はてなキーワード: 徴候とは
研修医として思うのは、増田よりコメ欄の「医者」「医療」への過大評価。
初診外来は医師にとって嫌というか難しいものだけど、1人に数時間かけられるわけじゃないし、病歴や身体所見上緊急性(命に直結するもの)や典型的な所見がないと判断できれば大した検査もしないし、対症療法的な処方して終わらせることも多い。
通常はそれで問題ないからこそそれで済むわけだけど、中には症状が持続する人もいて、再度受診してきたとき改めて次の一手を考えるということもある。
初回の受診で全て済ませろや、というのが患者としての本音だろうけど、緊急性もなく非典型的な所見でいちいち採血してX線撮ってCT撮ってMRI撮って、、などとしていたら医療費が10倍あっても足りない。X線やCTは被曝するからメリットないと撮らないし。MRIは予約で埋まってるし。その他技師さんにやってもらう検査だって予約埋まってて入院患者だって2週間後まで施行できないとかままある。
おそらく医療費やマンパワーが無限にあるとすれば即検査入院して数多の検査して必要な情報集めて診断下すことは今よりはできるようになるとは思うけど、そもそも時間経過しないと重要な所見が取れないこともある。インフルエンザだって発症すぐに検査したって偽陰性になることが多いわけだし。
増田では整形外科が槍玉に挙げられているけど、開業医レベルの無床診療所で骨折等緊急性のある所見がなかったら、初回は痛み止めや湿布処方するのは当たり前だろうと思う。もちろん大病院の救急外来に行っても同じことになる。半年も痛みが変わらない、という重要な情報があればそれで改めて何が原因なんだろうね、となることもあるだろうけど、整形外科も診療の幅(専門性)が高いし私は研修してないので実際どうなのかわかりません。
id:tkomy ずっと同じ病院にいき、「腹痛」だといわれ続け、破裂寸前で「盲腸」だとわかり別の病院で緊急手術になった私が通りますよ。自分の判断もヤブ医者の判断も正解かはわからない。別の病院でちゃんと診てもらって。
急にお腹が痛くなる「急性腹症」は原因が色々ありすぎて診断が難しいもののひとつ。特に急性虫垂炎(いわゆる「盲腸」)は一見ありふれているけど診断は難しいし遅れると大変なことになるのでしんどい疾患ではある。私は、高齢者の虫垂炎が進行して穿孔した汎発性腹膜炎を危うく見落とすところだった経験があります。。足が痛いとは言うけど全くお腹が痛いと言わないのでお腹のことは綺麗さっぱり鑑別から抜けていたというもの。炎症反応がやたら高値だったので原因検索のために撮ったCTで診断がつき、即緊急手術となりました。
id:FlowerLounge ウチの親とかパーキンソン病と診断されるまで数年かかったよ。何度も病院をかえて診察してもらった。
神経変性疾患の症状を来したので神経内科受診してすぐ診断がつく、というのはあまり考えられない。大学病院でも神経変性疾患疑いで紹介してもらって長々と検査してようやく、ということも多い。然るべきタイミングで然るべき専門機関を受診する難しさもある。
id:abababababababa 平熱が35度の祖母が微熱訴え続けてたけど、36度にしかなってないから『微熱とは言え一般的な体温なので』とあしらわれ続けつつも、病院を回った。その中去年亡くなった。肝臓ガン末期。最後の医者は手遅れ、と。
お悔やみ申し上げます。腫瘍熱は診断基準があるわけでもないし、36度の熱のみで癌を疑うのは相当に無理めだなあというのが正直なところ。。よく平熱は低いんで、と言われるけど発熱は医学的には定義されていて、平熱をどこまで考慮できるかというとわからない。平熱の状態の患者を医者は見ていないわけだし。
id:naruoe 最初の医者に処方されたクスリ飲んでも全く咳が止まらない上「飲んで即効く薬などこの世の中に存在しない」と諭されたが、耐え切れず別の医者に処方してもらったら、ピタリと咳が止まったことがある。
咳の原因が感染症ならば咳を止めることを目的としても意味がないし、咳を止めてくれ、という受診は割と困る。むしろピタリと咳を止める薬を処方した、という方がなんか怖い。。ちなみに最初の医者と別の医者の処方薬は何でしたか?後学のために教えていただければ。
