はてなキーワード: 公立とは
どこにも吐き出せないからせめてここにだけ書き残させて。
夢の内容は
「高校時代の友人と数年ぶりに会って現在の自分の生活や高校生活を振り返りながら談笑する」という字面だけ見れば何ら恐ろしい要素は無い他愛のない夢だった。
その友人との関係性を加味しなければの話だが。
元々面識はなかったが、高2の新学期コロナによる数ヶ月にわたる臨時休校の狭間で行われたクラス替えで同じクラスになり自己紹介で私が「趣味は読書で◯◯◯◯◯と◯◯◯◯が好きです」と言ったのがきっかけで仲良くなった。
自己紹介が終わって自由に席移動して気になる人と話していい時間になった時、私は元々友達が少ないためクラス内に友達がいないこと、そして他人に執着しない性格だったこともあり手持ちの本を読んでやり過ごそうとした。
すると、「ねえ、◯◯◯◯◯好きってホント?わたしも好きなんだ〜」とみらいが話しかけてきた。
第一印象は「綺麗だな」だった。
二重まぶたに通った鼻筋、光を湛える黒目がちの瞳、細く白い腕、赤い唇。
どこをとっても絵に書いたような美少女だ。
◯◯◯◯◯は私達の世代が好んで読むような作家ではないので本物の読書家だということは問わずとも明らかだった。
その後時間の許す限り◯◯◯◯◯や他の好きなこと、部活などの話をした。
その日の下校の時にはどちらともなく先生の目を盗んで校内でスマホの電源をつけ、LINEを交換するほど意気投合していた。
その日からは臨時休校で暇を持て余していたこともありほぼ毎日のようにLINEでいろいろな話をした。
初めて話したときからなんとなく感じていたが、みらいは私と思考パターンが似ていた。
そして学力もほぼ差が無かった。
得意な教科の話になったとき時、二人とも同じ教科を挙げた。
その教科は私が1年の間たった1度だけ1位を名も知らぬ誰かに明け渡してしまった教科だった。
まさかと思いながら「もしかして1位取ったことある?」と返信した。
すると、「もしかしてずっと1位だったの◯◯(増田の下の名前)だったの!?私、1回だけ1位取ったことあってその回以外はずっと2位だったの!」と返ってきた。
こんなことってあるのかと思った。
それと同時に彼女のは切磋琢磨しあえる良い関係になる予感がした。
それとともに私の中には負の感情が巣食いはじめた
初めて遠隔ではない担任の授業を受け、二人で談笑しながら教室へ向かっていると、担任から話しかけられた。
「増田に新川(みらいの苗字)(仮名)!お前ら1年の頃から同じクラスだったのか?」
担任にはそれぐらい仲がよく見えたのだろう。
「違いますよ〜!担任なら前のクラスぐらい把握しておくのが筋ってもんじゃないですか〜?」
とみらいが軽口を叩いているのを横目に見ながら私は内心嬉しくて堪らなかった。
こんな美少女と対等な友人関係を築けていることが他人の目から見ても明らかなこと、私はその事実に歓喜した。
その日、授業が終わると担任がロッカーを整理しているみらいの所へ向かうのが見えた。
その数秒後、廊下から二人の笑い声が聴こえてきて、今度は私のもとに担任がやってきた。
「ごめん。新川を増田だと勘違いして声かけちゃった。だってお前ら背丈といい雰囲気といいなんか似すぎなんだよ。」
だった。
信じられなかった。あの美少女を私だと見間違えるなんて。
それなのに見間違えるなんて許せない、彼女の美に対する冒涜だとさえ感じた。
きっと委員会の連絡か何がだったとは思うが、担任のその後の言葉が頭に入ってこないほどの衝撃だった。
担任と会話したあとチャイムがなったので自分の席に戻るともう一度さっきのことについて思索を巡らした。
そこで私は気付いてしまった。
私がおかしいということに。
普通の人間なら心の中で喜ぶべきことを私は赦されないことだと感じて、しかも怒りさえも感じた。
どう考えてもおかしい。
他人に執着しないはずの私が、彼女には彼女に対しては何故かこんなに心を掻き乱されている。
もう手遅れだった。
その頃にはもう彼女への、そして彼女の美に対する感情はもはや信仰の域に達していたことを、その時ようやくわからされた。
休み時間になると彼女の方から私の所へやってくるのが当たり前だった。
その美しさや性格から友達は多いが、その数多くの友達の中で私のことを選んでくれた。
それが私にとっては至上の喜びだった。
クラスメイトが
みらいは
「まぁね〜」と当たり前だとばかりに返答していた。
