はてなキーワード: 田んぼとは
田んぼと山と高速道路の陸橋に挟まれた山の中の集落に住んでいる。
山の麓から神社へ雑木林を切り開いた参道があって、参道から逸れた小道の奥に集落がある。家は全部で7軒。住んでいるのはうち含めて二軒。
父は既に故人で母は入院中、兄弟姉妹は家を出ている。集落の住人は俺と一人暮らしの高齢女性2人。
この山、集落、神社、裏山のトンネル全体がまとめて心霊スポットになって困っている。原付に乗った高校生やBBQ帰りのヤンキー、帰省してドライブしているらしき大学生などが肝試しに参道や家の前を大騒ぎしながら歩いている。夜は雨戸を閉めているので光が漏れず人が住んでいるとは思われないらしい。
夜中にちょっとコンビニ行こうと思って建て付けの悪い玄関をガタガタ開けたり、参道ですれ違っただけで若い子たちに「ぎゃー!」と叫ばれる。
北陸のとある田舎の町に住んでる。田んぼばっかりの農業地帯。うちの町には、町所有の墓地があって、お金ださなくても、空きがあれば町民は墓を作れるらしい。仕組みは知らん。
その町有墓地にある他人の墓の面倒をここ100年ばかりみている。
お盆前には汗だくで草をむしり、当日には花を供えて、お坊さんに読経してもらっている。
父によると、大昔、近所で開拓のために北海道に渡った一家があり、そこの人たちに「残していく墓を頼む」と頼まれたのが始まりだそうだ。気のいい先祖が「いいよ!」と受け合ったため、子々孫々と他人の墓守している。
墓石はもうかなり古びていて、花もうちが供えたものしか飾られていない。100年前に移住した一家を実際に知ってる人も、今は誰もいない。
北海道に住んでいる子孫たちも同じだろう。北陸のこの町なんか来たこともないし、もしかしたらもう先祖が住んでた町の名前も忘れちゃってるかもしれない。
ほんと何でこんなこと100年もしてるかわからないんだけど、いつか、この北陸の街に、北海道から自分たちのルーツを探しにくるかもしれないし、その時に先祖の墓がちゃんとあったら気分あがるよなとは思う。
そんなことを想像しながら、今年も顔も知らない
桃の軽トラ移動販売車は皆盗品だ!と吹き上がってる件に対して電脳塵芥が反証してる件で
https://nou-yunyun.hatenablog.com/entry/2023/08/19/040000
/\
高 マークのは高山青果の車であってれっきとした業者だ、と言いつつ、表示されてる住所がマンションで、階数表示無しでなんか怪しいって感じで自信無さげ。
でもああいう風に本店住所が事業の実態ある場所じゃないっていうのは非常に多いので多分これも問題ないと思われる。
創業時に社長の住所で登記する→事業が軌道に乗って別にオフィスや工場を本社にするが登記簿はそのままっていうケースは中小企業でとても多い。勤めてる会社のオフィスが本店住所だと思っていたら、実はどっかの住宅街だったとか。
普通は取引先が登記簿照会とかしないし。登記変更は3万程度で出来るが普通の人はおっかないので司法書士に依頼する。その金が掛かる。なので放ったらかしが多い。
https://cys17tx6n.jbplt.jp/recruit/1655000/
ってことはこれは仲買人か買出人ではないだろうか?つまりは番号か屋号が書かれた市場の帽子持ち。
青果市場通してるとなるとこりゃプロパーなわけでますます問題無い。
因みに電脳塵芥管理人氏がエントランスの写真を撮ってきた件のマンションなんだが、板橋市場の隣なのよね。道はさんだ反対側が市場。そして板橋市場と同時に出来てる。
田んぼしかなかった高島平の区画を整理して昭和47年に高島平団地、板橋市場が同時に出来るんだが、このマンションも同時に出来ている。
大家さんかどうかは登記簿取れば判るが今回はそこまではやっていない。
ですから電脳塵芥が言うようにこの業者が盗品を売っている可能性は無いと言い切れる。とんでもない名誉棄損であろう。
桃とか柔らか系の果物には網状のクッション材をはいている。これはネットキャップという。
普通ならこういうのは発泡スチロール製だ。だが果物用のネットキャップは発泡ポリエチレンというちょっと珍しい材質を使っている。
これは、みかんやレモンなど柑橘類の皮に含まれるリモネンという成分がスチロール樹脂を溶かしてしまうからだ。皮を折ると「ピュッ」と小さい飛沫が飛ぶが、これに含まれるのがリモネンだ。
