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はてなブックマーク - 内定辞退、修羅場でむき出しになる人事の本性 :日本経済新聞
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nikkei.com/article/DGXNASFK2802Y_Y4A420C1000000/
https://esf.nikkei.co.jp/form_tantei20140430/
もぐらさん、60歳代男性
最近の企業は、就活生にやたらに余分なことばかり押し付ける。リクルート企業の金儲けに同調しているだけで、大学生の教育や勉強などを考えていない。人事にふざけるなと言いたい。企業経営者のレベルの低下だろう。
どちらかと言えば、恫喝する企業サイドこそ品がないと言わざるを得ません。就職は相互の合意に基づくものであって、職場を選ぶ権利も学生を選ぶ権利も双方に平等にあるはず。誓約書に法的拘束力が無い以上、常に辞退者がでることを想定していないとするとリスク管理がなっていない証拠です。学生諸君には、まず真摯にお詫びをしていただき、もしそれでぶち切れるような会社があれば、そんな会社には行かなくて良かった、将来転職するような機会にも陰湿な引き留めや嫌がらせに遭遇するような会社だったな、とポジティブに考えて欲しいです。
現状の就活では「御社が第一志望です。」と言うのが「お約束」になっている。正直に「第二志望です。」と言っては先に進めない。この「お約束」が誠実さとは無縁であることは採用側も知っている筈ではないか。
60歳代男性
採用人事課に見る目がないだけ
複数の内定をもらっている学生がいる以上、内定辞退が出てくるのはいたしかたないでしょう。要は、内定辞退が出てくる前に、学生との良好な関係が築いておくのが大切なことでは?
怒るような度量の小さい会社は辞退して当然。寧ろ辞退を撤回させ無理やり入社させた揚句に早期に退社するほうが双方にとって損失。そんな企業は、将来その人が自社の取引先、顧客になる可能性を全く考えていない。
辞退されるということは、自分の会社の魅力を学生に伝えられなかっただけのこと。採用担当者は自社という製品を扱いそれを学生に売り込む営業マンであるという意識を持つべきだと思います。
企業側の担当者がそんな発言をしているとは信じ難い。普通にきちんと謝っている学生にはしないはず。本当にそんな採用担当がいるなら、内定辞退したことが正解だし、苦情電話を入れてもいいレベルですね。今の時代、インターネット等でそういう企業名がブラックリスト化されてもおかしくない。学生相手にそのような対応しかできない企業は底が知れている。
「企業が怒るのも無理はない。就活生は誠意を持った対応を」などという結論は、傲慢というより他ない。面接の段階でふるいにかけておいて、いざ自分たちがふるい落とされると腹を立てるのは論外である。就活生はむしろ「ざまあみろ」と馬鹿にする気概を持つべし。
就活生としては、選考で学生を落としまくる企業が、内定を辞退されたところで文句をいう筋合いはない。それこそ、貴社のご発展をお祈りしますと嫌味を込めて言ってやりたい。
50歳代男性(その他)
雇用契約を結ぶ前であり、そもそも“内定”という曖昧な表現を使っている企業サイドに狡さがある。フラれた恋人に仕返しをする情けない人間と同じ。
辛辣な言葉を吐くのは、人事担当者が相手を学生と思い舐めているから。より良い条件を提示し、学生を説得するのが筋。その価値が無いなら、去ってもらえばいい。通常仕事で相手に罵声を浴びせる事なんてありますか?
怒る企業は、辞退した学生が将来「Customer」になることをわかっていない。。「辞退した理由」を調査して今後に生かすべき。
50歳代男性
人事が無能すぎるのがここにきて露になっているだけ!。どれだけ理不尽な内定取り消しや、採用停止をしてきたことか!!「人事」(「ひとのこと」と書く)もそろそろ本当のプロになれ!
誠意のない辞退には、社会人の先輩として喝を入れるべきだが、恐喝紛いの対応をする人事やリクルーターは、その人の仕事の程度や為人が知れる。ブチ切れている人は、当然内定を蹴ったことがないんですよね?
