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2015-05-13

すげえ腹立ってる人を見て思うこと

http://ameblo.jp/toki718/entry-12023939853.html

http://d.hatena.ne.jp/white_cake/20150511/1431312649

これ見てて思い出したんだけど、小さい頃、母親がよく泣いていた。

小さい頃は事情がわからなかったので、これはもう三十路を超えてから知ったことだけど、母親は、勤めていた大学を、兄や自分や妹を産んだからやめざるを得なかったようだ。正確には、兄をみごもったために、次の春から予定されていた正職員?だかへの道が断たれ、続いて、自分ができたからそもそも大学自体をやめざるをえなくなり、そうなってしまったので妹を作った、と言う感じのようだ。

3人も作った時点で子供が嫌いではなかったんだと思う。むしろ好きだったんだと思う。子供が欲しかったんだと思う。愛情はある人だった。年齢的にもリミットだったからそんなタイミングにならざるを得なかったんだと思う。愛されていなかったとも思わない。ちゃんと我々を愛してくれたと思う。それでも、そんな母でも「家庭だけ」の生活には耐えきれず、しょっちゅう泣いていた。今になってみれば、社交性も高くほがらかで、いつも人がたくさん周りにいて、それまでは社会で充実して活動していた母親にとって、強制的に家庭に押し込められて育児家事だけをひたすらやらざるをえない生活というのは、窮屈で、閉塞感があって、かつ自分価値がなくなっていくような感覚があったんだろう。

泣く母親を見るのは嫌だった。自分が悪いのかと思ったこともある。

自分小学校の頃から母親は、ボランティアをはじめ色んな自己実現活動のために、自宅を開けて外を飛び回るようになった。

母親は一気に明るくなった。

楽しそうな母親を見ているとこちらも嬉しかった。

兄弟3人で遊んでいたし、近所に友達もいたし、特に寂しいと思うことはなかった。

母親に連れられて出かけることもよくあった。見知らぬ母親子供がたくさんいる誰かの家とか、集会所みたいなところとか、時にはバザーやキャンプに連れて行ってもらって楽しく遊んだ

実は、最初の口の悪い人のブログエントリで一番わけわからなかったのはそこ。

あのエントリは、その後のエントリを見ると、

>「①収入が十二分にある旦那様に養われておられる専業主婦の方で

>②未就学児のお子さんを持ち

>③イベント講師として、イベントを自ら企画し

>④そのイベント開催のために旦那様を家に一人置いて未就学児の子どもを連れまわして外泊させる母親

という人に向けられているそうですが、すべて突っ込みどころがありますが、何よりも4が意味不明だった。

子供は、母親とお出かけするのは楽しいんですよね。

見知らぬ場所に行けるのも、見知らぬ人と遊べるのも楽しいんですよ。

母親と一緒にお出かけして、知らない人と遊んで、家じゃ食べられないような味付けのご飯を食べるのは楽しいんですよ。

そうじゃない引っ込みじあんな子供いるかもしれませんが、少なくとも自分はそうでした。

子供を連れ歩くことが否定されていることがさっぱりわからない。

就学前だからだめなの?

でもブログ主は、就学済の小学生の時に母親趣味にハマったことを許せない例としてあげているし、子供が就学前か就学後かというのを大きな問題にしているようには思えない。

もしかして旦那を一人家に置いて」が大きな問題なのか。

だとしたらアホらしい。旦那子供レベル存在だって言ってるようなもの

あと残された旦那が一人で家でじっとしてると思うのも意味不明だよね。

男も自分趣味自己実現すればいい。喜んでそうする男も多いと思うよ。

自分は、母親に泣かれるよりも、母親が生き生きと外を飛び回っているほうがいい。

楽しそうな母親を見るのは嬉しいものです。

そして、それについていって色んな世界を見て、色んなことにチャレンジするのはとても楽しかった。

実際にそういう母親がどの程度いるのかはわからないけど、自分としては

・「あんたのために私は犠牲になった」

・「あんたのために私はやりたいことをあきらめた」

・「本当はあの時はああしたかった」

なんてことを、多かれ少なかれ思われているより、母親は楽しく笑ってくれているほうがいいですね。

もちろん、じっと家庭にいても、そんなことを感じない母親が一番なのかもしれませんが、自分は少なくとも、家庭の外で楽しそうに活動してくれていて、自分たち以外にも生きがいをもっている母親でよかったと思っています

今も母親は外を飛び回っています。あの年齢にしてはとても活動的で楽しそうです。

この間は父親と、父親の趣味につきあって海外に行ったそうで、夫婦仲もむつまじくて何よりですね。

増田で思うことを書いてちょいちょい反応をもらったりしていると

思考プロセス言語化する際に自分の中で当然だと思っていることほど意識してなくて

気づかないまま書き飛ばししまっていることが多いようだ。

結果、その部分の記述がないことに引っかかって

「そこはそうじゃなくて、まずはこう考えるべきでは?」みたいな突っ込みを入れられることが多くて

本来伝えたかったり反応が欲しかったりした部分に触れられないで終わってしまうことが多い。

指摘の形は、アドバイスだったり、そもそも型マウンティングだったり様々だけど

そういうトラバをもらうたびに、自分の考えを誤解なく伝わるように文章に起こすのって難しいなあと実感する。

もっと上手く伝わる文章が書けるようになりたい。

http://anond.hatelabo.jp/20150513110519

義親への借金返済って何だよとか、慰謝料本来増田が嫁に払う側じゃねーの(あくまで民事の浮気刑事事件である障害じゃ後者の方が重いだろ常識的に考えて)とか

養育権だけで養育費は払ってないのとか

妻を暴行した結果無職と言う結婚相手としては最悪のスペックの男と見合いする女や、そんな男に見合い相手を紹介しようと思う人間がこの世にいるのかとか

突っ込みどころ多数なんだけど

http://anond.hatelabo.jp/20150512232414

うまくTOPIC選んで、突っ込みどころも入れてるね。

例えばますだで書くのと朝日新聞WEB版に書くのとでは又違って来るんだろうけど

俺はどんなに頑張っても500超えなかったから1000こえるのはすごいとおもう。

2015-05-11

ゴールデンウィーク最後エロゲ史におけるクトゥルフ神話を語る

クトゥルフ神話に特化する形でエロゲの歴史をまとめたWebサイト存在するし、一般書籍で言えば『エロゲー文化研究概論』(宮本直毅, 2013)では一つのコラムとしてこれを取り扱っていたりする。

ただ、それらで話の主たる軸にクトゥルフ神話が用いられているか否か、という点での検討はされていても、クトゥルフ神話がそれぞれのエロゲにおいて一体どう扱われてきたのか、という点には触れられていなかったりする。

ゴールデンウィーク有意義に過ごすべく、エロゲ史においてクトゥルフ神話がどのように用いられてきたのかをちょっとまとめてみたので(そのためにちゃんと全部プレイしなおしました。実に有意義ゴールデンウィークだったと思う)、増田に垂れ流しておく。

1991年~93年

まずエロゲ史にクトゥルフ神話が登場する直前の状況から少し整理しよう。

1991年末、かの有名な「沙織事件」が発生する。ソフ倫設立される切掛として有名だけれど、同時にこれは内容に対する制約としても一時的に強い影響を及ぼした。

特に社長が逮捕されたフェアリーテールとしては一際慎重な態度にならざるを得ず、単純で直接的なエロというより、エロ以外の何らかの要素を前提とした上でエロ「も」取り入れる、というアプローチが取られることとなった。

