はてなキーワード: 力学とは
というより物理学からの必要に駆られた要請によって新たな数学の概念が切り開かれてきた。
したがって当然、物理を学ぶ際には現象そのものの理解とその裏に潜む数学的内容の理解が両輪となるのだが、
なぜだか日本の学校教育においては、この前提が上手く機能していない。
物理分野においてある現象を習ったその翌年に、ようやく数学分野において必要な概念が登場するといった具合だ。
具体的には、以下のようなものがある。
まあ大学まで来ると履修順もある程度好きにできるのであくまで一般的な例だが、それでも通常のシラバスでは上記時期に学ぶとされることが多い。
なぜこのようなことになっているのだろう?
はっきり言って物理が「公式の暗記ゲー」になっているのはほとんどこのすれ違いが要因だ。根本的に理解するための道具がないから、その結果だけを公式として先回りに輸入しているのだ。
単純に小学校低学年の段階で理科の履修時期を1年後送りにすれば済むと思うのだが、何か問題があるのだろうか?
(Appendix)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/1356249.htm
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1384661.htm
ブクマ返し
確かにそこで知識として触れることになっている。ちゃんとやるのは中1だが、そこは誤解を招く表現だった。申し訳ない。
大学のカリキュラムはさすがに学校ごと、個人ごとに差が大きく、必ず上記の通りと言うつもりはない。しかしベクトル解析は通常1年次の微分積分学ではやらないと思う。
また一般的に、物理の履修が数学に先んじる傾向が大学でも続くという部分は、どの大学でもおおまかには認められると思う。
思ったより各校で工夫されているらしい。それ自体はとても好ましい。
だが基本は指導要領の通り教わっているものであり自分の教わり方が「例外的に素晴らしかった」ことは認識していただきたい。
必ずしも初学者が発見順に沿って学習する必要はないと思っている。
今の体系の中で、最もわかりやすい順番に並べ直すべき。
それ自体に反論はないが、であれば上記のように物理内で微積を導入するなどして必要な数学を身に付けさせなければ意味がない。
たとえば等加速度運動の二乗公式を暗記させる必要は一切ないはず。
また、個人的には数学はそれ自体完結する学問だと思っているので、常に物理のために数学があるような受取り方になるとしたらちょっと良くない(個人の美学だが)
「物理の要請で数学が切り開かれた」というのは、そういう一事実があると言いたかっただけで「全ての数学が」というように受け取らせるつもりはなかった。
ここも誤解を招く表現でしたね。
昔のぼくは人からバカにされることを極度に恐れていたと思う.どんな人間からも全く後ろ指を刺されない完璧な人間が存在していて,そういう完璧さを求めていたような気もする.今思うと全くもって的外れである.どんな賢い人間も,最初から賢かった,あるいはスタンドアローンで考え抜いて賢くなった,わけではないのだ.数多の他者から鋭い批判を受け,それでもなお折れずに自分の知性を信じて貫き,自己批判精神を磨いていった帰結である.優れたものは批判を受けないのではない.どんなものにも粗を探すことはできる.そうではなく,想定される・されないを問わず繰り出されるあらゆる批判に対してそれを跳ね除けることができる,徹底的に糾弾されたのちに「ああ,こうするしかないんだ.これが真理なんだなあ.」と腹落ちすることのできるものである.批判に耐えられないものに価値などないのだ.
