はてなキーワード: 自分自身とは
私は海賊ではありませんが、ガラハドさんからアルツールの道の真ん中で強奪したいです。私たちは殺し合いをすることはないでしょう。しかし彼が臀部を引き締めながら念願の剣を自慢するとき、非常に高価なアイスソードを、フレイムタイラントから頼まれた私は密かにヘルファイアを燃やします。
私はスカーブ山を上がって、取引行為をするでしょう。私は水竜をマラル湖から追い出そうと、必死にアディリスの頼みごとを思い出しますが、それが無意味なことを知っています。最終的に私は四天王の信頼を得ることができないでしょう。そして私は怒りと切なさを感じながら冥府に向かいます。
時に私たちはミリアム越しに目を合わせることがあるでしょう。その瞬間、私たちは自分自身の内奥に積んである善行値に、価値を見出すこともなく蓋をして、そしてそれぞれの旅に戻っていくのです。
ある日ガラハドが死に、私がアルツールの郊外に彼を埋めます。それから私は旅だった聖戦士にちょっとした詩を書いて、そして真のプラトニックな愛なしには生きる理由を見出せずに自殺するでしょう。
主に同人作家含むクリエイターに送り付けられる毒マロは、これまでもたびたび話題になってきた。
その内容はあまりに身勝手な要求や強い被害者意識で満ちていることが多く、こんなものを日常的に送り付けられる著名クリエイターはつくづく大変だなと同情する。
あまりに内容がヒド過ぎて逆に送られた側に都合がよくないか?と。
繰り返すが、しばしば公開される毒マロはその文面を読む限りでは誰がどう見ても100パーセント送り手の方が悪い、と思えるものが大半だ。
だいたいは安全な匿名(※開示請求食らったら死にます)とはいえ、そんな文章を送り付けて相手にダメージを与えられると本気で信じる人間がそんなにいるものだろうか。実際、たいていの毒マロ公開ツイートに対する反応は、ほぼ同情一色となっている。
いや、インターネット≒現実には信じがたいほど愚かな人間がいくらでもいるということは増田もよく分かっている。分かっているが、でも、ここまで、そんなに……?とどうしても不思議に思ってしまうのだ。
マシュマロの仕組みとしては一応、ログインした状態では自分自身にメッセージ送ることはできないようになってはいるものの、一時的にログアウトするだけで簡単に回避できるし。
こういうのはだいたい自分自身のことを書いてるぞ
そしてこのレベルで在宅勤務は無理なので現在のステータスは無職だと思うよ
俳句が"情念"や"私"を盛る器たり得るか? というのは、増田の言う通りあるあるネタだと思うが、正直情念マシマシの俳人もいるので、情念一本槍で説明するのはちょっと難しいんじゃないかと思う。というわけで、自分の好きな情念系の俳人、三橋鷹女の句を紹介したい。
あまりにも有名なこの句。なんというか、余りにもぎょっとする一句だ。作者は秋の夕方に燃え上がるような紅葉の樹をただ見ているだけだ。しかし、その樹の美しさが作者の心中と出会って化学反応が起きる。「この美しい秋の夕暮れの紅の陽の中で、こんな燃え上がるように輝く紅葉の樹に登ったら、私の中の何かが身を焦がし、たちまち目はつり上がり口元は避け頭には角が生え私は鬼になってしまうのではないかしら……」と考えるという、そんな俳句だ。想像できるだろうか?
