はてなキーワード: テスト勉強とは
http://anond.hatelabo.jp/20161101103107
テスト当日逃げてしまった反省と2日間のテスト勉強の記録です。
俺はこの酷い現状を変えるよりも、甘んじて受け入れることを進んで選び取ったわけだよ。
それなのに「どうして努力しようとしないんだ」とお叱りを受けることが多い。
確かに努力したら変えられるかもしれない。でも、それ以上に努力したくないんだ。
正直、頭がいいわけではないが、特に悪いわけでもなかったので、勢いで中堅私大には入れた。
親の仕事を継いだので就活もしなくて済んだ。だから俺は努力をしたことがない。
努力する気も起きない。ある意味、努力の仕方というのが分からない。
いや、一つだけ努力できることがある。それは欲望を我慢するということだ。
子どものころから何か欲しいものがあって、親が「テストで100点取ったら買ってあげる」と言われても、
汁どこ行ったん。作り方通りにやったのに。すごく持ったりしてて味が濃ゆい。卵とコショウぶっかけたら美味しい。
伸びる心配もあんまりなさそうだし、ポケモン映画見ながら書いてみる。
~本免までの道のり~
①教習所に通う
└大事。
②学科は真面目に受ける
└ビデオ視聴中も真面目に寝ないで受ける。
└重要と言われた所はちゃんとマーカーをひく。
└教官が出した問題は間違えてもいいから全力で答える。何て答えたか、どうして間違えてたのかを頭に叩き込む。
└運転してみると、教本の内容が嘘みたいに染み込む。ここを押さえとけば家で復習とかしないで済むよ。
④疑問に思った事は教官に聞く
└何でもいいから聞いてみる。好きな音楽の話とかでもいいと思う。
└意外と見ていそうで見ていない自分以外の運転。見てると面白いし勉強になる。
~本免前日~
└一生懸命やる。
⑦間違えた箇所は解説ごと書いて覚える
└「これは〇or×なんだ」だけじゃなくて、問題集の回答に書いてある解説を覚える。解説がなかったら、教本の問題に当て嵌まる箇所を探し出して書き出す。
⑧寝る
└寝よう。
⑨復習する
└朝に間違えてた部分だけ復習してみる。
⑩合格する
└100点満点中90点で合格です。
└全部で95問を50分で解きます。
└文章問題90問(配点各1点)、イラスト問題5問(配点各2点)
└イラスト問題を全問正解すれば、文章問題で10問間違えてもテスト的にはセーフです。逆に言えば、イラスト問題を落とすと予想以上に辛い。
以上です。
この問題集を解けば合格間違いなし!というのもあるんでしょうけど、僕は教習所で出された問題集さえやっとけば合格出来ると思います。
あと、あなたが思っている以上に本免の学科試験は簡単です。基礎中の基礎しかありません。模擬試験の方が難しくて拍子抜けしました。何問か間違えてますが。
当たり前の事を当たり前にやれば合格出来るというか、受験勉強とかテスト勉強とか、今までにやってきたような勉強方法でやればいいんじゃないかと。
僕自身は本当に勉強嫌いで、上記の通りにテスト・本免前日しか勉強してません。1時間やったら2時間休憩してました。んで、一回も合格点に届かなかったんで逆に吹っ切れてました。「落ちちゃってもいいさ」みたいな。
「付け焼刃な知識で路上に出て大丈夫なのか」と声が聞こえてきそうですが、大丈夫じゃないですかね。何てったって数か月車の練習・勉強をしてきたんですから。
本免試験頑張ってください。
当時のテレビアニメか何かで憑依するみたいなのが流行ってた時期だったんだと思う(幽☆遊☆白書かな?)。
これを体得する前の僕の成績はクラスの中では総合で「中の下」くらいだった。
あるテストの日、テスト用紙が配られている間、前のほうに座っていた吉田くんの背中を睨みつけ、
「吉田くんよ、僕に憑依しろ憑依しろ」と念じていた。何も感じなかったけど目をカッ!と見開いてみたりした。
するとどうだろう。何となくいつもよりもテストがスルスル解けるような気がするじゃないか!
