はてなキーワード: バックボーンとは
面白いな、と思って見てたんだけど、いくつかのブコメが結構危ういなと思ったので、
なぜそう思ったのか、自分の中で整理しておきたい。
kyoumoe
それがどうしたとか言ってる馬鹿は「これは男の性欲を具現化した女性差別の象徴だ!!!!!」みたいなこと言ってるやつを全員黙らせてこいよ。男だからこそ女性差別ができるみたいな考え方の馬鹿は全員死ね。
okbc99
“例えばアメリカの学会誌表紙が黒人や黄色人種の掃除アンドロイドだったらというのを想像してほしい。”これで伝わらない人もいるのか……。
特にこのお二人に思うところはないが、判りやすいポイントだと思ったので。
まず、kyoumoeさんの意見はどちらともとれるので難しいが、
「このイラストレーターがどのような意図で描いたか」を想定して話すのは、酷く危険だと思う。
イラストレーターのバックボーンが明示されていない状況では、話すとしても一般的な仮定を用いて話すべきだ。
つまり「表紙のイラストは発注者の意図に基づいて描くものだし、学会誌の表紙になるイラストは、学会誌の意志決定者が採用の有無を判断する」
こういう仮定を置いた場合、イラストレーターをこの話題の渦中に置くのは、誤っている。
同様に、「人工知能学会に所属している研究者は」と主語を大きくするのも、誤っている。
例えば、この増田を読むのはほとんどが日本人だろうが、「日本をあげての性差別に見える」とされれば異を唱えたくなるだろう。
okbc99さんがどちらの意見かは判らないが、例示に賛同しているようにとれる。
これは、話題が異なるので、同質であると思う場合は、そのポイントを説明する必要がある。
少し判りにくいので、3例を示す。
例えば、1番を批判する意図で3番を例示して「同質だと判らないのは、理解力が足りない」という非難は的外れだろう。
なぜならば、人工知能学会誌には、扇情的なポーズの裸の掃除アンドロイドは描かれていないからだ。
同様に、1番を批判する意図で2番を例示するのであれば、
「日本での箒を持った女性のロボット」と「アメリカでの黒人や黄色人種の掃除アンドロイド」が同じ意味を持つと説明できなければならない。
批判する場合には、暗黙の前提は出来るだけ無くして、同じ前提を共有しなければ、すれ違いになる。
(2番は、暗に「黄禍論や黒人奴隷の歴史を考えれば、政治的な主張以外で米国では表紙になりえない」という前提を置いているのではないか。
後述するが、さらにここには暗に「掃除という作業」が差別的な表現であるという前提をおかなければ成り立たない)
悪意を持たずに解釈した上で、さらに非難/批判する点がある場合には、前提を共有する努力を怠らないこと。
例えば、この人工知能学会誌の表紙は、素直に解釈すれば以下のような意図を示しているだろう。
この場合、本が明らかな作業手順書ではなく、棚に入っている一般的な本(人間の知識)に見えること、
箒を持ちながら読んでいる(作業中に違う行動を取る)ことは、使役される立場から人間と同様に知識を得る、
(もしかすると、好奇心や面白いと思う情動すら)いずれロボットが獲得するであろう、
人工知能学会は、そういったロボットを作り出す基礎研究をしている場なのだ、という自負にも見える。
(個人的に人工知能学会誌の表紙に相応しいイラストだと思っているため、後半はかなり好意的に解釈してしまっているが。だからリストからは外した)
Togetterまとめは攻撃的すぎると思ったため、HUFF POSTの記事から引用する。
saebou @Cristoforou
この表紙むちゃくちゃ気持ち悪い。こういう表紙にするって決めた人たちの中には女性の学会員はいたんだろうか?女性のロボットがつながれてて家事をしてるってヘテロ男性の性幻想丸出しだよね。
http://www.huffingtonpost.jp/2013/12/27/artificial-intelligence_n_4506691.html
「ヘテロ男性の性幻想」に触れる前に、差別の話を振り返っておこう
差別には明確な定義が存在しない為、性差別という単語に、どういった意味があるかは、人によって異なる可能性が大きい。
ここでは「ある集団からの除外行為や拒否行為、ある集団に属させようとする強制行為」を指すとする。
このため、「性差別とは、性別や性的指向によって除外/拒否/強制される行為」とする。
こうすると、例えば「女性は男性より力が弱いことが多いので、力仕事を男性に割り振る」ことは区別であり、
「女性だから力仕事を選べない。男性だから力仕事を拒否できない」ことは性差別であると言える。
(あくまでも上記の定義の範囲内であるから、「性差別」と表現する人の全てが同じ意見と推測するのは危険)
この上で、先ほどのsaebouさんの発言を「批判」と捉えるとすると、いくつかの条件が暗に仮定されている。
なぜならば、人工知能学会誌の表紙は、性別によって除外/拒否/強制が行われているイラストではないからだ。
(もちろん批判ではなく、好悪の表明である可能性もある。「私は嫌いだ」と「この表紙は非難に相当する」は異なる)
この場合、「家事をする」という行為が、性差別的であるという前提条件が必要になる。
これは、先に挙げた「アメリカで、黒人や黄色人種の掃除アンドロイドだったら」という表現とも共通になる。
(個人的には、黄色人種でなくヒスパニック系が例示として適当だと思うし、またアメリカではその意見の表明こそが差別的であるとは思うが、別の話になる)
例えば、「南アフリカ共和国で、この表紙を採用した」場合は、白人への侮蔑的な表現だと過激派から攻撃の対象になる可能性がある。
