はてなキーワード: 視覚とは
https://twitter.com/shinkai35/status/945771033696509952 へのリプライです。書くところが無いので、ここに書きます。この話は全てフィクションで、実在の人物や組織には一切関係ありません。
その日、文筆家しんかいはPCから出るピピピ・・・と言う異音で目を覚ました。翌日が休日である事に安心しきって、ついついツイッターでリツイートされてきたポストモダニストの著作がいかにおかしい話であるかを語っていたはずなのだが、顔にキーボードの模様をつける結果となっている。実感は沸かないが寄る年瀬には勝てない。相対主義が何を主張しようが、ヒトにはその限界がある。そんな事を思いながら、テレビのスイッチを入れようとしたとき、しんかいは異変に気づいた。
部屋に置いてあるそれは、平面的で画面が大きな液晶テレビではなく、画面は小さいが奥行きのある立方体、昔懐かしいブラウン管のもので、ダイアル式のスイッチでチャンネルを選択するそれだ。電源のオン/オフに金属のトグルスイッチがついており、もしかしたら産まれてから実際に目にしたテレビの中でもっとも古いものかも知れない。背面から出て壁につながっているテレビ線のコードは同軸ケーブルではなく、平たいプラスチックの両端に二本の細い線があるものだ。もう平成も終わろうとしているのに昭和過ぎる。が、昭和であってもテレビの裏の埃は変わらない。くしゃみが出てきた。
パチンと電源を入れる。ヴォンと音を立てた後、数秒の間を置いて粗い絵が映し出された。4Kや8Kのテレビの宣伝をみるたびに、もう走査線の本数を向上させてもと思うが、いやおう無しにでもその重要性を認識せざるを得ない絵だ。北朝鮮のテレビよりひどい。2017年12月27日、朝7時のニュースが始まった。アナウンサーの「おはようございます」は、普段通りの番組だが、他は普段通りとは言い難いものであった。見慣れたコンピュータ・グラフィックスの今日の見出しが、アナウンサーの横の黒板に置き換えられている。ボードですらない。何より、国家放送第一と言っている。
しんかいはチャンネルを回してみた。チャンネルはかくんと90度づつ回転し、四つしかチャンネルが無いことがわかる。ぐるっと一回転させる。四つあるチャンネルのうち、一つは白黒の画素が激しく入れ替わるノイズが流れていたが、三つは使われていた。国家放送第二、国家放送第三、ノイズ、最初の国家放送第一。どうやら、国家放送しかないようだ。第二はこの時間帯なのに正しい文学について解説し、第三は老人が正しい体操を実践している。しんかいは、この時点でテレビの登場人物全員が、カーキ色の上着を着ており、一列に並んだ大きめのボタンをきっちり留めていることに気づいた。
チャンネルを国家放送第一に戻す。国民服のようなものを着たアナウンサーが読み上げるのは交通事故や気象情報と言うところは、公共放送のニュース番組と同じだ。しかし、一つ一つについて解説を丁寧に与えていく。しばらく唖然としながら番組を見つめ、思わず「何だ?」とツイートした。ニュースに解説があるだけであったら、驚かなかったかも知れない。しかし、先々月の災害の被災者の感情を、微分可能多様体と言う単語を持ち出して説明しようとしている。そう、ポストモダンだ。ポストモダンについては日本有数の知識を有すると自認しているが、寒気についてのポストモダン的解釈は初めて聞く。
はっきり認識はできているが、全く理解ができない状況。自らの視覚や聴覚を信じることができない。思わず、「テレビがポストモダンになっている」となっているとツイッターに書き込む。「え、愛知だけでは?」「柄谷行人が死んだりでもした?」「ポストモダンに“なる”はおかしいだろう」とリプライが返って来る。誰もこのポモな国家放送を観てはいないようだ。ブラウザーでポータルサイトのニュースを見ても、特段、テレビ放送に関するものはない。ツイッターやフェイスブックの検索でも、しんかいと同じものを見ている人はいないようだ。
