はてなキーワード: 作品とは
コロンブスのアメリカ大陸500周年を記念した映画は1992年当時、すくなくとも2本公開されている。
1本は、元増田が書いてるリドリー・スコット監督の『1492 コロンブス』。(原題 “1492: Conquest of Paradise)”)
もう1本はジョン・グレン監督の『コロンブス』(原題 “Christopher Columbus: The Discovery”)。
ジョン・グレン監督というのは馴染みのない名前かもしれないが、1980年代から90年代の007シリーズを手掛けている人。
自分は見たのは前者(以下『1492』と略記)だけだが、後者(以下『コロンブス』)についてもいろいろ悪い意味で話題になってたよなあと思い出したので、wikipediaの英語版その他を手がかりに書いていく。正確性は必ずしも保証しない。
元増田は『1492』を“盛大にコケた”と評してたが、もっと目も当てられないコケ方というか、製作時点からトラブル続きだったのは後者の方。興行成績も『1492』のほうがよほどマシだったはず。
『コロンブス』は米・英・スペイン合作の、アメリカ大陸到達500周年記念大作として、スーパーマン・シリーズでも有名なサルキンド親子のプロデュースで動き出した企画だった。
実はリドスコ、こっちの監督としてオファーされていたのだが蹴ったあげく、ライバル作品である『1942』を監督を受けてしまう。
こっちのプロデューサーは当時は若手のフランス人で、脚本はその人の奥さんが書いてるのだが、たしか脚本に惚れ込んだとかいう話だった記憶が、うっすらあるような、ないような。
これが訴訟沙汰になってリドスコは訴えられてしまい『コロンブス』サイドによればリドスコ側が脚本のアイデアを盗んだとかなんとか。
脚本は似てないってことで損害賠償は認められなかったようだが、リドスコ版の原題が“Conquest of Paradise”となっていてコロンブスのコの字もないのは、そういう大人の事情が働いていたようだ。
『コロンブス』は大作にふさわしく、原案と脚本にマリオ・プーゾ(あのゴッド・ファーザーの)、キャストにはマーロン・ブランドも名を連ね、リドスコに蹴られた監督のオファーをまず受けたのは、イタリア出身のギリシャ人監督ジョージ・P・コスマトス。
っていわれても知らねえよってのが普通の反応だが、『カサンドラ・クロス』『ランボー怒りの脱出』『コブラ』等々の作品は知ってる人もそこそこいるか。
ところがこの人も、「創作上の相違」を理由に降板した上、製作サイドに訴訟を起こしており、あとを続くようにティモシー・ダルトン(4代目ジェームズ・ボンド)やイザベラ・ロッセリーニ(あのロッセリーニとイングリット・バーグマンの娘)も降板。
マーロン・ブランド(異端審問官役だったらしい)はクレジットの削除を要求したらしい。
詳細は不明だが、勝手に推測するに、“とにかく500周年に合せてデッカイ映画を!”が先走って、いろいろグチャグチャだったことがうかがえる。
映画自体は観てないから内容は知らないが、あらすじをみる限り、こちらはあくまで“アメリカ大陸到達まで”を描く娯楽大作だったようだ。
『1492』の方も見るには見たのだが記憶は曖昧だ。元増田同様、長くてつまんなかったというのは良く覚えてるけど。
ネットでいくつか感想や評のようなものを見かけたが、わりと人によって違う印象で、これはつまり、ダラダラ長い割に焦点の定まらない映画だったということかも。
ネットの情報を参考にしつつ自分の記憶とあわせて再構成してみると、
みたいな感じか。
で、当時たしか“なんだかコロさんがどういう人なのかも、監督がなにを言いたいのかよく分からん”と思った記憶がある。
山師なのか夢見がちなロマンチストなのか。結局は儲けたくて航海やってんのか。
いやまあ色んな面を持ってるのが人間だよねーで納得できる感じでもなかったと思う。
で、最後になんか取ってつけたように“人生にはロマンが必要だよね”みたいなこと言い出して、いや、これそういう映画だったっけ?みたいな。
コロンブスがきたせいで南米大変なことになっちゃったねー、それまで楽園みたいだったのに、ってのはかろうじて伝わったが。
もしかしたら当時、コロンブス像の転換というのが行われている最中で、それを反映していろいろ多面的な捉え方をしようとした脚本だったのかもしれないが、それが作品には投影されてなかったのだろう。多分。
まあ配信もされないってことは、もう歴史の闇に葬り去られていく映画なんだろうけど、あの年にコロンブス映画が失敗したことで、その後のエンタメのテーマとしてはとりあげにくくなったのかなぁ?という気はするな。
結論 コロンブスは鬼門なので安意にエンタメで扱わないほうが良い。
え?違う?