これは、アパルトヘイトで苛烈な人種差別に晒された歴史から、未だ人種差別意識が根強く、またロボットは奴隷を容易に想像させるからだ。
つまり、差別的な表現とは、表現する場所における背景が重要であるし、それは世界中で同質だと捉えて良いものではない。
すると、以下のような前提条件が必要になる。(全て「日本においては」がついている)
3つの前提を置くと、ケーブルで繋がれた女性ロボットが、掃除を行う行為は、性差別を表現している、と推測する事が出来る。
ただし、先ほどの3つの前提は「掃除という作業に対する、職業差別である」とはすぐには言えない。
差別とは背景情報が重要であると前述したとおり、日本における「家事」の背景情報を知る必要がある。
ここでは大枠で振り返るが、1950年代より女性は低賃金で働くのではなく「家事」と呼ばれる家の作業を行うライフスタイルが推奨されだした。
1970年代に入ると、政策も含めてそれは性差別(性別によってライフスタイルを強制される)と言って良い状況になったと思う。
すなわち、日本において「家事」とは「専業主婦に代表する、性差別の象徴」と捉えられる可能性がありうる。
これは、現代において性差によって賃金格差が無く、ライフスタイルの強制がほぼ行われていなければ、職業差別であるという批判に相当する。
しかし、未だ性差による賃金格差がある現状では、「家事とは、性差別の象徴である」という意見は相応の妥当性がある。
すなわち、「掃除をするいかなる人種、性別を描いたとしても、同様に差別と批判されるのではないか」という意見は、
もちろん、上記の前提条件は、暗黙に仮定して良いものではない。明示する必要がある。
(明示しなければならない現状は教育環境が整っていない、という批判はできるが、前提条件を共有できていない相手に対して非難する事とは異なる)
「他に比べて劣った作業(奴隷的な労働)」と書いたのには理由がある。
例えば、「掃除とは、奴隷的な作業だ」と表明することは、職業差別だ。
業として清掃作業を行う人達は、他人の所有物ではないし、売買の対象にもなっていない。
「賃金格差がある」ではなく、「劣った作業である」と表現するのも、差別的な表現と言える。
これは、「家事を女性が行う仮定は、性差別である」と「家事とは、奴隷的な作業である」が異なるという事でもある。
つまり、「家事とは、社会的に尊敬の対象となるし、賃金的にも恵まれている」と仮定したとしてもなお、
「女性だから、家事を強制されるのは、性差別」と言える、という事だ。
「女性だという、性別によって家事を強制される」ことは、性差別と言えるが、
「(掃除を含む)家事は、劣った労働である」という意見は、職業差別と言える。
「性差別とは、性別や性的指向によって除外/拒否/強制される行為」とした場合、
「ヘテロ男性(より穏やかな言い方であれば異性愛を指向する男性と表現できる)」だから、性幻想を持つ、というのは、性差別である。
なぜならば、異性愛、同性愛、両性愛などの性的指向を持つグループは、こうである、という批判になるからだ。
つまり、「専業主婦に代表される家事の性差別を肯定するのは、ヘテロ男性である」という仮定は、性差別だ。
(なお「それが事実である」という反論は、むしろ、差別を肯定していると言える。現に女性は家事をしているじゃないか、という指摘と同質だからだ)
という表現は、
「ロボットが繋がれて」という表現は「奴隷(強制された労働)」を容易に想像しうるし、
性差別を批判する際に、その表現の中に性差別を含んでいるからと言って批判そのものには影響しないが、好ましい態度では無いと思う。
同様に、攻撃的な表現は避けるべきだと信じる。
「バカは」「愚かならば」「カス」と言った表現は、攻撃的である。
「男性だから」「科学者だから」「理系だから」と言った表現は、差別的である。
上記のような、(長くなってしまったが……)前提条件を置いた上で、なお、批判すべき点があるとすれば、
いずれ家電としてロボットが普及する世界で、ロボットは作業機械という意味合いを越え、知識を自ら学習するだろう、
その基礎を研究するのが人工知能学会だという主張を表紙のイラストに持たせたいのであれば、
日本においては、未だ性差別的な意味合いを取られがちの「家事」を連想させるものに「女性」を置かない方が良かった、となるだろう。
(例えば、背景に男性ロボットが同様に働いている様子を描く等、回避手段はいくつか思いつくだろう)
この件で、日本の理系研究者を非難するのは、主語を大きくしすぎだと思う。
自分が嫌いなイラストだという事と、性差別的なイラストだと非難する事とは、異なる。
また「家事は女性がすべきだと思ってるんだろう、若ければ若いほど良いんだろう」という推測は、邪推と言って良いと思う。
ただし「女性ロボットが掃除を行っている表現は、性差別的な「家事」を連想させ、肯定している態度ではないか」という批判は、成り立つ。
「掃除は、奴隷的な作業である」ならば職業差別だし、「ヘテロ男性だから」というのは性差別である。
差別的な表現や攻撃的な表現を含んだ批判は、攻撃と言って良いと思うし、差別を批判する態度として好ましいとは思えない。
おまえがどれだけ有吉の穴に突っ込みたいかの意気込みは充分に伝わってくるがもうすこし整理してくれ
まず千原ジュニアが多幸感というところから有吉が与えてくれる笑いが多幸感と繋げているようだが
千原ジュニアの例は「自分が笑いを人に与えている例」で有吉の例は有吉が与えている本人として得ている感覚ではなくそれを観た一般人の「笑いを得ている」反応予測だろ?
全然違う事だろ?