このブラウン管のテレビだけが、ポモな国家放送を流しているのであろうか。アンテナ線は壁につながっているが、これはモックなのであろうか。手の込んだ悪戯としか考えられない状況ではあるのだが、手の込みすぎたところが気になった。目の疲れを感じる。気づくと一時間は国家放送を観ているのだが、同じ内容が繰り返し放送されているわけではない。チャンネルは三つ。ブラウン管のテレビも昭和風ではあるが、チャンネルのスイッチは特製だ。粗雑な出来とは言え、かなりの労力だ。現実とも夢とも断言できない。
しんかいは電器店にいって、他のテレビを観ることに決めた。冷静に考えればテレビを摩り替えられたとしか思えないわけで、窃盗で警察に届出を行なうべきだが、この国家放送が持つリアリティがそれを躊躇わせた。無理な体勢で寝てしまったので二度寝の誘惑もあるが、“ブラウン”管からの一つの連想が心をざわめかしていた。ブラウン管の発明者はフェルディナントだが、ポストモダン思想の批判者にも有名なブラウン、ジェームズ・ロバート・ブラウンがいる。
著作「なぜ科学を語ってすれ違うのか」でブラウンは、国家などの社会的構築物が必然ではなく、人々の考えの偶発的な結果によるものと考えると、社会が人々の考えを統制しだしてファシスト国家に陥る危険性を指摘していた。また、ポストモダンの科学的方法への懐疑は、科学の進展を阻害し、技術的進歩を阻害する事になる。つまり、ブラウン管に映し出される世界は徹頭徹尾、ポストモダンに支配された世界と言える。
ポモの危険性を指摘してきたしんかいにとっては悪夢としか言いようが無いのだが、しんかいは心踊っている自分を自覚していた。日常からにじみ出る不穏な世界の兆候。アニメでは親しんだ別世界がそこにある。「けものフレンズ」は好物だ。このときしんかいは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』の結核の話をすっかり忘却していた。ポストモダン思想に支配された世界であれば、繁華街の電器店がいかに危険な場所であるかは、最もしんかいが理解しているはずであるのにである。
テレビに見入っていたので気づかなかったが、家を出る前に、アパートの部屋が狭くなっている事に気づいた。振り返れば玄関が見える狭さなので迷子にはならないが、間取りも見覚えが無い。六畳一間と台所、バス・トイレ付きではあるが、便器は和式である。昨夜、帰宅する家を間違えたのであろうか。しんかいは映画「パトレイバー the Movie」の帆場のアパートでしか、似たような物件を見たことが無い。
机の上のPCの下には、書きかけの原稿用紙が散らばっていた。題は「科学のためのポストモダン思想からの脱却」とある。見覚えのある字ではあるが、自分のものを含めて久しく手書きの文字を読んでいないので、誰のものかは思い出せない。大判の封筒も置いてある。宛名は、自分であった。送り主は「鈴木幸子」とある。中はゲラ刷りで、赤が入っていた。出先で原稿を読もうと封筒を手に取る。
ポストが大きい金属製の重い扉をあけると、アパートの外側の廊下に出た。二階だ。表札は確かに自分の名前が書かれている。鍵がないので施錠できないがやむを得ない。ところでここは一体どこなのか。スマートホンを出して地図アプリで位置検索をかける。すぐに「こんな所でスマホが使えるわけが・・・」と思うが、現在位置はあっさり示された。GPSの電波は届いている。インターネットも使えた。自分の場所が異世界なのか、そうでないのか、明らかになってきた状況を元にしても判断が出来ない。
かなりの資力が必要になるが、古いアパートの部屋に自分を押し込む事は可能だ。しかし、衛星測位システムの電波までは防ぐ事ができなかったのであろう。聖戦士ダンバイン以来、主人公が異世界に飛ばされる娯楽作品に親しんできたしんかいは、密かに期待した状況が否定されて落胆する。まだ十分な確信が持てないが、これは壮大な仕掛けの悪戯だ。街の中心部に向かえばはっきりするであろう。しんかいは、金属の音を響かせながら階段を降りていった。