そして,これは「自分」にも言える.自分ほど我々にとってかけがえのない存在はない.自分というのはそれまで生きてきた多種多様な経験・思いが堆積した帰結,まさに作品である.芸術というのは剥き出しの純朴さ・「幼さ」を泰然と世間に対し突きつける,批判を確固たる覚悟と信念によりはねのけて己の信じる真理を突きつける,この力学にこそ尊さがある.自分という作品もまた同様である.万人に嘲笑されようが,「貴様はそもそも無能である」と罵られようが,集団から排斥されて死の淵を這いずり回ろうが,それでもなお意を介さず,自分を信じることができること.自分は「ダメ」なやつだなんて薄弱な言い訳を口にしないこと.これこそが作品を創造していく存在者として健やかなる在り方であろう.叩かれて引っ込めるぐらいなら最初からやらなければ良いのだ.そこに信念があるなら.他人から見て愚かに見えても構わない.君の中でつじつまがあっていればそれで良い.その結果,世間の生き方から外れても,社会的成功から遠のいても,あらゆる者に軽蔑されても,そのような生き方が特段劣っているとは思えない.個人の満足感・快楽には他人は介入できない.その結果が死であっても,それはそれで尊い結末である.個人の力ではどうしようもない「運命」と呼ぶべきこともある.そのような理不尽かつ強大な敵にこそ果敢に挑み,そして力及ばず散っていく.その死は英雄的であり,恐れることはない.
真に人の性 (さが) を憎む者として,神の前に立つべき英雄.君が募らせた憎しみは,いつしか祈りとなって神のもとに届くだろう.諦めれば全てが嘘になる.救いなどなくていい.
たとえば「女の生理痛は男が金玉を蹴られた痛みと同じ」という言説から考えてみよう。
これは冷静に見れば全然おかしい言葉であることがわかるだろうか。
個人差とかもあるが、それ以前に「自分の感じる痛みを他人のそれと比較すること」はどうやっても不可能なのである。
何故なら痛みという「感覚」自体を、何らかの言葉や図表、量的な指標を用いて他人に伝えることができないからだ。
極端な話、自分の感じる【この】痛みという感覚が、他人の感じる痛みという感覚と同じなのかどうかすらわからない。
自分の見ている赤が他人の見ている赤と同じとは限らない、と言う説明がされることが多い。
ところで質問なのだが、このクオリアという心的現象は、物理現象の一種なのだろうか?
つまり、現在は脳科学が発展していないために見えていないだけで、実際のところ「心の働き」と呼ばれるもののすべては脳神経で起こっているニューロンの発火や電気信号だけで成り立っていて、それらを完全に解析さえすれば上述のような「他人の痛みの比較」も可能だし、人が何を感じ、何を考えているのかといった心的現象も追うことができるのだろうか?
もしくは、意識や感覚といった領域は物理的法則では縛られない世界にあって、ニューロンの発火だけでは絶対に説明がつけられない部分が残るのだろうか?
あなたは
あなたは、意識や感覚などの心的現象は物理法則に則った現象の一種にすぎず、人間の技術力に限界さえなければ、いずれは脳神経学によって解き明かすことのできる類のものだと考えている。
しかし、この考え方は重大な問題を秘めている。それは自由意志の問題である。
心的現象が物理法則に則っているのであれば、あなたの「コーヒーが飲みたい」「あの本を読もう」「右足を前に出そう」といった意識はすべて、その直前の脳神経の物理的状態から力学・電磁気学などによって導き出される現象に過ぎない。
そうであるならばあなたの意識と行動のすべては法則に支配されており、自由意志などというものは存在しない。
あなたはこの考えを
あなたの一挙手一投足は脳神経内の原子や分子が物理法則にしたがって動作した結果であり、そこにあなたの意志はない。
あなたがこの文章を読んでいることも、これからのあなたの行動もすべて、ビッグバン時点での素粒子の配置と運動量によってあらかじめ決定されていた事実にすぎない。End
あなたは物的一元論を受け入れながらも、自由意志の存在を肯定する。
すなわち、現代科学では解明されていない領域に、自由意志の存在を受け入れる法則が隠れていると考えるほかない。
あなたの自由意志とはあなたを構成する量子の揺らぎの別名であり、シュレディンガー方程式を自在に操って、この文章を読むと言う物理的行為を成し遂げているのだった。End
あなたは、意識や感覚といった心的現象には、ニューロンやシナプスの物理的挙動だけでは理解しえない、物理法則とは別種の法則が働いている領域があると信じる。
しかし、この考え方は重大な問題を秘めている。それは物理領域の因果的閉包性の問題だ。
物体が物体に衝突して相互作用を起こす時、それは純粋に物理世界のできごとであって、この現象に対して神や霊魂や祈りなどが作用することによって物理的挙動が変わることはない、と、多くの人間に信じられている。
これを適用するならば、心的現象が物理的実体である脳神経や肉体に干渉をおよぼしてその物理的挙動を変えさせることはない、と言うことができそうだ。
あなたは心の存在を肯定しながら、物理領域の因果的閉包性をも肯定する。
すなわち、心的現象は物理領域に干渉されてもよいが、逆に物理領域に心的現象が干渉することはできないと考える。
では、あなたが「コーヒーを飲みたい」と思って実際にコーヒーを飲むとき、あなたの心の動きが肉体という物理的実体を動かしたことにはならないのだろうか?
