はてなキーワード: 乗数効果とは
《 後日記 》
本記事は、記述が未熟なので批判を浴びました。そこで、改訂版を、別ページに記述しました。そちらをご覧ください。
→ ちきりんの GoToキャンペーン 記事について 【 改訂版 】
以下の通り。(読む必要はありません。)
※ 「擁護」という言葉に噛みつくブコメが多いので、「擁護」を「解説」に改めてもいい。
「今すぐやらないと死んでしまう」というような解説をしているが、それは、今でなくて将来でも同じだ。今すぐ死ぬか、二カ月後に死ぬか、半年後に死ぬか、そんなことはどっちでも同じだ。
どうしても早めにもらいたい、というのがちきりんだが、それは、
「今すぐ四つもらうのが良くて、今すぐ三つではイヤだ」
もうちっとまともに考えるなら、7月と8月は夏休みの需要があるだけ、まだマシだ。苦しくなるのは、第二波が襲いかかってくる、10月以後だ。このころには客が激減する。その時にこそ、政府支援の意味がある。
比較的マシである夏休みの時期に政府支援をしても、下手をすると、需要が供給を上回ってしまうので、金が無駄になる。
ちきりんはこう書く。
コロナ対策費として、その 1兆円をそのまま旅館に支援金として給付しても、旅館の収入は 1兆円にしかなりません。
しかし、
国が1兆円を使って旅行費の3分の1を補助すれば、旅行に使われる費用の総額は、
国が出す 1兆円 + 個人が旅行費として負担する 2兆円 の合計 3兆円となります。
仮にちきりんの言うようになったとしても、その3兆円は、売上げだ。売上げの全部が収入になるわけではない。おおざっぱに、10割のうち、5割ぐらいは原価となって外部に流出する。たとえば、食材費とか、交通費とか、光熱費とか。
残りの5割のうち、3割ぐらいが人件費となって、2割ぐらいが粗利となる。粗利によって、販促費などの経費を払って、残りの1割が利益となる。
結局、3兆円のうち、3割と1割の合計である4割( 1.2兆円)が、労働者の賃金と会社の利益になる。一方、原価の5割と経費の1割という合計6割は、会社の外に流出する。
これらの分も、確かに経済振興の効果はあるのだが、それは必ずしも観光業を振興するわけではない。地元経済を振興するとも限らない。つまり、本来の「観光業の支援」とは別の分野に流れるわけだ。
その金は、無駄になるわけではないにしても、本来の狙いの分野とは別の分野を振興することになる。
以上からわかるように、決して「1兆円の3倍の3兆円の経済効果」があるわけではない。実際に観光業に回るのは、4割の 1.2兆円程度だ。
「それでも元の1兆円よりはマシだろ」
と思うかもしれないが、さにあらず。GoToキャンペーンで1兆円を払ったからといって、それで3兆円の需要が丸々増えるわけではない。もともとある2兆円ぐらいの需要が3兆円ぐらいにふくらむだけだ。この「キャンペーンがなければ需要がゼロになる」というわけではない。「コロナが収束すれば旅行をしたい」と思っている人は大勢いる。そういう人は、キャンペーンがあってもなくても旅行するのだから、「キャンペーンによって増える純増の分」は、3兆円にはならないのだ。
この分を差し引くと、実際には、1.2兆円の増加にはならず、その半分の 0.6兆円ぐらいの純増に留まりそうだ。
それだったら、観光業だけを狙って、1兆円をそのままばらまいた方が、よほど有効だ。
《 加筆 》
という意見がある。なるほど、そう思う人も多いだろう。
だが、観光業の周辺に金が回るということは、その分、観光業に回る金が減るということだ。それでは肝心の観光業を救う分が少なくなる。
効果をなるべく広げたいのならば、国民全体を対象に、「一律給付金」を再度実施すればいい。同じ金額を国民全員に配れば、1人1万円ぐらいをもらえる。その方が効果的だろう。(広く、という点では。)
ともあれ、観光業の取り分は、GoTo ならば 0.6兆円 で、直接給付ならば1兆円だ。観光業を救うという目的のためならば、同じ金額でも、直接給付の方が効果的なのだ。つまり、ちきりんの算術は成立しない。
( 1兆円に対して3兆円の効果がある、という説は成立せず、1兆円に対して 0.6兆円の効果しかない、ということ。)
──
乗数効果について言及している人がいるが、乗数効果は、補助金だけにあるわけじゃない。直接給付の場合にも、乗数効果はある。どっちも似たような効果があるので、言及しなかっただけだ。とっくに考慮済み。
「乗数効果」という言葉を知ったばかりの素人の出る幕じゃない。
というのがちきりんの理屈だ。それは、わからなくもない。が、だとしても、このキャンペーンが本質的には「貧富の格差の拡大」「金持ち優遇」に当たる、ということは理解しておく方がいい。
だいたい、ちきりんの理屈で言うと、「一律 10万円の給付」をやめて、「金持ちに限って多額の給付をして、貧乏人には給付をやめる」というのも、許されてしまう。
※ 所得税の減税ならば、そうなる。
もう、メチャクチャだね。
ちきりんは何やら弁解しているが、「経済を回すこと」ばかりを優先して、「感染の拡大を止める」ということをまったく失念している。
「金よりも命が大事」という発想がないんだね。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。もうちょっと常識のある人かと思ったが、今やスーパースプレッダーも同然だ。日本中をコロナだらけにして、ロックダウンにして、経済を全面ストップさせることを狙っているとしか思えない。
というふうになるのを狙っているんだね。
ここでも理屈は同じ。猿と同じで、目先のことしか考えられない。感染が拡大したら、日本中の経済がストップするということを、理解できていない。
政治力は関係ない。単に(方針を決めた)菅官房長官が馬鹿なだけだ。「馬鹿(菅官房長官)に政治力がある」だけのことだ。
→ 「それはダメ」菅氏一蹴の1都3県案 東京だけ除外の裏:朝日新聞
※ ふるさと減税と同じ構図。
あんたの頭だよ。
──
そもそも、観光業が可哀想なら、観光業に金を出せ。ひるがえって、客に金を出しても、客が得をするばかりで、観光業の方には金があまり回ってこない。客ばかりが得をするような制度では、金を出す方向が間違っているだろう。
可哀想な観光業に金を出すのでなく、観光業を利用する金持ちにばかり、集中的に多額の金を出す。金を出す方向が間違っている。
根源的には、GoToキャンペーンは、一切必要ない。最優先の課題は、感染者数を減らすことだ。感染者数がゼロ同然になれば、GoToキャンペーンなんかやらなくても、夏休みには自然に大量の観光客が戻る。1円も使わないで、3兆円以上の効果が出る。
そして、そのために大切なのは、「感染を減らすこと」という目的を実現する手段である。それは、「多人数会食の禁止」と「マスク義務化」だ。この双方を実施すれば、東京都では感染者が激減するだろう。
しかるに、現実には、この双方が実施されていない。そのせいで、感染者数が急増する。こんな状態で GoToキャンペーンをやっても、「旅行すれば、旅行先で感染する」と思う人が、怖がって、旅行したがらないだろう。出した金が無駄になる。
そもそも GoToキャンペーンは、一切必要ないが、仮に実施するとしても、コロナが収束したあとのことだ。それならば、人々が安心して旅行に行けるので、金を出したことの効果がある。
実際、政府はもともと「コロナが収束したあとに GoToキャンペーンを実施する」と言っていたはずだ。その当初の方針をひっくり返して、「感染拡大のさなかに GoToキャンペーンを実施する」というのは、狂気の沙汰というしかない。
それに気づかない人々にも呆れるばかり。馬鹿げたことばかりをやっても、ただの無駄だ。 損じゃね?
