2021-08-15

作品を鑑賞して救われちゃ駄目なのか?

たとえばペットの犬が死んだあとに犬死映画を何本も見て、沢山感情移入して沢山泣いて復活とかしちゃ駄目なのか?

自分思想に自信をなくした時に同じような気持ちで作られた物語を見て、自分はこの世界孤独なんかじゃないんだと救われた気持ちなっちゃ駄目なのか?

そもそも作品見て救われる気持ちって結構な頻度で感じるものじゃないか

たとえば宇宙映画ロケットの発射シークエンスが当時のものリアル再現しつつも映像的にはギリギリの所で嘘を混ぜて来てると「そうそう。あそこは誤魔化しちゃ駄目だけど、ここはこう誤魔化すと観ていて楽しいものになるんだよな」って共感が湧いてきたとして、それって鑑賞者として救われるような気持ちにならないか

逆に今まで全く理解できなかった価値観に対しどういう理があるのかを伝えられたときも納得という形から過去トラウマに対して「あれ?あれってつまりは単なるコミュニケーションエラーかよ」みたいになってつっかえが取れたりするけど、それも救いの一種だと思うんだよな。

作品の話をするとき自分が救われたかどうかって案外関係あるんじゃないかな?

自分が好きな小説映画を上げていったらそのうち半分ぐらいは「自分がソレを観て救われた」って話が絡んでくるもんじゃないの?

少なくとも自分は10作ずつあげたら2作ぐらいはモロに「俺はこの作品に救われたんだ!この物語コイツは俺なんだ!これは俺みたいな連中のための物語なんだ!」って思わせてくれたのが入っちゃうけどな。

まあそういうのって表裏一体ってのはたしかに分かるんだわ。

たとえばレディプレイヤー1なんてオタクからは「俺彼女出来たわwwwwリアル恋愛最高wwwお前らネット中毒は地に足つけろよwwww」と煽ってくるから最低の映画って評価受けてるっぽいけど、まあそこまで主人公感情移入しまくって陰キャ物語として観てたら梯子外された気持ちになるよな。

まあだから作品の善し悪しと自分が救われたかを完全にまぜこぜにしていいのかってのは分かる。

いやでもそれって大体の人ができてるよね?

自分が救われたかどうかだけで作品判断するな!」と言ってる人は単に自分が一度に一本の物差ししか測ってないだけでは?

世の中の多くの人は複数物差し作品を鑑賞して、複数物差しで測った結果をとき総合的にとき個別に述べていくと思うんだよな。

から特定物差しで測った結果について語られたのを観て「それだけで語るな!」ってのが通るのはアマプラレビュー載せられた時だけであって、レビューの平均点にも絡まない場合なら個人特定物差しでだけで感想語っても問題なくね?

シン・エヴァで氷河期世代は救われない

[B! エヴァ] シン・エヴァで氷河期世代は救われない

kingate 監督くんの憑き物落としの物語に付き合ってるだけだぞ。何でオマエが救済される必要がある?

iinalabkojocho コンテンツを「自分が救われるかどうか」の基準で見てたら楽しめも心動かされもしないでしょうね。世代関係なく。

Ni-nja 主語がでかい案件だ。”自分”が真に救われたければ自分主人公物語をやっていくしかない

nakanuki アニメキャラ他人なんだからそもそもアニメ自身の救済を重ねようとするのがナンセンス

この辺への返答だけど100文字じゃ描ききれなかったので。

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