すべての前提を整合させるには、こう考えるしかない。「コーヒーを飲みたい」という心の動きと同時に、脳におけるニューロンの発火という物理的現象もまた起こっていて、それによって肉体が動作するという物理的結果を招いたのだ、と。
あるいは、心の動きと脳の物理的現象は実は同一のものの二側面と考えても良いし、心の動きは脳の物理的状態に随伴して起こると考えても良い。
いずれにせよ、この立場を取るのであればあなたは自由意志の存在を否定しなければならない。
あなたの一挙手一投足は脳神経内の原子や分子が物理法則にしたがって動作した結果であり、その結果にあなたの意志は干渉していない。
あなたがこの文章を読んでいることも、これからのあなたの行動もすべて、ビッグバン時点での素粒子の配置と運動量によってあらかじめ決定されていた事実にすぎず、あなたの中に確かに存在しているその「心」は、物理的実体に束縛された背後霊のようなものだった。End
あなたは、「物理的実体」なるものが本当に存在すると信じているだろうか?
物理領域の因果的閉包性なるものは、単なる科学主義者の経験則にすぎず、本当は心的現象が物理的実体に干渉を与えて動作させることもできると考える。
今もまた、あなたの霊魂という非物理的実体は、あなたの肉体という物理的実体を操作して、画面をスクロールし、眼球を回転させ、あなたの自由意志のもとにこの文章を読み、それについて何か考えを抱いている。
あなたは、世界とは根本的に心の働きによって成り立っていて、物理的実体、物理的挙動、物理法則なるものはすべて心の働きがあなた自身に見せている虚像に過ぎない可能性を否定できない。
確かに、あなたの目の前にパソコンやスマホがあるといっても、それはあなたの視覚という感覚が伝えてくる像に過ぎないし、触れて確かめようとも触覚が同じことをするだけだ。
あなたは、パソコンやスマホが目の前に「実在」すると断言できない。
あなたの脳は培養液に浮かび、接続された電気コードから絶え間なく信号を与えられている存在に過ぎないかもしれない。
もしくはそんなものもなく、世界などというものは根本的に実在しておらず、観念的な情報が漂っているだけの存在、それがあなたなのかもしれない。
今もまた、あなたの自由意志は、あなたがあなたの指であると思っているものを操作し、あなたが文字であると思っているものを読み進める。
恐れることはない。あなたの実体がなんであれ、あなたという意思の主体が存在すること自体は、他ならぬあなただけは絶対に否定できないのだから。End
しかも高校で習うような力学はほとんどが物の大きさを無視した「質点」の力学であって
これも物体の粘性や弾性、ひずみや変形を無視するため現実に即してはおらず
さらに現実の物体は様々な他の物体と相互作用を及ぼし合いながら運動しているが
理論力学においては質点が3つ相互作用するとともうまともに計算できなくなるという問題も抱えており
究極的にはそれを原子や分子に適用しようと考えると到底考えられる領域ではないため
その辺は流体力学やら熱力学やらでなんとか捉えようとしているがあくまで近似に過ぎないのも確か
結局力学というのは中心に人間の解明できないもしくは原理はわかっていても計算しきれない「真実の力学」があって
それを人間の理解できるように枠取られた様々な典型的な領域に落とし込んで関係ない部分を無視した近似を
古典力学、量子力学、相対論力学、連続体力学、流体力学、熱力学としてなんとかやってきたのだ
XXは立場が強い弱いで研究と1ミクロンも関係ないところで不毛な戦い馴れ合いをやってるよ
プロジェクト:インフラをリプレイスするぞ。利便性を高めるぞ。セキュリティを高めよう
一般的にインテリと呼ばれる人『ぼくMacしか使わないから』『Macでそれできないじゃん。それじゃ困るんだよ』← お家でやろう
なお自称激務の教職と民間企業の転退職率は比べる必要すらないレベル
とはいえ、いくらイヤな辞めろ/イヤな就くな を推奨したところで、真面目系クズは、教職に限らず向いてない職をやりたがるので防ぎようが無い
なので「勉強を教える」以外は教師の仕事では無いとそもそも定義すれば良い。そして自宅でオンライン学習にすればいい
おわり
そろそろ方向性が見えてきたので、今見ているアニメの感想をメモ。今季みゃー姉みたいなみゃー姉多くない?
