものに寄っていると言っていいだろう。
このように直接的な行為類型で均衡を取る方法もあるが、「構図の繰り返し」における主人公とヒロインの「反転」によっても主人公とヒロインの対等性は暗黙に読者に伝達する効果があるように思われる。
例えば『ゼロの使い魔』においては冒頭でヒロインから主人公に対し、主人公が使い魔であることが一方的に宣告され、主人公はこれに成り行き上しぶしぶ従うことになる。しかし物語の最後においては主人公はヒロインに対し、自分はヒロインの使い魔だ、と誇りをもってこれを肯定する。その台詞内容が示す立場の差と異なり、両者が(少なくとも精神的に)対等な関係であることを強く意識させる効果を生んでいる。
いい加減例に使うことにも飽きてきたが『とらドラ!』においても対等さは徹底して反転構造の反復によって強調されている。
ヒロインの好きな人が主人公にバレる、という出来事に対して主人公はヒロインに自分の好きな人を明かす。ヒロインに主人公は故意にボールをぶつけられ、ヒロインに主人公は手違いでボールをぶつける。階段で落ちかけたヒロインを主人公は反射的に庇い、ヒロインは反射的に主人公の無事を確認する。ヒロインの作ったマズいクッキーを主人公が食べて美味いと微笑み、ヒロインは主人公の作った美味しいクッキーを食べて美味いと微笑む。このように『とらドラ!』は徹底して反転構造を反復している。
さらに「呼称の変化」という形でもこの「反転」と「反復」が巧妙に使われている。ヒロインは自身の恋路への助力を一方的に主人公へ要求し、主人公の承諾をもって名前で呼び捨てにするようになる。その後ヒロインは二人が対等な関係であることを告げて協力体制の解消が宣言され、ヒロインは主人公の呼び捨てをやめる。そして物語最後において主人公はヒロインに一方的にヒロインの恋路への助力を宣言し、ヒロインを名前で呼び捨てし、ヒロインが返事代わりに主人公の名前を呼び捨てにすることで物語は幕を閉じる。
対等さの無い「ボーイミーツガール」は少なからず存在し、それを気にしない読者も一定程度いることは事実であろうが、より幅広い読者の支持を期待するのであればこうした主人公とヒロインの対等さへの意識がされて損は無いだろう。
ストーリーや設定が凡庸であれとにかく「キャラが立っている」ことが重要なのだ、と述べた上で林は次のように主張する。
主人公の個性さえ確立できれば、それが魅力的かどうか、感情移入できるかどうかなんて全部後からついてくるから大丈夫。魅力的な主人公が活躍していれば話は自然と盛り上がる
林トモアキ『現役プロ美少女ライトノベル作家が教える! ライトノベルを読むのは楽しいけど、書いてみるともっと楽しいかもよ! ? 』
なるほど。ところで人気アニメや漫画の二次創作小説に出てくる「キャラ」は(オリジナルキャラを除けば)おおむね人気キャラであり、おそらくは「キャラが立っている」ものだと言っていいだろう。もし林が言うように「キャラが立っている」だけでいいのであればこうした二次創作はどれも魅力的で感情移入できるものとなる。
二次創作小説の、特に好きなキャラのそれをひたすら読みふける人がいることは事実であり、ゆえに林の主張は間違いでは無いだろう。しかしそれが幅広い読者に通用するものかといえば筆者には肯定しかねるものである。
キャラ萌え特化の商業ラノベはもちろんある。しかしそれだけしかウリが無いのであれば、それはキャラ萌えが理解できない筆者のような(もしくはそのようなキャラクターは好みではない)読者に対しては全く面白みのないものと言っていいだろう。
キャラ萌えに依存せず面白いと思わせることが出来ることは、そうしたキャラ萌えにのみ依存したラノベと比較して強みになることは間違いない。そしてそうした強みとして、本稿で指摘したような演出法についての言及はもう少しされてもいいのではないか、と考えている。
才能やセンスはそれだけで価値のあるものだが、その多くは知識と思考によって技術化することが出来るものだと筆者は信じている。空を飛ぶ鳥に憧れて手をバタバタさせたところで一生空は飛べないが、航空力学を構築することで人類は空を飛ぶことを可能にしたのである。
本稿は筆者の嗜好に強く依存しており無批判に一般化できるものではないが、これまで感覚によってなされてきた演出技術を言語化することの可能性について、諸兄諸姉の検討の際の参考になれば幸いである。
@FAtype100R 片っ端から自分の言葉の定義を説明してたらアレは1万文字超えてただろうから省いたまでです。個々の作品のどこが低俗化という話までやったらそのぐらいになるし、それをやっても誰も喜びません。また、底意地が悪くくどいだけなので、カットしました— 三沢文也 (@tm2501) 2015, 2月 1
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
賞味期限切れのネタにたかっちゃダメさw書くのは構わないし、便乗するのはいいんだけど、ネタの鮮度が切れてから参戦するのが下手でダメさ! / “ライトノベルをバカにしていた私と読まないで批判する愚かさと『かくいう私も青二才でね』への返…” http://t.co/ETs0h76krE— 三沢文也 (@tm2501) 2015, 2月 6
<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
ライトノベル談義が盛り上がっているが、あえて挑発的なことを述べたい。
最近増加しているなろう出身のノベルスやビブリアのようなボーダー小説も含めれば山ほどでている。
その中には女の子が多い物もあれば30代のおっさんが主人公のライトノベルなども存在する。
また、あえて平易な文章を書きわかりやすくしているものもあれば衒学的にわかりづらい文章や回りくどい表現をしているものもある。
ところがアニメ化するライトノベルは女性キャラが多かったりするものが多いような傾向があるという。