そんな彼女の自己肯定感の高さがこの上なく好きで、でもそんな彼女が眩しかった。
彼女が他のクラスメイトの「かわいい」と言われる時、私はいつも息苦しかった。
当たり前だ。わかってる。私が彼女より醜い事は私自身が誰よりも知っている。
決して表には出さなかったが称賛を全てほしいままにしている彼女が横にいると気が滅入ることも多々あった。
それでも私は彼女と一緒にいた。
二人でいる時だけは、その美しい瞳に私以外は映らないから。
もちろん全ての行動を共にした。
一日目は某県の某資料館へ2学年全員で向かった。
手が触れたのを契機に、どちらともなくお互いに指を絡めて相手の震えを感じながら暗い館内を歩いた。
私は手汗が出やすい体質なので1度手を解こうとしたが、
「怖いから話さないで」と小声で訴えられたので逆らえるわけもなく結局出口までそのまま向かった。
私がお土産を見繕っていると、みらいが
「ねえ、◯◯こういうの好きでしょ?」といきなり声をかけてきた。
彼女の指差す先には、色とりどりの硝子でできた美しいエジプト香水瓶(中は空)があった。
凄く綺麗……とつぶやくと
「全部一点ものらしいよ!せっかくだからお揃いで買おうよ!」とみらいはもう買う気満々でその手の中には桜色の香水瓶が収まっていた。
私は彼女のそれとデザインの一部がよく似た空色の香水瓶を選び二人でレジへ向かった。
なかなか量が多く、少食気味なみらいは食べきることができるのかと心配になったのでそれとなく隣にいる彼女を見やるともう限界という顔をしていた。
「これとこれ食べれる?」と言ってきたので有り難く拝借した。
それで終わると思いきや、デザートでミニケーキの二種盛りがやってきた。
私はぺろりと平らげたが、彼女はどうしても最後の一つが食べられないようだった。
そして
「ごめん。これ食べれる?」と聞いてきた。
私はうんと言おうとしたが、
私の食器やフォークはつい先程席を巡回しているホテルの方に回収されてしまったので食べる術がない。
手で食べるのははしたないしと逡巡していると
「はい、あ〜ん」
同じテーブルの生徒の視線が彼女の手と私の顔に集まり、恥ずかしさで頬に熱が走るのを感じた。
いつまでもこのままではいられないと思い、覚悟を決めて顔を近づけ、食べた。
修学旅行でそんなことが起こったため、その後の学校生活ではクラスメイトに彼女との仲をからかわれることも増えた。
「なんかみらいちゃんと増田さんって二人だけの世界?っていうか独特な空気感あるよね〜」と言われたりなんかもした。
今まではそう感じたことは無かったがあの修学旅行を経ると確かにと思う自分も居た。
その関係に心地よさを感じる一方、今振り返ればどこか嫌悪感があった。
念のため言っておくと、私は普通の女だ。
小中学生の頃は普通に男子と付き合っていたし、好きになるのはいつも男だった。
でも共学は嫌いだった。共学の女が嫌いだった。
あらぬ噂を立てて私と彼氏を引き離そうとする、そういう汚い女が大嫌いだった。
「女子校は本当に生きやすい。男がいないとそういう争いとかもないし。」と聞いていたのもあり必死に勉強して女子校に入学した。
秘密の花園なんてのは空想だけれど、進学校だったこともあり皆自分が一番大切だから自然と無駄な争いを避けるようになっていたから本当に生きやすかった。
今思い返すとというより当時から薄々感じていたが、みらいはボディータッチが多かった。
1日に少なくとも2回以上はハグしてくるし、堂々と人前で手は繋ぐし、とにかく距離感がおかしい。
最初こそ戸惑っていた私も仲良くなるにつれて気にしなくなってきたものの、時折嫌悪感に近いものを感じることさえあった。
でも、やめてとは言えなかった。
2年の3学期になって3年生0学期なんていう進学校あるあるワードが教師の口から出始める中、彼女との関係が変わった(と増田が勝手に思っている)出来事が起こった。
その前の記述模試から国数英3教科に加えて理社科目が追加された。
2年最後だしここで一つ頑張ってあの教科でみらいに勝ちたいと密かに思っていた。
毎晩負けまいと勉強して迎えた本番。
習っていない範囲もあったが自分で勉強してカバーした分自身はあった。
3月、結果が出た。
私はその教科で全国一桁の順位を取った。
模試の順位は掲示されるので早速見ると、みらいは私のすぐ下の段にいた。
私は勝ったと思う前に彼女の不調が気になった。
