はてなキーワード: 美的とは
育てるのにも興味がないし、食べるのも興味がない
花は美しいと思うので一人でも花見をするが、インテリアのセンスが皆無だから家には置いていない
ちなみに両親は興味があるタイプで常に何か育てている
この前飲んだ時に同じくおっさん2人が大変植物好きで熱く語ってたんだが
どうにもその差がどこから来るのか見いだせなかった
あるとしたら2人がインテリアに強い、美的センスがある人だということだ
植物が好きな人はセンスがあるというか、インテリア・エクステリアに興味があるんだろうか
そういえば、例えゲームであっても育てるとか、収穫系のゲームはやらない
効率や戦略を練るのは好きだが、生産型のゲームもしない(工場とか)
RPGでレベル上げはするが、人の育成系ゲームはやらない、面倒くさい
そこもあるかもしれない
正直言うと興味がある人が羨ましい
『金閣寺』という小説が何を表しているのか、単刀直入に語るとすればどのような言い方になるだろうか? それについて敢えて率直に語る事はすまい。
とは言え、勿論その文章の中心的な部分は割に簡単な言葉で表す事ができる。つまりは「美しさ」と「地獄」という二語によってである。ただし、これだけだと余りにも簡単に説明でき過ぎてしまう。実は、金閣寺はこの二語のみによって説明できる小説なのであるが、それではあまりにもざっくばらんすぎて、説明が詰まらなくなってしまいかねないのだ。その為、少しだけ読者を焦らす事にする。
金閣寺は1956年に雑誌『新潮』に掲載され、年内に単行本化し15万部のベストセラーとなった――また、現在に至るまで文庫を中心に300万部以上を売り上げる日本の伝統的近代文学の内の一つである。海外においては複数の言語で翻訳され、日本文化を緻密に描いた三島由紀夫の文章は各地で絶賛を浴びた作品でもある。しかし、無論この小説には難しい部分がたくさんあって、一朝一夕で読み解くにはハードルが高い。
しかし、繰り返すようにこの小説は二つのポイントをさえ押さえるならば十分に理解することができる。
金閣寺は美しさの象徴であると同時に地獄の象徴であった。これが三島由紀夫がこの小説において語ろうとしていた全てである。小説『金閣寺』は1950年に発生した、青年僧侶による「金閣寺放火事件」を下敷きにしており、三島由紀夫はこの青年僧の犯行の根底に「美への反感」があることを読み取った。そして、そのコンセプトを元に書き上げられたのが、当の大作『金閣寺』なのである。
「美への反感」。
つまり、人は美しいものを時に憎むのである。そのような感情は一言に言って地獄の現出に他ならない。
「金閣寺放火事件」の主犯となった青年は幼少より吃音の症状を呈しており、恐らくその吃音症は彼の人生に薄すらとした重たげな影を投げかけていた。
吃音症は美しいか否か、と語るとするならば、恐らく人は吃音症を称賛するよりも嘲笑するだろう。いや、これもまた偏見なのかもしれないが、少なくとも三島由紀夫はその吃音の症状一つ取るに、青年僧の人生に降りかかる薄すらとした影の姿をまざまざと感知したのであった。そして、青年僧は自身が美という観念からはやや隔たった存在であることを自覚すると共に、美に対する拭い難い憎しみの存在を抱え続けることになるのである。――自身の美への憧れの象徴として、自身の父親から長く「美しい」と語られていた金閣寺の存在を、憧れと同時に、憎悪の対象とし始めるのである。やがて、青年僧は最終的に犯行に及ぶ――金閣寺に放火し、その美の象徴たる美しい建造物を、焼き払ってしまうのであった。
美に対する憧れ、そして憎しみ、そのような薄すらとした影が、青年僧の人生には降り掛かっていた――これが、この金閣寺という小説を書くに至って、著者である三島由紀夫本人が青年僧に対して抱いていたイメージの重要な箇所であるだろう。そして、もはやこれは自明のことであるとは思うのが、その薄すらとした影――つまりは「美への反感、憎しみ」――とでも言うべき影は、三島由紀夫の人生そのものをも固く包み込んでいたのである。
三島由紀夫、本名:平岡公威(ひらおかきみたけ)は1925年に父、梓。母、倭文重(しずえ)の元に生を享ける。
幼い頃は虚弱体質であった三島が、長じてからは肉体強化のトレーニングに励んでいたことは周知の事実であろう。
三島の心中にいかに「美」に対する執着と、そして同時に反感とが存在していたかは推して知れることである。小説『仮面の告白』においても語られていた通り、三島由紀夫の心中には鬱々たるものがあった。そして同時に、そこには複雑な、文章によって表現することの憚られるような感情が幾つも幾つも存在していた。恐らく、彼はそのような歪な感情の存在する理由を、人生において追究していたに違いないと思われる。
