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はてなキーワード: 一面的とは

2021-04-08

いい意味ダブスタネトウヨっているよな

人種差別はするけど障害者差別は許さんとか

女性差別するけど労働問題に熱心とか

ほぼ反リベラルだけど一面的リベラルみたいな。

たまにネトウヨ同士で喧嘩してて、怪獣同士で戦ってるみたいな面白さがある

2021-03-25

anond:20210325202226

元増田です。真面目に読んでくれてありがとう

自分スタンスを明示していなかったけど、各論としては選択夫婦別姓に反対はしてない。細かい制度設計で気になる点はあるけど。

元増田文意は、「リベラルってこれでいいの?」という疑問にあって、個別制度自体の是非についてはあまり議論モチベはない。

文化伝統』を守りたいというのは個人自由だし、そこはマイノリティであろうがマジョリティだろうが尊重するつもりだよ。ただそれは、あくま他者自由を阻害しない範囲でやってもらいたい。

文化伝統を守る自由』ってのは本当に『別々の姓を名乗る自由』の侵害無しには成り立たないのか? 選択夫婦別姓制度が(極端な例だが、"人を殺す自由"を認めた場合の様に)社会に著しい害をもたらすというなら否定するのもわかるし、考えるべきだと思う。だが少なくとも『損なう可能性』や具体的でない『デメリット』のみでは納得感が薄い様に思える。

理解を示して妥協点を探るべき』という考え方には個人的には共感するし、リベラルが先鋭化しているというのは多分そうなんだろうけどな。

ただ、『選択夫婦別姓』という考えを『バッサリシャットアウト』しているのは『文化伝統』を重んじる層ではないのか? この辺卵が先か鶏が先かの水掛け論になりそうではあるが…。

というか保守派は『文化伝統』に基づけば他者自由侵害することもやむ無しと考えているのか? だとすればそれは先に挙がった『リベラルの基本理念』と根本的な部分で相容れない様に俺には思える。『他者自由を阻害しない範囲』を越えた『自由』だからだ。



別姓制度を単体でみたときに、メリデメ合理的に考えればそうなる、という点で同意

ただ、「文化伝統の維持」という主張に対する反論としては、議論のずれというか噛み合わなさを感じる。

そもそも保守思想というのは、人の考えうる「合理性」などたかが知れている、というスタンスであり、それゆえに伝統現状維持)を志向するんだと思ってる。

かに各論でみれば選択夫婦別姓に反対する理由はないんだけど、そういった部分最適を積み重ねた結果、本当にみんなが幸せ未来自由侵害が最小化された世界)が来るのか、あるいはなんらかの予測しえなかった機序が働いて、もっと深刻な差別が発生するかもしれない、という懐疑論なのね。

そうすると、懐疑だけじゃなくて根拠データで示せよ、お気持ちじゃねーかよ、ってリベラルは主張するわけだけど、保守からすれば、そもそも人間データ化して認知予測できる世界なんてまだまだ不十分だ、というのが基本スタンスなわけ。

実際に現代科学でも株価も天気も予想できないじゃん。なら歴史に学んだ方が「合理的」だ、と。

なんで、「自由侵害」を各論レベルしか考えない反論、というのは、保守的な問題意識とは噛み合わんなーと思うわけです。「文化伝統」というのは総論から

まあ保守側も「伝統を損なう」みたいなふわっとしたことうから、なかなかまともな議論にならんのですけどね。これは現状維持バイアスこそが保守みたいなとこあるんでしゃーない。

でもそこで、「保守を”ただの不合理なお気持ちバカ”とみなすような言説」がリベラル(?)に目立つんで、それはちょっと相手を見くびりすぎだし、多様性相互理解標榜するリベラルとしてどうなん?ということが言いたかったのでした。

君の言い分をまとめれば、「リベラルは『他者自由を阻害しない範囲思想信条自由尊重されるべし』という理念を守ってないんじゃね?だって保守派の主張を全面的に不合理なものとしてバッサリ斬り捨ててるし。理念に基づいて妥協点を探るべきだろ」となる。(合ってるよね?)

しかしそこに齟齬があった。

実際には保守派理念は『他者自由を阻害しない範囲』を越えて自由振る舞うことをよしとするものだった。当然リベラルにとってそれは自らの理念に外れるから、受け入れられない。理念に外れるもの尊重する必要はない。となり、過激な叩きが横行するんだろう。俺の想像だが。

だとすれば(叩きの是非はともかく)リベラルは自らの理念にどこまでも忠実である。とすら言えそう。

という結論にひとまず到ったんだけど、どう思う?