トイレに行っていたみらいがこちらに来て順位が張り出された紙を見ると
「やっぱり◯◯はすごいよ、」と一言言って自分の席に戻っていった。
その日は話しかけてもどこか上の空だった。
次の日、彼女は休んだ。
心配で休み時間隠れてスマホを起動させ、LINEを開いてメッセージを送った
すると数分後
こんな時まで謝ってくるのが彼女らしいなとその時は思った。
次の日予告通り彼女は帰ってきたが、いつものボディータッチは無いしなんだかひどく静かだった。
結局2年の終業式の日まで彼女はずっとそんな感じだった。
3年になるとクラスが離れた。
前はあんなに同じクラスがいいと思っていたのに、最近の彼女の煮えきらない態度をあまり好ましく思っていなかったので実際の所は
嬉しさ7割悲しみ3割といったところだった。
しかしその思いはすぐ覆された。
一つがクラスメイトの私に対する反応だった。
2年の時みらいと私ともう一人のクラスメイトの3人でたまに会話することがあった。
3年に進級してそのクラスメイトとはまた同じクラスになったので声をかけると
素っ気無いそぶりですぐ別の友達の所へ向かっていった。
そこで私は気付いてしまった。
結局私は彼女が隣りにいなければ価値のない、何も特別なところなどない人間だと。
みらいとはクラスが2つ離れていたため頻繁には話すことは無かったが、たまに会話するとそれはそれは惨めな気持ちになった。
私にとっての彼女はたった一人の心を許せる友人だった。
けれど彼女にとっては大勢の友達の中の一人でしか無いという事実に串刺しにされる気持ちだった。
私にはポテンシャルがあることを教えてくれた。
それだけに縋って、今までの人生でやったことのないぐらい死ぬ気で勉強した。
その成果は存外早く出て6月の模試では早速学年1位に躍り出た。
この結果には教師陣も驚いたのか露骨におだててくるようになった。
それをあしらいながら只管勉強した。
7月、もう何ヶ月もLINEなんて送ってこなかったのにみらいから急に連絡が来た。
良かったらうちの部室くる?」という内容だった。
3年に入ってからは画塾にも通い始めたと聞いた。
彼女には夏休み中特別に部室の一角を占領する権利を顧問からもらったらしい。
私はその誘いにあっさり乗った。
彼女と実質二人だけで過ごせる時間をみすみす手放す訳がなかった。
夏休み、みらいの部活の日はみらいの部室で、それ以外の学校開放日はひたすら教室と図書館で勉強をする日々が始まった。
部室ではみらいが自分の背丈ほどの大きさのキャンパスにひたすら油性絵の具を塗りたくっていた。
正直油性絵の具の匂いは苦手だったが、みらいと同じ空間にいる方が大切なので我慢した。
他愛のない話をしながら、彼女は絵を、私は過去問をそれぞれ仕上げていった。
そんな夏が終わると、また連絡を取る回数が減った。
それもそのはず、彼女は推薦と一般で美大を受験するため、画塾に通うだけでなく面接の練習なども必要になったからだ。
私はただ勉強していった。
この頃には志望校の偏差値を大幅に上回る成績を取れるようになってきた。
冬がやってきた。
そんなことを思いながら夜食で出されたホールケーキの残りを頬張りながら勉強していると突然LINE電話がかかってきた。
みらいだ。
修学旅行でまわったとこ、また二人で全部回ろう」
みらいは電話越しにそう言った。
私が
と言うと
突然そんな提案をしてきたのには驚いたが、その約束は私を鼓舞した。
かつて無い手応えを感じた。
自己採点をするとこれまで取ったことのないほどの高得点だった。
みらいは家の都合で国公立しか受けられないと言っていたから3月にならないと結果は出ない。
式が終わってもみらいの元へ向かった
「◯◯、待ってた」
そう彼女は言った。
「写真撮りたい」
自分の顔面に自信が無い私はせっかくだから二人で映ろうよと言って彼女のスマホを借りてツーショを撮った。
案外あっさりした別れだった。
そのときはそれでいいと思っていた。
その日、LINEで彼女のスマホで撮った写真が送られてきたのを最後、彼女からLINEが送られてくることは無かった。
彼女の志望校の合格発表日が過ぎても連絡が来なかったので、私はある決意をした。
整形をする決意を。
幼い頃から親に「醜い顔で産んだから整形代は出すよ。ただし、高校を卒業したらね」と言われていた。
今こそその時だと思い、すぐカウンセリングの予約をし、施術プランと日程も決まった。