ともかく、三島由紀夫はその人生において複雑な美意識を持っていたし、同時に、その美意識に対する反感を抱き、自分自身の感情を飼い慣らすことに苦労していた――そこには美に対する憧れと、同時に美に対する反感、そして美を中心とした地獄があった――これはおおよその三島由紀夫研究者が抱いている彼に対するイメージであろうと思う。三島由紀夫は彼の小説において、彼の人生そのものを率直に表そうとしていた。彼の人生というものは、恐らくは彼の書いた小説以上にわかりやすいものだったのかもしれない。
金閣寺の作中において、柏木という名の登場人物が現れる。この人物は跛足であり、つまりは歩行に困難を抱える身体障害者であった。
そして、小説『金閣寺』においては明確にこの人物が、当小説における極めて重要な部分を語る鍵となっているのである。
作中における柏木のキャラクターについてはここでは敢えて詳細に語らないが、しかし彼が主人公の青年僧に対して口にしていた、『金閣寺』という小説の根幹を成す極めて重要な台詞について語ることにする。それは、以下のような台詞であった。
柏木というキャラクターはいわば「地獄」に関する伝道者としての役割を果たしている。「地獄とは暗闇の中で一切が明晰に見えることである」。この言葉の意味は曖昧模糊としている。そこには、語るまでもなく明らかな矛盾がある。暗闇の中では一切が曖昧で、決して明晰になど見えはしないのだ。しかし、このような矛盾は物語の後半において一挙に解消されることとなる。そう、ここにおいて柏木の語った一節は、当小説の重要なテーマである、金閣寺の「美的側面」、ひいては、金閣寺の「地獄としての側面」に対して、判明な解答を与える重要なキーワードであるのだった。
飛んで、物語の後半。主人公の青年僧は、ついにその目的を実行に移そうとしていた。
彼の中にある美への憧れの根源――金閣寺の存在そのものを一挙に焼き払おうというのである。しかし、時刻は夜であった。そこは全くの暗闇であり、暗黒であった――。しかしそれでも主人公の目には、暗闇の中にある筈の金閣寺がまざまざと視認され始めるのである!
そう、正に「暗黒の中で」「すみずみまで明晰に」金閣寺が浮かび上がったのだ。
が、私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になった。(p.319)
ついには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光りの下に、金閣は徐々にはっきりと目に見えるものになった。これほど完全に細緻な姿で、金閣がその隈々まできらめいて、私の眼前に立ち現れたことはない。(同)
そう、ここで暗闇の中で明晰に知覚できたのは、美の象徴として語られる金閣寺の姿そのものだったのである。
金閣寺はここにおいて、彼の記憶に根差した「美」の象徴として語られている。そして、同時に、かつて語られた柏木の警句が浮かび上がらせるのは、金閣寺の「美」としての側面と同時に立ち上がってくる「地獄」としての側面だったのである。
小説『金閣寺』は、青年僧の中に存在する「美」への屈折した感情を描き切った名作であった。そして彼はその「美」をも、「地獄」をもまた共に焼き払ったのであった。
尊重することは出来ないよ。
キミが何を尊重しようがしまいが知らないが、美的センスが個人個人によって異なることを認めてしまった以上
「容姿だけで選んだら誰が選ばれるかは、評価する集団の構成に依存していて一定しない」、つまりは
本当に容姿だけで選んでるなら
は間違いというのが結論ですね
よく理解しないで言ってるんだと思うけど、
「個々人を見て、(極力色眼鏡をとって)評価する」ことは差別じゃない。
Bくんは勉強ができる。
Cさんは話が上手い。
これが差別になるわけない。ここに所属情報を判断基準に入れると差別的になってくる。
もしかすると批判した人は、その「○○なのに」という部分を勝手に読んだのかもしれない。
(黒人なのに美人って言える俺かっこいい!って思ってる奴が差別だろ)と。
しかし、自分の美的センスと異なる人が理解できないからと言って、揶揄するのは間違えてるだろう。
俺にはわからんけど、その人にとっては美人に思えるんだな。で良い。
相手の所属情報をできる限りさっぴいて個人を見てちゃんと判断することだと思う。
それにはスゴく労力がかかるし、時間もかかる。
"ツイッターとかで女オタが「めちゃシコ」とか「抜ける」とかいうのが、シコるちんこも抜く精液もないのになんか変じゃね?