そして『狂った果実』(フェアリーテール, 1992/5/1)が発売される。

エロより視覚的、精神的グロさを全面に押し出した傑作であり、エロゲにおける「ヤンデレ」(昨今のステレオタイプとは少し異なりサイコパス色が強いが)の開祖と言っていいものだろう。主人公精神的、社会的に追い詰め、最終的に狂気に陥れるそのシナリオ展開は多くのプレイヤーに衝撃を与え、同時にエロゲが「エロ以外の18禁的要素を主軸に据え、その過程にエロを取り込んだゲーム」としてもありうるのだ、ということを強烈に知らしめたものでもあった。

1994年

こうした中、フェアリーテールブランドを分ける形でフェアリーテールHARDCOVERを新設し、クトゥルフ神話要素を持つ世界最初エロゲであるネクロノミコン』(フェアリーテールHARDCOVER, 1994/6/24)がリリースされることになる。

物語は新聞記者である主人公が自分の先祖の秘密を探るべくインスマスへ向かい、そこで邪神復活の儀式に巻き込まれる、というもの。『インスマスの影』(H.P.Lovecraft, "The Shadow over Innsmouth", 1936)をそのまま使った内容となっている。

原作に足りない女っ気を確保するため、バーの店員や宿屋の女主人、娼館などが配されているけれど、モンスターホラーとしての側面が強く、狂気への言及は殆ど無い。

作品としては丁寧で、よくまとまっていて、つまらなくはない。ただし原作色が強いせいで原作既読者には先の展開がすべて分かってしまい、無難な内容という印象が拭いづらい。しか現実には当時のプレイヤーのほとんどは原作未読者であり、そういう点ではむしろクトゥルフ神話へ興味を持つ最初の一歩としてよく出来たアレンジだったのではないか、とも思う。

ともあれエロゲ史における最初の使われ方は、このようにモンスターホラーとしてであった。

1995年

ネクロノミコンから1年が経過し、95年に入ってから2つの作品が発売されることとなる。一つは『YES! HG』(姫屋ソフト, 1995/6/30)、そしてもう一つがかの有名な『黒の断章』(アボガドパワーズ, 1995/7/14)である

『YES! HG』はオムニバス形式となっており、その中の一編である『豪州怪奇紀行』がクトゥルフ神話要素を持つエロゲとなっている。

物語の内容は応募した覚えのないオーストラリア旅行の懸賞に当たり、彼女と一緒に参加したところ邪神の生贄にされかける、というもの

クトゥルフ神話の扱い方という点では、『ネクロノミコン』に輪をかけてモンスター色を強めたものであるディープワンやティンダロスの猟犬といった神話生物が登場するものの、一般人に化けられる、死ぬと水に溶ける、水をかけられると死ぬ、と原作設定とはかけ離れており、どちらかというとモンスター映画的な怪物を取り扱った物語であり、その怪物の名前クトゥルフから借用した、といった感もある。逆に言えば、クトゥルフ神話に関して一切知識がなくとも既存のモンスターホラーものとして理解ができる内容であり、『ネクロノミコン』では若干あったグロテスクさもない。そのためより取っ付き易い感があり、短編ながらよくまとまっていることからもっと一般ウケしていい作品と思うが……知名度は今回紹介する中ではおそらく最も低いと言えるだろう。

そして『YES! HG』に遅れること1ヶ月、自転車操業の零細新興メーカーから『黒の断章』が発売される。

あるマンションの一室で一家皆殺しの猟奇殺人事件が発生したことを端緒に、同マンションに入居していた探偵がこれを解決しようと首を突っ込み連続殺人事件に巻き込まれ、その謎を解く鍵を自分の失った記憶に見出していく、という内容である

前半は猟奇殺人事件を巡るミステリとして、そして後半に入るとラヴクラフト色が全面に現れたものとなる。下敷きにしているのは『死体蘇生ハーバートウェスト』(H.P.Lovecraft,"Herbert West-Reanimator", 1922)、そして『壁のなかの鼠』(H.P.Lovecraft,"The Rats in the Walls", 1924)である

クトゥルフ神話モノとして知らない奴はいないといえるほど有名な本作であるが、実のところモンスター要素はほとんど無い(そもそも『死体蘇生ハーバートウェスト』は邪神も神話生物も登場しない内容であるが)。しかし「黒人の神父」の熱弁の中でのさりげない「神々」という複数形、「呪い」への「ギアス」(C.A.Smith,"The Seven Geases",1934)というルビなど、作中の随所に仕込まれたこうした細かいネタは一切作中で説明されることはなく、それがわからなくて物語が理解できないようなことはないが、プレイヤーの知識へのくすぐりが実にうまい作品である

一方で、本作のシナリオの核はあくまで「家族愛である、という点への言及も必要だろう。原作へのオマージュを込めつつ独自要素を持ち込み、後日談めいた二次創作的なその内容は、単にその用語や設定を流用したものとは明らかに一線を画したクオリティを持っている(例えば不老不死にさせられた女性については、お腹にいる殺すことも生まれることもできない胎児を家族と呼びうるのか、といった辺りはSF的、倫理的に今なお考えさせられるものがある)。

ネクロノミコン』、『豪州怪奇紀行』とは異なり、本作はモンスターホラーとしてではなくクトゥルフ神話を扱った最初エロゲであると言え、また原作二次創作的側面を持たせた物語は(多少粗はあるものの)有名作の名に恥じない出来栄えである

1996年

一方で『黒の断章』においてもやはり、狂気の描写はほとんど無いに等しいものであった。

クトゥルフ神話における狂気とは、異端の知識を人間の脆弱な脳が処理しきれなくなり、破壊された状態であるクトゥルフTRPGにおけるSAN値の取り扱いもこれを示したものと言っていいだろう。

他方、92年の『狂った果実』を筆頭に狂気についてはエロゲにおいて断続的ながら取り扱われ続けていた。この時代で言えば『サークルメイト』(ボンびいボンボン!, 1994/5/13)、そしてエロゲ史上初のビジュアルノベルである『雫~しずく~』(Leaf, 1996/1/26)があげられるだろう(『for Eliseエリーゼのために~』(CRAFTWORK, 1996/12/6)もこの線では秀逸である)。

こうした作品において、狂気とはこれまであったものが破壊されるというより、境界線を踏み越えてしまった状態として扱われる。怪物の血を引いた「選ばれし者」ではない一般人である私たちも、一歩踏み出すことによって「向こう側」へと至りうるのだ、という見方でのこうした「狂気」を、ここでクトゥルフ神話における「狂気」へと接続した作品が登場することになる――『Esの方程式』(アボガドパワーズ, 1996/9/13)である

物語は蔭洲升という漁村で起きた陰惨な殺人事件の犯人が精神病院から退院したことを端緒として、その元担当医を勤めた探偵助手たる主人公が異常な自殺事件に巻き込まれていく、という物語である。『黒の断章』の続編ではあるが、前作とは独立した事件となっている。

前作同様、前半は東京での猟奇事件をめぐるミステリ、そして後半は蔭洲升が舞台となり、ラヴクラフト色が全面に押し出される。原作は『ネクロノミコン』と同じ『インスマスの影』である

