はてなキーワード: クラスメイトとは
質問1
残虐な行為に対する抵抗度を考えるときに、質的な違いがあるとこに区切り入れるとすると、
a)対虫 | 対動物 | 対ヒト
b)対虫 | 対動物・ヒト
どっちを想定します?
その場合、件の女子高生がネコを解体していたからといって、ヒトを解体することは時間の問題ではなかったよね?
なんか、父親の責任追及のネタにしてる人いるけど、変だなーと思ったので。
その場合、(家畜はともかくとして)野生動物を食べることに対して抵抗はないの?
僕自身は捕獲して殺して食べるってたとえ家畜であっても残虐だよなーと思うんだけどね。
あと薬物混入もちょっと気になってる。僕の小中学生時代は、僕も周りも、理科で使う薬剤の危険性に対してひどく鈍感でした。
水酸化ナトリウム水溶液(水ナトって呼んでた)を触って、「なんかぬるぬるする〜w」「ちょwやべえ指紋薄くなったw」とかしてましたし。
なので、クラスメイトの給食に塩酸を入れるのが普通ではなさそうなことはわかるんですけど、ヒトに残虐性を向けた行為だったのかは疑問符です。
「みんながなんとなく超えない一線を超える性質」と「ヒトに対する残虐行為を実行する性質」は必ずしも一致しないと思います。
例えば花火の火薬集めて鉄パイプ爆弾つくる、っていうのは前者に当てはまるけど後者には当てはまらないよなあ、とか。
混入の件はサーベイ不足なんでおまけです。
スクールカーストでよく言われるのは「運動ができるやつは上位にいける」という要素だ。
確かに運動ができるのは素敵だと思う。特技の一つとして伸ばせばいいと思う。
ただ、「勉強ができる」ことはけして評価を上げる軸にならない。そもそもテストの成績は隠されていて、頭がいいかイマイチなのかは授業中の発言からしか推測できない。
(そしてそれだけではわからないこともある。おとなしい子供では授業の場では表に出せないこともある。)
学校という世界において、なぜテスト成績だけは個人情報としてがっちり保護されるのか。
音楽も見ればわかる、
図画工作も見ればわかるし作品が展示されたりする。
この辺りが得意な人たちは、自分のプライドを保つことができる。
周りからも「あいつは○○が得意ですごいな」と認めてもらうことができる。
ただ、翻って勉強を頑張っている子はどうなのか。
テストの成績貼り出しなんて、このご時世とんと見なくなった。
予備校で見かける程度だ。
小学校中学年あたりからは努力の差が出てくるので、載せても構わないと思う。
運動もダメ、音楽のセンスもなし、手先も不器用。そんな子供はたいてい自尊心も低くなって、周りからは馬鹿にされて、割りとつまらない子供時代になる。
実際自分はそうだったのだけど、中学年あたりから通いだした塾で成績貼り出しをしてくれたことでかなり助かった。
同じ学校の子が通っていたこともあり「アイツ実は成績すごいんだよ」と言ってくれるようになり、周りから評価されるようになった。
あれがなきゃ、自分は周りから認められることがなくてかなりの確率で不登校になったと思う。本当に塾のおかげだ。
でも本当なら、塾じゃなくて学校でやってくれれば良かったんだ。
テスト成績が隠されるのならば、
運動能力や音楽センスや図画工作センスも能力を示すものとして隠すべきだろう。
体育や音楽や図画工作も、他人の目に触れないところでやればいい。
別にクラスメイトに点数が漏洩したって何も問題はないじゃないか。
ーーー
追記
何故か気がついたらとんでもないブコメ数が…。
確かに成績が良くてもスクールカーストはあがらないかもしれませんが、子供の心の支えになると思うんですよね。
第一運動や音楽やらができないと馬鹿にされるのに、テスト成績が悪い子供は保護されるのは納得がいかない。
他人の能力を馬鹿にして笑うのは知性の低い人間のやることなので、たいてい、運動や音楽が苦手な人を馬鹿にしている人は、成績もクソなことが多い。
そういう人を試験の成績で圧倒するとすごい救われるんですよ。
「男は男を、女は女を好きになるのがふつう」
男と女の関係なんて信じられない。世界を「逆転」させた映画が全米で話題 http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20140730/E1406650835497.html
現在、日本語字幕付き版が8/1までスターチャンネルのwebサイトで限定公開されている。以下あらすじ、及び結末に触れるため、未見の方は取り急ぎ見てみてほしい。
この作品では「全世界の標準が同性愛者である」「異性愛者は異端として迫害される」といった世界を描き出し、
つまり既存の価値観をただ単純に逆転することによって同性愛者へ進行形で行われている差別の残酷さを浮き彫りにしている。
同じつくりをした作品としては最近ではアバター然り、第9地区然り。
主にSF映画にありがちな、最初から”価値観の逆転”を前提とした舞台設定のもとに広げられる、
異端である『異性愛者(=ブリーダー)』の少女・アシュリーは作中で、周りと異なり異性を愛してしまう自分に気が付く。
ふとした一言からそれが周囲に知られることになり、彼女はクラスメイトにとって侮蔑の対象と変わる。友を失い、得かけていたパートナーから拒絶され、
親族の理解も得られない。周囲すべてが自分を認めないことに耐え切れず自死を選ぶ。
作中にむごたらしく描かれる差別・暴力行為。迫害といっていいそれらは、すべて現実の同性愛者自身の体験を元にしたものだという。
作品の大半を占めるそれらは具体的に、執拗に描かれる。からかいと嘲笑。止まない蹴り。メール、ネットを利用した侮辱、名誉の棄損。
そのすべてがアシュリーの視点に切り取られ、悪と偏見に満ちた不快なものとして視聴者に与えられる。
彼女は誰からも理解されることなくその命を散らす。「異性愛者は地獄に落ちる」と神に明言されながら。
昨晩妹とこれを見て、浮かんだ疑問はふたり共通していた。
それは「ここまで惨たらしく暴力を描くのならば、そもそも同性愛者・異性愛者を逆転する意味がどこにもない」というものだ。
たとえば作中世界が異性愛者が大多数というこの世界と地続きのものであり、アシュリーが異端としての同性愛者であったとしても、
リアリティが付加された暴力に基づく「差別はいけない」という強烈なメッセージを与えられるところまで、
更にいえば、余分な設定がなくなることでプラスになる効果も当然生まれる。
たとえば映画中、男女が言葉を交わすシーンが幾つか登場する。当然彼らはアシュリーを異端視する側、つまり同性愛者である。
