はてなキーワード: 異端とは
砲塔息子の話は、あれは「例え話」であって、「人間のことを言っているわけではない」と思われる。
あの父親は神様であって、放蕩息子は人間のことを意味している。
だから、兄は「なぜ神様はあんなバカや犯罪者を許すのですか?」と憤っているわけだが、それはそれで正しいと私なら思う。
しかし、ここでバカや犯罪者を許しているのはあくまで神であって、人間が許しているわけではないのである。
その事自体をキリスト教的にも否定しているわけではないと私は思っている。
しかし、キリスト教として神が良きことをするのなら、それを模倣しろという考えがまたある。
それが隣人を愛する努力をせよ等に繋がるのだと思うが、それはあくまで努力である。
頭ごなしに「〜は〜だと考えろ」「〜しろ」のように機械的に判断できるわけではない。
隣人を愛せと言われても愛せない、
それは当然であろう。
こういった人間の葛藤をキリスト教が否定している、とネットで主張する輩がいるが単に不勉強なように思われる。
許す努力をしろ、とは言ったが、許せとは言っていない、というか、
まあ、上述は多分に自分の解釈が混じっているのは否めないので、敢えて「異端」と呼ばれても構わないが、
他人を許せない、というのも人間のまた根源的な感情であって、仮にそれを許さない宗教であるならクソ食らえである。
私はキリスト教が、聖書が、放蕩息子の例えが、そういうことを意味していないと思っている。
https://blog.tinect.jp/?p=68019
だいぶ昔にMENSAに所属していて、MENSAのIQテスト大会みたいなので優勝したりして、IQという指標で分布見たらかなり端っこにいるヤツ。
元記事にある様な行動を取ったりすることもあるので胸が痛くて増田に書こうと思いました。
ちょうど、同じことを社内向けに伝えたばかりなのでタイムリーだったというのもあり。
まず最初に断っておくと、この項目はいわゆる知的障害者への偏見を抜きにして事実だけ読んでほしいです。
MENSAの飲み会の中である人が「我々は知的障害者なんだ」と話していたことがとても印象に残っています。
どういうことかというと、IQ130(MENSA入会基準)というのはIQ70(知的障害基準の一つ)と同じだけの出現率であること。
そして、知的障害という分類を社会が生み出したのは、コミュニケーションや理解度がボリュームゾーン(IQ100)と異なることで、社会生活に困難を生むから。
大は小を兼ねる的に、高IQだからってコミュニケーション困らないでしょ、と思うとそうでもないです。
知的障害の方々の行動や思考の「理解できなさ」を思い浮かべてみてください。
なぜ、あの人はずっと同じことを繰り返しているのだろう。どうして突然関係ないことにこだわり始めるんだろう。
そういう「理解できなさ」をマジョリティに対して感じることがあるわけです。
そうすると、理解できないことを起因として集団からはじき出されながら社会生活に支障をもたらすことがあります。
僕はパターン化(抽象化)の能力が高いってことだと考えています。
複数の物事に触れたときに、それらの共通点・差異を見つけてパターン化し、次の事象へ当てはめてみようという意欲の強さと精度の高さです。
少なくとも、その能力だけで僕はMENSAに所属し、その中でもIQテスト大会やって優勝するくらいの異端にはなりました。
裏返せば思い込みが激しいんです。
サンプル数の少ない事象に直感とも言うべき帰納的なパターンを見いだして、恐れずそれを適用するだけなのですから。
そして、その独特なパターンに乗ってない議論や視点や考え方への理解はそれほどうまくできなかったりします。
だから、IQ高い/頭がいい=頭の回転が速いとか計算が速い、記憶力が高い、といった捉えられ方をすると困惑します。
