はてなキーワード: クラスメイトとは
甘えんなとか世の中ナメてるとか、言われるんだろう。
だけど、私より不幸な人を見たことがない。
いつも体の中に泥がつまっているみたいな感じがする。
利口で計算高く生まれついた私は、子供の頃から要領よく大人をナメ腐って利用して生きてきた。
汚らしい愚かで浅はかな奴ら。
だってゴーギャンの絵に描かれた深いメッセージもハイネの詩も読めないなんて。
きっと脳に神経の代わりに納豆菌がつまってる。
東京の美大に通うために上京してからは、いいようなものになりかけてきたけどね。
でもやっぱり大人はダメね。
つまらなくて形にはまってて、眩い物なんて何も生み出せそうにない。
でもでも、じゃあ私はどんな芸術ができるのって言えば、何もできないの。
絵を描いても詩を書いても、何もない。
心が動かない。
偉大な芸術家の作品からは感じれるのに、その美しい何かが私の中を通ってキャンバスに吐出されると泥水みたいになって。
これじゃ私もつまらない大人になっていく。
だけど、そうじゃない人もいて、彼女が作るものは美しくて儚くて、きっと深いところで宇宙と一体化してる。
時間の流れを生み出す何かなんだ。
でも私にはできなくて。
それに気がついて、私は学校を休学した。
休学して何をしていたかといえば、体を売っていた。
これもきっと芸術の一種。
楽しくて仕方がなかったよ。
もう男のことは何でも知ってる。
男は女の裸を見てるつもりになってるかもしれないけど。
全部さらけ出しちゃってるのは男のほう。
2年間休みなく売り続けて、抜け目のない私は一財産築き上げた。
そして利口な私は、始めた時期もよかったんだけど、株でそれを倍にした。
配当だけで一生食うに困らないよ。
私は自由だ。
現世に蘇った高等遊民とは私の事。
なんて大嘘。
満たされない。
つまらない絵、誰も感動なんてしない。
空間に広がっていく粒子が見えない。
あってもなくても同じ。
居ても居なくても同じ。
気がついたらまた体を売っていた。
でも今度は私がお金を払って売っていた。
抜け目のない計算高い私は、汚くて臭くて愚かな中年に一晩だけ夢を見させてあげる。
奥さんとはもう何年もしてないのね。
私がここに居るって感じられるのは、この時だけ。
昨日彼女の絵を見に行った。
殺してやりたいと思った。
学校での掃除についてひとつ思い出した。中学の頃、確か3年だった。
やはり子供は掃除なんか嫌いなようで、時間になっても大体みんな掃除を始めない。先生が来てやっと始める事がほとんどだ。
俺はそれが嫌だった。与えられた役割をこなさないのもそうだし、掃除すべき時にしないと教室が汚くなっていく気がして、ゴミの中ですごしている気分になって嫌だった。潔癖症ではない。俺も掃除は嫌いだ。
そこで俺のとった行動は、時間になったら一人で掃除を始めるというもの。もちろんその間誰も手伝ってくれなどしない。そして先生が来てみんなが掃除を始めると、俺は掃除を止める。先生が来るのが遅いと半分以上一人で掃除してしまう事もあった。
先生にしてみればみんなが掃除してる時に俺だけ掃除してない様子しか見ていないので、俺がサボっているだけだと思われていた。
なぜかクラスメイトに「掃除しなよ」と注意された事もある。先生がいるから、ではなかった様に思う。彼は何故俺がサボっているのか、本当に疑問に思っている様だった。俺が掃除している様子は誰の目にも映っていないのかと不思議だった。俺が掃除している間サボってたお前が言うのか。そう思っていたが無言で通した。
なんとなくみんなが掃除をするようになってきたので先生が来てもそのまま掃除をするようになった。先生は「○○君も掃除してくれるようになったね。」と言っていた。先生から見ればサボっていた生徒が掃除をするようになったのだから当然だ。
そしてまた元通り先生がやってこないと掃除しなくなった。俺も先生が来たら掃除を止めるようになった。みんなが掃除をやるようになったのは、何かの気まぐれだろう。もちろん俺の行動の影響などではない。
しばらくしてばかばかしくなって普通に掃除をするようになった。みんながやっていようといなかろうと、先生がいようといまいと関係なく。ほんの3ヶ月間くらいの話。
十年以上昔、小学生だった頃、何の気なしに学校の掃除をしていたことがある。昼の休み時間、自発的に、一人で黙々と。
掃除を始めたことに意味はなかった。昼休みを一緒に楽しく過ごして遊ぶ友だちもいなくて、しかも家で一人ゲームで遊ぶことに慣れた自分は、学校で時間を潰す手段に飢えていた。
学校で一人時間を潰す手段の最たるものは図書室での読書だろうが、自分の住んでいたところは田舎で、その蔵書は微々たるものだった。興味のあるものは高学年に上る前に全て読み終わるほどだったし、だからといって興味のない本を読むには、当時の自分はまだ堪え性が足りていない。
それである時ふと、することがないのなら、昼休みと五時間目の間にある掃除の時間を前倒ししようと思いついた。例えるなら、夏休みの宿題を最初の数日で終わらせておく気分で。