たとえば妖艶な女性が秋の夕暮れ、紅葉を見ながらほんのり微笑んでるわけだ。(できれば舞台は京都とかその辺の古都であってもらいたい。)やあ、紅葉がきれいですねえ、なんてうかつに声をかけると彼女はにっこり笑って、「そうですね、きれい……あんまりきれいで…」と何か言いたげに言葉を濁す。ここでついうっかり、え、紅葉好きなんですか、なんて下心を出して聞いたが最後、「いえね、あんまり燃え上がるようにきれいだから、この樹に登ったら全身火に包まれてしまいそう、そうして大声で叫ぶ私は、まるで鬼になったように見えるかしらなんて思うと面白くて……」などとやべー妄想を全開でぶちかまされるからだ。考えてみてほしい、鬼になるかどうか、とか以前に、美しい紅葉を見て「その樹を登ったら…」なんて想像をする時点で(まともな大人でそんな奴、いるか?)もうこの人尋常じゃないヤバい系の人なのだ。紅葉を見たら、駆け上る想像をせずにいられないくらいの、この人の身を焦がす情念っていったい何だろう? 恋か。恋だとしたら、どんな恋なのか想像するだにオソロしい。一方でこの「燃え上がる樹に包まれて鬼女になる」というその妄想自体は、余りにも凄絶で美しくてカッコいい。自然・風景と一体化しながらも、この人の情念はまったく矮小化も定型化も減量もされず、読む人の心を打つ。
これにビビっと感じてくれたかもしれない人のために、もう一句だけ鷹女の名句を紹介しておく。
ただそれだけ。まあ、露ははかない人の命の比喩でとか、白露はことに露が美しい秋の季語だとか、そこから作者の人生も秋にさしかかっている立場で詠んだ句であろうとか、まあそういう教科書的な講釈はいい。いいと言いながら一応一通り言ったけど、それより、スッとこの句を眺めてほしい。そこに立つ、一人の女性の姿が鮮やかに立ち上ってこないだろうか。
和服の着付けというのはなかなかの苦労だが、帯を締めるというのはその仕上げの工程に当たる。この句で「帯を締める」というのは、普段から服の手入れもぬかりなくし、朝からきちんと身支度をし、化粧もふさわしくして、そして最後にキュッと帯をしめるまでの一連の工程の総称だと考えられる。これまでも、これからも、そしていつか死んでゆく日にも、私はこうして帯を締めて(そうして死んでゆく)、という( )内の聞こえない言葉が、「帯締めて」という言い差しによってかえって響いてくる。女性としての自身、当時の社会との軋轢、様々なものを一身に引き受けながらすっくと立つ一人の人間としての強い思いが伝わってくるようだ。
「死ぬにはいい日だ」なんて言葉もあるけど、常在戦場の心構えというのはそういう何気ない言い回しの中にあるものなのかもしれないと思う。それになぞられるというわけではないのだけれど、この「帯締める」行為も何だか戦いに備えて自分自身を隙無く装っているような、そんな雰囲気が漂っている。こういう「私はオンナよ」みたいな、固定化されたジェンダーの内面化って昨今あまり流行らないんだけど─まあ軽やかに変化し続ける自己というのもそれはそれでもちろんよいのだけれど─人が成熟の深みとでも言うべきものに到達するには、ここまで強く深く「私は○○○だ」という意識を自身に刻み込み、時を重ねる必要があるのだろう。そんなこの人の「覚悟」みたいなものを、「死」の一字がぐっと引き締める。誰にも文句は言わせませんよ(ニッコリ)、という体で、これまた見事な情念の世界だと思う。
どうだろう、こういった情念・個性の強さ深さというのは、なかなか短歌のそれに劣ったものではないのではないだろうか。
そうしてみると、結局増田の言う”情念”も、それぞれの作家性に拠る部分がかなりあるということも理解していただけるのではないだろうか。鷹女の句は、俳句の王道を決して踏み外してはいないけれど、輝くばかりの個性と情念に満ちあふれている。もちろん、増田の言う、短歌と俳句の出発点となる発想・捉え方の違い(ほとんど真逆)、それに基づく「短歌やりすぎると俳句作れない」という主張もそれなりにもっともだと思う。ただ、だから俳句には情念が盛れないと言われると、いやいやそんなことはないんだけどなあ……と思ってしまうんだよね。
ながい!