セカンドオピニオンは、一度診断がついたものについて、別の医師から再度診断を仰ぐ相談なので、この場合全く別物です。
増田へ。
慢性疼痛というのも医学的に対処が難しくて、麻酔科領域でも研究対象の領域になっているくらい。
どうしても痛いならペインクリニックに行ってみるのもひとつの手ではある。非医療従事者が思うような「完全な完治」が望めるかはわからないけれど。
診断をするには必要な情報を集めなければなりません。年齢、性別、社会背景(職業も)、家族歴、既往歴、現病歴、陽性症状、陰性症状、身体所見などなど。必要に応じて、採血したり各種画像検査したり、と情報を得ていくわけですが、検査にも当然不確実性があり、偽陽性や偽陰性なども多々あります。身体所見上の各種徴候にも、感度が高いとか特異度が高いとか特性があって、100%の所見はありません。
症状があって受診しても、緊急性や顕著な所見でもない限り経過観察になることが多く、それを不満に思う方がAIを望むことがあるのだと思うのですが、必要な情報を取らないことにはAIが鑑別を挙げることも不可能でしょう。初めに述べた通り、あらゆる訴えについてあらゆる所見を取ることに医療費的にもマンパワー的にもメリットがないし、不可能です。保険診療上では無理なので、むしろ患者の望む通りになんでも検査して診断しようとしてくれる自由診療機関が必要なのかな、と思いました。
id:nannimonai そう初診で全てなんて無理。あなたも書いているが初回は経過観察と伝え「痛みが引かなかったらいらっしゃい」と伝えることが抜けている。それをコメ欄はヤブと言っている。
急性発症だが軽症の場合、突然のことで患者さんも不安になっていることも多い。なので当院では「対症療法的な処方なので痛みが強くなったりしたらまた受診してくださいor近くのクリニックを受診してください」と必ず伝えるように指導されている。それがないのは、それを言えないくらい外来患者数が多い(疲弊している)のか、そもそもそういう指導を受けたことがないかのどちらかなんだろうなと。若い医師ほどそういう接遇力は向上していると周囲を見ていると感じるのだけどいずれ気にしなくなってしまうような気がしないでもない。。
id:zeromoon0 ブクコメが気になった。
id:narukami 風邪が元で咳が止まらなくなって何度も薬変えた挙句で出たユニコンが劇的に効いたんだけど同じ人を感染源として同時に風邪引いた別の友人は最初からユニコン処方されてたので咳が一発で止まった話「あるある」としか
風邪による咳にユニコン錠(一般名テオフィリン徐放錠)を処方されたと。テオフィリンは気管支喘息やCOPDに適応があり、咳を止めたり息苦しさを和らげたりします。テオフィリンは中毒になりやすく血中濃度が少し高まるだけで不整脈やけいれんを来すリスクがある(特に小児)ため血中濃度モニタリングが必要、というのは医師国家試験レベルの知識なので、実際成人への内服薬投与ではそこまで気にしてないのかもしれませんが、どのみち感染による咳には本来適応はないので、研修医としてはなかなか恐ろしい話だと思ってしまいます。。
id:AyanoIchijo 私も元増田、他の病院行こうぜって書いちゃったけど、同じとこにもう1回行ってもいいのかー。/でもまあ「なんかあの医者やだった」感があったなら、他のとこ行くのも手よね。
上で書き忘れたのですが、病院を変える最大のデメリットは、【初診時の所見がわからない】ことにあります。最初の受診時の情報がない、というだけで再び診断の難易度が上がります。患者さんは初診時の医師がどういう意図でどういう治療方針を立てたのか十分に説明できないうえ、初診時の医師の説明が不十分なことも多いので(外来では十分に説明して納得してもらう時間もない)、病院を変えたところで、新しい医師に医学的に重要な情報が伝わらず同じことが繰り返されることもあるでしょう。
中一の娘が不登校気味で困っている。朝、気持ち悪い、頭が痛いなどと不快な症状を訴えて、なかなか学校(偏差値50くらいの私立女子中)に行きたがらない。無理矢理怒鳴りつけて行かせるのも良くないと思いつつも、将来が心配になってついくどくど言ってしまう。