あとは昼休みが終わって校庭から帰ってきたクラスメイトをちょっと嬉し驚かせたかったのもある。皆まじめにやらないから一人でやったほうが早いんじゃないかと思っていたのもある。
それで実際動いてみると、最初は自分の思い通りに事が進んだ。クラスメイトは正直「いいの?」と戸惑っているようだったけれど、面倒なことをしなくて済んだのだから喜んでいた部分もあった、と思うたぶん。その後も数回やるうちは、お礼を言われたりして、単に気まぐれでやっているのだということで事は済んでいた。
ただそれが一週間、二週間と続くようになると、やはりちょっと変な空気になった。そしてその雰囲気は次第に担任の先生にも伝わった。
そう理由を尋ねられても困った。今でこそ説明は付けられるが、その当時はそれをうまく言葉にできるほどの力はなかったから。
「暇だから」
結果、そういう答えが自分の口から出た。先生は納得しなかった。
「本当は誰かにやれって言われたんじゃないの?」
そう言われて初めて自分も気がついた。先生は理由付けに迷った結果、この子はいじめにあっているのではないかと考えたのだろう。
「……違います」
そう言うと、先生はどうにも困った顔をした。判断がつかないという様子だった。それから少しやりとりがあった後、
「じゃあ誰に言われたわけでもなく、自発的にやってるのね?」
「……はい」
それは先生にとってみればただの強い念押しだったのだろうけれど、自分は先生に一人呼び出された経験があまりなかったから、なんとなく自分が怒られているような気分になった。もともと涙腺も緩い方だったから、涙もこぼれた。
結局、自分は次の日からは掃除を止めた。自分の行動で周囲が予想外の反応を示したので、もう面倒というか、嫌になったからだ。すると、クラスメイトの誰が言い出したか、偽善だ偽善としばらくからかわれることになった。
それで若干嫌な思いはした覚えはあるが、そこから先生が懸念したいじめが起こることはなかったし、しばらくはもやもやとしていたものの、時間が経つといつの間にか全てを忘れてしまった。
この前地元に戻ってまた帰る新幹線の中、そういえばとこのことを思い出した。その時自分はちょうど就活の時期だったから、じゃあこの時自分は何を学んで今に至るのだろうと眠い頭で考えた。
「はっきりとした裏付けのない善意っぽい行動は、だいたい善意に受け取られない」
「本当に相手は言いたいことを言っているのか、確認する方法は何かあるか」
あとは余計な、出る杭は、とか、その時はそういうありがちな題を立てるだけで終わったんだけど、もうちょいなんかなかったかなと今思い出して考えてる。
12/7 追記
ブコメで予想外に色々な反応があって驚いた。
一個だけ、モデルにした当時の先生は決して悪い先生ではなかったとだけ。責任感に積極的なものと消極的なものがあるなら、その先生は積極的な方の責任感を持ってたし、個人的にはそれは良い先生の条件に含まれると思うので。
◆第1段階「否認」
ぼっちになりつつあることに気がついたり、友人が残り少ないと周囲から認識されたときに、まず現れるのがこの「否認」です。
「これは何かの間違いに違いない」
「自分に限ってそんなことは起こりえない」
なんとかぼっちから脱出しようとしてキョロ充になりかけるのもこの頃。
一緒にいて楽しくないのに無理にクラスメイトと一緒にいたりして…今から思えば無駄な時間を過ごしたなと感じます。
◆第2段階「怒り」
「否認」が維持できなくなると、次第に自分の命が短いことを認めざるを得なくなります。
すると、「怒り」が現れます。
「なぜ自分がこんな目にあうんだ!」
「一体私が何をしたというのか!」
というように、あらゆることに対して「怒り」が向けられます。
楽しくない相手と無理に一緒にいるので当然人間関係は広がりません。自分も楽しくないということは相手も対して自分のことを大事に思ってはいないのです。
本当は無理して一緒にいるのが間違いなのですが、自分がぼっちになることを受け入れられないので周りに怒りをふりまきます。
自分が楽しいと感じられないのは周りが悪い、周りが悪いから楽しい友達ができないと思い込み、ストレスをためます。
◆第3段階「取引」
十分な「怒り」を体験した後は、もはや避けられない今の現実を少しでも先延ばしにできないものかと、交渉する段階に入っていきます。これが「取引」です。
「何か人々の役に立つようなことをするから、友達になってほしい。ぼっちを避けたい」
「もう2度と悪い行いはしないから、ぼっちだけはやめてほしい」
このような「取引」は、主に個人が勝手に決めている「友達になれそうな人(実際は相手はなりたいと思っていないし、本人も大して好きな相手ではない)」にむりやり押し付けるようになります。このあたりになると大抵の人は逆に孤立します。
◆第4段階「抑うつ」
周囲との「取引」が成立しない、自分はもうぼっちになるしかないのだ、という心理状態にたどり着くと、「抑うつ」という段階に移行します。
「ぼっちとして生きていかなくてはならないのか・・・」というぼっちへの”準備的な抑うつ”と、自己の性格を批判する”反応的な抑うつ”があります。