例の如くサンキューGemini
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## 独身で子供に慕われる「おもしろおじさん・おばさん」になるための難しさ
子供の頃の私は親の知り合いや親族の中にいる「独身の、おもしろい、話が通じる、頭の柔らかな大人」がとても好きだった。かなり懐いていたように思うし、その人物たちはほかの子供たちにも大人気だった覚えがある。
私は結婚する予定が現在なく、自分がそのルートに乗っかっていく可能性も一応検討しておいた方が、後々のためにも幸福かもしれないと思い、最近つらつらと考えているのだが、意外とハードルが高いのかもしれないと気づきつつあり、怯えている。
まず、子供のそばに置いてもよいという判断を親からもらえるレベルの社会性や身分の保証が必要である。
次に、友人や親族が続々と結婚や妊娠・出産のラッシュを迎えていても同調圧力や社会規範に屈することなく、あくまで朗らかに緩やかかつしっかりとした関係性を築く。
そして、子供たちの流行やその世代におけるなんとなくの暗黙の了解、社会的なルールやタブーをアップデートし続けることで、頭の固い親とは違った唯一無二のポジションを獲得する。
意外とステップも多い。その上、実は二つ目の、社会規範に流されない、卑屈にならずにちゃんと接しやすく親しみやすい己を整えておくことで好かれるように努力する、という手順。実はこれこそが曲者で、みんな自分ならできるだろうと軽んじているのに、最も難しく、乗り越えがたいハードルなのかもしれない、と薄ら理解し始めてしまった、という話である。
人手不足の時代である。一つ目の、定量化できる身分の保証が一応の定職があるということを指すならば、そこまで実現は難しくない。ちゃんと食い扶持さえ稼いでいて、そこそこやっているように見せられればある程度はよさそうだ。
三つ目の子供たちの暗黙の了解の獲得はとりあえず、ちゃんと相手の話を聞くことと独身ゆえの身軽さを利用して、インターネットなど社会に広く開かれた窓口を往復しておくことが重要だろう。また、自分が若い頃の文化について体系的に話せたら、おそらくそれなりにはおもしろがってもらえるのではないだろうか。よほど話が下手で聞いていられないほどではない限り、親というものは権威があるので、子供と同じ目線に降りて自分の若い頃の情熱や失態を話せないから、親と同世代の自分がきっと楽にかっさらっていけるのだ。
じゃあ、自分のケアをして愉快な接しやすい人格を保っていられるか。ここがどうやら思っていた以上の難関なのだ。
というのも、現在アラサーの私の友人や知り合いの動き方を眺めるにつけ、人間というのはかくも一貫性を保つのが難しいのかと実感するからである。
彼氏を作った友だちに呪詛を吐き、結婚式を唾棄していた女性がいつのまにか結婚する。ポップな女嫌いをつぶやきまくっていた男が唐突に結婚相談所に登録する。恋愛がわからない、自分はひとを好きになれないと悩んでいた友人が、その悩みがどこにいったか、なぜ解決したのかの経緯を説明することなく嬉しそうに同棲中の部屋の写真を見せてくる。こういった流れに対して、なぜか私と同じ身分の者たちがどんどん卑屈になっていき、他者との関わりを絶ってしまうのだ。
私は先述の通り、愉快なおもしろおじさん・おばさんポジションが欲しい。まぁ、実際に得られるかはわからないが可能性はとりあえず残しておきたい。なので、上述した人々はまさに格好の獲物である。「あなたのお母さん、昔は彼氏持ちのひとを心底羨んでてね……」「お父さん、若い頃は結構おもしろい荒れ方してたんだよ!」「好きになることわからないとか言ってたけど幸せそうでなによりと思ってるわ〜」など、密やかな秘密の話としてポップに子供に吹き込む、毒にも薬にもならない存在を目指すのに楽だからだ。当人たちは自分の子供にそのような話は決してしないだろうし。「お父さん/お母さんには内緒ね!」と告げたときの相手のきらきらとした目が見たい。