行けない理由は語りたがらない。が、どうも課題の多さについて行けてなかったり、できてないことによる先生からの指導などが強烈なプレッシャーとなってきてるように感じる。
一方で、夜に僕が帰宅してみると、たいてい元気で、大きな声で色々話したり歌ったりしている。妻が、「新型うつかも」と困惑した表情でため息をついていた。
担任の先生に状況を報告して相談したり、小児科の専門医に自律神経関係を診てもらったりしたが、なかなか好転せず(自律神経は特に問題なかった)。今週は既に月曜から3日続けて休んでいる。
いじめも疑っているが、本人は否定している。もちろん鵜呑みには出来ないけど、そういう徴候も見受けられない。油断はできないが。ただ、友達は少なく、お昼も一人で食べているっぽい。
もともと要領よく片付けることが苦手な子で、そこに小学校時代と比べて激増した宿題に辟易しているのでは、と思う。要領が悪いのに愚直にやろうとするものだから、なかなかハードだとは思う。
内気で友達作りも苦手なのも大きいと思う。人間関係のストレス対策として評判の、「友だち幻想」(菅野仁/ちくまプリマー新書)を買って、カバーを付けてさりげなくリビングに置いたりしている。「読め」と言ったら絶対読まないので。
最近はあまりくどくど言うのはやめて、行けたら行こうね、という方向にシフトしているが、不安で仕方がない。義務教育の段階でフリースクールとかあるのか。そもそも最低限の学力すら身につかないのでは…
今日は早く仕事を切り上げて、妻とともに娘に気になっていること、引っかかっていることがあれば話すようにと語りかけた。今日話してくれたことについては、決して否定したり注意したりしないし、学校に乗り込んでって先生に物申しに言ったりもしない。ただ、現状が分からないことには前に進まない、どんなことでもいいから思いつくまま話してくれと。娘曰く「よくわかんない。こういうのが嫌だ。家まで嫌になる。」だと。…難易度高い。がっつき過ぎたのかも知れない。むしろ事態を悪化させたかと心配したが、夕食をしっかり食べて、テレビを見て笑ったりしている。どう解釈していいか分からない。
日本は治安や生活文化のレベルがかなり高いので、その高さを前提にした習慣がたくさんある。
たとえば、ある商品を売ってる(牛丼でもティッシュペーパーでも良い)企業があったとして、モンスタークレーマー(たとえば、店頭で俺には500円で二杯の牛丼をよこせと暴れる人)が出た場合、下手に時間をかけて処理する(人件費という形で対策費用を消費する)よりも、素直にもういっぱい牛丼を与えたほうが、金銭的には合理的判断になる。
モンスタークレーマーに二杯の牛丼を提供しても、大多数はそれに追随しないまっとうな顧客なので、そういう判断が成立するわけだ(みんなが2杯要求し始めるのならば、どこかでその悪循環を断ち切る必要があるが)。
モンスタークレーマーがたべている二杯目の牛丼のコストは、では誰が負担しているかというと。最終的には価格に薄く載せる形でまっとうな顧客が負担している。
良識ある市場では、以上のように「良識のない顧客のほうが結果的に大きい利益を手にして、善良な顧客が彼らの悪行の負担を背負う」状況が発生する。万引き犯の与えた損害を回復するために、書店がどれだけそれ以外の本を売らなければならないかという悲劇はよく聞くけれど、それはまだ犯罪だから法的な対処が可能で、犯罪ではないケースでも、上の牛丼店のような話はいくらでもある。
金銭的以外の話に目を向けると、こういう状況が長く続くと、「あれ? 邪悪な顧客のほうが得をするのでは?」と多くのユーザーが気づき始める。「社会の良識>私的損得」である場合、モンスター的な要求は抑制されるが、しきい値を超えて多くのユーザーが「私的損得>社会の良識」と判断したとき、社会の雰囲気は激変する。これがいわゆるモラルハザードだ。
誰かに話を聞いて欲しいと思っても誰にも喋れないことがありすぎて困っている。だからここに書き散らす事にする。誰も見てくれないだろうなと思いつつ。