傍目から見るとすでにぼっちになっている上に思い悩んでいるという、どう考えても更に人を遠ざける状態になります。
ひとりで暗い顔をしている人に進んで声をかける奇遇な人は宗教団体の勧誘くらいなものです。
◆第5段階「受容」
この段階まで来ると、自分のぼっちを「受容」できるようになってきます。ゆったりとした平安な気持ちになり、ぼっちに向けて気持ちが整ったような状態になります。
自己嫌悪もなくなり、周囲へのストレスもなくなり、「もうぼっちでいいや」と割り切るようになります。
ここまでくると一人焼き肉、一人カラオケ、一人温泉、一人酒、などなどの「おひとりさま」を堪能するようになり、
周囲から見ると逆に楽しそうに見えてきますし、本人も今まで無理に人間関係を保とうとしてたのは一体何だったんだ?とやたらスッキリした表情をしはじめます。
集団心理が強い人たちから見れば奇人変人に見えますが、人によっては楽しそうでいいな、と思う人も出てきます。
逆に楽しそうにしているので人に誘われることも増えてくることもありますが、
一人の楽しさを堪能してしまっているので往々にして断ることが多くなります。
たまに断りきれずに食事をとったりすることもありますが、逆に疲れてしまい後悔することも多い。
「ぼっちになりたくない」と気をもんでいたというのに、気がついたら「ぼっちのほうが楽しい」にシフトチェンジするのです。
ウィキペディアの死の受容から改変追記してぼっちエンジョイの自分に至るまでを書いてみたが本当にこんな感じだった。
かつてはぼっちになりたくないともがいていたのに、もういいや、と思った瞬間にぼっちが楽しくなります。
今はもはや楽しそうなリア充を見ても爆発しろとは思わなくなりました。
私は一人で楽しむから、いいやと。
とはいえずっと一緒にいるわけではないのでぼっちで過ごすことも多いです。
じゃあ、僕の打ち明け話も聞いてよ。
僕はさ、割と人当たりはいいほうなんだ。いや、人間関係が得意かと聞かれれば、自他共に苦手と認めるタイプではあるんだけど。
どういうことかといえば、ニコニコしてるのが得意なんだ。周りの言葉を借りると「天然キャラ」なんだそうだ。それだけのことだ。それで、人間関係が苦手でも、大多数の人に嫌われるようなタイプではない、そう実感している。
だから僕は、例えば進学直後、進級直後、新しいクラスメイトや部活の仲間の中で、割といろいろな人と仲良くなる。そしてそのうち、男女問わず、すごく仲良くなる人も、たまにはいるんだ。
すごく仲が良いっていうのは、、実感でしかないから説明しづらいんだけど、まあここではいろんなことを二人で話す間柄としておく。(ちなみに僕はまだ恋をしたことがないから、この文章は恋愛沙汰とは無関係だ)
人と仲良くなるのは嬉しいんだ。僕はそういう時、幸せなんだ。誰かが僕を認めてくれている。そう、ここからが問題なんだ。
この人に、もっと僕の全体を認めてほしい。このひとなら、なにか言葉を返してくれるかもしれない。人と仲良くなると、どうしても毎回そんな感情が生まれてきてしまう。そうして僕は、ただニコニコしているだけじゃない自分を、より人間味の詰まった自分を、少しずつその人の前にさらけ出していくんだ。そう、つまり、「打ち明け話」をしていくんだ。
それはさすがにいじめっ子だったとか、ドラックをやっていたとかそういう類のものじゃないけど、重い話だ。そこからは止まらないんだ。依存していくんだ。軽い内容から話していって、受け入れてもらえたと思ったら、少しずつ重くしていく。自分の背負っているものをちょっとずつ相手にも背負わせ、相手の心の中を覗きこもうとする。僕はそういう人間になっていくんだ。
でも、打ち明け話をする、というのはそういうことなんじゃないかと思う。自分だけで背負ってきた悲しみ、誰かに知って欲しくてここまで引っ張ってきた悲しみの量を、誰かに見てもらいたい。見せつけたい。そしてあわよくば、これから先も一緒に背負って、歩いていってほしい。
「それでも、僕の打ち明け話を聞いてくれる?」そんなことを全部説明したら、いいよと心から答えてくれる人はいないだろう。その壁を越えるには、、愛が必要なんだろう。そう思う。
最近、日経新聞の記者が実はAV女優もやっていました、という話が話題になりましたが、
アメリカで生活していると、「日本人の貞操観念って崩壊してるよね」
ってよく言われます。「どういうこと?」と聞き返すと、キャバクラや、
風俗や、AVについて、「ドキュメンタリーを見たよ!日本人ってほんと変態だね!」とか言ってくるわけです。
アメリカにいる中国人からは、「日本人には本当に感謝している。蒼井そらさんは僕の青春だ」
って言われたこともあります(実際、蒼井そらさんは中国版ツイッターフォロワー1380万人超えの超有名人)
蒼井そらさんが中国人男性の青春になっているとは知らなかった。。と思い、日本の性の文化、特にAVについて調べていたところ、どうやら日本には1万人以上の現役AV女優が存在しているという話があります。
1万人!
