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はてなキーワード: 内地とは

2021-06-19

熊ってもともと全裸なのになんで逮捕されたん?

北海道って内地と違う法律施行されてるの?

2021-06-16

こんな変な趣味持ってる人っている?

町中にあるステンレスの町内案内地図の写真を撮って集めてる人っている?

いや、さすがにいない…よね?

2021-05-22

終戦で国が無くなっちゃったから、守ってくれる人は一人もいませんよ。ましてや関東軍はみな逃げちゃってるから」。

■「既婚女性差し出せない」数えで18歳以上の未婚の女性を…

https://times.abema.tv/news-article/7021165

◆全員が内地に帰るため

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7600.html

 敗戦後の旧満州中国東北部)で、加茂郡から入植した黒川開拓団は、生き延びるためにソ連軍部隊を頼り、

見返りとして女性団員約15人に軍将校の性の相手強要し、女性たちは性暴力を受けた。

帰国後、元団員らは事実封印し、心に傷を負った女性たちの声はかき消されてきた。

anond:20210522163940

2021-03-31

[]堀和生氏による「慰安所管理人日記」論評

http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/hori-1502.html より

慰安婦達が受け取った金を貯蓄や送金をしていたことは疑いがない。野戦郵便局対象軍人軍属のみで民間人は使えないので、慰安婦慰安所従業員軍属待遇であったことを確認できる。

1943年以後占領地域から日本への労務利益金、政府海外受取(主に郵便預金)が急速に増えていった。

占領から資金流入封殺措置として、送金額制限圧縮強制現地預金制度、送金額一定比率負担を課する調整金徴収制度預金凍結措置等が次々と導入された。

ただし、この日本流入資金のさまざまな規正措置は、地域ごと時期ごとに頻繁に変更されており、現在その制度運営のすべてをあとづけることはできない

上記からは、地域や時期によっては、内地において相当額を引き下ろせていた慰安婦もいたとしか読めない。

これらから、以下の単純な結論を導くのは早計ではないだろうか。

(1)日本政府は、軍票・南発券で膨張した資金日本内地朝鮮への流入を極力規制した。慰安婦達が内地朝鮮に送金した分については、先に述べた外地送金の引出額制限預金凍結措置によって、月々規定生活費水準を超える額は引き下ろせなかった。つまり一定の額しか引き出せない状態で、すぐに日本朝鮮統治の崩壊を迎えたと思われる。

2021-03-17

anond:20210317184851

内地スラングと一致したからって沖縄での名前を変えさせるのはそれこそ差別ハラスメントに近いものがあるでしょ。

anond:20210317184627

ドキッとなるよ。なるなる。沖縄漫湖もいい加減改名しないのかね。

内地からするとセクハラしか思えん。

2021-02-22

anond:20210222145501

沖縄移住してきた内地人間ダメになってるだけで、沖縄で生まれ育った親は割とうまくやってるぞ

2021-01-14

追記沖縄県民の俺がおすすめする泡盛

俺は沖縄県民だ。

そして酒を飲む側の人間で、その中でも泡盛が好きだ。

沖縄を訪れた酒好きは物は試し、と泡盛を飲むだろう。

多くの人は、居酒屋やそこらのお店で売っている手ごろな泡盛を、旅行気分で飲むのだろう。

でもその時、「泡盛、おいしい!」と感じる人は少ないと思う。

そのようなシーンで出てくる泡盛はだいたい新酒である蒸留したての泡盛だ。どぎつくて癖のある風味が口に広がる、沖縄県民でも10人中9人が「まずい」というような風味だ。

だがちょっと待ってくれ。泡盛は新酒と古酒とでは全く異なる飲み物なのだ蒸留したての泡盛が売り物として世に出回ったのは、1945年沖縄戦ですべての古酒を失い、いちから事業を再開せねばならない酒造メーカーが当座の資金繰りのためにやった苦肉の策であって、本来泡盛古酒しか飲まないものである、という説が(俺の中に)あるぐらい、新酒と古酒は違うのだ。

新酒はとにかくきつい。ウイスキーだって蒸留したての酒を2,3年は樽貯蔵してから初めて売り物にするのだから、あれをロックストレートでおいしく飲める奴はかなり重症ではないか水割りもまずいと思う。

