たとえばペットの犬が死んだあとに犬死映画を何本も見て、沢山感情移入して沢山泣いて復活とかしちゃ駄目なのか?
自分の思想に自信をなくした時に同じような気持ちで作られた物語を見て、自分はこの世界で孤独なんかじゃないんだと救われた気持ちになっちゃ駄目なのか?
そもそも作品見て救われる気持ちって結構な頻度で感じるものじゃないか?
たとえば宇宙映画でロケットの発射シークエンスが当時のものをリアルに再現しつつも映像的にはギリギリの所で嘘を混ぜて来てると「そうそう。あそこは誤魔化しちゃ駄目だけど、ここはこう誤魔化すと観ていて楽しいものになるんだよな」って共感が湧いてきたとして、それって鑑賞者として救われるような気持ちにならないか?
逆に今まで全く理解できなかった価値観に対しどういう理があるのかを伝えられたときも納得という形から過去のトラウマに対して「あれ?あれってつまりは単なるコミュニケーションエラーかよ」みたいになってつっかえが取れたりするけど、それも救いの一種だと思うんだよな。
作品の話をするときに自分が救われたかどうかって案外関係あるんじゃないかな?
自分が好きな小説や映画を上げていったらそのうち半分ぐらいは「自分がソレを観て救われた」って話が絡んでくるもんじゃないの?
少なくとも自分は10作ずつあげたら2作ぐらいはモロに「俺はこの作品に救われたんだ!この物語のコイツは俺なんだ!これは俺みたいな連中のための物語なんだ!」って思わせてくれたのが入っちゃうけどな。
まあそういうのって表裏一体ってのはたしかに分かるんだわ。
たとえばレディプレイヤー1なんてオタクからは「俺彼女出来たわwwwwリアル恋愛最高wwwお前らネット中毒は地に足つけろよwwww」と煽ってくるから最低の映画って評価受けてるっぽいけど、まあそこまで主人公に感情移入しまくって陰キャの物語として観てたら梯子外された気持ちになるよな。
まあだから作品の善し悪しと自分が救われたかを完全にまぜこぜにしていいのかってのは分かる。
いやでもそれって大体の人ができてるよね?
「自分が救われたかどうかだけで作品を判断するな!」と言ってる人は単に自分が一度に一本の物差しでしか測ってないだけでは?
世の中の多くの人は複数の物差しで作品を鑑賞して、複数の物差しで測った結果をときに総合的にときに個別に述べていくと思うんだよな。
だから特定の物差しで測った結果について語られたのを観て「それだけで語るな!」ってのが通るのはアマプラにレビュー載せられた時だけであって、レビューの平均点にも絡まない場合なら個人が特定の物差しでだけで感想語っても問題なくね?
kingate 監督くんの憑き物落としの物語に付き合ってるだけだぞ。何でオマエが救済される必要がある?
iinalabkojocho コンテンツを「自分が救われるかどうか」の基準で見てたら楽しめも心動かされもしないでしょうね。世代と関係なく。
この辺への返答だけど100文字じゃ描ききれなかったので。