観賞中、彼らの会話が発生するたび「こいつらはどういう関係なんだ?」「それはタブーなんじゃないのか?」と幾度も首をひねってしまった。
アシュリーが異性と手を繋いでいたことがもとで差別を行っていたある女のキャラクターが、アシュリーを捕まえるべく共に駆けだすシーンなども同様だ。
ではなぜ、わざわざこのような設定を使ってまで世界を置き換える必要があったのか。
話題性か? それもあるだろう。突飛な設定は当然大きな観賞動機に成りうる。この設定の上でどのような物語を展開するのだろうか?と。
だが「同性愛者が当然の世界で、異性愛者となった少女」という設定を聞けば、「ああ、同性愛者への差別を見せたいんだな」とすぐに気付いてしまうはずだ。
ゆえにそれは強い動機とは成り得ない。
では何のための世界かといえば、何のことはない。攻撃のためだ。
作品中、暴力は極めて陰惨に、かつ念入りに描かれる。ほぼすべてのシーンがアシュリーへの迫害であるのだから、それは当然のことだ。
ここまであからさまに不条理な痛みを伝え、かつ死をもって閉じることで物語を「年若き美少女の悲劇」として完成することで生まれるメッセージ性とは何かといえば、
「お前たちはこれだけひどいことをしている」
「お前たちの不理解がわたしたちを苦しめる」
いまここにある現実に対する、問いを投げかけることのない一方的な罵倒。
映画の中、それによって苦しめられていたのはほかでもないアシュリーではないか?
確かにこの映画は、「STOP!同性愛者差別!」といった、何の実情も伴わない、くだらないフレーズの印刷された、
男同士、女同士が手を繋ぎ抱き合うポスターよりも数万倍も意義のある作品だ。
だがこうした喚起映像が「ただしい」のだとすれば、その最終的なかたちは、
視聴者の顔をモデリングした俳優が理由もない暴力に絶え間なく晒され続ける映像を見せ続けるものになるはずだ。
確かにおぞましいインパクトを残すことだろう。見た者の考えも変わるかもしれない。が、そこに相互理解が生まれることは決してないはずだ。
それは互いの喉元に刃物を押しつけ合うことと何の違いがあるんだ?
仕事をやめてフリーターになって3年目に突入しているのだが、また以前のように働こうという気が一向に起きない。
辞める時には「しばらく休んで気力が戻るようなら再就職、そうでなければもうどうにでもなれ」という気分だった。
もし気力が戻るとしたら2年くらいかかるのかなー、と、特に根拠もなく漠然と考えていた。
実際は3年たってもサッパリだ。
仕事も辞めるまで一様な働き方をしていたわけではなく、比較的楽な時もあれば破綻寸前かちょっと破綻していた時もあるのだが、その中の一番楽な時にさえ帰りたいと思わない。
職場の人間関係は問題ではない。どこの職場にも派閥があったり面倒臭い人はいたが、私自身には皆それなりに親切に接してくれたし、それ以上の事は求めていない。
嫌だったのは、職場がどこであれ付いて回る業界全体のブラックさと、仕事内容そのものに起因するストレスである。
もし再就職するとしたら、この年だしやはり前職と同じ業種でなければ厳しいと思うが、そうなると自動的に前と同じストレスに身をさらすことになる。
それはもう二度としたくない。少なくとも現時点では。
話は飛ぶが、私は小学生の頃に家庭の事情で1年ほど外国に暮らして、現地の小学校に通ったことがあった。
後から考えれば英語面で多少得る物はあったと思うが、当時の私の主観では、その一年は本当に辛いものだった。
学校で先生に言われたことが分からなくて、大事な連絡が親に伝わらず、必要なものを忘れるなど惨めな思いをしたことが何度もあった。
それに加えて、元々運動神経が悪く泣き虫な上に、ろくにしゃべれない外人のガキだ。当然のようにいじめられた。
クラスメイトと先生の名誉のために言えば、いじめていた奴はせいぜい数人で、他の子は仲良くしようとしてくれたし先生もいじめっ子を止めようとしてくれた。
しかし肝心の私が、言葉の壁のせいで上手く言い返したり先生に相談したりすることができず、ほとんどされるがままだったのだ。
この一年間の経験の後、私は外国というもの全般がとても嫌いになった。
中高生や大学生になって友人たちが外国旅行や留学などの話を楽しそうに、あるいは期待を込めてするのも、理解できない気持ちだった。
この外国嫌いは結構長く尾を引いて、「旅行で行くなら外国も楽しいかもな」と思えたのは社会人になってしばらくたってからである。
この経験を思い返すと、今の仕事嫌いも、もしかしたら回復に十年以上かかるのかもしれない。
だが、十年もろくに働いていなければ、仮に意欲が戻ったとしても、以前のように働くのはどっち道無理だろう。十年後は私も老害と呼ばれそうな年だ。
そう考えると、このままフリーターで行ける所まで行って、あとは貯金を少しずつ食い潰すことになるのかと思う。
一応、辞めるまでの仕事とちょっとした遺産などで貯金はあり、現在までもそれには手をつけずに済んでいる。
将来的には今の暮らしを後悔する日が来るのかもしれない。
でも今はこれでいいと心から思う。
仕事をしていた時の、あの常に追い立てられ、明日が来るのが恐ろしい気持ちが無いのは、本当に素晴らしい。
ちょっと変な奴が混じってきてるが気にすんな。
将来の夢とかやりたいこととか先生も言っていました。
将来の夢もやりたいこともなけりゃそれでもいい。たいていの人間はそんなもんだ。
やりたいことがあれば全力を尽くせばいいし、なけりゃ今できることを考える。将来どんな役に立つかを考えながらな。
そうやって色々考えた上でなら、宇宙飛行士とか警察官とかになりたいっていうのは幼稚じゃないと思うぞ。
それは親の価値観だろう。無意味に逆らう必要はないが、無理して従う必要もない。
あと大学が18にならないと行けないのは多分大学がそう決めているからだろう。
早く高校生になりたいです。
変なのも言ってたが高校の勉強をすればいいんじゃないか?それか英語のみをひたすら勉強するとか。
高校生になる気があるんなら、中学は無理して行かなくても大丈夫じゃないかな。学力的には問題なさそうだし。
学校は人との関係を勉強するのに、オタクって悪口を言われたのはどうしてですか。
悪口を言われない学校もあるんですか。
先生は人の悪口を言うなとか教えてると思うけど、それを守るかどうかはそいつ次第。当然守らないやつもいる。
言われたのは気分が悪いかもしれないが、君は人の悪口言うのは嫌なんだろ?じゃあそれでいいんじゃないか?