「天然の力で汚れを落とすオレンジ洗剤」みたいな製品に入っているのもリモネンだ。こいつはトルエンとかアセトンとかに似た感じのやつだ。
ポリエチレンは溶剤安定性が高いので果物用ネットキャップはこっちを使うわけだ。
身の回りにある透明なプラスチックで安い物は殆どがスチレン樹脂なので、レモンを置いておくと穴が開いてしまう。冷蔵庫のトレイとか注意である。
欧米帝国主義白人至上主義からの民族開放を大義に、シベリア、満州、中国、台湾、ビルマ、タイ、ベトナム、ラオス、
フィリピン、インドネシア、オーストラリア、ハワイ、フィジー位の範囲を一体の経済社会圏と考えて
資源のない日本が幸福に繁栄していくにはどうすればよいかということを論じる視野の広さがあったと思う。
それに引きかえ、ブクマカの皆様は、絶対領域、乳袋、横乳、下乳、公共ポスターでどこまで萌えが許されるか、
けしからん、いや表現の自由が重要だ、そんなことより女は苦労してんのよ、みたいな話ばかりで、
引きこもって半額弁当とかシリアルとか食べながら女は下方婚しないから給料の安い俺に嫁などこない、
身長の低い俺に嫁などこない、家事労働奴隷はごめんだ、食洗器を買え、今期アニメは不作、
アタシにふさわしい伴侶はみつからないとかブツブツいいながら孤独に死んでいく。
畢竟、人生は予測できないものだ。私の名前は隆司。昔からの夢は、都会の大企業で成功することだった。しかし、須く考えると私の人生は、その夢とはかけ離れたものだった。
大学を卒業すると、私は地元の小さな町に帰ってきた。兎も角、家業の農家を継ぐことになったのだ。多くの友人が都会での生活を謳歌している中、私は田んぼの中で日々を送っていた。いやしくも、都会の生活を憧れていた私は、田舎での静かな生活に馴染めずにいた。
ある日、友人から手紙が届いた。「都会はよしんば魅力的だけど、あなたのいる町には町ならではの魅力がある」と。手紙には、私の町で過ごした思い出や、私たちが子供の頃に遊んだ場所の写真が添付されていた。
その手紙を読んで、私は改めて自分の住む町の魅力を可及的に探ることを決意した。果たせるかなと思ったが、実際に町を歩き、古き良き風景や伝統を見るうちに、私の心は温かくなった。
希くは、私の心の中で都会の生活と田舎の生活が戦っていたが、手紙を読んでからは、その思いはのべつ幕無しに消えていった。私は町の美しさや人々との繋がりを三三五五、徹頭徹尾に感じるようになった。
ある晴れた日、私は町の中心地でフェスティバルを開催することを決意した。そのフェスティバルは、町の伝統や文化を都会の人々にも知ってもらうためのものだった。
フェスティバルの当日、多くの人々が私の町に訪れ、その魅力を体験した。私は、ゆめゆめこの日を忘れることはないだろう。私の夢は都会での成功ではなく、自分の町を愛し、その魅力を伝えることに変わっていたのだ。
※ChatGPTにて作成
関東の田舎で働いてる。しがない機械工場勤めだ。話したいことがあって増田に投稿する。
いま居るとこは、すげーのどかだ。ほぼ東京の隣であるにもかかわらず田んぼが結構並んでる。あと数か月で稲刈りだな。今週ぐらい、近くの神社で夏祭りがある。嫁も子供もない自分は参加しずらいが、それでも毎年行ってフランクフルトと焼きそばを買って帰る。のどかな地域だと思う。地元なので思い入れはある。
それで、何か事情のある家族もいないし、二週間に一度は飲みに出る。安い焼き鳥の店で千円ちょっとだけ飲み食い(ボーナスが出たばかりだとやや高い店)して、それでスナックやラウンジに行く。田舎だから、そりゃあ安いもんだ。飲み放題で三千円の店とかもある。
自分が好きな店は、スナックとラウンジを足して2で割ったようなお店(以降は「お店」とする)だった。婚姻的な意味を表す英語が店名になっていた。最初はなんとなく寄ってみて、「料金高いな」と思ったけど、スタッフがみんないい子ばかりで気に入った。自分はあまりお金持ってないから、いちばん安いウイスキーボトル(ニッカor角)を入れて、一時間四千円ちょっとでしみじみと粘る。でも、ごく稀には同伴だってしてやるんだぜ。いつもカウンターに座ってる。テーブルには座らない。