私は発達障害グレーで、双極性障害(のようなもの)を併発している、らしい。ずっと通っていた心療内科では私は何なのかはぐらかされ続け(病名を言わないことはよくあるそうだけど)、結局匙を投げられて大病院に通う事になった。
思えば幼少時から人と違うという徴候はあった。幼稚園ではひとり遊びに没頭し、小学校でも集団行動が苦手だった。「目立とうとしている」といじめられた。ただ友人もいたし、学年が上がるといじめやからかいは収まったので、無事小学校は通過した。
中学校では「目立つ」という理由で先輩に因縁をつけられた。中学校は生徒も多いので馴染むのは余計に大変だった。でもまあこちらもなんとか卒業した。
高校は自由度が高いと聞いていたので大丈夫だろうと思っていたが、結局同じように1年次は周囲に溶け込めず終わった。グループに入れないのだ。基本的に皆グループ行動なので浮いてしまった。部活動だけが救いだった。
高校2年の時に友人のアドバイスもあってなんとかグループに潜り込み孤独を脱した。そこから3年までは軋轢を起こしつつも無事に卒業した。
さすがに大学は...と思っていたがやっぱり自分がちょっと違うようだ、という違和感はあった。ただ大学はそこまで集団行動を要求されないのと、小中高よりは個性の強い人が多かったから、これまたなんとか通過した。
思えば、常に違和感を抱えながらどうにか対処してきた学生時代だったと思う。
とても組織の中で働ける気がせず、就職はしたくなかったが、他に特段の才能もないので就職はした。ちょうどリーマンショックの直前で、若干雇用が回復してきた頃だった。あと私は外面を繕うことに慣れてきていたので、無事に就職は成功した。
就職する頃にはさすがに若干の社会性、というか処世術は身についていたので、転職を含め7年くらいは無事に勤めた。
何が最終的に心を壊すきっかけになったのかは私にも正直よくわからない。それなりに友人もいたし、結婚もしたし、仕事も別にブラックではなかったし、同僚は良い人たちだった。
ただ、コミュニケーションに限界が来ていた。誰かに自分の考えを伝えるのが苦痛だった。それに対する反応に適切に対処できなかった。加えて忖度も苦手だった。人と接したいのか接したくないのか自分でもよく分からなかった。
結局休職して、4ヶ月で復帰したが2ヶ月でまたおかしくなり、6ヶ月の休職期間を使い切って辞めた。その後何度かバイトで社会復帰しようとして失敗した。
失敗の理由は別に周囲にあるわけではない。皆良い人だった。ただやっぱりコミュニケーションの負荷が高過ぎた。仕事する上でコミュニケーションは必須なんだけれど、最近はチャット文化が発達していて、ただでさえ人の感情に疎い私には文字だけのやり取りは辛すぎた。
結局私が今困っているのは、適切なコミュニケーションがどうしても取れなくて社会人として復帰できないことだ。人に話しかけるのが(文字にせよ対面にせよ)苦痛で仕方がない。
何か突出した才能があれば良かったと思う。コミュニケーションなんてぶっちぎれるような。でも残念ながら私には何もない。空っぽだ。
これからどうやって生きていけばいいんだろう。
周囲に明るく取り繕うのも疲れたし、かといって自分をさらけ出す気持ちにもなれない。
正直、疲れてしまった。
長文失礼しました。
それは、おそらくあなたが父親との関係で女が男性から物扱いされることがさほどおかしくないという価値観を内面化してるからだと思う。
こじらせてる、というか他人の心を想像して大切にできない人間ってあなたが決定的にひくような場面以外でもやばい人だって徴候を出してる。
そして、最初にあげた価値観を内面化していない多くの人はそのシグナルに気がついてる。この人の女性観はやばいって徴候に反応できる。
気づけない女は、例えば精神的モラハラ男と長く付き合って、別れた後にこの人だと運命感じて速攻で結婚したやつがDV男で離婚したりする。わかれるときは雑に扱われすぎというラインを超えたときね。
あるいは結婚まで行かなくても別の女を雑に扱う男と付き合い続ける。