悪口を言われない学校は多分ない。悪口を言うやつはどこにでもいる。
あと思ったんだが、ちょっと親や先生の言うことを真に受けすぎじゃないか?
自分がどうするか、どうしたいかは自分で決める。ときには親や先生と喧嘩になることもあるかもしれないが、それは仕方ない。
人の言うこと鵜呑みにして人生うまくいかなくても、誰も責任はとってくれない。それは全部自分の責任になる。
本やネットの住民の言うことも一緒。
あの一人づつ何か言わされる奴、嫌だったなあ。元増田とはちょっと違うけど、自分語りして供養しよう。
壇上に上がって話す前の一瞬、先生とかクラスメイトの期待が感じられるんだよね。感動すること言えよ、みたいな無言の圧力。
社交辞令みたいなのに嫌悪感があったしお涙ちょうだいものも大嫌いだったからオエーッってなった。それに面白いことも思いつかなかった。
だから
「いろいろお世話になりました。3年間ありがとうございました。終わりです。」
程度で終わらせた。
多くはないけど仲いい友達もいたし、どっちかって言うと面白い人ポジションでクラスに馴染んでたと思う。だからみんな、それなりのスピーチを期待していたはずだ。
その後シーンとなって、壇上から降りようとすると先生の「え?もう終わり?もっとなんか無いの?」って言葉。「はい、もう無いです。」みんなのぽかんとした顔。
わかっててやったけど、あのなんとも言えない空気は忘れられない。
でも少しだけ「ざまあみろ」って得意な気持ちもあった。みんなの予想を裏切ってやったぞ、みたいな。
ありきたりな奴等とは違うんだと主張したかったんだろう。若かったんだな。
そういう感覚、今思い出すとあああああ!!ってなる。痛い痛い…
思うんだが、服なんて所変われば変わるだろ。
一元的な視点であれ着ろこれ着ろいうのやめろ。おまえだけの視点でオシャレを語るのはやめろ。
モニターの向こう側にいる相手が、どんなコミュニティに属してるかでオシャレの定義なんて変わるんだよ。
高校生が精一杯背伸びして、仲間内で自慢しあってるオシャレもあれば、35歳年収一千万超えのエリート商社マンが同僚とBBQする時にきるオシャレは違うだろ。
大学生男子が初めてのデートで着ていく服をクラスメイトの女子に相談したら、その答えは正解なんだよ。
服に興味のない旦那を持つ奥様が、オーシャンズで勉強した知識で購入した贈り物は正解なんだよ。
俺が俺の父親に贈る同窓会に履いていけそうなオシャレな靴と、おまえが合コンに履いていく気合入ったオシャレな靴は違うだろ。
つまりそれぞれ恋人だったり、家族だったり、学校だったり、職場だったり、友達だったりの中で、「オシャレ」と言われたいんだよ。
もっと大きな視点で見たら、おまえのそのオシャレ論、世界で通用すんのかよ。
そういうこと言うと、おれ日本人だから別に日本でオシャレだと思われたらいいよって思うだろ?
それと一緒だよ。
まず相手を見ろ。
※ブコメ返信
『ファッションは飾りなんですよ。中身がないといけない。』
『みんなちがってみんないいって、何も産み出さない気がするんですがそれは』
アパレルの人間に限らず、車でも家電でも、ものを作るときのプロセスを多少なりとも経験すれば、何も産み出せないことなんてないってわかると思うぞ。
みんなわからないなりに、うちのブランドは、今回の商品はこのゾーンに向かって球を投げるって決めて投げてるんだ。
その投げる球の重さが、数字的裏付けだったり、トレンドだったりの裏付けで決まるんだよ。
『書いたぉ(◕‿‿◕) (URL) ぼくのこと、おぼえてくれるとうれしい。』
だれだおまえ。
あのな、ちゃんともう一回読んでから自分の文章よく見返してみろ。
おれもアザナエル?はだせーと思うし、なにドヤ顔で語ってんだとは思うが、それはアザナエルのコミュニティの中で成立したオシャレなら周りがとやかく言うことじゃねーだろつってんだよ。
ほんとわかんねーやつだなあのセンスで周りからオシャレって言われてんなら、別にそれで成立してんだろおまえはアザナエルをどうしたいんだよ。おかんか?スタイリストか?ファッション宣教師か。
書いてある教義から同じ宗教で育ったと思われるのをみて、どうにも見ているだけでいられなくて初めて書く。
私も自分が小さいころに母親がその宗教に入り、物心ついたときには誕生日の祝いもクリスマスもなかった。その宗教が定めている行事以外はすべて「いけないこと」であった。例えば母の日に学校で配られたカーネーションの造花に、手書きのカードをつけてプレゼントしたらひどく怒られたよ。それは神の定めたことではなく、人間が欲のためにつくった記念日だから。
元増田同様、学校で部活動はできなかった。週に何度か行われる集会に参加できなくなるし、週末の奉仕活動に差し障るからだ。門限も小学校のときは16:30だったな。クラスメイトと遊んでいても、ぜったい途中で先に帰ることになる。当然、遊んでくれる友達は減るし、そのうちいじめの対象にもなった。今でも友達は少ない。
部活、やりたかったなあーと、中高生が主人公の漫画なんか読んじゃうとすっごく思う。ああいう経験したかったー。
同宗教外の人と結婚するなんてとんでもないと言われていた。だが、集会に行って同世代の男の子をみても誰も魅力的には見えず、そもそも男子はほとんどいなかった。信仰を持たない男の子は好きになっちゃいけない、ということならば、「私は結婚しちゃいけなくて、ずっと奉仕活動をするのだ」と強く自分に暗示をかけてしまったらしい結果、りっぱなひとり身になっちゃった。……いや、たんに非モテなだけなんだけですかね。
さて元増田は、幸いにも辞めて、結婚もして、子どもにも恵まれている。
それはすてきなことだと思う!