【 関連記事 】
https://anond.hatelabo.jp/20200718000431
【 追記 】
ブコメに答える。
salon_hiyake ちきりんの文章だと、現状こういう風になっているよね、という分析ばかりで、それが良い悪い、の判断は入れないようにしてると読めるのだけど。
codingalone さっと読んだだけだが、わりとフラットに書かれてると感じたがなぁ。擁護してると思うのはちきりんに対して特別な感情があるからじゃないの?
gomisute44 あれって擁護なの? あれは傍目から見て気狂いとしか思えないGoToキャンペーンを何故強行するのかを役人視点から解説した記事で、それ自体の善し悪しを語ることが主題ではないと思った
Outfielder ちきりんさんの話を「GoTo擁護」として理解してしまうような歪んだ読解力と、敵認定した連中が出した施策はとにかく悪口を言うという党派性思考とはワンセット
この記事の冒頭で「擁護」という言葉を使ったのが引っかかってしまったのだろう。「擁護」というより感情を込めずに、「 GoToキャンペーン否定論に対して、GoToキャンペーンを肯定する趣旨の解説」と言った方が良かったかもしれない。
指摘された「何故強行するのかを役人視点から解説した記事」というのは、たしかに、それはその通りだろう。
とはいえ、「何故強行するのかを役人視点から解説した記事」というのは、それ自体が擁護になってしまっている。なぜなら、「役人視点から解説した」というのは「黒を白と言いくるめるようなもの」つまり「虚偽」であるからだ。
旅行推進で感染が拡大すれば、ロックダウンで全国経済が麻痺しかねない、という危険性を隠しているのもそうだ。
夏には救われても秋になればまた恐慌状態になるというのを隠していることもそうだ。
要するに、真実を隠蔽して、ありもしない虚偽を吹聴する。「今さえしのげば、あとは大丈夫」という虚偽を吹聴する。こういうふうに嘘ばかりを書いて真実を記さないのだから、ちきりんの話は、ただの政府の太鼓持ちというしかないだろう。
結局、上のブコメの人たちは、詐欺に引っかかっているのも同然なんだよ。詐欺師の口車にだまされるのと同じ。「儲かりますよ」と言われて、ホイホイと金を出して、大損する。
そして、その詐欺師の口車を指摘しないで、「詐欺師の口車は正しい」というような解説を書く人は、詐欺師のお先棒をかついでいるのも同然だ。
ここでは「解説を書いているだけだ」というような逃げ口上は成立しない。「詐欺師のお先棒をかついでいる」とはっきり指摘するべきだ。つまり、「ちきりんは嘘つき政府の嘘を正しいものとして解説することで、詐欺師の嘘に加担している」と。
──
なお、擁護かどうかなんて、どうでもいいことに噛みついているのが、ブコメだ。
擁護かどうかは、話の論旨じゃない。「擁護」という言葉は取り消してもいい。冒頭に記しておこう。
> タイトル変えて公平ぶるのずるくね?
と書いている人がいるが、タイトルは変えていません。
本文を含めて、削除した箇所は一つもありません。加筆した箇所があるだけです。
──
それより、タイトルと言えば、ちきりんのタイトルは「 Go to キャンペーン」云々となっていて、To が小文字の to になっている。
こんなところで書き間違えるんだから、ちきりんの理解が いい加減だというのは、明らかだろ。
したがって、議員や公務員に給付する必要はない。経済的に余裕のある人が辞退するのは妥当であり、特に他人が干渉することではない。
まず、経済で人は死ぬ。失業者数と自殺者数の相関を見れば明らかだ。単に「生活が苦しくなる」という話ではなく、人が死ぬ。当然、これは生存権の侵害であり、政策によりこれを救済する必要がある。経済弱者は、今日、資金が付きて死を選ぶかもしれない。一日も早く、生活費を手にする必要がある。だから、一律給付が実施された。給付が一日早ければ、何人か、命が助かる可能性がある。だから、多少給付金額が無駄になっても、対象を選定する手間をかけず、一律給付したというだけのことだ。「生存権が侵害されている」とまでは言えないレベルの人は、給付金を受け取ろうが辞退しようがどうでもいい話だ。逆に、「生存権が侵害されている」と言えるレベルの人に対し給付金額が増えれば、それだけ助かる命が増える可能性がある。
ここで、日本政府の財源は限られている。もともと財政難で、どこにも金は余っていない。昔の日本なら、国債発行と経済成長でなんとかできただろうが、衰退国家では不可能だ。成長国家では、借金はするだけお得だ(例えば、100兆円の借金は、7%の成長を続ければ,10年後には50兆円相当の税で返済できる)が、衰退国家ではその逆だ。つまり、今年使った金額以上の増税が将来的に必要になる。全ての課題に対し「国家が金を出せばいい」というのは,非常に危険だ。これからの日本は、新しく何かに金を使うためには、替わりに何かを捨てる必要がある。予算の使い道について、A案・B案を冷静に比較する必要がある。
今、A案は「議員・公務員も含めて一律給付」だ。B案は「議員・公務員には給付しない。その分の財源を貧困層向けの追加の給付金に回す」だ。公務員の給与は原理的に保障されているとはいえ、A案で生活が助かる人もいるだろう。A案は理想的に見える。しかし、B案で助かる命に比べれば、相対的に重要度の低い話だ。目の前の現象(公務員への給付金額)だけでなく、その金で替わりに何ができるか(貧困層への給付金額増額等)を常に考える必要がある。
「コロナ対策を頑張っている公務員や医療関係者にも、報奨金として報いるべきだ」という論点も的外れだ。もちろん関係者に報いること自体は必要だ。一方で、今、急いで一律に報奨金を出す必要性はどこにもない。逆に、時間があれば、報奨対象者を選定することができる。当たり前だが、現在でも大半の公務員はコロナと関係ない通常業務を行っていて、コロナ対策を行っているのは少数派である。報奨金の対象を限定することができれば、その分の予算が浮く。なるべく広く公務員に報いたいという気持ちもあるだろうが、その金で替わりに救える命があるということを理解する必要がある。したがって、一律給付金は報奨金として扱われるべきでないし、公務員を給付対象に含める理由にはならない。