思いのほか金森氏人気があって面白いよなと思う。なんか金森氏的なキャラって物語の箱庭に開いた穴を通して鋭い現実が見えてるっていうか、創作物を見てるのになんか心に痛みのようなものを感じるんだよね。それは自分に「金に細かく、交渉して対価をもぎ取り、詭弁で相手を脅し、理想より現実を重視する」ことが欠けていてそれをまざまざと見せつけられているような、「ほれほれ、きちんと生きていくためにはこういう堅実さが必要なんだ」と言わんばかりの圧迫感がある。そういう現実主義者って不気味でどう解釈してよいかわからなくて苦手なんだよね。同じ景色を見ていても見出している価値観が全く違うっていう恐怖感。
もちろん、夢追い人だけじゃだめで現実に着地させてくれる現実主義者がいないといけないのはわかってる。だけれど、とにかく金森氏というキャラを見ていると心の中に不安を覚えるんだよね。
あるいはひょっとして金森氏というキャラについて自分は何か勘違いしているのか。
まあ、そんな心の中の起伏を差っ引いても映像研は面白いアニメと思います。
あと、恋する小惑星の雰囲気ってなんか空気感を表現したいと思ったら、偏差値高い進学校の部活っぽいね。ゆるきゃんとかゆゆ式とかライフル部とかそういうのと比較してってことね。
とりあえず「なんか知らんが気に入らないものを見つけ、反日だー」とわめく。
具体的には「パトラッシュという店のミートローフは犬肉を使ってるから韓国文化で反日」ぐらいカッとんでてよい。
炎上させる。
そして別の標的を探す。
この繰り返し。
傍から見てるとあほだなと思うが、本人たちは求心力を保つために敵が必要だった。
だから、教祖が「反日だ」と認めたものは全力でたたいた。そうでないと追い出されるし、自分が反日として、攻撃されるからだ。
いまのフェミ左翼も、「宇崎ちゃんに巨乳はけしからん」と襲い掛かった。
巨乳は公共の場にふさわしくない乳袋、レイプの記憶がよみがえる、乳袋は奇形、泣いてる、許せない。
そしてとにかく炎上させた。
「それはさすがにねえだろ」とは言えない。
だから、逆に今回「宇崎ちゃんは良くなった」と言ってしまったら、「なにがなんでも肯定しないといけなかった」のだ。
本人たちも「どこが変わってるのか」なんてわかってない。とりあえず「どこが違ったのか本当にわからないオタクはおかしい」
とか言ってる。ただ宇崎ちゃんは巨乳でうざかわいいだけなのだが、「なにも違わない」と言おうものなら村八分になるかもしれない。
この後どうなるか?