さて、そんな具合でお店を楽しんでいたんだが、ある時だった。『町内会長』が店に来たのだ。60過ぎたくらいの。初来店だった。今から1年ほど前。
最近の爺さんって若作りな人が多い印象だけど、この人は年相応かなって感じだった。清潔感というのか、そういうのはあった。スーツと私服を足して2で割った感じの服装だったと思う(追記 調べたらセミフォーマルというらしい)。薄緑?~ダークグレーの装いがお店のうす暗い照明に照らされてた。
この人がタイトルの人だ。店の雰囲気にあまり合ってなかった。自分はこれまで、町内会長という役職の人と会話をしたことはなかった。なんか地域の代表者みたいなイメージしかなかった。一般雑誌とかアニメとか寝取られもののエロ漫画(あらくれ氏が描くような...)に出てくる町内会長しか知らなかった。のほほんとした感じの爺さんで、裏腹に一物もっている感じの。。。
続きだ。見慣れない人が来たなあ、と思っていたら、出入口からそう離れていないところで立ち止まっている。スタッフの女の子数人(平均年齢は30~40)も神妙な雰囲気だった。
「どこに座ったらいいですか」と、その人が言うと、チーママが「どこでもいいですよー」と言いつつ、俺とふたつ離れたカウンター席を案内した。それで、自分に付いていた子が2人いて、うち1人がその人のところに行って、あとはチーママが付いた。
そこで、その人が「すいません。料金の説明をしてもらっていいですか」とチーママに言った。で、説明を受けると、「ボトルは入れません。飲み放題にします」だって。※飲み放題の方がセット料金が高いが、ボトル代払ってキープすると安くなる。どっち派かは人による。
なんか、明らかにほかの客と雰囲気が違う。気になって、会話を聞いてみようという気になった......それで、おおよそ以下のようなキャラクターが判明した。
・お店の隣町の町内会長
・町内の飲み会の帰りに寄ってみようと思った(※徒歩)
・都内の商社で働いていて、定年退職した2年前に地元に帰ってきた
・珍しい店名だと思って寄ってみた
こんなところか。商社の名前もどこかで聞いたことがあった。こんな田舎者でも知ってる会社だ。きっと金を持ってるんだろう。年寄りだからな。
問題なのはこの後だ。会長は飲み放題のコース(1.5hで5,500円)にしていた。女の子のドリンクが1杯につき500円のはず。で、来店から10分くらい経った頃だった。会長に付いていた若手チーママ(34)の1人が、「私、一杯いただいてもいいですか」と言った。
すると、会長は左手を前に突き出して、「どうぞ」と言った。問題はその数分後だ。もう1人付いていた別の女の子(31)が、「1杯いただきますね」と言って、焼酎の水割りを作り始めた。
※上の括弧内の数字は年齢だ。オンラインゲームのレベル表示とかではない。わかってるとは思うが……。
すると、会長が「ちょっと待って」と言った。俺がそっちの方を向くと、会長が女の子(31)をちょっと睨んでいた。チーママが心配そうにしてる。
「その飲み物は、一杯につき料金がかかるんでしょう?」
「はい。500円です」
「だったら、その前に私の了解を得ないといけないんじゃないの」
「あ。はい。ごめんなさい」
「お客さんの了解も得ないで飲み物を作るのは、それは泥棒と一緒じゃないか!?」
女の子(31)は涙目になっていた。で、キッチンの方にすごすごと歩いて入っていった……。
こういうおっさんを見ると、本当にムカつく。わかってないのはあんたの方だろう。たかだか500円で、グチグチグチグチと。本当にケチ臭い人間だ。飲んでて気分が悪くなる。
あんた、金持ってるんだろ。俺と違って。別にいいじゃん。女の子に500円払うくらい。くれてやれよ。場の雰囲気壊してまでやることじゃないだろ。ああ、思い出し怒りがさく裂しそうだ。マジでイラついてきた。
その後は、チーママが謝ってたはずだ。会長が「ダメだよ。あんなことしていたら。ちゃんと教えてあげないと」みたいなことを言っていた。
何がちゃんと、だよ。気持ちが悪い。何様だ。金持ってんだろ。ケチ臭いこといってんじゃねーよ。みたいな思いがして、それから3、4杯だけ飲んで家に帰った(自転車を押して)。
何が問題かというと、この会長がそれからお店を利用するようになったことだ。けっこうな頻度でくるようになった。自分がお店に行く日と曜日が被っていた。