5分後、しんかいは自分が異世界にいる事を確信した。悪戯とすれば、神の仕業であろう。スマホの地図アプリの位置情報は機能していたが、道路の舗装が汚く、空気が汚れていて、高いビルが無いので空が見上げやすい。そして、旅行先でしか見たことが無い路面電車が走っていた。しんかいの知る名古屋市には市電が無い。しかし、ベージュと赤と緑のカラーリングの路面電車が走っている。地図アプリの位置情報は、間違いなく名古屋だ。
道を歩く人々の服装は、男性は国家放送局のアナウンサーが着ていた国民服、女性はもんぺ姿である。しんかいは人々が自分を凝視するのが気になって仕方が無かった。しんかいの格好はPコートにチノパンである。この世界では明らかに浮いている。この恥ずかしさをツイートして紛らわせたい衝動に駆られたが、文章だけでは何を書いても気がおかしくなったと思われるであろう。国民服ともんぺ女性と市電が映った写真を撮って、「ここはどこ?」とつけてアップロードをした。「戦時中の名古屋市」とリプライがつく。
戦時中なのであろうか。朝のニュースではそのような事は一切言っていなかったし、テレビは戦後で、カラー化は高度成長期の最中だ。昭和40年代ぐらいが相場に思える。状況を把握するために、一日中テレビを観ていた方が良かったかも知れない。古くて小さな家電店が目に付く。中に入ると、期待通りテレビが置いてあり、放送を見ることが出来た。店主は商売っ気の無い老人で、都合が良いことに客に関心がないようであった。テレビの出演者は全員、国民服ともんぺであり、ドラマですらそうであった。アパートの部屋のテレビだけがおかしいと言うのは否定された。
しばらくテレビに見入っていたが、空腹を感じてきた。何かを食べたいと思うが、この世界で食事をとる方法が思いつかない。飲食店はあるようだが、市電で使われている硬貨は見かけないものだった。この世界で使える金を持ち合わせていない。このままでは行き倒れ、帰宅をしても孤独死になってしまう。途方に暮れたところで、家電店に若い痩せた男が入ってきた。肌が白い。「単一の電池を・・・」と言ったところで、ゴホゴホと口を押さえて倒れこむ。指の隙間から見える、鮮血。小説の中でしか知らないが、即座に結核と言う単語が思いつく。店主は男の様子を気にせず、「ろうがいかい。向かいの店のホメオパシーが効くよ」と電池を出してくる。これは、不味い。
しんかいは、危機を感じて慌てて電器店の外に出た。ドンと人とぶつかる。「ごらぁ、前を見て歩け!」と旭日章のついた帽子をかぶってサーベルをつけたおっさん、明らかに警官に怒鳴られる。反射的に「すいません」と謝るが、警官はしんかいを上から下まで舐めるように見ると、「おまいさん、なんちゅー格好をしている。ちょっと署まで来い。三日はぶち込んでやる」と言い出した。その瞬間、中で物が落ちて割れる音がした。「お客さん、ちょっと、しっかり」と言う店主の声がする。警官はそちらが気になったのか、店の中に入った。
しんかいは、その隙を見逃さず走り出した。一瞬「逮捕されれば食事は出るかも知れない」とも思ったが、この体制国家的な異世界では逮捕されれば拷問を受ける可能性もある。どこにも行く宛てが無いと言うわけでもない。持って来た封筒の裏側には、住所が書いてあった。何者かは分からないが、「鈴木幸子」を頼る事にしよう。少なくとも、この世界のしんかいを知っている人物である事は確かだ。
新しく掃除機を新調して
今回はサイクロン式にしてみたの!
憧れのサイクロンよ!
憧れのワイヤレスよ!
で早速試運転したわけなんだけど、
今まで紙パックの中でよく見えなかった吸い取ったゴミが
私の部屋こんなんだったの!?って。
で溜まったゴミを捨てるんだけど、
パカって開いて簡単に捨てることが出来て良いんだけど、
誇り高き先輩の掃除機で吸いたい気分が最高に強まるのよね!
これか!
サイクロン方式を紙パック方式の掃除機が親の敵のように吸い取って掃除しちゃう現象。
要は、
日本語変換のインプットメソッドエディタでも一発で変換できちゃうぐらい
貴社の記者が汽車で帰社したと容易に言えるぐらい感動を覚えるのを禁じ得ないことはないわ。
そのレッスンのメソッド!
