はてなキーワード: うつとは
うつ伏せになると落ち着くよ
感染が騒ぎになり始めてから3年半以上のいまさらながら。一応備忘録として
人脈があるとかの問題じゃないんだわ。
結構前に日経新聞がGitHubを「設計図共有サイト」と見出しをつけた話題があった。そうつけた記者だってIT系の部署に顔見知りがいるだろうが、確認はしなかったんだろう。詳しい人が見たら違和感を覚えるものだということに気付くのが難しい。
今まで他の科学者の倫理について批判してきたほどの熱量が全然感じられないのですが
「中にはマトモな人もいる」じゃないんだよ
今現在の某社会学者のデマ拡散について今までと同じ程度の批判をする事が出来ないならば
科学者の倫理を問うてきた人達は「お仲間には基準を適用出来ないロクでも無い学者」になるんだよ
そこら辺分かってるんだろうか…
まさかその口で明日からはお仲間でない科学者の倫理については問うつもりなのかな?正気かな
あとデマ拡散した社会学者が批判を受けてる件で社会学を分かってないとか言い始めてるアホ
私は増田と似ている性指向・性癖・性欲の強さである。2次元エロの世界にほぼ足を踏み入れていないという相違点を除けば。
私は身の回りの3次元の女性にも性欲を抱く。タイプの人がいると手マンしたいという欲求に駆られる(ただし、実行に移したことはない、ディープキスまではした)。レズビアン風俗にも行った。きれいな女性の体を見るとむしゃぶりつきたくなる。正直、男性の体にそこまでの気持ちはない。
でもやっぱりセックスは男性とやるのが気持ちがいい。男性の力でガンガン突かれるのは非常に強い快感である。それから、私は子供が欲しいという気持ちがある。今まで交際したことあるのは男性1人で、おそらくその男性と結婚するだろう。一緒にいると安心できる相手だ。
私は自分をバイセクシャルだと思っている。でもそのことを交際している男性に言うつもりはない。私は浮気をすべきでないという倫理観をもっているので、男性だろうが女性だろうが新たな恋はもうしない。だから、カミングアウトする必要はないと思っている。
結論としては
この際はっきりと言っておこう。男から見て萌え絵広告よりもずっとずっと下品で不快なのが露出度の高いオバさんだ。
特にスポーツクラブに出没する露出狂。せめて痩せろ。ボンレスハムのようなボンクラな腕に大根の倍の太さはある大根足、高木ブーのような腹にマツコ・デラックスのような顔。
ノースリーブから生えてくるブヨブヨの筒は腕というより前足と言ったほうが近い。長袖着ろとは言わないからせめて袖のある服を着ろ。そして足。レギンスですら見苦しいからトレーニングパンツ履け。体の線を見せるな。さらに腹。まさかとは思うがそのまさかだ。腹を出している。酒瓶持ったタヌキのような腹をわざわざ開陳する発想がないし、ヘソが腹に埋没していてへそ出しルックとしても成立していない。奇行の動機は何だ?太り過ぎて暑いのか?露出狂なのか?鉄板ネタの顔でも書いてあるのか?何考えてるか全く分からない。
動画なら全身にモザイクが必要なレベルの汚物が歩いている。正直勘弁して欲しい。
ただし、萌え絵広告と同様に露出の高い服を着る自由はあるので、フェミ議員のように広告を消せだの禁止しろだのと言うつもりはない。だいたい養豚場の豚の体脂肪率が15%くらいなのでそれくらいまで体脂肪を落としてからお願いしたい。
産後一週間。
予想外の背中スイッチに、1日中赤子を抱きかかえていなければならない状況に陥った。
これは無理、と思い、実母をヘルプに呼ぶことにした。
今になって思えば、睡眠不足で正常な判断が出来なくなっていたと思う。
実母がソファーで娘を抱っこしていた。
抱かれた娘はすやすやと眠っていた。
実母が口を開いた。
「ねえ、お金、ある?」
自分の中の糸がピンと張った気がした。
睡眠不足で正常な思考ができないはずなのに、この時ばかりは感覚が研ぎ澄まされた感じがした。
いやに冷静だった。
その言葉の意味が「金がないから金を貸せ」なのはすぐに理解できていた。
私の家庭は、いわゆる逆転夫婦で、妻である私が稼ぎ頭の共働きだ。
産休に入ると一時的に給与はなくなるし、育休手当には上限があるため、計算額通りよりも少ない金額しかもらえないことが分かっていたため、
手元のキャッシュを増やしておいたところであった。
かといって、実母に貸す義理はないのだが。
実母は、黙ったまま、娘の顔を見ながらうつむくだけだ。
金額に回答しようとしない。
冷静だった私の心に、怒りがわいてきた。
産後1週間、これからお金がかかることが分かりきっているこの状況で、
私はなぜ実母に金の無心をされているのだ?