でも誕生会や楽しい園の様子を憂鬱に思ったりするのは当然だとも思う。だってそう育って来ちゃったんだもん。私も子どもがいて、お誕生日会なんか開いちゃって、周囲がお祝いの言葉や品物をプレゼントしてくれたら複雑な気持ちになっちゃうだろうなー。嫉妬しちゃうなーー。
だけど育ちに関しては分かってもらえる方が特殊だと思うんだよ。元増田だって、だんなさんの「男子校だから〜」は意味わかんないんでしょ。そういうことだ。
でもさ元増田はそういう教義はよくないなーってことを知ってるから、その辺は他の人よりも上手に子どもたちを導いてあげられるんじゃないかな。宗教に限らず、狭い世界や思想はいけないってことを知ってるから。
あなたの授かった子どもたちは、そうしたことにならぬようにできる経験があなたにはある。
チームワークについても、これから学んだっていいじゃん。学べることがあるのはラッキーだと思うし、それに気づけてるのもいいことだと思う。
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さて、同じ宗教で育った子どもが、辞めてどういうおとなになるのか気になってはいたので、今日この文章が読めたことは私にとっては幸いだ。
ちなみに私は20歳ぐらいで辞めて、今はひとりで、人とのコミュニケーションが苦手で、子どもなんぞ望めない年齢になって、手も顔もしわしわで、世間的評価としてはダメな部類だろうけど、子どものころにできなかった夜更かしとか、夜の散歩とか、漫画を読むとか、映画を見るとかできて、今の方がしあわせだ。(でも老後は心配だー)
あと最近、宗教に関する本をちょいちょい読んで、子どもの頃のアレはなんだったのかなーって考えられるようになった。ベタだけど、ミルチア・エリアーデの「世界宗教史」は読んでよかった。J.G.フレイザーの「金枝篇」とか、末木文美士の「日本宗教史」とかも。
なんにせよ子どものころ受けたものって根が深い濃いし離れない。「三つ子の魂百まで」ってほんとだねー。また、宗教の話って日常でするのは難しいから、発散もしにくいよなーって思ってる。
そして長くてごめん。
2か月前の4月、まだ新しいクラスメイトの名前も覚えていないような頃、専門コースのクラスで飲み会が開かれることになった。
ありがたいことに私にもお誘いのお声かけがあり、ぜひ参加しようと息巻いていたのだが1つ問題があった。
その日は他界した叔父の1周忌にあたり参加することができないのだ。
しかしどうしても参加したい。いやしなければならない気がした。
その飲み会は新クラス最初の集まりであり、いわば非公認であるが年間行事的な意味合いがあるように感じたからだ。
もちろん参加しなければ、その分周りの対応がそっけなくなるのは目に見えていた。
そういう事情があり、私はその翌週の開催を幹事役の男A君に提案した。
それなら私を含めみんなが揃って参加できるからだ。
「翌週は天気が悪そうだからやめよう。」
?
頭の悪い私は固まってしまった。
これはイジメか。
ガリガリ君をほおばりながら、地元の小学校に沿って歩いていた。
もう体育祭シーズンらしく、校庭には体操服を着た数百人の児童たちがいた。
しかも、台の上の先生と台に上がらせてもらえない立場の四隅にいる先生たちみ見張られて、一挙手一投足制御されてる。
今の自分はこれを見て、北の国のマスゲームと何が違うのか、とふと考えてしまった。違いがあったとしても、将軍様の不在による規模の違いだけではないか。
「ヤバい朝礼」みたいなのを見て、今の自分は「こんなん糞や、子供達がかわいそう」とふつうにいう。
でも、自分がもしあの教室の生徒だったら普通に従ってしまっていた可能性が高い。
「やってやるぞ!やってやるぞ!」って言ってたっぽい。実際に自分は昔あの糞暑い中で疑問も抱かずクラスメイトの脚を担いでいたではないか。
なんか、いろいろ錯綜しているけど、ぜんぶ暑さのせいにする。
三十路になる既婚女性だが、未だにスクールカーストのトラウマから抜けられない。
けど、人生運動だけじゃない、運動ができないのなら勉強で頑張ればいいんだよ、と親に連れられて塾に通いだした。
運動と違って、やればやるほど成績が上がる。
いつも運動ができないと馬鹿にしてくる奴が答えられない問題をスイスイ解くことができる。
それはとても快感だったし、私みたいなクズでも出来ることがあるんだ!と生きる価値を見つけることができた。
高校受験という現実が迫ってくるから、むしろきちんと学業成績を残している人が褒められるようになる。
自然といじめられることも無くなり、勉強はするのも教えるのも好きだったから、友達も増えた。
小学校の頃私のことを馬鹿にしていた運動ができる人(しか出来ない人たち)たちが、勉強教えてーとか言ってきた時の快感は何とも言えないものだった。
高校、大学と進学していく中で、運動ができなくていじめられていた小学校の頃の嫌な思い出は消えていったし、
社会人になってからはジムに通ったりプールに通ったり、出来なくても体を動かす事の楽しさを知った。
完全に克服したなぁと思っていたんだけど、
唯一ダメなことが見つかった。
そこはそろばん教室で通っていたところでもあったから、行くと懐かしいし特に抵抗を感じることはなかった。
懐かしいなあ、などと楽しそうにしている。
こっちはどんどん吐き気が強くなる。
なんでだろう?変なもん食ったかな?