次に基本的にあっていることを可笑しくとか言ってるが基本可笑しいこととはありえない事を言ってるわけじゃないだろ
「熊がうしでピンクで道路の井戸が平原に繋がる花火の境界線に」
とか少しも面白くないだろ 今敏なら面白くしてくれるかもしれないレベルだろ
豚が空を飛んだら とか 飛ばないことを前提にしている 知っている あたりまえ あっていること を面白くするためにありえない話をつけている
有吉だって 「それってありえないことじゃないですか」とかいう 仮想のありえない話や それを自分にあてはめたときといったありえない話をつけるだろ
つまりchikirinが ありえる話 をしていて面白いと思っているならそれはあたりまえの風な顔をして言っている事が「ありえないこと」だと感じていて
それをさもありえるようにしていることが多幸感を感じるってことだろ?
トイレットペーパーの代わりに一万円札つかうんだよねー みたいな話は紙であることその価値があることをしっていてなおかつありえないシーンをつくる
それがふつうに言えちゃうって立場を想像する 想像できることをツボにしてるんだろ
未開の土地にすむ民族に一万円札わたしたら紙にされたって話と 根本的に違うだろ 結果が同じでも違う話だろ
自分の書いたことに隙を突かれると致命的だと自覚してコメント封鎖してるような人間の正論は楽しみ方としてそうあるべきだろうけど
反論が存在しないからこれは正論だって導き方はおかしくないか?
おもしろい話をしている人間っていうのは 基本的に話が聞きたいっておもわせる人間の話は「わかっていることを組み合わせて解らない形にしてくれている」事だろ
「あっていることをおもしろく短く言う」と感じるということは 基本的に大手メディアが流している潮流をかいつまんでるだけ その前後に俺はとか奴はとかつけたら論者っぽいってだけだろ
けもの道や道なき道を踏みしめて道にしていったり途中で怪我をしたり命を落としていった先人は「バカなやつだ無茶しやがって」といいのけ自分はその先人がつくった道の真ん中で正論らしきものを唱える
たしかに今ある道がどれだけ安全で安心かって宣伝するにはそれは充分な効果だしいま恩恵を受けているやつはそれに金をはらっても惜しくないと思うだろうよ
思考実験とか データに基づいた予想 とかいうのが面白いって話をする人間がいたとしたら その周りにいる人間の笑いのツボって 宗教に近い意味不明な欲求を持ってるじゃないか?
まわりを良く見てみろ
最後に政治家とか引き合いに出しているが 多人数が意見の集約として代表を選出する比喩だろうけど それはなにか代表や自分達のなにかを取りまとめてくれているという点がどこにあるんだ
たとえば
「連日の夜更かしで無免許運転したやつが子供を何人もひき殺すなんてのはどんな言い訳があっても許されるものじゃない」
とかいうのは誰がどういっても そのとおりだろ 俺がいっても俺に票があつまらないのはなんでだよ
それは先頭に「俺が思うに」が付いてないからだろ
その「俺」がどこのだれだか 明日はちがうハンドルネームになってたりとかしない 固定的なだれかであることが必要なんだろ
経歴や個性で変えよう変わりようがない人間 デブとかテレビの命令になんでも従ったことがあるとかいう固定的なキャラだからだろ
つまり言論のバックボーンをイメージで補正してるんだろ 保釈金みたいに「ここまで出したらさすがに逃げないだろ」って担保を感覚的に持ってるだけだろ
人が人を好きになるのはしょうがないことだしそれは個人差のあるもので どれだけ好きで何を貢いでもそれは個人の自由だし 好きにしたらいいと思う
作品に対する受け手の欲求は様々だ。
そこに現れた作品の空気を楽しみたい。
その作品のバックボーンを理解したい。
そして自分の手で作品を深く掘り下げたい。
しかしそれらは基本的には作品をもっと楽しみたいというシンプルな欲求の延長線にあるはずだ。
あるいはもっと根源的な好奇心という衝動が人を突き動かしてるのかもしれない。
もっと楽しみたい。故に知識を集め、己の感情を形にしようとする。その先に新しい楽しさがあるかもしれない。故に人はそれをより欲する。
誰もが作品を愛するためにそれを行うのではない。そして作品に対して「愛」を示せない事は罪ではない。
楽しいから、自分がもっと楽しみたいからそれを行う。そこに当たり前のことや正解なんてない。
ただ願わくば、それが自分以外にとっても価値があるものであること、いや自分以外の誰かと一緒に楽しめるものであることを。
そんな願いが叶えられればいいなと、そんな風に思いながら今日もアニメを見る。
アニメを見る、作品を鑑賞するという行為はもっと肩の力を抜いて行うものではあるまいか。ファンならばなおさら。
そしてその方が相手の有り様も理解出来るし、自分の「愛し方」も無理なく理解してもらえると、私は思う。
もちろん上記エントリに限った話ではないが。
便乗お許しください。
http://anond.hatelabo.jp/20130825164553
http://anond.hatelabo.jp/20110824143747
http://anond.hatelabo.jp/20130826033127
[基本的にはまず学歴で落とす]
5年前は考えられなかったけど、うちのような中小でも今はこのフェーズに来てます。
5年前に比べると入ってくる層も受けに来ている層もかなり学歴が上がってるんだけど皆どうしたんだろう。
さすがにFランまでいかなくても中堅ぐらいの学歴は今だと1~2次の通過ラインギリギリですね。
[出来る人よりも失点のない人を]
失点のない人はうちのような中堅どころには来ないので、どちらかというと何かしら
大丈夫、うちのような中小だとメンタルやばくても疾患歴あっても役員やれてますよ(震え声)
[コネは案外きかない]
インターンさせることはあってもまあ正規採用は聞いたことがないですね。
どこ経由かはご想像にお任せします。これ以上は何も言えません。
単身世帯かどうかはどうでもいいけど、どんな家庭だったのか、どんなバックボーンを