なんとも滑稽な姿がまた微笑ましくもあるのよね。
この温故知新感!
どうせお掃除するなら楽しくなくっちゃね!
今年の汚れ!
今年のうちに!ってね!
うふふ。
それとゆで玉子よ。
今日は沸かしただけのホッツよ。
それをゆっくり飲むわ。
もはやお湯ね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
冬眠する増田アース人が宇宙に進出し、増田アースに残った人々が
絶滅した後、極度に汚染された環境が生き残った生物に突然変異を強制した。
それは成長にしたがい性別が変化することだ。
動物時代の彼らは身体が大きくたくさんの卵を産める個体が雌をつとめていた。
年収の多い個体ほど雌に性転換しやすかった。最初はみな雄で生まれてくるのである。
実際、一度の産卵数が多いので、経済的に豊かな個体でなければ親は務まらない。
雌と結婚した雄も、配偶者からの経済的社会的影響を受けるため、雌に変化しやすい。
イキイキマンボウ人社会における「普通の家庭」は雌同士が大量の雄の子供を育てるものと考えられていた。
雌は雄にとっていつかなる性別だし、雄は雌にとってかつてなった性別であるから。
一生を雄で過ごすイキイキマンボウ人は抑圧され見捨てられた存在だった。
彼らはいわば「視覚化された童貞」であり、円満な雌×雌家庭を見ては
血涙を流し「おああーーーっ」とエラを震わせるのだった。
日本が舞台じゃないし登場人物が外人なのに日本で日本人が演じるから間違っている。
この逆を行けば大ブレイク間違いなしなわけだよ。
日本が舞台で登場人物が日本人の作品を日本人が演じればいいのだ。たとえそれがどんなにファンタジーでも日本が舞台で日本人が演じる限りはきっと溢れんばかりのリアリティが観客の目頭を焼き尽くし視覚野にこれは現実だと錯覚させること間違いなしである。
しかし、それが元々リアリティのある作品であっては面白みがない。たとえば半沢直樹や下町ロケットは内容こそふざけていたが作品の地盤そのものはこれといってファンタジーでは無かった事が記憶に新しい。あれでは駄目なのだ。リアリティのあるファンタジーによって脳に混乱が引き起こされ、それによって◯◯はいいぞしか連呼できない傀儡を生み出すに至ってこその実写化ではあるまいか。
ならば選ぶべきは限りなくファンタジーでありながら舞台が日本であり日本人が主役の作品だ。そこで私が推奨するのがFate/stay nightである。殷賑極まるソーシャルゲーム業界において、話題性において頂点にすら立っているとすら噂されるあのFGOの原点、日本有数の傑作文學でありながらジャンルが18禁ビジュアルノベルゲームであったばかりに頭の固い老害の暗躍により認知を拒まれ続けた悲劇の雄篇である。
他人の成功を妬むしか脳がないネットモヒカンの手によりアーサー王が美少女であることばかりが殊更に注目されるが、この作品の主要人物は大部分が日本人である。主人公、ヒロイン、ライバル、主人公にそっくりな正体不明の強敵にして頼れる兄貴分、創作物を顕現させる器として選ばれた名も知らぬ農民にして無銘の妙手、これら全てが日本人である。当然舞台は日本の冬木市、モデルは神戸。
何故いつまで経ってもFateが実写化されないのか不思議なぐらいだと思わないかね?私は不思議だ。日本七不思議を現役世代だけで決めるなら絶対に入れるべきだろう。
Amazon Echoを運よく購入することができ、わくわくしながら到着を待ち、妻に自慢しながらパッケージに書かれた例文などを話しかけていたが、今ではすっかりEchoは埃をかぶってしまった。
Music Unlimitedにはどんな音楽があるのかな、とスマホをチェック。
Echoってどんなことできたっけそもそも、とスマホをチェック。。。
現代のインターネット社会が、いかに視覚を使うことに支配されているのかを実感させられた。
「初めまして、私はエコー。私でどんなことができるのか知りたいですか?」
「うん、教えてくれよ」
「Music Unlimitedで音楽をいっぱい聴くことができます。好きなアーティストはいますか?」
「そうだね、ビートルズは好きだよ」
「ビートルズが好きだということは○○○もきっと気に入るでしょう。流しますか?」
「うん、聴いてみたいな」
「いかがですか? ほかにも、スキルでさまざまなことができます。最近、Amazonで買われた漫画の新刊を今後告知しますか?」
「ありがたいね」
この間寝る前に、
ふと考えて行き着いた答えが、
だった。
原人AとBがたまたまバイブスが合って共に行動するようになり、狩りで捕った肉や魚を一緒に食べる時、問題が発生する。
Aは植物の葉で包んで蒸し焼きにするのが好き。
Bは直火で焼くのが好き。
しかしお互いに言語を持っていないので、ウホウホ主張するだけで中々意思疎通が取れない。
この段階でどちらかがキレて「ウホウ!!」って相手をぶっ殺すことがきっと何万回もあったと思う。
「相手は何かを主張している」
とBのことを考えて、最初は言葉ではなく木の枝とかで地面に何を描いて意思疎通をとろうとしたのでは?と個人的に考えた。
そうやってAはBの主張をどんどん汲み取って、簡単な記号を作り出し、それが発展してようやく言葉になったのだろうと!