たぶん、行動する保守と同じく「馬鹿の集団」として認知されてしまうのだろう。
くわばらくわばら。
自分もやってみよう。ランキングではないのでアルファベット順。洋ゲーばっか。
やることはシンプルで、暴力的だし、ボリュームも多くないけど、エンディングで泣いちゃったよ。
ビジュアルと音楽とシンプルなストーリー性でこれぞインディーズゲームって感じ。こういうゲームをいっぱいプレイしたい。
それにバッドモービルを乗り回せるの楽しいよね。アーカム・アサイラムで「バットマンシミュレーター」とレビューされていた物の完成形。
エリザベス(CV: 沢城みゆき)好き。ストーリーメインのシングルFPSとしては最高峰だと思う。
生まれて始めて子供が欲しいと思った。あのクレイトスが主人公で「人間味あふれる」家族の話なんて思いもしなかったよ。
続編が早く遊びたい。マーベルのおかげて世間的にヒーローとして扱われてるソーをクレイトスさんでぶん殴りたいよね。
フランクリンがいいやつ過ぎる。フランクリンでバイク載ってただひたすらドライブするのが好きだった。
いやもうこれは今も普通にプレイしてるし、今度また新しいDLC出るから入れるか迷ったけどさ。
実はロールプレイがすごい楽しいゲームで、毎度「今度は世界をどうしてやろうかなグヘヘ」とか思いながらプレイしてる。
頭がレドームのメカキリンとかかっこいいに決まってんだろ。トールネックの頭の上にいるのが本当に好きだった。
もし俺が子供の頃にKSPをプレイしていたら間違いなく宇宙飛行士になってたと思う、ってぐらい宇宙へのロマンが満たされる
あと文系だけどこのゲームで軌道力学の基礎を理解した。(いつもの画像 https://naglly.com/archives/2014/04/xkcd-orbital-mechanics.php)
このゲームをプレイするとどうやったら宇宙へ行けるかがわかる。MOD入れて VTOLのSSTOとか作るのも楽しい。
メタルギアシリーズも好きなんだけどさ、俺はMGR:Rがすごい好きなんだよ。
紆余曲折あってプラチナゲームズがなんとか纏めたってゲームだけど、アクションゲームとしてかなりの完成度がある。プレイしていて楽しくてしょうがない。
ボス達がいいよね。サムも好きだけど、アームストロング(物理)も好きだよ。
未だにブラックリーチに行ったときの感動が忘れらんない。世界観はFalloutの方が好きなんだけど、TESシリーズのファンタジーな方が自由な感じでプレイする分には楽しい。
ポーションとか飲むとXXXしたくなって、XXXしないで我慢してると終いには攻撃された衝撃でXXXしてしまうMOD入れてた。興奮した。
こんにちは、生まれも育ちも新潟県民です。上越市出身で、ここ数年は新潟市に住んでいます。
新潟県に観光に来てくださった方々や、移住してきた方々は、口を揃えて「こんなに良いものがたくさんあるなんて知らなかった。もっと上手に全国へPRした方がいい」と言ってくださいます。ありがたいことであるとともに、住んでいる人間としても課題意識は持っていたいところです。
という綺麗事は口では言えるのですが、実際に住んでいると、自分たちはその「良いもの」を美味しく楽しく最大限に享受しておりまして、ぶっちゃけほとんど課題意識というものが湧き上がってきません。外から来た人たちと中にいる人たちにギャップがあるのです。
これは一体どういうことだろう、と考えてみたところ、現状を成立させうる力学についての仮説が自分の中に生まれたので、ちょっとメモしてみます。