仮に20代が現役女優の75%を占め、学年150万人とすると、単純計算で、0.75万/750万→ 20代女性の1000人に1人は「現役の」AV女優、ということになり、また、AVの世界は競争が激しく、出たくても出られない人たちもたくさんいるようです。一方、風俗業に従事する女性の数は30万人以上、ということのようなので、仮に20代、30代が90%を占めるとすると、45人に1人が「現役の」風俗嬢ということになります。
AVに話を戻すと、僕の知る限り、海外では恵比寿マスカッツみたいなAV女優がアイドルになるみたいな現象は少なくとも全然起こっていなくて(恵比寿マスカッツの話をするととてもびっくりされます)、日本の貞操観念ってぶっちゃけどれくらい異常なんだろう、という話なんですが、
その前に、一応僕の結論というか、仮説を明らかにしておきたいと思います。それは、日本人って、例えば南米出身の男女と比べると、全体の印象で言えばまったく性についてオープンじゃないのに、一方でこんなに破廉恥な文化が形成されているのって、もう、世界最強のむっつりスケベ民族ですよね!っていう話、、ではなくて、この文化って、実は僕たちが考えていたよりもずっと、少子化に悪影響を及ぼしているんじゃ?ということです。
僕の個人的な歴史を振り返ると、僕の世代全体がそうかは分かりませんが、中学生の頃にはエロ本、それも自分たちで買いにいく勇気がなくて、クラスメイトのお兄ちゃんのエロ本やビデオテープをこっそり回して楽しんでいたくらいで、友人の多くは好きな女の子を想像してマスターベーションしていました。親のいないのを見計らってリビングでビデオを見たり、パソコンがあっても共用なので、親に見られないように履歴を必死に消したりしていたわけです。
今の中学生で、スマホやパソコンを持っている多くの男の子達は、インターネットを通じて、あらゆるAVに簡単にアクセスできますよね。
一方、当たり前の話ですが、こんなにAVにアクセスし易くなった今、AV女優1万人の分母の中で、主観的に一番好みな女優さん(上位0.01%!)のAVを見てマスターベーションしてるわけですよね。それってもう、ほぼ間違いなく、クラスで一番かわいい女の子よりかわいいし、スタイルも良くて、セクシーな女の子を、日常的に見ていることになるわけです。
中学生やそこらで性に目覚めたその時から、そうして性的な欲求を解消してきた世代が、自分の身の回り(リアルの人間関係)の中で、「僕たち、添い寝フレンドでいいよね」ってなるのって、本当に全くもって自然なことなんじゃないかって思うんです。だって、性欲はもっとセクシーな女の子が解消させてくれるんだもん。(男性用とは比べるべくもないけれど、女の子用のAVもたくさんあって、昨今どんどん浸透してきているという話もあります)。
AVじゃなくてよりリアルな性的体験が欲しい人には風俗が、中規模以上の街であればほとんどどこにでもありますよね。
でも値段も敷居も高い(だれか知り合いに見られたら、とか気にする人も多いと思う)ので、みんながいったことがあるってわけではないと思うし、毎週行くってものでもないと思うんです。
でもですよ、テクノロジーの進化はすごいもので、OculusRiftやらのVR技術を使って、3次元でAV女優と性的な欲求を解消することのできる世界が、すぐそこまで来ています。関連の業界の市場規模や技術力をみても、日本は先端を走るんじゃないかって予感がビシビシするじゃないですか。ハードウェアもコンテンツも最初は高価かもしれませんが、時間とともに廉価になっていくでしょう。そうしたら、リアルな、主観的セクシー度数上位0.01%の異性との性的な体験が、だれにも見られずに、外に出る必要すらなく、廉価で、しかも望むなら毎日でも体験できる、ということになっちゃうわけじゃないですか。
これって、ちょっとまずい気がするんですよ。なんというか、AVという文化の、情熱と技術と絶え間ない努力の結果としての進化が、人間の未来を蝕んでるんじゃないかって。そんな気がするんです。
多分すでにある程度なってると思うんですけど、本当のセックスよりもドーパミンが出る(かどうかは知らないけれど日進月歩で進化中の)刺激的なコンテンツに毎日のように触れてたら、性欲ってなくなっちゃうよね、っていう。
かといって状況を俯瞰してみると、気軽な居酒屋バイトからガールズバーからキャバクラからピンサロからソープから、サービス業としてみるといろんな種類のサービス業が断続的につながってて、また学生のバイトからプロまでいろんな働き方があって、シングルマザーや複雑な家庭環境の背景があったり、生活保護を受けようとした人が公務員に「風俗で働けば」と言われることがあったりで根の深い問題と絡んでいたり、それでいてその全体とAVの話が連続的につながってたりする(それに加えて「元グラビアアイドル」のAVがあったり深夜番組にAV女優が出演したりという形で芸能界が絡んでいたりする)っていうとっても複雑な構造になっているんじゃないかと勝手に思っているので、どこをどうしろっていう建設的なことはまったく言えないのですが。。
なんとなく、日本人の貞操観念(性をコンテンツ化することに対するためらいのなさ)を再考するときがきているのかも、という気もしないでもないです。
日本が「構成員の性欲の減退」により内側から破壊されないことを祈ります!!!