持っているのか、家族との普段のコミュニケーションについては一応全員聞いています。
[意外と顔では選んでいない]
だって顔採用した女性は営業でも管理でもかなり使えるし、社内の士気も高まるんだもん。
寿退社?正直そんな中期的に考えてません。
即戦力に直結するような資格を持っている人って見ないなー、新卒でも中途でも。
[社交性は重要]
うん、業種的に超重要です。
古典読むようなインテリは社内の上位5%にいるかいないかぐらい。
なので入ってくる段階でそういうの見てもいません。
まあ、ありですね。
結局は面接官との相性というか話のテンポみたいなものは重要です。
全然問題なし。
というか「将来はベゾスみたいに世界を変え(ry」みたいな人はまず来ません。
ジョブズのスピーチとか坂本竜馬の実績を知ってる人なんて何人いるんだろう。
以上。
もう(時間切れで)、元増田さんはこのエントリーに付くトラバを読まないかもしれませんが、どうしても引っかかったので。
社会ネットワークという学問では、元増田さんが関心があると思われる人間の関係性も含めていろいろと学問しているのですが、「弱い紐帯の力」というのが一つのキーワードになっています。
詳しくは検索して頂ければと思うのですが、ザなックリと言うと、自分に身近な濃い関係性よりも、薄いつながりの人から重要なものを得ることがある、という統計学的調査結果から来ている言葉です。
(事例としては、「転職先を紹介してもらう」みたいなものがあります。)
「関係が切れてもいい人・どうでもいい人同士」という表現が適切かはわかりませんが、薄いつながりでも、それをなんとなく維持しておくことには、メリットがある、ということです。
元増田さんは、
>僕は「そういう考え方もあったのか!」と驚かせてくる人に魅力を感じます。
と書かれていますが、実は、そういうものは、まさに「弱い紐帯の力」であって、そういう斬新な驚きは、自分の近くの濃い関係からは得難いのです。
ネットで出会う、という部分もまさにそうで、直接出会いにくい人の方が、自分とはバックボーンがいろいろと違う確率が高いわけですから、斬新な驚きをもたらすのは道理だと思われませんか?
>「関係が切れてもいい人・どうでもいい人」同士で関係を作ってそうだから、どんどんそのコミュニティで平均化された人間になっていそうです。
この部分についてはどちらかというと否定的で、薄いつながりの人たちの方が平均化しにくい、と言えます。
そして、新しい驚きをもたらす人とリアルに出会えるチャンスがあるとすれば、それは「弱い紐帯の力」を利用して、「知り合いの知り合いの知り合い」くらいに出会うときが確率が高いわけです。
「共感し合える関係」という意味でも、全くつながりがない人よりも、「知り合いの知り合い」くらいのつながりくらいがないと……。
(「転職先の紹介」も、ある程度の信頼感がそこにあるので成立するものと考えられます。)
また、「濃いつながり」の方ですが、ある社会ネットワークの調査によれば、「ネットワーク(≒コミュニティ)の中心部にいる人は幸福度が高く、周縁部にいる人は幸福度が低い」という結果も出ています。
つまり、元増田さんの言う、「友達」も「仲間」も、新しい発見を得たり、幸福度を高めるために、必要なのです。(統計的には、です。)
※また、これは余談ですが、「ダンバー数」というのもあって、ある「仲間」を形成する人数は150人程度が上限のようです。
「こんなつながり意味ないなぁ」という場合があるとしたら、150人を超えた集団を無理矢理一つの塊にして維持しようとしているときがそうかもしれません。
http://anond.hatelabo.jp/20130621114406
途上国の労働者は虐げられてて可哀相!(その分日本国内の非正規や失業者は甘え!)
っていう考え方はいい加減に捨てるべきだと思う
ここから「甘えは悪か善か?」という議論が始まってるけど、別方向に枝を生やすとする。
どっちかっていうと元増田の指摘は「同一労働同一単価」に関わることじゃねえの? 途上国の労働者と日本国内の労働者を比べて、同一労働させた場合その賃金格差はどうなのよ? ってはなしでしょ。
先進国はその富を途上国の労働力搾取の上に成り立ててきた。これは植民地支配の時代からそうだし、そのあと資本主義の台頭で経済支配してきたから結局その搾取は引き継がれたり、甚だしい場合はひどくさえなった。
原理的には格差はあるべきじゃないだろうけど、実際には非常に格差があって搾取されているわけだ。
これが「途上国の労働者は虐げられてて可哀相!」のバックボーンだ。
もちろん、たとえば日本国内の工場Aで仕事があるとして、この工場Aに発展途上国から人が通勤する場合(かなりファンタジックな設定だが)交通費がかかるからその分国内に住んでいる労働者の方が有利だ(実質的に交通費と等しい額を賃金からディスカウントできる)。そういう差異性があるんで「全世界で統一賃金を採用すべきだ」と叫ぶつもりはない。
ないんだが、でも実際、仕事は海外に流れていくだろう。フィギュアの色塗りを国内でやってたら、あの販売価格は維持できない。だから中国に工場作ってそこで現地の人に塗ってもらう。移民問題なんかより遙かにはやく仕事は海外に流れていってるし、そのせいで国内の雇用は減る。
逆に言うと日本国内の労働者は途上国に行って底の労働者と同条件でなら雇用してもらえるんだ。これが「日本国内の非正規や失業者は甘え!」のバックボーンだ。「途上国から搾取して成り上がった先進国人が途上国人と同じ仕事はしたくないから福祉を求める」状況にたいする話だ(障害やシングルマザーなどの話はまたべつ。あくまで仕事の選り好み問題)。
もちろん国内の労働者が世界市場レベルで見て、途上国の労働者より本当に数倍から数十倍の能力を持っていて、ふさわしい仕事がないというのなら問題だけど、本当にそうか? という疑問はある。
インドの国立大学の教授の給料って月に6万円くらいらしいけれど、日本にいるそこらのPGだのバイトだのの能力って、この教授の二倍以上あるの?
