はてなキーワード: 隠居とは
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
無職は本当に飽きるのか。
たぶんそれだけを聞かれたらNOと答えるだろう。長く続けてもたぶん飽きはしないと思う。実際ちょっとだけ無職をしていたが特に飽きなかった。
私は前職を辞めてから半年間無職だった。転職活動も少ししていたけど、受かるつもりもなく適当に過ごしていた。ブラック企業というか、少々精神的に参っていたので、少し休みたかったと言うのが本音である。
前職は稼ぎは良かったがその分激務だった。週4日出張。月曜だけ出社してあとは全部基本的には泊まりがけで営業回り。一週間の交通費や宿泊費に伴う申請なんかは全部月曜日に行うが、月曜日に営業に行かなくて良いわけでもないのでスピードが求められる。だからある程度は事前に済ませておく必要がある。
月初の全体会議と月末は出社。売り上げが悪ければ電話で怒られ、原因を調べて提出する義務が産まれる。月末最終日は会社に行ってひたすら取引先に電話。電話してお願いします買って下さいと頭を下げる。来月分の前借でもいいんですと無理やり商品を押し込む。
できない無能営業である。そういう生活がもう嫌になってしまうと同時に、自分の「出来なさ加減」が嫌というほど分かって逃げるように会社を辞めた。次を決めずに辞めた。
無職は自由だ。自由に何でも出来るけど、職がないのでお金が手に入らない。貯蓄を切り崩して生活する。幸い、使う時間がなかったのでそれなりの金額があった。だから我慢していた旅行に行ったり、ライブに出かけたり、趣味を楽しんだ。
何もない日は家でゴロゴロしていた。実家である。時間が過ぎて行くのはものすごくはやい。何もしてないのに、スマホを見てTwitterを開きYoutubeを開きゲームをして昼寝をする。腰が痛くなったりした。少し太ったりもした。
やることがなくて毎週一人カラオケに行っていた。散歩したりもした。嫌な気持ちになったり、ふがいなさを感じたりもしていたけど、たまに知り合いと飲みに行ったりした時も包み隠さず話していたし、後ろめたい気持ちはあったけど笑えるくらいには普通に過ごしていた。
それでもまた就職しようと思ったのは、単純にお金がなかったからだ。
収入がないというのは自由だけど自由ではない。さすがに親にお金をせびるのは出来なかった。実家で寝食しているのだからもちろん迷惑も金も掛っているんだけど、それでもさすがに小遣いは要求など出来なかった。
だから働くことにした。
金額よりも待遇を重視した結果、今はIT企業で働いている。研修を手厚くやってもらえるところを幸いにも選ぶことができた。未経験だけどとりあえずなんとかやらしてもらっている。前職のことも包み隠さず話して、無職時代もちゃんと話したうえで雇ってもらったからか、定期的に部長から電話がかかってくる。大丈夫か、無事やれてるか。
いつかあの無職時代に戻りたいか、と言われればNOと答えるだろう。でもお金があったら? たぶんずっと自堕落な、隠居人のような生活をすると思う。でもたぶんそういう未来は来ない。だったら、働き方の苛烈じゃない会社でとりあえず働こうかなって私は思ったわけである。
たった半年の無職で分かったように話すなと言われそうだけど、私の私見としては以上の通りだ。決して無職生活を推奨するものでも、転職を推奨するものでもないのであしからず。
以下。
何もしてねーのに、偉そうな日本の似非IT、似非、自称起業家ばかり。iモードって何?知らんわ。
@tnatsu クソじじいは隠居しとけ。
とりあえず、セクハラすんな。ぼけ。普通触らんやろ。#小川彩佳 #セクハラ
なつの、小川アナの服引っ張っるか身体触るかしとんなや。セクハラバカしかおらんのか。ぼけ。
昨日の香山さんの出た回。
まあ、今回はケースが異なり、
私のツイートは、単に女性の人権侵害(犯罪)に対する抗議なんだが。
ま、アベプラ自体、毎日小川アナにセクハラする変態番組なんだが。
全く訳の解らない物言いをする。
消されなかったツイート。↓
.
.