それはなぜなのか?
ぶっちゃけてしまうとアニメを視聴する層がそのような作品を望んでいるからだ。
あれだけ多くのライトノベルの中からアニメ視聴者に売れるものはどれか?
ということを考えるとそのような作品を選ばざるをえないからだ。
ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。
定義が曖昧で、玉石混交で、定性的に評価されるもの全般のことね。
すると、自分の感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。
定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。
そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、
そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。
「無い」事の証明は難しい。
だから「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。
だから、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)
キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。
だから、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立)
ファンタジーやSF、ミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。
だから、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。
これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。
ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。
SF(science fiction)の90%は、ゴミでカスでクソだ。
同じ基準を使って、映画、文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。
だから、SFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。
だから、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。
ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習のさなか宇宙人が侵略してきて、自衛官と海兵隊員が反目しながらも撃退するという
まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。
素晴らしく面白い、愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。
何が言いたいかというと、批評家の評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。
ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。
さっき言ったように、「馬鹿」であることは、比較的独自の軸になる。
その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンルは馬鹿にされて当然」のような、
「ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。
これは、BLを趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマンが通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。
好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。
雑誌の表紙に水着の女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場で休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。
ワリと珍しいのだが、硬派なSFとライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。
アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。
(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)
両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。
ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、
この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味があるかないか、だ。
「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。
ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、
「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」
とは、ならないだろう。
だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。