目の前の娘を見つめる実母の視線が汚らわしく思えて、すぐにでも娘を奪い去りたかった。
「黙ってちゃわからないじゃない。何とか言ったら。」
「…10万くらい」
「…30万」
また実母が黙った。
怒られそうになると、すぐ黙る。とにかくその場をやり過ごそうとする。
私は実母のそういうところが許せなかった。
両親は別居しており、私は実母の実家で、6歳下の弟とともに祖父母に育てられた。
父親が養育費を渡さないから、お母さんは借金してお前たちを育てるしかなかったんだよ、と。
実母は、父親の家庭に入ることがとても嫌で、私たち子どもを連れて勝手に実家に帰っていた。
父親は転勤ありの公務員だったため、迎えに行くこともできず、養育費は祖父母に拒否されていた。
私たちの幼稚園の学費やその他食費などはすべて年金から祖父母が賄っていた。
実母の借金は、実母の遊ぶ金と交際費に使われていただけだった。
しかし、自己破産をしたことで、実母は安易にお金を借りられなくなった。魔法のカードはもうない。
だが、ブラックリストは10年もあれば真っ白になってしまうのだ。
うかつだった。また実母は魔法のカードを作って借金を重ねていた。
沈黙が続いている間に、いろいろなことを思い出した。
前述した昔の話や、そういえば大学時代にも10万貸して、という電話がかかってきたなあ、などとぼんやり思い出していた。
それでも実母は話す気がなかった。
また私の娘に視線を落とし、とんとん、と手を娘の背中に当てているだけだ。
汚らわしい、やめてよ。
また私の中に怒りの感情が芽生えてきた。
「…」
「なんとか言ってよ。総額が分からなかったら貸すものも貸せないじゃない。」
「わからないの」
「は?」
「いきなり言われたって、そんなのわからないの!」
こんな話を生まれたての娘の前でしたくなかった。
テレビのコウノドリが命の大切さを演出していることが、とても悲しかった。
「弟は知ってるの?」
実母は弟を溺愛していた。弟に言っているわけがないと思いながら、聞いた。
「言ってない。絶対言わないで。」
「なんで弟には言わないの。」
「だって社会人になったばっかりだし、心配かけたくないと思って」
「じゃあ私には心配かけていいってこと?」
「弟も社会人4年目で、きちんと働いてるよね。見ての通り、私は子どもが生まれたばかりで、仕事だって休んでるよね。なんで私ならよくて弟はダメなの?」
「…」
都合が悪くなると黙る。どうせこの繰り返しだ。いつだってそうだ。
公立中学の給食費を振り込まずに使ってしまって、毎回職員室に届けに行った時も。
高校で特待生になり、交通費の名目で支給されたお金を使い切ってしまった時も。
父親が用意してくれた大学の学費を全部使い込み、学費が免除になる国立大しか行けなくなった時も。
いつもその顔をしてたよね、お母さん。
「とにかく、貸すにしろ貸さないにしろ、全部がわからないと行動できないから。弟も含めて借金を洗い出してから対応を決めるから。」
人生で何度目かわからない。どうしてこうなんだろう、という言葉を飲み込んだ。
まともに生きるってなんて難しいんだろう。
総額は600万強であることが分かった。
こんな未来のない身内よりも、将来の可能性がある子どもにお金を使いたい。
そろそろ潮時だな、と思ったので、当時の感情を残しておきたくて書いてみた。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』を読んだ。ナチスの行った行為についての<事実>や<解釈>については自分が誤解していたこともいくつかあり、とても面白く読めた。一方で、著者らの<意見>は、タイトルの問いに対する十分な回答ではないというのが正直な感想である。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』というタイトルを読んで私がまず考えたことは、著者らは「良いこと」をどう定義しているのだろうかということである。
②Xは善い(価値判断)
①については著者らの言う通りナチスが実施した行為について歴史学の方法で事実とその解釈を検討することは重要であろうし、素人の考えが誤っていることは多々あるだろうこともよく理解できる。素人の私が専門家の整理に対してとやかく言うつもりは(あんまり)ない。
一方で、②については、"「~である」から「~べき」は導かれない"というヒュームの法則が端的に表すように、事実・解釈とは独立した善悪についての価値判断である。①についてお互い同意していたとしても、②が異なれば善悪の意見が真逆になることは十分あり得る。