クリトリスをシコってるのかっつうとそういうわけじゃないみたいだし"
なんて話があるじゃん。
たとえばこれとか(https://togetter.com/li/752791)だけど、まあ炎上したわけ。
俺としては、別に言葉は自由だし止めろと言う気もないが(実際このエントリ書くまで言及したことはない)、でもちょっと違和感あるなとは思っていた。
オモシロ比喩として男性器を扱ってるってだけ、もしくは心のちんこがおっ勃つ衝動を表現したいのはわかるような気がするけど……。
だってさ、男が、主語が大きいならば俺が、三十五年間童貞で熟成され持て余し続けているガチの性欲と取っ組み合いながら打ち込んでいる「シコれる」を、面白比喩として、性欲のバックボーン抜きに軽々と扱いやがって!
そっちにはそっちなりの欲情を現す言い回しだってできるだろうに、それは生々しさなどを理由に使わず自分の性欲を意識することを避けて、男が性欲という鎚で鍛え上げた言葉をほいっと拝借しやがって! みたいな。
いや本当はここまでは全然思ってなくて、俺がシコれるって言葉を発明したわけじゃないのにデカい顔し過ぎであって、単に書いてるうちにヒートアップしてきただけなんだけど、まあ違和感はあった。
そのことを、一昨日から話題になってる、男の娘と話してたら無性に腹立った(anond:20171211134237)のエントリを見て思い出した。
女性が、苦しみ抑圧されながら培ったファッションや文脈や文化を、無邪気に娯楽として使って気晴らしにするな、それはある種の文化盗用だ、と表現するように、
男性が、己の性欲とか衝動性とか偽悪露悪に悩まされながらもキモオタコミュニティで産んできた「シコれる」「抜ける」「ブヒれる」などを、性欲の生々しい気持ち悪さを脱臭した上で、字面の面白さと便利さと娯楽レベルのカジュアルキモさを楽しむために女性が使うのも、ある種の「文化盗用」だと表現すればいいのかもしれんね。
先日、裏のおばさんと今年の班長が連れだってやって来た。なにかと思えば回覧板の順番が変わり、今度うちの次に回す家の場所が分かりづらいので説明しに来た、との事。裏のおばさんはただの野次馬?よくわからん。
何で順番変わるの?お隣さん引っ越すんです?
って聞いたらそうではなくて、班長曰く隣の人は町内会を抜けたんだそうで、何で抜けるのか隣の奥さんに聞いたらなんか色々いってたけど話を総合すると「面倒臭いから」って事みたい?なんだそうだが班長が隣の奥さんの話をちゃんと理解できたかどうか班長本人自信がないらしくて疑問符をつけたっぽい。
ま、町内会を抜けるなんて何か特別な事情でもない限りはそれに尽きると思うが、お隣さんは結構真面目に町内会のお仕事に参加している人達であるので、町内会を抜けたいと思うくらいに面倒臭さを感じていたとは意外だ。
町内会の仕事なんて誰しもちょっとは面倒だと思っていて、積極的にやりたいやりたくてしょうがないと思っている人の方がむしろ少数派だろう。だから負担にならない様に最低限の事しかしない様になっているし、最低限の事ったって重要度は低く、ただ何か理由つけて住民を集合させ親睦をはかる意味しかないだろうと私は思う。たまには近所の人達とわいわいするのもいいかもね、くらい。
今町内会でしてる事と言えば、
・総会
・公園の掃除(住民の要望で作られた公園なので住民自身で手入れする約束らしい)
・公民館掃除(年2回。輪番制。班が多いので滅多に回ってこない。ちな今年がうちの班)
・夏祭り
・その他(よくしらない)
くらいかな。大体どこかを掃除する活動で、お祭りは何か運営の人達は昔から住んでる人達ばかりなのか手伝えって言われた事は、7年くらい住んでて一度もない。一般参加も自由なので一度しか行ったことがないが排他的な空気感がすごいのでとても居づらい。奉る神社がある訳でもないからか、祭典費を徴収された事もない。
参加しなかったところでペナルティーも何もないので、皆出来る範囲内で参加してるんじゃないかな。
あれでも堀浚いについてだけは罰金があった年があった様な気がするが記憶が曖昧だ。以前住んでた所の別の町内会の話だったかな?今いる所で今年は罰金無いのは確かなのだが。
