はてなキーワード: エラーとは
プログラマーに憧れる皆さん!こんばんは。
「自分は文系だから」「未経験だから」と諦めていませんか?大丈夫です!プログラミングにセンスは不要です。正しい手順で学べば、文系や未経験でも、誰でも一流のプログラマとして活躍することができます。
今日は、未経験から最短でWeb系企業に就職するための勉強法をご紹介します!
もっともオススメの方法は、顕正会のセミナーに参加することです。
顕正会は、日本で最大のエンジニアのコミュニティであり、非常に良質なテキストを用いて、プログラミング初心者向けのセミナーをしていることで有名です。顕正会に入ることで、未経験からでも一流エンジニアのノウハウを学ぶことができます。
また、意外と知られていませんが、日本のエンジニアの8割は顕正会の出身です。実はあのひろゆきやビル・ゲイツも顕正会の出身です。ですので、顕正会のネットワークを介して就職先を斡旋してくれたりしますし、自分が顕正会員だと、面接時にも非常に有利になります。
顕正会のセミナーは、インターネットからも応募することができますし、秋葉原などで声をかけられることもありますので、誰でも簡単に参加できます。会員もフレンドリーな方ばかりですので、是非、お気軽に応募してみて下さい!無料体験もできますよ。
プログラミングの勉強を始める前に、まず、必要なものを準備しましょう。必ず必要なものと、できればあると良いものは以下の通りです。
可能な限りスペックの高いものを買いましょう。2021年現在であれば、CPUは18コア、36スレッド。RAMは128GBくらいはあると良いでしょう。ストレージはSSDであれば1TBもあれば十分です。
OSは、Windowsで開発するならWindowsが、Macで開発するならMacが必要です。よく分からなければMacを買っておく方が良いでしょう。基本的にMacにできてWindowsにできないことはありません。
インターネットは、この記事を見ている人は既に持っているでしょう。ただし、モバイル回線で見ている人は、自宅に有線のインターネット環境を用意した方が良いです。
顕正会に入会すれば、上記のスペックのPCを無料で貸し出ししてくれます。また、法人向けの専用線を無料で取付工事を行ってくれる上に、通信費を全て負担してくれます。
まず、他の会員と連絡を取るために、SNSのアカウントを持っていると良いでしょう。
最近は完全にPC上での学習もできますが、やはり、勉強の基本は紙のノートに直接書くことです。医学的にも、手指の動きと脳の記憶回路が関連していることは証明されており、手を動かすことで効率的にものを覚えることができます。
Kindleなどの電子書籍リーダーは持っておいた方が良いです。紙の本は時代遅れです。いやしくもITのプロを目指そうという人間が、このような最先端のデバイスを使っていないのは恥だと思うべきです。紙の本を買わないことは、環境を守ることにも繋がります。現金も持つのはやめましょう。
せっかくセミナーに参加しても、受身で聴くだけでは、プログラミングを習得することは難しいです。ここでは、自宅でどのような勉強をすればよいのか、ご紹介します。
まずは、教科書や参考書を写経することから始めましょう。教科書や参考書の本文を一字一句正確に書き写すのです。
よく、「写経は理屈を学べないからだめだ」と批判されますが、まずは正しい「型」を体に覚え込ませるのが先です。野球や水泳などでも、細かい理屈よりも先にフォームを固めるのと同じです。書き写している内に理屈は自然と身に付きます。
また、写経のメリットは「飛ばし読み」を防げるところです。一字一句正確に写経をすれば、細かい部分を「分かったつもり」になって飛ばしてしまうことを防げます。たとえば、比較演算子の等号は=ではなくて、==です。プログラミングはこういうところに注意して学ばなければいけません。
教科書のサンプルコードをノートに書き写したら、それを今度は自力でフローチャート(UML)に変換してみましょう。そうすることで、自分が本当にそのコードを理解しているのか、確かめることができます。
フローチャートやUMLが素早く正確に描けることは、プログラマーとして働く上で非常に重要なスキルです。それらはソフトウェア設計の基礎となりますし、ソースコードを読めない営業や顧客にとっては貴重な資料となるからです。プロのエンジニアは、COBOLのソースコード10万行を1週間でフローチャートにして、Excelに転載することができます。
ここで一つ注意すべきことがあります。フローチャートを描くときは、必ず専用の定規を用いて描いて下さい。フリーハンドで描いたものは業務ではフローチャートとは認められません。これはまともな企業に就職すれば研修などで必ず習うことですから、今の内に覚えておきましょう。
エンジニアを目指すのであれば、プログラミングだけではなく、Excelの使い方も学びましょう。Excelはエンジニアにとっての万能プラットフォームです。エンジニアはあらゆる作業をExcelで行います。セル結合や罫線を用いて、見栄えの良い資料を作る技術は、エンジニアにとって必須です。
プログラミング学習中であれば、たとえば以下のような題材の資料を作ってみると良いでしょう。
尤も、以上の資料は、ツールを使うことで自動で作成することもできます。たとえば、ソースコードの更新履歴はGitなどのバージョン管理システムを使うことでも管理できます。しかし、それらの資料としてのクオリティは非常に低いため、アマチュアしか使うことはありません。プロを目指す皆さんは、必ずExcelを使いこなせるようになりましょう!VBAの習得も必須です。