もちろん、何を善いとするかは自由に決められるわけではない。「ナチスは良いこともした。なぜなら ②ナチスのしたことは善い からである。」という主張は(そう言うのは自由だが)多くの人を説得できないだろう。
そこで普遍化可能性という基準が出てくる。普遍とは簡単に言えば、固有名詞を含まない、という意味合いである。例えば、「金を返さないのは悪いことだ」という価値判断を採用するのであれば、誰であろうと金を返さない人は悪人であると判断しなければならない。
「あなたが私に金を返さないことは悪いことだ」とするならば、「私があなたに金を返さないこともまた悪いことである」としなければならない。ナチスの行為を何らかの理由で善い/悪いこととするならば、他の〇〇国がした同じようなことについても、別扱いをする普遍的な理由を挙げなければ、同様に善い/悪いこととしなければならない。
ナチスの政策Aが良くないことならば、同様(に見える)〇〇国の政策Bも良くないことですよね?という問いはWhataboutism論法ではなく、価値判断の普遍化可能性についての確認である。同様に良くないことだと言うならそれでいいし、違うならその理由を説明すればいい。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』は歴史学の本であり倫理学の本ではないから、ナチスの政策についての事実・解釈の説明がメインなのは当然である。しかしながら、「良いこと」もしたのかというタイトルにするならば、著者らの価値判断が普遍化可能であるのかについてもある程度の紙幅を割くべきだったろう。
さて、本では素人が考えがちなXとして、A:オリジナルな政策、B:目的が善い政策、C:結果が良い政策 の3つを挙げ、「素人考えでは政策AはXに見えるが歴史学の手法で解釈するとAはXではない。よってナチスは良いことをしていない。」とする方式で説明が進む。
まず、著者らがオリジナルの定義をかなり狭いものとしているのが気になる。まったくのゼロから何かを考え出すこと以外にもオリジナルさを見出すことは特段おかしな考えではないはずだ。
私はメーカー勤務の研究者である。ニーズ先行の商品開発は、(i)市場調査部が計画を立て、(ii)R&Dがラボ試験をして、(iii)工場が大量生産化するという流れで進む。ここで、市場調査が計画をしたことをただ実験して、ただ大量生産しただけなので、研究者も工場技術者もオリジナルなことはしていないと言われたら、ちょっと待てよとなる。
また、実はコピー製品も安定的に製造するのはかなり難しい。同じ会社の別工場で品質がぜんぜん違うことは珍しくないし、他社製品をコピーするのに数年以上かかることも珍しくない。
私は政策を計画・実行したことはないが、計画を実際の法案として成立させることや他国の制度を法律も文化も経済も違う自国で同じように実施することには何らかのオリジナリティが必要であろうことは想像できる。
これについては、著者らも書いている通り、オリジナルであることと良いことは何も関係がない(もちろん、オリジナルでないからといって良くないとも言えない)ことを説明するのが適切だったのではないか。
「確かに狭い意味ではオリジナルでないことは同意する。しかし広い意味ではオリジナルであったし、A:オリジナルは善い という価値判断の元、ナチスは良いこともしたという意見は変わらない」と言われるだけのように思う。
著者らはナチスの政策の真の目的は戦争のための「民族共同体」の構築であるとして、それは良くない目的であると価値判断をする。これは(i)戦争のためという目的は良くない、(ii)「民族共同体の構築」という目的は良くない という2つに分解できる。
(i)戦争のためという目的が良くないとすると、例えば福祉政策が戦争のために発達したことは多くの指摘があるが、福祉政策は良くないことと言えるのかという疑問がでてくる。またインターネットやロケットなど戦争のために生まれ発展した技術は良くないことと言えるのかという疑問もでてくる。
先に書いた通り、これらを良くないとするなら(同意を得られるかは別として)普遍化可能性についてはクリアしている。しかし、これらを良いとするならば説明が必要だろう。
また(ii)「民族共同体」の構築が良くないとすると、例えば「国家共同体」の構築のために移民(特に既存の国民にとって良くない影響を及ぼす可能性が高い移民)を排除することは良くないことなのかという疑問がでてくる。
