はてなキーワード: クィアとは
この考え方が古いんだよな。
最近は「フィクトセクシュアル」という言葉がようやく浸透してきて、当事者の中にも理解してくれる人が増えてきたけどね。
トランスジェンダーではないクロスドレッサーが存在するように、フィクトセクシュアル、フィクトジェンダーを自認することなく、フィクションの中にジェンダー・エクスプレッションを見出す人もいる。
でもまあ、トランスジェンダーではないクロスドレッサーが、自身を性的多数者と自認していて、「トランスジェンダーとかアレ嘘だよな。俺は異性装好きだからわかるよ」とか適当なこと言いがちっていうのもまた問題を複雑にしているんだけどな。これは「オタク」も同じ。
今更見てすごく楽しい。
劇場版も見た。
50話ある作品を三部作におさめるのは無理があると思うし、入れてほしかったセリフとかシーンがなかったり変わってたりで思うところもあるけど
自分も大人になったのでティターンズでブライトさんが暴行受けるシーン減ってて安心したしティーパーティーする穏やかなアーガマとか未成年のカミーユの心が守られたこととか率直に良かったな~と思った部分もある。
フォウとかロザミアのこととか薄くしてファと仲良しにすることですぐ側にいる人を思うことができるか、愛せるかみたいな隣人愛みたいなことなのかなとか思った。
(当時の監督のインタビューとか記事とか読んでないし分かんないから見当違いかもしれないけど)
すべてのガンダムシリーズを見てはいないけど、基本的にニュータイプ的な感覚で惹かれ合うのって基本男女だけど今後そうでない関係性も描かれるのかな(もしすでにあるよ~って言うなら宇宙世紀に限らず見てみたいので教えてほしい。)クィアな表現がもっと増えてほしいな~って思うところもあるので。世界的に売り出していくなら今後そういう多様性も取り入れた作品作りはされていくんだと思うけど。
今パッと思い出せるものだとニュータイプ的なアレコレではないけど鉄血のオルフェンズのシノとヤマギ(片思いだけど)とか、最終回でアトラとクーデリアが恋愛関係って感じはない気がするけどパートナーシップというか、女性同士で連帯してるようで良い関係性を築いてるんだな~と思ったり。
逆シャアでのアストナージとケーラの関係を見て男性側から食事の話を振って一緒に食べようっていうのも公開当時(約30年前)からしたら先進的だったのかな。
ファーストからだとミライさんみたいな優秀な人が家庭に入ってしまうのもったいないなあと思うものの、逆シャアのチェーンは技術者として開発にもしっかり関わっていたけどこれは独身だからがっつりやれてただけなのかもしれないな。
F91のシーブックの母とかカミーユの母も仕事楽しさに家庭を顧みずって感じだったので、キャリアを望んだり、やりたい仕事を突き詰めようと思うと子育てを二の次にしないとだめな時代がそのまま反映されたのもあったのかなあと想像する。(現実今でも完全に改善はされていないけど)だからガンダムはめっちゃ女性が活躍してるぞ!と言われても独身だからでは?既婚や子持ちには難しい仕事ではない?職場環境は良いのかな?ブライトさんも全然子どもに会えてないぞ、とか考えてしまうところがある。
余談ですがティターンズは月の有給が3日増えるって言ってたけど年間36日あるの?すごない?もらった有給は取得できてるの?って思う。
あとジェリドがライラ大尉と出会って不要なプライドを捨てて自分の弱さを認めて成長しようとするところが良かっただけにライラ大尉亡くなったのが悲しいなあと思う。だんだんジェリドもティターンズのやり方を内面化して成長が頭打ちみたいな感じではちょっと惜しいやつだと思った。
とか色々TV版も劇場版についても今期の面白いアニメみたいに語りたいのに全然話せる人がいない……
悲しい。
自分が言ったことを親が覚えていないのだ。適当に聞き流して相槌だけ打っていたのならまだしも、しっかりと会話として成立し「じゃあお母さんがやっておくね」と言ったことが為されていない。行動を起こしていないことではなく、「やる」と言ったことを覚えていない、ましてや「そんな約束した覚えはない、自分に都合のいい嘘をついてるんでしょ」と責任転嫁してくるそのことがとにかく腹立たしかった。私たちは確かに2001年1月16日にその話をしたというのに!!!(約束の内容は実に子供らしい取り留めのない話なので割愛する)