蒼井そらさんのファンより。
悪魔のツールフェイスブック、たいてい学生時代のクラスメイトやリア充やらがキラキラリア充ライフや子供の写真を載せて自慢大会してるところだけど、
虐めてたくせになんだよこいつとおもいつつページを覗いたら見事にメンヘラ系統のシェアばっかり。
やたらイイハナシダナーとかそんなのばっかシェアしている。
とりあえず承認しておいたのだが、どうやら底辺大学を出たあとブラック会社に就職し、案の定鬱病になり、仕事で怪我して下半身不随になっていた。
もうね、ざまーーーーーーみろwwwwwwwwwwwwww
まず底辺大学行ってるところで、負け組に転落してたけど更に転落しててほんと笑える。
いじめられていた頃、絶対大人になったらこいつよりいい生活してやるんだ、だから勉強頑張るんだとしがみついてきたけど…
まさにその通りになって本当に最高。
当時は死ねしねって思ってたけど、今はどんどん障害増えて苦しみながら生きてほしいなぁって心から思う。
で、そんな彼が私が旦那といった海外旅行の写真にイイネして「おれもいきたいなぁー」とかコメントしてるのを見ると本当に笑えるwwwwww
足がない奴がハイキング前提の海外なんていけるわけないしwwwwww
そもそもお前かねないじゃんwwwwwwwwww
あーほんと愉快愉快。
ドキドキくらいから娘に付き合わされて見ているだけで、全然プリキュア詳しくないけど
そんな楽しみ方をしている子はまず居ないと思う。
プリキュアの対象年齢は精々5,6歳までの女児で、この頃の女児はとにかく女の子が好き。ステレオタイプな「女らしいもの」が大好き。
なのでやたらピンクに執着したり、お姫様が大好きだったりする。プリキュアも根本的にはあの衣装が好きなだけ。
(所で「キュアプリンセス」を見た時は「女児釣り要素ド定番の『プリンセス』を使うとは東映必死だな」と思ったけども
実際はプリンセス要素皆無の名前だけのキャラで一体何がしたかったんだ東映。
次回作はプリンセスプリキュアと聞いたけどアナ雪に客取られてほんと必死だな東映。でも名前だけじゃ釣れんぞ東映)
性別というものを理解して、「女の子=自分の仲間」「男の子=他人」と考えて「仲間と同じようになりたい」年頃なんだよね。
「憧れのイケメン」なんて概念もない。この年の女児は基本的に男に興味がない。
そもそもバトルシーンなんて無くていいんじゃないかとすら思う。
男の子が特撮でも何でも只管バトルシーンを重視するのに対し、プリキュア好きな女の子は
あくまで「キラキラした衣装に変身する」のが好きなだけでバトルそのものは興味持たない子が多いよ。
幼児雑誌も(男の子向けならヒーローが敵に必殺技かますシーンが最重要視されるけど)プリキュアはその前の日常と変身が主体だし
プリキュア卒業するとアイカツになるというのも、「女の子が可愛い衣装を着て歌ったり踊ったりする」と言うのが重要なだけで
バトル要素は重視されてないから。
あんまりプリキュア詳しくないんだけど、初登場から半年ほどパンツスタイルを通したキュアミューズというプリキュアが居た。
覆面取って以降は普通にフリルのついたスカートのプリキュアになるんだけど、パンツスタイル時代のグッズってカードとかシールくらいしか無くて、なりきりコスチュームや立体物が発売されなかったってことは(大人用も含め)需要が低かった、ということなんだろう。
そもそもなかよしにフェアリーテイルのスピンオフ作品が掲載されるようなご時世だから、戦う男の子をみたい女の子は普通に少年漫画見れば良いわけで、戦う少女が見たい男性も普通にラノベアニメでも見れば良い。
男性のプリキュアが居ないのは「女の子だって戦いたい」という初期のコンセプトを守るため、というのが一番大きいのではないか。
少女戦士がクラスメイトの男の子や憧れのイケメンを守る姿に自分を重ねあわせて優越感を感じている子は男性戦士に守られるようなプリキュアでは物足りないのだろう。
高校時代の元クラスメイトとFacebookで繋がったら、その元クラスメイトとよく遊んでいる人がやたらと写真を投稿している。
私とその人は繋がっていないけど元クラスメイトが写真にタグ付けされているから私のフィードにも写真が流れてくる。
その人が小太りで不愉快なブス。
輪郭を隠して少しでも小顔に見せたいのだろうけど顔を覆う髪が不潔にしか感じられない。
胸の谷間をアピールしているけど小太りだから谷間があるだけでありがたくもなんともない。ていうかむしろ不快。
そのブスが30も半ばなのにいつも仲良しブス3人組(元クラスメイトは控えめなブス)で「今日はイタリアン♡」とか「新しくOPENしたカフェでひとやすみ♡」とか毎週のようにやってて見てるこっちがいたたまれないわけ。
毎回、無駄に顔面(と胸の谷間)アップの構図で写真を投稿してるけどそれ何狙いなの不愉快なだけなんですけど。
ケーキ皿を両手で持ち上げて口を半開きにするやつやめてもらっていいですか。おえー。
てな感じで半年もイライラしてたけど、元クラスメイトも別に近況とか知らなくたって全然構わない人だったとやっと気がついてミュートしたらその不愉快なブスの写真が一切目に入らなくなってホント清々した。
まとめサイトの奴らな、久保ミツロウ先生の似顔絵ネタで何回記事作ってんだよ!!
あれはネタなの!!わざと自画像として可愛い女のコ描いて、すぐ耐えられなくなってヒゲモジャ(本来の自画像)登場ってネタなの!!