「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」
なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。
アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、
一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?
俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、
そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。
例えば、今話題のピケティの「21世紀の資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。
現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。
というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。
どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。
例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。
アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。
というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。
そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成が稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。
ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ」全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。
9割のクズを観てそのジャンルを否定するのが愚かであることは映画や絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。
どうも世に言う漫画読みとか漫画好きな人たちはヤンキー漫画を一段低く見ている気がする。
・
漫画オタクとして語るのに不良漫画と喧嘩商売にしか触れないという小ボケだ。
http://anond.hatelabo.jp/20141226215510
・
その反応が、どうもね、答えになっているみたいだ。
サブカルやSFというジャンルは高尚で、ヤンキーやヤクザ漫画はそうでないとナチュラルに考えている人は案外多そうだ。
もっといや、漫画自体がサブカルチャーなのにサブカル漫画を無条件でありがたがるのも。
と、言うよりも『俺はこんな無名ですばらしい作品を知っているんだから目が利くはずだ』と思いたいのは自由だけど、それとメジャー否定を結びつけちゃったら痛いよな。
小説ではない、と言う人もいる。
ラノベは何と比べて劣っているのか。
単にみんな、印象論で語っているだけなのかもしれないけれど。
ラノベというのは、漫画でいえば少年漫画のようなものではないか。
少年漫画と青年漫画はそれぞれ客層が異なり、それによって表現の仕方も違ってくる。
どちらか一方が「漫画」であり、もう一方が「漫画」でないということはあり得ない。
ラノベは、ストーリーよりもキャラクターで勝負する傾向があり、
設定は荒唐無稽で、文章は誰でも読める程度に簡易なものが多い。
一般小説とは異なるアプローチで、読者の期待に応えているのだろう。
少年漫画も青年漫画も栄えている漫画とは違い、「小説」は衰退していく一方だ。
今時は、ラノベみたいな表紙絵に、
ラノベみたいな誰にでも読める文章で書かれた「小説」もどきが増えてきた。
こんな状況でラノベなんぞを受け入れたなら、我々の愛する「小説」はどうなってしまうのか。
きっとろくなことにならないに違いない。
また、日頃「小説」どころか本さえ読まないような方々でさえ、
保健医の先生が言った。先生の長い黒髪がさらり、と肩に落ち、羽織った白衣に黒い曲線を描いた。白衣の下に紫のセーターが覗いている。先生は続けた。
「それを好んで買い集めるものもいれば、嫌うものもいる。それを嫌う彼らにとっては、ライトノベルは生理的に受け付けないのかも知れないな」
ストーブに乗ったヤカンがシューシューと音を立てている。保健室の窓から覗く外は、もう暗かった。
「面白いと思わないか?ライトノベルを嫌う彼らは『自分はライトノベルが嫌いだ』と言って回るんだ。ネットにそう書き込んだりしてね」
先生の声は女性にしては、少し低い。でもそれは、先生の口調とよく合っているように思えた。
「でもね、本当にライトノベルに興味が無いのだったら、ただ無視すればいい。私にとっては駅前の『富士そば』が視界に入らないのと同じだよ。だが彼らは違う。ライトノベルは気持ち悪い、低俗なゴミクズだ、と声高に叫ぶんだ。いや、『叫ばずにはいられない』んだ」 先生の丸眼鏡から覗く瞳が、ぎらり、と光った。目の錯覚か、片方の瞳が赤色に輝いたように感じられた。
ザアッ、と強い風が吹き、窓から見える木が大きく揺れた。黄色味を帯びた年代物の蛍光灯がチチチ、と点滅し、そして消えた。保健室は真っ暗になった。
「やれやれ、これだから田舎は」蛍光灯の紐を二度、ガチャ、ガチャ、と引っ張る音が聞こえた。
たっぷり5秒の間を置いて、蛍光灯が、ききき、きーん、と小さな音を立てた。蛍光灯が部屋を照らした。
『何か』だった。