また、一律給付を景気対策だと勘違いしている人も多い。確かに、景気対策として効果があれば、経済死者数も減少するだろう。しかし、経済全体がほぼストップしたこのタイミングで、個人消費が増えたところで乗数効果は小さく、景気対策としての効果は極めて限定的である。この給付金が景気対策だと真面目に考えている人はどこにもいない。もちろん10万円を飲食店で使用すれば、その店自体は助かるかもしれない。しかし、その金の大半はその飲食店の貯蓄になり、日本の経済全体を刺激しない。ここでもやはり、その10万円で替わりに救えた命があったかもしれない、ということが重要だ。
以上を考えると、生活が困窮していない人が、給付を辞退することは妥当である。別に辞退が美徳だとかいう寒いセンスではない。財源が相対的に重要だと考えるから辞退するだけである。別に賛同しろとは思わない。一方で、「辞退は悪だ、同調圧力だ、寄付しろ」などと言って他人が口出しすることでもない(それ自体が同調圧力だと思わないんだろうか)。そもそも、同調圧力程度で「自分も辞退しようかな」と思う程度に余裕のある人は、給付されようがされまいが、最初からどうでもいい話だ。支援団体等に寄付するのもいいだろうが、基本的に支援団体はミクロでローカルな問題に対処することが得意だ。日本全国に多様な困窮がある現状で、支援団体やNPOにお金を渡したところで、果たしてどの程度の範囲がカバーできるか疑問だ。緊急事態に国民全体の生存権を保障するには、政府の役割が最重要だ。
元増田です。
日頃たいていの誤解・曲解はスルーしていますが、"アホが大量発生"などと、あまりの言いぶりなので言及します。
マクロ経済学の教科書を読めばわかるとおり、財政出動とは公共事業から移転支出まで広く含む概念です。例えば失業給付の増額は典型的な財政出動です。"財政出動の金は企業にしか届かない"とはどのようなロジックですか?生活保護費や失業給付も企業にしか届かないのですか?
もしもまじめに勉強する気持ちをお持ちなら、各財政政策に関する乗数効果は、下記の教科書に詳しいのでぜひお読みください。その上で反論があれば、どうぞご遠慮なく。
Gordon, Robert J. "Macroeconomics: Twelfth Edition" (April 18, 2011) 、Chapter6 The Government Budget, the Government Debt, and the Limitations of Fiscal Policy 、特にP187-P191
このままじゃヤバイと、かなりの人が言っていたと記憶している。
中国のファイアーウォールはクソだと言われ続けたが、結果を見てみると正解だったのではないか。
Googleは日本語での検索は力を入れなくなっている。サービスもアメリカ優先だ。アメリカ人がアメリカ人のために金と人をつぎ込んでいるのだから仕方ない。
広告収入があるからGoogleに反対もできない。ニュースサイトもGoogleを取り上げる。
Androidに振り回され、開発端末すら国内で入手できない状況もあった。
Amazonの影響で、リアル書店がなくなりアメリカの後を追っている。通販も日本はあまり力を入れていないように思える。
AWSのほうが影響は大きいのだとは思う。学生からするとAWSを習うほうがいいはずだ。
なんだかんだで、10年スパンで考えると、国内企業でなければ国内のことを考えないのだなと思う。
ビッグデータがアメリカ優位であり、その続きがディープラーニングだった。VR/ARもアメリカ優位だ。
これからコレが来るといったときには、アメリカ企業間の中で話がついている。
税金を投入しようにも、海外にお金が出ていってしまうのだから乗数効果が減ってしまう。
日本では、日本すげーと言われるのは1位を取ったあとでしかない。
クラウドファンディングが何かしようとしている無名の人のためではなく、有名人のものになったようなものだ。そもそも有名人なら他にお金の集める方法があるのにだ。
論がはてなでは主流のようだけどアベノミクスの掲げた理念自体が間違ってるよ派はどうなの?
金融緩和、財政出動、規制緩和が3本の柱だけど、金融緩和は実施済み、財政出動は全くなかったといってもいいくらい、規制緩和はお友達と既存経営者層を利するような緩和くらいしかしていないように見える。
規制緩和はともかく、財政出動さえプライマリーバランスを気にせず、大規模にやっていればここまで失敗の声は大きくなってなかったと思うんだけど、はてなを見ているとこの理念自体が間違っていて、金融緩和すらすべきではなかったといっている人が特に左派にそれなりにいるみたい。
金融緩和すらすべきじゃなかった派、アベノミクスの理念自体が間違っていた派の人には、どうすれば景気が良くなると考えているのか教えてほしい。
あとアベノミクスの理念自体は間違っていなかった派の人にはアベノミクスには何が足りなかったのかを教えてほしい。
少子化対策を兼ねて出産育児一時金を倍額にするとか、クールジャパンを推進するならアニメーターとか漫画かとかの個人事業主に対してお金をばらまくとか、乗数効果は怪しいとは言われてるけど老朽化したインフラの大規模な改修をするとか、そういった財政出動についての意見は見かけることはあったけど、規制緩和についてはあまり見かけなかったので「この規制は絶対なくすべき」とかあれば是非教えてください。
そのために例えばGDPギャップがX%未満になるまでの間だけ資産課税して貯蓄率を下げ、乗数効果を上げましょう、
という話をしたいなら短期の話でいいよ(一応言っとくと実際の政策として良いかは全然別)。
パーっと使えば景気が良くなる云々の記述も成立してると思います。
少なくとも格差が解消するまで資産課税を続けますってことだよね?