私の思い一重は施術とダウンタイムを経て左右差のない整った二重になった。
私は私で上京したので新しい暮らしと新しい環境に慣れるので精一杯でみらいに連絡している時間もなかった。
「かわいい」なんて言われるようにもなった。
やっぱり美は正義だなと感じた。
前期は友達と遊んだりテストやレポートと格闘している間に過ぎ去っていった
夏休みも終わりに差し掛かった頃、ふとみらいのことを思い出した。
数時間後、数日後、数週間後。
待てども待てども返信が来ない。
それどころか未読無視をされている。
プロフィール画像などは変更されているからLINEを見ていない訳では無いだろうに。
しかし私は今でもふとした瞬間にかつての彼女を思い出してしまう。
いつだっただろうか。
私とみらいはあの時担任が言ったように本当に瓜二つだと初めて気付いたのは。
卒業式の後、送られてきた彼女と一緒に写った写真をまじまじと見てみると
私と彼女は鼻の高さ、形、口の大きさ、頭蓋の形が本当によく似ていた。
そう、違っていたのは目だけだった。
私が二重に整形したことで、私の目はぱっちりと開くようになり、彼女の瞳の形そのものになっていた。
今の彼女はどんな顔をしているのだろう。きっと美しさが増しているだろう。
今日見た夢は
みらいと数年越しに会って食事なんかしながら
近況や今までのこと、あの時はお互いをどう思っていたかについて話し合う夢だった。
美しいのは相変わらずだなぁなんて彼女を見つめていると、
「◯◯、整形したの?良いじゃん似合ってるよ」なんて言ってきた。
本当に彼女らしいなんて思っているとアラームの音で現実に引き戻された。
起きて夢かぁと思いながら十数ヶ月ぶりに彼女のLINEを開いたがやはり既読はついていない。
午後、用事を済ませて家に帰って来ると既読がつくはずないのになんとなくまたみらいのLINEを開きたくなった。
その衝動のまま、トーク画面を開き、自分の送ったメッセージを目で追う
「みらい!最近どう?元気?」
見慣れたそのメッセージの上に目を向けると、そこにはそのメッセージを送った日付が表示されていた。
それを見て息を呑んだ。
そこに表示されていたのは
「1年前の今日の日付」だった。
こんなに都合のいいタイミングで夢に出てくるほど彼女の幻影をいつまでも追いかけている自分が心底恐ろしい。
という話。
醜形恐怖症にとらわれている奇形界隈の若い子達に伝えたいことがある
・女 02line 大学在学中
・埋没済み
タイトルの通り「奇形界隈に告ぐ 顔整い気にする暇あるなら勉強かバイトしとけ」だ
今中高生の奇形界隈の子は少しでも後悔の無いように過ごして欲しいから読んで欲しい
ガチ顔整いの母親と一重デブスチビハゲ親父から生まれた増田は幼い頃から奇形だった
お遊戯会で眠り姫をやることになったあの日、眠り姫が大好きだった増田は真っ先に眠り姫に立候補した
その後、キッズモデルをやっていた生まれながらの顔整いマリちゃん(仮名)が選ばれたのを目の当たりにし、この世は顔が全てだと悟った
厚い唇 分厚いまぶた 激強蒙古襞
コンプレックスでいっぱいだった
高校生になってTwitterをはじめて、自分のコンプレックスを調べるうちに奇形界隈と出会った
居心地が良かった
なにより自分と同じ感情を抱えながら生きている人がいて安心した
でも本当にこれでいいのか ここに居て良いのかという疑問が湧いた
だっていくら顔整いを気にしたところで変わらないから 自分の顔は
そこから自分の顔をいかに人間に近づけるかに専念するようになった
アイプチが一瞬で白いカスと化すほどの激重一重の増田は埋没で二重になることにした
流石に高校在学中に整形するのは
常に単独行動
授業中指名された時以外は口を開かない
文化祭はシフト時間以外トイレ籠りのガチぼっちだった増田でも無理なことは知っていたから、
自分の子と思いたくないやら川から拾ってきたやら言ってきた分、
罪悪感があったのだろうか
私が志望していた某国公立大に受かれば費用全負担すると言ってくれた
頑張れば整形できると思うとそれ以外のことはどうでも良くなり、
間食を食べたり娯楽に時間を費やさなくなった結果、体重は落ち成績はぐんぐん上がり、学年首席になった
3年になって担任が変わった
「友達いないのはどうかと思うけど勉強だけして実績をウチの高校に残してくれればいいよ」
という旨の声掛けを初面談の時にしてきたのでより一層勉強だけに意識を傾けることができた