人のような形をしたその『何か』は、細い、黒いハリガネのようなものの塊だった。うねうねと蠢くハリガネに目を凝らすと、各々が形を持っているのがわかった。『保険医』 『黒髪』 『白衣』 ---- ハリガネの一つ一つが、文字を形作っている。文字記号の塊が集まって、人の形をして動いているのだった。馬鹿げたことに、文字記号はどれも明朝体のフォントで書かれていた。
『ハスキーボイス』 『男口調』 『紫の縦縞セーター』 …塊から覗く、どこかで見たことのある記号たち。記号が集まり人形となって、人のフリをして動いていることが急におぞましく感じられた。全身の毛がぞわり、と総毛立った。
「おい、どうかしたのか?」 塊が言った。動くたびに、がちゃ、がちゃ、と音が鳴った。塊がぐるり、とこちらを向いた。頭らしき場所にある『丸眼鏡』と『灼眼』の二つの文字がぶつかり、ギギギィ、と耳障りな音を立てた。
「顔が青いぞ。大丈夫か?」 塊の右腕らしきものがこちらに伸びてくる。腕には『実は主人公の事が好き』の文字が見えた。限界だった。もうやめてくれ、と叫ばずにはいられなかった。腕を振り払い、塊を突き飛ばした。塊は尻餅をついた。その拍子にぶつかったヤカンから、熱湯が飛び散った。
「やれやれ」
塊が言った。
「君はきっと『大丈夫』だと思ったんだが」 さほど驚いた様子もなく、塊は続けた。
「『視えて』しまうんだろう。私の姿が。残念なことだ」 塊は立ち上がり、ぱん、ぱん、と掛かった熱湯を払う。
言ってることがよくわからない。
もしかすると「たしかに自分は小保方を擁護してるけどスタップ細胞があるかどうかとかそんな低俗な観点と別次元の擁護してるんだからね!」って遠回しに言い訳してるのか。
「Youtubeの広告うざい。前はシンプルで良かった。」みたいな話をすると
みたいなことを言ってくる奴が確実にいるけど俺は自分の意思でAdblockを入れてない
他人の成果をまとめてるだけのクソまとめブログやバイラルメディア(クソなほう)の広告は根絶したいと思う、そいつらに一切の資金提供もしたくない
それらにはわずかながらでも協力したいと思うからAdblockは入れない
そういうサイトの区別も出来ないで脳死してアフィアフィ連呼してる奴は消えてほしいわ
Adblock入れてる奴らは万引きしてドヤ顔してるクズと大差ないよ
いくつか反論が書かれたのでざっと見たが、やはり都合のいい言い訳にしか聞こえない
Adblock使ってるような奴がわざわざホワイトリスト使うとは思えない、使ってないだろお前ら
(Adblockによって閲覧に支障が出る場合を除く。ホワイトリストはそのための機能だろ。俺みたいに考える奴のためじゃない)
初めて見るサイトの良し悪しなど分かるはずもないので、そもそもブラックリスト方式であるべき
無料である以上、広告が表示されることによってマシンリソースを奪われるのはある意味当然
それを表示しないことによって、あなたは運営側への広告による収入を奪っているんですがね
頭が悪いから、運営が広告費を得れなくなることによる影響まで想像が行かないんですね分かります
どのへんが論理飛躍なのかな?「俺一人で入る広告費は1円にもならないから万引きとは違う」ってこと?
安ければ万引きしていいの?対価を払いなよ
やっぱり本当に低俗なんだけど
金と女が欲しいなあ
真面目に働いて
真面目に彼女を探しているのに
上手くいかないとかどういうことだよ(怒)
金があれば女は何とかできる気がするから
やっぱり金がほしいなあ
100万とか200万じゃなく
一回会って終わるパターンが多い
俺が思っている以上に
(他の男よりも俺は劣っているらしいorz)
トータルで考えると
まともに付き合おうとした女性は俺に絶望と失望しか与えてくれなかった
そんなに他の男より劣っているとは思えないけど
改善しようがない
本当にクソゲーだわ
ときメモだとパラメータを上げて丁寧にイベントをこなしていけば
女を落とせるけど
容易には変えようがないと思う
なんていう理不尽さは確かにありそうだ
そして俺はモテナイ方だということだ
頑張っているのにまともそうな女にはフェードアウトされる、フラグすら立たないorz
どうやら俺に決定権も選択肢もないらしいw
(まあ俺がそこまで夢中にならないってのもあるけど、様子見の段階で逃げられるので
これはもう低評価なんでしょうね 少しは妥協しろよ、賞味期限間近の糞マ○コどもw)
他の奴らよりも
金ができればチャンスはあるし、
サラリーマンで金を増やすには株とかFXなどの投資しかないのだろうか
金があればワンランク上の女を落とせるのかなあ…興味ある
このまま真面目に頑張っても報われず、虚しく時間が過ぎていくよりは
例え負けて破滅したとしても、ゾンビみたいに生きて緩やかに死んでいくよりは
戦って死んだほうがマシだ
真面目にやって、まともに付き合えて幸せになるやつは粛々と仕事して低リスクでいいだろうけど
俺は何故か真面目にだけやっていても、評価されないっぽいので突然変異を起こすしか道がないのではないか?
最近そういうことを考えている
http://anond.hatelabo.jp/20141001193557
ライトノベルと言うと、表紙と挿絵にアニメ風の美少女イラストが入った内容の軽い低俗な本、がすぐ思い浮かぶだろう。
雰囲気としては合っている気がする。僕の読んできたライトノベルもだいたいそんな感じだった。
でもとりあえずは、無用な誤解をさけるために定義付けをしっかりしよう。
だけど、すぐに反証が見つかる。
例えばここに、さっき本棚を一分漁って見つけた佐々木マキのイラストが入った村上春樹の『カンガルー日和』がある。
この本が刊行された時、日本文壇は春樹は文学ではないと言っていたかもしれないけど、少なくともラノベとは言えない。
それに、児童文学はイラストが入っているのが一般的だから、イラスト=ラノベとはいえないんじゃないだろうか。
じゃあ内容が低俗だとか軽いのがラノベだ、ということだろうか?