おそらく会長と3回目に鉢合わせた時だったか。自分がお店に入った時は、さっきの女の子(32)とチーママがいて、カウンター席で話していると会長がやってきた。自分のふたつ隣りのカウンターに座って、「飲み放題で焼酎(ウイスキーだったかも...)にします」と言ってたか。いや、確か焼酎だ。でかい梅干しをグラスに入れていた。その際、チーママに「(会長の場合は)ボトル入れた方が明らかに安い~」と言われてたけど断っていた。
その時、会長が女の子(32)に「この間は悪かった」と謝っていた。彼女は「いいです、いいです」みたいなことを言っていた。謝るくらいなら初めから怒ったりするなよと感じたけど、まあ世代が違うだけで、悪い人じゃない、いい人なのかもしれないと思っていた。
でも、やっぱり感覚が合わないんだよな。ほかの常連(一月に1回くらい会う)の人でさ、高齢のじいさんがいるんだよ。多分70くらいかな。細身だったと思う。で、その人がよくキレたりする。酒がまずいとか、今日はいい女がいないとか、カラオケがうるさいから黙らせろとか(※この爺さんも歌う人だから相手が邪魔だったのかもしれない)、とにかくうるさい爺さんだ。ほかの客にもウザがられてる。
できれば、チーママにはこの人を出入り禁止にしてほしいと思っていたし、実際に「出入り禁止にした方がいいよ。お店のためになんないよ」と進言もしていた。しかし、返事ははぐらかされるばかりで、なしのつぶての状態だった。
それでまた、ある時だった。爺さんが、その会長に絡むんだよ。で、会長も相手をする。「出身は?」とか「カラオケは何が好き」とか、あとは家族の話とか。ホステスよりも話してるんじゃないかという時もあった。
そういう時に限って爺さんがうるさい。でかい声で何かを叫んだりする。気が高ぶってるのかもしれんが、こっちはいい迷惑だ。頼むから静かにしてくれ。こっちはこっちで目の前の嬢と話したいんだよ。うるさくて聞こえん。
それからちょっとして、高齢の爺さんは店に来なくなったけど、それまでは本当にあの二人がうるさかったよ。不愉快な時間だった。
で、ようやく静かにお店を楽しめる~と思ったら、今度は若者連中(といっても30代だが…)と会長が話をするようになった。これがまた輩っぽくてうるさい。こんなにうるさいのかと思った。会長は、調子に乗って若者連中におごっていた。ホステスにもな。こっちは端っこの方でちびちびとやるしかない。
やっぱり、調子こいてるんだよな。いい会社に勤めてたからって、インドネシアに行ってたとか、赴任先の国でクーデターが起きたとか、間違えて強盗が徘徊してる列車で一夜を過ごすことになったとか、マジで自慢ばっかり。若者連中は一応は聞いていた様子だったけど、たぶん内心はつまらないに違いない。
なんで自分がこんなに会長のことを覚えてるかというと、それくらい嫌な奴だったからだ。一緒になったのは軽く10回は超えているだろうか。自分にも話しかけてきたことがあった。「男前だな」とか「無理にでも結婚した方がいい」とか「結婚したら人生変わる。大人になれる」とか「気分が暗そうだね。あなたもカラオケ歌わないか」とか、こいつマジで○そうかと思ったくらい、それくらい失礼な奴だった。
こっちだってやりたくて未婚なんじゃない。したくても結婚できねーんだよ。いい人がどうしてもいない。こっちは工場勤めだぞ。出会いなんてねえよ。ゼロだ。あんたの会社だと、男社員に女をあてがってくれる部署があるんだろ。大卒でも専門卒でも、かわいい女の子いっぱい雇って、総合職の男社員とくっつけるんだろ。羨ましい。
ムカつくことが多くて、あの会長のことをよく覚えている。マイナス方向のインパクトが強すぎた。ポジティブな言い方をすると、俺には眩しかったのかもしれない。俺はずっと底辺近くをはいずり回ってきた。まともな親とか、家族とか、教師とか、上司とか、そういうのは知らん。友達には恵まれたかもしれない。今ではもうぜんぶ遅い。もうすぐ40になる。人生は取り返せないのだ...。
そろそろ終わりにする。
会長の初来店から半年が経った頃か。つい先日のように思える。ようやく最後にオサラバができた。