あまりいい親ではなかったのでそういうものなのだろうかとも思うが、家庭から出ても「自分が何度も言ったことを相手は覚えていない」という事態に遭遇する。流石に幼少期よりは歳を重ねていたので地団駄踏んで怒ることこそなかったが、「この話5回したよ」「もう4回聞いた」「2回も言わないでもわかる」というような台詞は何度吐いたかわからない。その言葉を投げかけられた友人たちが不快になっていたであろうことは大人になってから理解し、反省した。
中学以降は自分が小動物的容姿なのも相俟って、わざと抜けたことを言ってはいじられ、ペットのように可愛がられるというそこそこの立場で過ごしていた。
どうせ理解してもらえないのなら、自分から話題を振るよりも他人の話にカービィみたいに相槌を打っていればいいのだ。「ほょ〜?」とか言えるのは若さゆえの特権。
だから大学で一番楽しかったことは、「バカのふりをしないでいい」ということだったな、と最近思い出す。
大学でできた友達はみんな外山滋比古もクィア理論も御館の乱も当然の教養として知っていた。全員が全員その道のオタクや研究者ほどの知識があるわけではないけれど、受験勉強で触る程度の知識は当然みんな持っていた。喋る前にいちいち前知識の説明をしないで済むということがこんなに楽だなんて知らなかった。
専攻は本当に楽しかったし、充実した4年間だった。
当時バイトは知り合いの紹介で事務をやっていたけれど、その知り合いを含めほとんどの人が高卒で、大学に進学した同世代よりも先に社会に出ていることを誇りに思っているような人たちばかりだった。
実際、自分が大学でのんべんだらりと『西瓜糖の日々』なんか読んでる間にも実務経験を積んで自力でお金を稼いでいた人たちのことをすごいと思う。
初めて任された業務について先輩に質問をしていたら、「大学行ってまで何学んでんだかw」と笑われたことがある。
「少なくともこの会社の顧客リストのコピーの方法ではないですし、他人にそういうことを言わないような教養ですかね」と口に出すのはなんとか堪えた。
自分には確かに中卒・高卒の人たちが築いてきたキャリアも考えもわからないけれど、彼らも大学生・大卒の人間の学んでいることを知らないのに何故こうも馬鹿にして下に見るのだろうか。
「大学に行ける」という選択肢を持てた立場の傲慢なのかな、とは思いつつ、それでもやっぱり自分が愛した学問を理解もせず見下していた彼らのことは苦手だ。
ちなみに上司にセクハラとパワハラとモラハラをされたので勤務時間内に「今からバイト辞めます」と宣言して辞めた。時給はちゃんとその時間までで出ていた。
『勉強できる子卑屈化社会』という本があるそうで、まだ機会がなくて読めてはいないのだけれど、タイトルや書評だけで深く頷いてしまった。
自分が同年代の平均より知能指数が高いであろうことは自覚しているけれど、それがあたかも嫌味なことであるかのように扱われ、出身大学を尋ねられたら「あ、一応○大です」と「一応」をつけなければいけない気がする。
スポーツ得意とか、料理が上手とか、そういうノリで言っちゃダメなの?「僕は頭がいいです」って。
あと一つ言っておくけど、「本当に頭の良い人なら頭が悪い人にもわかりやすい話ができる」っていう論調やめてくれねーか。
あれわざわざお前のレベルに合わせて話の知能指数下げてるから情報取りこぼしてるんだよ。
そもそもその「本当に頭の良い人」とやらに一方的に負担を強いて喜んでるのマジで何なの?お前もちゃんと原文で理解する努力をしてくれ
10:56
あの人の話って(ないことにされてる)デビュー作から最新作まで、何かしら通じるテーマ、また一貫性がある
てんで性悪キューピットからレベルEまで、話のオチっておんなじなのよ
例えば幽遊白書なら、人間界と妖怪の世界、二つの世界と生き方、また価値観の相違があって、その架け橋になるのが主人公たちなのよね
で、結局その二つの世界と“人々”が行き交い繋がり合うところで幕が降りる
先生白書のほうでは、元アシスタントさんが冨樫先生は、「子供たちを楽しませるために書く」って明言してた箇所がある
その子供を楽しませる、という言葉の意味を深掘りしてみると、また違った読み方が可能になる
もちろん少年漫画としてのフォーマットで、緊迫のバトルシーン、また友情・努力・勝利の理想的な少年少女像も描かれる