実際、理科と算数のテストの成績もクラスで中の上くらいは取れた。
点数がよかったことの要因が吉田くんを憑依させたことだと思った僕は、
次のテストでも理科と算数のときに吉田くんの能力を借りることにした。
またしてもスルスル解ける(気がする)。
これで社会もできちゃうのではないかとワクワクしながら真剣に目をカッ!と見開いた。
これは本当に使えた。
授業の時やテスト勉強の時にも憑依させたら、すごく点数上がるんじゃないかと思って、
授業中やテスト勉強中に、それぞれの科目が得意な友達を自分に憑依させたりしていた。
そんなこんなしていたら、総合の順位は学年でもトップクラスになっていた。
この方法が使えない科目が一つだけあった。体育だ。
小嶋くんという運動神経抜群の友達を憑依させようとしたけど、ちっともうまくいかなかった。
中尾くんを憑依させようとしたけど、これもうまくはいかなかった。
中学、高校でもこの方法を続けたし、大学受験もこの方法で合格した。
今や大学教員になってしまい、学生にどんな方法で勉強すれば良いかと質問される始末である。
「ロールモデルを持とう。あの人ならどうするか真剣に考えるんだ。」
でも本当はこうアドバイスしたい・・。
そこでちまちまと部屋の掃除をし始めているわけなのだが、懐かしいものが掘り出されるたびに手が止まってあまり進まない。
先ほど、中学生の頃友人とやり取りしたFAXを見つけてしまって、また中断することになった。
中学卒業時に携帯電話を買ってもらうまで、友達とは交換日記や手紙(流行りの折り方があった。まだ使われているのだろうか?)で交流していた。
一応親の携帯電話を借りてメールを使わせてもらうこともあったが、親に見られる可能性もあるわけだし、頻繁には借りられない。
というわけで家ではFAXを使うことも多かった。
女子中学生は何かと書き文字にこだわる年代だし(色ペンの多さがステータス)、手書きがいいと思っていたのかもしれない。
FAXのいいところ? は手紙と違って自分の書いたものも残るところだ。
あの子に逆数教えたな、部活動楽しんだな、DSで遊んだな、CDの貸し借りしたな、一緒にテスト勉強したな、誕生日プレゼント贈りあったな、バレンタインでチョコ交換したな(後々、髪の毛が入っていたことが判明)人生ゲームしたな、百均行ったな(プリクラがあった)、お祭り行ったな、プール行ったな、川で遊んでヤマモモとったな、漫画借りたな、委員会面倒だったな、持っていくもの確認毎回してたな、交換ノートしたな、先生の愚痴、母親の愚痴、妹の愚痴、テストの愚痴、宿題の愚痴、嫌いな同級生の愚痴
私は中学生の頃からものをはっきり言う方だった。FAXの文でもあの子に対するツッコミが多い。あの子よりも頭が良かったし、友達だけど、軽く見ている部分もあったのだろう。
何がきっかけだか、無視されるようになって、彼女のお家のポストに理由を聞く手紙を入れた(流石にFAXでは聞けなかった)。
それでもなんとなく疎遠になってしまって、小中一緒だったが高校で離れた。
大学に入ってからの同窓会では見かけたような。でもなんとなく声がかけられなかった。
Facebookでは友達だけど、お互い全然ログインしていない。
多分彼女がログインしていても、いいね!はおろか誕生日のコメントすらもできそうにない。
字の汚さも性格も、まるで変わっていないのに。
マジでそんな人いるの?
俺も男だけど生理がどういうものかそこそこわかってるのに、こんな無知な人もいるのかと驚いた。
まあ世の中には信じられないほど知識が抜け落ちてる人もいるし、そういう人ほど声が大きかったりするからありえない話でもないのかもしれない。
しかし考えてみると、そういえば俺はどこで生理について知識を得たのだろう?
でも生理について知ってる。
なぜだろう。
そういえば小中学校の時、テスト勉強のために保健体育の教科書をかなり真剣に読んでいた。
単純に保健体育の教科書の内容に興味があったというスケベ心もあったかもしれないけど。
(しかしああいう色々な雑学的な情報が載った教科書は単純に読んでて面白い)
あとはネットとか小説とか漫画とかそういうところから、徐々に知識をつけていったのだろうか。
うちはなかった
テスト終わりーって帰っていく男子に男子だけテスト勉強少なくて早く帰れるのずるいわーと思いながら家庭科テストを受けたのはよく覚えている
大阪で組体操のピラミッドとタワーを禁止にしたらしい、かなり危険な競技だし無くなったのはめでたい。
そのニュースを見ていて思い出したのだが、私が中学の頃に体育の時間に体育館の二階から一階に飛び降りる授業があった。
下に分厚くマットを敷いていたがヤバいだろこれと思った。
教師が行けと怒るし、周りの子達は結構楽しげにどんどん手すりを乗り越え飛び降りていくし、結局足がすくんで無理だった私を含む数人が罰として後片付けをさせられ、翌日に体が痛いと言っている生徒が多く現れた。
あと時間になると猛スピードで校門を閉めるのもやっていた、滑り込みセーフの生徒もいたので危ないだろと思っていたら、案の定他の学校で校門に挟まれて死亡する事故がおこりなくなったが、ニュースのインタビューで「遅刻した子が悪いと思います」とか言ってた死亡生徒の同級生達が怖かった。