その日、ちょっと嫌なことがあって、イライラしていて、お店に入ってもあまり喋ることがなかった。※工場内の数少ない台車をどの部門が使うかでケンカをしたのだ。マジで低レベルな争いだった。中学生かよってくらいに。
態度でわかるくらい気分が悪かった。チーママもほかのキャストも、ほかに3人いた常連さんも、遠慮のためか話を振ってくることはなかった。
そんな時に、会長が話しかけてきた。「増田さん、いつもより気分悪そうですね。大丈夫ですか」だったかな。
「まあまあですね」と答えたら、「いつもと顔が違いますよ。嫌なことあったんです?」って感じだった。
その時、キレそうになっていた。で、ただ一言、こんなことを俺は言った。「会長さんは、どうしてこのお店にくるんですか。ちょっと遠出すれば金持ってる人が入るような店ありますよ?」と聞いたら、「ここが好きなんだ」って返ってきた。
「この場末のお店のどういうところが好きなんですか?」と聞いたら、「若い人が多くて、スタッフみんなが仲いいところかな」と返答があった。
「でもここ、あんたが来る店じゃないよ!?」
頭に血が上っていた。いつもは言わないであろう言葉が出てきた。ぜんぶこのおっさんのせいだ。
「客層見てみろや。あんたは恥ずかしい!!」
会長は急に黙って、でかい梅干しが入った焼酎のグラスに手をやってた。
「すまない会長。でも、みんなそう思ってるよ……」
と最後に言ったら、「すまんね」とだけ言って、会長はトイレに行って、お会計を済ませてお店を出て行った。
周りを見ると、スタッフも常連さんも自分の方を見ていた。そうか、そうだったんだよ、みんなあのおっさんのことがウザかったんだな。でもお客さんだし、金払いもいいみたいだから何も言わなかったんだな、と合点がいった。
そう思うと気分が晴れて、イライラしてたのがすっとんでいった。目の前にあった安いニッカの水割りを一気に飲み干してグラスを置くと、チーママが俺の方をじっと見ていた。確か、こんなやり取りがあったかな。
・気分が悪そうなのに飲んだらだめ
・もうその一杯で帰った方がいい
・健康のことを考えて、安い酒はやめた方がいい
で、俺もだんだんその店に行くことがなくなった。というのも、自分がお店に行くと、ボトルが切れる度に、スタッフがひとつ壱万円以上のやつばかり勧めてくるようになったからだ。健康のためだという。
断ると、これがまた営業トークがしつこいんだ。高い酒飲めって。いや、もう嫌になってきたよ。あの安いウイスキーボトルが好きだったのに。
今ではふたつ隣の別のお店に行っている。やはり、安いニッカや角が置いてある店がいい。こういう店では、安い値段でゆっくりするのが好きだ。
老若男女問わず大はしゃぎの夏だというのに、嫌な話をしたな。申し訳ない。
でも、どうしても気になってるんだ。これは、関東にある一地方都市の話だ。東京都内など、真の都会暮らしの人には縁が薄い話だったろう。お目汚しを。
やっぱり、あの時、あんなことを言わない方がよかったんだろうな。町内会長さんには悪いことをしたな。後悔してる。もう謝る機会はないけど、胸の中にしまって生きていくわ。
ごめん。
悪友5人で集まって近所のショッピングセンターや野球場や図書館などの施設に行き、ミニスカートの若い女がエスカレーターに向かったら数メートル空けて尾行し、下から覗いてパンチラをハントするのだ
リーダーのS君はボットン便所の市営住宅に住む貧しい家庭の子だったが、俺たちハンターは彼を慕っていた
研究熱心で、どこの店のどのポジションからパンチラが拝めるか常に研究し、情報を共有してくれていたからだ
俺たちは小汚い彼の家に集まって旧式のパソコンにS君が田んぼで拾ってきたエロ本の付録のCD-ROMを突っ込んで解像度の低いエロ画像を見るのも好きだった(まだインターネットは普及していなかった)
彼の女子高生の姉の下着がそこら中に干してあって見放題だったからだ
小学校は同じだったが学区の関係で離れてしまったという経緯で、気のおけない中だったのは間違いない
ただ、やはり普段付き合う人間が違えば価値観も少しずつズレてくる
その二人は次第に「やばくねえ?」みたいな事を言いだしてパンチラハントを渋りだした
関係が切れた訳ではないが、中2に上がる頃にはハンターとして参加することはほぼなくなっていた
S君は変わらず熱心だった