@shuuuun2
·
17h
返信先:
@tnatsu
さん
相手の立場を理解するとか言ってレディーを抑えつけるような話し方。もう出んなや。てめーら世代は。
と言ったら、大声で言下に否定してまくしたてた姿勢に対してツイートしたものである。
こやつは、「アメリカでは、意見の違うものが入れ替わり議論したりして、理解を深めようとする。」などほざきながら、女性の立場を言下に全否定。
なのに、セクハラに対する指摘は場を潰し、逃げる。言論の封殺というか、ただの
こんな奴らが日本のネットを語ってるところが終わりではないか。世界で勝てない理由。
集合写真を撮る際に、
気を使って、なつのを真ん中に促すと
押しやった。
普通、女性の、というか男性でも子供にでもあんな扱いはしない。
こいつの話し方、振舞い方は完全に人権侵害や言論封鎖…ではなく犯罪の隠蔽であって、全くインターネットの思想や理念からかけ離れている。
とりあえずセクハラすんな、ぼけ。
犯罪、セクハラされた側やそれを見ていたものは、怒って抗議したらあかんのか?
何やそれ。あほか。
おそらく散文になると思うけどなんとなく残しておこうと思う。雨だし、帰り道1時間ほど歩きながら暇なので一発書きする。
母は器用であったが、欲のない人だった。おそらく高卒(大学に行ったと言う話を聞いた事がないのでそうなのだと思う)で働き出し、その後父と紹介婚(これも謎、お見合いではないらしい)し、私と私の兄を育て、今は犬二頭と父とで隠居生活のようなものをしている。ど田舎の山の中に小屋つきの別荘を買えるほどの生活レベルだ。
両親は昔に比べるとさらに仲が良く、昔家庭崩壊していたことがまるでなかったことのように思う。家庭崩壊は、両親の問題ではなく、私たち兄弟が荒れていたためだ。
今の私はと言うと、妻を貰い、もうすぐ30になるが子どもはなく、忙しくも充実した日々を過ごしている。
子どもを持つ年齢/環境になって、考えるのは私の両親の話で、その中でも父のことは話を聞く機会が多かったのか、たまに学生時代の話を聞かされたのを覚えている。さらに言うと、「おそらくこう言う人生だったのではないか」と言うのが、私にも想像がつくものであるため、父の人生を不思議に思うことはなかった。
一方で母のことについて考えてみると、いかんせん分からないことが多く、母は一体何者なんだろうか。
断片的な情報からの推測であるが、高卒で就職し、のちに父と出会い、25歳ほどで遅めの結婚し、その後車の免許を取り名古屋での生活に備え(出身は京都)、私の兄を身ごもり、私が幼いころにはパッチワークをしていて、家のものがそれ風のカバーやシートでいっぱいで、家に帰るとよくミシンを動かしていたと思う。私が5歳の頃には既にあったパッチワークのカバーは隠居先の別荘にて今も使われている。
のち、小学校高学年くらいにはアルバイト(お好み焼き屋)を始め、のち天丼屋に代わり、私が中学くらいにはなぜか漢検二級くらいを取り、高校生になる頃には介護の仕事を始め、ヘルパーの資格を取ったりしていた。
この時の私は、母がアルバイトを始めたこと、検定や資格を取っていることに何も感じなかったが、今改めて考えると不思議なことに思う。
彼女の何がそれをさせたのだろう。当時の父の月収を知っているが、家庭的には裕福で金銭的にも余裕はあったはずで、今の私が同等くらい稼ぐのはかなり厳しい思うくらいだ。
学歴からのコンプレックスか、手に職をつけるためだろうか、はたまたただ単に暇だったからなのだろうか。母が飲食のバイトを始め1〜2年ほどで辞めたのは、何か嫌な事があったのだろうか。その経験から資格などに目を向けたのだろうか。
本を買う時はほとんど古本で、資格の本もほとんど古本でもで揃えていた。元々、おそらく本を読む人ではないため、家にある本はオレンジページやよく分からない流行った本(五体不満足など)しかなかった。歴史書や辞典など、自宅にあった本は殆ど父のものだった。母は幼い頃に両親の離婚(私から見たら祖母と祖父)を経験していることから、家族への執着が強くなっているようにも推測できるし、70年前の離婚は今と印象が違うだろう。子どもの頃は決して裕福ではなかったらしいし、その経験からなのかほとんど贅沢をしない人だった。日曜に父と映画を2本借り、父と共に途中で寝るような人だった。