企業担当者は不採用だった学生に対して「礼」を尽くしていますか?彼らに「非礼の数々」の対応を行なっていれば、内定辞退者に怒る権利は無い筈です。自ら襟を正すことが先決です。
採用側の理由で恫喝紛いの事を行うのはもっての他。まっとうな社会人のやることか?そのような恫喝紛いの事が横行しているならば、断りを入れる際に、全て録音しておいた方が良い。
辞退の連絡があった際、内定をとるまでの言動との乖離が大きいほど担当者の怒りは大きくなると思う。例えば、「御社が第一志望です」と明言しているケース。学生とはいえ、自らの発言には責任を持ってもらいたい。
50歳代男性
10年後20年後も考えて募集人員を決めている企業も多いのです。他社の動向を見据えつつ、欲しい人材を確保する人事も大変な思いをしている。記事の例のように3社を一ヶ月以上ホールドするなんて言語道断です。
60歳代男性(その他)
内定を受諾した後に辞退するという倫理の退廃が若者に蔓延したことを看過すべきではない。日本のリーディングペーパーとして、貴紙がキャンペーンを張って大いに警鐘を鳴らしてほしい。
推薦書や誓約書を提出したのであれば,怒るのは当然だと思う。
日本では何事にも弱者救済の概念が公平性を越えてしまう。また、精神論が経済原理を越えてしまう。ここも典型的な例。学生と企業が対等になっていないし、経済原理を無視した採用ルールになっている。学生の内定辞退は自由、でも企業側の内定切りは自由ではない。片方だけに制限を課せば、片方だけに経済的ダメージが発生し、問題になるのは必然。企業側も学生と同様、自由に内定切りをしていい、ということになれば、内定辞退者を見越して、多めの内定も出せる。内定辞退を言われてもお互い様だから、罵声にもならない。何事にも経済原理を踏まえた公平性が肝要だと思う。
50歳代男性(その他)
●その他
就活は企業と学生の戦い、お互いに腹の読みあいでしょう。学生にとっては一生の問題。人事は人を見る目を試されるまさにプロかどうか問われるところ。まあ、腹がたっても、内定辞退されたら負けを認めなはれ。
どのような事情があるにせよ学生側が「約束を破る」ことには変わらない。絶対に認めない会社もおかしい。でも一番おかしいのは内定を出す時期が早すぎること。例えば「就職日の半年前から」などにするべき。
70歳代以上男性
70歳代以上男性
気持ちは分かるが内定の辞退は許されているはず。ただちゃんとしたけじめは大切だよ!とアドバイスをしたい。真っ当な人生を送るためにも……。
これはビジネス。企業はもっとえげつない事をやってます。学生は何も気にすることは無く、誠意をもって事実を伝えれば良いと思う。企業は学生から選んでもらえなかった事に対し真摯に対応し次に繋げるべき。
一般論として、求人側・求職側何れも未成熟であり、無責任ではないでしょうか。記事内にもあるように「文句を言う」のは自己の評価の保全であり、要は自己中心的な発想が伺えます。「辞退」というと聞こえはいいが、ある意味労働契約の不履行であり、何らかの法的制裁等も覚悟して臨むべきだと思います。ただ、辞退を簡単に考えている学生を採用しても、恐らく、自己アピールほどの能力は有していないでしょうし、企業側から見れば、金銭的損失はあるものの、最小限ですんだと考えるべきではないでしょうか。
学生が一生懸命記入したESを出しても音沙汰なし、また面接の結果も音沙汰なしの企業があり。こういう企業がある以上学生側が内定を無断で蹴ってもお互い様の状況になっていると思います。
内定の時まだ就活を続けたい、認められないなら内定取消で構わないと正直に言ったら内定状態で就活を続けさせてくれた。最終的に辞退時に謝りに行ったら就職祝い食事会までしていただいた。必ず将来恩返しをしたい。
血液型が好きになりたいです。
もちろん血液型が何か聞いてくる人は何も悪く無いです。
私はO型です。。
朝に血液型の話をされると夜寝るまで血液型のことを考えてしまいます。
血液型くらいと人には言われてしまうのですが、相当深刻で血液型占いの話が最近自分の中で大きくなってきていてパンクしそうです
私は人の性格は場面によって変わると思っています。みんなが違っていて、昨日あった時と今日あったこの人は、もう別人なくらい何かを考えていて何か経験していて、皆それを隠して会っているんだと思ってて、それを血液型に当てはめて考えるのは少し道理が違うような感じがします。。