GDPギャップとかの長期均衡の指標とは関係なく政策が遂行されるわけだから。
租税特別措置という言葉がいけなかったかな。法律は門外なので俺の語用が間違ったかもしれない。
俺は単に短期的な措置として課税するか(例えばある1年だけ資産に50%課税して次の年からは元通り)、
長期的な制度変更として課税するか(例えば所得税を無くして資産課税をメインにする)、
という意味で使った。
まとめ
これまで経済政策論争として多くを占めたリフレ・反リフレの間の論争が結論が出る前に現実の方がリフレで固まり少なくとも数年は続けられそうになってしまったため下火になり論争の中心が財政政策、公共事業の方へと移ってくるようになった。そこでポイントとなる点を備忘のためにまとめる。
景気対策としての公共事業を否定しても全ての公共事業を否定することにはならない。また公共事業の価値を認めたからといって景気対策としても有効であると認めることにはならないし矛盾しているわけでもない。
公共事業に限らず金融政策にしろ何にしろコストがかかる。ここでいう公共事業のコストとは公共事業によって引き起こされるマイナスの出来事に公共事業をやったために出来なくなってしまった機会損失を加えたもの。国の債務を家庭の債務と同様に考えるのは永続性を無視した誤解であるが、かといって国の債務は国民の資産であるので拡大しても何ら問題ないというのもまた国民の異質性・多様性(世代など)を無視した誤解である。過去に積み上げた債務を高齢者に逃げ切られないうちに一部返してもらおうというのが原因となって消費税増税がゼロ金利が続くなか急いで決められたといった財政の自由度の低下も異質性があるがゆえの公共事業のコストの一つである。
どのような社会的効用関数を想定するかは人それぞれで当然だが最終的には効用に結び付けて考える必要がある。いいかえればGDPではなく消費こそが重要であり失業の削減なども消費が増えるからこそ大切。また、今期の消費だけでなく将来の消費も重要になってくる。
以上の3点が考えるための大前提。
この3つめの考え方にたった上で公共事業を考えるときに外せないのが小野善康先生の論文(Yoshiyasu Ono, Fallacy of the Multiplier Effect: Correcting the Income Analysis, ISER Disscussion Paper, 2006. リンクは
http://www.iser.osaka-u.ac.jp/library/dp/2006/DP0673.pdf)となる。(これはいわゆる小野理論として有名な貨幣の限界効用に正の下限があるというものとは別。)その中身は論文や小島寛之先生の解説(http://archive.wiredvision.co.jp/blog/kojima/200707/200707241130.html)などによるとして、簡潔に言葉を借りると
「乗数効果は、国民の所得を増やすという意味での景気対策には全く効果を持たず、また、その実質的効果は政府が投じた金額ではなく、作られた公共物の価値に依存する」
ということになる。つまりよく言われる穴を掘って埋めるようなものの場合、GDPは増えるが所得や消費を直接には増やさない。GDPが増えるのは政府支出はその支出分と同じだけの付加価値を生んでいると仮定する以外に付加価値の算出が困難というGDPという統計作成上の制約による仮定の産物に過ぎない。無駄が増えるのも経済にとって有用というのは誤りである。
このことが示すのはGDPが増えているからというだけでは公共事業には効果があったとは言えないということである。公共事業に効果があったというには、直接的に価値のあるものの生産が増えたか所得効果が働き消費を増やしていた必要があり、さらにそれらが公共事業のコストを上回っていないと望ましいとは言えない。
ここまでを踏まえた上で公共事業に効果がないという考え方、あるいは効果があるとしても小さくコストを上回れないという考え方について見る。財政政策に効果がないとする理由としてよく挙げられるのは
公共事業規模以外の影響を制御して考える必要がある。ただし公共事業の減少幅からすれば公共事業が雇用に主導的な影響を与えていたというのは難しい。
これは産業政策が平均的にはうまくいっていないのと同じ問題である。とりわけ景気対策として公共事業の総額が先に決まり事業の精査の時間が限られる場合にはより一層困難が高まる。
現在の状況においてマンデル・フレミング効果は公共事業の拡大に効果があるかないかの点であまり関係がない。
マンデル・フレミングモデルに基いても日本と海外の双方でゼロ金利が見られる状況では公共事業が金利を変化させ得ないので為替や純輸出は変化しない。ただ、これはいつまでも関係がないわけではなくさらにゼロ金利の壁があるために公共事業の拡張と緊縮ではマンデル・フレミング効果の発動は変わってくる。どこまでいっても金利が下がり得ないので緊縮をしても外需増加によるキャンセルアウトが得られない一方で拡張はある程度を越えると金利上昇予想にともなう円高で外需減少を招く。ただこの場合もマンデル・フレミングモデルを一部変更し公共事業の拡大・緊縮にかかわらず中央銀行は政策金利を一定にたもつというようにより現代的な仮定を導入するとゼロ金利を抜けてもいわゆるマンデル・フレミング効果は働かない。
土木建設業での人手不足や着工の先延ばし及び未消化工事残高の増加や公共事業入札の不調、あるいはその結果としての人件費や入札予定価格の引き上げの報道が相次いていることからすれば公共事業と親和性の高い業種で現実に供給制約が起きていると言える。
公共事業の規模や事業数が変わらなくても入札価格が上がっていけば上述のようにGDPは上昇するが雇用や社会厚生は直接には高まらない。マクロ経済への効果は単価の上昇にともない所得効果が働くことに依存する。しかし過去の給付金政策や租税変化の結果からすると所得効果はかなり小さい。(たとえば堀雅博, シェー=チャンタイ, 村田啓子, 清水谷諭, 90年代の経済政策と消費行動の研究1-地域振興券の消費刺激効果, ESRI Discussion Paper Series No.12. http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis012/e_dis012.html、あるいは渡辺努, 藪友良, 伊藤新, 制度情報を用いた財政乗数の計測, Working Paper Series No.28, Research Center for Price Dynamics, Institute of Economic Research, Hitotsubashi University, 2008. http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/16306。)株価や地価の大幅上昇といった大規模なものでないと所得効果は意味のある効果量となりにくい。