模試のたびに偏差値も全国順位もぐんぐん上がり「これはイケル」と思えるようになってきた
埋没ができるかもしれないという状況に
ハイのようになっていたのだろうと今では思う
「増田さんって狂ったように勉強してて怖いよね。」と言われていたのを覚えている
たったそれだけのために社会性も何もかもかなぐり捨ててとにかく勉強していた
そして無事に共テと二次を突破し念願の志望校合格と埋没の費用を掴んだ
合格したその日にカウセの予約をした
極厚まぶたは脱脂と3点止めでようやく人並みの二重になることが分かった
料金プランは取れることも想定して念のためかけ直しアリのプランを選んだ
数日後施術をした
笑気麻酔を吸うと視界がサイケデリックなレインボーに包まれ全身が高揚感で満たされた
正気が戻ってきて
薬吸うとこんな感じなのかなとか思っていたら
急に現実が襲ってきた
痛くて呻いていると
「もっと吸って!」と声をかけられた
どうやら息を吸うのを止めていたようだ
やっと人間になれたという喜びで涙を流れた
ダウンタイムは軽めで済んだけど想像以上にダウンって感じで少々病んだ
大学の入学式の頃にはまるで生まれつき二重だったかのようにナチュラルに良い感じの幅になってくれた
顔がようやく人間になれたという事実は想像以上に増田の心のささえになった
入学式隣の席の顔整いに意を決して話しかけると普通にニコニコしてくれた
それだけで今までの人生が救われた気さえした
やっぱ人生顔だなと再認識するとともに、やっと人間になれたから今度こそまともな社会性を持って暮らそうと決意した
すると中学時代、部活に入って即退部したのが信じられないぐらいサークルは楽しくて、一緒にご飯を食べたり遊びに行くような友達もできて、人生大逆転した
今は毎日楽しく生きてる
長文すまん
結局どれだけ綺麗事を言っても顔の良さと社会の優しさは切っても切り離せない
だからこそ、若いうちに容姿によるハンデをカバーするための学力や特技は伸ばすべきだし、
整形願望があるなら親を説得したり
その時間を勉強やバイトに充てて、将来の自分が幸せに歩いていくための道の舗装をしよう
終わり
クラスにSAPIXに通う優等生から知的グレーの子までいる。知的障害には明白なボーダーラインがあるわけではなく、黒に近いグレーから白に近いグレーまである。
小学校の学習内容は1年生から等量ではなく、4年生くらいから急激に難しくなる。俗にいう小4の壁。
算数でいうと分数や少数が出てきて、四則演算をやっていればよかった低学年とは異なる。
うちのクラスのグレーの子は低学年でも勉強は怪しかったが、4年生以降は壊滅的だ。
一方で、トップクラスの子はSAPIXに通い、中学受験に向けて周りと隔絶した学力をつける。
圧倒的な学力を持つ子は不遜な態度を取るようになる。優越感だろう。
この地区は高級住宅街なので、外国人は少ないし、問題も起こさない。区によって苦労は違うだろう。
公立小はこのように能力的にかなり格差がある子達が同居してまわっていく。
この子達が中学→高校→大学と進むに従ってこの周囲の格差はなくなり、均質な周囲との付き合いになっていく。同レベルな人たちしかいなくなる。
初めてここに文章を残してみる。
改行がどうだとか、段落の後は1マス空けるとか、そういう文章上のルールは一旦無視する。
俺はもう30になる。
人並みの一軒家を購入した。
クセのない、みんなが頭の中で思い描くような。
仕事についてもなんだかんだで
しかし、俺は満たされているのかと問われれば
素直にYESと言えなかった。
少し生い立ちを振り返る。
自分で言うのも憚られるが、
俺はきっと優秀な子だったはずだ。
進学して部活を始めた。
バレーボール部に入部した。
バレー部に入ったのは、
やることになったからだ。
サッカー部には入らない子が多かった。
籍がクラブチームにある子は
全国ベスト8まで行ったし
それと同時に、片手間のバレー部では
ジュニアオリンピックの県選抜に選ばれた。
それは当然驕りであり、
でも、そんなことが15歳の中学3年生に
出来るわけがなかった。
スカウトが来ていた。
当時は漠然と思っていた。
そうはならなかった。
怪我でも何でもなく、
チームとしてではなく、個人として。
アニメオタクとして3年間を過ごした。
器用貧乏だった。
器用貧乏というには、少し器用すぎた。
まともにできないレベルだったら?
