はてなキーワード: 美的とは
http://b.hatena.ne.jp/entry/toyokeizai.net/articles/-/151486
はてブの意見(の大勢)、多くのトピックは同意できることが多いけど、
こういう景観・建築保存のネタになると「老朽化が」「時代に合わない」「非合理的だ」という意見が多くなって、
(具体例としては、ゴールデン街、田舎の駅舎、街路樹伐採あたりのニュースが今年あったと思うけどそのあたり)
なんというか経済的・実用的・機能的価値に重きを置きすぎているというか。
はてなってコミュニティの割合的に、IT系の人が多く占めるイメージなんで、
そこに通底する価値観として「新しいものは、古いものに常に優越する」ってのがあるのかなと思う。
建築物や景観なんかに関しては、観光的価値やそれに対する経済的な利益だって大きいわけだし(保存する合理的な理由があるってことね)
http://anond.hatelabo.jp/20161107104928
どうも日本では「ブラック企業」「長時間労働/サービス残業」に対する認識がきわめて甘い。近年、特に甘くなっている気がする。
労働賛美的な考え方と、権威に盲従する姿勢と、前近代的(「自分くらいはいいだろ」)メンタリティ。それらに支えられて蔓延するこれらの存在は、日本の労働環境を他に例を見ないほどひどいものにしている。
「潰れろと言うのか」とおっしゃるが、ハッキリ言ってそれは泥棒が「飢えて死ねと言うのか」と開き直っているようなものだ。そもそもが違法行為であり、食えない先・潰れた先をどうするかという話は人権的な問題であって、雇用・労働政策とは別の次元の問題だ。それは泥棒していい理由にはならない。
なぜブラック企業・サービス残業が違法かというと、そういう行為を放置すれば市場原理がはたらかなくなって健全な市場経済が運営されなくなるからだ。泥棒行為が蔓延すればセキュリティリスクが許容を越えて社会が崩壊する、それと似たようなものだ。ブラックにならないと経営できない企業をつぶさない限り、その陰であおりを食う良心的でまともな経営努力の会社は市場から撤退していく。ブラック企業や違法労働は、それ自体がまともな会社や労働者を潰し、殺しているも同然なのだ。強圧的に労働力を買い叩く企業も、ダンピングして労働力を売りまくる奴隷労働者も、市場経済からみれば等しく不正行為者であるという認識が必要だ。そこのところを放置する限り、よりよい社会、富の適正配分は実現されない。
もちろん「ソフトに」潰すようにはした方がよいと思う。その程度の現実的な運用は、当然必要だ。だが、根っこのところで勘違いしている限り、問題は解決しない。
「潰れろと言うのか」? まさにその通り。むしろ「潰さなければならないと言っている」のだ。そこのところをぜひ認識していただきたい。
いや、びっくりしちゃいましたよ。
知的でクールな36才男性、恋人いない歴=年齢、IT業界って、
いや、しかしそんな人間がなぜ恋人いない歴=年齢の記録を伸ばしてるのか、
そんな高齢童貞が生まれる要因について、自分の経験も交え、以下考察していきますよ。
頭が良い人は、幼少の頃から、頭が良いということを理由に敬遠されやすく、
また、どこか大人びたところがあり、子供らしい子供では無いため、
また、小学生の教師なんかからも、あまり勉強もせず出来るということで、
気に入られなかったりします。
また、周囲の同級生からも「真面目で面白く無さそう」と思われたりして、
うまく輪に加わることが出来ません。
こういったことが原因で、「自分は好かれない人間なんだ」と思い込むようになります。
これは、「思っていることが現実になる」側面があり、実際にあまり人には好かれないような言動、
例えば人に対して冷たく振る舞ったり、などをすることで、さらなる悪循環に陥っていきます。
スポーツもダメ、特に美的才能も無く、という人はそれが最大のアイデンティティとなります。
そのため、その部分を否定されることに、自分が自分で無くなってしまうような、大きな不安を持ちます。
それがプライドが高いように周囲には写り、敬遠されるようになります。
頭が良い子、成績が良い子の母親は、しばしば子供に過度の期待をする教育ママです。
勉強をしないことで怒られたり、また、テストの点数が悪かったことで叱りつけるなどで、