でも彼女たちは例に挙げたようなモラハラ男とDV男が持つ女性観のやばさにラインを超えるまで違和感を感じられない。なぜなら物扱いされることがさほどおかしくないという価値観を成育歴の中で内面化してるから。
ヘラヘラ男とか年上は見抜けなかったと例として挙げてるけど、一回あっただけでたまたまこじらせてる人とエンカウントしただけでしょ。
でもそれ以外の人、特に父親との関係は長いこと続けてきた関係で気が付けなかったってことだよね。もちろん例示した男みんなが病的に紳士的に振る舞う巧妙さを持ってた可能性もあるけど。
さらに、一回しか会ってないっていう年上の男だけど、あなたと価値観が似てる幼馴染も女性観がやばい男を捕まえてるんだよね。なんか、あなたも幼馴染もあぶねえなあと思った。
推論を重ねたけど、例えば彼氏とかあなたと親密になった男性はいままでどんな人だったんだろうかと興味を持った。
最初の話に戻るね。「そんなクズ男を選んで付き合った(結婚した)お前が悪い」というのはいい悪いはおいといて、そんなあなただからそんな連中を見抜けなかくのが難しいんです。
https://togetter.com/li/1126352
ポストアポカリプスとディストピアはぜんぜん別物だよ! ってとこまではいいんだけど、このディストピアの定義もなんか微妙なんだよな~
そもそもディストピアってのはユートピアを裏側から見た図であって、
ディストピアの本質は、誰もが認める望ましい性質を追求していたはずなのにいつの間にか怖い社会が成立してたって部分なんだよ。
子どもが産まれたら役所に届け出ろとか、適切な治療のために既往症の記録を共有しておくとか、前科者にGPSを埋め込むとか、脳モニタリングで犯罪の徴候を察知するとか、
国民の安全と幸福を保証するために国家があらゆる情報を管理する必要があると考えられていたからこそ、それを突き詰めたら怖いよね?っていうアイディアが成立したわけで、
プライバシー重視のパラダイムが支配的になった今日においては逆に「国家が、あらゆる情報を徹底的に“管理しない”」、何もかも忘却されるような世界を描いた作品も面白いと思うし、それもまたディストピアなんですよ
俺は先天性心臓病で1級障碍者手帳を持っていたが、成長したら見た目健常者と変わらず、話がややこしくなるので、障碍者だという事実をむしろ隠すようになった。
障碍者手帳に写っているのも赤ん坊の時の写真のまま。使ったことがない。結局、申し訳なくて、もう治ったと思って引っ越すときに返してしまった。
で、最近、30代になってからようやく、心不全の徴候が出てきてね。子供の頃の手術の時には、健常者とほとんど変わらないと言われたのに。障碍者のままでいればよかったと思っているよ。
障碍者が誰でも可哀想がってもらえるわけじゃないんだよ。見た目ではっきり分かる障碍者だけ。心臓病患者なんて、ほとんどが見た目健常者と変わらず、可哀想がってもらえない。
俺と同じ病気で生まれてきた子の中には、手術に失敗して子供のうちに死んで、手術法の向上に貢献した子が何人もいるのに。寿命が健常者と変わらず、手と足がない障碍者ばかりが注目される。俺達も医学の発展を通じて社会に貢献してるのに、健常者に存在を認めてもらえていない。
http://blog.tatsuru.com/2016/11/15_1128.php
その理由はとりあえず周知されていない。誰でも知っている理由なら、こんな特集は組まれない。
ふつうリベラル批評家が発言力を持ち続け得るのは(事象に即した言説のクリーンヒット時の「ご祝儀」を除くと)批評のまなざす先の恩沢に現にリベラル市民が浴しているからである。
だが、内田樹はそうではない。
特別顧問で参画した大阪市政改革は頓挫した。旗を振るったSEALDsは見るべき成果を上げていない。野党連合の結託をいくら煽っても鳥越の醜態や民進のグズっぷりばかり悪目立ちしてしまい 自民党打倒の糸口が見えない。安保法案への言及ではシーレーンや国防、自衛隊員の命の軽視と反知性主義の態度が露呈した。五輪計画や福島原発や豊洲移転問題では共産党の走狗となり知性の欠如があきらかになっている。どれも老いたリベサヨの末期の徴候である。にもかかわらず内田は高い読者数を保持している。その根拠は何なのか?