昨日の刺し身が悪かったのか?いや、同じもん食った旦那はピンピンしてるし。
投票会場になっている体育館に入った瞬間、吐き気は一層強くなった。
そして、理由がはっきりとわかった。
運動会のダンス。一人だけうまく動けないからクラスメイトにも笑われる、居残りを強要され、実質残業になった教師からも不機嫌に扱われる。
大人になったからわかる、たしかにこんな不出来な子供のために残業なんて勘弁してほしい。
蒸し暑い体育館の中でひたすら怒鳴られ、練習させられ、泣かされる。
運動会だけじゃない、マット運動跳び箱鉄棒…いろんな種目で同じようなことをやらされた。
運動でいじめられて、スクールカースト最下位に追いやられた思い出は、何年経っても消えない。
幸い自分はそれなりに勉強が得意になったので、自尊心を取り戻すことができたけど、他に得意なことを見つけられなかったら、と想像するだけでゾッとする。
旦那には申し訳ないなと思いつつも、選挙が近くなると休みの日に区役所に行って期日前投票をする。
運動だけで人生は決まらない、けども、小学校の世界では勉強よりも運動が重視される。
なぜリレーやかけっこで運動能力のランキングを表にすることは許されるのに、
答案用紙が流出することの何が悪い。盗まれるのなら問題だけど、他人の運動能力と比較されていじめられることがあるのだから、
他人の点数と比較されていじめられる人がいたっていいじゃないか。
運動の呪縛とスクールカーストの呪縛は、小学校六年間という期間を人生からなかったことにしようとする大きな力となって私の中に残り続けている。
しかし、
アニメを見そうな風貌だと評されるのですがドラえもんやサザエさん等しか視聴した経験がありません。
いわゆる「アニメ」では、まず何を見ておけば間違いないでしょうか。
パソコンについても、文章作成ソフト、表計算ソフト、プレゼンテーションソフト等の
授業で扱われたアプリケーションソフトに関しては人並みに使用できるとは思うのですが、
隣席のクラスメイトが授業中に得意げに見せていた「プログラミング」に関して
概念は理解したつもりなのですが、実際に取り組むに至りません。
何から始めれば間違いないでしょうか。
休み時間に自分の机で独り文庫本を読んでいるクラスメイトがいるのですが、
少し検索をしてみると大変奥深い世界だということは察しました。
何から読めば間違いないでしょうか。
邦楽ですが、疎いです。
何から聴けば間違いないでしょうか。
学校の勉強は出された課題をすればよいだけなのでよっぽど楽です。
人は死んだらどうなるのでしょうか。
結婚1年で妻に冷めた。
結婚前から「大学時代の思い出の場所、京都をいつかあなたと回りたい」と言ってくれていて、
でも結婚以来、外に出かけようと言う日でも結局「なんかしんどいから家でまったりしよう」と言われるようになって、
それなのに最近通いだした学校のクラスメイトたちに「京都を案内して欲しい」と誘われて二つ返事、
「大学にはオレを連れて行ってくれるって言ってたから、先にその人たちと行かれるのは面白くない」と言うと
「思い出の場所を回るわけじゃないから大丈夫、思い出の場所はあなたと回りたいから」と諭された。
結果、帰宅後に見せられた写真は、妻が日頃から大学時代の思い出について話すときに、
「思い出の地は回らないから安心して」と言っておいて、思い出も思い出、思い出のど真ん中の場所に行って写真撮ってくる。
そのとき少しでもオレの顔を思い浮かべてくれたら、
オレと大学の思い出の地は回りたいと本当に思ってくれていたら、わざわざクラスメイト連れてその部屋の前まで行くことはしなかったと思う。
「大事にする」「もっと大事にする」なんて言葉はヘソを曲げたオレへのその時その場限りの口だけのもの、
実はなんとも思われてないんだなってことに気付いた。
よく考えれば「大事にしないでゴメン、これから大事にする」なんて言葉は、ものすごく奇妙で虚しい。
大事にするなんてのは、大事に思っていれば、意識しなくても、無理矢理しなくても、自分からできてしまうものだと思う。
妻からオレにはそういった気持ちがないから、平気でそんな写真を撮って、そんな写真を見せられるんだと気付く。
これまでそういう温度差に執着し、嫉妬し、小言を言い続けてきたけど。
気付くと僕は教室の床に分厚い布団を敷いて寝ている。左の窓ガラスを通してグラウンドの様子が見える。ちょうど体操着を身につけた多くの女子クラスメイトがやってきて、サッカーの試合が始まったところだった。僕はその様子を薄目を開けて見ている。