相手の言っていることが言葉として理解できるけどその思考が理解できないとか、こちらが伝えようとしていることが全く伝わらないとか、かなりの頻度でありました。
勉強を教えてほしいと言うので教えると、こちらとしては当然こう考えるべきというレールがあるのに、そこに乗ってくれない。
僕は幼い頃からこんな風に周囲との違いを暗に感じてきました。
そういうことを繰り返して手に入れた結論は「人のことがわかるなんておこがましい」です。
「自分は人を見る目がある」と自負する言葉は僕にとって信用ならない言葉だし、「言わなくてもわかるでしょ」はわからないんです。
でも、僕自身はやっぱりパターン化して世界と向き合っているので、そこにはある種の自動化とか思考のショートカットが入っていて、それらを言語化するのにすごく時間がかかってしまう。
その中で、自分自身がうまく言葉にできていない部分を連ねていくときには、自分の思考をトレースしているために、ものすごく直線的な論理展開をします。
そんなときには他者の意見を否定するようないい方をしている場面も自分自身感じています。
ただ、僕は高圧的に話をして人をやり込めたいとか否定したいのではなくて、必死に自分の考えを伝えようとしているだけなんです。
その上で僕の間違っている部分を示してもらって、よい結論へ持って行く議論ができるとうれしい、と思いながら話をしています。
そんな思いとは裏腹に、自分の話し方がまずいせいで、どうしても人を威圧したり、意見を封殺するような口調になっていることが多いように感じています。
理由は上に書いたように、僕が話し始めている時というのはかなり必死な状態なんです。
今まで自分と同じ土俵だと思って話して行き違いを何度も何度も経験してきたことが僕の原体験にになっていて
みたいなやり方が自分の中に根付いてしまっているから、これをうまく修正できないでいます。
つまり、単なるマウンティングのために頭の良さでぶん殴っているわけではなく、立っている土台が違うことでコミュニケーション齟齬を産んでいるケースを想定しています。
今僕は、頭の良さっていうのは謙遜も自慢もなく自覚しないとひどい病だと思っています。
死ぬことこそが救い、俺が愚民を救世してやる、とナイフを振り回す異常者、怖いでしょ?
元記事の同僚がどうかはわからないけど、コミュニケーション上の問題を感じながら論理的であることをやめられないのはそもそも問題意識が周囲と異なるのではないでしょうか。
それ自体が間違っているわけではないし、論理的に解決を進めることが社会や人類を発展させてきてます。
なので人と一緒に働いている中では、自分の特性みたいな部分を自覚して、周囲に伝えてみてください。
その人がどういう人間性なのかを、一面だけで判断しないでほしいです。
もちろん、中にはまさにクズと言っていい性根の人もいるでしょうし、そういう人を無理にかばってくれとも言いません。
しかし、普段は問題ないのに議論になると殴られるからいやだな、と思うような相手はもしかしたら問題を抱えている人かもしれません。
そういう人たちとインクルーシブに働ける環境を作っていけたらいいなぁなんて思っています。
わかってるけど、やりきれない部分ってあるんです。
なので、最善とは言わないけど、ここに書いたような文章をチーム向けに伝えて、お互いのギャップを一緒に見つめましょ、って話をさせてもらいました。
コミュニケーションなんだからみんなできて当たり前、たどり着けない部分があるのは甘え(努力していない)って言われるのは怖いなぁ。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
この増田の意味が分からなくていくつかのシチュエーションをイメージしてみたが、ググったら違っていたようだ
イメージ1. 古参MacユーザーがMacを買ってきたままの無改造で使ってる人を笑いものにしている