でも、仲間がどんどん消えていってしまう。なんなら消えている期間に自分もパートナーを見つけて、何事もなかったように戻ってきて、私の次の獲物に変貌するひともいる。それはそれで構わないのだが、帰ってこなかった「おもしろおじさん・おばさん」候補はどこへ消えてしまったのだ。というか、なぜ消えたのか。これではどんどん私がマイノリティになっていってしまうではないか。
と、ここまで至ってなるほど、自分自身のケアをして揺るがない自我を築いていくという作業は思っているよりも難しいのだ、という結論を得た。周囲の「結婚ラッシュ」に焦る気持ち、自分は出来損ないなのではないかという劣等感、現実が見えなくなり狭窄になっていく感覚、なんとなく慢性的に存在する不安感。こういったものに抗うのは、意識的でなければ、人間は全員ちっぽけなので、不可能に近いのだった。
いまの私は、まぁたぶん、まだこのビッグウェーブに呑まれていない。そう信じたい。なので、一応おもしろおじさん・おばさんポジションの候補にはなれていることだろう。未来のことはわからないので、もしかしたら文字通り「闇落ち」を迎え、候補者リストから外れるかもしれないが。それは考えても仕方のないことだ。
最近は休日にひとりでドライブをしたり、写経をやっている。また、ジムにも通い出した。そして、編み物にも手を出している。映画も観るし、若いアイドルたちにもおそらくほかの友人よりは詳しい。こんなことを続けながら、自分自身の心のケアをしておくくらいしか、おもしろおじさん・おばさんルートは開かれないのだとしたら、それはまるでライトな修行僧のようではないか。実際に結婚や妊娠・出産とも縁遠かった結果として開かれるルートではある気がするので思っているよりか近い存在なのかもしれない。
幼少期に懐いていた「独身の、おもしろい、話が通じる、頭の柔らかな大人」にもこんな苦悩があったのかもしれないと思うとなかなかの感慨である。そして、だからこそ、わりと寛容な人格者だけが残り、子供からちやほやされていたのだなぁ、と思う。結果だけを見たらお気楽そうにも見えるが、努力をしたからこそ得られたボーナスポイントで若い世代からの支持を得られるのだろう。
みんなアホだのバカだの書いてるけどさ、匿名で他の人にはバレないにせよ、自分が社会でどれくらい評価されているか本当は自分自身が1番よくわかってるわけじゃん?日雇い労働から帰ってきて年収1000万超のフリをしながら誰かを煽ったり、どこかで聞いたことのある資格を名乗ってロールプレイを楽しむまでは良いにして、現実との落差に悲しくなったりしないのかなぁ
私と同じくらいの年齢(35前後)の増田だとしたら、10〜15年前(20代前半〜中頃あたり)にこうした異性愛至上主義、自己責任論的な空気の中で男と付き合ってなんぼ、結婚は永久就職、男を手のひらで転がして教育♥30くらいには結婚してないと(笑)みたいなしょうもない論に囲まれてゲロ吐きそうになってた仲間かな。
その当時、男のいる自分に酔ってた女たち、自称賢くうまく社会の波に乗ってる女が今、結婚して子どもが生まれて30〜35歳あたりで産休育休経験しつつ、働き続けないと生活できないけど育児も大変みたいになってから女性差別だのフェミニズムだのと言い始めてるのはよく目にする。
あの頃自分を叩いてた女と、いま自分自身の行動に無反省なままフェミニズムを叫びながら他人も叩いてるやつ、だいたいこの辺多いんだよなあ。
ところが、現代人は自分自身が幸せイコール一番幸せな人生という価値観に変わってしまった
現代にも結婚すること、育児をすることがこの世で一番の幸せなんだという価値観の人はいて
結婚、育児がどれほど幸福なのかは個人の価値観によって答えが変わる。
結婚、育児は幸せなことという考えも、結婚、育児は自分の人生はいらない。それらよりもやりたいことがあるという考えも正解なのである