癖毛かどうか水で濡らすのとかもあったし、定期的に体育館に集められてスカートの丈見るために視線を低くしたおっさん教師が足をじろじろ見ていったり、ブルマになるのが嫌でジャージをはいてる女子達に早く脱げと怒鳴り散らすおっさん教師もいたしなんで男子が短パンで女子はブルマって話だし、何で男は体育で女子は家庭科なのしかも女子だけ家庭科テストがあってテスト勉強一教科多いのって話だし、学校っていまから考えると意味が解らない空間だった。
増田には、そもそもいないかもしれないけど、オタサーの姫として悩めるみなさまこんにちは。
大学時代に2度ほど壮大なサークルクラッシュをさせ、未だに同窓会へ参加しづらい元オタサーの姫です。最近、20代後半に突入しました。
最近は仕事で海外を飛び回るようになり、プライベートも充実しています。ふと振り返り、「あの時、頑張って自分を変えて良かったこと」を書いてみようと思います。
もし貴女が、"オタサーの姫になりかけてる"または"オタサーの姫になってしまい人間関係に疲弊している"としたら、ちょっと読んでみてください。
私の場合は、学校の課題やテストにおける自信の無さ・甘えが、周囲の人間を"うっかり"釣ってしまう材料でした。
一緒に課題やテスト勉強する場合には、教えることよりも教えられることが多かったです。
そこから、先輩・同級生から助けてもらう必要がそこそこ無い程度まで、基礎学力を引き上げていきました。
基礎学力の上げ方は、予習にて教科書内の理解不能な単語・数式を全て潰す。
この潰し3点セットの徹底です。
目安としては、自分の学科の試験にて上位3-5%を保てるまでやり込めるといいと思います。
基礎学力を引き上げた状態で、何かしらの研究テーマへチャレンジしてみましょう。
まだ研究室へ配属されていない場合は、気になったテーマを持つ教授へ相談し、研究会or査読なし学会での発表を1stゴールに設定し、ゼミ参加などしていきましょう。
すでに配属されている場合は、査読ありの国際学会1本はマストで挑んでみましょう。自信をつけるためなので、1つ目は国際会議でさえあれば、難易度は問いません。
調べれば調べるほど、結構出せるところはありますよ。(ちょっと怪しい学会もあるけど)
研究という単語が難しくなさそうとか、挑戦してみたい、とかそういうポジティブなノリの習得。
そして、"成果を出す"という楽しさを見出すのがゴールです。
もし自分がぽっちゃり体型という不安を持っているのであれば、簡単な筋トレをしてみましょう。
食事制限は、身体にも心にもよろしくないです。
そして、化粧でブスをごまかすより肉体作りをした方が外見に関しては良く効いてきます。
食べずに痩せるではなく動いて痩せることを意識してみるといいと思います。
大体3ヶ月くらい頑張って続ければ、オタサーの姫っぽい服を着たとしても、"単なる普通にお洒落な人"的な体型になると思います。
基礎学力・研究業績が積み上がると、奨学金(日本学生支援機構じゃないもの)や留学のオファーを見つけて挑戦してみましょう。
留学や奨学金団体の晩餐会など、新しいコミュニティへステップアップし、新しい友人関係を積み上げましょう。
ステップアップしながらコミュニティを転々とするスキルを身につけると、そのうち依存しなくても良い場所が見つかります。
出来ないこと、分からないことがあっていいんです。
失敗してもいいんです。
悔しく感じたら、とっても素敵です。
「今はいいんだよ」と自分自身に微笑んであげながら、少しずつ乗り越えていきましょう。
被害者の素振りで近づいてくる男性陣もいますが、笑顔で避けましょう。
助けるフリをして、根掘り葉掘り聞いてくる女性陣には、一言「気遣ってくれてありがとう」とだけ返しましょう。
笑顔で「そうなんだね」とか返しておけば適当になんとかなります。
そんな感じで案外生きていけるというのが、私の後から学んだことでした。
好きな服も、着ちゃって大丈夫です。
「やべー、テスト勉強してねーわー」の応用ですね
元気や行動力を一時的にチャージするための「がんばるぞい」は人生において有効だけどそれをPDCAサイクルや目標に組み込んではいけない。
P「がんばる」
→D「思ったよりがんばれなかった」
→A「がんばれがんばれ」
→P「がんばる」
これは本当に最悪である。
まず、改善点を具体的に洗い出すという行為すらしていないこと。
次に、計画の修正がされていない場当たり方式では効率も良くないし問題点が雪だるま式に大きくなっていても対処しきれないであろうこと。
そしてなによりも自分を精神的に追い詰める事で結果を出そうとしているため回すたびに加速度的にメンタルが悪化していくこと。
対処する問題の規模も小さく、精神力の回復も早い学生時代のテスト勉強ならこんな阿呆みたいなやり方でもどうにかなるかも知れない。
だけど社会でこれを回すと本当に酷いことになる。
ましてそれに自分の同僚や部下を巻き込むなんてもってのほかである。
そう思うでしょ皆さんも。
はぁ……
「勉強頑張ってると、十二指腸潰瘍や、自己免疫系の病気、手や歯の原因不明の痛みなど、
テストのたびに新しいストレス性の病気になるので、ストレスマネジメントを教えてください」
って感じで相談した。
すると、
「なるほど頑張っていますねえ」
みたいな共感的態度。う~ん、これはどうなんだー?っていぶかしむ俺。
「ここ2年ほど、心を入れ替えて勉強してるんですけど、いかんせんそれまで遊びすぎたつけで、なかなかまわりに追いつけないです。テスト勉強とかも、周りと同じ時期に初めて(当然その前の時期はその前の時期で努力してる)、周りより頑張ってやってるんですが、伸びないです。今月の卒業試験も1月勉強して、でもギリギリ受からなくて。最後の最後でまた新しい病気になってしまって、病気に耐えながら受けました」