供給制約に面している時には公共事業のコストが上がる。それによって民間の他の事業が行えなくというコストが大きくなるため。
供給制約に面していない業種に対する公共事業を増やせば供給制約問題はなくなるが産業政策と同種の困難さが高まる。
財政拡張が機能しない理由が供給制約によるもののとき、消費税引き上げのような財政緊縮は機能してしまう可能性がある。
供給制約は長期的には解消され得る。専門化・技能化している土木建設に即座に従事するのは難しくても時間があれば技能を習得してから就業することも可能となる。問題は技能習得に掛かる時間と景気循環の時間の大小および技能習得が無駄にならず将来性があることの保証をどのように行うか。
最近の建設業従業者数は興味深い。GDPの上では公共投資が大きな寄与を続ける一方で建設業従業者数は前年比マイナスが続いてきた。しかし最近はそのマイナスがかなり縮小してきており技能習得などが進んでいるのかも知れない。
まとめ
これまで経済政策論争として多くを占めたリフレ・反リフレの間の論争が結論が出る前に現実の方がリフレで固まり少なくとも数年は続けられそうになってしまったため下火になり論争の中心が財政政策、公共事業の方へと移ってくるようになった。そこでポイントとなる点を備忘のためにまとめる。
景気対策としての公共事業を否定しても全ての公共事業を否定することにはならない。また公共事業の価値を認めたからといって景気対策としても有効であると認めることにはならないし矛盾しているわけでもない。
公共事業に限らず金融政策にしろ何にしろコストがかかる。ここでいう公共事業のコストとは公共事業によって引き起こされるマイナスの出来事に公共事業をやったために出来なくなってしまった機会損失を加えたもの。国の債務を家庭の債務と同様に考えるのは永続性を無視した誤解であるが、かといって国の債務は国民の資産であるので拡大しても何ら問題ないというのもまた国民の異質性・多様性(世代など)を無視した誤解である。過去に積み上げた債務を高齢者に逃げ切られないうちに一部返してもらおうというのが原因となって消費税増税がゼロ金利が続くなか急いで決められたといった財政の自由度の低下も異質性があるがゆえの公共事業のコストの一つである。
どのような社会的効用関数を想定するかは人それぞれで当然だが最終的には効用に結び付けて考える必要がある。いいかえればGDPではなく消費こそが重要であり失業の削減なども消費が増えるからこそ大切。また、今期の消費だけでなく将来の消費も重要になってくる。
以上の3点が考えるための大前提。
この3つめの考え方にたった上で公共事業を考えるときに外せないのが小野善康先生の論文(Yoshiyasu Ono, Fallacy of the Multiplier Effect: Correcting the Income Analysis, ISER Disscussion Paper, 2006. リンクは
http://www.iser.osaka-u.ac.jp/library/dp/2006/DP0673.pdf)となる。(これはいわゆる小野理論として有名な貨幣の限界効用に正の下限があるというものとは別。)その中身は論文や小島寛之先生の解説(http://archive.wiredvision.co.jp/blog/kojima/200707/200707241130.html)などによるとして、簡潔に言葉を借りると
「乗数効果は、国民の所得を増やすという意味での景気対策には全く効果を持たず、また、その実質的効果は政府が投じた金額ではなく、作られた公共物の価値に依存する」
ということになる。つまりよく言われる穴を掘って埋めるようなものの場合、GDPは増えるが所得や消費を直接には増やさない。GDPが増えるのは政府支出はその支出分と同じだけの付加価値を生んでいると仮定する以外に付加価値の算出が困難というGDPという統計作成上の制約による仮定の産物に過ぎない。無駄が増えるのも経済にとって有用というのは誤りである。
このことが示すのはGDPが増えているからというだけでは公共事業には効果があったとは言えないということである。公共事業に効果があったというには、直接的に価値のあるものの生産が増えたか所得効果が働き消費を増やしていた必要があり、さらにそれらが公共事業のコストを上回っていないと望ましいとは言えない。
ここまでを踏まえた上で公共事業に効果がないという考え方、あるいは効果があるとしても小さくコストを上回れないという考え方について見る。財政政策に効果がないとする理由としてよく挙げられるのは
公共事業規模以外の影響を制御して考える必要がある。ただし公共事業の減少幅からすれば公共事業が雇用に主導的な影響を与えていたというのは難しい。
これは産業政策が平均的にはうまくいっていないのと同じ問題である。とりわけ景気対策として公共事業の総額が先に決まり事業の精査の時間が限られる場合にはより一層困難が高まる。
現在の状況においてマンデル・フレミング効果は公共事業の拡大に効果があるかないかの点であまり関係がない。
マンデル・フレミングモデルに基いても日本と海外の双方でゼロ金利が見られる状況では公共事業が金利を変化させ得ないので為替や純輸出は変化しない。ただ、これはいつまでも関係がないわけではなくさらにゼロ金利の壁があるために公共事業の拡張と緊縮ではマンデル・フレミング効果の発動は変わってくる。どこまでいっても金利が下がり得ないので緊縮をしても外需増加によるキャンセルアウトが得られない一方で拡張はある程度を越えると金利上昇予想にともなう円高で外需減少を招く。ただこの場合もマンデル・フレミングモデルを一部変更し公共事業の拡大・緊縮にかかわらず中央銀行は政策金利を一定にたもつというようにより現代的な仮定を導入するとゼロ金利を抜けてもいわゆるマンデル・フレミング効果は働かない。