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA13CRN0T10C24A6000000/
https://new-kokumin.jp/wp-content/uploads/2024/06/01a1ca9ac47131708c0dd3c171cce776.pdf
>契約締結から公表までトータルで5月かかるため、投下した資本を回収するのに時間がかかり、事業者の資金繰りに悪影響
現行法は「契約→(1ヶ月以上おいて)撮影→(4ヶ月以上おいて)公開」となっている
短絡的に出演してしまい後から悔やむ例、脅迫的に連れ込まれてそのまま撮影を強行された例などを減らすため
・改正案
既に1度以上AVに出たことがあり、かつ20歳以上なら契約から発売まで2週間程度にできるよう要望
https://new-kokumin.jp/wp-content/uploads/2024/06/01a1ca9ac47131708c0dd3c171cce776.pdf
>出演者(20歳以上かつ過去に出演経験あり)の書面承諾がある場合には出演者の真意に基づく承諾があるものとして、現行法①~③のルールの特例を受けることができることとする。
「契約→(1週間以上おいて)撮影→(1週間以上おいて)公開」にする改正案
https://new-kokumin.jp/wp-content/uploads/2024/06/aedf4a410ccb2371950af35382263f1c.pdf
現在の法律名は「性をめぐる個人の尊厳が重んぜられる社会の形成に資するために性行為映像制作物への出演に係る被害の防止を図り及び出演者の救済に資するための出演契約等に関する特則等に関する法律」
それを「性行為映像制作物に係る出演契約等に関する特則等に関する法律」にするよう要求
・その他条文比較
https://new-kokumin.jp/wp-content/uploads/2024/06/6bf185a46a46e14da766c01d18823d4f.pdf
現行 この法律は、性行為映像制作物の制作公表により出演者の心身及び私生活に将来にわたって取り返しの付かない重大な被害が生ずるおそれがあり、また、現に生じていることに鑑み性行為映像制作物の出演に係る被害の発生及び拡大の防止を図り、
改正 この法律は、出演者の自由な意思に基づかない性行為映像制作物への出演に係る被害の発生及び拡大の防止を図り、
現行 制作公表者及び制作公表従事者は、その行う性行為映像制作物の制作公表により出演者の心身及び私生活に将来にわたって取り返しの付かない重大な被害が生ずるおそれがあり、また、現に生じていることを深く自覚して、出演者の個人としての人格を尊重し、あわせてその心身の健康及び私生活の平穏その他の利益を保護し
改正 制作公表者及び制作公表従事者は、出演者の個人としての人格を尊重し、あわせてその心身の健康及び私生活の平穏その他の利益を保護し
改正 その被害の背景にある貧困(出演者が受ける報酬の学が低廉であることによる貧困を含む。事情第一項において同じ。)、
熟女もの出てる10年選手のベテランAV女優と、18歳になりたての初出演予定の子を同程度に扱う現行法はおかしいといえばそうだが、
1回出演した後で親バレしたから次の作品を撮影から4ヶ月たったけどやっぱり公開しないでほしいとか、
1回出演したけど彼くんと結婚が決まり引退を決意したのでやっぱ契約から1ヶ月たった次の撮影キャンセルしたいとか、そういうのが認められなくなるのか
上の増田。結果報告してみる。
元々iPhoneのスクリーンタイムでは平均、7時間/日ぐらいは使用してた。この1週間でTwitter、YouTube、5chまとめサイトは遮断したところ、5時間/日ぐらいの使用状況になった。1日2時間しか減ってないけど仕事でも使うから0は厳しいしそこは許してほしい。以下、遮断しての変化、わかったこと
・朝の目覚めがよくなる
これが1番大きかった。寝る前にSNS系で時間潰してたのは睡眠にかなり悪影響与えてた
増田は禁止してなかったので、増田のアーカイブとかはよく開いてた。けど増田のアーカイブ記事はそんなに更新されないし中毒性も低くて許容してた。前見た時と同じ記事の並びやなって確認してすぐやめてた。漫画アプリも1作品1話ぐらいしか読まないから、まあええかでOKにして意味もなくアプリを開いては読むもんねーなーで1分後に閉じてた。