私の母はおそらく打たれ強く、色んな物事に欲がなく、家族が全てのように振る舞い、難しいことはよく分からないが口癖で、残り物を晩御飯として食べ、たまに恋愛ドラマをみてそのままソファで寝て、父の背広にアイロンをかけ、私や兄が勉強をするとよく褒めてくれた。私は今書きながら泣いてしまった。料理が得意で私はご飯をたくさん食べた。たまに父のことをお父さんではなく、◯◯ちゃん(トシノリならトシちゃんなど)と呼んでいた事もあった。髪の毛を乾かすのはドライヤーでなく扇風機だった。私や兄の些細なことでも、さも大層なことのように人に自慢した。
私は私の母のことを理解出来ない。私は矮小で利己主義で打算的な人間で、友達も少なく、自分の話をするのが苦手で、人と喋る時は嘘の自分が自分の代わりに喋っているようにしないと他人と喋れない、嘘つきの惨めなマザコン人間だ。さらに言うと私は父も好きだからマザコンとファザコンを併発しているとも言える。
と、ここまで両親を賛美した上で、私の妻と言う存在に触れると、私は自らの過去に存在する母と父を尊敬しているだけで、今は妻が世界で一番大切なので、全ての物事の中で妻を優先しており、両親と妻の命が天秤に掛かれば迷わず妻を取るくらいだ。
誰にも言ってないプライベートな内容なのでひさしぶりに増田に。
今では考えられないがNECがまだ就職したい企業ナンバーワンだとかもてはやされた頃、母方の祖父や実父がNECで技術の本部長以上をやってた。2人とも分野が違う理系職人タイプの人なので社内でも義親子関係にあるのを知っている人は皆無だとおもう。
自分がまだ子供だった頃、緊急連絡用に渡された父の名刺には統括部長とか本部長とか事業部長とかいろいろな肩書が載っていた。「なんでこんなに部長だらけなの?」と聞いたところ「部っていうのは好きに作れるんだよ」と教えられたのだが、今考えるとそんなわけないよな?
当時「NECは線虫(うねうねした生き物)の研究とかもしてるんだぞ」と喜々として言ってたが、今の多くの日本の大企業はこのようなまるで何の役にたつかもわからない分野に投資する力が亡くなってしまったようにおもう。今もやってる?
企業にとってR&Dは本分のひとつであるが、基礎系に近ければ近いほど当たりがでるまで数十年の長い時間と、利益に絡む少ない生存率が問題になる。誰の言葉であったか忘れたが「すぐ役にたつものはすぐに役にたたなくなる」との言葉どおり、経費削減という名目でR&Dから切り詰めた日本の多くの企業群はこの短い事業サイクルのなかで溺れそうになっているように見える。リストラクションをただの首切りにしてしまったやつらと同じ犯人がそこにいる。
祖父は寂しそうに「銀行が経営に口出ししてくるようになって自由がなくなってきた」と言っていた。事業収益を予測可能なものにしようとすると、短近線形で推測可能なもののみへの経費割当しか行えなくなる。サイトが短すぎるのだ。そうすると必然、誰かが植えて偶然生えてきたにすぎない果実を毟る程度のことしかできなくなる。大企業の役割はその安定性を活かしたよりよい事業の種の発見であるが、小作農の囲い込みしかできなくなっているのは寂しいことだ。
海外。ここらへんの立ち上げもやっていたな。むむむ。そろそろ喋りすぎている気がするぞ。終わりにしよう。
当時の人たちは少数で相当な苦労をしており日本のバブル崩壊と相まって死にそうになっていたのを思い出す。
うちの父は最後は誰ぞのやらかし後始末をするために無理をし体を壊し、そのまま隠居とあいなった。隠居当初は社長はやってみたかったなどと悔しそうにしていたが、今は回復し近所の小学生相手に竹とんぼとかを教え余生をすごしている。家族としてはそのほうが心配がない。小学生に竹とんぼを教えることは「すぐ役にたつもの」ではない。もしかしたらその中から次のNECのような企業を作ってくれる子が現れるかもしれないと考えたら、利益や肩書に集られる有象無象相手にするよりも夢がある。
たぶん9月中くらいには界隈でニュースになるだろうけど、とある知人が経営する会社が(事実上)先月倒産した。年初くらいから経営状態がやばいという話は共通の知人づてで聞いていたのだけど、その割に先輩経営者たちと飲み歩いてばかりいるようだったので訝しんでいたら、案の定というかなんというか。
というときにタイムリーで 「プライベートでは一切勉強したくない」と言っていた社員のこと - 株式会社アクシア という記事が炎上しているのを見て、その辺の事情は経営者も労働者も案外変わらんのだなと思った。