占いは本来大好きなんです。誰にでも当てはまるようなことが書いてあっても、楽しいなと思えるし、今日の運勢とか答え合わせのように一日がワクワクします。占いを信じるのは私にとって信教の自由と一緒で、悪いことではないと思ってるので、私の沸点が低いことだけが問題なのですが、血液型の話題をされると過剰に考えてしまうのです。
どんなときに血液型の話ってされるんだろうって思って、普通に会話してたら気づいたんですけど血液型の話題って急に出てくるんです。
例えば
「○○って全然怒らないよね」
「そういえば最近怒ってないかも」
「何型?」
みたいな。急に出てくるんです。性格の話になった瞬間に出てくる
血液型ってそんなに重要なのかなと思うくらいです。だけど、こういうこと自分もしてるし、今まであった人にしない人を見たことがないので、
ただ単に私が血液型に対して過剰な反応してるというだけなんです。
ABとB型って大抵悪いことが書かれているのも気になります。B型は特に「自己中」という最低なレッテルを貼り付けられます。
でも私は世界中に自己中心的じゃない人間は絶対いないと思っています。
自己がない人なんていません。
血液型に対してただずっと考えてしまう癖が幼少期から治らず今まで隠してきたのですが、
最近血液型を気にする人に何度も短所を「B型だから」と片付けられていて、もう限界です
中学校での成績やその他いろいろな事情によってタイトルのような高校に入学する事になった。
同級生には「名前が書ければ入学できる学校」などとバカにされたりもしたが、そんなことはないだろうと不安感を胸に押し留めて入学式に臨んでから早くも1週間が経った。
学校についてを書くと、特定されてしまうので詳しくは書かない。
ここでは、自分なりのこのような高校についての考察を書いていきたいと思う。
授業や休み時間の行動を見ていると、小学生のような行動を取る人が多いことに気がついた。
まだ、入学してから1週間ほどしか経っていないのにこのようなことを要求するのも酷かも知れないが、上記3点が特に気になった。
先生に認めてもらうために、発言などを周りにほとんど当たらなくらいする同級生がいた。
まだ授業は易しい内容なので、誰でも質問されたことはわかるよう。しかし、そんなに質問に張り切って挙手をし、大きな返事をし、発言をする。先生が「どうぞ」と言っていないのに発言する。
私はこの同級生を見て「まるで小学生みたいだな」と思ってしまった。失礼かも知れないが、そう思ってしまった。
何故このように張り切って発言をしているのか自分なりに考えると、このような結論になった。
底辺校と言われるような学校なので、当然、学力はあまりいい方ではないのだろう。
中学校ではみんなの前で発言をし、褒められるという経験も少なかっただろうと勝手に推理した結果このような結論になった。
そして、このような生徒をバカにするというのが、2点目だ。
積極的に発言したり、クラスのために何かをするというのは悪いことではないだろう。
「誰かを認める」というのは、なかなか簡単なことではない。
自分の考えと同じ考えをしている人がクラスにいるというは非現実的だろう。
誰かを認め合えるようになるとうのが、大人になるということの一つだと私は考えている。
そのようなことができる人は、言い方は悪いかもしれないが「賢い」と言われて中学校時代を過ごしたのだろう。
賢いことと、勉強ができることはイコールではないが、両方できる人は、進学校と呼ばれる高校に入学していった。
だから「誰かを認める」ということができない人が目につくのではないか。つまり、人間として幼い人が多い、そう思った。
最後に、3点目。以上のことからわかるように、人間として幼い人がこのクラスには多かった。
そのために、高校生ならできてほしい気配りができない人が多い。自己中心的な行動をしてしまう。
周りが見えていないことはまだ入学したてで学校に慣れていないからだ、と思いたいが、あまりにも自己中心的な人が目立っていた。
長々とへたくそな文章を書いてきたが、言いたいことは、このような学校には人間として幼い人が多いということ。
私達は、9年間の義務教育を終え、大人への道を歩みだしている。
そんな中、同級生達は、人としての成長や苦労をせずにこの学校に入学してきたのだろう。
こう考えると、顔立ちも幼い人が多いような気がしてきた。
このクラスがどのように成長していくのか楽しみだ。
性格が顔に出てるというが、それは科学的根拠ありきで言っているのだろうか?