とはいえ、あの人の描写は大人が見てもえげつなさを感じるものが多々ある
児童心理学のほうでは、子供にとって最も恐ろしいのは、自分が世界の情報から遮断されてると感じること…なんて言われてる
あの人は子供を楽しませるために、の他に、また別の主題があるんじゃないだろうか
砂糖をまぶしたようなユートピア的なおもしろおかしい漫画でなく、現実で実際に起こってる恐ろしい事件、出来事をファンタジー世界に落とし込んで描く
彼は真に子供たちのためを思って、あえて大人でも重いテーマ、また描写を繰り返し描いてるんじゃないだろうか
最近は特に“多様性ブーム”、“LGBTブーム”だなんて言われてるけど、彼は90年代からトランスジェンダーの高校生が主人公のスポーツ漫画を書こうとしていた
レベルEでは(おそらく)インターセクシャルのキャラや、またレズビアンについて踏み込んだ一章がある
この世界があまりいいもんじゃないのも、人間関係なんてめんどくさいだけなのも、人生が惨めなのも、そんなことある一定の年を重ねれば皆分かってるよね
でもだからこそ、理想に向けて努力すること、お互いを尊重し合いながら対話を重ねることが重要視される
冨樫先生はかなり初期から文化多元主義やジェンダー論、クィアスタディーズ、先進国が途上国を搾取してゴミを押し付けること(この辺りはバーゼル条約、環境型レイシズムとか、流星街辺りの問題かな)などなど、いろんな社会問題に切り込んで来た作家だと思う
その作風はきっと、この惨めで誰も救われない世界で、子供たちがなんとか問題に立ち向かって、また世界をより良くして行くための一助になる、そんな後押しをするためのものだったのかと思う
だってこのいびつな社会を作ったのは他ならない私たち大人だもん
少年ジャンプのターゲット層は小学生から30代ぐらいの大人だって聞いた
大人として読む(また創り描く)としたら、作品内での残酷描写は避けられないだろう
またその意思を無視して読むとしたら、受け手として無礼じゃないかとも思う
12:26
蟻篇あとのヒソカ人気下落、あれって選挙篇辺りがつまらない…よりかは、蟻篇が突出してたからじゃないかな
まず蟻篇だとメルエムとコムギの本来“分かり合えない”者同士が友愛で結ばれる、またコムギのような視覚障害者が才能を発揮する…とか、大切な友達を助けるために自分の命も惜しまない、弱い者を助けるために強い者が立ち上がる、もし罪を犯したとしても更生することが出来る、どんな姿になり果てても親子の情愛は不変のもの、そういう至極まっとうだけどいざ自分でやるとなったら難しい物事、ある種の人類普遍の理想を描いちゃったからじゃないかな
その後でヒソカとイルミがキルアたちを追い掛ける話なんて読んだら、大の大人が子供相手に何してんの?って感じられても仕方ない…
それにヒソカは確かに強キャラだったけど、王様とか会長には敵わなさそうじゃん
その上会長がもう常人には理解不可能な域まで修行でイッちゃって、ヒソカより手強い狂人キャラが出て来ちゃったわけだもん
ヒソカはサイコパス診断で測れるタイプだけど、会長のはもうヤバいとこ行きまくりで誰も理解出来ないでしょ、感謝の正拳突きとかマジで意味不明じゃん…
あと、ネット上で書き込んでる人たちが大人として成長したって見方も出来るかな
中高生ぐらいで読んでたら頭が切れてヤバいことなんでもやっちゃえて、世間の枠組みから外れてもたった一人で生きてける…そんなアウトサイダーに惹かれるのは当然だろうしさ
でも今メインでハンタ追ってるのってとっくに成人済みの人たちでしょ
身も蓋もないこと言えばあれ単に人殺しだもんな
最近のヒソカへの幻滅って、別に悪いことじゃないし、今後のエピソードに期待大って印象かな
体とか心壊してんなら仕方ないけど、ただ面倒なだけなら冨樫仕事しろ
諸事情でハサウェイ見に行けないので配信きたときのために宇宙世紀を復習してるんだけど、ガンダムにおいての女性の描き方とか気になったので
ファースト三部作見て今Z(TVアニメ版)の23話くらいまでと、逆シャアも見た時点でちょっと書いとく。
30年は前の自分も生まれる前の作品に対して女性差別だ~!とか言いたいんではなく、
当時の一般的な考え方ってこうだったのかな?みたいな、掴みにくい部分もあったり、自分が大人になってジェンダーとかフェミニズムも考えるようになってから、こういう意味でも捉えられるな~と感じた部分もあったので覚書き。