以上、プログラミングの勉強法について解説しました。ここからは、実際にソースコードを書くときのコツを紹介していきます。他のプログラマと差をつけることができる技術ですので、意識するようにして下さい。
理想は、aやxなどの一文字です。ただし、これだけだと26文字しか使えないので、a1, a2, ...のように連番でグルーピングすると良いです。
また、変数の宣言と使用箇所が離れた場合に、変数の型がすぐに分かるように、たとえばint型であればi1, i2, ...、string型であればs1, s2, ...のように命名すると、読む人に親切で自分もミスしにくくなります。
変数名を長くするのは、以下のデメリットがあるため、絶対にやめましょう。
多くのプログラミング言語には、クラスや関数といった機能がありますが、これらは基本的にライブラリ提供者などが使う想定の機能であり、一般のプログラマが使うのは好ましくありません。したがって、クラスや関数はなるべく使わないようにして下さい。
不要な関数を作らないためのテクニックには、以下のようなものがあります。
まず、関数の引数に「フラグ」を渡し、関数内部で処理を切り替えれば、1つの関数で複数の処理をすることができます。
function f(i) { switch(i) { case 1: // i = 1のときの処理 break; case 2: // i = 2のときの処理 break; case 3: // i = 3のときの処理 break; // ... } }
この方法は、以下に述べる「変数の寿命を伸ばす」効果もあります。つまり、この関数内で宣言された変数は、すべての処理で共通して使用することができます。
クラスに不要な関数を作らないようにするには、「継承」を用います。複数のクラスで用いる関数を定義したクラスを1つ作っておき、そのクラスを継承すれば、新しいクラスに関数を定義する必要はありません。
理想的には、プログラム内のすべての関数を同一のクラスに定義し、それを継承するべきです。そのようなクラスは俗に「神」と呼ばれ、プログラマからはこの上なく尊ばれています。
class God { f1() { // 関数1 } f2() { // 関数2 } // ... } class C1 extends God { // 何も書かなくても上の関数が使える! } class C2 extends God { // 何も書かなくても上の関数が使える! } // ...
変数は宣言する場所によって、ソースコードのどの範囲から参照できるかが決まっています。この範囲が広いことを、「変数の寿命が長い」と言います。
たとえば、以下のコードのaは、関数定義の外側からは参照することができません。
function f() { var a = 1; return a; }
一方、以下のコードのaは関数の内外どちらからでも参照することができます。
var a = 1; function f() { a = 2; return a; }
せっかく作った変数がすぐに死んでしまうのは、非常にもったいないです。ソースコードの表面には現れませんが、変数を作ったり捨てたりするのには、計算コストがかかります。したがって、寿命の短い変数を作りすぎてしまうと、プログラムが遅くなってしまいます。
また、変数の寿命が長いということは、変数をたくさん作らなくても、1つの変数を色々なところで利用できるということであり、とても便利です。たとえば、上記の前者のコードでは、関数の外部からaの値を参照したくなっても、参照することができません。後者のように書いておけば、プログラムのどの箇所からでも、aの値を参照したり、更新することができます。したがって、変数の寿命を長くするとプログラムを変更しやすくなります。つまり、保守性が上がります。
例外とは、プログラムが予期しない処理をしようとした場合に、プログラムの実行を停止し、呼び出し元にエラーを通知する機能です。たとえば、「test.txt」というファイルを開こうとしても、そのファイルが存在しない場合は、例外となります。
例外が発生すると、プログラムが停止してしまうため、非常に困ります。したがって、プログラマは例外をきちんと処理しなければなりません。
ほとんどのプログラミング言語には、例外処理のための機構があります。たとえば、以下のような構文です。
try { // 例外が発生し得る処理 // ex. ファイルを開く } catch (e) { // 例外が発生したときに、実行する処理 }
例外への対処は実はとても簡単です。是非ここで覚えて下さい。上記のような機構のある言語であれば、catch節の中身を何も書かなければ、例外が発生しても、何事もなくプログラムは動作を続けます。
try { // 例外が発生し得る処理 } catch () {}
全ての例外を潰せば、決して不慮の動作で停止することのないプログラムを作ることができます。ですから、例外が発生し得るコードは、積極的に上記のtry-catch構文を用いて、例外を潰すようにしましょう。
書き込みに表示されている縮小画像をクリックすると404エラーと共に「This domain contains user submitted media for desuarchive.org. Send takedown notifications to admin@desuarchive.org」という文言が出て来てオリジナルサイズの画像が表示されなくて困っている。
たとえばペットの犬が死んだあとに犬死映画を何本も見て、沢山感情移入して沢山泣いて復活とかしちゃ駄目なのか?