一番簡単なのは、「リベサヨ市民は現状認識の適否を判断できないほど愚鈍になった」という解釈である。
リベサヨの過半が愚鈍であるなら、こんなあげつらいも何の意味も持たないからだ。だとしたら、問いの次数を一つ上げるしかない。「リベサヨは内田を支持することでどのようなメリットを得ているのか?」である。
保守速報などネトウヨまとめサイトの観測によれば、内田支持理由のトップは「他に適任者がいないから」である。
だが、現実には「他にどのような言論人が適切か?」という問いは誰も立てていない。いずれ支持層が急逝して「ポストリベサヨ」がリベラル市民の話題になればリベラル市民は「人気投票」を行うだろうけれど、今は話題になっていない。
私の解釈はこうだ。国益が損なわれ、国民が日々損害を被りそうな諸言説を垂れ流すにもかかわらず、「内田を黙らせろ」という声が上がらないのは、リベサヨ代表格の適格性を最終的に判断しているのは「リベラル市民たちではない」とリベサヨが思っているからである。
残念ながら、リベサヨ界隈において、内田言説の適格性を判断しているのは理性ではない。
リベサヨは自分たちの歪んだ情念から現実を歪ませて認識することはできる。でも、現実に即した言説に身を委ねるはできない。
リベラル市民たちが誰を選んでも、中共が「不適格」と判断すれば、リベサヨメディアでのオピニオンリーダーの座には就けないし、就けても短命に終わる。そのことをリベサヨは知っている。知っているけれど、知らないふりをしている。それを認めてしまうと、リベサヨは権力の圧政に反して日本社会や市民生活をより良くしようという正義や善意の集団ではなく中共の野望の片棒を担ぐ工作機関であるという事実を直視しなければならなくなるからである。
2008年頃からネトウヨ嫌韓豚の吹き溜まりである保守速報などのまとめサイトで「朝日新聞は中共の工作機関である」との言説が広まった。反日朝日の誌上におけるオピニオンリーダーの任免権は事実上中共が保持している、と。
日本のリベサヨ言論はこの発言をまともに取り合わなかった。違うと思うなら反論すればいい。だが、「反日朝日は中共の工作機関ではない」と述べたリベサヨ言論は一つもなかった。
サントメプリンシペの政治学者ガバーヌ・マンコニックは〜中略〜同じことを指摘した。だが、リベサヨはそのような意見がネトウヨ社会では当然のように行き来している事実そのものを組織的に黙殺している。
内田樹は「宗主国中華人民共和国の属国の報道官」である。実質的な権威づけは中共が握っている。もちろん、外患誘致に問われるから、権威付けの作業は「アウトソーシング」されている。中共の情報誘導は朝日新聞や日刊ゲンダイへの記事やコラムを通じて醸造され、外国人特派員クラブやワシントンポスト、ニューヨークタイムズなど外信へ逆輸出することでマッチポンプ効果で言説の信憑性がより強化される。そういう仕組みでリベラル言説が制御されていることをリベラル市民はもう知っている。知っているけれど、知らないふりをしている。
「他に適任者がいない」というのは朝日新聞など反日工作メディアの判断である。
内田樹は日本の国益よりも中共の国益を優先的に配慮してくれる「理想の言論人」である。だから反日メディアがそう評価するのは当たり前である。そして、リベサヨの多くは朝日新聞の判断の方がリベサヨ当人自身の生活の延長線上にある主観的な現実評価よりも夢想的でありかつ幻想的であると信じている。
「追記」
ただ、アメリカの大統領がドナルド・トランプに交替したことで、「宗主国の代官」にどのようなタイプのオピニオンリーダーを選好するかについての判断基準がこの後変わる可能性はある。
これまで、「属国の代官」の適不適を事実上判断していたのは辛淑玉たち「差別の当たり屋」であった。