それを言うなら、美人は三日で飽きるとかB型は自己中心的だとする見方や
ホロコーストは存在しなかった事は事実であると言っているようなもので、
何ら根拠性が見当たらない。
キツネの大好物は稲荷寿司と同じでどこかしこから流れたデマなのだろう。
そうでなければ、ブスは性格が悪いなんて風潮がまかり通るはずがない。
恐らく性格ブスという言葉が一人歩きしてブスは性格が悪いにすり替わったのかもしれない。
確かにブスは救いようのないブスなのだ。
結局ブスにとって性格の有無はそれほど重要ではない事は明らかで
高まりつつあるのを感じてるだけでしょw
ーー
少なくとも半年前は離婚の可能性なんて考えたこともなかったのに。
嫁さんの状況には特に変わりないのでフォローしてくれると助かるんだけど、
自分がー自分がーでフォローしないどころか、ヒステリーを起こしたり突っかかってきさえする嫁に疲れた。
別にフォローといっても、家事の分担を減らしてほしい、とかじゃない。
遅く帰るけどごめんねとか、良い転職先があれば転職したいと相談した時に、
気遣ってくれたり、(意見は言うものの最終的には)こちらの意志を尊重して信頼してくれるとか、そんな話だ。
嫁が仕事上で悩んでいた時には、自分は嫁の決断に従うから好きに決めていいよ、とまで言ったのに。
家族が苦境にある時は、言いたいことがあってもグッとこらえて暖かくサポートするのが普通じゃないのか。
少なくとも半年前は離婚の可能性なんて考えたこともなかったのに。
嫁さんの状況には特に変わりないのでフォローしてくれると助かるんだけど、
自分がー自分がーでフォローしないどころか、ヒステリーを起こしたり突っかかってきさえする嫁に疲れた。
別にフォローといっても、家事の分担を減らしてほしい、とかじゃない。
遅く帰るけどごめんねとか、良い転職先があれば転職したいと相談した時に、
気遣ってくれたり、(意見は言うものの最終的には)こちらの意志を尊重して信頼してくれるとか、そんな話だ。
嫁が仕事上で悩んでいた時には、自分は嫁の決断に従うから好きに決めていいよ、とまで言ったのに。
家族が苦境にある時は、言いたいことがあってもグッとこらえて暖かくサポートするのが普通じゃないのか。
シャーレの中に、細胞が見つかった。
これはね、すべてOさん1人の責任だ。
もちろん、チェック体制が機能していなかったという部分では、私らにも責任はあるので、
その点については反省しなければならないと思っている。
だけど捏造そのものについてはOさん個人の独断でやったもので、
悪意のある捏造だと断言できるね。
真夜中、ピカピカって緑色に光って、あぁ私夢でも見てるのかしらって、
ピカピカって、ピカピカって、ね。
いや、Oさんみたいな、ああいう女いるんだよね。
俺もね、昔そういう女に振り回されたんだよ。
本当に酷い女だったね。だから女は嫌いなんだよ、まったく。
社交性は人並み以上にあるので、普通に接しているぶんにはまず気づかない。
なんというのか自然すぎて、「ナチュラルサイコパス」と私は呼んでますがね。
特に、そういう人は不利になると必ず悪魔の証明に持ち込んでくるんですよ。
たとえばね、
「S細胞が見つかった」って言われて、証拠を見せてと聞くと、
「でも証拠はないよ」って言われると、普通は嘘だと思うでしょ?
そこで「うそでしょ!」って攻めると、泣きながらこう反論してくるわけ。
「あなたはS細胞が100%無いって、言い切れるの?!」ってね。
それは悪魔の証明だ。UFOが絶対に無いことを証明できないのと一緒だ。
「もしかしてS細胞はあったのかもしれないし、責めている自分は悪者なんじゃないか」
信じない自分が悪く、疑って人を傷つけた自分が悪人であるという考えになった時点で、
あなたはナチュラルサイコパスのコントロール下におかれてしまう。
え、本当にそんな人いるのかって?
やだなぁ、疑ってくるなんてなんてヒドイ人だ!
ナチュラルサイコパスが居ないって、あなた証明できるんですか?!
あたしが何細胞ですかって?
そんなのあたしが知る由もないわ。
前の記憶なんか持っていないので当然でしょう。
ただ、光ったのは認めますわ。
あたし、光りましたわ。
あたしはぴか、ぴかと光ったのは真実ですの。
思い出しても、ちょっと、はずかしいくらい光っておりました。
あたしの意志に反して、激しく光り続けて、んもう、誰か止めて欲しいっ、
ああ、思い出すだけでも、恥ずかしい・・・!