うーん。まあ前段はそうなんですが、私は保守派理念をそこまで悪意的なもの解釈していません。はてな左派言論において、保守思想に対する悪意的解釈が多くみられるように感じているので、それを指摘したい、というのが私の意図ではありました。

保守の言いたいこと汲み切れてないんじゃない?保守の主張が「一面的他者自由を損ねることをよしとする言説」に読めるのは、読解が足りないかバイアスかかってるんちゃう?ってことをリベラルに言いたい。

2021-03-22

やっぱ庵野って昔からオタク現実を見ろとは言ってなくね?

現実で生きれてないオタク勝手庵野自己投影しててちょっと自分と違う世界をもってる庵野を見せつけられて裏切られたって勘違いしてそういう解釈安心してるだけじゃないか

そんでその解釈庵野発言エヴァの画面から無理くり読み取ってなんとかそういう作品だという説をまとめ上げてるだけに見える

実際の庵野発言とかエヴァの画面からはそんな一面的なことで納められるようなことは言ってないし表現されてないよな

なんかこういうオタクたちはZUN結婚してたとき発狂してた人たちとイメージが被って心がザワザワする

2021-03-06

シグロ氏の発言について、ある左翼かつリベラルから見た感想(続き)

前半はこちら↓

https://anond.hatelabo.jp/20210306213555

結局のところ、このイシグロ氏のインタビューの浅さ、つまらなさは、インテリ向けの文学芸術業界という自分の属する世界世界全体であるかのように錯覚して語っているところにある。

その上で、あくまでもそういうインテリ業界文学芸術業界への提言、また自戒としてイシグロ氏の発言を読むなら、部分的同意できないこともない。イシグロ氏は「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術必要です」と言う。必要かどうかはわからないが、非リベラルの人が思想感情表現した芸術があってもいいというのはその通りだろう。リベラル原則からしても、非リベラルの人の表現自由制限するのは筋が通らない。ただしその表現批判する自由もあり、表現する以上は批判を受けるリスクは負うべきだというだけだ。

しかしここでもやはりイシグロ氏との現状認識の断絶は感じる。イシグロ氏から見ると世界リベラルが作った芸術ばかりらしいが、少なくとも私は日本に生まれ育って、「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術」の方を圧倒的に多く目にしてきたと思う。そもそもポリティカルコレクトネスなどが日本で多少とも意識され始めたのはごく最近のことであり、それ以前の言論にせよ芸術にせよ、今の視点で見れば差別偏見にあふれているもの普通だ。

たとえばイシグロ氏と同じくノーベル文学賞を受賞した川端康成という作家がいて、日本はいまだに高く評価され、小さな書店にも文庫本の数冊くらいは置いてあるだろう。私も過去にいくつも作品を読んできたが、同時に忘れられない言葉がある。ある時私の母親が言った「若い時に川端康成を読んで、女は芸者しか出てこんのかと思った、芸者にならにゃいけんのかと思った」というものだ。私は芸者という職業否定しないが、ここで問題なのは芸者の側ではなく、女性を極度に美化しつつあくまでも鑑賞される客体として描きがちだった川端康成視線の方である現在の目で見て、こういう川端康成視線女性蔑視的要素を含まないということは難しい。

また私は十代の頃に太宰治を読み、貧しく教育のない芸妓を買い取るようにして妻にした挙げ句、その妻が他の男と寝ていたというので絶望し、何やら自分が裏切られたかのように荒れている主人公(これは作者自身体験に基づく)の思考回路がよくわからないと感じたことがある。しかし当時の私はまだ、そんなものはわからなくていいと突き放すことができなかった。そこであれこれ想像力を駆使しつつ、そういう「苦悩」に何とか共感できないかと努めた記憶がある。ずいぶんと「理解しがたい他者」に耳を傾けようとしたものだ。その後フェミニスト批評に触れたりする中で、共感できなくて当然だったといつしか思うようになったが。『男流文学論』や『妊娠小説』を笑いつつ興奮しつつ読んだ日を思い出す。

私の世代には、そういうフェミニスト批評のように、また女性自身による新しい表現のように、男性作家視点を相対化してくれるだけの「他者の声」が辛うじてあった。その他の多様なマイノリティ視点から作られる芸術も探せばそれなりにあった。しか古典とされるようなものは言うまでもなく、世間で人気のあるもの話題になっているものは多くがリベラルでも何でもなく、機械的に「差別語」を排除したりする他はポリティカルコレクトネスにも多様性にも無配慮なのが普通だった。それにもかかわらず、「逆差別」だの「自虐史観」だのとリベラル側の価値観攻撃する言説は早々と巷にあふれていた。私は左翼だが、小林よしのり作品をいくつか読んだことがある。周りで流行っていたからだ。小林よしのりは「じいちゃんの死は無駄だったというのか」といったまさに感情に訴える手法保守派戦争観を広め、当時の若い世代にかなり影響を与えた。