たぶん分かってて可愛い自画像のコマだけ切り抜いて、んでミツロウ先生の写真載っけて「ご尊顔」って死ぬの?即死するの?
「これネタじゃん」って即レスついても別に気にしねーのな、オメーラはな!!!
「ブスが可愛い自画像描いてるwwww」ってバカにしたいだけだもんな!!!!
『増田くん、何そんなにムキになってるの?』
は?
『ありなっちの時はそんなに怒ってなかったじゃん』
『そういえば増田くんってみっちゃんと仲いいよねー』
『こないだCD貸してたでしょ、ふだん女子と全然話さないのに』
『あ、あたしもなんかよくわかんないラジオの話してたの聞いた』
『えー!付き合っちゃえばいいのにー!(笑)』
そんでマンガ貸し借りしたり、火曜に馬鹿力の話をしたりしてみたかった
とにかく私はかわいくいたくて、かわいいを体現する可愛い女の子になりたくて、もうかわいいの擬人化になりたくて
趣味は自撮で、でも、量産的な女の子にはなりたくなくて、清楚系女の子になりたくて
ブレザーのスカートの丈はひざ下で
毎日ばれない程度の化粧をして
クラスメイトのきれいな横顔ずっと授業中はみている気が付いてほしい
最寄駅、学校の最寄駅必ず鏡をみて
車の窓とか映る自分とか見る
二時間くらいずっと見ている。
絶望するほど悪いわけじゃないけど、かわいくもない、わかっている、でも、諦められずに、ケータイに入っている写りの悪い写真は消して
モテ男でありながら女にだらしないゲスい考え方。ポジティブさを全面に出すのではなく、ネガティブな思考、醜い心もさらけだす正直さ。
等身大という言葉がぴったりで共感できる歌がたくさんあります。そしてそれらの良い曲はどれもこれもシングルにはなりませんでした。
音楽的な知識はありませんのでバンドの良さは語れませんが、好きな歌を紹介します。
不倫か浮気かわかりませんがパートナーのいるクラスメイトとの情事の歌。
同窓会で再会して盛り上がっちゃったけど相手がいるから一緒になれないという苦悩を歌っています。
後期の歌では女性に対して冷たい扱いが多いですがこの曲は未練が感じられる。まだ純粋だったんですね。
彼女が TAXI で家から帰る情景を想像するに一線は越えてるようです。
モテ男が自信満々に女性を口説く歌。純粋に会いたい気持ちを綴った詩とみせかけてやっぱり内容はエロい。
ストレートに「また会えるかな」と誘えるなんてリア充の行動でしょそれ。
「次会う時は君が悩み持ってたりすりゃいいな/守りたくても君が助けを必要としてないんじゃまるで意味がないから」
このセリフは使わせてもらっています。ありがとうございます。女の子は笑ってくれますのでおすすめです。
「お互いあれこれ事情があるんだもん/そりゃつべこべゆう奴だっていると思うけど」というのはまたのっぴきならない事情なんですかね。
いい大人が女子学生を捕まえて大人の余裕を振りまいてはいけません。すぐに勘違いしてしまいますので。
即やれる女を捕まえるのではなく、一人の女の子の成長を年単位で待てるほど心の余裕があるのはまさに真のモテ男。
しかしかわいい女の子の成長を見守りたいという男の心の奥深くにある心理に気付いてしまいました。
ミスチル2大キスの一つ。こちらはガラリと変わって本命彼女の歌でしょうか。
倦怠期で別れの空気が流れているのに気付いているけど素直になれない二人。
女性はどう思っているのかわかりませんが男性はどうしても別れたくないご様子。
ふとしたキスは二人の心を溶かせるか。
Heavenly Kiss が仲直りのキスだとすれば、乾いたキスは別れのキス。
遊びすぎて罰があたったのでしょうか、こんどは彼女を他の男に取られてしまいます。
去って行く女は後で苦しんで欲しいという気持ちはすごく共感できます。
「好きな人には幸せになって欲しい」といったクソみたいな正論が大嫌いな人にはオススメです。
何者かに成りたかったけどそれを彼女に見透かされて捨て台詞を吐かれるシーンは想像しただけで胸が痛みます。お気を付けて。
// TODO 誰か書く
生挿入の歌。
// TODO 誰か書く
// TODO 誰か書く
49分 四つんばい どアップ
一応あいうえお順に並べた。
4、5個と言っていたが結構あるな。
もっとあるけど、めんどくさくなってきたので、下のリンクから見てくれ↓
俺が以前作ったブログだ。内容は古いが…
ちなみに、この中の評価ランクはS◎、A○、B△、C無印に対応している。
http://avanalfetishism.dtiblog.com/blog-entry-1.html
アフィとか言われるのが嫌だが、もうブログのサービス終了してるみたいだし、多分買っても俺の所に金は入らない。
「どうして勉強なんてしなければならないの?」と親に聞くような子供だった。親も勉強が好きな人ではなかったから「勉強しなきゃ高校行けないわよ」と叱られて、私は漫画家になりたかったから「いい高校に進学する意味」もわからなかった。
いや、違う。私はただ勉強が苦痛で仕方なかっただけだろう。辛すぎて週に一度くらい泣いていた。学校も大嫌いで授業中も落書きばかりして過ごした。