とにかく尖ったナイフみたいなオンナでしたよ。
我々みたいな研究者の大体はね、社会において「羊」なんですよ。
そんな中、そのオンナがやってきたんです。
我々みたいな「羊」の群れに突入してきたんです。
そのオンナはしもべの女子を数人引き連れ、
ユニットリーダーにまで登り詰めた。
私も最初は反対だったんですがね、実績もない奴がこんな地位にいるのがね。
でもとある日、なんといいますか、いわゆる、お、おっぱい、を、
私の腕にくっつけたりする事件があったりしてですね、
なんというか、研究所へ行くのが楽しくなってしまったのは事実でして。
それはもう完全に「中毒」でしたね。
怒られたい。縛り上げられたい。踏みつけられてボコボコにされたい。
毎日そんなことばかり考えておりましたよ。
そんなわけで、正直私に非がないとも言えないのですよ。
割烹着?あれを普段着ているのは私ですよ。
■結末
なんというか、あたりは酷く混沌としていた。
どうまとめようにもまとめられないカオスな状況で、全てが腐敗しかかっていた。
この中で誰が嘘をついているのかー・・・
いや、嘘など誰もついていないのだろう。
嘘というのは各々の頭の中で正義となり、事実と化するものであるから。
暗く濁った神戸の闇が、だんだん、だんだんと街全体を覆い尽くしていくー。。
完
http://anond.hatelabo.jp/20140228224140
姉の症状、或いは、障害に対する認識が甘いのか、「~かなんかの」という言い草である。
専門的知識がない故の類推的表現であると受け取ることもできるが、「~かなにか」と比べて放り出すような言い方である。
「なにか」に比べ「なんか」には、望ましくないもの、価値が低いものという意味合いを持つ。
(例:お前なんかどうでもいい)
見下した、見放した態度で姉に対する親愛の情の欠如がうかがえる。
それは次の一文でも明白である。
> なんで私の姉はこれなんだ。
こう、という状態を指してはいない。これ、という物扱いである。
人として扱っていない。人として尊重していない。
それが、続く文章の子どもに対する強い愛情と感動に対し、強烈なネガティブコントラストを成している。
こういう姉に対する差別(侮蔑に近い)が読み手の嫌悪感を刺激している。
さらに増田に対して非難的な意見がつくのは、守られたい、愛されたいという自愛的要求のみを書き、
実際には行っていたのか分からないが、権利のみを主張する自己中心的な者特有の「鼻につく態度」のようなものばかりが感じられるからだ。
その人物像は端的に言うと「嫌な奴」である。
こういう嫌な奴の子どもが、そんなに優しくいい子に育つという不可解さもまた、非難を助長しているだろう。
むろん、そういう一面だけが見えて、増田の良い部分が見えていないだけかもしれないが、文章からは以上の印象が全てである。
「支え合わなければいけないものなのか」というコメが散見されるが、ここでは義務ではなく「臭気」の話をした。
自愛傾向の強さに対して愛他傾向の(文章表現の)薄さが一種の臭気となり、不快感を刺激しているのだろうという、
あくまでも「何が悪いのか分からん」層に対して、こういう言葉の取り様によるものだろうという推測を述べた。
元増田も「想像以上の愛おしさだった」と愛情を傾けている様子は伺えるのだが、
それは転句の一文に過ぎず、話題の切り替えとしての弱い表現で終わってしまっている。
人間誰しも主観の中で生き、苦労し、些細な何かに救われたりする。
増田はその救いを書いた。
しかし、その「主観」は丁寧に扱わなければ、「他者の主観」からは歪みにしか見えなかったりする。
(いや、丁寧に扱ったところで歪みにしか見えない場合もあるだろう。主観とはそのようなものだ。)
ここでいうバカとは偏差値的な頭の良し悪しではなく、他人に対する想像力が足りなかったり自己中心的であったり言動に悪意のある人間のことである。
泥酔し電車の座席に横になって寝る輩、店員に周りに聞こえるほど大声で怒鳴りだす輩、嫉妬心から同僚に嫌がらせを仕掛けるダメ社員、などなど、、。
日常生活を営む上で運悪くこういったバカと遭遇してしまった場合、一旦不快感を抱いてしまうと調子が狂って本来の判断力が失われ、出来ることも出来なくなってしまう。非常に歯がゆい。
こういった場合は対等な人物として扱うに値しない理由を見つけ出し、適切に見下すのが良い。決して対等な立場で怒りをあらわにしてはいけない。
例えば、犬が部屋の中でフンをしたり、3才児が部屋の壁にイタズラ描きしても本気で怒る人間はいないだろう。「あーあーもう、しょうがないなあ」という感じだ。
なぜ犬や子供に本気で怒り出さないのだろう。これは相手を適切に見下し、対等な立場で見ていないから。怒ってもしょうがない、対等な言葉が通じる相手だと思っていないからだ。