土木建設業での人手不足や着工の先延ばし及び未消化工事残高の増加や公共事業入札の不調、あるいはその結果としての人件費や入札予定価格の引き上げの報道が相次いていることからすれば公共事業と親和性の高い業種で現実に供給制約が起きていると言える。
公共事業の規模や事業数が変わらなくても入札価格が上がっていけば上述のようにGDPは上昇するが雇用や社会厚生は直接には高まらない。マクロ経済への効果は単価の上昇にともない所得効果が働くことに依存する。しかし過去の給付金政策や租税変化の結果からすると所得効果はかなり小さい。(たとえば堀雅博, シェー=チャンタイ, 村田啓子, 清水谷諭, 90年代の経済政策と消費行動の研究1-地域振興券の消費刺激効果, ESRI Discussion Paper Series No.12. http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis012/e_dis012.html、あるいは渡辺努, 藪友良, 伊藤新, 制度情報を用いた財政乗数の計測, Working Paper Series No.28, Research Center for Price Dynamics, Institute of Economic Research, Hitotsubashi University, 2008. http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/16306。)株価や地価の大幅上昇といった大規模なものでないと所得効果は意味のある効果量となりにくい。
供給制約に面している時には公共事業のコストが上がる。それによって民間の他の事業が行えなくというコストが大きくなるため。
供給制約に面していない業種に対する公共事業を増やせば供給制約問題はなくなるが産業政策と同種の困難さが高まる。
財政拡張が機能しない理由が供給制約によるもののとき、消費税引き上げのような財政緊縮は機能してしまう可能性がある。
供給制約は長期的には解消され得る。専門化・技能化している土木建設に即座に従事するのは難しくても時間があれば技能を習得してから就業することも可能となる。問題は技能習得に掛かる時間と景気循環の時間の大小および技能習得が無駄にならず将来性があることの保証をどのように行うか。
最近の建設業従業者数は興味深い。GDPの上では公共投資が大きな寄与を続ける一方で建設業従業者数は前年比マイナスが続いてきた。しかし最近はそのマイナスがかなり縮小してきており技能習得などが進んでいるのかも知れない。
まぁ強いて言うなら、とある一人の魔法少女が、作者という絶対強者の手によって、自らのアイデンティティを嬲られ続けて。
ただひたすら作者の持論を発表するだけのただのスピーカーキャラにまで成り下がっていく様を1~11巻に渡って楽しむことが出来ます。
四代目プリティベルとして華々しくデビューするはずが、なぜかおっさんのボディービルダーにその座を奪われてしまう。
その後、表紙との辻褄合わせのためか、取りあえず美咲えりも魔法少女にしたはいいけど、まぁ当然この作品で普通の魔法少女が普通に活躍する機会なんて与えられるわけもなく、「超膨大な魔力」とか言う鉄球足にはめられて海にドボン。
最初の方は目をキラキラさせて担任の住吉先生に経済学の素晴らしさを説くレベルだったんですよ。まぁ、ほほえましいもんですわ。
美咲えりが南軍の学校を見に行ったとき、ディベートの基本についての話聞いて感銘受けてたのは、この電話口での口論の前だったか後だったか……。
10巻では、ついに担任の先生ぶっ壊れて学校やめちゃいましたよ。いつの間にか新自由主義者にされてね。
いやぁ、マジでね人間が壊れていく様がつぶさに観察できますよ。もちろん壊れてるのは美咲えりの方ね
担任の先生も壊れてはいるんだけどね。ここの部分さ一応美咲えりVS住吉先生なわけじゃないですか。
最初の覚醒時には住吉先生は、度胆抜かれて何も言えなかったし、電話での口論のシーンでは美咲えりが一方的にがなりたててる部分しか描かれない。
10巻に至ってはもういない担任の先生に向かってひたすら罵詈雑言ぶつけてるだけですからね。
ていうか、住吉先生の態度が負けた「主義者」のそれというなら、美咲えりの態度は勝った主義者そのものだよね。
えーと、えりちゃんディベートにおいて大事ことが何か君は分かってるはずじゃなかったっけ?
とにかく徹底して美咲えり(つまり作者)の意見を述べるだけで、新自由主義者であるところの住吉先生の意見はほとんど見られない(最後の発狂しているで「公共事業は乗数効果がある経済的合理性がある」と言っているくらい)。まぁ作者が知らないから書けないんだろうけど。
あ、ちなみにこの担任の先生この漫画でもっとも不憫なキャラクターです。ぶっちぎりでNo.1、たぶん誰も追い越せない。
それこそ登場時はただのモブキャラだったのに作者が(美咲えりというスピーカーを通して)自分の意見をぶつけるためのサンドバック役として、急に新自由主義者のラベルを張られ、散々自らの生徒に罵倒された挙句、論争に負けて発狂した間抜けなピエロとしてこの物語から葬りさられました。
命を失う描写が描かれなかっただけで、間違いなくこの教師は作者の手で殺されました。魔法少女プリティ☆ベルは彼の死をもっと悼むべき。
そして彼のキャラ紹介欄の半分は新自由主義者と共産主義者に対する罵倒で埋められている。
あぁ、そうか住吉先生は新自由主義者だけでなく、作者が良しとしないすべての経済理論の権化としての属性も与えられていたんだね。
バトル漫画のかませ犬だって、敵の強さを読者に分かりやすく伝えるという物語の進行上での役割を与えられているってのに
このくだりが本編に一体なんの関係があるのんですかね? ここの描写削ったとしてもストーリーに何の影響もないと思んですけど。
巻末の、なんだこれ? おまけコーナーで、長々~と長文で国家運営における全体視の必要性について語ってました。
見事に「主義者」同士での諍いの末路を表しているのは見事だけど、どこまでも本編には関係ないのよね。
ここで美咲えりが語っている内容は、おそらく本編でのイタカが中島に説教するシーンで言えなかったこと、書ききれなかったことなんじゃないですかね。
政治経済について語って頂いておおいに結構。自分の意見を反映するのも大いに結構。