とここまで考えて実際はどうなんだろうとウィキペディア(これから本借りて調べてみるからね)を見たら!!驚愕!!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90
と、つまり徐々に進化したと。つまり自分が考えたウホウ理論はこれに分類される。
ちなみに、
もう一つの異なる理論は、言語が概して一般的に符号化された生来の能力であると大抵みなしている前二者と違い、言語を主に文化的な、つまり、社会的な交流を通じて習得される体系だとみなす
とにかく、意外にも言語がどう進化したかが分かっていなく驚いたし、不連続性理論のぶっ飛びっぷりといったら。
ノーム・チョムスキーは不連続性理論の卓越した唱道者だが、この問題に関して彼は同僚たちの中で孤立している。
ほうほう。
?!
続いて哲学的主張が手短に行われた。
まず、進化について知られている者から:一個体における偶発的な遺伝的変化によって種のいかなる生物学的変化も起こり、
第二に、言語理論の計算機的観点から:求められる唯一の能力は心の再帰的データ構造(いわゆる離散的無限の性質、
ヒトの心に離散的無限という性質を付与するこの遺伝的変化は(Nを定数として)
Nまで数え上げることができるなら無限に数え上げることができる(つまり、Nまで構成できるならN+1も構成できる)ことになる、
とチョムスキーは主張している。
そしてこのウィキのページ長ぇぇぇぇええ!!
でも気になるよね。
ジェスチャー理論では、簡素なコミュニケーションに使われたジェスチャーからヒトの言語が発展したとされる。
↓
ジェスチャー理論の重要な問題は、なぜ音声言語への移行が起こったのかである。さまざまな説明が提案された:
ヒトの祖先はどんどん多くの道具を使うようになっていった。
それらの道具に手が占拠されたのでもはやジェスチャーを行う余裕がなくなった[98]。
手でジェスチャーを行うには話し手と聞き手が互いに見合うことが要求される。
例えば夜や、葉によって視界が遮られているときなど、多くの状況では視覚的なコンタクトを取らずにコミュニケーションを行う必要がある。
時間がある時に本を読んで調べてみるかなー。
付き合っている子の家に遊びに行った時に、エロDVDを片づけ忘れてたってのあるあるだと思うのだが、
好きなアイドルとかはビックリするほど美形の整った顔の女が好みなのに、美少女系とかじゃないんかと。
まぁたまたま今日はそういう気分!ということなんだろうなとは思ったが、そういえば、美形好きのくせに
なぜ凡庸ちょい下の私と付き合っているのだろうという以前からの疑問もあったりで、こつんと引っかかるものがあったので
素人ものがお好みですかーへーはーほーん、から始まって、彼氏の自慰事情をずかずかと、根掘り葉掘りしてみた。
あまり映像では抜かない。なぜ? ちょっと嘘くさくて入り込めないから。素人ものならいいかと思ったがやっぱり演出が気になって気が散る
本?エロ小説とかエロマンガとかか? いやあれもいかにも抜いてくれという感じで入り込めない。視覚情報が少ないだけ多少活字の方がマシ。
えええ…そうなんだ…。脳内で想像するのが一番興奮する。 はああ…そうなんだ…。
というやりとりになり、なんか面白い人と付き合っているんだなぁと思った。
貧乏ゆすり激しくて視界に入って集中出来ない。
これとかあれとかさっきのとかで他人に言うのに、自分が言われると全くわからない。
目も体も違う方向を向きながら話しかけてくる。
最初は脳機能のことだし記憶障害とかはあるよな、しょうがないよなって思ったけど、それだけか?ってなってきて1ヶ月たったころからずっとしんどい。