そのため、女性を見ると「また恐怖でコントロールされるのではないか」と、大人になっても考えてしまいます。
また、そんな母親が家の外では体面よく振舞っているのを見て、
女性のことを、「表面は取り繕っても影では何をしてるのか分からない」存在と考えるようになり
頭が良い人は、前項の理由により女性の支配下に入ることを極度に恐れます。
そのため、女性にモテるための行動は、支配される第一歩と写り、なかなか行うことが出来ません。
例えば女性に好かれるようなファッションをするなどのことも、抵抗を感じます。
そういった人は高校や大学など、恋愛が初心者で許される時期に、
自信の恋愛経験値の低さを理由に気後れしてしまいがちになります。
難関高校、難関大学では、もちろん真面目な人が多く恋愛に消極的になりがちということもありますが、
それに加え、勉学が大変で恋愛などする余裕が無いということもあります。
自分の高校時代のことを言えば、学年で付き合ってるカップルは3〜4組程度で、
・・・その他、IT業界的なことも書こうかと思うけどやめます。
業界の女性比率とか、そもそも人と長期的に関係を続けるのに向いていないとか。
今後ちゃんと描写されるかもしれないし。
http://anond.hatelabo.jp/20161010225537
1.何かに優れているパターン
あるいは自分をカテゴライズして、こういうことが好きな人間だと認識する
ただしこれが行き過ぎると、ガチ勢を目の当たりにした時に心が折れる
2.無償の愛を注がれる
家族や恋人、友人、ファンなど、周りの人間から必要とされ愛される
これが一番いいらしい
持ってる人は普通に持ってるけど、持ってない人は全く持ってないもの
お金みたいだね
今はアレだけど、前進してるから将来きっと良くなる、という考え方
とにかく1つずつ歩を進めていることを拠り所にする
30代過ぎたあたりから徐々にきつくなってくる
年をとっても最後までこれで行く人もいる
3と似てるが、前進すらしていない
しかし持ち前の頭の悪さで「でも俺は」と言って認知を曲げてしまうパターン
オタクやこじらせたやつに多い
1があればギリギリセーフ(「俺にはこれしかないから」とか言い始めるけど)
1も2もない人は厳しい、
昨今は2を得るためにまず1が必要だったりするのがきつい
1も2もない人は3か4を選択するが
そりゃ消費者庁がリリース(http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20160623_2.html)出すぐらいだわ。
ちなみに消費者庁のpdf資料末尾にはご丁寧にも施術方法がイラスト付きで解説されていて、これはこれで想像しただけで痛そうで怖い。
かく言う私も真性包茎でね。文章だけでも、我が子に向けられる刃を想像し恐怖に恐れ戦いてしまった。
不潔、女性受けが悪い、病気、あたりが定番。シンプルだが、異口同音といっても良いほどに共通している。
煽るために適当な作ったとしか思えないアンケート調査(母数不明)ネタもあった。
http://www.openbsd-wiki.org/category61/entry116.html
・どちらかといえば理由にならない 45.3%
・理由にならない 30%
・どちらかといえば理由になる 13.9%
・理由になる 3.6%
また、『包茎は分かれる理由になるか』というアンケートでは「理由になる」「どちらかといえば理由になる」という女性が約15%いました。包茎は分かれる理由にはならないが、付き合いたくないという女性が多いようですね。
75%の女性が理由にならないと言ってるのに、「付き合いたくないという女性が多い」ってどこから読み取ったんだ。
・治療を受けて欲しい 144人
・理解する 129人
『彼氏が包茎だと知った時治療を受けてほしいか』というアンケートでは多くの女性が「治療を受けてほしい」と答えています。彼氏のことを本当に心配している女性が多いのですね。
何故、129人の女性が理解すると回答してるのはスルーなのか。
包茎矯正器具というものがあるらしく、一日最低30分皮を延ばすことで一ヶ月だか数ヶ月だかで治療可能という。メリットは手術よりも安い(1万円程度)、手術のような失敗リスクがない、誰にも知られず治療できる、デメリットはそもそも人間の皮膚がそんな簡単に伸びるのかよという根本的な信頼性に乏しいこと。無論そこはわかってるらしく、長期間かけなければならないという予防線はしっかりと張っている。