私はリバタリアンとして個人の自由を尊重する立場から国家が移民を制限することは良くないことだと考えるが、日本はもちろんヨーロッパやアメリカの現状を見るに、世界全体で受け入れる人は少ないと思われる。
「民族共同体」の構築という目的は問題ないが、その方法としての搾取・断種・敵対者の排除が問題であるという主張も考えられる。私もそれらの方法について全く支持しない。
しかし、目的は問題ないとするならば、②目的が善い政策は善い の反論としては不適である。
また、占領地・植民地からの搾取や障害者の断種、反政府思想の弾圧などは同時期の他の国でもあったことであり、それらと比べてナチスの政策はと同程度に悪いのか、それともより悪いと言えるのかという疑問もでてくる。
先に書いた通り、①事実・解釈について素人の私が専門家の整理に対してとやかく言うつもりは(あんまり)ないが、気になる点をいくつか挙げる。
(i)失業者600万人に対して雇用創出政策では50万人程度であるから効果は限定的というのは乗数効果を全く考慮にしていない。私個人としては政府の雇用創出政策の効果に懐疑的ではあるが、ケインジアンはこの<解釈>に文句があるだろう。
(ii)「膨張する国家支出と巨額の負債は国家財政を圧迫し、やがて財政破綻の危機とインフレ圧力に直面することになった」について、例えば日本の社会保障政策も同様という論者は多いが、良くない政策だと言えるか?(なお、私は良くない政策だと考える)
(iii)「「軍備の奇跡」なるものも結局のところ戦争の集結を引き延ばし、多数の人命を犠牲にするだけに終わった」は枢軸国側が負けることを知っている前提の意見ではないか。(現在はともかく)露宇戦争開始当初はウクライナが人命の犠牲を避けて早く降伏すべきという意見はそれなりの数あり、またそれに対する批判も多くあった。
(iv)例えば医療分野の発展はその大部分を動物の搾取を前提としているが、動物愛護思想の人が「医療は"何も"良いことをしていない」と主張することを認めるか?もし動物愛護思想を認めた上で医療分野は「良いこと」もしたと言うならその理由はなにか。
(v)タバコについて、一方では「最終的には自己責任であった」と強制がなかったことを問題としているが、もう一方では特に女性について「家父長的干渉主義」という強制があったことを問題としている。これはダブルスタンダードではないか。
ナチスの政策・行為の"総和"として大きくマイナスであることは多くの人が認めるだろう。
しかし、"個々が全て"マイナスであったというのはかなり強い主張になる。
「ナチスは「私たちはこうあってはならない」という「絶対悪」であり、そのことを相互に確認し合うことが社会の「歯止め」として機能している」ことが正しいとしても、それは"総和"で達成できるのではないだろうか。
今年(2023年)のアニサマ参加後にいわゆる新型コロナウィルスに感染したという声がX(旧Twitter)で多くでており話題になってます。新型コロナが5類になったり、行動制限がかからなくなったりしてアニメ関連のイベントやライブもレギュレーションが変化している中、こういう事態が起こってることを含め私見を述べたくここを利用します。「なげえよ!」という人はよければ最後のまとめだけでも拾っていってください。
新型コロナウィルスは唾などの飛沫から感染します。新型コロナは空気感染だから云々などという人もいますが、別に人間の身体から直接ウィルスが出てくるわけではなく、結局は飛沫由来なので、「大声を出す」などの飛沫が飛び交う状況が高リスクです。
また感染するかどうかはどれだけウィルスに暴露されるかによります。従ってウィルスをばらまいてる人の「近くに」「長時間」いるほど暴露量が増えるので高リスクになります。
アニサマはどうでしょうか?新型コロナウィルスを排出してる人が近くでノーマスクでコールしていた場合、上記の高リスクをすべて満たします。特にアニサマは公演時間も長く、また野外のフェスと違って移動もできないので逃れるすべがありません。従っていろいろあるフェスやイベントの中でも高リスクということになります。
まとめ:アニサマは新型コロナウィルスをばらまいている人が近くにいた場合、新型コロナ感染のリスクがかなり高いと考えられる
#マスクについて
ツイート?ポスト?を見ていると、「マスクしてたけど新型コロナなったわ」「マスクしてたからアニサマいったけど大丈夫だった」のどちらも見かけます。どちらが正しいのでしょうか?