エマ・シーンさんがたしか24歳?で中尉って肩書ってそこそこすごいのかなって思うんですけど(階級よく分かってない)、wiki見たら軍人家系だそうなので本人の実力以外にもコネもあったんだろうか。
自分が地方公務員と仕事したときに今でもすごいコネッコネのコネッコネな感じでうわ~となったので…。ティターンズの閉鎖的で横暴な組織ってそういうことがありそう。
1話でブライトさんをタコ殴りにしてんの引いたわ。(エゥーゴも修正と称して暴力振るいまくるけど)
ティターンズがエマ中尉にバスク・オムの親書の中身を秘匿したまま持たせてアーガマに行かせる作戦、あれはエマ中尉をバカにしてると思うんだけど、
エマ中尉が女だからというのもあるなら、今で言う「ガラスの崖」的な登用の仕方だし、ティターンズのクソっぷりをより表現しているなあと思った。
そもそもこれ書こうと思ったのはカミーユのこのセリフの意図がうまく掴めなかったから。カミーユが「女が男の戦場に入ってきやがって!出ていけ~!」みたいな激烈な女性差別的に言っている雰囲気は個人的にはそこまで受けない。だけど差別意識が内面化しすぎて悪意はなかったんですよ~というミソジニー政治家の言い訳的な女性差別発言の可能性も0ではないけど。
エマ中尉、レコアさんだけでなくファも加わってたしかに女性パイロットが増えたタイミングなんだけど、
これは少し前まで民間人だったファも使うくらいなりふり構ってられない戦況だ、という意味なのか、性差に関係なく自分の意志で動く人が増えたな、異常だと今は感じるけどこれが普通になっていくんだろう、みたいな気持ちなのか…。どっかでインタビューで富野さんが答えてたりするんだろうか。
すべてのガンダムシリーズを見てはいないけど、基本的にニュータイプ的な感覚で惹かれ合うのって基本男女だけど今後そうでない関係性も描かれるのかな(もしすでにあるよ~って言うなら宇宙世紀に限らず見てみたいので教えてほしい。)クィアな表現がもっと増えてほしいな~って思うところもあるので。世界的に売り出していくなら今後そういう意識も取り込んだ作品作りはされるんだと思う。
今パッと思い出せるものだとニュータイプ的なアレコレではないけど鉄血のオルフェンズのシノとヤマギ(片思いだけど)とか、最終回でアトラとクーデリアが恋愛関係って感じはない気がするけどパートナーシップというか、女性同士で連帯してるようで良い関係性を築いてるんだな~と思ったり。
逆シャアでのアストナージとケーラの関係を見て男性側から食事の話を振って一緒に食べようっていうのも公開当時からしたら先進的だったのかな。
ファーストからだとミライさんみたいな優秀な人が家庭に入ってしまうのもったいないなあと思うものの、チェーンは技術者として開発にもしっかり関わっていたけどこれは独身だからがっつりやれてたのかもね。
F91のシーブックの母とかカミーユの母も仕事楽しさに家庭を顧みずって感じだったので、キャリアを望んだりやりたい仕事を突き詰めようと思うと子育てを二の次にしないとだめな時代でもあったんだろうなあと想像する。(現実今でも完全に改善はされていないけど)だからガンダムはめっちゃ女性が活躍してるぞ!と言われても独身だからでは?既婚や子持ちには難しい仕事ではない?職場環境は良いのかな?とか考えてしまうところがある。
余談ですがティターンズは月の有給が3日増えるって言ってたけど年間36日あるの?すごない?取得できてるの?って思う。
ジェリドがライラ大尉と出会って不要なプライドを捨てて自分の弱さを認めて成長しようとするところが良かっただけにライラ大尉亡くなったのが悲しいなあと思う。ライラ大尉とジェリドの関係性も良かったな。
クィア・リーディングとは、ごく単純化していえば、「女性は男性を、男性は女性を」という異性愛の枠内に収まらない性愛のありかたに注目する作品読解の方法である。
たとえば夏目漱石の『こころ』では「先生」と「K」と「お嬢さん」の三角関係が描かれるが、これを男性である「先生」と「K」が女性である「お嬢さん」を取り合う物語と読むのではなく、「先生」と「K」のあいだに、さらには一連の出来事を語る「先生」と、彼から話を聞く男性の「私」のあいだに同性愛関係を読みとる──そのような可能性をクィア・リーディングは引きだす。