暇で色々考えめぐるから、それをアウトプットするためにメモアプリに記録してた。あとで見返すというより、一度アウトプットしたらもうそのことについて考えなくて済むと気づいてからそうするようになった
まあ土曜だしいいかでTwitter解禁したらあっという間に時間吸われたね。iPhoneの設定で使用時間を1時間までにしたけど、あとちょっとだけを何回かしちゃった
iPhoneのスクリーンタイムで設定したアプリの1日の使用時間を制限できるが、あんま意味なかった。簡単に延長をリクエストできるのと、いきなり時間です言われて止まれるなら苦労しない。ゲームでいうと敵を倒してからだと中止できるが敵との戦闘中にゲームやめろ言われてできる人はいないと思う。なので、アプリに制限かけたかったら、特定の時間だけ使用可能にした方がいいと思う。それか1日あたりの使用時間で制限かけるなら、デフォルトのiPhoneのアプリだけでなくスマホ制限する専用のアプリを使ってロック解除をだるくした方がいいとわかった。解除に手間取ってるうちに、もうええかとなれる
今後増田はどうするか
少なくとも平日は禁止継続で。土日は使用したとしても時間制限はかける。今までだとTwitterが1番中毒性あったけど、人のいいねが見れない仕様に変わってて、増田は人のいいねをTL代わりにして有益な情報を得ていたから、この仕様の変化を機にやめれそう
スマホにロックかけるアプリ使って、寝る前寝起きは絶対スマホみないようにしよう思う。これだけでQOL上がる
その代わりに寝ながらの使用は禁止。なるべく立ちながらの使用にすることで長期使用は避けるつもり。
・家でしか極力使わない
電車の中や飲食店で待ってる時などはスマホ触ってもいいかと思うが、こういう隙間時間に我慢できるか否かがスマホ中毒に1番大きく影響与えると感じる。我慢できることを実感する
次の1週間も多少ルールは変えながらもスマホ制限は継続していくつもり。仕事でも使うから土日は5時間程度、平日は2〜3時間程度の使用にできたら理想と思ってる。
また報告するつもりなのでよろしく。
大傑作だった。
岡崎京子といえばサブカル漫画業界の重鎮で、彼女の作品を読んでいない者はモグリとさえ称された。
それでも私は彼女の代表作と呼べる『リバーズ・エッジ』を読んだことがなかった。
別に逆張りをしていたわけじゃない。ただなんとなく読む機会がなかったのだ。
最高だった。大傑作だった。批評家の大言壮語だろと思ってたのは違ってた。ぜんぶほんとだった。凄いマンガだった。
確かにこれを読んでないのに漫画を語るのは馬鹿らしく思えるほどに、完成された作品だった。
私はこれまでに『リバーズ・エッジ』を読まなかったことを後悔したほどだ。
陽キャにも陰の部分が含まれている。そんなちゃちな表現じゃなくて、普遍的な、人間としてだれもが共通して抱いている悩みや葛藤なんかを映し出していた。
まさに鏡ような作品だった。
正直登場人物には全然共感できなかった。いや、できていなかったのではなくて否定したかったのかもしれない。
だから読んでいるときは「ふ~ん」なぐらいにしか思わなかった。気がついたら夢中で最後まで読んでいた癖に。
そうして読み終わっても感想は「ふ~ん」で、でもその時視界がぼやけてあれ?って思って、それから少しずつ涙が溢れた。
よく分からないまま感情を揺さぶられ、理由の分からない涙ほど気味が悪い物はない。でももっと気味が悪いのは、それが決して悪い気分でもないことだった。
”ざけんじゃねえよ いいかげんにしろ あたしにも無いけど あんたらにも 逃げ道ないぞ ザマアミロって”
私は泣いていた。ただただ泣き続けていた。
宮崎氏の原作レイプは今に始まったことではないが、風立ちぬだけはちょっと許せなかった
私小説的に自分語りをするために、実在の人物主に二名を都合よく切り貼りしてるのが頂けない
流石に遺族親族が面と向かって文句を言うということは、巨匠に対してできないであろう
しかし、視聴者は実在の人物もこんなだったのではないかと錯覚してしまう可能性が非常に高い
というか、意図的にそれを狙ってさえいる
ヴィランである王によって治められた国が人種も性別も障害の有無も関係なく平和に暮らせる理想郷のように描かれていたときの違和感を思い出した
そこで賞取った作品言えるか?