やがて試合中の数人の女子がこちらに気付き、「ねえ、あいつまた昼寝なんかしてるよ」「うわぁ」などとひそひそ会話を始めている声が、なぜかガラス越しに聞こえてくる。いや、あるいはその時点でガラスは消滅していたのかもしれない。それというのも、サッカーを終えた女子たちが体操着のまま教室へぞろぞろ入ってきたから。着替えを取りに来たのだろうか。僕はばつの悪さを感じてじっと寝たふりをしていたが、まだ薄目を開いて周囲を観察していた。やはりと言うべきか、女子たちがみんな着替えをしている。僕は焦っていた。彼女たちがいなくなってくれるのを待った。果たして教室に居残る女子の数はだんだん少なくなってくる。十数人が数人に、数人が三人に、三人が一人に。ところが最後の一人だけはなかなか教室から離れようとしない。よく見るとその子はあのとき「うわぁ」と言って僕に奇異のまなざしを注いできた女子だった。僕は早く出て行ってくれとイライラしながら狸寝入りを決め込み、そうして仰向けのままひそかに様子をうかがう。するとどうだろう。彼女はこちらへ向かって歩いてくるではないか。思わず僕は警戒心から目を閉じる。一時的に暗闇が広がり、彼女の足音や衣擦れの音だけが耳に響いてくる。いま教室には、僕とその女子の二人しかいない。
突如、唇に感覚が宿った。ああ、彼女だ。僕が寝ているのをいいことに悪戯を仕掛けようとしているのだ。気が動転しそうになったがそれでも動かなかった。じっとしていればいつかは満足して去ってくれるはずだ。そう思い、なんとかやり過ごそうと考えたのだ。
しかし悪戯のやむ気配はなかった。そのクラスメイトは僕の身体のいろいろな場所に唇を押し当てて遊んでいるようだった。僕はとうとう痺れを切らして薄目をそっと開く。すると運の悪いことにばっちりと目が合ってしまった……やむを得ない、僕は瞬時に身体を起こすと彼女に襲いかかり、教卓の後ろの壁際まで追い詰め、急いでレイプして射精する。
精液を受け止めてべとべとになった自分の手をぼうっと眺めていると、途端に罪悪感がこみ上げてきてその場を逃げ出した、というよりは手を洗いたかった。トイレから戻ると教室はすでにクラスメイトで溢れかえっており、もう授業が始まっていた。授業……いや、「代理試験」? ……そう誰かが言っていた気がする。その真相はわからないが、席をランダムに交換してお互いが他人の代わりに試験を受けなければならないのだった。僕の席には無口な女子が座っている。僕は自分の机やその周りにたくさん荷物を置いて散らかしていたので申し訳なく思い、急いで片付けた。軽く謝っておいたが相手は意に介していない様子だった。考えてみれば彼女は僕の代わりなのだから、まあそれもそうだろうと思った。
僕は教室の真ん中あたりの席に座った。しかし僕はいったい誰の代わりをすればいいのだろう、それがわからなかった。僕の不安をよそに授業(結局授業なのか)は進められていく。女教師はこれから流すアニメの解説をすると言う。それは僕の知らないアニメで、タイトルはもう忘れたが、主人公が夢の中で一人の少女を追いかけながら夢世界を放浪するという内容だった。人が夢を見る理由、それは、夢の中でしか出会えない女の子を捜すためである、云々。先生がその少女のスケッチと簡単なプロフィールを板書していく。なぜかまどかマギカのBGMが鳴っていた。
ノートを取ろうとして違和感に気が付く。授業でアニメの内容をノートに取る? そんなことなどあるのだろうか? ちょっと考えられない。そう思った瞬間、ここが「夢」だと気付いた。と同時に、世界が狂い始める。気付いてしまった僕は、夢の世界にとっては異邦人となり、その深刻な不和がひずみとなって僕に襲いかかる。おそらくこれが夢の自浄作用なのだろう。足元の床がぱっと消えると同時に、周囲は一気に目まぐるしくなり、すべてが光に包まれ、僕は蒸発させられていく。帰るべき場所へ帰れと、耳元で囁かれているようだった。
背も小さいし運動も苦手だった。
よくプロレス技をかけられたり、物を壊されたりした。
イジリというやつだ。
中学生に上がると、体格にも差が出てきて、笑って済ませられないほど暴力が強くなった。
よく、人のこないような物陰につれこまれ、殴る蹴るの暴行を受けた。
トイレで顔を便器につっこまれたりした。
火の着いた爆竹を投げつけられたりした。
僕はすっかり萎縮して、家の外ではうまく話せなくなった。
そして事件は起こった。
体育のために体操服に着替えようとしていると、不良達が僕を無理にひっぱってきて、
また殴られるのかと思ったけど、いつもの方向ではなかった。
更衣室の方に向かっていた。
どういうことかと思っていたら、
女子更衣室に放り込まれた。
僕一人残して、背後で扉が閉まった。
大量の視線が僕に集中した。
誰も何も言わなかったけど、
「は?なんであんたがここにいるわけ?」
という冷たい視線に、瞬時に血の気が引いて、倒れそうだった。
僕はすぐさま女子に背を向けて、今入ってきた扉から外に出ようとした。
けど、外から不良達が扉を抑えているようで、びくともしなかった。
意地になった。
僕は全体重をかけて、全力で扉を引いた。
そしたら3センチくらいだけ、扉が開いた。
おっ、と言う声がして、すぐに向こうも全力で扉を抑えにかかって、
僕の全力は無に帰した。
息も絶え絶えに、ただ扉に手をかけていると、
スッ、と、その手のひらに誰かの手のひらが重ねられた。
彼女は不気味な目つきで僕のことを見ていた。
なんと言うか、目が座っていて、目元が笑ってないのに口元だけ笑っていた。
とにかく、不安にさせられる目だった。
彼女は言った。
「こんな所で何してるの?」
見た通りいじめられてるんですが、とは言えないまま、黙っていると、
「犯罪になるよ、こんなの」
まるで僕が加害者のような言い方だった。
僕のせいなわけで縮こまるような思いだった。