マスクをしていてもウィルスは通しちゃうから意味がないという話を見ることもあると思いますが、これは少し不正確でマスクをしていればある程度フィルタリングはできます。ただし、一つ一つのウィルスは確率的に防御できても、先に述べたとおり暴露量が多ければ結局は太刀打ちできません。そういう意味ではアニサマの場合はマスクをしていても感染を防ぐのは難しかったと思います。なのでマスクの有無にかかわらず今回アニサマで感染しなかったとしたら基本的にまわりに感染源がいなかったということだと思います。
またこれも良く言われるようにマスクをしていれば自分が飛沫を出すのを防ぐことができます。新型コロナウィルスの厄介なところは症状が出る前からウィルスの排出が始まることにあります。従って今元気でもウィルスをばらまいていて、家に帰ったら症状が出るということは十分にあります。声出しするならマスクをする方が結局は良いという結論になります。
まとめ:みんながマスクをしているのが一番安全。声出しするならマスクをした方が自分が感染源になるのを防ぐことができる
ながなが書いてきましたが、それでもどうしても参加したいイベントもあると思います。
レギュレーションの時点でマスク無しの声出しありの場合リスクが高くなります。
この時点でどうしても参加したいかどうかを考えてみてください。
周囲の人がどれだけマスクをしているかでリスクが変動します。また声出しするタイプの人かどうかでリスクも変動します。
周りを見渡してマスクをしている人が多かったり、してなくてもそんなにコールとかしなければ少し安心できます。
逆にノーマスクが多かったり、コール勢だった場合はお察しください。
気休めかもしれませんがこのような場合N95マスクを使う手はあります。正直相当息苦しいですが、ものによると市販のものは医療用のものよりは苦しくないように思ったので(その分大丈夫か?という気もしますが…)何もしないよりはいいかもしれません。特にコールが激しい歌の時だけでもつけるとまあ若干いいかもしれません…
屋外のフェスの場合は状況に応じてヤバそうな人(咳しまくってる人とか、明らかに具合悪そうな人)から離れるといいと思います。密集してる所から少し離れたとことから見るのも手です。
・参加後について
もしリスクが高かろうがなんだろうがどうしても行きたくていったは良いけど、周囲の人にうつすのは避けたい場合は上記の高リスク環境下だった場合は、自主的に隔離するのも手だと思います。なるべく話さない、食事を一緒にしない、これだけでもずいぶん違います。
以上よろしければ参考にしてみてください。またライブイベントの主催の方はどうかレギュレーションについて声出しするならマスク着用を今一度ご考慮頂けると幸いです。
最初の数年はWindowsプログラミング、そのうちWebプログラミングにうつり、必要があればミドルウェア等の修正もしていました。
その中で特に印象深いのは、当時存在していなかったDBの接続ライブラリを制作した経験です。
これは私にとって未知の挑戦であり、それを克服することで得られた達成感や、新しい技術の習得が自分の世界を広げてくれる感覚は何物にも代えがたいものでした。
また、自分の会社を立ち上げ、一人でプロジェクトを進めるのもとても楽しかったです。こちらもやったことないことをやるということで、とても良い経験をしたと感じています。
それとは別に、テックリードとして2年、プレイングマネージャーとして半年の経験もありますが、正直マネージメントの世界は自分には合わないと感じました。
そもそも人にお願いすることが苦手であり、自分でやってしまおう、ってなってしまうのです。
基本的に一人で作業するのが好きで、最近の「みんなで開発していきましょう!」みたいなのには辟易しています。
例えば、コードレビューの際にはカッコの位置や変数名など、些細な点での指摘が多く、これには正直疲れてしまっています。
私はコーディングにおいて「完全な正解」は存在しないと信じており、そのため目的の達成(仕様を満たすこと)において多少のバリエーションがあっても良いと考えています。
過去には車でドライブすることを趣味として楽しんでいましたが、最近はその機会も減ってしまいました。
技術的にはWeb系のバックエンドや中規模のインフラ構築が得意分野です。
インフラは本業の詳しい人には敵わないけど、ほどほどの規模なら構築/運用できます。