自分の思想に自信をなくした時に同じような気持ちで作られた物語を見て、自分はこの世界で孤独なんかじゃないんだと救われた気持ちになっちゃ駄目なのか?
そもそも作品見て救われる気持ちって結構な頻度で感じるものじゃないか?
たとえば宇宙映画でロケットの発射シークエンスが当時のものをリアルに再現しつつも映像的にはギリギリの所で嘘を混ぜて来てると「そうそう。あそこは誤魔化しちゃ駄目だけど、ここはこう誤魔化すと観ていて楽しいものになるんだよな」って共感が湧いてきたとして、それって鑑賞者として救われるような気持ちにならないか?
逆に今まで全く理解できなかった価値観に対しどういう理があるのかを伝えられたときも納得という形から過去のトラウマに対して「あれ?あれってつまりは単なるコミュニケーションエラーかよ」みたいになってつっかえが取れたりするけど、それも救いの一種だと思うんだよな。
作品の話をするときに自分が救われたかどうかって案外関係あるんじゃないかな?
自分が好きな小説や映画を上げていったらそのうち半分ぐらいは「自分がソレを観て救われた」って話が絡んでくるもんじゃないの?
少なくとも自分は10作ずつあげたら2作ぐらいはモロに「俺はこの作品に救われたんだ!この物語のコイツは俺なんだ!これは俺みたいな連中のための物語なんだ!」って思わせてくれたのが入っちゃうけどな。
まあそういうのって表裏一体ってのはたしかに分かるんだわ。
たとえばレディプレイヤー1なんてオタクからは「俺彼女出来たわwwwwリアル恋愛最高wwwお前らネット中毒は地に足つけろよwwww」と煽ってくるから最低の映画って評価受けてるっぽいけど、まあそこまで主人公に感情移入しまくって陰キャの物語として観てたら梯子外された気持ちになるよな。
まあだから作品の善し悪しと自分が救われたかを完全にまぜこぜにしていいのかってのは分かる。
いやでもそれって大体の人ができてるよね?
「自分が救われたかどうかだけで作品を判断するな!」と言ってる人は単に自分が一度に一本の物差しでしか測ってないだけでは?
世の中の多くの人は複数の物差しで作品を鑑賞して、複数の物差しで測った結果をときに総合的にときに個別に述べていくと思うんだよな。
だから特定の物差しで測った結果について語られたのを観て「それだけで語るな!」ってのが通るのはアマプラにレビュー載せられた時だけであって、レビューの平均点にも絡まない場合なら個人が特定の物差しでだけで感想語っても問題なくね?
kingate 監督くんの憑き物落としの物語に付き合ってるだけだぞ。何でオマエが救済される必要がある?