「脱いだら許してあげる」
は?と思ったら、彼女は突然、制服の上を脱ぎ始めて、ブラ姿になった。
知識として知ってはいたけれど、自分の身の回りの女の子がブラジャーをしていたのに驚いた。
お母さん以外のブラジャー見るのは初めてだなとか、女の子はみんなブラジャーするのかなとか、
頭のなかをすごい勢いで思考がぐるぐる巡った。
「ほら、脱いで」
「脱げってんだよ!」
狙いは外れて、僕の背後の扉にぶつかって、バンッ!という腹に響く大きな音を立てた。
僕は言う通りにするしかないと思って、制服の上を脱いで上半身裸になった。
「下もだよ!」
「はやくしろよ!」
気がついたら僕に向かって怒鳴っているのは3人になっていた。
怖くて腹の底が冷たくなっていた。
彼女達は少しの間、僕を眺め回した後で、
「きゃー!」という声が更衣室全体に響き渡った。
あまりのことに全身が硬直し、思考が真っ白になった。
だけど、正直、気持ち良かった。
白状すると、何の力もないはずの自分が、女子達をキャーキャー言わせているのが、嬉しかった。
半笑いで、嫌そうにしながら、その実しっかりと僕の股間に視線を向けているのが、楽しかった。
むくむくと大きくなった僕自身。
それを見て、さらに場は狂乱した。
僕を恐れるように、更衣室の隅に全員で身を寄せ合って固まりながら、
視線だけはガン見してくるのがおかしくておかしくて、笑みが浮かんだ。
そして、突然ガラッと扉が開いた。
振り返ると、体育の先生が立っていた。
騒ぎを聞きつけて、やってきたようだった。
不良達はもう居なくなっていた。
次の瞬間、視界が全て線になった。
今思えば、ぶん殴られて床に倒れたのだろうが、その時は何が起こったかわけが分からなかった。
髪の毛をひっつかまれて無理やりに立たされ、保健室に連れて行かれた。
服はすぐに返してもらえた。
ホームルームになって、担任に連れられて教室に戻った時は、緊張のあまり小便を漏らしそうだった。
教壇に立たされ、僕は弁明を迫られた。
知らない男子は敵意、攻撃、弱いものをいたぶろうという、いつもの視線だった。
僕は何も言えずにうつむいた。
体中から汗がふきだした。
涙が溢れて溢れて止まらなかった。
少し漏らした。
恥ずかしくて、測らずも悟った自分の変態さが情けなくて、悔しくて、しゃくりあげないようにするだけで、精一杯だった。
「おい、何か言えよ」
「泣いて許されるとでも思ってんの」
「ばっかじゃねーの」
と罵倒が飛んできて、死にたくなった。
もういっそ、この場で盛大に漏らしてやれば、笑いが取れるかなという考えがチラッとよぎった。
僕は、
「ご、ごっ、めっ、んな、しゃい」
と、情けない謝罪をするのが精一杯だった。
「ごめんで済むかよ」
「泣いた子もいるんだぞ」
「お前死んだほうがいいよ」
あんなに面白がっていたくせに、泣いたなんて話になっているのかと思うと、
僕の味方はこの世に一人も居ないのだと思い知った。
それから僕は、クラスメイト全員の前で、二度と女子の前で全裸にならない、などという、
真面目に聞いたらちょっと笑っちゃうような内容を誓わさせられ、
ホームルームが終わって下校する段になって、いつもの校舎裏で男子一人一人に一発殴られてから家に帰った。
初日は本当に熱が出た。
殴られすぎたせいだろうと思う。
2日目はまだ体が思うように動かなかった。
3日目は惰性で休んだ。
両親も何も言わなかった。
4日目にはこのまま学校に行かなくなって、
社会からドロップアウトするのも悪くはないかなという気になっていた。
そう思うと一気に気が楽になって、久しぶりに小説でもじっくり読んだりした。
僕が玄関を開けるなり、
「こんなことになってごめんね!」
と謝ってきた。
僕は何か、天からの光に包まれたような気がした。
救いの手が差し伸べられたと思った。
温かい光だった。
学校に来なくなってしまった僕を気にして、彼女が誤解を解いてくれたそうだった。
僕はそれを聞いて、涙を流しながら、
と繰り返し感謝した。
彼女はそんな僕を抱きしめて、落ち着くまでずっとそうしてくれていた。
ほとんど初めて話した仲だったのに。
後から聞く所によると、僕は陰ながら女子から人気があったらしい。
僕を脱がせた子達も、ちょっと僕に気があってあんなことをしてしまったらしかった。
僕の彼女も実は僕に興味があって、例の騒動の一部始終をスマホで撮影していたらしい。
それから僕を陥れた不良達が逆にホームルームで謝罪することになり、
僕を不登校にしたことから女子達から陰湿な制裁を受けて逆に不登校になってしまった。
おかげで僕はいじめられることが少なくなった。
ただ、ひとつだけ問題があるとしたら、僕の彼女はとてもSっけが強くて、
何かと僕を振り回して楽しむところがある。
今もこうして、僕達が付き合うことになったきっかけを、全世界に公開しろと迫られて文章を書いているところだ。
動画の向こうの僕が、その時どう感じていたかを、臨場感豊かに書けと言われて、もう3回も加筆修正している。
今やっとOKが出た。
大好きだよ、R.W.
君のおかげで、僕は少し男らしくなった。
今は君に守られてばかりだけど、いつか、いつか君を守れる男になるよ。
愛してる。R.S.