その社長とは1年前くらいに会ったときに、一応5年来くらいの知り合いではあるので、社交活動も重要だけどもう少し社内で事業に集中したほうがいいんじゃない?みたいなことをやんわりと忠告したんだけど、「〇〇さんと飲んで話聞くと凄い話が多くて勉強になる」だの「人脈の重要さを分かってない」だの、微妙に痛いところを突いてしまったらしく、猛烈に反論を受けて関係が疎遠になっていたんだけど、結局その散々一緒に遊び歩いていた人たちにとっては、しょせん遊び友達は遊び友達であって、やっぱり本当に会社が潰れそうなときに助けてくれるわけじゃないんだなと、すごい納得した。
確かに秀でた実績を出している経営者の中にも、遊び歩くの大好きな人も多いし、そういう遊び友達から仕事につなげている人も少なくないけど、実際に遊び友達から仕事につなげてる人は、遊びのように見えて実のところ営業活動になっているというか、遊ぶのは目的でなくて手段なんだよね。もしくは遊びはストレス解消と割り切って、深夜まで飲んでるけど朝は9時にバチっと出社してバリバリ働いているか。
サイバーエージェントの藤田社長なんかも割と「遊んでる」方だと思うけど、これまたタイムリーな記事だけど、これなんかAbemaTVに島田紳助に出てもらうためにわざわざ口説きに会食に大阪まで行ってるわけで。
【引退から7年】ホンマ、平和な日々ですわ……庭いじりで日焼け「62歳 島田紳助」隠居生活を語る | デイリー新潮
ネット業界に出入りするようになってからもう20年近いけど、やっぱりコンスタントに成長している会社の経営者は勉強熱心な人が多いよ。ちょっとした人事制度1つとっても、取材記事とかを見て興味もったら、facebookで話聞きたいんだけど今度飲まない?みたいのをすぐに連絡とってきて「実際どうなの?」みたいのを詳しく聞いてくるし。女の子がつくようなお店に行っても、女の子ガン無視で話してるのはひたすら事業の話、みたいなことも多い。本とかも本当によく読んでる。
経営者なんかは分かりやすく「勉強不足」「努力不足」が、業績不振に直結するし、ちょっとした情報が数億・数十億円の価値を持ったりするので、勉強がより「自分事」なんだけど、労働者はどうしても勉強や努力が給料とリンクするのを実感しにくいので、どうしても「他人事」になりやすくて、下手すると勉強の重要さに気が付いたときには人生手遅れになってそうで、これはこれで大変だなと思った。
しかし一昔前に比べると、ベンチャー系のサミット/カンファレンス増えて、それ自体は資金調達の活発化にもつながってていいんだけど、まだ何も成し遂げてない若手経営者が、そういう場に参加しているだけで、自分をイケている経営者だと勘違いしやすくなっちゃってるのは本当に良くないと思う。賢い連中は資金調達のためにだけそういう場を使って、あとは社内に引きこもってプロダクト磨きに専念しているけど、社交活動が経営者の仕事だと勘違いしてしまった連中は本当に救い難いことになってる。
ソシャゲやってて、最初のうちは大した不満はない。最初から不満のあるようなソシャゲは早々に切る。最初のうちは楽しくても、しばらくプレイしていると悪いところが目につき始める。
しばらくプレイして見えてきたのは、ゲームのシステムではなくユニット格差について。エムマスはイベントやガシャのローテーションが良くないのは知っていた。だけどこちらは担当以外では走らないし、アニメ放送以前は馬鹿みたいに引いていたガシャも最近は担当と気に入ったデザインのものしか引かなくなった。結局は自己責任だから。自己責任の中でゲームに課金しても目当てのカードが来ない方が多い。けどそれでもいい。だって自己責任だから。
ゲームのガシャは自己責任と言えるけど、さすがにユニット格差に関してはそうも言っていられない。グッズの格差は大分良くなってきたとは思うけど、それでも担当の声が聞けるCD格差は今の段階だとどう足掻いても埋まらない。最近はそれも原因で引退する人もチラホラと出始めた。去り際に匿名ブログで運営批判や不満をぶちまけていくのは様式美かな?とも思う。
あと、引退しない、引退できない人の中には、担当が人質に取られているから、もしかしたら担当がファスライ組と同じくらい曲を出すかもしれないからなんて声もよく耳にする。正直、時間の無駄だなと思う。自分の担当もいわゆる後発組だし、アニメだとモブ扱いみたいに言われてたけど、結局モブ扱いって言ってるのって大半が同担だし、ぶっちゃけどうでもいい。