Disclaimer: 刺さる人に刺さればよいので、「こうすれば良かった」「ここが悪かった」という意図はありません
『トラぺジウム』が連日満員になるには、見終わった人が満足し、リピートしたり口コミでおススメ!と広めたりする必要があった。なぜそうならなかったか。
主人公の欲望が冒頭では謎、なのは構わない。東西南北集めたい、というのは観客を引き付ける謎だろう。
だが、なぜその欲望が生まれたか、源がわからない。 アイドルになりたいという表層の奥に、原始的・普遍的な欲望が存在する必要があった。
”すべての登場人物には、一杯の水でもかまわないので、何かを欲しがらせること。” という格言に含まれているのが、水を欲しがるというの原始的な欲望であることに注意すべき。
オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにしたい、という欲望の奥に、他人を幸せにしたいとか、自己実現したいとか、生き残りたいとか、そういった欲望がなければ観客は共感できない。
主人公は努力をしていない。計算ノートを書いたりテニスをやらされたりC言語の勉強してる人と会話できる知識を身に着けたりプールを借りたりダンス練習するのは努力にカウントできない。正確には葛藤・選択をしていない。
文化祭でライブを3人に見せアイドルに興味を持たせることを失敗するのも、ボランティアでグループが分かれてしまうのも、メンバーの恋愛バレも、失敗は天災のようにやってくる。(成功も青空のように自然現象のように迎えにくる。)
南の高校にダサい制服で入ったら死ぬ、テニスをやらされたら死ぬ、プールを借りられなかったら信用を失う、高専の萌え袖に付け焼刃の知識がばれたら仲間に入ってもらえない、アイドルになれなかったら〇〇しなくてはいけないとタイムリミット付きで母親に迫られる、メガネ男子に協力と引き換えに何か犠牲を払わなくてはならない…
そういった成功するかしないかわからない場所に立たされないし、選択もしない。観客が応援するポイント、ハラハラするポイントがないのだ。失敗は選択の結果であるべきだ。
そして成功したと思ったらさらに悪い事態に結び付くエスカレーションが望ましい。
1-C:悪人だった
東も完全な悪人ではなく、最後の方の回想で「小学生のころいじめられっ子を助けた」という観客には開示されていなかった過去が明らかになる。これをもっと前倒しし拡張する。
例えば、最初のガラガラのローカル線で(そこそこ露悪的な要素も入れつつも)困っているおばあさんを助けるシーンを入れておけば、いじめられっ子を助けたシーンも生きてくるだろう。
主人公が悪人の作品でもヒット作はある。主人公よりもっと悪い人物を出すという手段もある。芸能事務所とかテレビ局の大人にその役割をあてるとか。
仮説2:主人公が成長しなかった
誤った欲望が潰えて、正しい欲望に気づくというのが王道シナリオであろう
アイドルになりたかったのは子供のころ見たアイドルAさんが素晴らしかった>私もあんなアイドルになりたい>東西南北(仮)を踏み台にしてなるアイドルはAさんとは程遠いものだと気づく>間違いだった>初心に帰る とか
仮説3:
ハッピーエンドではなかった
その目を盗むように富野由悠季とかが大胆な表現をすることが出来たんだよ。
それが今になって評価されているのに、
https://www.cmoa.jp/title/128473/
当時の風俗(本義)が懐かしい
みんなピッチと子機使ってるよ
ギャルファッションが描きたい、が先行してあったのかなーなんて思いながら読んだ。小物とかも色々懐かしかった。
この時代の少女漫画は清楚系のビジュアルのアイコンとして広末涼子っぽい黒髪ボブがよく出てくる気がする。大体悪役で。脅威として捉えられていたのか?