だけど読書は好きだった。親が沢山買い与えてくれていたし、小説を読むのはとても楽しい。だからか国語の成績もまずまずで頭のいい友人に「〇〇に負けたー悔しい」なんて言われたりもした。そう言われるくらいには馬鹿で勉強もできなかった。
読書以外にも新聞を読んだりニュースを見ることが日課で、家族で私だけが見ていた。母はニュースが嫌いなのですぐにチャンネルを変えたがる。どうして嫌いなのか疑問に思った「〇〇ちゃんはニュースばかりみて偉いね」と褒められた。好きだから見ているだけなのに。
歌集を読んでいたら親戚に頭が良い扱いされて驚いたこともある。だって私はテストで五十点しか取れないんだよ? 頭が良いわけないじゃん。と言い返すと「頭の良さはそれだけじゃない」と「〇〇ちゃんは頭がいいし将来が楽しみね」なんて言われた。
やっぱり今も勉強は大嫌いだ。「やっぱり進学するべきだよ。君は馬鹿じゃないし」と親しい人にいわれることがある。もうあんな勉強したくないんだ。こりごりだ。
今でも思い出すたびに泣き出しそうになってしまう、どんなにやっても点数が伸びなくて、頑張って100点を取ってもクラスメイトに馬鹿にされたあの頃を思い出すと。
今は毎日好きな放送大学の講義を見て、週一で図書館に通い好きな本を好きなだけ読んでいる。最近は専門的な本をよく読む。この生活は学校に通っていた時より何倍も楽しい。
大学へ行けば何かが変わるのかもしれないけど、奨学金を借りていくには遅すぎるし、私の知能レベルならこれで十分に思う。大学へ進学したところできっと講義を理解できないだろう、私は勉強ができないから。
小学1年生の夏休みから、めちゃくちゃうまい風景画を書いてくるやつがいた。
クラスメイトもそれを楽しみにしてて、今年はどんなのかと毎年寄ってたかって見に行ってた。
でも今考えるとあれ自分で書いたんじゃねーんだよな。
明らかに親かだれかが書いたのを持ってきてただけだった。
そいつがあからさまに絵のことで威張ったりとか見せたがったりとかをしなかったのはそういうことなんだろう。
実際あんだけうまければ普段の図工の授業でももっとその才能が見れたはずだけど全然見れなかったし、あんだけうまい絵だったけど特に何も賞とかもらってるとこも見たことないし、先生も表立って褒めたりせずにむしろちょっと苦い顔してたような気もするし。
よく考えたらおかしいもんな。
→もったいない気もするが、そこまでする根性があるんなら1浪して志望校受かるんじゃない?本気でマネージャーやってたら勉強するヒマあんまりなさそうだし。
○おにぎり2万個にぎって
→ふーん。マネージャーだしね。
ところで、女子校の運動部のマネージャーは当然女子。合宿中の炊事、洗濯は勿論、全員分(25人くらい)のユニフォーム入れ作りなどなどやってたな。普通の人じゃなかなか務まらないかも。実際にクラスメイトは試験前の部活動禁止期間にも雑用やらされるのにキレて、マネージャー辞めた。先代のマネージャーは、大きな大会前には全員のお守りを手作りしていたとか、すごい人だったらしい。
そんなのを見ていたからか、野球部女子マネージャーの話には大した感想を持たなかった。
フェミニズム論みたいのとか、AO入試に有利だとか全く考えもしなかった。本人が好きでやってるんだし、いいんじゃない?って感じ。みんな頭いいなあ。私、やっぱり頭悪すぎ…。
私は小学5年生か6年生の頃から夢精をしていた。一ヶ月に一回くらいの頻度で夢精は訪れた。私は夢精の事実を親には明かさなかった。
夢精を体験したはじめの頃は次のように考えていた。何か妙な感じに起きてしまってペニスが痛くて漏らしてしまったような感覚はあるが、どうやらお漏らしをしたわけではないらしい。かと思えば、パンツは湿っている。どうにもべたつく。しかし大したことはなさそうなのでパンツをティッシュで拭いてそのままにしておいた。なんとなく親には言いづらかった。
私は夢精の正体を知ることなく更なる月日を過ごした。夢精を体験してしばらくたってからは次のような感想を持っていた。どうやらペニスが痛くなってパンツを湿らしてしまうこの現象はエッチな夢を伴うらしい。トイレでパンツを下ろしてみると股に白い粘っこいものが(はんぺんを細く切ったようなものが)はりついているので、これはなんだろう、自分の身体はどうなってるんだ、と思いながらも深く考えず(みごとな思考停止だった)、卑猥な夢を伴うだけにやはり親には相談できないこととして捉えていた。パンツが湿ってしまうのは困りものなので卑猥な夢を見ないように寝る前に無心になるように努力する夜が続いた。久々に夢精をしてしまったときなどは、(ああ、もうそろそろ訪れてもしかたがない頃だと思っていたんだ)とかなんとか思っていた。ペニスが痛くなるのも困りものだった。夢の中ですら、(あ、やばい、これはあれだ、あれがやってきたんだ、起きたらパンツが濡れているあれだ)と今に目が覚めることを予感することがあった。いっそ何か堪えるような態度はやめて衝動的な感覚に身を任せていれば少し気持ちいいのだということに気付いていた。しかしペニスは痛かった。