これまでのクトゥルフ神話要素をもつエロゲにおいて、その猟奇殺人表現されたものや「向こう側」はグロテスクものであったし、これ以降もほとんどがそのように表現する。しかし、本作は死に至る状態/死体を「美しく」描く点で明確に異彩を放っている。

SAN値が下がる」のではなく「啓蒙が上がる」ことで見える世界が変わる(『Bloodborne』FROM SOFTWARE, 2015/3/26)ように、本作は私たちの「啓蒙を上げる」ことを目的とした作品めいた印象を受ける。もちろん四肢切断された「苦痛を伴わない」少女の視覚的な美しさであれば会田誠の『犬』があるし、特に『魍魎の匣』(京極夏彦, 1995/1/5)の影響が本作へ露骨にあることは否定しがたい。

しか踏切の赤信号アニメーション演出に始まる本作は、これをプレイすることで一歩「向こう側」へと足を踏み出しかねないことへの警告めいた不穏さを孕んだ見事なものであると私は思う。

のちの『沙耶の唄』(NitroPlus, 2003/12/26)も同様だが、美しい「向こう側」を描いた作品エロゲ史において稀なものである。ほとんど無意味登場人物など色々と欠点も多い作品ではあるが、加点法で見るなら間違いなく名作として語られる作品だろう。

1997年

さて、ここで少し時代におけるクトゥルフ神話の状況を整理しよう。

創元推理文庫の『ラヴクラフト全集』は1974年12月13日発売、クトゥルフ神話モノのパロディとしての必読書と言っていいだろう『妖神グルメ』が1984年6月30日発売であるタイタス・クロウサーガはまだ日本語訳が出版されていないが、『アーカム計画』はすでに出ている。ということで、クトゥルフ神話に関する基礎教養としての文献はすでに大体揃っていたと言っていいだろう。

だが、それを調べるためのツールはどうだろうか。

1997年とはYahooが日本で検索エンジンサービスを開始した翌年であり、Googleはまだ会社すら存在しておらず、2chもWikiepdiaも影も形もない時代である(ちなみにWikipedia日本語版の「クトゥルフ神話」の記事最初に出来たのは2003年8月)。

現在のように玉石混交とはいえググれば腐るほど情報が出てくる時代とは程遠く、なるほど情報はあるところにはあるが、そこにたどり着くことは容易なことではなかった。

そうした状況下において『マジカディープ☆ワン』(Vanilla, 1997/4/18)が発売される。様々なクトゥルフ神話上の邪神や神話生物を美少女化した初のエロゲであり(クトゥルフ女体化については80年代に先例があるとの報告がある)、モンスターも狂気もホラーも完全にオミットし、その用語や設定に対するパロディ作となっている。

問題パロディである以上、クトゥルフ神話に関する広範な教養をプレイヤーが持っていることを前提しなければならない、という点である――正直、時代を考えると無謀としかいいようがない。文字通り10年早すぎた作品であるが、のちに『斬魔大聖デモンベイン』(NitroPlus, 2003/4/25)やラノベ這いよれ!ニャル子さん』が当たったことを考えれば、その先見性はもう少し評価されてしかるべきかもしれない。

一方で同年末、邪神の名前だけを借りた作品が発売される。ALICESOFTの『アリスの館4・5・6』に収録された『アトラク=ナクア』(ALICESOFT, 1997/12/18)である

シナリオライター自身が言う通り、本作の中身は一切原作とは関係がない。ゆえに本作をクトゥルフ神話要素を持つエロゲ史の上で語るべきではないが、名作として名高い本作がクトゥルフ神話における邪神の神の名前であることもよく知られたものであることからエロゲ史上にクトゥルフ神話に対する興味を惹起する効果はそれなりにあったのではないかと思っている。無関係とはいえよく出来た作品であり、返り血を浴びた黒髪美少女に対する審美眼を――「瞳」を多くのプレイヤーに植え付けた、という意味では、これもなかなかに罪深い作品と思う。

1998年

さて、3年前に発売された史上2番目のクトゥルフ神話を用いたエロゲを発売したメーカー「姫屋ソフト」について、ここで少しまとめよう。PC-98時代のエロゲに詳しい初老のオッサンでもなければまず知らないメーカーであるが、その有するブランド名「C's ware」といえばWindows95時代のエロゲに詳しい中年のオッサンなら反応することだろう。『DESIRE』そして『EVE burst error』とエロゲ史に残る名作を有し、たまにバグまみれで起動すらしない製品をリリースすることで有名な、そんな泣く子も黙る一大メーカーであった。

そのC's wareから、『アトラク=ナクア』の一カ月後に『DIVI-DEAD』(C's ware, 1998/1/23)がリリースされる。

物語は山奥の学園に転入することになった主人公が、学園内で麻薬のように蔓延する香、見え隠れする異常行為、学園創設者一族の陰惨な過去などに触れていくうち、自分がこの学園に転入させられた目的や持病の発作の原因などが明らかになっていく、というものである

この作品は、直接的にはクトゥルフ神話要素への言及が一切無い。シナリオファイルを無理やり抽出して全テキスト確認した私は自信を持って断言できる。本当に、ない。

しかしそこで描かれる物語の設定は、ラヴクラフト小説のファンならおそらく確実にニヤつけるものである。「古い穴の底から神を呼び出す」「この地の神と契約を交わし、その血を一族の中に入れた」、そして穴が開きすぎて周辺一帯の人間が狂死したこと。

こうした神と人との関係はまさしくクトゥルフ神話――もっと言えばラヴクラフト神話における典型的なそれである

また話の筋にはほとんど関係ないにもかかわらず、焼身自殺した建築家が書いた唯一の幻想小説「はての国」への執拗ですらある言及は、作中で関わった人間がほとんど惨たらしく死んでいるという状況も併せてラヴクラフト愛読者に魔術書めいた印象を与えている。

本作に人外は登場するが、クトゥルフ的なモンスターは登場しない。しか抑制的ながらも明白な狂気、グロテスク死体などはある意味で『ネクロノミコン』時代におけるクトゥルフ神話の扱い方に忠実と言っていいものであり、具体的に名前こそ触れないものの、その確かなオマージュを感じる内容は良作と呼ぶにふさわしいものであり、その意味では『アトラク=ナクア』の対と言っていいだろう(ちなみにのちの『果てしなく青い、この空の下で…。』(TOPCAT, 2000/06/30)も同様のアプローチを採った良作である)。

1999年

そしていよいよ世紀末電波系エロゲといえば必ず名前の上がる有名作『終の空』(ケロQ, 1999/8/27)が発売される。

ある学校で一人の不良学生が屋上から転落死した三日後、いじめられていた女生徒が同じ場所から飛び降り自殺、同じくいじめられていた男子生徒の妄想が周囲の学生を巻き込み拡散し、一週間後に同じ場所から集団で飛び降り自殺に至る、という事件を何人かの視点で繰り返し読ませる物語である

正体不明の少女の口から出るナイアルラトホテプという単語、「テケリ・リ」という声など、確かにクトゥルフ神話要素における単語は使われている。

……が、本作はむしろ終末論を用いて『雫~しずく~』を正統に発展させた延長上の作品として語られるべきであり、本作をクトゥルフ神話を軸にしたものというにはちょっと無理があると考えている。