バカに対する対処も同じような扱い方をすればいい。
身内であれば、怒るのではなく冷静に叱る。
他人なら「しょうがないなあ」と思って冷静に対処、もしくはスルーし、興味を持たないようにする。
バカを適切に見下すことで怒りで自分を見失うことがなくなるし、相手がケンカ腰でも礼儀と節度を持って諭すことも可能となる。この感覚を突き詰めれば相手に逆に可愛さを感じることもできる。
集団の中でバカをフィルタリングすると自然と立場が見えてくるので、格上の人間に敬意を払うこともできる。
同僚ではなく知り合いだけど、大体みんな東大〜旧帝大辺りを出て一流企業に少数採用コースで入った感じの人たちだね。
本当に上にいる奴らの共通点は
この2点に尽きる。人格とか価値観は人それぞれ。でも(俺みたいに)競争的で自己中心的な奴が多いね。
お育ち良過ぎて競争心無いタイプはそれなりのところに落ち着いてる。
ちなみに俺はその2つの条件をどちらも全く持ってない。
政治からしてコミュニケーション障害なのですから、さじを投げるという状況であると私には思えますね。
法案を通すのにも話しあいをしない、反対意見やデメリットを出し尽くさずに勝手に決めてしまう。きっと、あとで取り返しのつかないことになったとしたら非難轟々でしょうね。原発爆発とおんなじです。いいふうにばかり聞かされて、勝手に決められて、あとでトラブルが起こったら「聞いてないよ!」っていうことになりますよね。
外国との話しあいの姿勢のなさ、そもそも外国に対する関心の低さ、自己中心的な内向性にもびっくりします。相手国にわかってもらいたければ、ねばりづよく話をするべきです。ところが例えば「靖国参拝」だとかいうように象徴的な行為を一発やらかして、それでもう対話のチャネルが閉じてしまうわけですから。田中角栄が日中友好のチャネルを開いたのと同じ政党がやっていることなのか、不可解です。
話しあいをしないというのはつまりは反民主主義的です。勝手に決めてしまうわけでしょう、権力者が、既得権益者が。情報操作されて、勝手に決められて、利害だけ帰属させられる。だから近代革命があったのに。自国民と話しあいをしないのも反民主主義的ですし、外国と話しあいをする気がないのもまた世界社会において反民主主義的です。
いわゆる「上から目線」の態度しかとれないのでしょうね。対話をするということが、前提には最初からないのでしょう。私の経験上からいって、「上から目線」の尊大な態度をとる人は大概卑屈です。誇りがないから、偉ぶらなければならないのです。自己の尊厳がわからない人は他者の尊厳もわからないでしょうし、また逆もしかりです。いまの日本社会にはそういう人が増えているように思います。
アニメの話。
いつもは気になる作品だけつまみ食いしていたんだけど、
今期は何となく、普段は観ないようなタイプの作品も含めて片っ端から1話を視聴してみた。
で、ちょっと気になったことがあったんで書いてみる。
最近の傾向なのか、昔からある定番の流れなのかよく分からないけど、
あれが俺はどうにものれない、というか不愉快に感じてしまうんだよな。
主人公に対する愛情の裏返し、とか主人公がエロい言動をとったから、というのならまだ分からないでもないけど、別にそういうわけでもない。
純然なる暴力だ。
特に酷いのになると、主人公がヒロインのことを身を挺して助けたのに、直後に極めて自己中心的な理由で殴られるというのが
今回観たうち2作品あった。
制作側はどういった意図でこういうシーンを挿入しているんだろう?
あと話が逸れるけど、主人公は主人公で突然激高したり唐突な説教かましたりするパターンが多かったように思う。
小5から今まで(もうすぐ高2だから、大体6年)ほぼ毎日ネットしてた阿呆。
6年という時間が短いか長いかは人それぞれで変わるだろうが、自分の中ではまだまだ短い。
インターネットとは何か。納得できる答えは、いつまでたっても見つからない。逆に、6年では答えが出ないということが分かった。
短いとは言っても、6年かけて貯めた経験値は自分にまぁまぁな自信をつけた。
例えば、初めて手を出したSNSがLINEという友人(今じゃぁ普通に見られる光景)がいたとして、ローマ字入力もキーボードも情報の時間以外触らないもんだから、短く簡潔にやや遅くちょっと素っ気ない文でリプライが返ってきた時に、あぁかわええのぉ、と、大人ぶった上から目線でその友人と接することができる。勿論、友人はイラつく。
で、数日して、顔文字辞書なんかいれちゃったりして、崩れまくったAAなんかコピペしたりして、ちょっと自信有り気にメッセージを送ってきた日にぁ、初孫が初めて家にやってきた子煩悩ジジィのように愛でて、さらにイラついてる友人を撫で撫でしながら優越感に浸る。
と、まぁ、ネット歴6年の成果といえば、意地汚い優越感と自己中心的な幸せくらいだろうか。