小さい頃私は絵を描くのが好きで、部屋にこもりがちだった。
おとなしめで、友達は少なかったとおもう。
担任にも親にも外で遊べと言われるようになった。
教室で絵を描いてると怒られる。
放課後も家で絵を描いてると怒られる。
「絵なんか描いてないで外に行きなさい」
「自分が子供のときは友達と遊ぶのが楽しくて、家になんかいなかった」
「一緒に遊ぶ友達いないの?」
そんなことを言われて、
児童館に行かされたりしてた。
強制させられて楽しめる訳なんかないし、
人見知りだったから集団のなかではひとりでポツンとしていることが多かった。
みんな仲良く楽しそうに遊んでるのに自分だけ一人。
ほんと嫌だった。
強制させられて嫌な思いやつらい思いばっかりしてるうちに
友達といることが楽しいことではなくて苦痛としか思えなくなった。
誰かといて安心感も感じられない。つかれるだけ。
すごく嫌だったんだけど嫌だって言えなかったのは、親を心配させたくなかったし、
友達はいなきゃいけない、友達がいないのはおかしい、恥ずかしい、
っていうことを何度も言われてたから。
自分に必要以上に自信が無くて卑下するようになったのは多分このせい。
結局打ち解けられなくてぽつんとしてひとり浮いて周りから気を使われると
上っ面でしかつきあったことがなくて。
心の繋がりとか、腹を割って話すとか、どうしたらいいのかわからない。
壁作ってるって言われる。
でもほんとにどうしたらいいかわからない。
最初は仲良くできても、時間がたつとみんなだんだん離れていく。
見た目は悪くないみたいでたくさんの人が声を掛けてくれるから、そういう人を受け入れるだけ。
裏があったとしても自分に対して好きと言ってくれるひとはみんな受け入れる。彼氏もそう。
誰々っていう個性ではなくて、みんな同じ、「友達」とか「彼氏」としか見れなくなってて
友達が居ること、彼氏がいること、休日に予定が入ってるっていうことで安心する。
普通ってなんだろ。
入学式や入社式を終えて、新しい環境でスタートを切った人も多いだろう。
期待と不安に包まれる4月、ネット上では「ぼっち」という言葉がバズワードとなっている。
twitterや2chでは「早速ぼっちになってしまった」「どうすればぼっち回避できるの?」といった投稿が目に付くし、
ブログやまとめサイトでは「ぼっちには絶対なるな」「ぼっちにならないための◯つの方法」なんてエントリがブックマークやいいねを集めている。
ぼっち=コミュニティにおいて孤立することは望ましくないことであり、忌み嫌われる。
会社において、より円滑な業務遂行のためにも孤立は避けるべきだろうし、経験上私もそう思う。
それでも同時に、孤独によって得られる時間がかけがえの無いものであることも、理解している。
このエントリではとりわけ大学という場においての孤独の価値を書きたい。
私自身の大学入学後にクズとつるんだ経験と、別大学への編入後のぼっち経験の両方から、タイトル通りの主張をしたい。
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漫画やアニメ、最近では動画投稿サイトに上げられた他者の作品を一方的に大食らいし、
自分と違う人(生産的で積極的な人)を見ては馬鹿にする、茶化す人のことだ。
(クズという呼び方は的外れかも知れないが、まあ呼び方はこの際何でも良い。)
クズとつるむことの何が問題か。
コミュニティに所属する人々の思考が平均化されるのは、至極自然の作用である。
特に大学というのは高校よりも遥かに大きなコミュニティであり、他者からの影響力が大きい。
入学したてともなれば、どのように大学生活を送って良いのか分からず、友達グループの他者を見て真似ることが多いだろう。
真似る対象がクズ、もしくは最初はニュートラルだったが後にクズ化する人だった場合、あなたのクズ化も始まる。
授業が面倒なのでサボる。ダルいダルいとアピールし不要なことは極力やらない。
自分と違う人間を馬鹿にしたりツッコミを入れるのも、それが楽で楽しいからだ。
読んでいる人の中にも心当たりのある人がいるだろう。
そんな何もしない人間がかっこ良く見えるのは漫画やアニメの主人公だけだ。
本人はかっこ良いつもりかも知れないが、周りから見たらクズはクズなのだ。
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こういったクズな人達とつるむくらいなら、自ら進んでぼっちになろう。
理想的には、生産的で積極的な人達とつるむのが良いのだけれど、大抵どの大学でもそんな人間は中々いるものではない。
ぼっちは悪いことではない。
孤立を怖がるのは生物としての心理的防衛本能が働くからで、そもそも良い悪いの尺度で図れるものではない。
ぼっちになるとどんなチャンスが得られるか。
孤独になることで、思考と試行をするための膨大な時間を確保できる。
他者に邪魔されない時間が手に入るのだ。これを大いに活用しよう。
読書をして知識と思考を深めるのも良いだろう。
適度にアルバイトをしつつ外国語を勉強して、海外を旅してみるのも良いだろう。
簡単ではないが、専門科目で苦戦するクラスメイトを尻目に、教授が驚くほどの専門知識を身につけてしまっても良い。
大学内でぼっちでいても、大学外で同じ趣味の人や気の合う人を見つけたって良いのだ。
独自の視点で作品を作って、動画投稿サイトに上げてみるのも良いだろう。
インターネットを通じて世代を超えた交流が生まれることもある。
クズは挙って馬鹿にするだろうが、生産的で積極的なあなたの行動をあなたは誇って良いのだ。
クズはクズのままである一方で、あなたが得た経験、知識、スキルはやがてあなたの自信となるだろう。
以前こんなエントリを書いた。
悪い面を過度に強調した釣り記事で酷い自分語りではあるが、これも私に孤独な時間があったからこそ体験できたことの一例である。
「ニコニコ動画で有名になっても良い事がなかった話」
http://anond.hatelabo.jp/20130124181650
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こんな反論があるだろう。
「友達付き合いもしながらも、1人の時には努力すれば良いじゃん。」
しかし、私を含めた多くの人は、多大な影響を他者から受けてクズ化してしまう。
周りの人達が口を揃えて明日の1時限目はサボると言えば、自分もまぁ良いかと思ってサボってしまうのだ。
周りの人達のTOEICスコアが450点だったなんて聞いてしまえば、自分は500点だったからまぁ良いかと思ってそれ以上の努力はしないのだ。
大学生なんてそんなものだ。私は大学編入を機にこの状態から抜けだしたが。
別の反論としては、
他人と違うことをやってきたこと自体は就活でアピールできるだろうが、
入社後、他人と考え方が違うことで摩擦を生む可能性は十分にある。
これはぼっちとしてやってきたことによる代償とも言える。
他人とうまくやる能力に関しては、クズ同士つるんで画一化された人と比べて劣っていると認めた上で、
多少の歩み寄りが必要かも知れない。
これも悪い面を強調してあるが、私自身入社後に苦労した体験から書いた記事である。
http://anond.hatelabo.jp/20130324133313
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大学時代をぼっちとして過ごす人は独自の経験と思考と価値観を武器にできる可能性がある。