iinalabkojocho コンテンツを「自分が救われるかどうか」の基準で見てたら楽しめも心動かされもしないでしょうね。世代と関係なく。
この辺への返答だけど100文字じゃ描ききれなかったので。
スマホのブラウザでツイッターを見るときに「問題が発生しました。再読み込みしてください」が出ることがある。
このときに「やりなおす」ボタンを何度押しても問題は解決しない。
そこで1回前のページに戻ってツイッターにアクセスすると同じエラーが出るが、もう1回戻ってまたアクセスすると今度は正常に表示される。
社内システムを使えないと仕事が進まないため、シオノギ製薬グループの中には、テレワークの初日に仕方なく出社した人もいた。「想定していたよりも使えない」と従来のVPNに危機感を感じた那須さんらは、拡張性の高いクラウド型VPNを急きょ追加で導入する方針を固めた。
「以前から、社内システムの開発の一環で、当社とAWSのデータセンターを専用線でつないでいたこともあり、AWSのVPNを使うことにしました。VDIの導入も考えたのですが、マスターイメージを短期間で構築するのは無理だと判断しました」
そこで、テレワークを始めた4月8日中に、シオノギデジタルサイエンスのインフラ部門のトップが、CIOを兼任している副社長に「緊急対応策としてAWS Client VPNを使いたい」と直談判。9日に議論し、10日に許可が下りた。「早速10日に、関係者が集まって動作検証を始めました」と那須さんは振り返る。
シオノギ製薬グループが導入した「AWS Client VPN」
許可は下りたものの、設定に時間がかかると出社する社員が増え、感染リスクが高まる。那須さんたちは出社する社員を減らすため、急ピッチで準備に取り組んだ。すると、そこに思わぬ落とし穴があった。
「VPN経由で社用の『Microsoft Office Outlook』に接続する動作検証をしたところ、エラーが出ました。認証に失敗し、『インターネットに接続できません』と表示されるのです。どうすれば直るのか、見当もつきませんでした」
那須さんたちは途方に暮れた。タイミングも悪く、4月10日は金曜日。週明けまでにVPNを増強し、社員のテレワーク環境を整えるには時間がない。間に合わせるには、休日を返上するしかなかった。「在宅で土曜日にトラブルシューティング、日曜日に動作検証を行うことにしました」と那須さんは振り返る。
そして、土曜日にネットワークの専門知識を持つ社員が調べた結果、ルートテーブルの設定が漏れていたことが分かった。
「デフォルトルートを規定する際に、AWSのVPNクライアントを経路に選択できていませんでした。既存のVPNは自動でルートを設定できており、AWSのリファレンス(説明文)にも記載がなかったので、自動で設定が完了すると思い込んでいたのですが、AWSは手動設定だったのです」
こうして那須さんたちは土曜日にトラブルを解決した。日曜日の動作検証には、休日にもかかわらず、研究開発系やバックオフィス系などユーザー部門の有志が参加。AWS Client VPNが問題なく動くかをチェックし、自宅からでも社内システムにアクセスできることを確認した。
・とりあえずVPNにしよう
・とりあえずAWSにしよう
ヤシの実洗剤を買った。あの、ラベルに爽やかなヤシの実が描かれた食器用洗剤だ。
コスパを重視しまくる私は”お徳用”とか”業務用”ってやつに目がなくて、定期的に買うような日用品は何でも大容量のやつを選んでしまう。
バスルックは4キロだし、シャンプーは5キロ入っているものを買った。おそらく一年以上買い換える必要はない。
そんな私が、ホームセンターで食器用洗剤を探していた時に目をつけたのが、おなじみヤシノミ洗剤が5キロも入っている商品。
ホームセンターの棚の一番下にホコリを被って鎮座していた。長いことここに置かれていたのだろう。
私はこの5キロボトルがとにかく好きでだ。アホみたいな内容量とそのずっしりとした重さは、「今後世界が一変しても、とりあえず半年くらいは今まで通りコイツを使い続けられる」という安心感を与えてくれる。
つまり、5キロボトルの洗剤があった時点でそいつを買う以外の選択肢はない。しかもコイツ、3倍コンクと書いてありる。
「コンク」の意味を調べると「濃縮されたもの」と出てきた。おお、素晴らしい。つまり、コイツは内容量は5キロだが、その中身は3倍に濃縮されているので、実質15キロ分の洗剤が入っているのだろう。
こんなの見せられたら買うしかない。ヤシノミ洗剤の洗浄力とかそんなものはどうでも良くて。とにかく、大容量っぷりにメロメロだった私は、5キロのヤシノミ洗剤とともに自宅へ帰っていった。
後日、わざわざ詰替え用に通常サイズのヤシノミ洗剤を購入し、頑張ってそれを使い切った。100円ショップで適当にボトルを買ってきても良かったが、あのヤシの実が描かれたボトルがなんかオシャレで、キッチンに置いておきたかったのだ。
早速ボトルに詰め替える。5キロボトルは棚から取り出すだけで一苦労。詰替作業も最早ちょっとした筋トレ。
ん?
ラベルにでかでかと3倍コンクと書いてあったので、当然3倍に希釈するものだと思っていたが……
希釈倍率は1200倍だった。
え?3倍コンクどこいった?そもそも1200倍って……え?