若い世代の技術者がどんどんと頭角を現し、狭い分野では差を感じることが増えてきました。(その分視野は狭いな、と感じますが)
立地:A
歴史:F
建築:F
観光:F
繁華街の近くにあって立地が良いだけで、他に良いことは何一つない神社。
それが護國神社。
寺社仏閣としての歴史は浅くて明治時代以降に作られたものだし、社殿は質素で特にみるべき物は無いし、観光に行っても何一つ面白いことはない神社。
それが護國神社。
靖国神社は明治維新から大東亜戦争までの歴史資料の展示があるし、アームストロング砲やゼロ戦などの兵器の展示があるし、食堂では海軍カレーが食えるし、お土産屋では兵器を模したグッズだったり、小林よしのりや百田尚樹の右翼本が売ってるんだぞ。
地方を観光する際にせっかくだからと護國神社に寄ることもあるけど、どこに行っても観光する価値が無くてガッカリするんだよな。
なんかがんばって生きてたなーって思ったしとにかく疲れてるなー
楽しかったのかもしれない
その夢に引きずられ高校のときの「〇〇さんに聞いてるんだけど」などを思い出す。学祭終わりに、体育館でチームみんなで打ち上げのようなことをしていて、お菓子いる?と聞かれてわたしが受け答えしたところ言われたこと。もしみかが受け答えしたときには「増田さんは?いる?」と付け足されただろうか。うめなんとかくん、〇〇のこと好ましく思ってただろう(恋愛とかでなくとも)。こういった記憶ばかり残っていて、わたしは不遇だ、選ばれない人間だと思っているが、逆にわたしが選ばれ他のひとが除け者にされたときのことは、わたしは覚えていないんだろう。勝手な人間だ。人間とはかくあるもの?除け者にしたではないかと責められたくないのであれば、除け者にされたことを責めるべきではないよ。でもつらーーい
〇×△□(俳優)、たいへんかわいい。ムリだ。ガチ恋かよというレベルだ。なにかにハマるのはたのしい。
つらい。ひとを心の底から好きになれるときなんて来るのか?と思春期のようなことを思う。ひとをしんらいすることが難しい。下手をうつとそのうち刺されるんだろうと思ってしまう。刺されるならそれはそれでいいのかも。
別れたときのこと。人生が楽しくないというはなし、自分が自分である限りこの人生はたのしめない、だから人生巻き戻りボタンなんて押さない、というようなことを言ったら「中学とか高校のときの俺もそう思ってた」。だからなんだよ。だからなんなんだよ。思春期のクソガキみたいなことを言っているのはわかってるよ。我ながらバカみたいなことに苦しんでると思ってるよ。でも昔の俺もそうだったっていうお得意のフレーズでぶった切られたらどうしたらいいの。そんな人間をこの先の人生のパートナーにするの?無理でしょう。昔の俺もそうだったならこうこうこうしたら楽になったとかこういう考えかたがあるとか、欠片も示せないわけ?真剣に自分を開示したってまだまだ子供だな☆みたいな返答されたらもうなにも言いたくないじゃん。ほかのときだってわたしがそれはこうなんじゃないかな?と言ったら「俺もそう思うんだ」としか言わないの腹立ってたよ。そこからわたしの考えに付け足すなにかが出てくるならいいけど出てこないじゃん。「俺もそう思うんだ」「そっかあ」「…」「…」「…」ってお前ほんとうに思ってた?乗っただけじゃないの??ふざけんなよ。「増田の哲学的な話きくの好きだったんだけどな」じゃねえよ。ひとの知識をただで消費してんじゃねえよ。「妊娠させたら結婚する?」とかもヤバイから。性暴力しますぼくちん~っていう犯罪宣言なのわかってる?狂気的な俺かっこいい☆とか自分に酔ってない?気持ち悪い。最後に「俺…増田にバイバイって言ったことないんだ…」宣言からのわたしが遠ざかってギリギリ聞こえる声量での「――バイバイ…………」ほんっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっとうに気持ち悪かった。ヤバい。自分に酔いすぎ。自分のこと好きすぎ。オナニーにわたし使うのやめてくんない?ナルシシズムに溺れて二度と浮き上がってくるな。
言葉は力だということは強く思ってるけど言葉は力だと思っているひと同士でないと通じない力なのではとも思う
プラスというか、何て言うんだろう
言葉で傷をつける、言葉で元気づける、というのは割りとわかりやすく広く通じやすい観念の気がするけど、言葉によって目の前が開けるような、価値観が変わるようなことって、言葉には力がある!とかいうやつらにしか通じないのでは?と