というのも、本作のシナリオにおける終盤は統合失調症の患者を模したそれとなっており、またその視界はシュルレアリスム的な絵で表現される。シュルレアリストの一部が統合失調症の患者の描く絵に魅せられたことも併せて考えれば、そこで語られる内容は言葉遊びめいた意味が通るようで通っていない単語の連結であり、その一部にクトゥルフ神話用語が用いられた、というように私は思っている。

本作はよく出来た作品であり、衒学趣味の上で意味が通りそうで通っていない文を普通に会話が成立しているかのような羅列には思わずニヤリとさせられ、その「向こう側」の表現としては明らかに過去エロゲとは一線を画したものである。が、クトゥルフ神話の扱い方という点で言うのであれば、『アトラク=ナクア』と同じくらい関係性は無い、というのが妥当なところだろう。

まとめ

正直、1994年から99年というわずか5年ですでに結構な文章量になってマジかよと。ただこうして見ると、クトゥルフ神話は結構多様な使われ方をしてきた、というのが見て取れるかと思う。モンスターホラーとしての印象が一般には強いのではないかと思うけれど、狂気の表現形態であったり、物語構造としてのそれであったりといろいろ工夫がされている。

2000年以降については余白もないのでこの記事でこれ以上深く言及する気はないけれど、『朝の来ない夜に抱かれて -ETERNAL NIGHT-』(DreamSoft, 2002/06/28)、『斬魔大聖デモンベイン』(NitroPlus, 2003/04/25)、『終末少女幻想アリスマチック』(キャラメルBOX, 2006/10/27)というのが従来に無いひとつ特徴的な筋と思う。いずれもクトゥルフ神話と熱血という組み合わせであり、好き嫌いはあろうがモンスター設定資料集としてのクトゥルフ神話がこれで普及していくように思う。ちなみにこのあたりはDreamSoftがフェアリーテールブランドキャラメルBOXが姫屋ソフトブランドであることを考えると、少し面白いものがある。

なお、この記事については間違った内容が記載されている可能性が十分にある。発売年度は一応いくつか調べた上でおそらく正しいと思われるものを記載したけれど、これももし誤りがあれば申し訳ない。

さて、最後にここまで読んだ奇特な人のために、ぜひプレイ頂きたい史上最高のクトゥルフ神話エロゲを紹介したいと思う。『人工失楽園』という(文章はここで途切れている)

2015-05-06

例のキチガイプログラミングに興味持ちだしたのか…

デタラメっぷりが目について思わず突っ込みたくなるな…

http://anond.hatelabo.jp/20150506111313

最初増田書いた者だけど、「札束でひっぱたくような行為」ってたとえ話だろ。っていう突っ込みありきで言ってみたですよ。そしたらななめ上から的確な指摘がきたっつう流れでしてね。だから成金みたいなヤツがいて問題だ」っていう意味合いです。

2015-04-17

同じ内容コメントするなよ

突っ込みどころあるエントリだったとしてもさ、全く同じツッコミが既にあるのに、わざわざ書き込む奴なんなんだよ。

どんだけ叩きたいんだよ。

生きがいかよ。

2015-04-13

増田はいいなぁ

どんなバカなことを書き込んでも後を引かないもんなぁ。

他の人のバカ書き込みに容赦呵責のない突っ込みをするのもいいなぁ。

たまにドキッとする突っ込みが来るのもいいなぁ。

2015-04-07

http://anond.hatelabo.jp/20150407110327

わず突っ込みたくなる。増田の才能ある感じがする。

政治ネタは伸びなさそうだけど。

2015-04-03

AppStoreとAppleStore

この2つを混同してる人が多すぎる。

というかAppStoreのことをAppleStoreだと思ってる人が多すぎる。

下手したら4割くらいの人が間違ってる気がする。間違われ率半端ない

AppleStore」のアプリが値上げしたんだって

AppleStore」でダウンロードしてさー

みたいな会話をされると、なんとも返答に困る。突っ込みたいけど恥かかせたくないし...でも突っ込みたいし...

日本人だけなんですかねこの間違い率の高さは。綴り的に世界中で間違われてるんじゃなかろうか。

そしてその度に聞いている方がモヤっとするちょっぴり嫌な時間が流れていると思うと、Appleは罪作りだなって思う。

GoogleGoogleで「AndroidStore」や「GoogleStore」じゃなく「GooglePlay」なのも意味がわからない。なんだよPlayって。店ですらないじゃん。世界に名だたる2社なのになんでこんなことになってるんですかね。

2015-03-29

http://anond.hatelabo.jp/20150328225422

好き嫌いを言うのは構わないが、見解を宣べるならもう少し調べてからにしないと。

スクールカースト底辺云々が語られるのは爆笑問題が有名になってから

有名になってからでないとそんな話誰も聞きたがらない事くらい想像できると思う。

爆笑問題と彼の才能は立川談志にも認められていた。但し田中突っ込みが不可欠だとも言われていた。

NHK向田邦子特集番組に出ていたこともある。太田位の世代彼女を語れる、知名度のある芸能人が他にいなかったのかも知れない。

既に芸能界で実績のある女性芸能人複数太田の事を指示していたこともあった。森光子もそうだったかな。

個人的には田中推し。

のほほん茶事件は知っておいた方が良い。

田中人間力爆笑問題に彼が確かに不可欠だったことがわかる。

http://anond.hatelabo.jp/20150329111331

つかその件って、転職先も住友商事系列SIerだろ?

大企業がイヤになったのに、転職先が大企業グループ会社っていう意味のわからなさが突っ込みどころだろ。

2015-03-22

単芝増田論法

わざと誤読、もしくは突っ込みやすいところ(本題と関係ないことが多い)に短文で突っ込んで話をそらしまくって相手の体力を削って勝利宣言

これが単芝増田論法

長文でそこは論点じゃない、誤読であると延々説明しても体力が減るだけなので

短文で適当にあしらおう

2015-03-15

進撃の巨人関西弁版)」が関西人に受けないわけ

私は関西人だが、「進撃の巨人関西弁版)」が想像以上に詰まらない。

そして、たぶん、編集者の(おそらく関東の)方は、こういう意見を読んでも、「要所要所にキツい大阪弁ジョークを交えて、関東人向けにしてるから、それは仕方ない、というか狙い通り。ぶっちゃけ関西人向けに作ってませんしww」と思ってるんだろう。別にそれは分かる。けど、残念ながら、違う。

下の引用元増田は、関西人で、かなり苦しい思いをして「いいトコ探し」をしてくれたようで、それにはおおむね納得する。よいシーンもある。つまり、このコンテンツは、やり方次第では十分「関西人の笑いも誘えた」もののはず。にもかかわらず、現状は、おそらくほとんどの関西人が数ページ以上読み進められないようなひどさに満ちたコンテンツになっている。それはひとえに、もちいられている関西弁が微に入り細を穿って間違いに充ちているからだ。ネイティブなら一行毎に違和感しか覚えないようなひどいコンテンツからだ。

ちなみに、こういうことは今に始まったことではない。というより、東京発の関西弁含みコンテンツでまともな関西弁が用いられている作品は、映画ドラマ等を通じて何一つ無いと言っても過言ではない。