話がそれるが、うちの庭の端に丁度接する所に堀が流れているんだけれど、ある時庭周りの草むしりをサボってたら近所の農家の人が草を全部刈ってくれた事がある。
庭で大家さんではない知らない人が草刈ってるからびっくりして話かけたら、その人は草が伸びて堀に入ると詰まって水が流れなくなるから刈らせてもらったという。今は地域で田んぼをやる訳でもないし、ただ田んぼの近くに住んでいるだけの住民に強制も理解もさせられないから、農家の人達がそうして堀を見回って自分達で管理しているという事。堀浚いも本当は町内会にさせるのは心苦しいんだが、手が足りないし慣例だからしてくれるって町内会から言われたんで厚意に甘えてしてもらっているけれど……と。そういう訳らしい。
農家的には堀浚いは重要なお仕事だけれども、後からこの土地に入って来た住民の私達にとっては何でうちらが?って、突き詰めればそういう話なんだけれど、田んぼに囲まれた長閑な景観が好きなので敢えてここに住んでいるところもあるから、私は別に良いけどね。米食だから米育てるコストが上がるのも良くないと思うし。でも日常で堀浚って恩恵を与っている実感は湧かないかもね。
堀浚いだけでなく町内会活動で自分が直に恩恵を与る実感は得られないだろうと思う。公民館も公園も掃除したって私ら若い住民が利用する機会はあまりない。お祭りは地域の昔からの住民ばかりが楽しくて私らみたいに他所から入って来た者には居場所がない。
同じ借家に住んでる隣人も同じ。何の恩恵も無いのに必要な時だけ駆り出されている私の方がおかしいのかもしれない。
隣人は結構アクティブな方らしく、休日でも早起きして家事を片付けて出掛けたり何かの活動をしている様で、町内会の仕事にもむしろポジティブな感じで出ていたが、真面目に働くほどに「こんな事に参加して何の意味が?」って思うのかもしれないな。
この町は古くから市内に住んでる夫のお祖母さんによれば歴史が浅くて、田んぼと農家が二、三件あっただけの所に、団塊~私の親世代くらいの人達が移住してきて出来た町なんだそうで、住民と共に町自体が老いていて閉鎖的な感じがする。私達が住んでいるのは余った土地に建てられた借家で、大抵は自分の家を建てるまでの仮の住処としての利用なので此処の住民は町民のうちには入らないらしい。住み心地は良い土地だが、どんなに頑張って町内会活動をしたってうちと隣家は孤立している。
子供の幼稚園のお友達には新興住宅地に住んでいる子が多いんだが、そういう所は親も子も同世代同士でわいわいやってて、なんか楽しそうでいいなって思う。
女性に対して危害を加えず理解があるとか、美的センスが高いとか。
けど結局地に落ちてるのは公衆浴場などで見境なく乱行するところがあるなどの有害性が情報として流れてるからではないでしょうか。
なんでもそうだけど個人の我欲を満たせる量的なもので善悪がきまるのかもしれません。
合成保存料もAVも、一番人を殺してる車も、個人の欲求を束ねることができたから。
同性愛者が自分たちの欲を束ねても、それを安寧を求めている束と対決するためにつかうと結局どちらかが折れる。
共存っていうのは対決じゃないでしょ。
お互いの束が接しなければ潰し合うこともなかったのに。
その切り込み隊長になるテレビの新キャラクターをつかって、境界線を引くのか攻め込んでくるのかで既存の安住者は態度をきめるでしょう。
ほかのマイノリティもいじっていいのか、もちろんだめだろみたいなことになってるけど逆効果だと思います。
まず電気を入れたらむりやり情報が流れてくる媒体で、どんな形でも登場させて既存の環境に適合させるストーリーをみせなくて存在し得ない。
存在していないものを突然理解しようとか日常にあらわれたらそれは異物として反応されて当然ではないですか。
どこかで喫水域をつくって、全員ではないにしても一部が両方を行き来できるようにする、広義の一般とマイノリティを。
できるのはそこまでじゃないですか。
それ以上まぜて選択肢を用意する必要も、実際それが常態化して社会が成り立つとマイノリティの方も思ってないのではないですか。
いまの、いままでに形成されてきた人間の生物生存環境がすべて間違っている、自分の愛こそが人のあるべきだ、とはどのマイノリティの方も思ってないですよね?