お金を払っているんだから、それに見合うサービスを提供しろと考える人もいるけど、こちらとしては、自分のしている課金なんてひと月あたりに換算すると微々たるもの。だから、そこまで運営に期待もしないし、いざとなったらバッサリとは言えないけど隠居することも考えている。
それが、ひと月に10万20万の課金なら話は違うだろうし、引くに引けないのかもしれないけど。
こちらは担当への課金はしてるけど、それは微々たるものだし、担当以外にも入れ込んでるわけでもない。他のジャンルにも手を出してるから辛い時はそっちに行けばいいやって軽い気持ちがある。だから「格差なくせ!運営はクソ!」って運営に鬱憤が溜まるくらい入れ込んでいる人とは違って、諦めが入ってるからそこまで入れ込んだりしない。入れ込めば入れ込めばつらいだけだし、そこまで怒ったりするのは疲れる。こういうことを言うと「プロデューサーに向いてない!」とか「担当のこと好きじゃないじゃん」とかボロクソ言われるけど、そう言われるのは仕方ないかなと思っているので仕方ないです。
「課金しないと、サービス終了するよ」と言う声もある。正直、サービス終了は悲しいと思うけど仕方ないかと思えるくらいの気持ちでいるから、どうでもいいとは言わないけど、本当に終了しても多分少しショックを受けるくらいで終わるんだろうなと思う。そこまで運営に期待していないしね。
見ての通り、運営への期待値が低いので、周りを見てると運営に無駄な期待をしている人が多いなと思う。
色々とやってほしいことはあるけど、アニメ化発表からの上げて落とすをされた以上、もう期待はできない。それに加えて、毎回グダグダで面白くもない大喜利をやって、公式がお漏らししたせいで大して盛り上がりのない新情報を放送の最後に詰め込んで、っていうニコ生は時間の無駄だし、終わったらブログに掲載されるから観なくてもいいやって気持ちでいる。実際、この間のニコ生は大した情報もないだろうと思って観なかった。
ちょっと思ったのが、こちらが愚痴とかマイナスな気持ちはなく、純粋な事実として「担当の曲が少ないんだよね」と(新曲が出たら嬉しいな〜)くらいの軽い気持ちで呟くとそれを愚痴垢にRTされて「これだから運営は〜…」とか「ファスライ組の優遇が〜」とか言われたことがある。いや、そうじゃない。こっちはそんなネガティヴな感情で言ったわけではないのに、RT先で「このツイートは運営批判だ!後発組はこんな風に運営のことを不満に思ってる!」みたいなニュアンスで伝えられてしまうことがごく稀にある。不本意に思うし、たまに愚痴っぽいことを呟くこともあるけど、公開垢でほとんどのユーザーが知ってるnull宛に呟いたりした以上、仕方ないかと諦めるしかない。愚痴垢を作る人は、それだけ不満を感じているのだと思うし。「出番が少なくて可哀想だね」ってよしよしされたいわけではないし、格差はなくなればいいとは思っている。けど、本気でなんとかしたいと思っている他の人と比べると、「まあ、なくなればいいよね〜」くらいの軽い気持ちしかない。それくらい物事を軽く見ている人もいるってことを頭の片隅に置いて置いてほしい。ただ単に、こちらがエムマスにそこまで熱中してないだろって言われるだけだけど。だけど、たくさん期待しても、期待を超えられないときに失望するのって、結局は個人のワガママだと思っているから。もちろん、お金を払って色んなことをしているユーザーからしてみたら、「ユーザーの要望に応えられないのはクソ」と思うかもしれない。けど、こちらとしてはこうしてくれるだろうと勝手に期待して、勝手に失望するのは精神的に疲弊する。他のコンテンツじゃ当たり前のことができていないって言う人もいるけど、隣の芝は青いものだし、別のコンテンツもそれなりに不平不満を持つ人が一定数いる。(「お向かいの事務所は●●だからエムマスはまだましだよ」と言うと、今はエムマスの話をしてるんだから他は持ち出すなという意見もあるから、なんとも言えない)
だけど、好きになったものに対して期待しないとやっていけない気持ちも分からなくもないし、アニメでちゃんとアイドルをやっている担当を見たい気持ちは分かる。ただ、期待しすぎたり、エムマスや担当に執着しすぎると、つらくなるよってこと。既につらいけど。