主人公は内面的には健気で勇気もありいい子って個性は薄いけどまあそれだけで好感としては十分かな。でもヒロインよりもヒーローよりもさえのキャラ力でだいぶ引っ張ってる作品だな。ぬ〜べ〜の美樹くらいイキイキしてる。今ならフレネミーとか人格障害を全面に打ち出してサイコホラーっぽく描かれそうなキャラだけど、拍子抜けなほど軽いノリで進む。
90年台は小室哲哉と華原朋美、keiko、松浦とあゆ等、プロデューサーとの師弟愛カップルが多かった。
歌謡曲の成長期にも似たようなことがあって、ジャンルが成熟してくると、商品や作品を作る“マニュアル”ができて来るのに対して、成長期は一個人の力が非常に大きいから、個人と個人の結びつきでものを作っていくことが多かった。
バラエティだとイモトアヤコとディレクター、ギャル曽根とディレクター、キンタローとディレクター、鈴木おさむと井森美幸
演劇だと
13歳年下の大澄賢也と結婚した小柳ルミ子も忘れてはいけない師弟カップルで、ほぼ無名のダンサーだった大澄に光を当て、ダンサーとしてだけではなく、芸能界で活躍できるタレントにまで押し上げた小柳の功績は、まさしく名伯楽と呼ぶにふさわしい。
13歳という年の差以上に、10代から活躍している小柳ルミコは結婚時、すでに芸歴約20年のベテラン。対して、大澄とは芸歴0年に等しい。キャリアの差で考えると、親子ぐらいの差がある
キャリアに開きがあるからこそ師弟として成立しやすく、関係性も安定する。しかし、弟子が成長してしまうと、その関係は崩れてしまう。
結婚直後は、夫婦ともにテレビ出演やステージを行うなど、年の差おしどり夫婦として立ち振る舞っていたが、'00年に離婚。11年の結婚生活だった。
大澄自身が告白しているが、小柳から「離婚の条件として高額の慰謝料を支払うか、それができないなら結婚以前の無名のバックダンサーに戻るか」の二者択一を迫られたそうだ。結局、大澄は1億円ともいわれる慰謝料を支払う。
小柳ルミ子からすれば“誰のおかげでここまで稼げるようになったと思っているんだ”という思いがあったんだろう。そうじゃなければこんな二択を迫らない。彼女にとっては、破門に近い要求だったんだろう。
どれも弱くない?やっぱその辺描写不足だなって考えが補強された
最初の発言の"努力"が「歌やダンスの努力」じゃなく「アイドルとして成り上がる努力」つまりメンバー集めなど明確に描写されてた努力だと思う方が自然だと思うし
口パク時の「練習すればいいじゃん」も自分が努力したからという裏付けが無い、自分の受けた印象としては昔受けてたオーディションの時の経験分で差がついてるだけで、その努力を継続出来てるとは思えなかった
この辺やっぱ「好意的に見れば努力してるかもしれないね」程度にしか思えないな
ダンスシーンについては初日の運動神経差、特にくるみがダメな事を描写してるのが主でこれもやっぱり努力には見えない
ユニゾンで低い方に合わせたから差が出ないっていうのは好意的過ぎると思う
それこそ乃木坂のユニゾンダンスでも実力差は伝わって来るから、そうだとしても描写不足に思える。
歌については声優の実力があるから無理な事情も分かるんだけど、作品として言ってしまうと差を出せてなかったよね
言いたい事は分かるんだけど、全体として描写不足の箇所を好意的に受け取るかそうじゃないかの差に見える
それはブコメでも言われてた通りだと思う
whiteskunk トラペジウム、「描かれない部分」を欠如(描写不足)と見なすかで評価は変わると思ってる。「東ゆうが他の三人に対して友情を抱いてた」とか(私はあった派だが、描いてないなら存在しない派もあり得る)
iheettkun 内面描写や話の筋、それに伴った描写が丁寧な映画とは絶対に言えない。それ故に発信を好き勝手に解釈するドルオタ思考との親和性でバズっているわけだが、そういう層の期待に応えているとも言える。その典型的な例。
フロッピーディスク問題が散々言われてきたのに一切更新しないんだ。
適当に「メモリーディスク」とか名前をふんわりさせておけば「ぶっちゃけもうディスクでもなんでもないけど、長年記憶媒体はディスク系だったからこんな名前になったらしいですよ。当時のメーカーが商業的な都合を実態より優先させた結果ッス」で終わるのにね。
ほんま浅いわ。
異世界でジャガイモ出てくるのは「たまたま同じような品種が存在した」で終わるけど、科学技術が大幅に発達し流通情報量が少なくとも何十倍にも膨れ上がってるはずの22世紀の地球でハードディスクを普通に使ってるのは流石に大嘘すぎるでしょ
トラペジウムがオタクに流行ってるのは一般受けしてないからなんだよなあ。
オタクって「俺の考察凄い!俺だけがこの真実に気づいた!」みたいなの大好きだからさ。
一般受けしてると大物評論家がズカズカ乗り込んでくるし、インタビューとかもしまくってスタッフから答え合わせをガンガン聞き取ってしまうでしょ?