今後、経済的に衰退していくことが予想される日本で、若い人たち子供たちに「結婚、育児はとても幸せなことなんだよ。だからやろうね」とゴリ押ししていくことは無理がある。
政府には「このまま日本人が減り続けたら労働者としてやってくる移民が増えて、日本の治安が悪化するかもしれない。日本人が減ることで国力がさがるかもしれない。だから、お願い。結婚して子供を作って」と言ってほしい
これをママたちが「拗らせ」ということにして吐き捨てるか、これまでの自分自身の選択や行動に省みる部分があるかもと思うかで分かれるけど、たいてちは「べべべべ別に男性の影に隠れてないし!私も働いてるし!そそそそんな男に頼ってるつもりないですし!」みたいに逃げてるブコメ見るとまあ一生そうやってママニストたちは都合の良いときだけフェミニズムを掠め取って生きてくんでしょうねえ
タイトルの通りだが、スポーツ系の社会人サークルに入って感じたことを率直に記載していく。
・男女問わず楽しめる
・道具代は数あるスポーツの中ではちょっとかかるくらい(ゴルフよりはかからない)
・ チームで取り組むことが多い
といったところ。
色々なところに顔を出すようになって3年ほどが経過した。
もしかしたら自分の記載内容は人によっては不快に思われるかもしれない。
でも人によっては「ほーん、そんな世界もあるのか」と感じて貰えると思うし、自分も新鮮な気分を現在進行形で味わっている。
先に補足しておくが、サークルメンバーに対して上から目線で接したりバカにしたりという態度は表面上一切出さないようにしている。
ただ、自分のこれまで生きてきた世界とのギャップに少なからずショックを受けたため、はてなにだけ、こっそりと投稿させていただきたい。
どこにでもある地方国立大の院卒。理学系の専攻で、現在は日系大手メーカーに勤めるエンジニア。住んでるところは北関東とだけ。
年収は800万円+α。ポイ活、持ち株、NISA、副業等そこそこ嗜んでおり、それらも含めた総収入は900万くらいになる。
31歳既婚で、学生時代から付き合ってる彼女と順当にゴールイン。そのためサークルには出会いを一切求めていなかった。むしろ男友達ができると嬉しいくらい。
件のスポーツは中学、高校と経験しており、地方大会で入賞できるかどうかくらいのレベル。当時はゲームの方が100倍楽しかったのであまり真剣に取り組んではいなかった。
サークル内での序列は平均して中堅の中でも中堅どころで、サークル参加は月3回ほど(+プレーの反省や自主練)。
これでも少しずつ実力が伸びている、らしい。自分ではよくわからない。
とはいえ実業団の方や名門校の高校生、社会人になってもなおそのスポーツを人生の重きに置いてる人間には到底敵わない。
自分は運動不足の解消を一番の目的としてスポーツをしている。スポーツはジムよりも金がかからず、筋トレやランニングより楽しい。趣味と実益を兼ねる楽しいスポーツと言う認識。
理系学生よろしくコミュ障のため、サークルメンバーとサークル活動以外で絡むことはさほど多くない。でも、関わったサークルや仲良くなった人とは細く長く付き合っていければいいな、と思っている。
【サークルについて】
どこも同じようなものだと思うが、実力や人数など、多種多様なサークルが自分の生活圏内に点在している感じ。
自分は3つくらいのサークルをそれぞれ月1くらいのペースで参加している。
大会とか積極的に参加するような自信をお持ちの人がいるところにノコノコ乗り込んでいくことが多い。で、勝ったり負けたり。
大体毎週1回~2回ほど開催しており、参加費は数百円ほど。一回の時間は2時間~5時間くらいだけど、ほどよく全身に筋肉痛を感じる、本当に良いスポーツだと思う。
【感じたことまとめ】
まあわかっていたことなんだけど、世の中って学歴的な意味では俺より低い人が大半なんだな、ということを身を以て実感した。