イメージ2. 何か異端の使い方をしているMacユーザーを他のMacユーザーが吊し上げて、それを他OSユーザーが冷笑している
イメージ3. いまどきMacを買ったユーザーを他OSユーザーが吊し上げて、それをMacユーザーが野蛮だと冷笑している
実際はIT Mediaの記事でM1 Macを買ってきたままの素の状態で使うことを「吊るし」と表現したライターを「吊るし」を初めて知ったブクマカ達がそんな変な単語を使うなんてと冷笑していた。
想像を超えていた。
はい俺です
なんていうかこれと言って突き抜けものがなくちょ〜面白いわってものがなくなんか普通いやこうなるとは思わなかった
2話までは良かったんよな3話からよなまさかのラブライブ否定メンバー集めほとんど終了
おいおい後何すんだよと思ったら適当なキャラ紹介話の後キャラソン
なげえMVじゃねえか
後一人ひとりの個性大事にって言って最終的に全員で何か歌うんだろうけどopで歌ってる〜
カタルシスもクソもねえてかあのツインテの娘どうすんだあんだけ関わって加入しませんは滅茶苦茶モヤモヤするんだが転校オチは許さんぞ
今期ニ番目に好き百合アニメって説教臭くてあんま好きじゃなかったけどこれは単純に二人の世界観を見るだけなので面白い
キャラもいい安達の重い童貞感もいいししまむらの微妙にノンケ感残ってる感じと天然たらしな感じ
汚いと前評判あったがまあそこまできららアニメでいえば異端かもしれんが大げさに騒ぐレベルでもない
でもこういうアニメは1クールに一本絶対あって欲しいきららジャンプを見るだけで安心できる
○ひぐらし
はいこれは俺がネタバレを踏んでしまったため純粋に楽しめてないです
つかさあアフィはタイトルでネタバレやめろよ回避できねえよタイムラインで回ってくんだよ死ね
基本的に今は間違い探しみたいなアニメになってるだけなのでオチがどうなっていくか
○呪術廻戦
面白い作画いいでも毎週ジャンプ読んでて展開も知ってるからまあうんあとアニメになってよりホモくさくなったのは許せない
野郎が顔近づけて野郎が顔赤らめるのはホモアニメだけにしろバカそういうのは線引きってものがあるだろバカ
○神様になった日
ひたすら日常8話でようやく動いた感あるが遅くね?
てか前ふり長すぎだろ最初の数話はギャハハとだーまえ節のギャグで笑ってたが段々真顔になるよね
なんだろうエンドレスエイト思い出したわ
オチをどう持っていくかそこだけに期待したいがうん
今季一番 クソ面白いていうか原作読んでるからこれも展開は知ってはいるのだが
原作で唯一残念なのは絵の下手さなんよもっと絵描きいただろうに勿体ない
後アニメ1クールやろこれから更に面白くなるであろう所で終わる
法月のとっつぁんみたいな奴が出てきたり(分からんやつは車輪の国やれ)本土に行ったりキャラがゴニョゴニョしたりと見どころ満載なのだが
それでも面白いのは凄いが
あー俺が金持ちプロデューサーだったら金かけてキャラデザ良くして2クール放送すんのに
○総括
無能なナナが飛び抜けて面白いがあまりにもイラストが微妙原作を忠実に再現って意味ではいいのかもだが
何かおい!このアニメおもしれーのに抜けてんぞダボ!!って奴があったら教えてください
おっ、やればできるじゃないか。その調子で野党のいいところを喋れ。
でもなあ、国会重視ってのは、国会を異端審問の場にしている人たちのこと?
桜の会の話とか裁判所でやってほしいんですわ。
いや、そうじゃない人がいるのは知ってるけどね。国民民主は提案型野党とか言い続けてるわけだし。
マスコミによく出ている人たちは、俺の考える「国会重視」じゃないし、国民大衆もどうやらそう思ってるよ。少なくともうちの親とかに聞いた感じはそう。
で、そうやって国会不信・民主主義への不信が大衆の中で高まっているなかで、安倍・菅は「結果重視」を打ち出してくるわけ。