シグロ氏の周りはどうなのか知らないが(と皮肉を込めて言うが)、日本書店というのはいまだに「嫌韓本」が山積みにされたり、保守論客歴史本がベストセラーになったりしている。イシグロ氏の小説を読むようなインテリ層の一部はそれに眉をひそめるかもしれないが、現実として、日本にはずっと「リベラル以外の人」の表現があふれ、どこにでもいる「リベラル以外の人」がそれをのびのびと享受している。「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許である社会などいったいどこにあるのだろうか。私は見た覚えがない。

小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラル進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。」そう思うのかもしれない。「私は人生の大半を進歩自由主義的な考えのもとで心地よく過ごしてきた」と言えてしまうような人は。この言葉移民であり民族的マイノリティであるシグロ氏の口から語られることは、イギリス社会成熟を示すものでもあるだろう。

しかあいにく、私の住んでいる世界はイシグロ氏の世界とは違う。イシグロ氏の世界にしても、単にイシグロ氏に見えていないだけで、リベラル価値観の過剰ではなくその不足に苦しんでいる人がまだたくさんいるだろうと私は思う。私はリベラルとして非リベラル発言権を奪えとは言わないし、またその声に耳を傾ける人がいてもいいと思うが、私が日本社会でより多く耳を傾けたい声は、やはり非リベラル社会が長らく抑圧してきた、今も抑圧している声の方である

ところで、私は川端康成太宰治作品差別的な要素があると言ったが、かれらの本を絶版しろとも、教材に入れるなとも、子どもに読ませるなとも思わない。差別的要素があるからといって作品全体が否定されるべきだとも思わない。私は川端康成文章の美しさも、太宰治小説面白さも理解することができる。それに価値がないとは言わない。

キャンセルカルチャー」という言葉が指す状況を私は詳しく知っているわけではないが、作者がある場面で「政治的に正しくない」言動をしたからといってその作品全否定したり、市場から完全に追放したりすることは私は支持しない。差別思想公的な表明は批判されるべきだが、芸術表現を直接的に規制したり、作品を抹消したりすることは慎重であるべきだと思っている。

この点はおそらくイシグロ氏の考えと私の考えは近いだろう。芸術総体として愛するならば、自分の嫌いな作品理解しがたい作品が生まれてくる可能性も含めて愛さなければならない。私は現在視点川端康成太宰治表現の一部に批判をもっているが、その批判を表明する方法作品を焼いたり隠したりすることでは決してなく、批評や新たな作品で相対化していくこと、注釈を書き加えていくことだと思っている。

ただし同時に、かれらの作品にも行動にも現在から見て許しがたい要素があること、それは当時には自覚も変更も難しかたかもしれないが、今後の社会に引き継ぐべきではないこと、そこを否認するつもりもない。作品は消さないが、今後も読まれ続けるのなら、そういう観点から批判作品自体と同じくらいに読まれ、語られるべきだと思う。もし川端康成教室で読むのであれば、教師にはその美しさだけでなく、その女性の描き方が一方的であったり一面的であったりすること、フェミニズムを通過した視点でどう見えるかというようなことにも学生の注意を促してほしいと思う。これが過剰な要求であるとは私は思わない。

最後に、イシグロ氏が述べている「感情」というものについて少し違う角度から見ておきたい。最初に書いたように、私は政策決定などにおいて事実科学的根拠より感情が優先されるような事態は望まない。この点ではイシグロ氏に同意する。

しか人間感情というもの社会のあらゆる場面で抑えられるべきとも、それが可能とも思えない。イシグロ氏の主張を大きくまとめると、現在世界(実際はイシグロ氏の属するインテリ業界)はリベラル側の感情を優先しすぎるものになっているので、感情優先を抑えると同時に非リベラルももっと発言の場を与えるべきだ、と読める。私はこれには同意できない。

まず現状認識が違い、芸術世界リベラルに席巻されているようには到底見えない、というのが上に書いたことだが、それとはまた別に文学芸術世界でまで政策議論場合のように感情排除する必要はないだろうと思う。イシグロ氏は小説家として、感情を重視する文学トランプ支持のような不合理に加担した可能性を反省しているのかもしれない。しかし思うに、それはそれで文学の買いかぶりというものだ。感情に訴え、感情を揺さぶもの文学芸術の他にもいくらでもある。むしろ現実生活が多様な感情を強く喚起するからこそ、それを芸術表現し直すことが対象化や客観視の手段になりうるのだ。そして文学芸術は、合理性を追求する世界からこぼれ落ちる感情思想避難所としての役割をもっている。人間が完全に「合理的」な存在に変化しない限り、この役割がなくなることはないだろう。科学エビデンスに基づいてワクチン政策を決めるように自分人生を生きられる人はいない。そんなことを個人に求めるべきだとも思わない。