その原因は、近年益々ひどくなる東京人エスノセントリズムのせいなのか、それとも単なる知的レベルの低下なのか、コンテンツ生産力の低下なのか、いずれにせよ、東京人いつまでも東京人しか楽しめないコンテンツを作っている現状を恥ずかしく思ってほしいと思い、あえてツッコむことにした。無粋は許せ。

というわけで、以下、「進撃の巨人関西弁版)」の、関西ネイティブによる修正案を提示する。ちなみに、こうやったら東京人には面白くねえんだよ、という意見却下する。東京人だって、嘘標準語東京人東京弁バカにされてるジョークを見聞きしたら、いい気分がしないだろう。

「その日関西人は思いだした」

関西人自分を「関西人」と言わない。○「その日ボクらは思いだした」

※なお、「ボク」の発音は「_↑(四声(中国語)で言うと2声)」

「ヤツらにキャン言わされとった恐怖を…」

元増田も書いてたとおり「ヤツら」とか言わないし、「キャン言わされる」もチンピラ関西弁なので、普通は使わない。また、「恐怖」といった熟語口語では避けられやすい。○「あいつらにびびらされてたその恐さを…」

※「これでも関西弁的には意味不明に近い。本来あいつらの怖さ(ヤバさ)を…」で十分。

「鳥籠ん中に閉じ込められとった屈辱を…」

↑鳥籠のあとの「の」は音韻変化しない。a、e、i+「の」はang、engingとなりやすいが、(例)「頭の中→あたま(ン)中」、u、o+「の」はung、ongとはなりにくいようだ。例外として、あとに母音が来る際は、その母音を含めて置き換えるケースがある。(例)「よその家(うち)」→「よそ(ン)ち」。また、「中に閉じ込める」といったもってまわった言い回し関西弁では避けられると思う。○「鳥籠に押し込められとった屈辱を…」

「やったるで」

↑これは微妙ながら誤訳と思う。やったるでは「I shall do it.」だが、このシーンは「We」じゃないとおかしいのでは?

○「やんぞ」

目標は一体や」

↑惜しい。が、こんな緊迫したシーンで、語尾に「や」をつけるのは過剰。格助詞「は」も過剰。

○「目標、一体!」

「必ず仕留めるで!!」

こういう言い回しはしない。失敗には突っ込むのが関西文化なので、「必ず○○せよ」でなく、一般には「絶対○○という失敗はするなよ」という言い回しが多用される。(その方が「○○すんなゆーたやんけ!」と後で突っ込みやすいため。)○「逃がしなや!!」

※(例)「仕留めるぞ→失敗→どうして仕留められないんだ!(半ギレ)(→…=救いがない)」「逃がしなや!→失敗→何逃がしてんねん(→す、すんまへん=救いがある)」ということです。ね?

「……」

関西人はこんな美味しいシーンで絶っっっっっっ対に無言にはなりません。

○「…っぅわ!または「ちょっ、zqあwxせdcrfvtbgy」

目標との距離400!!」

目標との」っていりますかね。いらん気がしますね。いりませんね。省きますね。

めっちゃこっちに向かって来てます!」

ギャグで言ってるならアリですが、ギャグでやってたら殴られます。「めっちゃ」というのは、あまりシリアスなシーンで使う言葉ではないですね。まあ関西人シリアスなシーンというのがあれば、ですが。というわけで、○「こっち来ます!」「来てます」の方が緊迫感あるかな

…というわけで、便乗ネタミニ関西弁講座でした。いかがでしたか

こんなわずかな言い回し一つで、ネイティブとそうでない話者との差って、出るもんなんですね。いい勉強になりましたね。

そんじゃーね

http://anond.hatelabo.jp/20150314110917

2015-03-09

ちきりんオナニーここに極まれり(キモすぎる)

最近さすがにちょっとチヤホヤされすぎだろうという気がして、なんかもーちょっと環境変えたりやること変えたりしたほうがいいでしょうよと思わざるを得ない。

ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2015, 3月 8

思えば会社で働いてたときは、10年以上ほぼ全く褒められない環境にいたので、ここまで全くダメ出しされない環境にいい加減 厭いているのかもしれない。あそこまで褒めてもらえない環境にはもう戻りたくないけど、ここまでダメだしされない環境もいかがなモンかと思う。人間は贅沢。

ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2015, 3月 8

まったくダメ出しされないだって!?!?

あれだけさんざんダメ出しされてんのに、全部ブロックシカトして、信者褒め言葉しか聞こえない環境を作ってんのはおまえだろ?!?!?! て豪速で突っ込みいね

真正銘の「トンデモおばさん」なんだな(汗)。

ちきりんキモイところっていっぱいあるけど、この”遠まわしの謙遜アピール”もマジきしょい。

「褒められてばっかじゃダメよね!」

「図に乗ってないあたし最高!あっはんうっふん☆」

つってんのがミエミエ。

なんか今の今まで、「独身貴族上等!」と思って生きてきたけど、やっぱ結婚(という名の修行)をしないと人間が磨かれなくて、こういう風にアタマおかしい老人になってっちゃうのかなーって背筋の凍る思いがしたわ(寒)(寒)(寒)。

2015-03-03

世界 2015-03-03

↑new

対象を具体的に構成することによって証明可能ならば, 存在しないと仮定して云々ではなく, 実際に構成したほうがよい」あるいは「(最狭義の)背理法なしでいけるならそうすべきだ」(これらは別の主張である)という主張なら意味は通りますが. もっともこの種の議論教育云々に属すので.

彼の意味の非背理法証明古典論理に従う通常の証明であり構成証明直観主義的な証明などとは異なる. だから直観主義型理論証明からrealizerとしてプログラム正当性証明抽出する話とか, 直観主義論理存在具体化性なんかの話とは全く関係がない.

機械的に書き換え可能なら情報量は変わらないのでは」という簡単な突っ込みもできる. 幾らかの人達は「とはい計算数学なんかでは背理法に依らない証明を考えるのは意味があるのでは」といったことを述べているが

件の著書の内容紹介に【「背理法による証明」を、格段に情報量の多い「背理法によらない証明」に機械的に書き換えることができる】とある. これは, 彼の意味背理法による/よらない証明と, 古典論理/非古典論理による証明, または非構成的/構成証明, との対比を混同している.

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「LKもcut-free LKも非背理法的ということではないのか. そうだとするとカット除去定理背理法除去とは無関係ではないのか.」

他方で彼の著書では竹内・八杉『証明論入門』を引用してカット除去定理背理法除去を一般化した定理だとも主張している. ここでひとつ反論ができるとすれば「sequent calc.も非背理法的な証明体系ではないか. 証明に現れるsequentは全てvalidではないか.」

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他方で彼のいう非背理法証明というのはそういう状況が起こらない証明をいう. Hilbert流の証明体系では途中にprovableなformulaしか現れないことを想像せよ. したがって彼の数学としての主張は「自然演繹とHilbert流の体系は同値. よって背理法は除去できる」

実際efqを用いた証明ではefqの適用の直前に矛盾が導かれているはずだから「途中に正しくない主張が現れる」という状況に適合している.

から彼の拒否する証明法は広義の背理法よりももう少し広いものと考えられる. 例えばex falso quodlibetがnonsenseな証明法だと捉えていることは彼のサイト記述から明らか.