靴に鏡を貼り付けて能動的にパンツをハントしたり、当時出始めでまだ低性能だったデジカメを何処からか調達してきて、カバンに仕込んで盗撮するまでエスカレートしていた
俺ともう一人残ったJ君はそれをサポートする立場としてS君を支えた
良くないことだという認識はあった
しかしやめられなかった、女子にも大人にも相手にされない田舎の落ちこぼれの中学生にとって、それは唯一の熱中できる遊びだったのだ
その遊びは中3の夏まで続いて、唐突に終わった
S君が亡くなったのだ
S君は父親が運転するバイクに二人乗りしていて事故を起こし、増水した川に突っ込んで死んだ
その後は俺もJ君もパンチラをハントする気分にはなれなかった
いや、そもそも俺とJ君はパンチラハンター以外で絡むことはほとんどなく、クラスも遠くてお互いの家も電話番号も知らなかった
そのまま関係が自然消滅してもおかしくなかったが、夏休みも終りが近づいたある日、S君の姉に呼び出されて二人でS君の家を訪ねることになった
俺とJ君は自転車で合流したもののエロ画像とパンチラの話しかしたことがないからほとんど無言で市営住宅に向かった
俺たちが仏壇に線香をあげるのを、高校の制服を着たS君の姉が後ろで仁王立ちで見ていて、終わると
「きょうはどうもね。あとうちら引っ越すことになったから、あんたらさあ……」と言って二階に上がっていった
話が途中で途切れたのでどうしたらいいもんかJ君と顔を見合わせていると、
「これ、要るでしょ」
といって段ボール箱をかかえて戻ってきた
そこにはS君のコレクションの田んぼで拾ったエロ本や盗撮写真のデータが収められたCD-ROM、それに使ったデジカメ、手鏡、巨大なノートパソコン、パンチラポジションが詳細に書かれたノートが詰め込まれていた
「パンチラハンターなんでしょ。バカだね男って。あたしのパンツも何枚かあげよっか?」
と言って姉はケラケラと笑ったが、俺とJ君は感極まって号泣してしまった
5人で集まって馬鹿騒ぎしていた頃の記憶が嵐のように蘇って、情けないと思うのに涙が止まらない
もう最後には姉ももらい泣きして、三人で抱き合うみたいにして泣いた
遺品はJ君がほとんど引き取った
俺はデジカメだけ受け取って、その場でなんとなく三人の自撮り写真を撮った
しかしちょうどそれでバッテリーが切れたのか、液晶が切れて動かなくなった
充電用のケーブルは見つからなかったということで、無用の長物になってしまったが、一応持ち帰った
帰りの道中、「もう解散かな、パンチラハンター」とJ君に言ったら「いや」と低い声で否定した
J君はその数ヶ月で声変わりが急激に進んでいた
その大人みたいな声が、俺の中に重々しく響いたのを覚えている
家にあるケーブルでなんとか充電できないかと悪戦苦闘していた俺を見て「新しいの買ったほうが早い」と父親が新品のデジカメを買い与えてくれた
これがきっかけで俺は写真にハマり、数年後には東京の某芸術系大学の写真学科に進んだ
一方J君は地元の高専に入り、ソフトウェア開発の道に進んで関西の大学に編入
J君もS君の遺品のノートパソコンで勉強したんだろうと勝手に俺は思ってる
彼とも中学を出てからはあまり関わりはなかったが、盆とか正月には地元で会って近況報告くらいはした
俺たちは氷河期世代ど真ん中で、その後の人生もうまくやれたとは思わない
まもなく中学時代の同級生の女と結婚したが、すぐに事業所縮小でリストラの憂き目にあい二年で離婚した
噂によるとその後また再婚したみたいだが、コロナ以降は一度も会っておらずどうなったかわからない
俺は大学を出てからそこそこ有名な写真家に師事したが芽が出ず野に放たれた
しかし写真は諦めきれず、不動産屋の広告に乗せる新築マンションの写真を撮る安い仕事をもらって東京の安アパートで何とかギリギリ生きていた
仕事中、高級タワマンのエントランスの長いエスカレーターをみると胸がざわついた
地方でカメラマン崩れに仕事はなく、高齢者に混じって非正規の警備員をやっている
施設警備をしていると、エスカレーターの下で怪しい動きをする男の子たちを見かけることが有る
「お前ら、バレバレだぞ」
いたたまれなくなって諭すと、「うっせージジイ!」と悪態をつきながら逃げていく
そう
J君の実家はもう取り壊されていて無くなっている
調べれは引越し先も調べがつくと思うが、あえてそうしようとは何故か思わない