ただちゃんとやってくれ。
私は怠けたい。
なまけてなまけてなまけ倒したい。
必要のない物を作るために働きたくはないし、他人の財布のために働きたくもない。
人類が中世を抜けだして以来、技術は進歩し生産性は向上し続けてきた。過去に比べて「生きるために必要な労働」は減っているはずだ。なのに労働が一向に減る気配がないのは何故か。
それは世の中に蔓延する無駄な労働が、われわれの足を引っ張っているからだ。それら無駄労働の蔓延を招いたのは、「経済成長」を至上のものとする価値観と、それを信奉する人々である。
彼らは「労働は増え続けなければならない」という謎の理屈を振りかざし、我々怠け者たちを虐げ続けてきた。
タイダニアとは、怠け者の、怠け者による、怠け者のための国家であり、怠惰な社会についての提言である。
「全ての国民は、ただ何もせずにだらだらとしていても良い」というのがタイダニアの崇高な理想であり、最終目的である。あらゆる社会制度は、その目的を果たすために設計される。
怠惰な社会を実現し、それを持続可能なものにするためには、いかに労働を最小限に抑えるかが鍵になる。「最小労働社会」を目指す、と言い換えても良い。
そのために必要なのは、経済をサイズダウンさせ、効率的な社会を作ることだ。
自由経済は本来、その経済規模を縮小して労働を削減する仕組みを備えている。
過去に起きてきた様々な”経済不況”がその証拠である。自由競争によって需要の無い事業は潰れ、労働の効率化は進み、経済は縮小してゆく。この働きがなければ、我々は文字通り寝る間もない労働を強いられることになるだろう。
だが、政治家や経済学者たちは、その働きを阻害する政策を次から次へと考え出し、実行し続けてきた。経済の縮小を否定して成長と言う名の肥大化を続けた結果、今や経済は巨大な雪だるまと化し、その自重で潰れる日を待つばかりになっている。
彼らを狂っているのだと断ずるのはたやすい。実際、「持続可能な成長を目指す」(実現不可能なことは明白だ)だの、「雇用の創出のために財政出動をするべき」(金を出してまで労働を増やす???)という彼らの意味不明な言動の数々を見れば、狂っていると考えるしかないように思える。しかし、彼らがなぜ狂ってしまったのか、彼らを狂わせたものは何なのかという事も考えなければならない。
経済成長論者たちがのさばり、経済の縮小が許されないものとされてきたのは、それが失業を発生させるからだ。
失業者の増加は不満の増大を生み、社会の不安定化をもたらす。様々な革命や動乱の背景に失業問題があったことは良く指摘されている。
失業はタイダニアにおいても深刻な問題だ。善良なタイダニア国民にとって失業者とは羨望と嫉妬の対象であり、理由もなくそれを手に入れる人間が増えることは、社会に著しい不公平感を蔓延させることになりかねない。
ではどうすれば良いか。
失業問題を解決させるために消費を増やすなどという狂った解決策は、タイダニアではもちろん採用しない。
結論を言うと、失業問題は一人あたりの労働時間を減らすことによって解決されるべきだ。これによって労働者の余暇は増え、労働力を失った企業は新たな求人を行うことになるだろう。
労働時間をどれだけ減らすべきかについては、その分野の失業率や有効求人倍率によって決定すれば良い。労働時間を減らす方策については、単純に長時間労働を禁止するのも悪くないが、ペナルティとして税金を課すなどした方が、弾力性のある運用が可能になる。
また、労働時間を減らせば当然収入は低下する。それによって生活が不可能になる人たちが出ないように、経済弱者を保護するための施策も同時に行なってゆくべきだ。
タイダニアにおいては、貧富の差はできるだけ抑えられるべきである。過大な富の行使は無駄な労働を生んでしまうからだ。
富を持つということは、労働を強いる権利を持っているということだ。
貧富の差について、「3割の人間が7割の富を持ち、7割の人間が残り3割の富を分け合っている」という言葉がある。
貧富の差が縮小し、3割の金持ちが残りの大多数と同じ水準の生活を送るようになったと仮定する。大雑把に計算すると『0.7−0.3×(0.3/0.7)≒0.57』となり、5割以上の労働が削減できることになる。あなたが今、週5日にも及ぶ長時間労働を強いられているとすれば、それは週2日半の労働で済むようになるということだ。
もちろん、これは乱暴すぎる計算だ。経済格差をそこまで縮小させることも容易ではない。ただ、貧富の差を縮小することが怠惰な社会にとって非常に重要だということは理解してもらえるだろう。
行政に付きものだったムダな公共事業と非効率な役所仕事、これらを削減できる事はタイダニアの大きなメリットの一つだ。
まず、タイダニアでは経済の拡大を目指さないのだから、景気浮揚のために行われていた公共事業は全て削減できる。国の大型事業はもちろん、「地域の活性化を目指し」だの「経済効果を期待して」などの理由で行われていた自治体の事業も同様だ。
その他の公共事業や行政サービスについては、「余暇を増やすこと」という基準を設ける。つまり、「その事業を行うことで削減できる労働時間」と「その事業にかかる労働時間」を比較して、削減できる時間の方が長い事業だけを存続させる。
この基準の導入によって削減できる事業と、経済の活性化のために行われてきた事業。これらを廃止することで、相当な規模の行政コストを削減できるはずだ。税金は減り、我々はその分労働を行わなくても良いようになる。
また、成長論者たちが言っている「乗数効果」が本当に正しいのであれば、削減したコストの何倍もの労働を社会から追放できるはずだ。
成長を前提とした社会は、決して人を幸福にはしない。持続可能なものでさえ無い。
すべての資源を取り尽くし、消費し尽くした後で、自分たちの築いてきたものがガラクタの山に過ぎなかったことに気づくのでは遅すぎる。
消費は適正な程度に抑えられなければならない。過剰な消費と労働を礼賛し、怠惰の価値を認めない社会は、早晩行き詰まる事になるだろう。今すぐに完全なタイダニアを作るとまで言わずとも、その一部を取り入れることはできるはずだ。
過労死や自殺、平均寿命の低下、精神疾患、家庭崩壊。過剰な労働は我々の人生を奪い続けている。それらを取り戻すために、そして何よりも子供たちの生きる未来が喰らい尽くされないために、我々は勇気を持って主張するべきなのだ。
「怠けたい」と。
利子を借金で返すって意味がわかってる?