「う~ん、まだ余裕があるときは、週1回、街にでかけて買い物とかします。あとは、音楽聴きながらながらで勉強してます」
「そうね、休みがまだまだ少ないかもしれないですね、もう少し休む頻度を上げたほうがトータルの勉強時間は減っても、効率いいかもしれないですよ、集中できて。
「なるほど、その通りかもしれませんね、ためしに休みを増やしてやってみます、ありがとうございました。」
ほお~ってなった。
俺は努力はできるようにはなったが、限界を超えた努力をしていた。
長期間になると、やっぱ体がキツイな~って。やるやらないならやれるんだけど、病気はどうしようもない。
これじゃあ一生は努力できないと。
結構勉強してた気がするのだけど、どのくらいやってどのくらいやらなかったのか忘れてきたので備忘録かねて勉強法かきます。なぜならTOEFLを受けようかなとおもっているので。あまり増田には書かないし、文章も下手だし、備忘録っぽい感じになるとおもうので、あとで消すかも。
もともとのスペック:
社会人になってから、英語の勉強自体は2010年ごろからやっていたけどまったく結果がでず3年くらいずっとTOEIC600。
そのあいだやっていたのは、N○C綜合英語学院に通学1年、skype英会話半年、洋書を読む、とか。
skype英会話、洋書読書はたのしいけど即効力はなかったとおもう(文法力、単語力がないと意味がない、ザルに水)
N○C綜合英語学院は勉強法が身に付いてよかったけど、英語力はつかなかった(クラス分けに対して基礎的な文法力が足りてなかった+テキストが自分にあってなかったとおもう)
て感じで、ちょっと見当違いな感じで3年ほど勉強して、2013年に中学校の問題をといたら、7割くらいしか正解じゃなかったのにショックをうけて(高校問題にいたっては4割)、TOEICテストをうけるのはしばらくやめることにして、中学校の文法書(自由自在)から勉強をやりなおし
N○Cで教わった勉強法は、日本語をみて英語を声に出して言う、というのをひたすら繰り返す方法。これは本当にいい。最初はもちろん答えられないけど、ひたすらまわして言えるようになるまでやる。余裕があったら、英語から日本語にもする。さらに余裕があったら、1文30回のペースでシャドーイング(音声を流して、それにあわせて文章をみないで言う)。これは今後の英語の参考書すべてでやることにした。
参考書:
中学文法書(自由自在)3回まわし→高校文法書5回まわし(forest)→DUO6回まわしで1年たったので、そろそろテスト勉強をしようということで、
つかった参考書は、ヒロ前田の究極のゼミシリーズ(5回まわし)、公式問題集5冊(3回まわし)
解けなかった問題は、文章全体を抜き出して、日本語ー英語ができるようになるまで3回まわした。リスニングは、できなかったリスニング素材のみ30回シャドーイング。最初はすべてシャドーイングしていたがつらくなってやめた。
勉強時間は、朝起きて30〜1時間、電車のなか行き帰り40分、昼休み15分、帰宅して30〜1時間、土日3時間くらいというペース。基本的に土日に公式問題集を解く、というプラン。
テスト結果など:
3月末にIPテスト初めて受けて800点とって、いきなり目標点に達してびっくりして、勉強を続けるべきか、すでに申し込んでたのを受けるか悩む。
4月末の公式で850点、5月末のIPで850点、ここで目標を860点以上にして勉強はつづける。
8月はうけないで、9月公式で890点とったのでひとまず勉強はおわり
問題を解くコツ:
TOEICのコツはすごいたくさんあって、知るのと知らないのとでは、100から50点くらい変わると思う。コツ関係は、ヒロ前田の本が一番くわしいとおもう。
試験でのTOEICのリスニングのコツは、問題といっしょに自分でもぶつぶつと口のなかでシャドーイングをすること、こうすると選択肢を解くときに内容をおぼえている。シャドーイングができないのなら、問題はとけない(聞こえてない)
試験をおわって:
いくらTOEICの点が高くても、本当にしゃべれないなーと痛感する。文章は勉強する前よりも楽に読めるようになったし、メールも込み入った書き方ができるようになったけど、ネイティブや帰国子女との壁は非常に高くて厚い。恐ろしい。よく言われることだけど、TOEICは入り口で到達点ではない…。
こんご:
スピーキングができないのは、TOEICにスピーキングのテストがないから勉強していないというのもあるので、いまはTOEFLを受けようかなと思っている。
TOEFLは、TOEICにくらべて日本ではあまり資格として魅了がないし、進学するわけではないけど、
• 短期留学するよりは身に付きやすそう • IELTSに比べて参考書がいっぱいある • 目標をたてたほうが短期間でのびる ので。半年くらい悩んでいま決めた。
TOEICに関して:
文法と基礎的な単語を覚えるのは1年かかってしまったけど、それさえ愚直にやってれば、TOEIC対策をすれば3ヶ月で800点はとれるよ、逆にしっかり中学レベルから叩き込まないと、何年勉強しても変わらないよ、という事でした。単語は、DUOと、問題集にでてくる単語を覚えれば十分。