今朝、夢にJ君とS君の姉が出てきた
女子高生のままのS君の姉が「あたしら結婚したから」と照れくさそうに言っていた
こちらは若くはなく、最後に会ったときの熊のような髭面メガネだった
「証拠見せようか? ほら」
最近見てなかったけどこの人が持ってたのか、と夢の中の俺は思う
液晶画面には、俺が撮って一度も見ていない三人の自撮り写真が表示されていた
しかも、中央の俺が無邪気に自撮りしている後ろでJ君とSの姉が手を握って見つめ合っている
この頃から繋がってたのかよ、と夢の中の俺が思う
「そうだよ。確かめてみな」
目を覚ましてから、押入れの中身をひっくり返してあのデジカメを探した
昔は知識がなくてどうにもならなかったが、充電器などなくても記録媒体を取り出してマルチリーダーで読めばデータは吸い出せるだろう
しかし見つからなかったし、そのことで必要以上に感傷に襲われることもなかった
ただこれだけは言っておかねばならない
いわゆる“なろう系”に分類される漫画をよく読む。
これは玉石混合の砂場から、綺麗な石や変な形の石を見つける作業に等しい。
よく出来てる作品が打ち切られたり、明らかに難ありの作品が生き残り続けたり、とにかく動向が予測できないのが面白い。
で、本題なんだけど、なろう系ってフォーマットが同じだから似たり寄ったりな要素が頻発するわけ。
その様相はパクりパクられという次元を超越していて、あまりに擦られまくってるから、もうそういうの気にするフェイズじゃなくなってる。
例えば『俺んちに来た女騎士と田舎暮らしすることになった件』、『田んぼで拾った女騎士、田舎で俺の嫁だと思われている』とかね。
田舎は田舎で、そこにしか無いものに文化を見出して欲しいなと思うわ。
単なる田んぼとかカニとかロードサイドのスーパーとかは日本全国同じで独自性がない。
東京の文化だって、最新の流行り物とか美術館だとかコンサートだとかはまあそれはそれでいいけど本質ではないと思うんだよ。
東京の歴史は地形に記憶されている。皇居を境にした低地と武蔵野台地とで町民と武家とが分けられていた江戸時代の記憶が今でも残っている。そこから明治・大正を経て戦争を経験し、それぞれの時代に各地域が持っていた意味が連続的に現代の街並みに繋がっている。
そう思えば鶯谷のクソ汚ねえラブホ街を見ても土地の歴史とそこに生きていた人々へ思いを馳せることができる。
地方や田舎だってそういうものは当然沢山ある。歴史を通じてマジでなんもなかったけど人口ボーナス期に勢い余って開発しちゃっただけみたいなところもあるだろうけど。カニもいいけど、その土地の意味を個々人の視点で解釈して発信して欲しいと思うね。
これはいま、おれの中にひとつわりと明確な答えがあって、それは
です
おれの住んでる田舎は、市の人口5万人とかなんで、かなりザコいんだけど、24時間営業のスーパーセンタートライアルを抱えている
そうすっと、夜10時からでも、思い立ったらチャリに乗って、でけえスーパーで買い物ができるわけですよ
まずこれはひとつの文化資本と言って良い スーパー って博物館だからさあ!
そんで、そこまで行く途中の道、これもまたいいわけ
中規模の川が近くにあるから、いまの季節、サワガニが地面を這い回っているんですよ
まず、玄関からチャリまで歩く過程で、スマホのライトに照らされて、聞き取れるくらいデカい足音を立ててカニが逃げる、おれはウオっと思ってちょっとのけぞる、こういう体験が、よくわかんねえけど、ひとつの原体験となるわけだ まあおれがここに来たのは就職してからなんで、ゲンミツには原体験じゃねえけど、原体験に上乗せしてやってもいいと思ってる いい体験だ カニ・カルチャーだ
マルケスの小説読んでると、すげーカニが出てくんだよ 夜になったらカニが海からワンサカやってくるんで、それをバケツに入れて海に追い返す、みたいな話がある
このくだりってマジックリアリズムなのか?と思うわけ そんなにカニいることってねえだろと思ってっからさ
しかし、身近にカニを感じるにあたって、ああ、その辺のショボい川からでもこんだけカニが出てくるんだったら、コロンビアの海岸なんかだとマジで超ワラワラいてもおかしくねえのかな、と思いなおす
現実で積み上げた体験が、読書体験に深みを与えるわけですよ (逆もまた然りっすねえ!)