ともかく、新酒を飲んで泡盛体験を終えるのはもったいないし、むしろ負の体験しかならない。


からそう、古酒を飲んでほしい。泡盛古酒うまいコスパもいい。

ジョニ黒というウイスキーがある。12年物メインでブレンドされた酒で、アルコール40度の700mlで2,000円代で買えて、うまい。そりゃ世の中にはもっとうまい酒もあるだろが、ジョニ黒はコスパの良さに定評がある酒で、俺も好きだ。

このジョニ黒と同程度もしくはそれ以上の泡盛銘柄がたくさんある、と俺は思っている。俺はそう感じている。俺はこれを紹介したい。

もしもあなたウイスキー焼酎を楽しんでいるのならば、ジョニ黒と同程度もしくはそれ以上にうまくて、かつ、2,000円代で買える泡盛を紹介したい。あなたに。沖縄泡盛を飲むときの参考にしてもらえれば幸いだ。


【ジョニ黒と同程度もしくはそれ以上にうまくて、かつ、2,000円代で買える泡盛

★海の邦 12古酒 アルコール度数30度

県内の酒造メーカーからなる沖縄県酒造協同組合がつくっている古酒だ。琉球泡盛の一番槍みたいなやつだ。

泡盛は3年ほど貯蔵したもの古酒と呼べるのだが、飲むのならば10年以上の古酒を勧めたい。泡盛は5年から7年目にかけて急速に熟成が進むと言われており、正直3もの古酒を飲んでも熟成感はないしあまりおいしくもない。

だが10年以上の古酒ならば、古酒ならではの香りと味わいを楽しむことができ、おいしい。

古都首里 10古酒 アルコール度数40度

瑞穂酒造の古酒泡盛古酒香りバニリンというバニラ香りと同じといわれている。泡盛古酒にはソフトクリームのような甘ったるさとアルコール香りが鼻の奥を抜けるような感覚があって、古酒を飲み込んだ途端にその感覚は消える。そうして、その感覚を追いかけるようにして、もう一度古酒を口に含む。おいしい。

★おもろ 10古酒 アルコール度数43度

瑞泉酒造の古酒。他にも10古酒として「king」という銘柄も出しているが断然こっちがおいしい。

南海王国 10古酒 アルコール度数35度

菊之露酒造の古酒宮古島の酒造メーカー。同酒造の沖縄ローカルCMでは魔裟斗国仲涼子が出ている。心地よい香りと味わい。アメリカンコーヒーのようなすっきりとした印象でおいしい。

久遠 長期熟成古酒 アルコール度数35度

多良川酒造の古酒宮古島の酒造メーカー宮古地域は硬質の水が泡盛に向いているのか立派な酒造所が多い。

泡盛古酒は、10年物100%ならば「10古酒」と名乗れるのだが、10年物と3年物と新酒をブレンダーがいい感じにしておいしい泡盛を作ってしまった場合にはそうはいかない。たとえそれが10年物100%の古酒を超える酒質だとしても「10古酒」とは名乗れず、精々「熟成古酒」としか名乗れない。久遠10年物メインのブレンド酒であり、長期熟成古酒と銘打っている。香ばしくてとろみがあって、個人的に一番おいしい。

もちろん、もっとうまい泡盛銘柄もあるのだろうが、海の邦、古都首里、おもろ、南海王国久遠は2,000円代で買える。



ただし、それは沖縄県内での話だ。内地では輸送料とか酒税軽減措置適用されないとかの事情もあってもっと高くなる。酒税軽減はせいぜい100円程度の影響しかないはずなので、主には輸送料が要因だ。

沖縄県内でも、業務スーパービッグワン(沖縄ローカルディスカウントショップ)や酒のスマイルorアルテック(ともに沖縄ローカル酒屋)でなければ2,000円代で買うのは難しいだろう。これら以外の店舗ではもうちょっと高い値段がついている。

でも心配はいらない。業務スーパービッグワンも県内の至る所にある。

から、もしもあなた沖縄を訪れる機会があって、泡盛でも買ってホテルで飲もうぜとか、泡盛頼んでみようぜみたいなことがあれば、ぜひとも10古酒を手に入れてほしい。そうすれば、沖縄の夜をもっとみんなが楽しく過ごせるはずだ。