そうすると単にアニメ・ゲーム・漫画をだらだらやってきただけのオタク君の雑で荒い考察なんて無価値になるわけ。
ただ感想を呟くにしても有名レビュワーが次々感想を言ってたらしょーもない雑草オタクの「凄かった(語彙力皆無)」の羅列なんて誰も見に来ないやん?
トラペジウムが今一部で凄い伸びてる最大の理由は、ちょっと掘り進めた考察をしている人の規模が他の作品と比べて圧倒的に少ないからなんだよ。
内容だって関東地方を舞台に架空のアイドル活動をやってるだけだから、一般教養レベルの知識で分析できる範囲。
たとえばこれがウマ娘だったら、登場したちょっとしたキャラの考察に踏み込んだだけで超熟練の競馬オタクが「あの馬はそんなんじゃないんだよ。君みたいな若造は知らないだろうけど、俺の所属してた競馬サークルじゃアイツはマジで伸びるって前々から注目されていたわけ。馬の才能ってのも結局は人間の格闘家と同じでどこまで筋肉をつけられるかなんだけど、そういった筋肉の成長は当時の荒いレース映像しか見れない環境にいる今の子には伝わらないかなあ」みたいな一方的勝利宣言にまみれた意味分かんね―クソリプがビュンビュン飛んできてもおかしくないわけよ。
だけどトラペジウムの場合はそもそもやってることが異常よりのアイドル活動なわけで、これに対してアレコレ言える人の方が少ないからみんなそこまで違いのないレベルで考察をすることになるし、リアルにおけるアイドルがどうなのかと言い出すやつがいても「ゆーてこれは架空のアイドルだし?」でクソリプは論破出来るから、適当考察かましあってキャッキャッしたい今のオタクには都合がいいわけよ。
分かる?
オタクのコンテンツ消費の仕方っていうのは、コンテンツを利用して自分の考察力や消化能力を自慢する行為にこそあるわけよ。
まあこれはオタクに限らず近い所はあるけどね。
山崎パンの皿を何枚集めたかどうかを通じて「自分が如何に普段の食事において好みの味のパンを食べることに固執しているか」みたいなキャラ付けをアッピールしてくるおばちゃんとかおるやろ?
アニメを全部見るとか、ライブに出来るだけ行く、毎シーズンかかさずにスキーに行くだの、俺の釣り道具はこんなにコスパがいいんじゃだの、ちょっとオタッキーな方向に傾いた途端に皆して消費活動を通じて自己顕示欲を満たそうとしてるような行動に出るやん?
つーかな、そういう消費活動を通した自己実現みたいなのがある時期から日本人のトレンドになって、電通に煽られるままに皆テレビと雑誌の奴隷みたいになってたわけよ。
オタクってのも結局はそういった分類の中における分派の一つでしかなく、生活を犠牲にしてアニメや漫画に打ち込むというキャラクター性によって自分が『イカした』奴だとアピールして身内で褒めあってるだけの奴らなわけだな。
そんな連中の中で流行るものってのは、つまる所は「それを消費することによって自分をどこまで着飾れるか」で判断されるわけだよ。
トラペジウムを見て感想を書けば、考察力の高いオタク集団の一員として格好が付けられる。
でもぼっち・ざ・ろっく!で同じことを下手にしたら往年のバンドマンから「いや君ね、浅い知識で雑なこと言いすぎじゃない?虹夏タソハアハァだけ言ってればいいんだよお前程度の雑魚は」って怒られちゃう。
でもトラペジウムなら安心。
だから、オタクはトラペジウムを見て、意味分からん考察を書きなぐりたがる。
分かった?