もっと早くに諦めがついて、新しい道を探せていたんじゃないのか。
先にも述べた通り、俺は今それなりの生活を送っている。
それでも、後悔や過去への想いが絶えない。
ここまで読んでくれた人たちが言いたいことはわかる。
きっと俺は何者にもなれない凡人だ。
何回繰り返してもそれは同じなんだ。
俺と同じような思いをしてる人もいるだろう。
これから俺と同じような思いをする人もいるだろう。
それは、「お前たちは凡人だ。早めに見切りをつけて、優れた凡人になれ。」ということじゃない。
お前たちが仮に凡人だったとしても、
やれるところまで突き詰めて、
本気で何者かを目指してくれ。
そうじゃないと過去に思いを馳せるだけの凡人になる。
何者にもなれない。
ということだ。
俺は幸せな凡人を目指していく。
まともな英語動画を見て「俺の英語嫌いって、教わり方のせい?」となり始めてるワイ。
いやこういう意見言う人めっちゃ多いけどバカじゃないのかなと。
学校の先生が悪かったらそれで人生詰むんか。だったらなんで受験勉強頑張らなかった。
学校の先生が悪かったら自分でいい参考書探して勉強すればいいだろ。
どうせ学生の時は「英語が勉強できない別の理由」を思いついてただけだろ。
「子育ては大変、お金もすごいかかる」というけど、実際のところは自分たちで勝手に大変にして、勝手にお金をかけているんだよな。
習い事に金かけすぎだし、掃除や洗濯も頻繁にしすぎているし、きれいな弁当をつくりすぎだし、子供に綺麗な服を着させすぎ。日本の母親はすべてのことについて「やりすぎ」ている。実際、欧米の育児事情を検索すれば、いかに「いい加減」かがわかる。
日本は私立大学や医学部さえ目指さなければ、公立の保育園・幼稚園、小中学校、高校だけで教育を済ませれば、子どもの教育にはほとんどお金はかからないようになっている。児童手当も増えている。「子どもの教育にお金がかかる」は、それ以上のものを目指しているからであって、そこからは各家庭の自己責任だろう。
親は「だって周りもそうしているから」っていうんだろうと思う。それはよくわかるけど、周りに合わせていることは自分の選択であって、「子育ては大変、お金もすごいかかる」ことを世の中の問題にすべきではない。
産後一週間。
予想外の背中スイッチに、1日中赤子を抱きかかえていなければならない状況に陥った。
これは無理、と思い、実母をヘルプに呼ぶことにした。
今になって思えば、睡眠不足で正常な判断が出来なくなっていたと思う。
実母がソファーで娘を抱っこしていた。
抱かれた娘はすやすやと眠っていた。
実母が口を開いた。
「ねえ、お金、ある?」
自分の中の糸がピンと張った気がした。
睡眠不足で正常な思考ができないはずなのに、この時ばかりは感覚が研ぎ澄まされた感じがした。
いやに冷静だった。
その言葉の意味が「金がないから金を貸せ」なのはすぐに理解できていた。
私の家庭は、いわゆる逆転夫婦で、妻である私が稼ぎ頭の共働きだ。
産休に入ると一時的に給与はなくなるし、育休手当には上限があるため、計算額通りよりも少ない金額しかもらえないことが分かっていたため、
手元のキャッシュを増やしておいたところであった。
かといって、実母に貸す義理はないのだが。
実母は、黙ったまま、娘の顔を見ながらうつむくだけだ。
金額に回答しようとしない。
冷静だった私の心に、怒りがわいてきた。
産後1週間、これからお金がかかることが分かりきっているこの状況で、
私はなぜ実母に金の無心をされているのだ?