自分は、はてなブックマーク・スペース・ブログもやるし、YouTubeもニコ動もUSTREAMも見る。TwitterにtumblrにGoogle+に(Facebookはやってない)mixiやGREE、もちろんLINEと、大手SNSの殆どを試してみた(殆ど飽きた。tumblrだけ続けてる)。オンゲも幾つかやってるし、もちろん思春期の男子ですから、FC2やxvideosも・・・。
また、自分は一切触れたことは無いので省略したいが、例えば会社が構築したネットワークを介してファイルサーバーにアクセス(適当)とかも、一応ネットである。ネットと聞いて真っ先に思い浮かぶものがそれの人もいるだろう。だが、「小5から今まで」自分がやってきた「ネット」について「思ったこと」を書くスタンスなので、ここではあまり考えたくない。
上記したサービスは自分がこれまでやってきたネットの一部だが、それらは自分にとって娯楽であり趣味であり暇つぶしである。そして、その殆どに実用性なんてものは存在しない。一介の高校生である自分には、不必要なものばかりだ。まぁ、毎晩のようにお世話になっているサービスもあるが、それはそれで、悪友から借りたエ○本を読めば良いだけで、今の時代だと十分実用的な漫画が普通に売られてたりする(某ダークネス)。
思いっきり省略したけど。
ここまで書いてきて最終的な結論が、6年やってきて思ったこと=最近ネットつまんない、とは、阿呆丸出しなのは重々承知の上。ネット自体が変化したのか、自分の現実のほうが面白くなってきた証なのか。きっと後者でしょうけど、つまんないと感じてる人は他にいないのか?淡いが、無駄に補色なもんだから目立ってしまっている期待を胸に、ふらふらと辿り着いたのがここ。見せかけの匿名は、自分が小5くらいに問題となってたことだから、どこか懐かしさを覚えて選んだのかもしれない。
「小5から今までネットやってき」た少年が、結構素直な気持ちで書いた日記。純粋過ぎる心で書いたせいか、読みづらい文になってしまった。
6年やってきて思ったこと、というより、6年やってきた少年が最近思っていること、になっている。この日記自体が、思ったことを伝えようとして、うまくまとめられなくて、失敗した結果だと思えば、表題の答えも自ずと現れるのではないかと、暇人に丸投げにして、夕焼の綺麗な空を眺めながら散歩でもしよう。
感謝とはありがたいと思う気持ちです。
僕もそう思います。
はい。自分の利益がある時点で生まれた時に、つまり、ある利益を誰か他の人が産んで、それが自分のところに来たら、その利益を産んでくれた人に感謝する。
飯を食わせ、家を買い、車を買い、学校に行かせ、塾に行かせ、好きな習い事をさせる。
これらは何のためにやるのでしょうか?
その通りでしょうね。
ここは、ちょっと親御さんを悪く言い過ぎてると思いますよ。エゴイズム、つまり利己主義だと。つまり親御さんは自己満足で子供を育てているのだろうと。そうした部分があることは否定できませんが、それだけではないのではないでしょうか。
親御さんはどうして子供を作ったのだと思いますか?そもそも本当に親御さんご自身だけでお子さんをつくろうとなさったのだとお思いですか?親御さんのお父さんお母さん、つまりお子さんのおじいさんおばあさんに、孫の顔を見せてやりたいと思ったこともあったのではないでしょうか。
少なくとも自分の利益のためだけにお子さんをお作りになったとは到底考えられません。それこそ学校や塾、習い事などは相当な金が必要でしょうし、子供なんかいないほうが親御さんは金銭的には節約できるはず。
あるいは別段金銭的な問題を親御さんは考えてはいないものの、少子化とか、社会的な問題意識があって子供を作ったのかもしれません。これも利己主義的な考えに寄っているとは言い難いでしょう。どちらかと言えば利他主義的です。
あるいは他の子供を見て、自分の子供も他の子供と同様、あるいはそれ以上の教育や物を与えたいと考えているのではないでしょうか。これだけを見れば、別段、親御さん自身の利益を親御さんが見ているわけではないし、それよりもお子さんの利益を見ている。親御さんが利己主義とはいえない。これも子供を他者とするならば利他主義です。
僕も勉強したばかりですが、あなたの「親は、子供の利益のためになることが重要である、という考えの元で動く、利己的な自己中心的人間だ」という意見は、おそらく心理学的利己主義に該当するのではないでしょうか。
あなたが感謝したくないというのであれば、しなければいいのではないでしょうか。当然の権利として親に育ててもらった。そのとおりでしょう。
では、もしあなたが、親に感謝している人間がなぜそうしているのか、を理解したいのであれば、上記に書かれたことに関して知らなければならないと思います。つまり親御さんにおける利己主義的考え以外の子供を産んだ理由をあなたは知らなければならない。