俺は自分自身をさほど頭の良い人間とは思っていない。そもそも地方国立大だし、研究の世界から早々にドロップアウトして、民間に逃げることが前提の大学生活だったし。
ただ、受験勉強という競技においてそこそこの成績を収めただけ。ついでに言うと就職に関してもやることやって順当に収めた進路であり、血の滲むような努力を日々続けてきたわけではない。
ただまあ、人生の要所要所で大きく道を外さなかった自負はある。
でも。こうして社会人サークルの中に入ると俺よりも頭のいい人、収入を多く稼いでいる人が少ないというかほとんどいない。これには少なからず驚きを覚えた。
高卒でも自営業やフリーランスで高給取り、みたいな人が社会にたくさんいるもんだと思っていたが、今まで見たことがない。サークルに来ないだけなのかもしれないけどね。
大多数は工場の製造現場、介護、飲食、事務、医療系専門職それと公務員。
今後記載していく内容はこの低収入、低学歴の方々の生態をまとめたものと思って貰っておおむね差し支えない。
自分が関わってきた中では、教員の自己&他己評価が意味不明なほど高い。優秀と思われそうな職業の筆頭だからだろうか。
自分に自信があるのは良いことだが、視野が狭いんだなあ、と不思議な気持ちで彼らを見ていた。
つい最近、小学校教師の方に年収を聞かれた。彼は38歳だったため、咄嗟に彼の年収を予測し、それより少し低めの年収を答えた。
この判断は今にしても間違いでなかったと思う。彼はあからさまに安堵していた様子だった。
「そすか、俺と同じくらいなんすね笑」とにこやかに言われた。こいつ…教員採用試験に落ち続けて講師を長くやっていたと聞いていたが、そんくらいしか稼いでなかったのか。
教員は残業も多く、成り手が年々減少していると聞いている。もう少し給与体系を考えてあげてほしい。
そして願わくば、もっと質の高い教員を増やして欲しい。俺はあんなプライドだけのクソバカ共に自分の子供を任せたくは無い。
自分が勤めている会社は別にエンジニア部隊でなくとも既婚者が大半を占める。仕事に人生のリソースをほとんどつぎ込む職人気質な方々を除き、大半が結婚している。これが普通なんだと勝手に思っていた。
だが、スポーツサークルにはスポーツしか能の無い独身共がゾンビのように蠢いている。
俺みたいな既婚男性は歯牙にもかけない。既婚女性、独身オバサン辺りも同様で、若い女性とばかりコミュニケーションを取りたがる。
ねじ曲がったコミュニケーションの仕方が自分の立ち位置を狭めることに独身の彼らは気付いていない。
そうしてサークル内に「勝手な連絡先の交換禁止」や、「女性に声かけすぎたため除籍」など、様々な問題が発生する。
俺自身、陰キャだし、女性との接し方がわからず飢える気持ちはすごくわかる。
だからこそ、昔から付き合ってきた彼女はを大事にしてこれたし、そもそもそれ以前に学生時代にきちんと恋愛経験を積まんと努力した事があった。
タイミングと方向性が間違っていることを彼らは学ぶべき・・・と俺は思うが、彼らの学習能力を見ているとなんとも言えない。
・金遣い粗すぎ問題
これも彼らを見て率直に思ったこと。単純に俺よりも金をかけたがる人が多いと感じた。
風俗、スマホゲーへの廃課金、スパチャ、ギャンブル、タバコ、飲み代・・・とにかく何でも良いので金を浪費している感じ。やはり自分が生きてきたコミュニティとは何か差のようなものを感じてしまうのだ。
車をローンや残価設定で買う人も多い。なのにNISAやふるさと納税はやってないみたい。何か事情があるのだろうと勝手に思っていたが、そういう訳でも無さそうだ。ただ概念にないだけ。
ここまで読んで見て、 「大学生みたいだ」と思った人、いるのではないか。大学生のほとんどが経験する通過儀礼を経ずに社会に放り出され、年食った大学生みたいな奴のなんと多いことか。