対して手術での治療を提案するクリニック系は、(当然だが)手術以外の治療手段は無いことをアピールする。それに加えて保険診療を選ばせないため「泌尿器科医は普段、包茎手術をしないので慣れていない」「真性包茎の治療にはなるが、美的観点は全く考慮されない」「値段だけで選ぶと後悔する」と、何処の馬の骨とも知れないクリニックの医者なのに専門医だからさも安心だと言わんばかりだ。お前らが煽って産業にしたんだろうが。実に恐ろしい。
人類の進化という点で見れば、本当に皮が不要なのであればとうの昔に退化し、なくなっているはずである。むしろ我々は生物が本来持ちうる防衛本能をより進化させた、いわば新人類にあたる存在と考えるのが妥当である。この進化の過程及び理由については今後の課題としたい。
2020東京五輪の所謂パクリエンブレムだが、どう考えても最高に格好良かった。誰かも言っていたが、モジュール化できるエンブレムという発想は私にとって革命的だった。ところが一般的には大変不評だった。改めて選考したときのその他3案や、その前に出回っていた扇型のヤツは、凡庸すぎて目眩がしたものだが、無視しがたい程度に好評だった。
セブンイレブンのコーヒーのヤツ、なんの問題もない。非常に格好良いとは言わないが、マイナス評価するポイントが見あたらない。レギュラー、ラージ、ホット、コールドくらい分かれ。中学校で習うだろ。(レギュラーは習わないか?) この程度も分からないような人が、コーヒーが碾きたてかどうかにこだわるなんて、意味がわからない。馬鹿は馬鹿なりに缶コーヒーで満足しなさい。況や、デザイン云々するでない。馬鹿なんだから。
その原因のひとつに、文字がある。例えばアルファベットなら30字弱(大文字小文字合わせてもその倍)しかなく、デザイン性を高めやすい。事実、長い歴史をもつ様々なフォントがあり、用途によって適切な効果を発揮する。しかし、漢字はその点ダメだ。格好良くしようと思ってもキリがない。成功例もあるが、アルファベットには敵わない。
このことを痛感するのが、商店の看板や施設の案内表示だ。主に漢字で書かれた日本のそれは、致命的にダサい。海外のアルファベットのそれは、おおむね素敵だ。これは単に西洋コンプレックスなのではない。日本語には漢字があり、格好良くデザインするには数が多すぎ、格好良くするコストが高くなり、格好良くしたほうが良いという動機の低下や、格好良いモノを見る機会の少なさからくる美的センス育成の機会の逸失につながるのだ。
日本人はどこで美的センス(のなさ)を身につけるかというと、アニメやマンガ、ゲームなのだろう。クルマを見ているとそう感じる。日本のクルマ(の失敗例)は、だいたいアニメのロボットに似ている。大人が数百万出して買うような美的レベルに達していない。達していないはずなのに、みんな嬉々として買う。
というより、なぜつけるかが理解できない。
おそらくは、おしゃれのためだろう。
だが、なぜおしゃれをするのだろうか。
また、なぜおしゃれしていることを示すのが恥ずかしくないんだろうか。
正直、そう思ってしまう。
俺の場合、車なら、動けばいい。スポーツカーは乗りにくいし高いし寝れないから、ファミリーカーを買う。
服なら、着れればいい。部屋もインテリアいらない、生活できればいい。
ノートなんかも、キャラクターいらないし。カギなんかもジャラジャラと装飾しない。
これは、多分ある種の『センス』が無いんだろう。
女の子のノートなんか見ると、物凄く装飾されている。ハートがあったり、花丸があったり。
おそらく、論理とか事実とかより、その時の感情を記録してたりするんだろう。感情によって理解しているんだろう。
そのセンスが無いんだなあ俺は。
でも、たとえば服なんかはどうだろう。正直、個人的には着れればいいだけなんだけど、他人の目もあるということで、ある程度ファッションに気を使わざるをえない。
この場合、ハッキリ言って、イヤイヤやっている。
ファッションを好きになったり、興味持ってられる人間とは明らかに違う。
「なぜアクセサリーをつけるのか?」ということについて直感的な理解ができない。
なぜ耳なんていう見えにくいところにピアスするのか。そこを視ているもの同士では俺の知らないレベルでのコミュニケーションが成立しているのか?