テスト勉強自体は、短期間で一気に問題をときまくる、読みまくる、聞きまくる、というのが大事かなー。
あとは、TOEICの勉強してるときは、英語の勉強というよりはゲームの攻略みたいでおもしろかった(やれば点がのびるので)
世の中には、TOEICマニアみたいな(毎回うけて満点、傾向と対策を語り合う)という人もいて、勉強中はすごい参考にさせてもらった。
基礎の部分で、同じ事を愚直に繰り返す必要があるのは、スポーツとか楽器の練習に近い。その感覚がある人は、勉強しやすいかもと思った。
原稿の段階においてはこれまでより表面的な文章それ自体に関する事柄が重要となる。冲方はこの段階を「肉書き」「皮書き」の2段階に分けるが、原稿の執筆と推敲をそれぞれ意味しているに過ぎない。本稿では表現上の混乱を招くだけであるため、特に冲方の分類には従わない。
さて、西谷のように本一冊を使ってこれを解説したているものも存在するが、その内容は全て基礎的な日本語文法の復習であり、独自の知見は少なく、例えばうなぎ文などを交えた日本語文法それ自体に関する細やかな議論があるわけではなく、また修辞技法に関する詳細な分類と効果について言及しているわけでもない。会話文の閉じカッコの前に句点は付けない、中黒ではなく三点リーダを偶数個使う、といった些末な作法をめぐるこれらの内容について本稿では特に言及しない。
文法、作法上の間違いではないが避けた方が好ましい表現についても、断片的ながらそれぞれの作家ごとに主張されている。例えば水島の「同じ語尾を連続して使わない」「台詞以外で「である」「なのだ」という語尾を使わない」「三点リーダと感嘆符の多用を避ける」、榎本の「三行以上にわたる一文は避ける」「会話の順番を固定し、誰がしゃべっているのかフォローの文なしでも理解できる方が良い」、西谷の「物事が起こった順番に書く」などである。
とはいえこれらは絶対に避けねばならないものではない。例えば同じ語尾を重ねることは畳語法として効果的に機能しうる一つの技術である。会話の順番を固定する、というのも、例えば5人の登場人物の会話順が完全に固定されて順に発言しているような状態が自然な会話文として望ましいとは思えない。それぞれ場合によって使い分けられるべきであろう。
よって本項では各作家によって提案されたいくつかの修辞技法についてを断片的ながら俯瞰するにとどめる。
水島は「明るい文」「ラノベ文体」として、「難しい表現を使わず、何が起こったのか一目でわかる」こと、「読者がハイスピードかつリズミカルに読める」ことが望ましいとする。
具体例として次の例を挙げている。
「すごい美少女だ!」
俺は驚き、つい声を上げた。と、同時に……、
――ドカーン
背後で、謎の爆発が!
なぜ難しい表現を避けるのかといえば、「読者は気合いを入れて読んではくれない」「メインターゲットとなる読者である中高生は学校の登下校、勉強の合間などに読むので、集中して読んでくれない」からだとする。「ラノベは読み飛ばされるのが宿命」だと水島は言う。これに近しい意図を持つ指摘としては、榎本による「ガイド」の提案がある。ガイドとは榎本独特の表現であるが、「シーン冒頭に「これがどういうシーンなのか」がわかる描写を書き込む」もので、つまりそのあとの文を読み飛ばされても何が起きたのかざっくりとは理解してもらえる、という効果が期待されているものである。
何が起こったのかわからないような文章を避けるべきなのは当然だろうし、テンポ悪くだらだらと薀蓄を書き連ねたようなものは(それをウリにしている作家もいることは事実だが)大体の場合避けるべき、というのはさほど違和感のない話である。
とはいえ学校の登下校、勉強の合間などに遊ぶテレビゲームや携帯ゲームは集中されないのか、といえばそうではないだろう。読者が集中してくれないのではなく、読者の集中を誘うだけの内容が無いからではないのか。
読者はバカだからバカでもわかるように書きましょう、というのは、逆に言えば中身の無さ、文才の無さを読者に責任転嫁しているに過ぎないとも考えられる。筒井は様々な実験的小説を書いてきたが、それは「読者の理解力に対する理解があってこそであった」と自分の読者ならわかってくれるという確固たる自負が見て取れる。もちろんそれは既に作家としての名声を確立した後だからこそ、という面は否定できないが、作家から読者をバカにしていく、という水島の姿勢はいささか理解に苦しむところである。
クーンツは作家に与えられたチャンスは最初の3ページだという。第一文から始まる3ページで面白いと思わなければ読者はそこで読むのをやめる。そして読者を3ページで魅了するための技術として、過激なアクションに始まること、ユーモアを含ませ、一度冷静に状況説明をしてから再度緊迫した場面展開に話を戻す、という手順を紹介している。
一方で西谷は望ましい書き出しについて、いくつかのラノベの冒頭を並べてその傾向を述べており、主人公の描写、自己紹介、考え方から始まるタイプと、主人公の目に映るものを描写する書き出すタイプの2通りのいずれかが望ましいとしている。
また忌避すべき典型例として「壮大な書き出し」を挙げている。例えば人類の9割が滅んだ世界であることを厳かに説明するような文章は避けるべきと言い、それくらいなら他愛もない会話からはじめ、その途中で人類の9割が滅んだことを明かす方が望ましいとしている。