だからといって、異性愛の三角関係として『こころ』を読むことが「誤り」だと主張するわけではない。基本的にクィア・リーディングは、異性愛だけを前提にした読解では抑圧されてしまう要素に光をあてられるようなときに真価を発揮する方法であると言えるだろう。
例のジャンプラ漫画で凄い笑ったのだけど、また「腐女子は使うべきでないことが広まってない」とか「アップデートされてない人たち」みたいなクソ鬱陶しい押しつけツイートが出てきてげんなりしている。
前に増田に書いて消した自分の考えを再掲しておくけど、あの人らの絶対に自分が正しいと思い込める姿勢って凄いなって思う。
クィアリーディングとかおためごかしで自分の性搾取を正当化したくない人間なので、これからも腐女子を名乗っていくよ。
自分は腐女子ではないと宣言するならわかるが、腐女子と名乗るなってのは他者の自由の侵害なんだよ。
つうか、攻め受け思考してないなら腐女子じゃないかもしれないが、腐の概念と共に定着していった攻め受けの掛け算表記使いながら非腐女子ってアホらしく見える。
いや、別に自分が名乗りたくないなら名乗る必要はないんだけど、腐女子と名乗らないことを人権意識をアップデートしてるとか思ってる人らが嫌い。
男同士の、友愛と描かれている関係、ライバルとして描かれている関係、仲悪いと描かれている関係、師弟として描かれている関係、などなどをセックスを含めた恋愛関係と見做して楽しんでしまう自分を腐ってると自称してるんだよ。
明らかに異性愛者としての発言をしていたり、ヒロインがいたりするのにそこを無視して上記の関係を娯楽のために性愛に変換して楽しんでいる。
しかも、腐女子に愛されやすい少年漫画は主人公も仲間も少年が多いし、10代のキャラクターを性的消費して娯楽にしてるケースも多い。
そんなの腐ってるだろよ。
誤解されやすいが、商業BL愛好者は腐女子とは違う。単にBL漫画が好きな人ってだけだ。
男女カプにして楽しんでる人は腐ってるって言われないからゲイ差別みたいな論を出してくる人もいるが、圧倒的にヘテロが多い世界で、性的マイノリティーへの差別は依然としてある世界で、キャラを性的マイノリティーにして性的に搾取して楽しんでる悪趣味さは腐ってるくらい自称しないと罪悪感半端ないって話だよ。
あとABだのBAだのABAのリバなどと攻め受けの話題ってほんとライトに言葉にしてしまうけど、要は男性器を肛門に入れるキャラはどっちか、肛門に男性器を入れられるキャラはどっちかというための表記とそれについての会話になるので、二次創作者がセックスさせてようがさせてなかろうが掛け算表記な時点でそこにはエロが含まれてるんだよ。ゲイ向けではなく圧倒的にファンタジーなエロ要素なんだよ。だから腐向けなんだよ。
ブロマンス好きならそれは腐女子じゃないので名乗る必要ないですよってなるから、ブロマンス愛好者が「腐女子じゃなくて関係性を愛しています。腐女子って名乗るのはゲイ差別」とか言い出すと??????ってなる。勝手にこっちの領域に入ってこないで名乗らなきゃいいだけだろと。
それに乗っかって掛け算表記してる人が腐女子って名乗らないでとか言ってると更に????????ってなる。
掛け算ファンタジーでキャラ消費してる自分をよくそんな正当化できるなと。
日本ってこれだけ腐女子が多いのに同性婚運動に積極的に参加する人は少ないし、タイのBLドラマに出てる俳優は同性婚法前にも同性婚支持をちゃんと表明してたりしたけど、日本ではOL俳優もチェリマホ俳優もそのような言及はしない。消費だけし続けてる現状は問題だと思ってる。
だから、腐女子である一人としては腐ってると自称することで搾取・消費してることに自覚的でありつつ、実際のゲイとファンタジーとしてのBLは別物であるという客観性も持ちつつ、搾取・消費してる限りはせめて性的マイノリティーへの支援になる運動を今後も積極的にしていきたいと思ってる。
クィア、ミソジニー、他なんだ、色々あるけど思い出せない、少なくてすまんが追記するから教えてね
正直何言ってるかわかんない
まだアジェンダとかエビデンスだとかのビジネス用語の方がわかる。あれを意識高いwwwって言われるのにちょっと???なんだけど、これはどうなの。
まぁ同じ理屈で考えると、そういうワーディングで厳密に定義してあげることで、伝えたいニュアンスや概念として思考や議論をを進めるっていうのはわかるんだけど。
宇多田ヒカルがクィア的であるというのは、コアなファンやクィアのファンの間ではかなり昔からの共通認識でありました。