また、イシグロ氏の言う「リベラル」に人種的民族的性的その他の抑圧されてきたマイノリティが含まれるのだとしたら、かれらが時に強い攻撃性をもってその感情、蓄積されてきた恨みや怒りの感情表現することを私は一律に非難したくない。被差別者表現が時に復讐的な攻撃性をもっていたり、「逆差別」と見えるような偏見を含んでいたりすることはある。それ自体はたしかに「良いこと」とは言いがたい。しかしこれもまた現状認識問題になるが、今の社会マイノリティマジョリティ攻撃するような表現公然と行えば、より危険さらされるのはマイノリティの方である。だから圧倒的多数マイノリティはそんなことをせず、むしろ感情抑制に非常に長けている。

BLMを暴力的だと言って眉をひそめる人を数多く見たが、私が以前から思っているのは、もし黒人たちがその何世代にもわたる奴隷制怨恨復讐としてそのまま投げ返したなら、アメリカ白人社会はすでに何度廃墟になっているかからないということだ。しか現実はそうなっていない。現実マイノリティは、時に攻撃的に見えることがあるとしても、総体として恐ろしく理性的で自制的で、そして寛容なのだ。何一つ復讐も、感情表現することもできずに埋もれていった膨大な被抑圧者の忍耐の上に今の社会は維持されている。多くの被差別者は、深い痛みを抱えながらも、求めるのは復讐ではなく次世代幸せになることだと穏やかに語る。その中から時に感情的な表現が投げかけられたとして、それを感情的だと単純に排除することを私はためらう。

ずいぶんと長くなってしまったが、ふと書く気になったので書いた。まだいくつか書き残している気もするが、土曜も一日つぶれたことだしこのへんで。

2021-03-03

anond:20210303195727

あーわかった。

まり増田は一点突破仕事に全部捧げるのが「男の強さ」だと思ってるわけだ。

俺はそれは強さでもあるけど弱さでもあると思っている。

なぜかというと環境が変わったとき対応できないからね。

それが一面的な強さと多面的な強さというやつだ。

清原を見てみろよ。

野球一点突破で強い男の象徴のような人だったけど、それは弱さでもあった。

人間老いるし時代も変わる。これは単なる事実しかない。

弱さを認められるという強さもあるんだ。

悩みがあるときにすぐに知り合いに愚痴ったりカウンセリングにかかっている人は弱そうに見えるけど、すぐに相談できる人は自殺するまで鬱を悪化させにくい。

それは生きのこるという面では強さだ。

大変な仕事に取りかかって文句も言わずやり抜こうとする真面目なやつは強いやつだが、鬱にはなりやすい。

これは生き残るという面では弱さだ。

増田立場がよく分からないんだけど、

なにかを成し遂げるとか、資産を築くとか人生に抱く幻想はいろいろあるけど、なにをおいても生き残ることが重要だというのが俺の立場だよ。

anond:20210303185552

強者男性っていうのも一面的見方だと思うんだよね。

最近も、世間的には成功している男性自殺ドラッグ中毒が報じられてるじゃん。

強者男性こそ、何かの弾みで失敗したときに脆いと思わない?

当たり前だよね、一番勝ち続けるプレッシャーさらされてるのが強者男性なんだから

強いは弱い、弱いはつよい。

れいは汚ない、汚ないはきれい。なんだよな。

しらんけど。

2021-02-22

ウォッシュレット・温水洗浄便座の危険性指摘記事への疑念

 YAHOO現代ビジネスから記事を、つい先ほど読んだ。思い返すと一年ぐらい前からだろうか、ネットで温水洗浄便座での洗い過ぎに注意という文言を見かけるようになったが、先の現代ビジネス記事はより強く危険性を指摘するものだった。

 温水洗浄便座は登場から四十年近く経つもので、私も三十年以上使用している。そしてその間に、私はなんの支障もなく過ごしてきた。洗浄してもらう場所に不調を覚えたこともない。

 同じく四十年間、昨今のような危険性を言う声をほとんど聞いたことがない。販売初期から普及期にかけて、最近に指摘されるような事が報じられた記憶もない。十年経っても、二十年経っても、周囲の人から噂話にも、そんなことがあったと聞いたことも無い。

 つまりこの四十年間の実績は、普通に使用する分には、何ら心配必要がないものである

 なぜ今になって、突然に、唐突に、危険ものと言われるようになったのだろうか。

 私はもうテレビ新聞といった大手メディアがまともではないと思っている。物事への知識理解がなく、もの評価一面的で、人への批判定型である商品評価は、販売元の意向に沿っているか販売向上の手助けに終始している。