「公務員」で辞書を引いてみなよ。その雑な定義がそのまま載ってるから。
あとなんども言うけど食わないで高楊枝しなきゃいけないってことは
「高給」と「無給」しか考えつかないわけじゃあるまい。
そもそも「高楊枝」が公務員心得の類には見えないよねえ。
「貧乏でもプライドを高く持つべし」と言われるのは武士だからこそだよ。
江戸時代の庶民たちが「貧乏でもプライドを高く持つべし」なんて思っていたか?
でも現代には、貧乏な庶民すなわち生活保護受給者に、「武士ならばプライドを高く持つべし」とか言うアホがいるわけだよな。
「高楊枝」みたいなのって武士の間で秘匿されてた心得ですらないんだよね。
太平の世でそれでは困るから、「武士道」によって牙を抜いたんだよ。
だから、軍国主義に「援用」した/できたことは否定してないってばよ。
軍国主義に援用するような人間は「武士道」の体現者ではない、というだけだよ。
「食い扶持を得て公務に当たってる」で現代日本の公務員と同じにくくる程度の雑さでよいのなら
戦前日本を「武士道精神の発露だ」と総括する雑さを批判する資格はないよね。
どっちかにしようよ。
あとなんども言うけど食わないで高楊枝しなきゃいけないってことは
「高楊枝」の是非はどうでもいいんだけど
そもそも「高楊枝」が公務員心得の類には見えないよねえ。
むしろ食い詰めもんの意地や誇りの話に見えるんだけど。
(ついでにいやあ、本来の役人の心得的なものは別にあって藩によっては一部は残ってるよ。)
あとさあ
「高楊枝」みたいなのって武士の間で秘匿されてた心得ですらないんだよね。
江戸時代ですら既に町民が「武士道」的な美学の一部を取り入れたり語ったり(騙ったり?)している。
お家に一朝事ある時は槍を取り馬を駆って主君の馬前で死ね、
家臣としての格すら戦国の世の父祖の勲功で決まってたような価値観です。
だからこそ300年の太平でだいぶ錆びた後ですら維新の斬った張ったが出来、
ガンダムシリーズはそのほとんどが、最終話においては「明日がやってくる、希望を持って生きよう」という方向性に収束する。
逆襲のシャアで、アムロは「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない!」と言う。それは「明日からやってくる日々の中で毎日努力してすこしずつよくしていけばいいじゃないか」ということを言っているのだ。これは、まおゆうにおいて魔王が言う「一緒に行ければ、どんなことでも乗り越えられるさ。それに何が起きたって幸せだけは約束できる。丘の向こうには、きっと“明日”があるんだから」と、努力の方向性として、ほぼ同一だ。
逆襲のシャアにおけるシャアというのは、急進的改革派なわけだ。現在に絶望してテロに訴えてでも世界を変革しようとした。
まおゆうにおける最終的な敵対概念は、守旧というか停止主義だ。既得権益をまもるために世界を静止させようとした。
これらにたいして、アムロと勇者/魔王は毎日の改良によって徐々に変革をなすべきだという主張をとなえる。ゆっくりでも、一歩ずつ、悪いところを直しながら明日へ進んでいけばいい。そういう主張だ。両者はその点において同じ側に立っている。
逆襲のシャアは素晴らしい作品だけど、あえて疵を探すとするならば、アムロの主張を実行できるかどうかに、疑義があることがあげられる。
これは主観も入るので、視聴者全員に「そうだったでしょ」と決めつけられる話ではないのだが、アムロのなかに、その主義を唱えるのとはまったく逆の個人的バックボーンも見え隠れするのだ。
アムロは「人類に絶望もしちゃいない!」と叫ぶわけだが、彼は一年戦争で心を通わせた少女をうしない、英雄として戦争終結に貢献したにもかかわらず戦後は体制派に飼い殺されていた過去がある。事実、その後、反体制派武装組織に協力している。彼は十分以上に絶望するような人生は歩んできているのである。
もちろん、それは悪いストーリーではない。彼が不遇を託っていたからこそ、アムロの叫びは読者の胸を打つ。自らの絶望から立ち上がったからこそ「人類に絶望もしちゃいない!」と叫ぶ彼は雄々しく、格好良い。その意味では、キラ=ヤマトの「それでも守りたい世界があるんだ!」も、ほぼ同一の文脈だ。
もっといってしまえば、まおゆうの勇者も確実に同じ文脈だろう。
英雄として世界を救うもにもかかわらず迫害を受け、絶望しかけるが、個人的な繋がりや精神的克己によって立ち上がり、人々を救うために奔走する。
「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問いにたいして、アムロや勇者は「信じられる!」と叫ぶ。それは、彼らが彼らの魂を担保として叫ぶわけだ。その強い輝きによって闇を飛び越える。
これらはストーリーとしてはよくできているが、じゃあ、それが、読者である我々にも適用できるか? といわれると返す言葉に困る。つまり、我々があの種の絶望におとされたあと、再び立ち上がって「人類に絶望もしちゃいない!」と叫べる保証はどこにあるのか? という点だ。「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問いにたいして、逆襲のシャアは「アムロなら叫ぶね」と答える。そして、現場にいた兵士もサイコフレームで思いが伝わった結果命を捨ててそれに賛成する。