リベサヨのグズっぷりに「市井の人々」は巨大な「マイノリティ利権」をひさしく貪っていた「差別の当たり屋」たちから取り上げようとするだろう。
「差別の当たり屋」たちのお気に入りであった日本のリベサヨ言論人たちはこれから新たに「オーディション」を受けなければならない。
明日11月17日に安倍首相はトランプを西側首脳として最も早く表敬訪問をするが、これは「日本の総理大臣」である以上当然のことであり、これは安倍首相にとっては「新しいカウンターパート」に対する「牽制」に相当する。
日米の関係がより進歩的に発展するという「(中共にとって残念な)結果」になった場合、反日メディアではオピニオンリーダーもリテラもマガジン9も「アベシネホントシネゲリグズ野郎」と(はじめはおずおずと、そのうち猛々しく)言い始めるだろう。
貧困が他人事では無くなった時、自分と弱者のどちらの命を選ぶかかが問われているのだ。
そしてそれは、もう誰にとっても他人事ではないのだ。
生産力なき弱者を守るということは、それだけの生産力を誰かが補う必要があるという単純なロジックを見落としている人が多すぎる。
日本は今、潤沢な生産力があると言えるだろうか。少子化問題、第三国の台頭、相対的な技術力の低下、原因を数え上げればきりがない。
そうした中で弱者を守ることで虐げられる社会的弱者が生まれた時、その怒りの矛先は社会的強者ではない。生産力を持たぬ弱者だ。
だからこそ犯人は正義と思想のもとにこの事件を起こしたと信じているのだ。
今までもその徴候はあったが、それがとうとう顕在化してしまった。ただそれだけのことなのだ。
被害状況が戦後最悪になったのも偶然ではない。犯人がたまたま残虐性が強かったわけでもない。
擁護される弱者の数と、それによって虐げられる社会的弱者のストレスとが最大になったというだけのことだ。
そしてこれは始まりにすぎない。なぜならその2つは今後も拡大し続けるからだ。
そうして弱者を守ることのできないほどの貧困が自分にとって現実的な問題になった時、果たして彼に対するつっこみと同じことを言っていられるだろうか。
第三者に生殺与奪権があろうがなかろうが、弱者を守ることによって自らの命が危険に晒される時がくるのだ。
やまもといちろうという人間に対して何かしらの評価をもったことはないが、彼が言葉を濁さなくてはいけないのは当然のことだ。
なぜなら、こんな命題を言葉として発信できるわけがないからだ。
しかしながら、近い未来誰もが向き合うことはもうさけられない運命でもある。
「生産力なき弱者の延命が自らの命を脅かす原因になっている時、あなたはが選ぶのはどちらの命か」
来るべき貧困時代において福祉などというものは機能しなくなる。そうなればこれはもう倫理や家庭レベルで取り組む問題ではない。
もう淘汰は動き始めているのだ。
小学校低学年までそれなりに幸せに生活してたがいじめの徴候はあった。それは俺のだらしない生活態度が原因ではあるのだけれど。その時は意識していなかったが金持ちの子供で、周囲の子供の親より俺の親の年齢が高く感覚が違っていた、両親共にコミュ障でそれを受け継いでいた、等々理由はあるだろうがとにかく今自分で考えてみてもいじめられる要素が大量にあったと思う。それといじめの善悪はまったく別で単純にいじめは犯罪と思うけど。一言で言うと天真爛漫で傍若無人なガキだったんだと思う。