抗議するのはよいですけど、先に占領している一般を攻撃するかたちで何度攻め入っても犠牲者を増やすだけで、みなその犠牲者を苗床に爪先立ちでバランスをとる形で社会付近に依存するだけだと思います。
なぜ共存を選ばないのか、という視点から口うるさく抗議してくるマイノリティの方は境界線を腐敗させそこに巣食うことを目的とした問題性のある他生物というイメージがつきがちだと思います。
お互いの束ねた安住の領域を行き来するために傷つけあい、傷口同士を結びつけることで異なる環境を社会の拡張として得るならば、その傷口をつないだ管はとても清潔であるべきだと思いませんか。
輸血する二人の心がどういう形であれ、つないだ管が腐敗していたら両者の被害が甚大だと思うのですが。
どちらかが正しく、吸い取るために噛み付くような対話ではいつまでたっても平行線だと思うのですがまずマイノリティが社会的にマイナーである理由は危険性ではなく少ないだけとか、安全であるとか、そういう交流はできないものなのでしょうか。
プログラマにはデザインも拘る人もいれば、「デザインとかみれればどうでもよくね」って人もいる。
ウチでは後者の人が多い。
企業向けシステムを受託で作ってるんだが、これを売るのかってレベルで醜い。
webシステムなんだが、ボタンやテキストボックスがマージン0でくっついて並んでたり、
テーブルは枠に収まらないのではみでて全体にスクロールバーがついてたり、
ある程度までウィンドウをリサイズすると崩れるのに最低幅を指定もしてない。
マージンは揃えないのに、同系統は同じで別系統は別になるように作っていたところを全部同じに統一しろ言ってたりもする。
見た目には影響ないが、9割のタグがdivでできているプロジェクトもあった。
公開するwebサービスだったら一瞬で叩かれるだろってレベル。
勉強仕立ての学生に無茶な納期で押し付けてできたものと言っても信じられるほど。
私自身でも使わないだろう。
動作チェックなどで使っているときに見た目でストレスを感じていた。
もちろん納品先からはもっと統一してとか幅がおかしいとかマージンがどうとか言われてる。
ただ最低限の言われた部分しか対応しないし、言われたことに「こんなの別にいいだろ」なんて言ってる。
いや、どうみてもおかしいしこれでいいとか美的センスは大丈夫なのかと言いたい。
結局、納品先からの注文も途中でどうしようもないと思ったのか最低限見れる程度、になってる。
受託といえど、使うのがその会社だけでなく一般の人という場合もある。
それでもいつもどおりの残念な見た目だった。
自分で作るところは上記のようなものだと気持ち悪いからどうにかするが、全体で読み込まれるCSSのせいでどうにもできないこともある。
そこだけ上書きで何かしようとすると、一部だけ特殊なことはしないでと言われる。
プロジェクトを管理する人兼全体の枠を作る人がデザインに対するこだわりなんて全くない人だからどうしようもない気がする。
せめてマージンくらい揃えたいと思っても全体的にひどい(もちろんできるかぎり揃えてる人もいるが)ので他人の担当箇所まで直してられない。
たまたま見つけてデザイン的なズレのせいでバグにも見える挙動があったので、直すべきでは?と提案してみてもそのスタイル使ってるところ多いから全体的に影響多いし、とそのままにするらしい。
デザイナはいないのか、と思う人もいるだろうが、少し前まではいた。
いたところで、デザインを作ってという仕事が来たら担当していただけで、webシステムの場合は基本関わってこない。
プログラム書くひとがCSSもできるということでデザイナはそもそもプロジェクトがどういうものか知ってるのか不明というくらい。
ところで、プログラマについての愚痴を書いたが私も職業はプログラマ側だ。
ただwebデザインが好きで、もとはwebデザイナになろうと思っていた(就活中に日本だとCSSのスキルじゃなくてフォトショで画像作るのばかり求められていてやりたいことと違ったのでプログラマにした)。
今でも頻繁にこういうデザイン作りたいなと思ってはHTMLとCSS書いてるし、技術文書を読んで次に使えるようになる新しい機能を調べてたり、一部ブラウザで使えるようになればすぐに試したりしている。
デザインセンスについても、昔は絵を書けば何らかの賞はもらったし、学生時代のポスターでは、数百人の中からデザイン系で最優秀となったことがあるので、平均以上にはデザインもできるとは思ってる。
なので、デザイン苦手なら任せてくれればやるつもりだった。
しかし、そういった先輩方がいうにはおまえはデザインセンスがない、らしい。
「え、あなたがそれ言うの?」ってすごく言いたかったが仮にも先輩なので、「そうですか」とだけ言っておいた。
まあ、プログラマとして入社したんだし、変なセンスの上司からあれこれ言われながら作らなくて済むから別にいい。
ただ、センスない人が管理してるばかりにエンドユーザになる人達がかわいそうだなと思う。
デザイナがいなかったり重要視されてない会社ならどこもこんなものなんだろうか。
これで思ったのは、プログラマとして優れててもデザイン的な理解がない人を上にしてはいけないということ。
社長が取ってきたプロジェクトだと社長がチェックするからこういったひどいデザインだと厳しく指摘されてる。
ただそれ以外までチェックはしていなくて、プロジェクトの管理する人はあの見た目でOKしてる。
こういう人が上だとだめだなって思った。