ダンジョン飯は女受けしかできなかったのでフリーレンになれなかった
作者はファンタジーRPGが好きなのだろう、随所にゲーム仕込みのファンタジーへの造詣の深さは感じられたが
それでは覆いきれないほどの強烈なフェミポリコレ思想が前面に出され、好きな声優がメインキャラだから耐えたがかなりキツイ作品だった
Twitterで絶賛しているのもマジのガチでフェミしかいない
フリーレンは美しき者たちの恋を描いているのがキャッチーだが、ダンジョン飯は不自然なほどに恋愛描写がなく、キャラもブスが多い
母斑というのかな、顔に大きなシミのあるキャラとか、濃いそばかすが大量にあるキャラとか、そういうのを押し付けがましく「美形だけでなくこういうのも出せちゃいます」と立て続けに出してくるのがげんなりした
太短い体のドワーフ女もやたら出てくるし
ああ、多様性信奉者なんだなって
ファンタジー世界の生活感を描けるのに性欲から完全に逃げているのが無職転生にも勝てなかった原因
全く動じることもなく男女が入り混じって雑魚寝したり、ヒロインが下がパンツだけの状態で走り回っても反応皆無
去勢された男しかいないためところどころ急にリアリティが消失する
作者はふかふかダンジョンを読んでほしい
例のコロンブスのやつ。
こんな思い出話をすると年がバレるってやつだが。
コロンブスの評価がかつての“新大陸を発見した冒険家”から大きく変わっているという話は、コロンブスのアメリカ到達から500周年、つまり1992年の頃には、わりとメディアでもそれなりに論じられていたように記憶する。
で、この年、リドリー・スコットが満を持して監督した大作『1492 コロンブス』が公開されているのである。
リドリー・スコットといえば、あの『ブレード・ランナー』や『エイリアン』をはじめ『グラディエーター』や『ハンニバル』などヒット作も多い大監督だ。
松田優作の遺作となった『ブラック・レイン』なんて作品もあるし、個人的には『ブラックホーク・ダウン』なんかも忘れがたい映画だ。
だが、『1492 コロンブス』という作品を覚えている人はあまりおるまい。
“長いうえに、つまんなかった”という記憶だけは、ハッキリしてるのだが。
断片的な記憶を無理やり掘り起こしてみると、たしか、コロンブスはかなり山師みたいにも見える男で、ようやくスペイン女王から援助を得て航海に出てついにアメリカに到達!というところまでは早々に話がすすんで、その後の植民地建設とかのゴタゴタとそれに翻弄されるコロンブスの苦悩とか没落とかが描かれてた…と思う。
多分。
ネットにもあんまり情報ないのだが、断片的にでてくるのはこんな感じである。
これはさっき検索して再認識したことだが、スペイン女王役は、あの『エイリアン』のシガニー・ウィーバーだった。
邦題は『1492 コロンブス』となっているが、原題が『1492: Conquest of Paradise 』ってあたりにも、まあ創り手の意図はうかがえる。
何故かよく覚えているのは、スペインにタバコを持ち帰ったコロンブスが宴会みたいな席で、“新大陸にはこんな嗜好品があるんだせ!”なんて吹かしてみせ、周りの女性にも吸わせるのだが、当然ながら始めてタバコ吸った人は盛大にむせてしまう、というシーン…なのだが、もしかしたらこれも記憶違いかもしれない。
もし配信あったら見直してみようかな?と思ったが、主だった配信サービスどこもやってないようだ。
実はこの年、この映画に先駆けて『ブレードランナー ディレクターズカット版』が公開されていた。
なんとなく“ブレードランナーはスゴイ!”と聞いていた自分は、初めて映画館で観て、大層な衝撃を受けたのである。
当時、映画館は“入れ替え制”と銘打っていても、毎回全員を一旦退席させるだけで今のシネコンのように座席指定制ではなかったのをいいことに、上映後一旦トイレにこもって、次の回に入ってくる客に紛れ込んでもう一回見てしまったくらいだ。
で、そんな映画をつくった監督が、アメリカ大陸到達500周年を記念して放つ超大作!というから期待したのである。
もしあの映画がアカデミー賞◯部門制覇!とかなってたら、もうちっとコロンブスに関する世間の知識もあの時点でアップデートされて、中学から音楽ばっかやってたバンド野郎でも“偉人として単純に取り上げちゃヤバイ奴”って知ってたんじゃないのかな?と思うのだ。
リドリー・スコットじゃなくてスピルバーグあたりがもっと分かりやすくコロンブスの負の側面を入れ込んで作ってヒットさせてたら良かったのかもしれない。
ま、あの人も案外コケた作品ないわけじゃないから、題材自体が難しいのかもしれないが。
あえてネトフリあたり、この題材、もう一度挑戦してみたらどうだろうか?