そして、思うに、それをした結果は、おそらく今あなたが考えている感謝という言葉になかなかフィットしないながらも、親を思う人間像が浮かび上がってくるのではないでしょうか。いずれにしても、今現在、僕はなんだか、「感謝」というあなたの言葉が一体具体的に何を指しているのか分かっていません。そして、感謝という言葉も曖昧な言葉だと思います。感謝とは一体どのように人を思うことだと思いますか。そんなに家族という関係は一面的に感謝し、感謝される関係だと思いますか。尊敬という言葉を使っている方も見ましたが、同様です。そんなに家族という関係は一面的に尊敬し、尊敬される関係だと思いますか。あるいは、どのようなときに感謝したり、尊敬したりするべきだと思いますか。おそらくこうした問題は人それぞれで異なると思いますし、グループ一つ一つの問題であるように思います。人間が違えば気に入った感謝や尊敬の方法や度合いは異なってくるはずです。
僕の母も「こうあるべき」とか「こうするべき」って話が多いですね。話の八割方はそうなのかなってかんじです。人に親は大体二人ですし、他の家庭と比べることはなかなか出来ないんですが、他の親御さんもこういう方が多いんでしょうね。どうしてこうなるのかは、僕も親になったことがないのでいまいち分かりませんが、僕の家族を考えて見るに、いろいろ家族内の重圧が多いんじゃないかなっていうのが印象です。僕の母なんかは特に嫁に入っているわけで、家族が近くに居ないっていうのはプレッシャーなのかなとも想像しますよ。
いずれにしても、親御さんとお話し合いがお子さんと必要なのかなと思います。どこか、自由な話し合いが家族内でなされていない感が見受けられます。僕の家族も、どこか母に気を使ってか、議論をしたがらない傾向にあるように僕は思っているのですが、いやはや。。。家族内での自由な議論というのは難しいんでしょうね。とにもかくにも、いろいろなことを想像し、話し合うのが、割合うまくいくのではないでしょうか。
文面を見るに功利主義的な考えをお持ちのようです。僕もまだまだ未熟者ですが、こういう問題は、もちろん別の視点もありうるとは思いますが、倫理的な問題でもあるのかなと思います。一緒に倫理を勉強しませんか?あるいはもう勉強済みですか?
「野菜や果物が健康的である」という言説は、日本でも少なからずあるが、欧米ではさらに一般的だ。しかし本来は、必要だから食べたくなるものだ。運動量が多ければ摂取カロリーは増えるし、過激な運動をして筋繊維が壊れれば肉を食べたほうが回復が早い。野菜や果物が「健康的な食べ物」であるわけではない。
そもそもの問題は、現代人の多くは運動不足であるのに、カロリーを摂り過ぎたり、肉や脂肪を摂り過ぎたりしている。
なぜ食べたくなるのか? また、なぜ食べてしまうのか? その2つの視点が必要だと思われる。
まず、なぜ食べたくなるのかというと、おそらくは、精神的な負担が恒常的に蓄積し過ぎているからだろう。本来の野生のすがたであれば、多くの場合は肉体的負担と精神的負担に一定の相関関係があり、肉体的疲労が食欲につながる。だが、現代人には、精神的にばかり披露していて肉体的な疲労が蓄積していない人が多い。その偏った精神的疲労にあわせて食欲が出るから、肉や脂やカロリーが欲しくなるのだろう。典型的には、脳の疲労が激しければ、甘いもの、つまり糖質が欲しくなるのだ。糖質は、脳への即効性が高い。
つぎに、なぜ食べてしまうのかという観点では、社会環境があると思われる。加工食品や外食の産業経済において、経費節減の点でも、また依存性が高い=継続的な収益につながるという点でも、淡泊なものよりも、油物や甘い物や肉などを売る。そういう社会環境にいたら、おのずとそれらを口にするだろう。
また、パンやスナック菓子などの原料である穀類は、生命エネルギーの基盤となる炭水化物源であるため、栽培野菜のような贅沢品よりも優先して生産・供給される。そのことで結果的に、先進国では炭水化物、典型的にはスナック菓子のような揚げ物のほうが廉価になり、野菜のほうが高価になる。先進国では、貧困なほど摂取カロリーが過剰で肥満が多い傾向にある、それは単に貧困=無教養だということではなかろう。
より本質的なことを言うとみもふたもないかもしれないが、そもそも我々はヒトという動物であり、この動物(自分自身)をいかに健康的に「飼う」かという課題なのである。その観点が欠落して、自我が肥大化して自意識過剰で自己中心的な知覚と思考のなかにいると、複雑怪奇で過激な社会環境に振り回されている我々は、その社会環境の影響を受けて自己の欲望も複雑過激になり、その欲望に振り回されてしまう。それが例えば食習慣の崩壊につながってしまうのだろう。