正確にいうと彼のいう背理法は「否定導入と最狭義の背理法」を合わせたもの. 背理法拒否する根拠は「背理法を用いた証明では途中に正しくない主張が現れる」こと. 自然演繹証明図は途中にunprovableなformulaが現れることを想像せよ.

また「背理法を用いて証明できるなら用いないでも出来る」というのは彼の言葉定義では正しいので「直観主義論理が云々, 派生規則から暗黙に背理法が使われてる云々」は反駁にならない.

教育の話だろ」という人間には「教育論の補強に数学を濫用しているし, 数理論理学教科書まで出版している」と反駁しましょう.「それでも教育的な価値は云々」という人間には「教育論として批判しているのではなく数学として批判しているのだ」と反論しましょう.

適切に批判しないと「(最狭義の)背理法なしでは(通常の述語論理形式的体系において)証明できない命題があるなどという人間は(彼の意味では背理法なしでも証明できるので)数理論理学理解していない初心者である」などと云われて, 傾げる首を切り取られてしまった人間賛同するので

2015-02-26

ラノベの「よく出来た」ボーイミーツガールテンプレート私論

はじめに

映像ミザンセーヌの黄金則 ヒットする映画の作り方』において金子は次のように指摘している。

シナリオは筋書き(プロット)と描写(レンダリングから成り立っていますが、シナリオから分析局面では、プロットのものはあとに残る印象要素ではないということです。複雑なプロットであればあるほど、観る人をひきつけはしますが、覚えることは難しい。したがって他の人にも伝えにくいのです。したがってプロットに関しては「面白い」「いい」だけ。覚えている印象のほとんどは、描写です。つまり、シナリオライティングのミザンセーヌに関していえば、レンダリング重要だということになります

ラノベにおいても抽象度の高い「筋書き」を具体的に「描写」していくという作業は多くの作家が認めるところである映画は「筋書き」である台本と「描写」である映像に明確に分離可能であり、それと比較すればその境界は曖昧でありつつも、基本的な考え方としてラノベにおいても両者を区分することは可能であろう。

様々な作家による小説、ラノベ創作技法において、そこに書かれた技術がどちら寄りかを意識してみると、人物設定はどうあるべきか、世界主題の関係についてといった「筋書き」寄りの内容に対し、「描写」寄りの内容はその紙幅のほとんどが正しい日本語講座に費やされていたりする。

正しい日本語で書けるようになりました、とは読者に苦痛を与えずに「筋書き」を伝えられるようになりました、というに過ぎず、そして苦痛なく読める文章であることは読者にとっては当然であり、その意味でこうした日本語講座は「マイナスゼロにする」ものしかない。実際、ラノベワナビを数年続けているような人であれば読めない文章であることは少ない。しかしそれがなぜつまらないのか、といえば、まさしくそれがゼロしかないからではないのか。

一方で「ゼロではなくプラス」のラノベは確かに存在する。とすると「ゼロプラスにする」、すなわち「筋書き」を単に読者に苦痛を与えずに伝える方法ではなく、魅力的に伝えるための方法はあるはずである

ラノベを含む多くの創作論では「とにかく色々読め」という指摘がなされている。それは直接的な知識の吸収のみならず、そうした多読から無意識に「魅力的に伝えるための方法」を抽出し、そしてそれを自作においても無意識に利用するようになることを期待してのものであると筆者は考えている。

であるならばそれは、システマチック再利用可能な一定演出法――いわば「テンプレート」として抽出可能なのではないか。

仮にそうだとすれば、筆者はこの演出法には大きく二段階あると考えている。一つは筋書きを主たる場面に分解したとき、そのそれぞれの場面をより魅力的に見せるための場面展開の組み方、いわば「レイアウトの仕方」であり、もう一つは場面それ自体品質を直接的に上げるための「描写の仕方」である

金子映像に関して指摘するように、ラノベにおいても「描写の仕方」の影響は非常に大きいだろう。しかし一方で「よく出来た話だ」という感覚を覚えるラノベがあるとき、それはこうした「レイアウトの良さ」によって得られる感触であり、それは文体が合わないとか、パロディ不快だといった個人の直接的な好みとは一つ別の次元での評価――「自分の好みではないけれど、でもよく出来た話だと思う」といった、評価底上げに繋がる効果があるのではないか、と筆者は考えている。

「描写の仕方」については稿を改めるとして、本稿ではまずこの「レイアウトの仕方」についてのいくつかの私見を述べることとしたい。

本論

定義調査対象

本稿で抽出したいのはラノベの「筋書き」を魅力的に見せるための展開の仕方であって、あらゆる物語に普遍的存在する何かではない。ロシアの昔話とギリシャ神話キャラ萌え特化の現代ラノベ普遍的存在する要素を抽出したところで、物語構造論的にはさておき「よく出来たラノベ」を書くためという点で言えば糞の役にも立たないと筆者は考える。

大塚新城をDisった上で、つまりあ特定様式における「テンプレート」の抽出必要なのであり、本稿ではボーイミーツガール様式をもつラノベ限定することとした。

ボーイミーツガール定義として、例えば伊藤ヒロは「涼宮ハルヒゼロの使い魔など、メインヒロインとの「出会い」がきっかけで平凡な主人公が非日常に入る、という構造」を持つと述べる。裕時悠示もまた「ヒロインが非日常をつれてくる」としており、まとめると主人公ヒロイン出会いとそれによる非日常の始まり、といったところだろう。

まず本稿では「主人公」は単に語り手もしくは視点人物とする。『涼宮ハルヒの憂鬱(以下ハルヒ)』においてはキョン主人公であり、涼宮ハルヒヒロインである。加えて主人公ヒロイン性別は問わない。『マリア様がみてる(以下マリみて)』においては主人公ヒロイン女性であり、『エスケヱプ・スピヰド』においては主人公女性ヒロイン男性である表現上の混乱を避けるため、本稿では男性ないし無性であっても「ヒロイン」と呼称する。

次に、では「非日常」とは何か。

例えば『灼眼のシャナ(以下シャナ)』では主人公ヒロインと遭遇する前に外敵に襲われ、これは明らかに「非日常」として描かれる。もっとも襲撃直後にヒロインとの遭遇がある以上、広義にはヒロインが「非日常」を連れてきたと言っていいだろう。ところが例えば『化物語』では主人公ヒロイン出会う随分前から怪異に接する生活に入っており、ヒロインがそれをもたらしたとすることには広義といえどいささか無理がある。

そこで「非日常」とは主人公を取り巻く環境の変化ではなく、主人公のとる「意識と行動の変化」であると筆者は定義した。『ハルヒ』も『シャナ』も『化物語』も、いずれもヒロインと遭遇後、主人公の行動はヒロイン意識したものへと変化し、その意識した行動を軸に物語が展開していくことになる。この点から本稿ではヒロインを「主人公意識している相手」と定義する。

以上をもとに、本稿では下記の条件を満たすラノベボーイミーツガールと考える。

  • 語り手/視点人物(主人公)はある人物(ヒロイン)と遭遇し、これを意識した行動を取るようになる。この行動が物語の主たる軸として描かれる。

なお、本稿におけるボーイミーツガール排他的ものではない。ゆえに例えばハーレムラノベの代表格と言えるであろう『IS〈インフィニット・ストラトス〉(以下IS)』も、本稿ではボーイミーツガールとして扱う対象である