意味がわからん。希釈で1200倍って、もうそれはただの水だろ。
「泥水にワインを一滴たらしてもそれは泥水のままだが、ワインに泥水を一滴たらせばワインは泥水になる。」って言葉あったが、1.2リットルの水に1ミリリットルの洗剤を垂らしたって、それは水だろ。どんなにコンクされてたって、洗剤にはならない……というか1200という数字はどこから出てきたんだ。
ということで調べてみたら、3倍コンクされていない5kgヤシノミ洗剤を発見。使用方法を見てみると…
希釈倍率400倍だった。なんでだ。3倍コンクじゃないやつの時点でだいぶ濃縮されてる。
ということで、3倍コンクする前の洗剤の時点で400倍に濃縮されていたみたいだ。3倍コンクは、「400倍に希釈する洗剤を更に3倍濃縮した洗剤」という意味だった。400✕3=1200。希釈倍率1200倍の謎が解けた。
そして、もうお気づきの方も多いと思うが、5キロある洗剤を1200倍に希釈したらどうなるか。
6トンじゃん。
最終的に6トン分の洗剤になる。気づいたらヤシノミ洗剤を6トン分買っていた。
一般的なヤシノミ洗剤のボトルは内容量500gである。つまり6トンだと?
うっかり1万2000本分の洗剤を買っていたらしい。日常で起きるエラーにしては桁がおかしい。
1万2000本分の洗剤を死ぬまでに使い切ろうと思ったら、どれくらいのペースで消費する必要があるんだ?
計算してみたら1.6日に1本でした。
一週間に11本。
確実に使い切る前に死ぬ。
高校生のワクチンに対する誤解に驚いた…!若い世代の「ワクチン不信」の根にあるもの
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/85833
筆者の稲葉 可奈子医師、自身で運営するみんパピサイトによると京大医卒(厚労省サイトではH20)、東大で学位取得。
卒後市中病院・大学病院等での勤務を経て現在は関東中央病院産婦人科勤務とのこと( https://minpapi.jp/staff/ )。大きな病院、名のある病院にいる間なら
そのネームバリューにより、見ず知らずの若い医師でも通院してくるぐらいには信用されていたことだろう。また、自身も研鑽に励んできたことだろう。
わたしは産婦人科医なので、HPVワクチンの説明をする機会も多いのですが、「なんとなく不安」な人というのは、正確な情報が届いていないため判断材料がない、もしくは、自分で調べてもネットにはあまりに多くの情報が氾濫しており、どれを信じてよいか分からない(往々にして不安な情報の方が印象に残ります)ため、判断しきれないまま接種をためらっています。そういう人の中には、かかりつけ医に質問し、正確な医学情報に基づいた説明を受けることで不安が払拭される人もいますが、医師に質問する機会がない人もいます。
まるで、「正しい情報」をあなたが話すれば必ず信用され不安が払拭されるでもといわんばかりだけど、あなたが一人の医師として見ず知らずの高校生に話したとして、どうして信じてもらえると思うの?
・こういうの学校で教えてくれたらいいのに
という声が多数届きます。
っていうけど、あなたの話聞いて「うさんくさ」とか思った人がわざわざ「いややっぱり接種しません」とか声を届けに来ると思う?もうその時点で入ってくる情報にバイアスかかってるよね。
ワクチン不信の根底にあるもの? そりゃ医療や保健行政に対する不信感そのものなんじゃないのかね。私が卒業したころは医療におけるエラー削減など掛け声ばかりで、現場では各医師テキトーな
医療やってて看護婦(当時呼称)が何か意見しようものなら烈火のように怒りだす人もいた。ぺいぺい(PayPayじゃないぞ)が疑問を口にできるような雰囲気ではなかった。そのような環境で
「医療ミス」は割かし頻繁に起こっていた。大事に至るのは少ないが、それをエラーの防止に役立てようなどという意識は低かったように思う。製薬業界との関係ではプロパー(当時呼称)に
たかるのは当然で、ことあるごとに薬の説明会と称して、製薬企業もちの昼食付き講演会、飲み会が行われていた。つまりはもうべったり「もちつもたれつ」みたいな意識だった。COIなにそれ?状態だった。
世間が白い目で見るのも当たり前と言えば当たり前で、こんな過去があって今に至るのに、最近マシになってきた上澄み部分しか知らないような人が「医者がちゃんと説明ればわかってもらえる」とかナイーブすぎて苦笑してしまう。
aa ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ
じゃなくて
aa ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ
にしたい