 そして洗浄便座の不都合を言い、危険を指摘するのは、単なる消費者への啓蒙的な注意喚起ではないであろう。一年以上かけて繰り返し、度を増していくのを思うと、ますますそう思うのである

 大きく言えば、これは産業破壊である。少し古い例だが、同じことが「割り箸」で行われたことがある。割り箸のために森林破壊されているという大袈裟な嘘が、マスメディアで大々的に流されて、間伐材需要がなくなった日本林業から国内工場までが大打撃を受け、現在中国などの外国製にとって変わられた。

 大人しく穏やかに言えば、用い方や手入れやで普通でないことをし、特別な体質への考慮をせずに起きる事態を、一般的に生じる危険性のごとく記すような記事が、また一つ、マスメディアのどうしようもない劣化事実を積み重ねたと言うべきだろう。

2021-02-21

anond:20210220231839

ネット愚痴とかじゃなくて実社会に影響のある形で)ジェンダーギャップみたいな社会問題について叫んでいる人達って総じて意識高い系の人たちだからね。

社会問題という枠組みで語られる幸福価値基準はそういう人達基準に偏っている。

から「みんながみんな出世したいはず」みたいな一面的価値観でばかり差別が語られてしまっている。

2021-01-16

anond:20210116011436

そんな一面的ものでもないし分かるやつは投資金持ちになってるやろ

共和党への大企業献金取り止めは効いてるとは思う

アメリカが実質一党独裁になった以上支持しない人もそりゃいるやろ

2021-01-10

anond:20210110191542

>信頼できるソースでなければ話半分未満で聞くようにしている。

これは非常に重要だと思うけど出来る人はとても少ない。というか出来る人はネット意見を言わない。

一面的情報振り回して騒ぎ立てる人の相手なんかしたくないから。

その種を撒くワイドショーSNSは本当に有害

2020-12-28

自分より詳しい奴がいる」ことへの恐怖

ネット意見を発信するときに怖いのは何だろうか。クソリプ炎上個人情報特定、色々懸念すべき点はあるだろう。

でも一番怖いのは「自分より詳しい奴がいる」ことではないかと思う。

自分より詳しい奴から反論に、自信を持って自説を貫ける人は少ない。

例えるなら、ゼミ教授ゼミ生の論文研究発表に立ち会っているようなものだ。自分より知識経験も上の人間が、「私はこんなこと発見しましたよ!」という青二才プレゼンに常に目を光らせている。プレゼンが終われば詳しい奴による質疑応答時間であり、考えもしなかった多角的視点からロジックの穴を突いてくる。

もちろん、自身経験談を語る程度であれば何も問題ない。身に起こった出来事当事者感性から描いたエッセイは、第三者には得難い貴重なエッセンスが含まれており、自分世界で一番詳しい情報になるからだ。

しかし、経験談以外の「主張」に対してはそうはいかない。主張には多かれ少なかれ反論が来る。その主張が中道ではなく擁護批判の側に寄っていればいるほど、反論の数は多くなり論説も激しいものになる。

誰かを批判するとき批判される覚悟を持て」というが、こっちは一人で相手無限

どう考えてもフェアな殴り合いではないだろう。

そんなこんなで、自分より詳しい奴は数人から数万人までたくさん存在している。

こんな世界自分意見を表明するというのは、実はとても勇気のいる行為ではないだろうか。

常に「自分が言っていることは正しく、反論に耐えうるものなのか?」という疑念に苛まれ事実関係に間違いはないか自分の論拠と相対するデータが出てこないか、細心の注意を払って文を書いていくことになる。そうして苦心しながら書き上げた主張を詳しい奴らが一刀両断するのだ。

「君の言ってることは一面的見方にすぎないよね?」と。

そしてタチが悪いことに、ネット上では自分意見簡単に見られ、識者も気軽に集まれしまう。

ゼミ内発表」という閉じた空間での出来事ならまだ優しい。教授ゼミ生の発表にも、「よく調べてあるね」という寛大な言葉を投げかける(もちろん教授によるが)。その言葉の前には「学生にしては」という枕詞が隠れているが、決しておくびに出すことはない。

ところがネットはそうは行かない。発信者が青臭い学生かいい年したおっさんだかなんて関係なしで、間違えば容赦ないツッコみが来るし、内容次第では炎上する。しかゼミのような内輪の場ではなく完全なるオープンの場である

自分卒論一億人に見られると言われたらどう感じるだろうか。私は最悪の気分になる。主張は的を得ておらず、構成はちぐはぐで論拠はずさん。内容は知識の薄い素人データを継ぎはぎした妄想の延長線上であり、はっきり言って人目に耐えられるものではない。

ネットには語る人間がたくさんいる。twitternote増田といった匿名SNSがある。

匿名者だけではなく、落合陽一、オリラジ中田会社看板を背負ってnewspicksコメントする人間など、専門外が顔出し名出しして、これから世界」について自信満々に語っている。

自分より詳しい奴がいる」という事実に対して、ふと怖く感じるときはないのだろうか。

anond:20201226231316

畜産制限したとして、畜産従事している人々の雇用はどうなるのか? 補償を行う場合その財源はどの様に確保するのか?