解決策の提案ではなく、なんとなく見えている世の中の姿(もしかしたら妄想も含む)を元に現状の追認をするだけの記事なので、あんまり生産的ではなさそうです。
県外の方々が仰るとおり、新潟には良いものがたくさんあります。
パッと思いつくだけでもこれだけありました(新潟市に寄ってるので、他の地域を見れば)。私はラーメンも枝豆もビールも大好きなので、天国です。ありがとう新潟。愛してる新潟。
県民が県内で美味しさや楽しさを地産地消できています。おそらく、ここに問題の切り口があります。
文化や産業が、良くも悪くも県内の人々の間で完結してしまっているように感じられるのです。どうしてこうなったのでしょうか。
私は、「人の動き」と「地理的条件」の2点に原因があるのではないかという仮説を立てました。
今でこそ首都圏への人材流出が問題になっていますが、明治期の新潟県は国内でも有数の人口が多い都道府県でした。次の記事が詳しいです。
「稲作を中心とした第一次産業」という分野において、越後平野、柏崎平野、高田平野の3つの広大な平野を擁する新潟県は、地理的な強みを持っています。上記の記事にもあるとおり、この強みと海運の拠点になったことから、新潟県は賑わいました。
人がたくさんいるということは、多様な文化が生まれます。この頃の賑わいによって、新潟県には豊かな文化を育む土壌が生まれたのではないかと思われます。
さて、単に豊かな文化を持つだけであれば、それを元に隣県と交流していくうちに評判が広がっていったのでしょう。
しかし、残念なことに、新潟県は全方位を海と山に囲まれており、あまりカジュアルに隣県と交流することができません。
海運が盛んだったうちは問題なかったのかもしれませんが、時代の移り変わりで陸運が中心になっていく中で、新潟県が外部と交流する機会は少なくなっていったのでしょう。そりゃあ田中角栄先生も山をぶち抜いて県外への道を切り開こうとするわけです。
そんなわけで、
という、現在まで繋がる新潟県の姿が形成されていったのではないかと思われます。
その結果、文化を地産地消する力学が、とても強く働いたのではないでしょうか。
旨い食べ物が作れたら、他所に持っていくのも大変なので自分たちで食べればいいのです。幸い、喜びを分かち合う隣人はたくさんいます。
良い道具が作れたら、他所に売るのは商人に任せて、自分たちは隣人たちと切磋琢磨すればよいのです。わざわざ山を越えてくる職人も少ないので、狭い街の中でひたすらお互いを高め合うことになったのでしょう。
隣県や都会まで行ってイベントに参加するのは遠すぎて大変なので、自分たちでやろうとしたのでしょう。
こうして、県民が県内で美味しさや楽しさを地産地消する新潟県が、生まれたのではないでしょうか。
わからん……もう俺たちの魂には文化の地産地消が刻み込まれてしまって、PRするというのがどういうことなのかわからなくなってしまった……
地理条件的にふらっと通り道に寄ってもらうことも難しいので、「新潟に行きたい」というモチベを持ってくれた人しか来ないんだろうなと思うと、やっぱり先にPRするしかないんだろうなというのはわかるんじゃが……
なんかもう、俺たち新潟県民が新潟を楽しんでいる姿をガンガン発信していったほうが、いっそ上手く回るんじゃないか。
ちょっと締まらないけど、これだけは言える。新潟県を一番楽しんでいるのは、新潟県民だ。だからみんなも、気が向いたら、楽しみに来てくれ。旅行でも移住でもいい。楽しみに来てくれ。頼むぞ!