目の前の娘を見つめる実母の視線が汚らわしく思えて、すぐにでも娘を奪い去りたかった。
「黙ってちゃわからないじゃない。何とか言ったら。」
「…10万くらい」
「…30万」
また実母が黙った。
怒られそうになると、すぐ黙る。とにかくその場をやり過ごそうとする。
私は実母のそういうところが許せなかった。
両親は別居しており、私は実母の実家で、6歳下の弟とともに祖父母に育てられた。
父親が養育費を渡さないから、お母さんは借金してお前たちを育てるしかなかったんだよ、と。
実母は、父親の家庭に入ることがとても嫌で、私たち子どもを連れて勝手に実家に帰っていた。
父親は転勤ありの公務員だったため、迎えに行くこともできず、養育費は祖父母に拒否されていた。
私たちの幼稚園の学費やその他食費などはすべて年金から祖父母が賄っていた。
実母の借金は、実母の遊ぶ金と交際費に使われていただけだった。
しかし、自己破産をしたことで、実母は安易にお金を借りられなくなった。魔法のカードはもうない。
だが、ブラックリストは10年もあれば真っ白になってしまうのだ。
うかつだった。また実母は魔法のカードを作って借金を重ねていた。
沈黙が続いている間に、いろいろなことを思い出した。
前述した昔の話や、そういえば大学時代にも10万貸して、という電話がかかってきたなあ、などとぼんやり思い出していた。
それでも実母は話す気がなかった。
また私の娘に視線を落とし、とんとん、と手を娘の背中に当てているだけだ。
汚らわしい、やめてよ。
また私の中に怒りの感情が芽生えてきた。
「…」
「なんとか言ってよ。総額が分からなかったら貸すものも貸せないじゃない。」
「わからないの」
「は?」
「いきなり言われたって、そんなのわからないの!」
こんな話を生まれたての娘の前でしたくなかった。
テレビのコウノドリが命の大切さを演出していることが、とても悲しかった。
「弟は知ってるの?」
実母は弟を溺愛していた。弟に言っているわけがないと思いながら、聞いた。
「言ってない。絶対言わないで。」
「なんで弟には言わないの。」
「だって社会人になったばっかりだし、心配かけたくないと思って」
「じゃあ私には心配かけていいってこと?」
「弟も社会人4年目で、きちんと働いてるよね。見ての通り、私は子どもが生まれたばかりで、仕事だって休んでるよね。なんで私ならよくて弟はダメなの?」
「…」
都合が悪くなると黙る。どうせこの繰り返しだ。いつだってそうだ。
公立中学の給食費を振り込まずに使ってしまって、毎回職員室に届けに行った時も。
高校で特待生になり、交通費の名目で支給されたお金を使い切ってしまった時も。
父親が用意してくれた大学の学費を全部使い込み、学費が免除になる国立大しか行けなくなった時も。
いつもその顔をしてたよね、お母さん。
「とにかく、貸すにしろ貸さないにしろ、全部がわからないと行動できないから。弟も含めて借金を洗い出してから対応を決めるから。」
人生で何度目かわからない。どうしてこうなんだろう、という言葉を飲み込んだ。
まともに生きるってなんて難しいんだろう。
総額は600万強であることが分かった。
こんな未来のない身内よりも、将来の可能性がある子どもにお金を使いたい。
そろそろ潮時だな、と思ったので、当時の感情を残しておきたくて書いてみた。
低学歴でも人並みの収入が得られてそこそこ幸せな生活できるようになれば解決する話では?
高学歴じゃないとまともな仕事に就けず低収入でみじめな人生を送ることになる、だから子供を高学歴にするために私学の学費や学習塾の月謝を払わなきゃいけない、その金がないと子供を不幸にするだけだから産まない、ということになって出生率が下がる。すでに子供産んでる夫婦は年収1000万あっても金が足らないから「もっと国が金を出せ」と言い出す。
そもそも「高学歴じゃないとまともな仕事に就けず低収入でみじめな人生を送ることになる」社会がおかしいのであって、そういう社会の方を変える必要があるのではないか。底辺公立高卒くらいでも普通に暮らしていける世の中になった方がみんな幸せになるんじゃないの?