なぜ髪を染めるのか、染めることで美的に主張が分かりやすくなって、より多くの人に見た目でいい印象が得られるようになるのか?
分からない。分からないが、おそらく俺みたいなわからない奴を『あっち行け』というシグナルになってるんだろう。
もちろん、悪意は無いだろう。皆が自分の得になるように行動しているだけだ。
だが、俺は、疎外感を感じる。
この疎外感すら感じないで長年過ごしてきていたが。
この世にペンキで耳を塗るのがファッションだったら、敏感な人は理屈ではなくやるんだろう。
この世に、首を長くするリングをつけるのがファッションだといわれれば、敏感な人はやるんだろう。
そのくらいに俺には理解できないのが、ピアスやネックレスや指輪なんだけど。
分かるヒトにはわかるんだろう。
アクセサリーで主張したほうが、髪染めでのカテゴライズと同じでキャラが分かりやすくって主張が分かりやすくなる。そういう理解でいいんだろうか?
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。
両親とも頭がいい。
母はアメリカの優秀な大学出てる、経営者。ただしヒス持ち。年収3k万くらい。
父医者で医者の中でも頭がよく金も医者の中で勝ち組、ただしアスペ。年収5k万くらい
俺、1980年代中ごろ生まれチビデブハゲADHD医者IQ高い。
<幼少期 30点>
休み時間は誰とも遊べないで校内フラフラ歩いて、毎日誰かしらとけんかになる。
<中高 90点>
他人に嫌われるのわかっていたためいろいろ癖とか考え方や話し方を治す。
すると、マアマア人気者になれて、中学でもマアマア人気者だが、今でいうスクールカースト底辺とばっかりつるんでいた。
このころはまだかわいらしい顔をしていたため、女子バスケット部なんかの間では俺のブロマイド写真が取引されていた。女子ロッカーの掲示板にイケメンに並んで俺の決め顔写真なんかが張られていたらしい。
クラスのかわいい女の子からモコミチに似てるなんて言われたけど、今じゃ思い出もいいところ。よく考えたら女の子にアプローチされてたかもしれないけど、勘違いかもしれないが気づかずスルーしてしまった。中学卒業後に、あまり絡んでいない女からメールとかあったりしたけど、何も考えずスルーしてた。
このころ底辺男子からビジュアル系やホラー小説なんかを教えてもらうが、はまり方微妙。後にその底辺男子はビジュアル系のバンドマンになる。
中二のころに中二病になり、いつか死ぬという恐怖からハゲだす。
<大学 50点>
医者になることに失意を感じる。俺がやりたいのは死を克服する研究じゃないか?と思うけど、彼女いたことないとか、オナニーしたことないことへ劣等感が沸いてきた。
暗記が苦手なため大学の勉強になんとかかんとかついていくレベル。
享楽的にスポーツやゲームに取り組んで、スポーツもゲームも結構自慢できるレベルな成績を残す特に、ゲームは食っていけるレベルになる。
しかし、デブ、ハゲが進行。もともと奇形もありチビ。フツメンということを聞くが、たぶんブサメンなんだろうと思う。
人付き合いも段々周りのレベルが上がり、ついていけなくなる。もちろん、会話とかするのは問題ないけど、人と人がつながってコミュニティを作ってるのが厳しい。自分で自己完結した世界じゃないと苦しいのを自覚する。ファッションなんかもまったく美的センスがなくわからず、とりあえず美容院、とりあえずユニクロでジャストサイズレベル。
エロゲーやアニメ、ゲームプログラミングにもハマり、大学のフリーな生活を孤独につぶし続ける。
合コンに1回も誘われなかったことを考えると、やっぱ他人との付き合いは下手だったのかな。
<医者 30点~70点>
医者としては、並みレベルの医者やってる。フツーのことはフツーにできる。
体力もあるほうなので、特に仕事がキツイってのはあんまりない。
しかし、当初の目標の死を克服するなんてのはどこ行ったのか。人生選択がどうだったのか気になる。
酒や風俗を覚えてだらしなく生きている。結局俺は、机の上のお勉強しか興味なかったのかもしれない。
そろそろ、人生やり直しがきかない(すでにかもしれないが)時期に来ている。