小学校五年生の時。クラスわけで中年の女教師になった。そいつがもう大変でヒトラーのような教師だった。それまで軽度のからかいや友達同士での喧嘩などがあってもそこまで深刻化することはなかったが、彼女のクラスになってからはそれが原因なのか毎日吊るし上げをくらった。集団をまとめるための生贄にされた。毎日、帰りの会で1~2時間立たされ罵倒の言葉を浴び、クラスメイトたちに嘲笑され、腰巾着の女子のクラスメイト三人に毎日粗を探された。一緒にいじめを受けた多動気味O君は一年で根を上げて転校していった。そりゃあ、毎日のようにビンタを張られて一人だけ黒板に机の前部分を付けさせられて隔離されて授業を受けさせられれば転校したくもなるだろう。六年生の次の年からはO君と仲が良かった俺が本格的にいじめられることとなった。
六年生になったがまるでこの世の地獄だった。クラスメイトの男子から暴力をふるわれたのにいつのまにか俺が立たされ、罵倒の言葉を浴びせられた。そのころにはもう辛すぎて現実逃避が上手くなっていた。今でもオレンジ色の夕日に照らされ、泣きながら立たされていたことを思い出す。それがとても綺麗だった。そのうち小学校低学年に時を戻したいと思うようになり、実際に巻き戻った夢を見た。過去に戻った俺は高学年の頭を持っているのでクラスをあっと言わせるのだ。現実の自分と強くてニューゲームをした俺、どっちが本当に自分なのかわからなくなった。というかどうにかして現実から逃げたかったんだろう。小学生の俺、可哀そうに。そういえば毎日のように些細なことで泣いていたと思う。
その後も家出したりなんなりありやっと卒業した。やっと開放されたと思った。だが現実は甘くなく、俺は学校生活が完全にトラウマになっていた。2年間かけて自尊心を根っこからカチ折られて、極度の人間不信と精神不安定になった。中学と高校で計5回程家出し、結局高校を中退した。もちろん精神科のお世話にもなっている。
今、こうして当時のことを振り返っているのは、やっとその時のことに向き合うだけの心の余裕が出来たからだ。それまでは思い出そうとすると動悸がして苦しくなりどうしても思い出せなかったからだ。あれから約20年がたち、愛する家族にも恵まれて、やっと向き合えた。
今、思い出してみればいじめの当事者たる教師やクラスメイトも哀れな人間だったのだと思う。
ちなみに親はまったく気付かず、俺も言わなかった。もし話していても頭の固い親を説得するだけの知恵はなかったから結局同じだっただろう。
いじめはなくならないだろうが社会の意識を変えることは出来ると思う。
もし今、いじめられている子がいるのならば思うのだけれど、出来れば死なないで欲しいと思う。人生めちゃくちゃになっても諦めなければなんとかなる。
危険な徴候があって対策が必要なら、対策を講じてくれるところに訴えたら良かったんだよ。
もしくは危険な徴候が遭って、こういう対策を取ってる、こういう対策が必要だからやってもらうよう掛け合ってる
でも今回は、漫画で風評を広めようとしたから反発に遭って、根拠が無いだのと言われる。
危機感を持ってもらうためだと言っても、副作用が強いことは分かりきってたんだから
原作者は、自分が持ってる漫画という武器を過信して、自分が信じる正義のためにふるって
結局は、全部感情論なんだろうなと。漫画を描いた側も、非難する側も。
「俺は問題をしらしめるためにやってやったんだぜ」というヒーローぶる原作者と、
ただただ、二者間で喧嘩して、それを周りがはやしたてて、結局は何も変わらないというバカな話。
実体のある人間から肯定感を育ててもらえない人が、きっとたくさんいるのだと思った。
これは良くない徴候だと思う。
肯定感が育っていない人が例えば親になったら、その人は、子供の肯定感を育ててあげられるのだろうか。
世代ごとに自己肯定感を育ててあげられる人が減っていくこの状況。
親も家、族も地域も、それぞれに余裕がなくて年下の人の肯定感を育てている余裕がないのだと思う。
そしてある程度満たされていない人が誰かの心を育てることなど出来ないだろう。
その補完の場としてSNSで自己肯定承認を求めることになるのだろうけれど、そこでも得られない。