【おまけ】

琉球王朝 特選古酒 アルコール度数30度

久遠と同じく多良川酒造の古酒。2,000円未満で買える。リーズナブルでおいしい。特選古酒と銘打った、底が太ったボトルノーマルビール瓶型のボトルでない。

★菊之露 VIPゴールド アルコール度数30度

南海王国と同じく菊之露酒造の古酒。1,200円とかで買える。ジョニ黒には負けるがコスパ最強の泡盛。8年古酒をメインにブレンドしたらしい。

★忠孝or瑞穂 新酒 アルコール度数30度

忠孝酒造、瑞穂酒造がつくる泡盛。1.8ℓで1,000円強で買える。ソーダ割りにするとおいしい。泡盛新酒の他の銘柄ソーダ割りは、泡盛の癖を炭酸が強めるだけだが、忠孝と瑞穂は甘い香りがはじけて(俺の中では)おいしい。




追記(1/18)



!?


たくさんのブクマいただきまして、「泡盛」という言葉が多くのみなさまの目についたことをうれしく思います

それと同時に、先だって紹介させていただいた泡盛を飲みながら投稿した増田ですので、ブクマの多さにおののきながら読み返してみると、違う違うそうじゃない、と反省すべき箇所がいくつかあります。少し補足させてください。

1つめ、泡盛の新酒について、「沖縄県民でも10人中9人が『まずい』というような風味だ」「負の体験しかならない」、なんて明らかに言いすぎだ。これはいけない。10人中7人だ。3割の人間けがあの世界に行けるのだ。顔に痣が浮かぶような奴らだ。たぶん早死にする。俺があと一歩のところで届かなかった、至高の領域だ。

2つめ、泡盛10年以上の古酒をすすめる、としたが、もう少し正確に言うと、10古酒で十分だ。どういうことかというと、泡盛熟成は5年を超えたあたりから加速度的に進むが10年目あたりで落ち着くと言われている。泡盛熟成酸化なり何なりの化学変化であるとすれば、それが永遠に続くことなんてありえない。仕次ぎうんぬんの話もあるが、ともかく10年経てば十分泡盛熟成している。それ以上の年数の泡盛は味よりもその稀少性なりストーリーなりを楽しむものであり、神々の遊び的なものだろう、と俺は踏んでいる。神ならぬ我が身としては、10年程度の市販古酒を楽しみながら、甕貯蔵の我が家専用泡盛を仕次ぎし育てて数十年楽しんでいく、というのがいいんだろう、と思っている。

3つめ、古都首里10古酒アルコール40度は、ラベル沖縄限定って書いてました。通販本土のみなさまでも買えるかもしれないけど、、、すみません古都首里バニラ香りが強く、たぶんバニラエッセンスが入っている(入ってない)と思います。おいしいので、地元の方はぜひお試しください。

そして、本土の方も沖縄を訪れた際には、ストレートでもロックでも炭酸でもシークヮーサーでもアセロラでもコーヒーでも牛乳でも何でも、泡盛をおいしく楽しくしてください。

あわがもりもりきんにくもりもりあわもりもり~

2020-12-03

桐生ココの炎上に今更ながら思った

秋頃、台湾を「国」として扱っているYouTubeアナティクスのスクショを貼って、大陸の民に燃やされてた

その後の本人+運営対応もグダったので、とくに炎上し未だに燃えかすが燻ぶっている

当時はチラッと見ただけだったし、押し寄せた荒らしもかなり酷かったので「お気の毒に」ぐらいに思っていたんだが、最近詳しい経緯を読んで疑問に思ったので書く

知らないのかわざとなのか、多分前者

台湾香港チベットを国扱いしたらややこしい事になるって常識じゃないのか?