これを基本条件として、さらに人気作の方が魅力的な展開が内在する確率が高いだろうという推測から映像化された作品を中心に絞り込むこととした。

シリーズ化している場合、本稿での調査原則としてその第一巻のみを調査対象とした。最初の一巻はそれだけである程度のまとまりを見せる構造を持っているだろうと思われ、またその出来がいいからこそ続刊が決定したと言うことができるだろう、という推測によるものである(細かく言えばボーイミーツガールとしてのひとまずのオチが付いたと筆者が判断したところで区切ったため、『化物語』はひたぎクラブのみ、『星海の紋章』は全三巻と対象範囲に差はある)。

以上からWikipediaアニメ化されたラノベ一覧からランダムに選び出し、上記の条件に該当する作品50冊を調査した(一部個別判断からアニメ化されていない作品も含めた。また本稿では「ラノベ」の定義については特に踏み込まない)。これらを以下本稿では「ボーイミーツガール」と表記する。

長くなったが、以下やっと本題に入る。

本論

本稿では「ボーイミーツガール」を遭遇と関係構築で成り立つものと考え、それぞれについて「テンプレート」を抽出することを試みた。いずれも個々のラノベからその要素の類型化をまず行い、次にそれらが実際にどう扱われているか、またどのような扱い方がされるとより「よく出来ている」と筆者が思ったか、という恣意的判断によってまとめたものである学術的な検討がされたものではないし、類型化の際の用語も筆者が勝手に命名したものしかない点は注意されたい。

遭遇のテンプレート

主人公ヒロインとの出会いののち意識するようになる」とは、主人公ヒロインに対する見方が変わる、と換言してもいいだろう。その意味ヒロインとの物理的な出会いのみならず、「ヒロインに対する主人公見方が変わる」ことも含めて本稿では「遭遇」と定義する。

さて、「よく出来た遭遇」は印象に残るものであり、そして意外性は印象を残す一つの要素たりえる。実際多くの「ボーイミーツガール」は遭遇時にヒロインの「意外性のある設定」を明らかにする。

問題は、その「意外性のある設定」は凄まじい勢いで陳腐化する、という点である

突然同じ部活所属することになったヒロイン毒舌であることが明かされる『やはり俺の青春ラブコメは間違っている(以下俺ガイル)』、突然同じ寮に入ることになったヒロイン天才画家であることが明かされる『さくら荘のペットな彼女』、突然同居することになったヒロインサキュバスであることが明かされる『ご愁傷さま二ノ宮くん』などいずれも「意外性のある設定」が明かされるが、それが筆者に十分なインパクトを与える意外性であったかといえば否定せざるをえない。ヒロイン魔王だろうが神様だろうがそれがどうかしたのかと微塵も関心を示せない読者は特に筆者に限ったものではないだろう。

筆者が考えるに、これに対するアプローチは大きく2つに分けられる。ひとつは「設定の極端化」、もう一つが「演出の工夫」である

設定の極端化

「設定」の新規開拓はもはやほとんど絶望的だが、既存陳腐化した設定を極端化することによって意外性を勝ち得ているものは確かに存在する。例えばヒロイン挨拶代わりに主人公を撲殺する『撲殺天使ドクロちゃん』はその典型例と言える。問題は極端化が進めば進むほど馬鹿げた内容になりがちであること、さらに所詮は既存の内容の延長上にあることから読者の十分な意外性を得ることができず、陳腐で馬鹿げたものしか認識されないリスク内包する、という点である

演出の工夫

既存陳腐化した設定を使い回しつつも、その演出によって読者の興味を喚起することは可能である。そこでまずいくつかの代表的な遭遇における演出類型を整理したい(以下で全ての類型を網羅しているといった主張ではない。為念)。

主人公を困難に直面させる

クーンツは『ベストセラー小説の書き方』において、物語冒頭で主人公が困難に直面することが読者の興味を喚起する重要な要素である、としている。ヒロインの設定に意外性が乏しく魅力が無くとも、遭遇の場面の魅力はこの「困難さ」で補填することが可能であるヒロイン奴隷だと告げられる『ゼロの使い魔』、異星人に狙われる立場だと判明する『這いよれ! ニャル子さん』、突如男性主人公美少女に変わる『俺、ツインテールになります』などが具体例としてあげられる。

とはいえこれらの例において実質的主人公が困難を自覚しているものは少なく、その解決へ向けて真剣に行動することはほとんどない。いわば形式的な困難さでしかなく、そうした困難さは筆者の興味を喚起するものではなかった。

一方で『シャナ』は主人公が強く困難な状況を自覚し、絶望するところで始まる。トーチ云々の中二病はともかく、ヒロインに命を救われたと思いきや「いやもう死んでるから」と否定され、残りわずかな自分人生に悩む流れは使い古されたそれでありながら、筆者は悪くない印象を持っている。形式的困難に全く効果が無いわけではないだろうが、より効果的にしたいのであれば実質的困難とした方が無難とは言えるだろう。

秘密漏洩

偶然からヒロイン秘密主人公が知ってしまい、ヒロインもまたその漏洩を把握する、という遭遇の類型もまた古典的展開と言っていいだろう。『乃木坂春香の秘密』などはこの典型例と言える。

知ってしまった秘密主人公はどうするのか、秘密を知られてしまったヒロインはどうするのか、という次に当然起こるであろう緊迫した事態への興味を効果的に喚起させることができる上、それまで互いに無関心であった主人公ヒロインが相互に強烈に意識し始めることが読者に必然的に伝わる、という強力な副次効果を持つ。また秘密漏洩ヒロインにとってみれば「困難の直面」に他ならず、そこで極限状態に置かれたヒロインがどのような行動をするか、とはそのヒロイン人格であったり本性を端的に表すものと読者に暗黙に理解させる点でも効果的に機能する。

謎の提示

その状況が主人公にとって予期せぬ事態であり、なぜそんなことになったのかという困惑と疑問が生じる遭遇は読者の興味を喚起するという点で効果的である

例えば『タイム・リープ あしたはきのう(以下タイムリープ)』においては記憶の混乱という謎がまず読者につきつけられ、その解決が物語の主たる軸となる。『のうりん』においては主人公の崇拝するアイドルが電撃引退の上突如転校してくるが、彼女がなぜ転校してきたのかが物語の中心に据えられている。

しかし『タイムリープ』と『のうりん』を比較すると遭遇の出来の良さは(筆者にとっては)圧倒的に前者である。その違いは、おそらく単純に「読者の興味を引く謎か」という一点に尽きると思われる。この類型ヒロインの設定の意外性ではなく謎の意外性で勝負していると言ってよく、ゆえにどれだけ読者の興味を惹起することのできる「謎」を思いつくかがこの類型の要点と言っていいだろう。

印象的な絵面

例えば『マリみて』における「タイが曲がっていてよ」のように、これまでに見たことが無いような強いインパクトを与える絵面を描くことで読者の興味を喚起することに成功しているものがある。

筆者は全く百合趣味理解できないが、そうであっても「美人美少女ネクタイを締めてあげる絵」というのはなるほど悪くない絵だという実感が得られ、印象に強く残っている。

マリみて』ほどの強力さは筆者には感じられなかったが、例えば『とある魔術の禁書目録(以下禁書)』における「帰宅したらヒロインベランダにひっかかっていた」という絵もこの類と言っていいだろう。