この構図が、 id:Gaius_Petronius が批評したところの「英雄譚」であり、「英雄譚の限界」なのだ。
アムロは立ち上がり叫んだが、我々が同じ事を出来るとは限らない。というか、出来るようには思えない。サイコフレームの光があれば特攻くらいは出来る気がするが。
これにたいして、まおゆうは別の答えを読者に提供しようとする。それは歴史的な視点だ。
読者は現代日本に住んでいる。色々問題があるし、苦しみもある。でも、500年前とくらべてみれば明らかに恵まれている。みんなご飯をそこそこちゃんと食べている。電気が通っている。暖房も冷房もある。乳幼児死亡率は極限にまでへらされた。風邪は即死を意味する病ではなくなった。なんとネットにまで繋がってる。それどころか個人用の通信機器をみんなが持っている。これら視点で見れば、現在は、過去よりも、確実に具体的により良くなっている。もちろん大きな戦争もエネルギー問題もある。が、飢え死にばかりしてた頃に比べて、漸進していることは確実だ(この認識にぐだぐだ文句をつけてる人間が中国やアフリカ奥地に移住した例を知らない)。
その視点を提供した上で、魔王は「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問に答える。
「信じられる。だってそれは歴史を見れば明らかだ。人間は愚かかもしれないし、間違いを沢山起こすが、それでもここまでやってきた。この先にいけないはずがない」と。
この具体性や説得力は、アムロにもキラ=ヤマトにもなかったものだ。
主人公個人の精神的高潔さや勇敢さに仮託をせずに、読者にも実行可能なやり方で「英雄を超克」させてくれる物語上のギミックだ。
(この部分の指摘が、「物語三昧」には欠けているようにおもわれる)
まおゆうの提供する「丘の向こう」というのは「戦争が起こらないSF処方箋」でも「近代に続く血みどろの道」でもない。
「丘の頂上に立ったとき見られる向こうの景色=明日」と対になるようにしてあらわれる、「丘の頂上に立ったとき見られる歩いてきた景色=歴史」であり、未来と過去の両方をあわせた視界だ。読者に提供される「丘の向こう」というのは、この視界であって、それ以上でも、以下でもない。そしてこの視界は、英雄の苦難や高潔をもたないでも、誰にでも(それこそWikiを検索する程度の労力で)手に入る。
まおゆうがガンダムを踏まえて、より先へ行こうとした部分があるとすればここだし、物語の類型を一歩進めた部分も、まさにここにある。
これは何の論拠になってるの?
プログラマを優遇することで、日本のソフトウェア産業が世界に通用するようになるってこと?
民主党の政治家に教員出身が何人いるのか知らないけど、日教組は民主党に入れてたりするじゃない?
つまり、政治家のバックボーンよりも、政党の取る政策の方が重要だということ。
逆に、プログラムのことが分かれば技術進歩に政治を追いつかせることができるのか?
そもそもIT技術はプログラムが分かれば分かるような狭いものではない。
一時期、
全部「子供の頃に親の愛情が不足しててさびしかった」になってたんだけど、
(ナルト、サスケ、ガアラは勿論、割と冷血悪党ポジションのサソリや大蛇丸すらそうだった)
更にその全部に「実は勘違いだよ、上手く伝わらなかったけど愛されてたんだよ」というオチがつく。
今週とうとうサスケの過去まで「実は両親にも兄にも愛されてたんだよ」で決着してしまった。
やめてほしい。
便所でクソと一緒にひりだされて嫌々面倒見られながら生き延びて
少なくとも小学校卒業ぐらいまでは誰にも目をかけられずに大きくなった子、
そういうのを描いて欲しかった。
一人ぐらいは。
本当はナルトがそういう奴なはずだった。
里中の大人から嫌われて憎まれて、親のそういうのが子供達にも伝わるから友達ができなくて、
里の上層部は別の意味では気にしててたまに人が見に来る(実は強力な兵器だから)っていう、
初期設定ではナルトはそういう奴だった。
開き直って馬鹿な事や迷惑な事を繰り返すパッと見明るいワルガキ、
でも中身はどす黒くて真っ黒の黒黒、
自分を一番可哀相だと思ってたサスケがナルトの内面に気付いたら「えっ?」てビビるとか、
火影の爺さんがなんかケツ持ちしてくれるので
ごまをする為に&いつものみんなの気を引く癖で「火影になるってばよ!」を口癖にしてるけど
もちろん木の葉の里になんてなんの愛着も無いから上っ面で言ってるだけ。
根底の本音はむしろまるっきり正反対、
みたいな人間のはずだった。
超エリートのお父さんと慈愛にあふれるお母さんが時空を超えて愛情を伝えてくれるようなぶったるい夢はもちろん夢で、
子供の頃は毎晩そういう夢を見て泣きながら目が覚めては暗い部屋に自分しか居ない子の筈だった。
そんなナルトの友達であり家族であるのは自分の中に居る九尾だけの筈だった。
誰も認めてくれなくても九尾だけは自分のそばに居てくれて、
檻としてだろうがなんだろうが互いに一対一の関係で、
なによりある日特別な力を与えてくれる。
里を滅ぼせるほどの!