もちろん、宇多田ヒカル本人がしばしば口にするように、宇多田ヒカルの歌詞というのは大衆の誰にでも伝わることについて大変真摯に考え抜かれており、決してクィア的な読みが介在しなくても成立するものがほとんどです。ですから、当事者の人間がひっかかりを覚えて、ある種の確信や疑念を抱いて聴き込むというような経験がなければ、宇多田ヒカルのクィア的な側面について、その通底する感触すら意識することがなくても不思議ではありません。そして、そういう構成である作品だからこそ、当事者にとっては強く胸を打ち、強く励まされるものでもあるわけです。『ブロークバック・マウンテン』や『ムーンライト』がちょうど、ゲイに限らない、誰にでも共感できる恋愛感情そのものを描いているといった具合で高く評されている、というのと似ています。
一方で、宇多田ヒカルが自身の内面を初めて強く出して制作したと語るアルバム『ULTRA BLUE』や、活動再開後に発表されている楽曲の数々において、勅裁にクィア的な表現の歌詞である楽曲や、クィア的な読みの方が自然と思える楽曲も増えつつあるように感じられます。以下では、そうした楽曲を見ていきましょう。
([ ]は収録アルバム、( )はシングルも含めた初出年です)
引っ越していく親友についての愛情を歌った歌です。愛情の対象として「友」が選択されているという状況は宇多田ヒカルの歌ではよくみられます。
「新しい部屋で君はもう Making Love」「ヤサシイカレトノケイザイガク」「ワタシガハジメテホレタオンナ」といった表現から、親友である女友達が彼氏と同棲を始めることについての喪失感といった情景が浮かんできます。
宇多田ヒカルの歌には「規範への疑念」「規範からの逸脱」を指向しているととれるような表現がしばしば現れます。たとえば、「不倫の恋」を想起させるような楽曲がちょくちょくあります(『誰かの願いが叶うころ』『One Night Magic』『二時間だけのバカンス』『誰にもいわない』)。『Passion』では、「昔からの決まり事」をどのように捉えるかというところに余白があるように感じられます。「ずっと前に好きだった人/冬に子供が生まれるそうだ」とある「好きだった人」は異性・同性どちらにも読むことができそうです。「わたしたちに出来なかったこと」という言葉は同性愛経験者には強い響きがあります(もちろん、失恋経験のある人にとっては、性指向に関わらず共感するところがあるでしょう)。
宇多田ヒカルのオリジナルキャラクターであるくまちゃん(チャン・くま)がゲイであるというのは、以前から公式ブログで発表されていました。それを念頭におくと、ゲイの男性がほんのり抱える困難がモチーフになっているように聞こえてきます。
「けんかはやだよ くま くま くま」
「冬は眠いよ くま くま くま」
どうでしょうか?
ドラマ『ラスト・フレンズ』の主題歌として、友達にたいする愛情や、性別を超えた愛憎のようなものを歌詞にしてほしいという依頼のもとで制作された歌詞です。それに応えるように、確定的にクィアな側面から見ることができるとはいえない構成が、ことさらに意識されていると感じられる楽曲です。しかし、裏を返すと、異性愛的でないという感覚がどれくらい読み取れるかというところに解釈の豊かさの入り口がありそうです。
「人知れず辛い道を選ぶ/私を応援してくれる/あなただけを友と呼ぶ」であるとか、「残酷な現実が二人を引き裂けば」といったバースはどうでしょうか? 異性愛的に読む、同性愛的に読む、どちらの方が、どれくらい可能でしょうか。そもそもそれぞれの読み方に違いはあるのでしょうか? 異性愛的視点と同性愛的視点というのは、線引きが必要なのでしょうか?
宇多田ヒカルと椎名林檎のデュエットであり、MVの印象も強いため、百合ソングとしての印象が初出から強く一般的に浸透していたと思います。また、冒頭の「クローゼット」というモチーフが、クィア界隈で「性指向をオープンにしていない状況」を表すのに用いられる言葉でもあったため、その点でも話題となっていました。
もちろん歌詞単体でみれば、家庭をもつ男女の不倫のような趣もあります。椎名林檎のパートでは一人称が「僕」となっているのも印象的です。
この歌詞でバカンスに繰り出す二人組を、どのようなペアであると想像するでしょうか?
