貧困が他人事では無くなった時、自分と弱者のどちらの命を選ぶかかが問われているのだ。
そしてそれは、もう誰にとっても他人事ではないのだ。
生産力なき弱者を守るということは、それだけの生産力を誰かが補う必要があるという単純なロジックを見落としている人が多すぎる。
日本は今、潤沢な生産力があると言えるだろうか。少子化問題、第三国の台頭、相対的な技術力の低下、原因を数え上げればきりがない。
そうした中で弱者を守ることで虐げられる社会的弱者が生まれた時、その怒りの矛先は社会的強者ではない。生産力を持たぬ弱者だ。
だからこそ犯人は正義と思想のもとにこの事件を起こしたと信じているのだ。
今までもその徴候はあったが、それがとうとう顕在化してしまった。ただそれだけのことなのだ。
被害状況が戦後最悪になったのも偶然ではない。犯人がたまたま残虐性が強かったわけでもない。
擁護される弱者の数と、それによって虐げられる社会的弱者のストレスとが最大になったというだけのことだ。
そしてこれは始まりにすぎない。なぜならその2つは今後も拡大し続けるからだ。
そうして弱者を守ることのできないほどの貧困が自分にとって現実的な問題になった時、果たして彼に対するつっこみと同じことを言っていられるだろうか。
第三者に生殺与奪権があろうがなかろうが、弱者を守ることによって自らの命が危険に晒される時がくるのだ。
やまもといちろうという人間に対して何かしらの評価をもったことはないが、彼が言葉を濁さなくてはいけないのは当然のことだ。
なぜなら、こんな命題を言葉として発信できるわけがないからだ。
しかしながら、近い未来誰もが向き合うことはもうさけられない運命でもある。
「生産力なき弱者の延命が自らの命を脅かす原因になっている時、あなたはが選ぶのはどちらの命か」
来るべき貧困時代において福祉などというものは機能しなくなる。そうなればこれはもう倫理や家庭レベルで取り組む問題ではない。
もう淘汰は動き始めているのだ。
信者がひたすらキモいから。社会に警鐘鳴らすようなレベルの人間ではないよ。ちょっと物知りのネットおじさんでしょ。