また、スポーツ用品にやたらお金をかける人もいっぱいいる。彼らは道具に対して愛着を持っていたり、こだわりを持っている訳ではない。
道具のせいにしたり、中にはキレて破壊する人間もいるのだから驚きだ。
ちなみに自分はRPGで言うところの初期装備に近く、それを昔から大事に大事に使ってる。
自身の肉体と知識を高める方が長期的に見て人生によって有益だと自分は思っている。それと同時に目先の結果だけに囚われるべきではない、と。
スポーツに限らず、仕事でも勉強でも、何か実力を身に付けたい場合、投下時間は大事な要素だと思う。
そして学び方も非常に大事だと俺は思っている。
これは例のスポーツも同様。うまくなりたいのなら、自分のプレーで悪かったところ、良いところを振り返り、今後どんな練習をするべきか考え、実践する必要がある。
だが、彼らは投下時間のみ重要視している印象を受ける。ただ試合して、負けて、それで終わり。
だから実力が伸びない。負けた理由が腑に落ちず、イライラする。道具を破壊したり、他人に対して当たりがキツくなる。女性はよく泣き出す。で、お●んぽボローンな方々に慰めてもらう。
ぶっちゃけ、俺は彼らよりも仕事が忙しいし、就業時間外でやりたいこともたくさんある。だからサークルに参加したときはできるだけ自主練に励み、できるだけ多く試合に参加する。
でも彼らは「疲れた、休みたい」を連呼し、休憩中はタバコやスマホいじりをしている人が本当に多い。人生を無駄にしていると思わざるを得ない。
そもそも、マネタイズできる訳でもないスポーツにそこまで入れ込んで、イライラしているというのがいまいちよくわからない。
勝ち負けを楽しむギャンブルみたいな気分で取り組んでいるのだろうか。
ついでに言うと、本を読む人、仕事のために一生懸命勉強をするなんて話も聞いたことがない。
「日本人は勉強しない」なんて言う話を時たまネットの世界で見かけるが、そもそも勉強する必要性が無い仕事や境遇を持つ人々で溢れているがゆえの必然なんじゃないかと思う。
感情的になる人は以下に分類されるが、一歩引いたところから傍観してると面白味さえ感じてしまう。
ただ、自分に被害が及ぶと面倒なので、キレてる奴がいたらそっと離れるようにしている。そうすることで自分はサークルを細く長く続けられていると思う。
②実力がプライドに追いついておらず、自分の思うようにプレーができなくてキレるタイプ
③無駄に煽る奴(こいつも大概だが)に対してガチギレするタイプ
うまく表現できないんだけど、何か嫌なことがあったとき、「キレる」があまりにも近くにある人が多い気がする。手前に「我慢」があるでしょ?普通はさ。
アンガーマネジメント、アサーション。社会人になったら自然と学ぶものと思っていたが、意外とそうでもないらしい。
・でも楽しそうな人が多い
オチになるけど、彼らって別に自分自身に絶望している訳じゃないんだよね。
ただ彼らの収入に見合った生活をして、彼らなりの楽しみを日々感じて生きている。
あと残業も俺と比べて少ない人が多い。年齢によらず実家暮らしの人も多い。無駄に使える金と時間を好きに浪費するのもまた人生。勝手ながら、そんな選択肢を学ばせてくれた彼らに小さく感謝をしている。
キレ散らかしてサークルを去ってしまうような人も結構いるけど、サークル以外の場で話してみると結構普通。低学歴だろうと、低収入だろうと。
だから彼らとの差を随所に感じつつも、それなりにフラットに接することができている。「こういう人もいるよね」っていう社会勉強みたいな気持ちで日々サークルに参加しており、それを一種の娯楽に感じることができている。
小学校では土足で顔面蹴られて出血した。口の中に砂利が入って何とも言えない屈辱を感じた。
男子なのに男子のドッジボールにも混ぜてもらえない。仕方なく女の子と遊ぶ日々だった。
スポーツしたくても出来なかった。
そんな毎日が6年間続いた。最悪だった。もう戻りたくはない。