個人的には、かつて親友で、いまは家庭をもつ主婦同士が、時間を縫って…という情景が浮かびます。
一方で、「ほら車飛ばして 一度きりの人生ですもの」「今日は授業サボって 二人きりで公園歩こう」といった並置からは、特定的な1組のカップルの情景ではないという余地をあえて作り出そうとしているのも感じ取れます。
宇多田ヒカル本人が「同性愛者の心情を歌っている曲だと気付いた」と語った楽曲です。
「君に触れるあいつ見てる/報われない想いばかりが募る夜更は/どうしたらいい?」
「気付かないフリとか/中途半端な優しさに 泣きたい」
など、全体を通して当事者的な感覚が非常につよい言葉で構成されている歌詞だと感じられます。
この楽曲が最初に発表されたのはNHKのSONGSで、楽曲の直前に宇多田ヒカルの上記の発言が挿入されたのですが、宇多田ヒカルがこの意図を隠し続けていたとしたらどのように受け取られていたのだろうというのは気になるポイントです。
「カレシにも家族にも言えない/いろんなこと/あなたが聞いてくれたから/どんな孤独にも運命にも耐えられた」
「大好きな人にフラれて泣くあなたを/慰められる only one である幸せよ/だけど/抱きしめて言いたかった、好きだと」
この楽曲も「友」が相手の曲ですが、その友に対する気持ちは「恋愛なんかの枠に収まる二人じゃない」と表現しています。この楽曲もまた、女性の友人同士の関係性についての情景が浮かぶのが自然であるような歌詞だと感じられるでしょう。異性愛的な恋愛・結婚よりもつよい愛情というのは『二時間だけのバカンス』と似ているところがあります。
先に、宇多田ヒカルは大衆の誰にでも伝わることを真摯に考えていると述べましたが、これは裏を返すと、クィア的な読みをする必要がないということでもあります。しかしながら、宇多田ヒカルの歌詞が全般的にクィア的であると当事者にとって感じることができるのは、ほとんどの歌詞において、巧妙に「異性同士」の歌であるとしか読めない状況を避けるような意識がこめられた言葉遣いがなされているからです。ポップスの歌詞における「あなたと私」という主題の問題や、女性シンガーが歌詞でつかう「僕」という一人称の問題など、ポップスの歌詞においてジェンダーを与えた解釈をするときに問題とすべきことは多々ありますが、それらは一度おいておきますと、宇多田ヒカルの歌詞は、とくに二人称において、特定の性に限定できるような状況が回避されているものが多いと感じられるわけです。こうしたものが通底している作家の楽曲は、当事者にとっては、異性愛的な恋愛を歌っているポップスとはやはりどこか感触が異なって聞こえるものです。
よく、「エヴァンゲリオンは鏡である」というようなことが言われます。エヴァンゲリオンについての解釈は、みた人自身の性質や考えがそのまま反映されてでてきたものでしかない、ということです。それは、製作者がつねに大衆に伝わるようにと心を砕く姿勢によってできあがった鏡なのだということが想像できます。宇多田ヒカルの歌についても同じことが言えるのでしょう。異性愛がベースがある人には異性愛的な歌に、同性愛的なベースがある人には同性愛的な歌に聞こえるというのは、「誰にでも伝わる」ということを目指した結果に他ならないと思います。庵野秀明と宇多田ヒカルの作家性が奇跡的に似通っているというのは、そういった点にも感じることができます。
このことからさらに思うのは、宇多田ヒカルとクィアを結びつけるような意見に対して人々がどのような反応を示すかというのをみると、その人が「『クィア』というものをどう捉えているのか」がよくわかるのではないか、ということです。
どうでしょうか? いろんな人の反応をみてみてください。異性愛者の人たちの反応も、クィアの人たちの反応も。どうしてその人は、そのように反応したのでしょうか?
ビリー・アイリッシュが、過去に彼女が発した黄色人種差別発言について「謝罪」と言うか正確には「言い訳」を投稿・公開したが、これはインスタグラムのストーリーに投稿されたもので、これは投稿後24時間経過したら見られなくなる。従って、これはあくまでも「謝罪した」というアリバイだけを作って、且つ、後から文面を詳細に分析されて批判を受けるのを防ぐ狙いが有る。
なお、文面の方は、我が国の自民党政治家etc.と同じく「もしも気分を害した人がいたら申し訳無い」書式で書かれており、アジア系の人々に対する謝罪とは書いていない。
ビリー・アイリッシュの最新MV(最近「クィアベイティング」としてLGBTQ関係者から批判されたアレ)を観ると、複数人の黒人および白人女性がエキストラとして出演しているにも関わらず、アジア系女性は一人も出演していない。
LA限定にしろ米国全体にしろ不自然なぐらい、人種/民族構成が出演エキストラの構成に反映されていない。
まあ、しかし、ハーヴェイ・ワインスタインの性的強要と同じくお目溢しされて、我が世の春を謳歌するのだろうなと思っている。自民党政治家と同じで、きちんと批判を向き合わなければ腐るよな。
https://comic-days.com/episode/3269754496332558422
これ読んで、実際かなり好きだったし、よかったなあ……って気持ちになったんだが、ちょっと遅れて若干モヤモヤしてきたぞ
これ、「クィアの人が頑張って恋をしているのを見守り、自分の気持ちを表に出さない異性愛者」って構造だから成立してるけど、逆だったらたぶん普通に悲しめの読後感になるよな…?
同性愛者が、ずっと好きだった高校の同級生と再会し、友達になるが、その元同級生から好きな人(異性)を教えられ、涙を呑んで恋を応援する
何もいい話ではねえよな
美しい友情はあるけども、シンプルにかわいそう感のほうが勝ってしまう
性的指向に貴賎はない以上、今回のこの読み切りだって、かわいそうって気持ちが勝って然るべきなんだ
そうじゃないですか?