覚えられないんだったらこうしよう、ああしようというアドバイスをするも、聞いてるのか聞いてないのか実践されないし、ゆっくりメモを取ってもらいながら教えてもメモ見ずに聞いてくるし。
メモ見ないとメモを取った意味がないでしょ!と言っても響いてないし。
画面印刷した方が視覚的に覚えられていいのか?と思って各手順印刷する方法を教えて印刷するけど、それを応用して別のことも印刷して覚えようとは思わないようだ。
印刷する手順の教え方がまずかったのかもしれないけど。(プリントスクリーンキー→EXCEL→貼り付け→縦横変える→用紙いっぱいの比率にする、と教えたけど、貼り付け→印刷ボタンしか覚えられない。覚えさせるために大きくしたいのに)
もう教えたくない!と思うけど、そんなわけにもいかないし。
「お金のためにやってるんじゃないんですけど」って意見はもっともだけど、
じゃあ自分が就こうとしている職がいくらもらえるかぐらい見ないものか?
学生生活している数年でいきなり給料下がったのならともかくずっと薄給だろ。
結局のところ需要と供給が成り立つところに給料は設定されているわけで
誰にでもできるかはさておき「その程度の仕事」って「思われている」んだよ。
国家資格だからって言えばガソリンスタンドのバイト程度で取れる危険物取扱者視覚も
「自動車だって全員が運転できるわけじゃないと思います」ってドヤ顔で言ってるのと同じ。
環境全体が向上できたら満足なの?
NHKその他テレビで某宗教のタレントがキャスティングされることが非常に多くなった
実力のある人もいれば居ない人もいる
某宗教自体が嫌いなわけではないし、某宗教所属だからといって忖度に甘えない人も多い
某俳優は本当に実力があり、個性もあるから出ずっぱりでも納得できる
某女優も情に厚いおばちゃんであり、いるだけで絵面にパンチもあるし、いい話で確実に泣くのでテレビ的にも必要なポジションだろう
しかしそうではない人も多い
ワイドショーのコメンテーター枠に不自然に入り込んだ、とくに代表作も実力もない俳優・アイドル崩れの女優らしき人がねじまれている
何の機転も知恵もいらないバラエティーでとくに面白いことも言わない、芸があるわけでもないのになんとなく司会者ポジションにおり、なぜか大物ポジションになっている芸人・タレント
まあ、それでも彼らはそれなりに実力が評価されているのだろうし、いくら某宗教団体の新聞がスポンサーとは言え、数字がとれなければ降ろされるのだし、ムキになることもないだろう
NHKの番組のキャスティングでもやたら多いので違和感があるのだが、それだけではない
再現VTRの中に意味のない三色のものを机や小道具に入れたがる
単色ならともかくまとめて使えば南国などの原始的なイメージを生み出すので
普通はなかなか使わない
スーパーの広告など、どぎつさで人の目をひきたい時に使うが、それは要するに一時的なストレスを生むからこそ注目されるのであり
再現VTRでは主人公の机の上に赤青黄のレゴのようなブロックが置いてある
企業の社長の机にそんなもの置くわけがない。演出的には違和感がある
自某政権からの圧力なのか、それとも某宗教の熱心な信者がNHKの幹部になったのかはわからない
しかし、もし仮に某宗教に配慮して準国営放送の公共性を歪めているとしたら、それは許されることではないだろう
楽しくやっていて良い、人道的で良いと思っている
真偽のほどはわからないが、もしこの思い込みが真実ならば非常に残念だ
せめて、あの三色は勘弁して欲しい