わたしも○○ちょう感動した!人生変わる!とか言われてもなーにいってんだこいつってなるジャンルや作品はたくさんあるので、向こうからすればきっとそうなんだな
こういうことを考えていると、自分は大変幼稚で、付き合っている人間に「中学とか高校のときの俺もそう思ってた」とか言われても仕方ないのかなと思ったりもする
まだ傷ついています
つらいわーー
なんか、すごく疲れている。自律神経がうまいこといっていないのかな。
ふつふつと色々なことを思い出しては、怒り傷つき悲しみみたいな、マイナス感情を自分で引き起こしている気がする。思い出さなきゃいいのにね。
△△と会ったときのこと。今月17日。付き合いたいという好きがわからない話をしたかったのにイタイやつみたいに見られた。わたしの言い方が悪かったんだけどもう全然がんばれない。誤解したままどうぞ。そもそもいつもイタイやつとか変なやつという目で見られているし。職場の若い子のノリについていけなくて~とかもう年だから~とかずっと言っているので疲れてしまった。この国に蔓延するすぐババアになりたがる病ってなんなんだろう。疲れる。どれだけババアを名乗ったって平均寿命まで生きるのならあと半世紀生き続ける羽目になるんだよ。すぐには死ねないよ。半世紀もババアやるの疲れないのかな。
疲れた。
わたしの意思とはなんなのだろうか。××氏は、わたしには意思があると知っていただろうか。たわむれの性的接触だとしても、いちゃいちゃみたいな、そういうつもりだとしても、拒否が拒否として受け取ってもらえないこと、そこに不満を持つのはおかしいのだろうか。ヒステリックに叫んでようやくやめてもらえること、それはおかしくないのだろうか。人形のようにおいておきたい、胸だけほしい飾っておきたい、そんな言葉誰が喜ぶの。わたしは人間ではないのだろうか。そういわれるのいやだわたしだって生きてるんだよ意思があるんだよと言ったらそんなつもりじゃないってぐずる。きもい。しにたい。ころしたい。はやくしんでほしい。みんなしんでほしい。もういやだ。なんでつらいものから距離をおくことを許してもらえないんだ。余裕があればがんばれても余裕がなかったらむりだ。しにたい。
親が亭主関白で、母親に仕事はさせないという家だった。今の時代もあるし、自分もそこまでとは思っていないが、料理もできて家も綺麗な彼女には、今のホワイトな会社のまま仕事をしながら、家事を中心的にやって欲しかった。
→まずここが虫が良すぎる。自分より年収高い女に家事もやらせて、じゃあお前はなんなの?女側の負担が増えるだけなのになんで結婚してくれると思ったの?
そうなると当たり前だが、多少ブラックでも、自分が高年収の仕事に就く必要がある。
→わかってるんだったらやれよ無能!
父みたいな何もしないタイプにはなりたくなかったので、自分も家事育児は手伝うつもりでいた。
お前みたいに低スペック無能の癖に家事の負担も女側にやらせようとしてるうんこ野郎と誰が結婚するか!結婚しなくて大正解なのでこのまま孤独死してください😊
財布を預かる用事があって、そしたら謎の包みが入ってて、中見たら見覚えも聞きなじみもない薬が入ってて、薬飲まなきゃいけない持病とかないはずだけどと心配になって調べたら、EDの薬でしたっていう。
いやーーーー。どうしたもんかしら。
だって、しようとしても途中でもたなくなってしょんぼりする夫はみたくなかったし、私もそれでもがんばってくれよ!ってほど性欲旺盛でもない。
逆に彼がしたそうでも今日は無理って私が拒むこともあったけど、
別にセックスしなくても仲良く生活はできているので構わないと思ってた。
子供が欲しくないわけでもなかった。
だけど、セックスできなきゃ子供出来るわきゃないし、経済状況とか年齢とか生活のこととか、他のことも言い訳にして、真剣に不妊治療とか考えることも話し合うこともなく、ゆるやかに諦めていた。
夫は仕事柄出張も多いんだけど、浮気を疑うことはほとんどなかった。
そんなことしないという信用以上に、浮気するにもできないじゃん、と思っていたのも正直なところ。
他の誰かとするために薬使ったのかな……?
試しに飲んでみただけ、とも考えられるけど、財布に入れているってことは、家じゃなく出先で使うつもりでしょう?
話し合いもしようとせず放置してた自業自得だと言われればそうなんだけど。
問い詰める気にもなれない。
ただ、かなしい。
どうしたもんだろうか。