畜産によって齎される物は食肉だけでなく、皮や毛など現代社会においても未だ重要資源供給源でもある。これらの代替可能なのか?

批判対象になりがちな牛の飼育だが、牛糞は主要な肥料の原料の一つであり一部の地域では燃料としても利用されている。それらの代替可能なのか?

素人考えでも3つくらいは疑問点が出てきます

また代用肉の原料として挙げられる大豆連作障害を引き起こす作物です。

連作障害対策には大量の肥料必要であり、少なくとも現状においては畜産によって得られる動物の糞は大豆生産にも不可欠です。

おそらく現在畜産従事している方、畜産を専門に研究している方などは、もっと具体的かつ鋭い(或いは切実な)疑問が浮かぶ事でしょう。

この様な疑問をただ愚かさ故と切り捨て、一面的科学事実を突きつけるだけでは問題解決しません。

畜産古代から続く主要な産業の一つであり、単なる産業という枠を超え文化面でも大きな影響力を持っています

人類社会の様々な要素を歯車に例えるならば、畜産はとても大きな歯車です。

その大きな歯車を取り除く、或いは小さな歯車に変えようとする事は人類史に残るであろう大事業です。

多くの人の知恵を集め、多大な労力を払わなければ達成できないでしょう。

そうである以上、より多くの人と議論を重ね価値観を共有していく事が必要だと私は思います

2020-12-17

ブクマカはお前がブコメを残す意義をもっと考えた方が良い

やれ首相が会食しただの、やれDHCヘイトスピーチ掲載しただの、叩きやすニュースが転がってる中で、付くブコメ付くブコメ、みんな軒並み同じようなことしか書いてない。(しかも思慮が浅いか一面的に叩く。まぁこれは別問題だけど。)

そうじゃなくて、お前ならではの切り口とか、お前だからこそ見えることについて書くのが、お前がわざわざブコメを残す意味なんじゃないのか?

他のブコメが既に書いてることを焼き直して社会的に無価値文章にしたためる中で、お前の人生はどんどん無意味に削れて死んでいくんだよ

その意味もっとよく考えろ

ネットハゲイナゴども

2020-12-16

anond:20201216163157

それってほんとに富野主義の話か?

富野キャラクター没入型の作品作りをしないから一つの作品に強い女だったり昭和少年だったり多様な人物像が混在して描かれることが多いと思うが

たとえばあるキャラクター男尊女卑発言をして物語内で咎められないというだけで作家の男女観や家族観を判定するといったタイプの間違いを犯しているというわけではないんだよな?

その上で、主人公格のキャラクター一貫性が感じられないという話ならば、富野アニメ時代においてはアニメ主人公として選ばれる年代である思春期少年少女にアンビバレントさが盛り込まれているというのはごく「自然」なことのように思われる

というのは物語志向されていた時代においては、特に富野のような作家がめざしていそうな「現実に即した」少年少女たちというのは、常に変化し続ける生き物として描かれるからで、そこに現代にみられるような少年少女が特定の「キャラ」という固定化した役割を担うことで状況をシミュレーションするタイプの作劇を念頭に置いたキレイで一貫した解釈を当てはめても一面的になりすぎてうまくいかなくなるのが当たり前な気がする

こういう時代物語においては、女に対して苦手意識の表出をするような少年が「キャラ」変のイニシエーションシークエンスを挟まずにいつのまにかだんだん女と仲良くなっているというのはかなり素朴な描写として「自然」で「現実的」なものであり、少年が女嫌いのような言動をとるのはそれがそういった主義や「キャラ」を持っているからではなくて、たまたまある期間そのような過程にあるということが「現実」の少年によくあるという時代了解のもとに表れているものだと思う

逆に女に対して永遠に拒絶的であるというような描写があるとしたらむしろそれはなにがしかの強い主義のもとに描かれていて「不自然な」少年像として提示されていて、それならばのちの時代に「キャラ」として表出するフレームと同じものとして解釈するのはうまくいくかもしれない

富野アニメに出てくる少年少女の人物像がそうした「キャラ」としての造形であるという解釈をするにはかなり強い根拠となる描写検討必要になると思うが、そういうのはあげられるだろうか?