いやそれはおかしい。シドニィ・シェルダンの『空が落ちる』は一般小説の棚に置いてある。
紅玉いづきの『ミミズクと夜の王』のイラストはどう見てもアニメ絵じゃないが、ライトノベルを名乗っている。
(表紙がアニメ絵の一般小説もちょっと名前は挙がらないけど、本屋でたまに見かける)
こんな感じで、ラノベがラノベである理由はおよそはっきりしない。
はっきりしているのは、ラノベであると名乗っている出版レーベルが幾つかあり、それについて一般的にラノベであると認められているという状況のみである。
こんなわけなので、定義はラノベのレーベルから出ている本がラノベだ、ということにしておくのが妥当だろう。
だから筒井康隆がラノベのレーベルから小説を出したらラノベになるし、『百瀬、こっちを向いて。』の中田永一がラノベを書いたらラノベになるし、中島梓がラノベのレーベルから本を出したらラノベになる。
大江健三郎が児童文学だと言いはって『二百年の子供』を書いたら児童文学になったように、大江健三郎がラノベのレーベルから小説を出したらラノベになるだろう。
その通りだ。
しかしそういう人は、日本文学が垂れ流した私小説という肥やしにもならない糞の山のことはどう考えているのか。
僕が言いたいのはつまり、未来のノーベル文学賞作家がラノベから出ないと誰が言い切れるのか、ということだ。
いや言い切れるはずがない。
さっき書いたように、ラノベがラノベであるのはレーベルの問題であって、その内容だったり作者には関係が無いからだ。
そんなものはない。
ラノベを馬鹿にしている人は、ハリーポッターが児童書版で出たら恥ずかしくて買えないのに一般書版で出たら買う人たちだ。
そういう人は自分の力で、自分だけの「ハリーポッター」を発見することは絶対にできない。
そういう人は本当に面白いものを見つけることも、それを評価することもできない。
それで溢れるなら営業時間伸ばせばいいし。
客が使いたい時間は大概偏っていて、真夜中に延ばしたところで、来るのは「真夜中の客」だ。
大抵の店舗が真夜中商売しないのは、人件費や光熱費を考えると、「真夜中の客」では赤字だから。
昼や夕方に人が溢れるというのは、単純に客を逃しているだけで、営業時間を延ばしたところで取り返せない人達。
その人らは次も来ないかも知れんな、行っても座れる保証がないからだ。
コンビニが、売れ残っても商品を多めに仕入れるのは、客に「品がない店」と思わせないためだ。
喫茶店が「場所」を売ってるとしたら、その「場所」がないってのは、品がないコンビニと同義。
妻は、取引先の会社で働いていた。
「うちの会社の従業員は、みんな低学歴で馬鹿ばかりなんですよ」
何を言ってんだこの人は。謙遜にしては度が過ぎるぞ。
後から知ったことだが、彼女はその会社では有名人で、ことあるごとに学歴の話をするため、同僚からは煙たがられていたらしい。
彼女の言葉に興味を引かれてしまった俺は、彼女と初対面にもかかわらず、学歴の話を続けた。
しかし、偏見にまみれた低俗な話ばかりで、これっぽっちも楽しくなかった。
他方、彼女は自分の話を聞いてもらって嬉しかったのか、学歴の話以外にも色々な話をしてくれた。
その後も、取引先に行くたびに、彼女は俺のところにやってきて色々な話をしてくれた。
「○○さん!久しぶりです。やっぱり△△大学出身の方は仕事も早いんですね」
みたいな。今振り返ると、話のきっかけに学歴の話をしていただけなんだろうと思う。
なぜに学歴の話で俺と仲良くなれると思ったのか。
当時の俺は、面倒くさい人に気に入られてしまったと思っていた。
しかし、俺の会社と妻の会社とで少し規模の大きな飲み会があった時のこと。
なんというか、妻の会社の人からも、厄介な人の面倒を見てくれる人という感じで見られるようになっていたのである。
そんな状況に少しイライラしていた俺は、彼女を学歴ネタで煽ってしまった。
開いた口が塞がらなかった。
彼女は、面倒くさい人から実は良い奴にジョブチェンジしていた。
でだ、これは友人からも突っ込まれるんだが、俺はそこで彼女を好きになってしまった。
あまりに不器用で、拗れていて、勘違いされやすい人であるが、愛するものに対して真摯な彼女を愛おしいと思ってしまった。
妻は、生まれてくる子どもを愛してくれるだろう。
会社の同僚に、「奥さん、お受験とかうるさそうだね」と言われた。
俺は笑う。