実際に自民党内部で議論して一定の政策を出してくる。辞めないって言ってたGOTOをちゃんと一部辞める決断もした。
自民の良いところってのは、みんなが言ってるけど、そういう結果をだしてくるところだな。
確かに、結果重視のためなら、国会やマスコミの会見とか余裕で受け流す、プロセスの軽視がお前のいう「国会の軽視」だよな。国会っていう場がもはや野党とマスコミにやいやい言われるだけの場なのだったら、別に開かないほうが政治ができるし、という態度が菅からは透けて見える。それは、議会制民主主義の軽視だ。
でも菅のそこを責めたいなら、じゃあ本当に議会制民主主義は望ましいんですか、ということが改めて問われてしまうと思うわ。
コロナを気にすること自体が間違っていると思っているゲイツ陰謀論支持者の社長(70歳超え)が
出入りの人間にもコロナ患者が出たことで変わるかと思われたものの2日でマスク着用が終わった会社。
一体どういう風の吹き回しか知らないが、社長が黒いマスクしてきて出社。
地方でも遊び回ってるがその中で何かがあったのかもしれない。逆に怖い。
4-5月ごろとかは俺がマスクをしているとわざと咳き込んで「おっと飛沫がw」とか言ってくる人だったのに。
何事もないように週末行ってきた京都旅行の話をし始めるもマスクが気になって頭に入らない。
ただ、変わり身の早い独身女性社員が早速マスクをつけていたので既に効果は出始めている。
口数の多く社内の雰囲気に影響力の大きい自然派子持ちママがどうするかが見ものだ。
半日持たなかった
しんどい新情報がバーーーっと公開されて、うちの村は消し炭になった みんな彼の人生に想いを馳せてしんどい…しんどい…と言ってる
でもなんかそれ、そのしんどい人生、手放しでかわいそうかわいそうってしてて良いのかっていう…
かわいそうな人生をエンタメとして消費することの是非、難しいよね 架空の人間だし 架空の人間であることを除けば24時間テレビと一緒じゃん?と思う 感動ポルノも人に何かを与えないわけではない………と思ったけどいま記事読んだらちょっと感動ポルノの意味誤解してた ごめん
https://news.yahoo.co.jp/byline/usuimafumi/20160905-00061835/
社会的制度の中で落ちこぼれてしまう人がいることを伝えたかったのかもしれん どうなんだろう 確か前に「このキャラを作者があまりにかわいそうな人として書くからなんとなく苦手」という声をどこかで聞いたことがある それはちょっとわからんでもない
まあここまではなんかまあ微妙だねで済んでるんだけど、かわいそうな境遇だからかわいい、かわいそうな境遇だからエロい、まで来ると倫理的にアレでは?とマジで思う 特に子供を対象としていると……………………
作者めっちゃ子供の扱い気遣ってるのになあってなってしまう ちゃんとクソガキだけどそれでも大人は子供を守ってるだろ 作者は少年誌にしては相当倫理大事にしてるじゃん、それも数年前に掲載された第2話から、全部ちゃんと読んでんのか?推しのとこだけ見てない? 原作のファンなら作者が大事にしてること大事に欲しかったなあって思ってしまうよ…
不快だとかお気持ちだとかで片付けられてしまうことではあるしそれでいいけど、だとしても批判はさせてほしい (増田なので批判にはなってない)
みんなちゃんと鍵掛けたり多少伏せたりはしてるけど だからまあ責められはしないんだけど だとしても社会的にとても弱い立場にいる子供が性暴力に遭う作品を嬉々として書いてるやつら本当に無理だし、そいつらにめちゃくちゃファンがいるし、みんな大絶賛だし、なんなん? 本当にお前ら無理だよ 何で作者が大切にしてるもの大切にしないの?性癖と原作への愛は別だというのはそれはそうだけどなんかこうもうちょっとなんか無いの? っていうかうちのジャンルガッツリ作者に見られてること分かっちゃったけど、息してますか?