人類の9割が滅んだ、とは物語背景となる情報であり、重大だが具体的な動作を連想させる情報ではない。それに比べると会話文は動作とひもづくものであり、その意味ではクーンツの「アクションに始まる」という内容と大きく矛盾するものではない。
しかしながら、これも絶対的に忌避されるべきかといえば難しい。
例えば名作と名高い「猫の地球儀」は
と、まさしく壮大な書き出しで始まる。「同じ語尾を連続して使わない」に余裕で違反する3連続の接続助詞「で」に加え、何の説明もなく独自の専門用語を第二文目で出すなど言語道断である。
しかし筆者は、上述の水島のドカーンをはるかに凌駕する圧倒的な魅力をこの書き出しに感じる(もちろんそうは思わない人もいるだろうし、それを否定する意図はない)。
作家に与えられたチャンスは最初の3ページだ、というクーンツの主張には、一読者としての経験則的に筆者も同意できるところではある。しかしではどういった書き出しが望ましいのか、といえば一概にこうでなければダメだ、というのは難しいように思われ、筒井による「いい書き出しかどうかは結局のところ作品全体の出来に左右される」という指摘がもっとも妥当であるように思われる。
従って、アクションから入ろうが主人公の身の回りから入ろうが壮大な書き出しで始まろうが、3ページで読者を作品世界に没頭させる内容が実現できればそれで問題は無いと言えるだろう。
頭に浮かんだ順に適当に書いていくと散漫な記述になりがちであるとして、西谷は「自分が描こうとする場面を実際に図に書いて、どういう順番で描写するかを決める」のが効果的だとする。この主張はその場に存在する様々なものを具体的に詳細に想定しているかどうかの事前確認という意味合いが強い。
また、「目に見えるものだけを書いていると、リアリティーのない文章になってしまう」として五感への意識を促す。嗅覚については言及されることが少ないが、特に音については場所、方向、登場人物の存在を示す役割を果たす効果的なものだとする。また西谷独特の主張として、足下の変化は触覚という点で効果的であると主張する。
こうした西谷の指摘に加えて榎本による「静止したものだけでなく動作する物を混ぜる」という指摘を考慮すると、情景描写の臨場感とはその情景における時間経過ではないか、と筆者は考えている。
止まった絵ではなく、音や匂いを含めた一定の時間の流れを含めた「図」が望ましいという意味では、作家は西谷の言うような「図」ではなく「絵コンテ」を書くべきだと言ってもいいだろう。
仮に作家が自分の想像を完全に文章化でき、そこから読者が作家の想像通りに完全に場面を想像できるとした場合、静止画が再生されるよりも動画が再生された方が臨場感が高いのは言うまでもないし、そこにに音や匂いも付与されているのであれば、臨場感はさらに高くなるだろう。
絵コンテという考え方はまたカメラワークへも影響すると考えられるが、映像作品におけるカメラワークのセオリーとこうした娯楽小説における情景描写の順序や方法の類似点、相違点については十分な調査と検討が必要と思われ、本項では今後の検討課題として割愛したい。
より良い場面の切り替えについて、クーンツによる指摘に触れておきたい。クーンツは「ひとつの場面が終わったら、すぐさま読者を次の場面へ案内しなければならない」こと、そして簡潔さを重視する。例えば主人公は一人自室でテスト勉強をしている場面Aと、学校でテストを受けている場面Bを連結させるとする。この間にはもちろんさまざまな出来事、例えば寝て起きて朝ごはんを食べて家を出て電車に乗って学校に到着する、といった過程があるはずだが、それらをだらだら書くべきではなく、場面Aが終わった次の文ではテスト中の主人公を描くべき、という。
これは場面の切り替えにやっつけ仕事めいた過程を描く必要は無い、という単純な指摘に留まらず、各場面はプロット上必要不可欠な要素であるべきで、必要のない場面を含めるべきではない、とも理解できる。例えば場面Aのあと電車でヒロインと遭遇させる必要があるのであればそれを場面Cとして独立させ、プロット上場面AとBの間に配置すべきである。
クーンツは会話は全体の20~30パーセントは必要だとする。一方で30ページ以上続く会話文も問題であるとしており、当然であるがバランスが必要である。
その場に登場人物が2人しかいないときに、いちいちどちらの発言か説明しないと読者が理解できないようならその会話が悪い、という指摘や、「「言った」という動詞が連発しないよう、表現を工夫する、などというのは過ちである」というのはなかなか面白い指摘と言えるだろう。クーンツは発言内容が重要なのであれば、それ以外の「言った」という表現を「尋ねた」「口を開いた」「聞いた」など必死に工夫する価値はないとする。一方でアクションシーンでは動詞の選択は重要だとしており、その場で強調すべき要素とそうでない要素を区別することを要求している。英語と日本語の違いはあれど、これは文章のメリハリを付ける上では面白い指摘と言いうるだろう。
ヒックスは会話の機能として、「ストーリーを前進させること」と「登場人物を明らかにすること」を挙げるが、特に後者については人物の性格を読者に理解させる重要な要素だ、と換言できるだろう。
このようにクーンツ、ヒックスはともに会話文を重要な位置づけにあるとみなすが、一方でラノベ作家陣からの指摘として、榎本は「キャラクターの会話ばかりで「そのシーンはどういう状況なのか」「今どうなっているのか」が全く書かれていない作品」を批判する。