横ですが。
十分、これは成立する話ですよ。
借金して捻出した国家支出に十分な乗数効果があれば、その国債の償還利子を上回るだけの税収増が期待できます。
この場合、借金しても支出した方が、将来的には国債償還費用を差し引いた後でも、政府支出可能額が増加します。
さらにこの場合でプライマリーバランスの黒字を維持すれば、信用を維持したまま半永久的に国債借り換えを続けられます。
借金が常に損なら、企業は常に無借金経営が最善ということになりますが、無論そんなことは無いのと同じ理屈です。
国債の良否は、適切な国債発行額や、十分な乗数効果を持つ支出分野を選定できるかどうか、という運用上の問題にかかっています。
この運用で失敗するから「永久に持続」が難しいだけで「常に紙くずになる」運命であれば、そんなもの発行する政府も買う投資家もいません。
「理論的には半永久的に持続可能」(しかも将来税収やGDPでもお得!)だからこそ、ほぼ全ての政府が国債を出しているのです。
まあ、実際には運用の失敗がつきまとうからこそ、利率が乱高下したり、ソブリンリスクが大問題になったりするわけですが、
「上手く運用されるのであれば、理論的には半永久的に国債発行が続けられる」という大前提があった上で、その先の「運用どうしよう?」が
皆さん、入社おめでとう。
長期不況、就職難のこの時期に、世界最大の部数と、高度の評論・報道を誇る読売新聞に入社試験を突破して今日入社できた諸君は、きわめて優秀な知性、体力の持ち主だと信じる。
「ネット時代に新聞は生き残れない」との扇情的な言論が見られるが、生き残る力のない新聞とは何らかの経営者の失敗、紙面の偏向、一般社員の能力の低下、愛社心の欠如等によるものであって、それらは読売新聞には当てはまらない。
私が誇りに思うのは、読売新聞の論調が公正であり建設的であること、報道が迅速、正確で、今日の国家、社会、国際関係等からみて、いささかの偏向もないことである。
今はやりのネットの世界では、責任不明の発信者による無責任な言論、他人の名誉に対する棄損行為、流言飛語、わい雑で反社会的な情報の流布、思想体系のない断片的言説のツイッター等が氾濫しており、青少年の教育を害するポルノや出会い系サイトのようなものを規制することもできずにいる。
私は、新聞も本も読まず、ネットの世界にのみ侵入している若者は、将来日本を支える指導力、知性、生産力、倫理観等を身につけることができず、国民の文化や民度の劣化を招くものと心配している。
欧米の新聞と違い、日本の新聞は個別配達制という日本特有の販売、配達網があり、販売収入が安定している。それに比べ、欧米はもとより、新興国、途上国では個別配達網がないか、あっても脆弱なものであって、その収入の七、八割を広告収入に依存しているため、その経営力は不況に恐ろしく弱い。欧米の著名な新聞が次々に倒産しているのは、収入源の七、八割が広告収入であり、不況時には企業の広告出稿が大幅に減るためだ。
日本の新聞は、独自の個別配達網を維持し、正確性、公正性、一覧性、ニュースの重要度による多様な情報の有用な整理力による総覧性、可搬性、利便性、教養性等を維持する限り、衰亡することはない。むしろ、乱立し、無謀な競争をし、無責任な情報を発信するネット業界の将来の経営の方が危ぶまれる。
だが、読売新聞も、新しいメディアの世界を傍観しているのではない。YOLや「あらたにす」等を通じ、必要で有用な情報の発信手段は広げている。問題はそれが十分な利益をもたらすかどうかであって、本社の強力なメディア戦略局が日夜、研究、開発し、効率よく利益を得るような事業を展開している。しかし、我々にとってはあくまで新聞が主軸であり、ネットサービスは副業だ。
読売グループには、姉妹社に日本テレビ、子会社に巨人軍、中央公論新社等があり、この不況の中で、黒字経営を維持している。
今政界は指導力が低下し、与野党とも諸勢力が四分五裂している。その結果、経済不況に伴う失業や要介護者等に対するセーフティネットが構築されていない。政権党は大衆迎合のマニフェスト原理主義で、財源がなく投資乗数効果も低い、子ども手当のようなバラマキに没頭している。そのため予算の歳入は赤字国債が税収を上回り、国家財政は世界最悪の状態だ。
ただし、米国や南欧の財政危機と異なり、日本国債の九三%は日本国民が持っている。しかし、国債発行も限度を越えれば価格の暴落、金利の上昇、そして不況の一層の深刻化につながる。
私はその解決策を持っているが、部分的には社論でも報じ、時を見て全面的計画を発表する。
日本政治の劣化、それによる不況の深刻化を防ぐためには、新聞、特に読売新聞の論評、解説、報道により、政治そのものの質の向上、活性化を図るしかない。
読売はこれまでにも、憲法改正案、行革案、戦争責任の検証、社会保障と税制改革などについて、次々に建設的提案をしてきた。今は不況脱出のための財政、金融、産業政策についての提案に力を入れている。
最後に、読売新聞の将来について極めて重要な計画を申し上げる。
今朝の朝刊にも出ているように、新社屋の建設である。この大手町の本社は一九七一年に建てられ、築後約四十年となる。
その建設当時は、古い経営者の頭の固さもあって、一極集中印刷が最も効率的であると誤信し、しかも鉛と手拾いの活字による輪転機、印刷とその発送のための長方形と三方道路の立地にこだわり、九五台の輪転機を地下五階層にわたって並べることを理想としていた。
私や内山グループ本社社長は、印刷の電子化、発送、輸送の合理化、全国分散印刷体制を主張したが、まだ若かった我々の主張は頭の古い硬直化した経営者に押しきられてしまった。中でも内山社長は長文の全国分散印刷体制論を当時の社長以下に提出したが、却下されてしまった。
私は三年ほど前から、ひそかに大手町から輪転機を完全に移動し、IT時代にふさわしいシステムの配線やコンピューターの設置に適した新社屋の建設を検討してきた。
その結果、この大手町の社屋を壊し、その跡に、三○階建ての最新機能を備えた新ビルを建設することを決断し、一昨日の東京本社役員会で正式決定した。再建期間中、三年から四年は、銀座の新橋演舞場に面した旧日産本社ビルに借家する。この借家は、この本社より外見、内装とも立派だ。皆さんもいずれ新社屋が建設されれば、日本における情報・金融機関の中心である大手町を睥睨する新本社で、執務することになるだろう。
思い起こせば、大正末期以来、読売新聞社屋は受難の歴史だった。一九二三年、銀座三丁目に建設した新社屋は、披露パーティーを前にして関東大震災で完全に崩壊し、一九四五年には空襲で跡形もなく全焼した。
その間、朝日、毎日は大阪に本社を置いていたため、関東大震災の被害を受けなかったが、一七紙あった東京紙はほとんどなくなってしまった。大空襲でも朝日、毎日は戦火を免れた。
このような二度にわたる社屋崩壊にもかかわらず、新社屋の建設を続け、不死鳥のごとくよみがえり、一九七七年、務台社長のもとで発行部数が日本一となり、翌七八年には世界最大発行部数としてギネスブックに登録された。九一年に私が社長になり、それから間もなくの九四年、一○○○万部の世界最大部数を達成した。この時巨人軍も、日本一に輝いた。
創刊以来の苦難の中で、百三十年余にわたる先人たちの苦労の上、今や不滅の読売を象徴する超高層新社屋をこの大手町に建設することは、私の生涯の最後の使命である。このデフレによる営業収入減の中で無謀ではないか、との批判も出るかもしれないが、わが社の資産力、経営力からしてもいささかの不安もない。
もちろん、この大事業は私一人の力でできるわけではない。全役員及び社員諸君も、日常的な経費節減及び販売、広告収入の増強に向けて、全力をあげて協力していただきたいと思う。新聞窮乏化論のなかで、読売新聞の未来は限りなく輝かしいものだと確信する。