こんな感じなので、推しのファンを愛せない だから推しも愛しづらい 最近一つのジャンルの中の細かな界隈のことを村という表現が広まっているけど、村というのはまじで村で、村社会なのよ 私はきっと異端 村にもよるだろうけど だからこの国を出てどこか違う村へ向かうか、この村の神さまになるしかない 新しい神さまになって新たに入ろうとしてきている村民を信者にするしかない まあこんな状況だから需要はなくはないと思う でもそれだけの熱量と時間と技術と対人スキルはない あーあ
まあTwitterなので好きにやってほしいですし、私も好きにやればいいけど、ブロックすると交流が死にそうだしやりたくない 村だから あと怒りが創作の原動力なので、反対の解釈見てキレたいというのもある それはどうなんだ?まあいいか
村民へ 原作分かるように書いてあるからまあ分かるよね 文体で私と分かるかもしれない まあ私が不快に思うようにこの文章も不快だろうから適当にブロックしてください でもちょっとでもなんか気づいてくれたら嬉しいです
庶民に一冊の本も届かない時代にそれらを習得する(させる)には宗教システムを使うのが手っ取り早い。近代化で次々と宗教のバグが見つかり人類は宗教に絶望し緩やかに捨てた。
廉価大量の製紙技術は情報増大をもたらし宗教に頼らず個の判断で生きることも可能になった。
ネット時代に入り、さらなる情報過多は個人の知を向上させず混乱を招いた。
人類は他己による
の基準を求め始めた。
集合知、民主的な意思決定。欠点は無い。SNS同調はロジカルな収束だ。
特に推論は過去の知識と経験と言語と感情、様々な脳機能を組み合わせる必要があり、
右脳左脳脳幹前頭葉すべての部位で大量の酸素と糖が消費される。
これは人体にとってはコストパフォーマンスの悪い活動である。
丸太を右から左に移動させる単純作業ではエネルギーは筋肉で消費されるが、本来ヒトを含む動物はこういった活動に最適化されている。エネルギー効率から見るとコストパフォーマンスが高い活動といえる。
片付けして身綺麗にしましょう
今後は、
やがて離合集散の時代を経て勝者いくつかのグループにまとまるだろう。
この動きはすでに始まっている。天皇信奉するネトウヨなどもそれ。
古くからネットやっている人間に言わせりゃンな事ナニを今更だろう。
ネット勃興時代からすでに指摘されており、2ちゃんねるでも散々テーマになった。
他人の感情を集めて煮詰めるには、調理と鍋と料理人が必要であり
例え調理人になれなくても、諦めて無自覚な具材になるよりマシだ。
そうだそうだ、久しぶりに筒井の「朝のガスパール」を読み直そう。
(筒井は30年前にこうなることをあっさり見破っていた)
なんでApple Musicにしないんですか?異端者ですか?
そしてその気持ちを、掲載した公的な場での掲載主や表現の場の関係者に
と迫り、圧力によって取り下げてしまう、またはその意見通りの表現の変更が行われている事象が多く存在します。
この内容の言動を唱えている方の大半は、
制作側の、どの程度の表現が規制されるラインなのかを設けてほしいという要望にも明確な基準線を設けず、
このような言動を唱える方々の多くは、歩み寄りや論理性を持った話し合いを避け、
「こう思った」「こう感じた」という意見をひたすら投げ、
として、放暴的に意見を押し付けている状況であると理解しています。
論理的な意見ではないのであれば、それはただの「気持ちの表明」であると思います。
「私たちはこの性的な表現によって傷ついたんだ、私たちは被害者だ」
このように気持ちを表現するのは、表現の自由として誰もが認められているところではあります。
現に一般の創作活動を嗜む方々を、この表現によって傷つけているのです。
私は、この表現のことを「潔癖グロ」と言い表すようにしました。
この表現を発する方が傷ついたと感じる表現、つまり「エロ表現」ですが、
またSNSなどでは、クリック等の一動作置かないと表出されることがないようにされるなど、
様々な”ゾーニング”がなされており、
こういったエロ表現によって傷つけられる人の割合は少なくなるように配慮されるようになってきています。
エロ表現と同じように、何らかの表現によって傷つく人がいるのであれば、
同じように何らかの配慮によって"隠される"ようになるのが妥当だと思います。
正当性を持たせるためには、そこに論理の整合がなくてはなりません。
論理の整合があるから、多くの人が正当な意見であると考えるようになるのです。
ですが、論理性を持たない、個人の感情である一介の表現ですので、