この点については筒井が「描写や展開が面倒なのですべて会話で片付けようとする」ことを批判しており、何のために会話文を書いているのか、という目的意識に違いがあるように考えられる。すなわち情景描写が苦手だから、間が持たないから、といった問題を正面から解決するのではなく、会話文で埋めることでごまかすようなことが榎本や筒井の批判するところと言いうるだろう。
説明するまでもないが、小説では一人称体、もしくは三人称体が多く用いられる。この人称に関しては、どの創作技術本でもありがちなミスとして、一人称体にも関わらず語り手の知り得ない情報を記述してしまう、という点がよく指摘されるところである。
一方で三人称体は登場人物の知りえない情報を記述することができるという利点があるが、一人称体がその語り手が同化する先の人物への感情移入を惹起しやすいのに対し、三人称体はその点で劣ると言えるだろう。
このことから水島は、「楽しさ重視のコメディは一人称」が望ましく、「複雑なストーリーは三人称が向いている」としている。では一人称体と三人称体を組み合わせて書けばいいのではないか、という意見については、それは読者の理解の混乱を招く手法として否定し、また三人称体においても実質的には「主人公が今どうなっているか」を中心に描くことが望ましいとしている。
一方で飯田は三人称体をとるメリットは「キャラクターそれぞれの内面が描ける」点にあるとしている。実際「インフィニット・ストラトス」を例に、飯田は一人称体と三人称体の混濁を否定せず、それどころか「主人公の一人称視点と、ヒロイン寄りの三人称視点を使い分けて全ヒロインからの愛され感をもたらしている」と高く評価している。
とはいえ三人称体として振る舞いつつ登場人物それぞれの視点に入ったり、といった視点を「神の視点」と表現し、これは避けるべきものだとする論調は少なくない。
一切言及されていないが、現実には三人称体に一人称表現が入り込む技法は自由間接話法と呼ばれて存在し、主人公の知る由もない情報を描けるという三人称のメリットと、感情移入を容易にする一人称のメリットを同時に享受できる極めて強力な技法である。
なぜ言及がないのかといえば、これを多用する作家はさほど多くなく、むしろ全く使わない作家の方が多いことから、おそらくはプロの作家自身、これを人に説明できるほどうまく扱える自信が無い、ということが原因ではないかと思われる。
他方、これと似て非なる技法に「神の視点」があり、これについて触れたものとして、クーンツは「ストーリーの途中で作家が登場人物を批評したり意見を述べるのは19世紀の時代遅れな手法」としており、もはや使うべきではない技法だとしている。
端的に言えば「あぁ、神よこの男を憐れみたまえ」といった大仰なそれに対する指摘であるが、例えばH.P.ラヴクラフトなどは意図的かつ効果的にこの神の視点を用いていたように筆者は考えているし、町田康の有名な「あかんではないか」などは見事にこれを活用した好例と言いうるだろう。
筒井はこれを「劇化された語り手」であるとしているが、これについてはまた詳細かつ精密な議論が必要であることから本稿では割愛する。
水島は夢や過去の回想について、これらは今誰が何をしているのかがわかりにくくなる、述べており、またこの点についてはヒックスも同様の指摘をしている。「バック・ストーリーの情報を提示するのに最も効率が悪く気の効かない方法が、フラッシュバックである」と、フラッシュバックはドラマの勢いを失わせるものだと注意を促している。
一方で、筒井による「遅延・妨害」に関する記述はある意味でこのフラッシュバックの効果を逆用したものとも言いうるだろう。具体的内容としては、「読者の疑問を宙づりにしたまま進行させる」ものである。特にクライマックスの直前など、いよいよ事態が緊迫し抜き差しならない状況であることを描いたところで、突如穏やかな場面に切り替えて「あれはどうなっているんだ」と読者の不満をあえて買い、じらした上で緊迫した事態の展開に再度移る、ということでより大きな満足感を読者に与える効果があるとする。
クーンツもその冒頭において、過激なアクションの次に一度冷静な場面を挟み、再度戻る、という手法を提案しているが、効果としては似たようなものだろう。
推敲の重要性を否定するものは一つとしてない。しかしどう推敲するか、という点について具体的に述べているものはそれほど多くは無い。例えばキングによる6週間空け、そして1割削減する。ワナビにとっては6週間も余裕がないことの方が多いだろうが、一定の時間を空けて自分自身で読み直すことの効果は少なくないだろう。
冲方は推敲の要点として、「冒頭とラストにインパクトと引きを作る」「事件とはあまり関係のない人間の登場を減らす」「専門用語は前半は少なく、後半は多くする」という推敲の指針を挙げる。最初の2点はプロットレベルでの書き直しが要求される内容でもあるだろうし、そもそも事件(物語)に関係ない人物を登場させる意味はなにか、という疑問もあるが、専門用語の配分などは参考になるだろう。
最後に、推敲は一度で終わるものではない。アイディア、プロット、原稿まで順に進めるとこれまで述べてきたが、推敲によって再度プロットへ、またはアイディアまで戻ることはいずれの説においても当然のこととして主張される。
テスト勉強できない奴みたいなのが出てきたし、いわゆるクレヨンしんちゃんの、みさえみたいなもんだろ?