javascript:(function (d, lowerThan, count) { const MinimumRequiredLength = 33; let currentCount = count(); const elem = d.querySelectorAll(".bookmarkadd-comment-form")[0]; if (!elem) { return; } if (lowerThan(count(), MinimumRequiredLength)) { if (elem.value.slice(-1) !== " ") { elem.value += " "; currentCount += 1; } } if (lowerThan(count(), MinimumRequiredLength)) { const kumas = ['ʕ•̫͡•', 'ʔ•̫͡•']; const indexes = '001101'; for (let i = 0; i === 0 || (lowerThan(currentCount + i * 5, MinimumRequiredLength) || currentCount + i * 5 === MinimumRequiredLength); i++) { elem.value += kumas[indexes[i % 6]]; } elem.value += 'ʔ'; elem.dispatchEvent(new Event("input")); } })(document, function(a, b) { return Math.floor(b / a) !== 0 }, function() { return Number(document.querySelectorAll('.js-bookmarkadd-comment-count')[0].innerText) || 0 } ); //add bear
こういう、特定の URL で特定の bookmarklet を呼び出す extension とか欲しい。これは用途に合わないけれど、クマを消すやつは自動で実行されてほしいものだろうし
考えていることを文字にするのは大切だとわかっているけど、自分で自分の思考が幼いとか、いわゆる中二病くさいとか、そういう恥ずかしさもあって、なかなか実行できないでいる。それでさらに心理的なストレスというか心理的な状況が悪化して、手がつけられないような状況になることを繰り返している。今も悪い。
外形的な環境は関係なく心理状態が悪いんだ、と自分で自分に言い聞かせているが、けっしてそんなことはないことは自分が一番良くわかっている。もし今とてもたくさんお金を稼いでいて、しかも人から尊敬されるようなことをしていたら、もし今文句のつけようのないような奥さんとか家族なんかがいて、幸せに暮らしていたら、自分の心は決してこのような文章を書くような状態には陥っていないと思う。
オリンピックを見ていても何をしていても、結局は現実逃避をしていて、その結果現実はさらに悪くなるということを何回も繰り返している。なんとかならないかなーと思いつつ、自分がアクションを起こさないことにはなんともならないことはよくわかっている。それができないでこの一年間、心は一時期に比べてストレスが少ない状態であったにもかかわらず、やはり一定のうつ状態からは抜け出せずにひたすら苦しんでいた。
人と会っていないし人の情報を得てもいないのに、嫉妬し、執着し、落ち込むことばかり繰り返していた。人と劣等感と優越感で勝負しても必ず負けて心がとんでもなく傷つく。そしてそれをわかっていながら何もできず、やはりうまく生きられない。
極度の人に対する気の遣いようというか、臆病さがあり、それによって配慮をすることで得をしてきた面ももちろんあるが、自分に余裕がない状況になるたびに人からの連絡を無視したり、不義理をしてすべき連絡をできなかったりという面で損のほうがよほど多い。もっとしぶとくならなければ生きていけないとわかっているが、自分の性質なのでなかなか治すことができない。
この世に対して深い恨み、無力感、絶望感を抱いているのに、死ぬこともしない。