それを発出した弊害である、それにより傷つけられる人のことも考えなくてはなりません。
人間は、生物は、生殖機能によって、生命活動を長い期間育んできました。
少なくとも哺乳類の一種である、ホモ・サピエンスという種として生まれた私たちは、
生殖を行うことで子孫が形成され、次代に遺伝子が受け継がれていきます。
私たち人間にとって、生殖というのは大切な機能であると私は考えます。
生殖機能から発出する性意識や衝動についても、勿論大切なものとして扱わなければならないと思います。
更に私たちは同時に、社会活動をしている、社会的な動物である、とも考えます。
社会の中で、性機能というのはしばしば、不適当なものであるとして端に追いやられてきました。
しかし、私たち本来が持つ生殖機能や、それから派生するものも蔑ろにされるべきではないと考えます。
性表現自体が蔑まれ、排斥されるようなものではないと考えます。
細胞を分裂させて、自分のクローンを作り出す微生物と同等の繁栄方法を行っているか、
私たちホモ・サピエンスがまだ理解が出来ない、未知の繁殖方法で子孫を残しているか、
そのどちらかの当事者であれば、この性表現を排斥しようという意見は飲み込むことはできます。
しかし私たちは人間であり、生殖というのはその大切な生命活動の中の一部です。
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると考えます。
上記の理由から、私は性表現の排斥という言動について、正当性はないと考えます。
まだ成熟しておらず、性表現や性衝動を、あるものとして理解せず、
生殖を組み込んだ社会形成になっていないから、そういった言動が出てくるのではないかと思います。
私たちは誰でも、生殖機能を有し、性的衝動を有し、性的意識を有します。
そのうえで、社会を営む上で、理性を有し、上手く社会を回すために、
理性で性的衝動を抑え込むことで、生物が社会を回すことに成功しているのだといえます。
忘れがちなことですが、大半の人が、その人固有の性的衝動を抑え込んで今日まで生活してきているのです。
上記の言動の人は、そのことを無視し、性的衝動等を無きものとして社会形成を考えていると感じます。
というのは、その性表現の中に、
実際に、
性活動がどのようなものか理解できず、負担をかけてしまうことであったり、
それによって心理的なストレスを抱えるという事態が発生しているというところから派出している言動なのだと思います。
そのような社会的な事態を、加虐側になるような人に奨励するような表現がゾーニングされるべきであり、
については、本来はゾーニングされるべきではないのではないでしょうか。
また、ゾーニングを排斥、排除の意味で使われている方が多く散見されます。
https://ja.wikipedia.org/?curid=3593582
ゾーン(Zone)に分けて、場所場所で差をつけて管理しよう、というのが都市計画用語におけるゾーニングであり、
派生してゲーム等でのレーティングでは、表現の過激さからスコアを付与し、
あらかじめ鑑賞、ゲームを楽しむ人に、その表現が苦手な人がいたときに適切に避けられるように設定されたものであり、
その表現自体を排除、排斥するためにレーティングを行え、というのは、
レーティングを行うのではなく、気に入らないものの検閲を行えと言っているのと同義であり、
検閲というのは、国民が国に課した憲法ですら、禁止であると明記されています。
「この表現は過激だから、この表現はこのレートに当たるけど、もっとレートを下げたいなら修正してね」
自身がそのプラットフォーム自体の管理者ではなかったとしても、
どこまでも製作者を追い続け、「不適切だから取り下げろ」と迫ります。
プラットフォームが認めている表現であれば、本来の意味からはゾーニングは適切になされているのであり、
不快であると表現する側がゾーンから異端であるのだと思います。
たとえ表現者が、
プラットフォームが認めているのであればゾーニングは適切になされています。
表現の製作者や、ましてプラットフォーム自体を潰そうと画策する行為は
(表現をする場所を取り上げることも咎められる行為だと思います。)
このような排斥の言動も、上記の理由から社会的には"隠されるべき"であるといえるでしょう。
女性だから、男性だから、その他の性だから、何かの加害者だから、被害者だから言ってもいいんだ、という理由にはなりません。
私は、現状のような、
潔癖であることが何よりも是であり、性的な表現は一般社会に全く表出されるべきではない