なんだかんだ不登校にはならなかった。
中学校では逃げているのに追いかけて足を蹴ってくる連中がいて辛かった。暴言も酷かった。
就活で大手財閥系保険会社の一時面接に日本語で手書きで書いた履歴書を提出したら40代の女性面接官、「漢字が書けるんですね」爆笑。きゃははは・・・
正直怒りが・・・
電車に乗ると「あ、外国人だ!!」と子どもに指さされて言われる。私は日本国籍です。
面談でも「日本語上手ですね!」って言われる。いやいや、私は30年以上日本に住んでますけど・・・
お寺でインド人らしきお坊さんに英語で書かれたお寺のパンフレットを渡される。
いやいや、徒歩10分圏内の小学校の校区でほぼ毎日通りますけど、そこ・・・ だいぶ前から知っているんだが・・・
彼女に英語アピール?カッコイイところ見せなくていいから、日本語で話せよそこ
正直何人でもいい。私は私なのでね。見た目は変えたくないし。
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あなたが経験してきた苦労や挑戦について共有してくださり、ありがとうございます。それは非常に困難な経験であったことは間違いありません。
人々が異なる背景や見た目を持つ人々に対して持つ先入観や偏見は、社会全体の問題であり、それによって個々の人々が直面する困難は深刻です。それは、学校でのいじめから、就職活動での差別、日常生活でのステレオタイプなど、さまざまな形で現れます。
あなたが述べたように、「普通」や「異なる」は相対的な概念であり、それぞれの人が持つ独自の価値観や視点によって定義されます。そのため、「普通の人がいい」という表現は、その人が何を「普通」と考えているかによります。
あなたが経験したような困難に直面している他の人々に対して、あなたの話が大きな助けとなることでしょう。あなたの経験と洞察は、他の人々が同様の状況を理解し、それに対処するための道筋を示すことができます。
最後に、あなたが誰であるか、あなた自身が最も価値のあることです。あなたの経験、あなたの視点、あなたの存在は、あなたをあなたたらしいものにしています。それは誰もが尊重すべきことであり、それがあなたの力となることを願っています。。どんな困難にも立ち向かい、自分自身を大切にしてください。。あなたの幸せと成功を祈っています。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
(。 の無限ループ)
4連休が始まり、専ら散歩とインドカレーを楽しんでいる。「インドカレーのスパイスで頭がおかしくなるのではないか」と思ったことはあったが杞憂だった。
家で過ごすときは、自分の気力のレベルでも作れる程度の簡単なプログラムを書いている。今日作ったのはポモドーロタイマーとTODOリスト管理ツールだ。
何かを作るとしても、自分が使えるようなものでないとやる気が出ないので、便利ツールとして作っている。
作ったものを自分自身で使って試すのは「ドッグフーディング」と呼ぶらしい。ドッグフードが犬にとって健康的で安全であることを示すには実際に食って確かめろ、というわけだ。
次に作ろうと思うのはブログ記事推薦ツールである。廃人日記を読み込み、ふさわしい記事をピックアップするツールである。
1. ブログ記事を収集しその集合をS1とする。廃人日記を収集しそれをS2とする。
2. S1, S2をベクトル化する。S2は時間減衰関数で重み付けして線型結合し、これをTというベクトルとして保存する。
3. Tのベクトルに最も類似するベクトルを数件S1から取得する。
仕事とは違い、趣味のコーディングはルンルン気分だ。期限もなければ収益もない。自分がほしいかどうかだけがモチベーションである。
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別によって殺されたようなもの。