アラサー男の昔話
理由なんてよくわからない。田舎の学校でなんかおどおどしてオタクっぽい俺は虐めやすかったのかもしれない
小学校の時は無視されたり影でプークスクスされたり罵声を浴びせられたりする程度だったが、中学校になって自由になると思ったのに、中学校は輪をかけてヤベー不良みたいなやつらが俺を殴るわ蹴るわ
漫画みたいに脱がされて便所の水を飲まされる、なんてのはなかったが親の作ってくれた弁当を捨てられたりとかはまあ普通にあって(思い出したくないのでこれ以上は止める)
見事に不登校に。
といっても親に心配をかけたくなかったので、毎日学校に行く振りをして学校には行かず近所の橋の下とかでぼーっとしていた
だが田舎のおばちゃんがすぐに見つけて学校に行かないでいいのかとかいいだし学校に通報をしやがるせいで親にも連絡が行きめんどうなことになった
ああいうおばちゃんたち善意なのかもしれないがほっといてくれよ学校行きたくねえんだよ
虐めに遭ったとは言えなかったので親に詰問されても黙っていたが、とにかく学校に行きたくないのは察してくれたのか堂々と学校に行かなくてよくなった。
親は腫れ物に触るようで、理由を言えと言ったが言いたくもなかったし、学校に行ければ行って欲しいとか言われたが行きたくもないし
ネットやゲームしながらぼーっとする毎日でこれではダメだと思いながらも何も出来なくて、妹はダメ兄貴みたいに扱うし、動かないからどんどん太った
家族が寝静まった夜だけが歩き回れたから夜はふらっと夜道を歩いたりしていたがとにかく何もかもするつもりは湧かず、ただこのままではまずいが学校には行きたくない、何で俺を虐めたあいつらはのうのうと学校行ってるんだの恨みだけ
学校に通報しても、どうせまた影で虐められるんだろうしと思うと誰にも言えなかった
夜の散歩をしているときに時々すれ違うジョギングのお兄さんがいて、なんとなくお辞儀をするとこんばんは、と返事してくれてた。お兄さんは大人って感じだったから多分20代くらいかなと今なら思う
たまにであうと、こんばんわ、こんばんわ、と言いつつすれ違うのを繰り返していたがあるときお兄さんが地面に座っていて、ビックリしたので大丈夫ですか、とこえをかけた。
転けて足をくじいたのかも、というので肩を貸して灯りとかのあるコンビニまで連れて行って、ありがとうといわれ、ちょっと話をした
暫くお兄さんの姿は見なくて、一ヶ月位して走ってるお兄さんを夜中に見かけたときはほっとした。
お兄さんが立ち止まって、あの時はありがとう、捻挫しててさ、とお話をしてくれ珈琲をおごってくれたりとかで、時々夜に話すようになった
話相手のいない家族には嫌われている、友達もいない俺にはその夜の会話が嬉しくて、毎日夜散歩するようになった。お兄さんに会えないかなって。
会えば少し立ち話をしたりすることが続いて、お兄さんがどうして夜中にいつも散歩してるの、と聞いてきて、俺は誰にも言えなかった虐めの話をしてしまった
話しながら、あ、ドン引きされるかもどうしよう、と思っていたのに涙が出て止まらなくて泣きながら虐めの話をしていた
お兄さんは、そっかーと言って聞いてくれて、その時は得に何も言わなかったんだけど、その後数回会ったときに、俺も虐められてたんだよって話をしてくれた
俺は思わずどうなったんですか、と聞いたら今はもう大人だから学生時代の虐めなんて関係ないし元気だよと言ってくれた
わからないがすごい頭がいいという話は聞かない、といえば、お兄さんはこういった
「なら増田はとにかく自宅で勉強をしていい大学に入れ。どれだけ虐められていてもこの日本では頭いい奴が勝つし頭がいい奴が信用される。そいつらがバカなら増田は有利だ。誰でも知ってるような超有名大学にいけば、
あっという間に周囲はお前の味方になる。いいか、中学も高校もどうでもいい。大人は大学しか見ない。それこそ中学高校不登校でも東大に入れば、そいつらよりよっぽど強い」
びっくりしてたら「これは俺の経験談だ」とお兄さんはいい自分の話をしてくれた。
お兄さんは超絶エリートのお兄さんだった。
俺は「いじめっ子に勝てる」という言葉で俄然奮起しほぼ不登校のまま高校受験をした
高校は楽しくて、虐める奴もいなくて快適だった。夜の散歩はたまにしたけれど、お兄さんには会えなかった
でもお兄さんの言ったことは覚えていて、高校でも勉強をし続けて、お兄さんと同じ大学に行った。そのまま誰でも知ってるような企業に入って都会で生活している。
幸せだと思う。
いじめっ子達は地元で働いていて、会社がどの辺かもわかったが、俺の数分の一の年収で、なんかもうどうでもいい。
地元に戻ったときに当時の同級生に「すごいね」「不登校だったのに」と言われたら「当時○くんたちに虐められたから学校行けなくて家で勉強してたんだ」とわざと素直に語っている。
もちろん田舎の噂話の伝播力を信じてのことだ。
あの時のお兄さんが「頭がいい奴が信用される」と言ってくれなければ俺は多分今のようになっていない
名前も分かってるし、大学が同じだがあえて探さないようにしていたのに、最近お兄さんがお医者さんなのと開業したのを知ってしまった。
会おうとすればあえる。
でも、今更「あの時世話になった鶴です」といいに行く勇気がない。
俺の事はもう十年以上前で忘れているかもしれないし、「だれ?」と言われたら恥ずかしい。知っていたとしても会いに来るとか重すぎないかと考えてしまう。
でも俺の命の恩人なんだ。