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると上述しました。
大切な人とどんなふうに愛し合おうか、ですとか
恋人同士でどうすれば二人が満足感の高い性行為ができるか、ですとか
どんなところがパートナーの好きなところなのか、ですとか
それに付随する性交の表現や、性器の表現も直接的でいいと思います。
私たちが本来有する機能であり、大半の方は性行為を経験することになるからです。
子どもは大人になるのであり、大人になったら経験をすることであるので、
思った感情を相手に話す力、話を聞いてどう思ったか考える力と伝える力、
そういうことを重点に置いて教育を受け、そのうえで、
ですから、社会的に逸脱した行為は社会でゾーニングを行うとして、
一般社会では適切に性的な表現は咎められるべきではないと考えますが、
(小学校の目の前に、男性器が勃起した、あるいは女性器の陰唇が開かれているような看板が
周りから一定の範囲にはそういったものを掲載しない等の規則が出来ればと思います。
子どもが学習の場で適切に教育を受け、学びの場から卒業した時、
性というものに抵抗なく触れていけるような仕組みづくりが求められていると思います。
翻って、
このような言動は「潔癖グロ」として、何らかの配慮が受ける側に必要であると考えます。
そしてその気持ちを、掲載した公的な場での掲載主や表現の場の関係者に
と迫り、圧力によって取り下げてしまう、またはその意見通りの表現の変更が行われている事象が多く存在します。
この内容の言動を唱えている方の大半は、
制作側の、どの程度の表現が規制されるラインなのかを設けてほしいという要望にも明確な基準線を設けず、
このような言動を唱える方々の多くは、歩み寄りや論理性を持った話し合いを避け、
「こう思った」「こう感じた」という意見をひたすら投げ、
として、放暴的に意見を押し付けている状況であると理解しています。
論理的な意見ではないのであれば、それはただの「気持ちの表明」であると思います。
「私たちはこの性的な表現によって傷ついたんだ、私たちは被害者だ」
このように気持ちを表現するのは、表現の自由として誰もが認められているところではあります。
現に一般の創作活動を嗜む方々を、この表現によって傷つけているのです。
私は、この表現のことを「潔癖グロ」と言い表すようにしました。
この表現を発する方が傷ついたと感じる表現、つまり「エロ表現」ですが、
またSNSなどでは、クリック等の一動作置かないと表出されることがないようにされるなど、
様々な”ゾーニング”がなされており、
こういったエロ表現によって傷つけられる人の割合は少なくなるように配慮されるようになってきています。
エロ表現と同じように、何らかの表現によって傷つく人がいるのであれば、
同じように何らかの配慮によって"隠される"ようになるのが妥当だと思います。
正当性を持たせるためには、そこに論理の整合がなくてはなりません。
論理の整合があるから、多くの人が正当な意見であると考えるようになるのです。
ですが、論理性を持たない、個人の感情である一介の表現ですので、
それを発出した弊害である、それにより傷つけられる人のことも考えなくてはなりません。
人間は、生物は、生殖機能によって、生命活動を長い期間育んできました。
少なくとも哺乳類の一種である、ホモ・サピエンスという種として生まれた私たちは、
生殖を行うことで子孫が形成され、次代に遺伝子が受け継がれていきます。
私たち人間にとって、生殖というのは大切な機能であると私は考えます。
生殖機能から発出する性意識や衝動についても、勿論大切なものとして扱わなければならないと思います。
更に私たちは同時に、社会活動をしている、社会的な動物である、とも考えます。
社会の中で、性機能というのはしばしば、不適当なものであるとして端に追いやられてきました。
しかし、私たち本来が持つ生殖機能や、それから派生するものも蔑ろにされるべきではないと考えます。
性表現自体が蔑まれ、排斥されるようなものではないと考えます。
細胞を分裂させて、自分のクローンを作り出す微生物と同等の繁栄方法を行っているか、
私たちホモ・サピエンスがまだ理解が出来ない、未知の繁殖方法で子孫を残しているか、
そのどちらかの当事者であれば、この性表現を排斥しようという意見は飲み込むことはできます。
しかし私たちは人間であり、生殖というのはその大切な生命活動の中の一部です。