あの画面出した瞬間「あ、やっべ」となって、「〜と地域」とか足しときゃなんも問題にもならんかったと思うんだが、知らなかったからああなったんだろうな

炎上について書いてある記事を見ても大抵は「荒らしが度を越している!」か「運営がきちんとインプットしないのが悪い!」のどちらか

前者はそりゃそうなんだが、後者については日頃ネット触ってたら嫌でも知るだろ、教えるほどか?となった

まあ当人日本国外にもルーツがあるようなので、知らないのもやむなしかも知れないが、擁護記事ではこれに触れているものが見当たらなかったので気になった次第

気をつけような

べつに中國政府が正レい!!と言いたいわけじゃない

香港チベットの2つはまあともかくとして、台湾が実質、国として機能している点は分かってるし、そのままの方がいいんだろうぐらいには思ってる

2地域についても自治が行えていないのは明らか

でも国際上は中華人民共和国領土だし、台湾についても"理解尊重する"で一応まかり通ってる

フラットというか「政治的スタンスは無いですよー」という言い方があるんだから、それにのっとらない意味が分からなかった

  1. 中国香港台湾を同列に並べるなら「国と地域
  2. 香港マカオ台湾を除きたければ「内地」or「大陸」or「mainland china
  3. 中国台湾を合わせたければ「両岸」orちょっと広いが「中華圏」
  4. チベットは…まあ、自然文化に触れるぐらいにしとく

あたりは守っとけば燃えはしない、多分

別にルワンダで人をコックローチ呼ばわりしない、とかアゼリー人をペルシャ人と呼ばない、とかそういう遠い世界歴史認識の話ではない

お隣にややこしい問題があって(残念ながら)それに敏感な人がいるんだから、触れないような言い方にしような、って話

一つの中国についてプロトコルを誤ったら面倒なことになる」ぐらいは万人が知ってるもんだと思ってた

そして政治心情には関係なく、一般的な言い方には則っておくのが営業合理的だ、ぐらいの判断はなされてるもんだと

あ、桐生ココが「二つの中国」を支持してるんなら知らん

2020-11-22

太平洋戦争はどう配置すれば勝てたのか

さっさと撤退して内地防衛すべきだった?補給線を伸ばしすぎた?

2020-10-28

anond:20201027203138

やっぱり北海道かぁ。鉄道で2時間かけて通学しても都道府県トップレベル高校に通えないところなんて、他には無さそうだもんなぁ。

僕も地方出身だけど、県内のどこからでも県都まで大して時間はかからいから、県内のかなりの遠いところから通って来る人たちもいるよ。内地はどこでもこんなものだと思うから内地の人たちには北海道の状況はなかなか想像理解しづらいと思う。

正直言って、最初は僕には外国の話のように思えた。大げさじゃなくて本当にそれくらい衝撃的な話だったよ。

2020-09-25

anond:20200925072843

札幌市内の公立中学校に通った経験があれば実感してもらえるんだけど、内地から転校生ってのがクラスに何人かいるわけよ

そういう子の親は東京などに本社のある大企業勤務で地元からみたら裕福で洗練されて見えるんだ

2~3年でまた転校して去っていくことも多いので思い出のマドンナだったりするわけ

札幌福岡とかと並んで支店経済の最たる都市なので、そういう人が転勤族カテゴライズされるくらいに多かったということ

転勤族という呼称は今は別の言い方をしているかもしれんが

anond:20200925041225

北大以上の学歴だと満足できる就職先が少ない

医者公務員インフラマスコミ金融機関くらいしかないし

大学進学で出ていくか就活で出ていくか

札幌に家があれば、こどおじのまま北大大学に残ってどこかのF欄の教員ってのも(経済的能力的に内地には出ていけなくても)上級道民ぽくて結果的にそんなに悪くないとは18歳の時には想像できなかったなあ