死ぬことができないのには2つ理由があって、1つ目には家族が気の毒ということと、2つ目には一度自殺しようとしてできなかった経験から少し自分の自殺能力に疑問があること。自分が死んだあとには自分にとっての世界が存在しないから家族のことなんて考えても仕方ない、と頭ではわかっているが、やはり自分が死んだことを知らされる親、姉、祖父母、おばのことを考えると、さすがに申し訳ないと思ってしまい、極限のストレス状況ではない今の状況ではなかなか踏み切るところまでいかない。家族はみんな、自分が東京で出世することやお金持ちになることを望んでいるわけではなくて、単に元気で暮らしてくれたらいいと思っているだろう、ということもある。もし出世やお金持ちになることを希望しているのであれば、それは明らかに自分の能力では不可能なことなので自殺したほうがいいということになるが、そうではないのであれば、生きていたほうがいいということになる。自分としてはもちろん、生きていることそれ自体が本当につらく、耐え難い苦しみの連続でしかないので、死ぬほうが百倍楽なのだが。家族が、自分に対して元気に暮らしてくれればいいと期待すればするほど、自分は自殺に踏み切れず元気がなくなり、不幸が重なっていくという一種のパラドックスというか皮肉的状況にある。
常に強い劣等感に苛まれ、かつ何をしても絶対にうまくいくことはないという強力な固定観念があるので、生きることはただ辛い。どれだけ辛いかは本当に筆舌に尽くしがたい。生きているだけで、針の山を無理やり歩かされているような気持ちがする。自分としては、生きるのに向いていない遺伝子や個体というのもやはり一定割合のエラーの一つとして生物群の中に出てくることはまったく不自然ではないし、それが自然淘汰として自殺することも合理的と思う。それができないからつらいのだ。毎秒毎秒、塗炭の苦しみ。それも何にもつながらない苦しみだから余計に苦しいと感じる。何か成功に向けての苦痛とか終りが見えている苦痛ではなくて、ただ出口のない、無駄な、理解もされない苦痛。
高校のときに倫理の授業で「絶望は死に至る病」という本を習ったが、自分はそれを聞いて、机に落書きで「死に至らない病」と書いた。そうかんたんに死ねないから絶望というのは更に強いのだ。もし死ねるなら、絶望はそこまでひどくはない。元の本の趣旨は、絶望というのは人を死に追いやるほどの強力なもの、という意味が込められていると習った。しかし自分の感覚としては、死ねないからこそ絶望は更に深まり、もっと強力に襲ってくる。夜が明ける前が一番暗いし、日が沈む前が一番太陽が輝いているように、死を手前にしたところが一番しんどいのではないかと思う。勇気があって飛び込んでしまえる人はいい。その度胸もなく、かつ自分をうつ状態から引き戻す力もなく、絶望的なリンボーで永遠に苦しみ続ける感覚。それが16歳か17歳のときだっただろうから、少なくとも12,13年以上、自分は絶望にかこまれ、死ぬより苦しい思いを毎日、これでもかというほど味わって生きてきたことになる。もちろんそんなことは自分だけではないからそれを美化するつもりはない。また、幼い心で何か死ぬことを美化していたという面があったのか、と今振り返って反省してみるが、けっしてそんなことはなかった。死ぬことは当時から最悪の選択肢であり、人生における敗北であり、弱者の逃げでしかないことはよく理解していた。それでもなお、あまりに人生は辛く、とにかく敗北でも弱者でも逃げでもなんでもいいから死にたい。考えというよりも、感覚として死ぬことを求めている。のどが渇いたり、性欲がたかまったりするのと同じように、本当にもう無理でつらすぎるから死にたい、なんでもいいから死にたい、という強い希死念慮。それが間断なく、24時間365日襲ってくる。もしそれが抑うつ状態や軽度のうつ病の症状であったとするなら、12歳頃の子供の時から今まで、人生の大半、3分の2程度まではうつ状態であったということになる。自分としてはこれがうつ状態とは思っていない。それが平常。
主に外形的な要因で、時折、希死念慮が薄くなる躁状態のときがあったが、これがまともな人間の普通の状態にあたるのだと思う。自分にとってはそれは本当に数少ない異常状態で、絶対に長続きすることはなかった。神様が慌てて帳尻を合わせてきて、その小さな成功を取り消して、その後には2倍、3倍の失敗と苦しみを必ず与えてきた。
心の問題から離れて、外形的なほうで、なぜ人生は常にうまくいかないのかという点について。人生がうまくいきさえすれば、外形的になにもかもが思い通りに行けば、自分の心の問題はかんたんに解決すると思う。劣等感でひどく歪んだ性格や強い希死念慮、うつ状態が平常状態というおかしな心理的な特性を考えてもやはり、希死念慮に至るきっかけは常に外形的なことだったと思う。例えば部活でもっと活躍できれば、体育で体がもっと動けば、受験がもっとうまくいけば、就職が失敗しなければ、もっと女の子にモテていれば、もっと友人に恵まれていれば。外形的な、というのはそういうことを指している。