一般登場人物言動が作者の主義の純然たる反映だという解釈はかなり危なっかしいのと、富野主義厭世主義や反出生主である表現から読み取れることと物語登場人物物語においてそれに違反した言動をとることは両立するということがあり、たとえば時代要請する規範がどれだけ描写に影響を与えるかということとかもそうだし、逆に違反してみえ言動が読み取った厭世主義や反出生主義のアンチであるという解釈にもどれくらい正当性があるのか考えるとというあたりに議論必要になる話題だと思う

2020-12-10

anond:20201210114140

中年インセル男っぽい発想

突如として属性決めつけが飛び出す まさにはてなーらしいトラバ

「(認識が古いから)若くないのでは?」

「(女性の実情をわかってないから)女性と付き合ったり家庭を持ったりした経験がないのでは?」

「(女性の実情をわかってないから)男性なのでは?」

という発想なんだろうがちょっと一面的すぎん?

2020-11-25

anond:20201125020528

一面的だよ

効率だけを、というより、名義変更コストの面だけを考えてるからこういう結論になってしま

選択夫婦別姓名義変更コスト削減以外の目的を語るなら有意義だと思う

anond:20201125014335

特に反論はないんだけど

名義変更コストを消す運動」と「選択夫婦別姓」を比較するのがそもそもおかしいと思うんだよね。

効率だけでいうなら「名義変更コストを消す運動」の中に「夫婦同姓に伴う名義変更コストを消す」ことが含まれるわけだからある意味当然なんだけど

選択夫婦別姓効率けが目的じゃないでしょ。効率だけで論じるのは一面的すぎない?

2020-11-09

anond:20201109101923

そうやって一面的表象からすぐに「陰さん」みたいなレッテルイメージを関連づけて分かりやす人物像、人物集団として思い込んじゃう癖、本気でやめたほうがいいぞ

どんどん歪んでいくぞ

2020-11-05

anond:20201105123856

物事に対して一面的見方をして強行するところかな

多面的で複雑な状況や事象に対しても白人おっさん価値観で決めちゃったりする

2020-09-08

アンチ高学歴に思うこと

東大生仕事ができないwww」「一生懸命勉強してきた高学歴NNTワロタwww」と言った、自分より高学歴である人間をなんとしても見下さないと気が済まない人が一定数いる。確かにある一面の能力ではあなたに劣っていることは大いに有り得る。人間だれしも得手不得手はあって当然であろう。何故こんなことを垂れ流すか。僕は地方都市(都市と言っても程度は知れている)に生まれ、「勉強ばかりしててもー」だの「いくら勉強ができるからー」などと言った言葉を山ほど浴びせられながら育ってきた。「いくらサッカーができてもー」などと言った文言は聞かないのに、殊勉強だけはやたらと矢面に立たされる。幼いころから今日今日まで、ずっと不思議で仕方がなかった。「みんなちがってみんないい」を一周回って逆行しちまっているぞ。

このことに対して一つの仮説として最近思ったのが、「この社会ではもしかすると頭を使わないでいられる機会は思った以上に少ないのではないのか」ということである。極端な話だろうが、飲食アルバイトですら効率的仕事をしようと思ったら頭がいい方が様々な状況判断を素早くできるはずだ。どころか、スポーツですら昨今は頭を使って考えろと言われる世界である。これまた極端な物言いだが「バカスポーツはできない」とさえ聞いたことがある。このような頭の良い悪いの指標が、かなり一面的とはいえ、出てしまうのがお勉強なわけだ。ところで、この頭の良い悪いを超越☆人力できてしまカード経験なのだ。「知ってる人は知っている、知らない人は覚えてね」なんてフレーズが昔のCMにあったがまさにその通り。知らないことは知らない、できないのが一般的だろう(ごく稀にいる、経験を頭の良さで超越してしまジョーカーを除いて)。なんて思っていたらちょうど言いたいことを言ってくれたツイート発見した(https://twitter.com/kasuga391/status/1302555478543663104)。

すなわち、最初に述べた高学歴を叩かないといけない人は自分が苦労してきた分、経験値やその他の面で揚げ足を引っ張らないと気が済まない人だと言えるかもしれない。安易に彼ら彼女らにかわいそうという言葉は投げかけないでおこう。唯々、彼ら彼女自身仕事ことなどで勉強せねばならなくなった際に勉強している自分嫌悪感を抱いて消滅しないように願うばかりである