特別な力を自覚したときに、
まず「これで里の奴等を皆殺しにしてやるのはどうか」と悩むナルトであって欲しかった。
「ああ、おれがずっとやりたかったのはこれだった!」と感動するようなナルトが見たかった。
サスケやサクラに話を合わせてるけど内心密かに大蛇丸のビジョンに打ちのめされてるナルトの筈だった。
幸せや家族を奪った兄(後期はその黒幕たる木の葉の里)に憎しみを抱くわかりやすいサスケと比べて
はるかにあいまいでスケールの大きい負のポテンシャルを持ったナルトの筈だった。
カカシのように自分を鍛えてくれたわずかな人間の思い出を糧にして
里を守る側に立つっていうならそれはベタだが泣ける。
もっと酷い話にするなら、
木の葉の上層部が派遣した女(アカデミー低学年からずっと密命を帯びてる同級生とか)に騙されてて
操られる形で里の側に立つならそれはそれで忍者らしい話になる。
が、実際のナルトは
初期設定から当然ある筈だった辛い境遇からも負の人格からもほぼフリーになる。
ほぼ序盤から。何の説明も無く。
街を歩いてて嫌な視線や陰口に悩まされてた事もないし、
誰もナルトに対して軽口以外の、侮蔑や疎外の態度なんか取ってない。
なんだこれは。
せっかくの初期設定が
何の葛藤もカタルシスもなくボンヤリと薄まって解決してしまった。
これは本来一番おいしいところを手をつけずに捨てるような物では無かったか。
単に「成績悪かったおちこぼれがど根性でこんなに出世しました」程度のカタルシスになっていた。
ナルトも大して感慨も戸惑いも持っていない(とっくに受け入れられていたから)。
なんなのこれは。
お前が読みたがってるような暗い漫画じゃねーんだよと言われたらそれまでだが。
今思い出した余談だけど
「人間を食わないと死んでしまう」「生きる為に食ってるだけの俺を殺すのか正義の味方が!」という設定のパピヨンが
後に「なんか人間以外の食料でも生存できるようになった」とか言い出して、これも心底呆れた。
まあ実際問題として、確かに正論だし本音じゃみんな同じ事思っただろうと思いつつ、行政の首長が言っていいセリフかどうかという問題はある。
それにインタビューにもある通り、いくら手を差し伸べたってその手を跳ね除けるような奴相手じゃどうしようもない。
そもそも死にたいが死にきれなかったという話を本当であると仮定して、今回の件って自殺したいと思った理由がムショ上がり直後の生活不安にある可能性が高い訳で。刑務所に放り込まれるようなことするのは完全に悪いが、この国は容疑者として逮捕された時点で社会的には犯罪者の烙印を押されるのであって、それが冤罪であっても名誉の回復をされることはない。そして一旦社会的に犯罪者の烙印を押されたら、刑期が終わってもその後の生活ができなくなるって言う社会風潮もある。気持ちは分かるけどな。
行政の支援を受けるやつはクソと烙印を押しておきながらこれか。各支持者が無自覚に言うだけならまだしも上にいる人間がこんな事言うのか。罪は罪として裁くべきだけどそのバックボーンごと存在否定してどうする。
今月で境界例の女性との生活が終わり、自分の元にかつての平穏な生活が戻ってきた。
そして境界例の呪縛から解かれて余裕が生まれたせいか、彼女がとった理解不能な行動をもう一度改めて思い出し、
絡まった糸をほどくように一つ一つ「なぜ彼女がそう思ったか」「なぜ彼女がそういう行動をとったか」をゆっくりと考えるようになった。
その話をカウンセラーにしたら「なぜそんなに彼女の行動が気になるんです?」と聞かれた。
「今そういうことをしても何もプラスにはならないと思いますよ」だからやめた方がいい。それがカウンセラーの言い分だった。
とりあえず「ジェットコースターのような刺激的な生活が終わり極端に暇になったから」と答えようとしたけど求められている答えとは違う気がした。
でもいくら考えてもいい答えが思い浮かばなかったので、なんとなく「推理小説が好きだから」と答えてみた。
「推理小説って最後に探偵役が犯人がどういう動機でどういう行動をとったか、全部解説するじゃないですか。
逆に犯人の動機も犯行の手順もわからないまま「犯人の心理は最後までわからなかった。もう忘れよう」で終わる推理小説なんてあったら嫌じゃないですか。
それと同じだと思うんですけど」
カウンセラーは黙ってカルテに何か書き込んでて返事をしなかったので話を続けた。
「あと、彼女に限らず友達であれ同僚であれ、自分の理解の範疇を超える行動をとった時はなぜそうしたのか興味を持ちます。
それは私が知らないだけで、たぶんその人にとってはとても合理的な思考に基づいた合理的な行動だと思うんです。
だとしたらその人が考える合理性とはなんなのか知りたい。知って「なるほどな」と思いたい」
「じゃあワイドショーなんかで見る事件や芸能人のスキャンダルでも同じことを思いますか?」
「それは思わないです。友達や同僚なら考察するためのバックボーンをある程度持っているからそれを元に考えることができるけど、
ワイドショーの事件や芸能人のスキャンダルにはそれがないですから」
それを聞くとカウンセラーはまたカルテに何か書き始めた。
いったい何を書いてたんだろう・・・
気になる・・・
知りたい・・・
SNSで見ず知らずの異性とメッセージやコメントのやりとりしてるうちに
盛り上がって擬似恋愛的な気分になったりすることがある。
だって、髪型変えたら「可愛い」ってコメントしたり落ち込んでたら
で、そういうとき、自分以外の男が自分と似たようなコメントして、
自分らしかコメントしてないわけだからどうしても目立ってしまうし、
会ったこと無いってことはお互いにアドバンテージ(バックボーンかな)が
で、もし二人ともが彼女と会えるくらいの距離なら先に相手より
親しくなって会ってしまおうと頑張ってみる。
また、もし二人が彼女と会えないくらいの距離で、交流がSNS上に限定
されてるんだったら、関係がプラトニックな分、よけい相手よりも彼女の