【追記】
ブコメ見て思ったのだが、コロンブス個人はそんな悪人には描かれてなかったかもと思い始めた。
ただ、コロンブスがアメリカ行ったのを発端に南米がぐちゃぐちゃになったという話にはなってたような。原題も“楽園の征服”だし。
ま、おぼろげな記憶であれこれ言っても詮無い話なんだが。
ガキの頃にスターウォーズやマトリックス観た時の「かっけぇ……」って気持ちがある訳でもない。
テーマが琴線に触れる作品もあるけど、それも目から鱗が落ちるような体験というよりは自分が大切にしているものを改めて確認するに留まっているような気がする。
惰性で観てる感がある。
いやどうなんだろう、配信で観てるとすぐスマホポチポチ始めちゃうし。
この間映画館でゴジラ観た時は中々かっこいいじゃんと思ったけど、それもなんかプリミティブな感性が揺さぶられる感じではない。
映画館のフカフカの椅子とデカいスクリーンと迫力ある音響で怪獣映画の代表格シリーズを観る贅沢、的な楽しみ方をしている。
それこそ、例えば純粋にデザインが好きなだけじゃなく「あのブランドの服を着ている自分」だとか「あの有名人と同じ服を着ている自分」という体験も込みで喜びを感じてるような。
言及している増田が消えるということで話題になっている北村紗衣さんであるが、過去草津町の冤罪事件について言及したポストについては、明確に黒岩町長に対して謝罪していると言えるだろう。
これはフィクションを現実に当てはめたことへの謝罪であって黒岩町長への謝罪ではないと言う声もあるが、
https://x.com/Cristoforou/status/1593099059908464640
このポストでは明確に「町長の名誉を傷つけた」と認識しているのでその非難は不当だろう。
ただし、イプセン『民衆の敵』で悪として描かれているのは、劇中で不正を隠蔽しようとした市長個人だけではない。
それは他ならぬ北村紗衣さんによる『民衆の敵』の批評を見ればよく分かるだろう。
https://saebou.hatenablog.com/entry/2018/12/17/004054
正しいことしか言わないトマスが、地元の観光客を減らしたくない市長と誠実な報道を行わないマスコミ、それに同調する人々の群集心理により民衆の敵認定される話は非常に恐ろしいし、これは明らかに民主的に見える社会の腐敗と堕落を批判する作品だ。
このように、市長だけではなく市民の群集心理や社会の腐敗と堕落を批判するものとして捉えられている。
つまり、『民衆の敵』で批判的に描かれた構図を現実の草津町に当てはめるのは、町民は群集心理で(完全な嘘吐きであった)新井祥子を糾弾しているものたちで、「腐敗と堕落」が草津町全体にある、と論評する事になりうる。
前述の通り北村紗衣さんは草津町長に対しては謝罪したが、草津町民および草津町全体については、一体今どのように思っているんでしょうかね?
https://www.bengo4.com/c_1009/n_17638/
そういう町長を選んだ町民が悪いという話になった。草津町そのものがレイプされる町みたいに言われるのはしのびがたい話でした。やっぱり草津町が馬鹿にされたり家族がつらい思いをしたりするのは嫌じゃないですか。