順序を入れなければならない理由:
主張 | 反論 | 反論への反論 | 再反論 | 再反論への反論 | |
内因性 | 文章題で出てきた数字をただ順番に並べただけでも点が取れてしまう方式では、本当に子供が理解しているかが見えづらい。また、定められた手順で問題を解くことの練習にもなる。 | 子供と話すなどの方法でも理解度は確かめられる。テストで掛け算の順序を間違えることではじめて子供が理解できていないことに気づくとすれば、そのような教師は無能であると言わざるを得ない。また、定められた手順で解くのではなく、自ら考えて問題を解けるようにするのが教育の目的のはず | 掛け算の順序だけで理解を測るものでは当然ないが、理解を測りやすくする仕組みは当然必要。教師はエスパーではない。思考力は当然必要だが、手順通り問題を解く能力もそれはそれで必要 | 理解度を測るための手段としては不十分であることが分かった。子供が自ら考えて出した式が、授業で教えた順序ではないからとバツされるのでは、思考力を削ぐことになりかねない | その方法だけでは測れないと言っているだけで、不十分との決めつけは一方的。また、文章の意味をよく考えて正しい順序を導くことは思考力アップにもつながる |
重要性 | 文章を読み取って計算を行う力が重要であることは言うまでもない | (反論なし) | |||
解決性 | 順序を正しく書けていない子供を注意深く指導することで、文章を読み取れていない子供に対するケアができる。子供自身、順序を間違えないよう注意深く文章を読み、手順通りに問題を解くようになる | そもそも掛け算が順序通りかどうかで理解度を測れると考えるのが乱暴。「単位があっている方が先」などとパターン化して覚えるだけなので無意味 | それでも、ただ出てきた順に数字を並べるよりは、よく文章を読めていることになる | 結局パターン化して問題を解くようでは、理解度を見るという目的には何ら寄与しない | 「何ら寄与しない」は言い過ぎ。ひとつひとつの試みを「効果が少ない」と言って切り捨てていては、何一つ有効な試みなど存在しないであろう |
主張 | 反論 | 反論への反論 | 再反論 | 再反論への反論 | |
発生過程 | 本来は自然数の掛け算には順序がないのに、嘘を教えているということになる。順序がないものをあると覚えてしまうことは問題だし、また、正しいはずの式を書いてもバツされてしまっては、子供のモチベーションも下がりかねない | まず、誤解があるので解いておくと、自然数の掛け算に順序があるのではなく、文章題を式にする過程で生み出される式に順序がある。その順序は教科書に書かれており、授業で教えている。モチベーションについては、順序を正しく書けるようになった子供を褒めるなどの方法で保つことはできる | 残念ながら、そのような認識をしておらず自然数の掛け算に順序があると考えている教師も多数いる。また、仮にそうであるとしても、文章題を式にする過程は一通りに定まったものではなく、生み出される式も、順序がどちらのものも存在するはずである。合っていても教科書通りでないと認められないというのか。また、掛け算に順序がないことを知っている子供がバツを喰らって、「正しい順序」とされるものにすることで褒められたとしても、バカバカしいとしか思わないであろう。モチベーション低下は避けられない | 算数は数学につながるものであるから、定義を大切にするのは当然である。数学であっても、定義から外れたものを証明なしに使うことはできないはず。賢い子供にこそ、それを理解してほしい | 文章題を式にする過程は形式的なアルゴリズムとしては与えられておらず、式にする手段は単なる一例であるはずである。それを「定義」と言い換えることでローカルルールを押し付けるべきではない。賢い子供は、そのような嘘を簡単に見抜くであろう |
深刻性 | 嘘を教えること、モチベーションが下がることが問題であるのは言うまでもない | 嘘でないことは上に述べた通りであるが。あなたはニュートン力学を教えている先生に「嘘を教えている。相対論と量子論を教えろ」と迫るのだろうか? 教育上の過程として、より限定的なものから、一般的なものへと広げていくことは何ら問題はない | 力学の例は極論である。相対論や量子論で議論するよりもニュートン力学で議論した方が有益な問題は多数あるが、掛け算に順序があると考えた方が有益な問題は一つでもあろうか? そもそも、自然数の掛け算に順序がないことは、小学生でも知っているべきことである | ニュートン力学は、単なる利便性のためだけでなく、教育的な意味もある。順を追って、少しずつ概念を拡張して教えていく。それを「嘘」と呼ぶのは大袈裟。また、自然数の積に順序があると主張しているわけではなく「嘘」ではないことは上に述べた通り | 教科書の記述を「定義」として扱うことへの疑問は上に述べた通り。順を追って最初は式には順番がある、と教えることの教育的な意味自体が怪しい場合には、単なる嘘である。それを見抜いた子供のモチベーション低下は避けられない |
固有性 | そもそも掛け算に順序を入れなければ、このような問題は起きないのは明らか | (反論なし) |
みんなもやってみてね