そうやってカニをやりすごしながら、川沿いの道、川沿いっつっても土手に隠されて川は見えねえんだけど、そこを漕いで行くわけよ
漕いで行こうとしたらさ、夜8時なのに案外明るくて、真上の空はすげえ晴れててさ、日が落ちて濃さを増し、藍色になった空をバックに、でけえ雲が連なってそびえているわけですよ
「山脈」とか「大いなる」とか、そういう形容をしたい感じなわけ
これってヘタしたらエベレストより立派なんじゃねえか?とすら思う 実際、高度で見りゃいい勝負だと思いますよ
おもわずチャリを路肩に停めて、ちょっと雲を眺めたりしている時間、あれは実際かなり文化的だと思う
夏はそういう、デケー雲とか日暮れどきの光の具合なんかが目を惹くんだけど、秋とか冬もまったく悪くなくて、なんせ涼しいし、星が綺麗なんだよなあ!
秋口に、完全に夏の格好してチャリ漕いでスーパーセンタートライアルに向かってたらさ、思ったより秋が深まっていて、まあ寒い!寒い!って感じで、そのうち歯がガチガチなってきてさ、そんで田んぼ道だからチャリもガタガタしてさ、内からも外からも振動しながら、ふと空を見ると、なんかマジでアホみたいに綺麗な星空が広がっていたりして、おいおいマジかよ、と思うわけですよ
ホント暗いんだよ田舎 絶対街灯もっとあったほうがいいだろ!って思うんだ
でも、やっぱその分、星が見えんだよなあ!
スーパーセンタートライアルに向かう道すがら、寒さに震えながら見上げる星空ほどイイものって、実際そんなに思いつかないっすよ
俺はかつて東京を憎んでた(キモいから!)けど、最近ガチでどうでもよくなってきていて、それはひとえに、田舎で全然ええなあ!と思い始めたからだと思う
人のいねえ道で適当に腕振り回したりしながらチャリ漕いで、雲とか星とかを眺めて、そのあとスーパーセンタートライアルでアイスとか75円のイカフライとかを買って、別に腹が減ってるわけでもねえけど、帰り道に開封して、食いながら帰る
私の父について触れておこう。
私の父は県立高校の教師をしながら祖父とともに清酒用の米を作り、休日には空気銃で鴨を撃つのどかな人間であった。
中学3年生の私にタバコと酒をすすめ、共に甲子正宗を飲むような人間でもあったわけだが。
母は現在の千葉市緑区出身で中学校音楽教師であり、米農家に嫁ぎながら遂に田んぼに足を踏み入れることを拒否したまま生涯を終えた。
私は何事も起きない小さな町で生まれ育ち、何事も起きないまま酒々井町立酒々井小学校、酒々井町立酒々井中学校、千葉県立佐倉高等学校へ進んだ。
父は私に農家を継がせることを嫌がり、東京大学へ進学して霞ヶ関の役人となることを求めた。私が代ゼミの寮で心変わりを起こし一橋大学商学部に進学すると、少し落胆したようであるが、公認会計士に合格しいずれは叔父の税理士事務所を継ぐように求めた。
私は親に反発するほど自我の強い子供ではなかった。父の言う通り、一橋大学商学部で学び公認会計士となり、監査法人での勤務を経ていずれは叔父の事務所を引き継ぐものだと考えていた。そして、共に酒々井中学校で学び千葉県立成東高等学校から日本女子大学に進み管理栄養士を目指していた当時の彼女と結婚し、酒々井町にて父と同じように家庭を築くものだと。
私が目覚めたのは留学中であった。ゼミナールの指導教員に薦められるまま、ストックホルム商科大学に留学した。そこで財界人の子息達と知り合い、招待されたローベン島離宮のパーティーでストックホルム貴族達と彼らの思惑を知った。思惑について詳しく知ったのはチェコでストックホルム貴族達やリヒテンシュタイン家の人間達と鹿猟に興じている時であったが。
私は日本に帰り、一橋大学商学部を卒業すると叔父の事務所に居候しながらこそこそと勉強し神戸大学医学部医学科に進学した。
今までの私の歩みを見ていれば、私が公認会計士となり父と叔父の願いを果たすのは自明であったろう。しかし、私の瞳の怒りの炎を感じ取ったのか、父は怒るでも小言を言うでもなく、神戸へ送り出してくれたのだ。
私が医局から追放され、とある田舎のサナトリウムに拘束されて以来父とは縁が切れてしまったが、慣れ親しんだ酒々井町の自宅で生涯を終えられたことは知人から聞いた。