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると考えます。
上記の理由から、私は性表現の排斥という言動について、正当性はないと考えます。
まだ成熟しておらず、性表現や性衝動を、あるものとして理解せず、
生殖を組み込んだ社会形成になっていないから、そういった言動が出てくるのではないかと思います。
私たちは誰でも、生殖機能を有し、性的衝動を有し、性的意識を有します。
そのうえで、社会を営む上で、理性を有し、上手く社会を回すために、
理性で性的衝動を抑え込むことで、生物が社会を回すことに成功しているのだといえます。
忘れがちなことですが、大半の人が、その人固有の性的衝動を抑え込んで今日まで生活してきているのです。
上記の言動の人は、そのことを無視し、性的衝動等を無きものとして社会形成を考えていると感じます。
というのは、その性表現の中に、
実際に、
性活動がどのようなものか理解できず、負担をかけてしまうことであったり、
それによって心理的なストレスを抱えるという事態が発生しているというところから派出している言動なのだと思います。
そのような社会的な事態を、加虐側になるような人に奨励するような表現がゾーニングされるべきであり、
については、本来はゾーニングされるべきではないのではないでしょうか。
また、ゾーニングを排斥、排除の意味で使われている方が多く散見されます。
https://ja.wikipedia.org/?curid=3593582
ゾーン(Zone)に分けて、場所場所で差をつけて管理しよう、というのが都市計画用語におけるゾーニングであり、
派生してゲーム等でのレーティングでは、表現の過激さからスコアを付与し、
あらかじめ鑑賞、ゲームを楽しむ人に、その表現が苦手な人がいたときに適切に避けられるように設定されたものであり、
その表現自体を排除、排斥するためにレーティングを行え、というのは、
レーティングを行うのではなく、気に入らないものの検閲を行えと言っているのと同義であり、
検閲というのは、国民が国に課した憲法ですら、禁止であると明記されています。
「この表現は過激だから、この表現はこのレートに当たるけど、もっとレートを下げたいなら修正してね」
自身がそのプラットフォーム自体の管理者ではなかったとしても、
どこまでも製作者を追い続け、「不適切だから取り下げろ」と迫ります。
プラットフォームが認めている表現であれば、本来の意味からはゾーニングは適切になされているのであり、
不快であると表現する側がゾーンから異端であるのだと思います。
たとえ表現者が、
プラットフォームが認めているのであればゾーニングは適切になされています。
表現の製作者や、ましてプラットフォーム自体を潰そうと画策する行為は
(表現をする場所を取り上げることも咎められる行為だと思います。)
このような排斥の言動も、上記の理由から社会的には"隠されるべき"であるといえるでしょう。
女性だから、男性だから、その他の性だから、何かの加害者だから、被害者だから言ってもいいんだ、という理由にはなりません。
私は、現状のような、
潔癖であることが何よりも是であり、性的な表現は一般社会に全く表出されるべきではない
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると上述しました。
大切な人とどんなふうに愛し合おうか、ですとか
恋人同士でどうすれば二人が満足感の高い性行為ができるか、ですとか
どんなところがパートナーの好きなところなのか、ですとか
それに付随する性交の表現や、性器の表現も直接的でいいと思います。
私たちが本来有する機能であり、大半の方は性行為を経験することになるからです。
子どもは大人になるのであり、大人になったら経験をすることであるので、
思った感情を相手に話す力、話を聞いてどう思ったか考える力と伝える力、
そういうことを重点に置いて教育を受け、そのうえで、
ですから、社会的に逸脱した行為は社会でゾーニングを行うとして、
一般社会では適切に性的な表現は咎められるべきではないと考えますが、
(小学校の目の前に、男性器が勃起した、あるいは女性器の陰唇が開かれているような看板が
周りから一定の範囲にはそういったものを掲載しない等の規則が出来ればと思います。
子どもが学習の場で適切に教育を受け、学びの場から卒業した時、
性というものに抵抗なく触れていけるような仕組みづくりが求められていると思います。
翻って、
このような言動は「潔癖グロ」として、何らかの配慮が受ける側に必要であると考えます。