遭遇の多段階化

以上、いくつかの類型を述べたが、より効果的に演出する方法としてこれらを多段階構成にする、という手法があると筆者は考えている。

例えば『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(以下俺妹)』ではまずヒロインエロゲ趣味主人公漏洩する第一の遭遇(秘密漏洩)があり、それについての一段落が描かれたのち、夜中ヒロイン主人公の自室に侵入する第二の遭遇が発生する(謎の提示)。

化物語』の第一の遭遇は階段から落ちたヒロインを抱き留めるという古典的なそれであるが、これは同時に「ヒロイン体重が無い」という「謎の提示」と「秘密漏洩」として機能する。次にヒロインの病弱さがひとしきり語られたあとで、ヒロインカッターナイフホッチキス主人公の口に突っ込み脅迫するという第二の遭遇が描かれる。攻撃性格ヒロインに特段の目新しさはないが、文房具凶器として使うこの絵面は筆者にとって十分インパクトがあった(印象的な絵面)。

とらドラ!』の第一の遭遇はヒロイン主人公を睨みつけるだけの地味極まりないものである。ところが第二の遭遇はヒロインが机を吹き飛ばし掃除道具入れに隠れるところを目撃するという奇妙なものであり(謎の提示)、ラブレターの入れ間違えの発覚を踏まえ、その「秘密漏洩」への対抗策として主人公宅へ夜襲をかける第三の遭遇と畳みかける。

興味深いことに、このときいずれも各段階の間に一拍が置かれている。それぞれの遭遇は矢継ぎ早に連続して矢を刺すというより、一本矢が刺さってちょっと痛みに慣れてきたところで二本目を刺す、というテンポと言ってもいい。

例えば『俺妹』ではエロゲヒロインに返した際、その場でヒロイン主人公へ自室でそのゲームプレイすることを要求しても物語上何ら影響はない。しかし一旦そこで一区切りさせ、主人公に「これで今まで通り、互いに無視しあう兄妹関係に戻るのだ」と吐露させ、その上でヒロイン夜這いさせることで、単にその場で依頼をするより読者に強いインパクトを与える効果を生んでいると考える。

中編へ続く

2015-02-22

http://anond.hatelabo.jp/20150222143226

ちょっと観点としては違うけど最近それ思ってた

ホッテントリじゃなくブコメ見てて思った

ぶっちゃけもともとネットっていうと各ニュースサイト2chまとめくらいしか見てなかったのが

はてブってものを知って来たら冷静な意見とか色んな意見議論がなされてたり

「こんな情報もあるよ」という情報を知ることが出来たり、すごいなと最初は思ってたんだ

でもずっと見てると論点がズレてる突っ込みをしてたりまったくおかし意見を言ってたり

あまつさえそれにスターがいくつかついてることもあって

ああここは頭のいい人ばかりではないんだよなと思うようになった

要はそれだけ沢山の人がいるってことだよね

2015-02-16

http://anond.hatelabo.jp/20150216143241

2016kと書き間違えた人への突っ込みはいいので教えてくださいな。

それとも1026KB=1MBは間違いで1026MB (1GB)は正しいのかな?

そちらのほうが検索結果にたくさん出る。

2015-02-12

包茎自力で治してみた

人様のちんこ事情はよく分からないので、自分ちんこの話をする。

数年前まで包茎だった。勃起しても剥けることはなかった。

でも、手を使えば剥けるし、そのまま放置してもいつの間にか被っているということもなかった。

から自力包茎治療を試みた。

まず、ちんこの皮を剥く。放置する。

初めのうちはこそぐったくて変な感じだった。電車とかで可愛い女の子を見るとすぐに勃起した。

ポケットに手を突っ込みながら、ちんこを弄る。すごく気持ちよくて病みつきになった。

次第に刺激に慣れていくちんこ。いつの間にか遅漏になっていた。

メンバ名を見直す前にスコープを見直すべきだ!!!

例えば、こういうクラスがあったとする

/**
** ゲームキャラクラス
**/
class Character {

    /**
    * 歩行の状態にする。
    * @param $place 歩行する場所。
    */
    private function _walk($place){
        $this->_state = Const::STATE_WALK;
        $this->_place = $place;
    }

    /**
    * 山を歩いている状態にする。
    */
    public function walkInMountain(){
        $this->_walk(Const::PLACE_MOUNTAIN);
    }
}

「walkIn~~ってメソッド名長くね?」

「良く使うメソッドから、あんまり書くと、ソースが読みづらくなるんだよね。」

という突っ込みが入ったとする。

対応として、

walkInMountain → walkInMt

とかやってもいいけど、逆に分かりづらくなる。mtってなんやねんと。

そういうときは、メンバのスコープを見直すべきだ。

/**
** 歩行クラス
**/
class Walk {

    private $_chara = null;

    public function __construct($chara){
        $this->_chara = $chara;
    }

    /**
    * 歩行の状態にする。
    * @param $place 歩行する場所。
    */
    private function _walk($place){
        $this->_chara->state = Const::STATE_WALK;
        $this->_chara->place = $place;
    }

    /**
    * 山を歩いている状態にする。
    */
    public function mountain(){
        $this->_walk(Const::PLACE_MOUNTAIN);
    }
}

とすれば、呼び出し元から

$chara = new Character();
$chara->walk->mountain();

みたいに、

主語->動作->述語

という構文で記述できるので、すっきりすると思う。

before)
$chara->walkInMountain();

after)
$chara->walk->mountain();


アレ?名前の長さが変わらない!!!

でも、やりたいことはそういうことだ!

つたわれ!俺の思い!

他にも、メソッドスコープでいくと

int write()
{
    int numberWritable = 0;
     :
}

こんなのは

int write()
{
    int number = 0;
     :
}

にしてしまえ!

writeメソッドにあるんだから、writableだろう!

みたいな。

2015-02-11

ヘイト主義

何かに反発してるから叩いてるんじゃない、叩きたいから叩いてるんだ。叩くためにものを見て、叩いて楽しむために物を消費しているんだ。

あの有名人を煽るのも、あの話題作を貶すのも、そいつらに問題があったかとかどうでもいいんだよ。

 

いやそりゃ口実が合った方が円滑な攻撃が出来て楽になるけど、実際ものを責めるのに理由なんていらないからね、

それでも叩かれてる側のファンというか厨は無駄に誠意を持ってその人や作品に原因を求めようとしてくれるからかなり楽になる。

というか素直に叩きたいだけだろと言う突っ込みが意外と少ないのに驚くね。こっちはいわゆる叩ければ何でも良い「ヘイト主義」として通してるだけなのに。

やっぱりアンチって扱いで言葉意味が影響でもするんだろうか。今時大していない真っ当な反発者だと思って勝手責任感じて貰えるんなら、これも叩くのに都合が良い。

 

こうしてファンが無駄にお利口である限りアンチは常に優位にある。攻めてる方が楽しいしまともでいようとしても攻められてストレスたまるから当然だけど。

ただ、それでも人間たまには迂闊にも好きな物が出来てしまうから困り物。

「今叩かれてるアレになびいてはいけない」「多分荒れそうなあの作品に触ってはいけない」「擦り寄るなら余所を叩くダシに出来る物に」

と、結局空気を読む力が必要になるって意味じゃ楽じゃない。

 

でも攻める側にいられればそれで良い。

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