もともと自分は能力も低く、外面から見てもさほど恵まれていないし、それらを磨くという努力も怠ってきた。それが一つの原因としてなにもうまくいかない、という無力感や絶望感をコツコツと毎日休みなく蓄積してきた。そもそも自分は長期的な努力が苦手だ。かんたんに言えば怠惰だ。それにもともと持っている才能や外見やスキルもないから、当然うまくいくはずがない。世の中は持って生まれたもので勝負しないといけないという意味で公平で、結果においては公平公正ではないから、当然勝者は常に勝ち続け、敗者は常に負け続ける。有るところにはなんでもあるが、ないところには、本当に、徹頭徹尾、なにもない。本当に何もない。もちろんそれが世の中のあり方だし、みんなそれを前提に生きている。それに文句をつけるのは筋違いだ。
また、2つ目の理由として、何かしらの才能のかけらとか持って生まれたものがあって、そこの上にきちんと努力をして、成功確率を5割とか、ある程度のところまで高めても、運によってそれが左右されることももちろんわきまえている。運というのはなかなかくせもので、見た目上の確率が5割でも、実際には10割負け続ける、いわゆる持っていない人も世の中にはたくさんいる。そしてこれまでの人生から統計的に考えて、自分がその一人であることも疑いようがない。絶対に、何をしても、うまくいくことは有り得ない。少しでもうまくいきかけると、神様が慌ててやってきて失敗にする。それだけを繰り返してきた。でも、もちろんこれも同様に世のあり方だから、それに文句を言っても仕方ない。それはつまるところ天に唾するということであって、この世そのもの、というのは変えようがない。世の中すべて、というのはそれを感覚で捉え、見ている自分自身そのものだから、この世のあり方に文句をつけるのは自分の命に対して文句をつけるのと一緒。
そして自分は、何をしても、決してうまくいくことは絶対にない、ということを何度も味わった失敗からかんたんに学び取り、また世の中のあり方に文句をつけることは自分自身に対して文句をつけることと同じであることもまたかんたんに学び、その場合、死ぬことが唯一の正解だということも学んだ。死ぬことが一番の正解という考えに最終的に至ったのが16歳か17歳のときだったはず。その時の絶望は今でもよく覚えているし、また残念ながら今でも考えはなんら進歩しておらず、その後何回もの挫折や失敗を繰り返して、むしろ確信は深まっている。
死んだ人だけが良い人間で、生きている人間はみんなどこかおかしい。頭がとても悪いか、人のことをなんとも思っていないか、とにかく人の心を持っていない人間。本当に良い人間はみんな自殺してしまった。狂ったような響きだが本気でそう信じている。
自分のような人間は生きていても何も為すことはないのだから、さらっと死んでしまうのが一番なのだ。本生まれてきたのが不幸だったと割り切るしかない。なにかうまいことや響きのいい言葉を言おうという意図ではなく、本心から、生まれてきていいことは何一つなかった。
人生で得たもの。毎日のようにやってくる鈍くて絶対に消えない心理的苦痛と、死ぬことが唯一の解決なのに死ねない無力感、というか絶望感。
PS5が未だに買えてなくて、エラー頻発するPS4を使い続けているので
個人的に転売屋にはムカついているが、それはそれとしてHOBBY Watchの主張は理屈がおかしいと思った。
【特別企画】なぜホビーメディアは「転売」を容認してはいけないのか 転売行為はユーザーとメーカーの幸せな関係を破壊してしまう - HOBBY Watch
欲しい商品が手に入らないというのは、ユーザーにその商品のみならず、次の商品や、そのジャンルそのものへの興味を奪いかねない。
例えばある商品を10個仕入れて、定価+αの値段をつけて転売するとする。
内8個が売れたが2個売れ残った場合、転売屋だって在庫は抱えたくないはずなので値引きするだろう。
不良在庫として残しておくよりはいいので、なんなら定価割れで出品するかもしれない。
こうして10個全部売れた場合、(時間差はあれど)結局欲しい人の手元には届いたことになる。
イベントビューワーを除くとKernel-Powerが原因のエラーで、イベントIDに41の数字が入っているのでKP41と呼ばれるらしい
しかし原因は一つではなく、原因究明解決が難しいエラーとして知名度があるらしい
ハード面、そしてきっと電源かなぁと思って電源買う一歩手前まで行ったけど、
ソフト面でもやれる対策はいろいろあるらしいということでいろいろやってみたら
電源買わないでよかった~
でもPCケース開いてみたら電源のコネクタが3mmぐらい浮いていて
深く挿しても直らなかったけど。
サイコムって評判いいし、俺も前のPCサイコムで買って10年は使ったからサイコム信頼して次のも買ったんだけど
今度のは到着時からケース前面USBが繋がってなくてがっかりした
いやこれは配送業者の手荒な扱いが原因でマザボからコネクタが抜け落ちちゃったんだと思うんだけど
それでもがっかりした
これから先もBTOパソコン買うと思うんだけど、配送リスクってのはいつまでも残るんだろうなぁと思うと不安ですね
KP41病、完治してるといいなぁ