ことをわかってて親しいってのをアピールするために頑張ってしまう。
彼女へのアピールも頑張ってで、かなり加熱しがち。
丁寧なコメントありがとうございます。
彼女の実家が裕福か貧乏かで、デート代の割り方が違うのは、第三者によって、2人の付き合い方が左右されるということで変でしょ
興味深い指摘です。
ただ、この辺りの個人の事情は二人の関係にとってはそんなに重要ではなく、
彼女が仮に一人暮らしを始めたとしても、今と同程度の負担は当然だと考えています。
しかし、仮に彼女の実家が経済的に貧しく、彼女の収入が世帯の収入源になっていた場合、
いたしかたない事情がある場合については、収入が控除されるとでもいいましょうか。
そこまで一般と乖離した生活を送っているわけではありません。
ただ、その気になれば彼女一人を養うくらいには十分収入のある過程です。
彼女が社会人として働いているのは、ご両親が良くも悪くも厳しい方なので、
家事手伝いという選択肢は彼女にも家族にもなかったでしょうし、
そういう教育もあって、彼女が働きたいという強い意思を持っていたのも大きいと思います。
種々のバックボーンが複雑に絡まっているのだという点は大変わかりやすかったです。
僕の友人にはお金持ちが少ないので、実感としてはないのですが、
むしろ生まれつき裕福な人の方が、お金の価値観がスケール大きいイメージがあります。
苦労しないで(あるいは親の苦労を見ないで)育ったがために、お金の価値をわかっていないというか。
これも個人や環境によるのでしょうけれど。
http://anond.hatelabo.jp/20110902184753
通常、事業を立ち上げた時点では、本人は24時間働けますか?状態で頑張らないと成功なんておぼつかない。専業主婦は24時間家族の面倒みられますか?状態なので、起業したのと同じくらいの心理的圧力がかかっているんだ。専業主婦が起業しようと思ったら、3つの条件が必要だ。旦那さんが自分の面倒を自分でみられること。義両親も両親も介護もお追従も必要としていないこと。子供が自分の面倒を自分でみられる状態になっていること。
つまり、「妻」でも「母」でも「嫁」でも「娘」でもなくて良い場合のみ、経済的なバックボーンを持ちながら起業ということが出来る。
奥さんが専業主婦であることを望む男性が、「妻」でも「母」でも無いことなんて許すわけないから、離婚しないと起業は無理だろうね。
ただし、いわゆる「山師仕事」なら、専業主婦のほうが叶えやすいかも知れない。家族の面倒をみなくて良い時間だけ「小説」だの「マンガ」だの「水墨画」だのに時間を掛ければいいわけだから。だけど、本当に夢を叶えて、それで食べていける状態になったら、やっぱり専業主婦をやっている時間は作れないだろうと思う。シチュー煮ながらプロット書けるほど、集中力分散できる人間は、そう多くはないだろうから。
以上。小説書いてて、お師匠さんについて、ちょっとのめり込み過ぎたとき、フライパンを置き忘れたコンロに豚肉をぶちまけてしまった専業主婦より。
「場」に参加する人間が買い手となり、売り手となる瞬間は間違い無く存在する。
しかし、それは複層的なもので、「買い手であり、売り手である」状態が継続しているといえよう。
ネット社会が発達するに連れ、「お客様」を諌める流れがより可視化されるようになった。
時に作り手、時に買い手となるマーケットにおいて、よく言われてきたことだ。
あるいは、まずコミケがあり、ネット文化が発達するに従い、オタクという媒介変数を通して文化文脈の共有が生まれた、ということもあるのかもしれない。
いずれにせよ、今は「場」において「お客様」と居直る人は、いわゆる日系企業的ビジネスシーンほどには構ってもらえない、というわけだ。
少し、話を飛躍、発展させる。
誰もが作り手になれ、誰もが買い手になれる流動性の高いマーケットにおいて先述した「お客様害悪論」は有効に機能するとは思う。
しかし、相互の分断が技術的、特権的な参入障壁の高さによってかなり決定的であった場合、果たしてこれは有効に機能するだろうか?
私は、そうは思えない。
たとえば、コンビニのバイトにいちゃもんをつける客がいたとしよう。
このとき、コンビニのバイト経験がある人からすれば、同情、あるいは不当ないちゃもんであると喝破できるようなケースもあるだろう。
しかし、コンビニのバイト経験に限らず、日本人はあまり多種多様な職業に携わり難い環境にあると言える。公務員ならまだしも、一般企業社員さえ副業をしている余裕はない。つまり、流動性ある複層関係が、固定化される単層関係に置き換わるわけだ。
こういう場合、互いが互いのバックボーンを知りえない事が多く、自分の立場を正当せしめようとする動きが心中に生まれる。このパワーバランスのせめぎあいの結果、これまでの日本ではお客様至上主義に傾き、固定化された、という見地に私は至った。
流動性を「場」が維持するには、膨大なエナジーを「場」が御しきり、かつ「場」に参与する複数の個人が自律した行動を取ることが求められる。ゆえに、そこにあるのは非常に強力なメンタルを持った個々人の集合体であり、統一された目標に向けて、エナジーを爆散させる。かくて活況となる「場」は時に外部にまで波及するほどのバイタリティを持つのである。
しかしながら、先に書いたとおり、これはかなりレベルの高い要求である。個々人のメンタリティ、バイタリティは様々であり、自律の程度においてもまた同様である。
また、人の省力的行動は、流動性を失わせる方へ作用させ、自律作用を失わせることも事実である。一度お客様の旨みを味わったものがなかなかに脱し切れないのは、ここが理由である。
さらに話を飛躍させれば、今の国政において我々国民の殆どはお客様同然である。我々も国政に積極的に参与できるのであるが、それに参与するためだけでもより高い体力が必要だろう。投票システムはこの分断を決定的にする。投票するだけで国政に参加できるなどと吹聴させられれば、より省力的手段としてそちらになびくのは仕方ないだろう。