2020-09-24

anond:20200924182231

ホテル中華は美味いよ

町中華なんてものが成り立つの中国人満州帰りが大量にやって来た内地の土壌があるからで、元が開拓民なのにそんな土壌があるわけがない

2020-06-17

在日韓国人であることをふと思い出す

黒人見かけたらなんか怖いし

白人見たら日本人の女漁ってんのかなって何かイラっとするし

茨城出身ですって言われたらスウェットキティサンダルで夜ドンキに出かけてるんだろうなって思うし

北海道出身ですって言われたら内地人間不細工が多いとか見下してそうだなって思うし

慶応出身ですって言われたら金持ちなだけで本人は何もできないんだろうなって思うし

東大生ですって言われたらなぜかフェルミ推定大好きでどや顔披露してそうって思うし

4大出てますっていう女の子は頭悪いんだろうなって思うし

中卒ですって言われたら趣味パチンコスロットぐらいなんだろうなって思うし


イメージ偏見は何にでもあるし、

実際に実害を受けた経験から警戒するなら自然なことだ

ただし不確定事項を元に悪意を直接本人に向けた時点で加害者側になるのだと思う


センター試験当日、移動中のバス小学生の頃の同級生に偶然再会したことがある

地方、近所の大学が会場だったためある程度の範囲の同年代学生が集まるのは必然ではあった

再会を喜ぶような会話をしようかとも思っていたら開口一番

「お前いつ韓国に帰んの?」と言われた

まれも育ちも日本だが韓国であることを特に隠してもいなかったため

小学生の頃は韓国であることをきっかけにしたこういった会話は珍しくなかった

ちょっとしたじゃれあいかと思い

「家は日本にあるし、韓国語話せないし韓国に行く予定はないよw」

よくあるイジリに対して返すよう対応したが続けて、

「いや、お前韓国人じゃん、いつ日本から出てくんだよ」

と明らかに悪意のこもった口調と追撃があった

小学生の時に似たような会話はあったし、

その時も事実をそのまま伝えた記憶はあるが

その時にどんな反応をされていたか特に覚えがない

高校3年生にも関わらず、無邪気に、素直な質問として出てきたわけではない

よく遊んでもいたその子言葉無力感を覚えて脱力したのを良く覚えている

その後もなんやかんや言ってきたが

勉強したいからと適当理由をつけてその後は無視を決め込んだ

在日韓国人であるのを理由に何か、というとこの1件ぐらいのもの

(センター試験自体は数ⅡBが思うように解けなったことを記憶している)


子供のころ、韓国人は被害者であるように祖父家庭内で度々話をしていた

小学生の時はそうなのかーと聞いていたが中学生の頃には

被害者であるから優遇しろ参政権があるのが当然、

というような図々しい態度の方に疑問を覚え始め

話半分で聞き流すようになっていった


国籍理由にした差別経験したこともないし、

制度国籍理由区別されるのであれば

そういう風にできているならそういうものだと納得する

選挙の話になったときに、国籍的に選挙権ないからねー

と会話する度に帰化を考えるけれど、

毎日仕事休日の遊びで精いっぱいだし、

帰化方法を調べもしたこともない

国籍韓国のままにしている理由もないが、

治療が途中だけど億劫で行けていない歯医者ぐらいの感覚

(そういえば賃貸入居するときに借りたい部屋が

 外国人お断りということがあり苦労したことがあったのが

 韓国であることを一番不便と感じた例かもしれない)


自分自身がどうであろうと

日本で生まれ育った韓国人、という事実に変わりないし

僕は反日じゃない在日韓国人だよ(ぷるぷる

と本人がそうであったり、そう主張しようが

いやがおうにも家庭の影響は受けるもので、

祖父母や両親が反日であればその子供も反日可能性が高い

という発想も自然だし妥当だろう

中卒でもやらせたら勉強ができるやつはいから

全ての中卒が勉強ができないと思うな

と言われても、はぁそうですか、である


特に何かが主張したかったわけではないけれど

これからテニスサークルをやっていた人と出会えば

リサーだっかどうかを聞いてしまうと思うし、

上坂すみれファン出会ったら素直に射精するか聞いてしまうと思うし、

AV女優出会ったらその日にワンチャンいか考えてしまうと思う

良くも悪くも偏見と付き合って生きていくんだと思う

2020-05-19

anond:20200519122136

40なったら50まで生きたいといい

50なったら60

60なったら70という

 

戦犯裁判

バターン半島の陥落後、1942年8月参謀本部附となり[2]、内地へ戻る。「日本ニュース」第115号にて、「本間将軍帰還」の肉声・映像が残っている。同月、予備役編入され、以後は軍務に就くことなく、フィリピン協会理事長を務めて終戦を迎えた[2]。予備役編入理由は、バターン攻略不手際とがめられたものとされる。終戦後、「バターン死の行進の関係者処罰されるのでは」という話を陸軍が聞きつけ、「先手を打って処罰すれば刑が軽くなるのではないか」(いわゆる『一事不再理』の発想)と考え、本間陸軍中将としての礼遇を停止した。しかし、結局マニラ戦犯裁判で、バターン死の行進の責任者戦犯)として召喚された。本間は前述のとおり人道主義者であり、バターン死の行進での捕虜への非人行為本間責任ではなく、部下の責任であった。しかし、結果的責任をとることとなり、有罪判決下り本間死刑と決まった。有罪判決が下ると本間弁護団アメリカ連邦最高裁判所人身保護令を求めたが、6対2の判決却下された。