ググってもみさえがいるなーくらいのイメージだが。。。
テスト期間だったのでつい思い出して書いてみる。
共学ならみんな知ってるし、経験あると思うのだが、女子はなぜかテスト前になると、セックス禁止令、を突然打ち出してくる。
その日もテスト勉強という口実で彼女の部屋に上がりこんでいた。もちろん勉強なんてするはずがなく、いつものように制服を着たまま後ろからおっぱいとか揉み始めたんだ。
「ちょっとぉ、だめだよぉ。」と言いながらセックスに流れ込むのがいつもの流れなんだがその日は違った。
「ダメ!」
「○○ぜんぜん勉強してないでしょー。きょうからテスト終わるまでエッチなこと禁止。」
「いいじゃんかよー。」と言っても冷たく、「勉強しないなら帰って。」と言い放たれた。
当然性欲の塊だったおれは、「ふざけんなよ、ばーか。」と捨て台詞を吐いて、彼女の家から出て行った。
むかつくわー、と思いながらもしょうがないので家に帰って勉強に励んだ。そして決めた。「よし、それならオナニーも禁止しよう!」
その日からおれは彼女のことを忘れ塾の自習室に入り浸り、勉学に励んだ。でも、同じ塾の他の女子高の女の子と仲良くなってしまった。
「オレくん、彼女とかいるのー?」「いないよー、いたらこんなとこで勉強してないし。」「うそー。」「△△ちゃんは?」「わたし受験生だからー。」「うそ。。。じゃあデートとかできないっすね。」「オレくんならいいよー。」「うそー。」「ほんと、ほんと。」
とまあそんな冗談を言いながらぼくはテストが始まるまで自習室に通いつめ、△△と仲良くなった。
でまあテスト最終日。なんだかんだ言って、テストまでずーっと彼女に会うたびに、「テスト終わったらHさせてくれるんだろ?」「いま、オナニーも我慢してるんだぜ。」とか馬鹿なことを言って彼女を苦笑させていた。
そしていよいよ全教科終了。彼女がおれの机の方に近づいてきた。
「帰ろ。」とぼくの小指と薬指をぎゅっと握ってきた。
「おい、○○、カラオケ行くけどどーする?」「ちょっと用あるから後からいくよー、場所は?」
彼女はまだぼくの小指と薬指を握ったままでした。
ぼくは携帯を取り出し、「図書室の下の体育用具庫に行ってて。」
名残惜しそうに二本の指を離し、彼女はかばんをもって教室を出て行きました。
図書室の下は高飛びのマットレスが置いてあり、そのほかにもいろいろ体育用具が所狭しとおいてありました。おれはそこを秘密基地のようにして使っていたのです。この用具庫というのは、よくある二階建ての家で二階は部屋、一階は丸見えの駐車場のようなつくりになっているのでマットレスは外から丸見えです。でも、その奥に小さな雨などに濡れてはいけない用具をしまっておく部屋がありました。もちろん鍵はかかっているのですが、上下に風を通すための小さな引き戸があり、その引き戸を上下にがちゃがちゃ動かすとかぎが外れそこから中に入れることは、おれらの間では周知の事実でした。で、たまーに、そこでセックスをしていたのです。中に入ればツッカエ棒のようなもので外からの侵入を防ぐこともできるようになっていました。その前に、ハードルを置いておくと、中に人がいるよ、セックスしてるかもよ、というのがおれらの共通サインでもありました。とはいえ、おれが見つけた場所なので普通の生徒たちは知るべくもありません。数人の友達に教えた程度でした。
体育用具庫に行くと彼女がいたので、いきなり抱きつき、高飛びマットレスの上に押し倒しました。
「だれかきたらどーすんの。ふぁん。」とすでに喘ぎ始めています。僕は自然と手をスカートの中に入れました。すると、そこにはぐちょぐちょになったおまんまんがあったのです。
「すけべだなあ。もうこんなに濡らしてるの?」