これが「感動的」「いい話」に見えてちゃあダメなんだよなあ!!
大筋は全く同意。
わかり手「生理用品だって、ボロ布詰めるなりすれば一応は対処できるわけ。でもそれは不快だから、快適な専門に開発された生理用品が欲しいとなる。男性の生理(性欲)も同様で、質の高いシコネタを求めるからDLsiteに月5000円使う羽目になる。全く同じ」
「同性婚を認めるならロリとの結婚も認めろ!」とかいう奴らと同じ。「どうにかして揶揄したい」以外何も考えてないからこういう馬鹿な発言が出てくる。
ただ、「セクシュアルマイノリティとしての小児性愛」について語るべきことが何も無いかと言えばそれも違っていて、先進的なクィアの議論の中では様々な形で肯定的・融和的に言及される部分も間違いなくある。
それと同様に、「生理現象としての射精」について語るべきことが何も無いかと言えばそれも違っていて、そうした部分の議論がまだまだ不十分であるという実態もあるとは思う。
参考↓
https://togetter.com/li/1657660
(元増田を批判しているのではなく、元増田に押し付けるべきでないある種の労力を私が肩代わりして、代わりに言語化しました。)
http://anond.hatelabo.jp/20210520151238
星野源とガッキーの結婚で改めて思ったけどナマモノ同人ってなんで許されてんの?
まではわかるけど
星野源とガッキーのプロポーズを想像して漫画に描いたらなんかアウトな気がするし、
さらにそこから性生活を想像してしてエロ漫画描いたら完全にアウトな気がするんだけど、
セーフって事になってるんだよね?
なんでセーフなの?めちゃくちゃな事してない?
星野源のことが好きで嫉妬に狂った綾野剛が星野源を監禁レイプ!
本人は結婚しましたけど私はこれからも妄想続けます!とかやってるわけでしょ?
もうめちゃくちゃじゃない?綾野剛が何をした。
まずナマモノについては女性向け界隈でのジャンルとしての存在感がでかすぎて
そこを批判しようとすると追い込まれる商業女性作家が大勢いるような世界なんだよね。
BLはナマモノ同人から商業デビューしてる作家ってかなりいるのよ。
デビューは違っても現在進行形でナマモノ同人やってる漫画家も大勢いるし。
呉座勇一がさえぼう氏を鍵垢で叩いてた時も争点になったが
その数の人間が見れるようにしてて「鍵があるから問題ない」とは?
という状態のナマモノBL作家(であると同時に商業作家)はかなり居るのですよ現状。
さいたまスーパーアリーナであの芸能人とこの芸能人のセックス妄想を叫んでる状態。
だからもし万が一、ナマモノ同人はやっぱりダメでしょという気運が一気に高まると
本当に商業アカウントで謝罪する作家がゴロゴロ出てくる事態になると思う。
それは避けたいという心理がまず多くの女性向けという国の住人にはある。
https://anond.hatelabo.jp/20210520174157
いわば共犯状態でダンマリを続けてるのが女性向け同人の世界だからとしか言いようがない。
ナマモノ同人の是非は突かれるとかなり痛いポイントだってわかってるから
普段表現問題に厳しい姿勢を見せてるShipper(あえてこう言う)でも
外からそういう声が上がってもナマモノBLを批判するのはホモフォビアだとか
雑な問題すり替えで仲間内で納得しあって話を終わらせてる状態。
あとはやっぱり「隠れてるからいいでしょ」の一点張りで乗り切っている。
しかし重ねて言うが数百人〜数千人、時には万単位の人間が少なくとも閲覧できる状態って
隠れてるって事になるんですかね?どうなんですか?
そもそも隠していれば問題ないというのは現実に実在人物を使っての性的妄想垂れ流しに問題がないと本気で思っているわけではなく
その建前で自分たちの心を守れるというだけなのではと思う。
しかしネットでは隠すにも限界あるし(愉快犯の晒しはどのナマモノでも横行している)
その面で隠れていればオッケーの建前が崩れつつあるから
いずれ正面から向き合わなきゃいけない女性向けジャンルの闇の部分なんだけど、
果たして自分から向き合うことを表明する勇気のある当事者のナマモノBL作家がいるかというと……
いないだろうな。
というわけで大きな区分では女性向けジャンルにいるけどナマモノはあかんでしょと思ってる人間としては
変わるとしたら外圧で変わるしかないんじゃないですかねという所感。
いい外圧待ってま〜す。