処刑は、1946年昭和21年4月3日0時53分、ちょうど4年前に第14軍司令官であった本間の口より総攻撃命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて執行された。当時、ほとんどの将校囚人服で絞首刑に処せられたのに対し、本間場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であった(同じくマニラ軍事裁判死刑判決が下された山下奉文場合は、囚人服を着せられたままの絞首刑であった)。58歳没。

 

2020-05-13

[][][]「報国致死はわが社中の精神

之より社中の気風益ますます固結して曾かつて動変することなく、

爾後じご王政維新太平に逢い又無数の事変をも目撃したれども、

報国致死ちしは我社中の精神にして、

今日我輩が専ら国権議論主唱するも、

その由来一朝一夕に非あらず、

蓋けだし社中全体の気風なりとは雖ども、

仁三郎君の一言亦重しと云うべし。

福澤諭吉 故社員の一言今尚精神

第二章 「貧富を問わずに人才を作るは、前金を払うて後の苦労の種子を買うもの

      ――貧民には最低の教育しかいらない 35

「銭あり才あるものは上等の学校に入るべし」

――福沢は選別教育必要を強調する 36

「最も恐るべきは貧にして知ある者」

   ─福沢は貧知者を生まない教育模索する 40

教育の過度を防ぐは、財産の安寧を維持するの一法」

   ─貧知者が生まれぬよう授業料を高くせよ 42

「もっぱら富豪の子弟を教うるの門を開かしむるこそ知者の事」

   ─貧知者が生まれぬよう官立学校を廃せよ 44

「年齢の制限児童を遊惰に導いて悪風に染めしむる」

   ─子どもの遊びの権利も福沢の眼中にはない 48

断じて政事に関するを得せしめず」

   ─文部省から独立にも限度がある 50

学問のすヽめ」の放棄

   ─士族遺伝子を残すためには選別教育こそ必要 58

「報国致死はわが社中の精神

   ─慶応義塾の建学の精神 61

「ただ普通教育・知見のみ、高尚なる学育は第二のこと」

   ─女子高等教育はいらない 67

インパクト出版会 / 天は人の下に人を造る  「福沢諭吉神話」を超えて


第七章 「男女を同権にするがごときは衝突の媒介

――女の領域は家、その美徳優美さ 215

「さしむき自力をもって殖産に従事せんとするも難きこと」

   ─労働権を軽視する福沢女性論は男女平等論とは無縁である」216

「男女を同権にするがごとき平均論は衝突の媒介

   ─良妻賢母主義の原形 219

裁縫の嗜みなき者は女子にして女子にあらず」

   ─家事育児は女の天職 221

新家族の苗字中間一種の新苗字創造して至当ならん」

   ─偕老同穴論が前提されている 226

 「夫婦間の権利については、条文の規定一点の疑いを容るるところなく」

   ─福沢は「明治民法」に全面的な賛意を示す 229

「家会を開設し、婦人女子に家政参与の権を与えたき」

   ─女に参政権はいらない 232

「無遠慮なるべからず、差し出がましく生意気なるべからず」

   ─「女徳」へのこだわり 234

「内実は不品行を犯すとも、これを秘密にして世間の耳目に隠すべし」

   ─ 239

娼妓に依頼して社会の安寧を保つの外あるべからず」

   ─良家の娘を守るために公娼制は不可欠 242

内地においてさえ娼婦必要は何人も認むるところ」

   ─娼婦出稼ぎ人民移住に伴うべきもの 247

人間以外の醜物」、「人類の最下等にして人間社会以外の業」

   ─薄幸な貧しい女性をそこまで指弾するか?! 251

天は人の下に人を造る

2020-05-06

anond:20200506041006

親戚が旭川。ザ住宅街の親戚の家の近所にローカルテレビ局があってびっくりしたけどそういう感じだったんだね。

だいたい江戸くらいからの地縁内地田舎じゃ地域ゴシップ口承伝聞だけど、雑誌というメディアが普及した頃と開拓が同じ時期だったから脈々続いているんだろうか…

ちょっと馬鹿っぽいことを言うと冬に外で立ち話なんかしないで、暖房ガンガンの家でしっぽりゴシップ読むのはなんかいい。

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

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