2020-08-28

anond:20200828095742

日本から見ていると温度感は本当に分かりにくいわな。

それこそキング牧師とかが活動していた半世紀前と違って、

表向きはトイレバスが分けられていたりとか、物理的な差別があるわけではない。

しろアファーマティブアクションがあるぶん逆に優遇されてね?とすら一面的には見えてしまうくらい。

なんやかんや言って、社会運動当事者じゃないとうまく伝わらないよななとは思う。

ヴェトナム戦争反戦運動でも、実際に大義のない戦争に送り込まれそうになったアメリカ若者と、

安保で守られていた日本若者では全然当事者意識が違っていたわけで。

2020-08-27

anond:20200827120551

なるほど、一面的に見てしまっていたがそのとおりかもしれん

仮初でも安らぎや承認を得られるのであれば、天国かもしれん

2020-07-28

anond:20200728115931

貴方がどう思おうが、政府の布マスクは役に立ってますよ。

あれが配られ始めてから国民が「仕方ない、布マスクでもいいんだ」と思って自作し始めました。

その結果、不織布マスク医療機関にも不足しなくなりました。マスク転売や品薄も解消されました。物事一面的に見ちゃいけません。

もちろん、国費の投入に見合った効果があったかどうかはなんとも言えませんが。

三浦春馬と同い年だった

三浦春馬と同い年だった、いずれ過去形になってしまうのが悲しい。

彼が亡くなってからふとした瞬間の悲しみがある、会ったことも話したこともない存在なのになぜなのだろう。

多分最初出会いは『14才の母』だ、

とても流行っていたドラマで、家族で見ていた。

あの頃は志田未来がとにかく話題で、「シュッとしたイケメン」くらいにしか思っていなかった。

成人してからは印象が変わった、

CMで歌を披露しているの見て、良い声だな〜と思ったり、ダンス舞台もやっているそうで、何でもできる多才なひとなんだなーと思うようになった。

とはいえもっとも彼を知るきっかけになったのは、NHKの「世界はほしいモノにあふれてる」だ。

MCJUJU三浦春馬で、世界中を飛び回るバイヤーが紹介する雑貨インテリア、食などさまざまなモノを紹介する番組、これが良かった。

彼のことを追っかけたり、ファンとしてドラマ映画を見ていたわけではないので一面的だろうけど、この番組では素のような三浦春馬を見ていた。

そもそもJUJUも素のような感じで、調子の良いことを言ったり三浦春馬をイジったりするのだが、彼は彼で、子供のような純粋な表情をしたり、真面目な顔で何か感じ取ろうとしていたり、表情を見ていて楽しい番組だった。

かいことを言うと番組時間帯が映ってから面白さが半減し、あまり見なくなってたのだけど、それでもJUJU三浦春馬の掛け合いが見たくて見ていたような番組だった。

そんな中であの訃報だった。

出先で速報を見て、信じられず混乱した。

速報からしばらくしてNHKアプリに彼の顔写真トップに来ているのを見て、何だか変な気持ちだった。

出先から帰る電車の中で、なんだか胸が苦しくなってくるのを感じた。

言ってなかったが俺は男で、彼に対して何か特別な思いがあるわけでもない、と思っていた。

けどとにかく悲しくなってきた、友人がいなくなってしまったような、感情を共有してきたひとが消えてしまったような、そんな気持ちだった。

とにかく暗い気持ちになってきて、誰かと話したいと思った。

予期しない喪失感にとにかく面食らっていた。

1人でいると、気が沈む。

妻がいるので、帰宅してきたところを駅まで迎えに行って、ポツリポツリ話し始めた。

他の話題を挟みながら家まで帰り、ニュースを見ながらまた思い出話をしていたら、不意に涙が溢れてきた。

自分でも何故だかわからない、彼のファンでもないし、追いかけていたわけでもない、よく知っているわけでもない。

でも何故かとにかく悲しくなって泣いていた、あとで彼が自宅のクローゼットの中で亡くなっていたと聞いて、余計に悲しくなった。

何故彼は1人で、クローゼットの中なんてところで亡くなってしまったのか、自殺報道の在り方についてガイドライン重要性をはじめて感じた。知りたいけど知らない方がいい情報もあるのだとはじめて実感した。

勢いで書いてしまった、とにかく悲しい気持ちが続いていてこんなことははじめてなので、ここに書き出すことにした。

YouTubeでみた彼の歌が忘れられない、頭の中をグルグル回る。

今日会社ミーティングで、30歳の部下を評するのにこう言った人がいた、

三浦春馬と同じ、悩める30歳です」

少し笑いが起き、同時に「それは不適切ですよ」と嗜める声が上がった。

もつられて笑ってしまった、けど私も30歳だ。

三浦春馬と同じ、30歳だ。

何故か今はそれが悲しい。

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