そんなこんなで夢精は隠蔽され続けた。中学一年生の頃、保健体育の時間中にスライドで一度だけ夢精に関することが登場したことを覚えている。私は、あれのことだと察せられたが、スライドから理解できたことは「そういう現象が起こりえます」ということであって、セックスの存在も対処法も知らぬまま分からぬままであった。クラスメイトとはそのことについて話し合うことはなかった。
中学二年生の冬になって私は自慰を発見した。休日のことだった。家族は借りてきたビデオを居間で見ていたように思う。私だけは寝室にいて、毛布をかぶっていた。毛布の感触が心地よく、なにかむらむらとしていた(と思うのだが、確かな記憶はない)。その心地よさに従ってパンツを脱いでいた。下半身は素っ裸だった。そうしているうちに股間で激しい脈動を感じた。それは脈動ではなかいことは当時のその瞬間も理解していたように思う。何かの兆候であった。その兆候はすでに快楽を伴っていた。多分、私は、とてつもないことが起きると予感していた(やはり記憶は定かではないがこの瞬間に夢精のことを思い出し似たような感覚だと悟っていたのではないかと推察する)。とてつもないことというのは、肉体の一部を切除するがごとき取り返しのつかない代償によって野太く広がる快楽を得ると仮定したならばその取り返しのつかない代償を支払うことにあまりに無思慮でいられてしまうというような意味で、とてつもなかった(つまりは理性の針が振り切れて本能が私を満たしたことを客観的な私がヤバイと呟くも為す術もない様)。毛布は精液で汚れた。これまた記憶が怪しいが、そのときの精液は白ではなく鼻汁のように黄色かった。
私はその黄色っぽくて粘度のあるものと内に満たされた快楽を見つめながら、謎はすべて解けた、と思っていた。これが夢精の正体であり、生命の鍵であり、これから先私を楽しませてくれる素敵な男性的機能であることのどれをも瞬時に理解していた(そりゃそうだ、夢精をし始めてから最低でも二年経っているのだから、無意識的な考えがあったのだろう。ちなみに、これ以後の夢精は激減した。自慰を覚えてから今までにした夢精の回数は3??4回)。
だが、成人して久しい今になって、他の人たちはどのようにはじめての射精を発見(あるいは発明)したのだろうかと疑問に思った。
夢精して、親に相談して、その性的な機能を教わった人はいるのだろうか?
友人と話し合って(そして触りあって?)、発見した人はいるのだろうか?
よく覚えていないが、低学年のころは多少みんなで遊んだような気がする。
一方、中学年・高学年での友人は2人であった。
中学に入るタイミングで引っ越した。顔見知りは誰もいなかった。
中学の3年間で友人が2人いた。
中学が同じだった1人を除き、追加で2人の友人が居た。
学部に200人近い人数がいたのもあり?6年間で友人はかなりできた。(はたから見れた大した数ではないがこれまでと比べると大進歩だ)
小さいところだったがサークル(コンピュータ)に入り、先輩とも仲良くできた。
同期は18人(うち14人がエンジニア)いたが、友人だといえる関係になれたと思う。
また先輩とも仲良くできた。
私はさらに社交的になったと考えていた。
今年の春に会社を辞め、ベンチャー企業に就職した。社長が高校の時の友人だったからだ。
別会社がソーシャルゲームを運営しており、そこから開発委託を受ける形式で業務を行っている。
問題はそこ(委託元)の社長であり、今まで付き合ってきた人たちとは明らかに違っていた。
しかしながら私には彼が下品に感じられたし、また付き合っていくうえでストレスを感じている。
今日「起業のプロ?」に指導を受けたのだがやはり人種が違った。
その人は「俺がNo.1だ」と強く言い切り、私が1の計画を立てて1の結果を出すのであれば、彼は100の夢を語り10の結果を出すタイプだ。
私は彼と話していて強くストレスを感じた。
そして帰りの電車、私は「自分が社交的になったのではない」ことに気づいてしまった。
大学そして最初の会社でうまくいっていたのは周りが自分と同種の人間だったからだ。
今年、ある大学に編入した。
ある授業で、他の生徒たちが休み時間から必死に黒板に数式を書いていた。
どうやら問題集の解答を書くことで平常点にプラスされるらしい。
前の時間が1年生に混じって体育だったため、平常点が少し低くなるが、
そこは妥協して黒板には一度も書くことなくテスト期間を迎えた。
テストの手応えは良くなかった。しかし、自分の実力と、使える時間の妥協点としてこんなものかなと
納得できる程度には出来た。
結果が返却された。100点中、テスト40点、平常点2点の合計42点。
なんと、テストと平常点は50点ずつだったのだ。
前の大学では出席していてこのような極端な平常点になることは無かったため、
慢心していたのは間違いない。
評価は悪くてもC、先生によってAかBだろうと思っていた。
恐らく、クラスメイトたちは1年生の時からこの授業に慣れ、対応していたのだろう。
コミュ力が凄ければ回避出来たのかもしれないが、俺には対応出来なかった。
編入なので、これで留年の可能性も出てきた。
どうすれば良かったというのだろう。