はてなキーワード: 有吉とは
たとえば、モーニングアフターピルというものがある。
これは受精卵の着床を防ぐホルモン剤の通称であり、避妊に失敗してから72時間以内に服用すれば、「望まない妊娠」を高い確率で回避できるとされる。
欧米ではドラッグストアの店頭で手に入るものもある一方で、日本ではまだ医師の処方がないと購入できないこの薬。これがもし、そこらへんのマツキヨとかで手に入れることができるよう法改正がなされたとして、こんな広告が打たれたらどうだろうか。
「まだ妊娠なんかしなくないからダメって言ったのに、彼にどうしてもって言われて中で出されちゃった……そんなときでも安心! 薬局で気軽に買えるこのアフターピル飲んで、今日も彼と楽しくデート、行ってきます♪」
エスタックのCMは、だいたいこんな感じのことを言っているように思う。少なくとも私はそう感じる。
「体調を崩したのに仕事を絶対に休めない」という状況そのものは、本来、「あってはならない」。しかし、「ある」。どうしたって、「ある」。誰がどう頑張ったところで事態そのものの根絶は不可能である。エスエス製薬は「いやでも休めない日って誰にでもあるじゃん?」等と言っているようだが、有吉がスーツを着ている以上、これはビジネスの文脈である。
同様に、「妊娠したくないのに避妊に失敗してしまった」という状況そのものも「あってはならない」。ましてや男に押し切られて望まぬ性行為を強いられたとなれば尚更だ(この類の関係性においてはどうしたって受け身の側が弱い)が、これも「ある」。びっくりするくらい日常的に「ある」。避妊具の破損など、どちらの責任とも言えない場合も含めて「ある」。
では、「本来あってはならない」が、どうしても「ありうる」事態を想定して作られたものを、商品としてPRするとき、企業はどんな配慮をするべきだろうか。
これはもちろん、そのPRにおける表現が「本来あってはならない」事態を肯定・助長・促進するようなメッセージを、決して含まないよう、細心の注意を払うべきである。
さらには、その商品が、「本来あってはならない」事態そのものを正当化するためのエクスキュースとして使用されうるような"隙"を、徹底的に排除するべきである。
モーニングアフターピルは、安易な性行為、乱暴な性行為、また女性の意思を尊重しない男性の傲慢な態度を肯定・促進・助長するものではありえない。
女性が自身で自身の人生をデザインし、自身の身体を、そして心を守る手助けをしてくれる大切な存在だ。
同じように、エスタックは代わりの効かないハードな仕事、人員システムの欠陥、また休暇を取得することへのネガティヴなイメージを肯定・促進・助長するものであってはいけない。
この日この時だけは、どんなにしんどかろうが翌日から廃人になろうが、絶対に家で寝ていてはならない大切な日のための、最終手段でなくてはならない。
日本でモーニングアフターピルの広告を作るなら、どんな表現を使うべきか考えれば、エスタックという商品のCMがどういうものであるべきなのかは自ずと答えが出るだろう。
少なくとも、「風邪でも、絶対に休めないあなたへ。」などというふざけたコピーとスーツを着た有吉は絶対に出てこられないはず。
最後に、私は二十歳そこそこの小娘だが、この広告を初めて車内で見かけたその瞬間、「ああ、これは燃えるな」と直感した。
二十歳そこそこの小娘でも瞬時に炎上が予期できる広告が、全国ネットに乗ってどこまでも流れていってしまう現代日本社会に、深い深い絶望を覚える。
はてなにしろ2chにしろ、00年前後ははわりとぽわぽわしてて礼儀正しく、害があっても広がりにくかったし、各ポータルサイトもゲスさは無かった。
2chは便所の落書きと言われてはいたが、馴れ合いによる相互承認や、情報を求める意識を持った参加者たちで良い空間を作ろうみたいな意識もあったし、クソくだらないジャーゴン(オマエモナーなど)を共有して生まれるゆるい一体感もあった。
今はそうではない。
陰湿で、攻撃的で、快楽主義であり、セクト意識(裏切り者を許さない)はあるけれど共同体意識(助け合いと相互承認)はほぼなくなった。
2chで「氏ね」ではなく普通に「死ね」と使われ始めて久しい。もうみんな心のブレーキがなくなっている。
ネットは「叩くことで上に立ったかのように振る舞う、安上がりな自己欺瞞や他者へのアピール」でありふれている。
中には「叩くこと」への快楽に目覚め、それを目的化し、それを正当化するための言い訳としての「誰かの失敗」と「正論」を求める人もいるように見受けられる。
なんでこんなになっちゃったんだろう?
00年代頃はまだ限られていたインターネット利用者だが、格安ブロードバンドで普及を見せ、その後スマホを介して国民のほとんどがネットの参加者になった。
社会に出て一生懸命働いている人たちや真面目な学生は平日昼間にネットに入り浸ることは少ない。
平日昼間のネットを支配しているのは、無職、ニートである。その中で暗い要素を持った集団を抜き出すと「仕事にあぶれて苛立つ求職者」「世の中を諦めた世捨て人系無職」「登校拒否の延長の引きこもり」「うつ病神経症統合失調症といったメンヘル」「発達障害などで社会に適応できなくなった人たち」「終わらない家事と身近なストレスで心の許容量が狭くなった鬼女」「世の中舐めてる陽キャのニート」「レールからそれて戸惑っているニート」「世の中に喝を入れたいリタイア組」・・・。まあ、とにかくたくさんいるわけである。
もちろん、悪意のある抽出であり、心のきれいな方々もたくさんいるのだが、悪貨は良貨を駆逐するものだ。
そういった人々は暗い感情や怒りを、炎上の快楽で気晴らしするのである。いわばweb放火魔だ。
火を生み出す力の喜び、何かが燃えていく光景を見つめる陶酔、生贄を取り囲む祭りの高揚感・・・。
彼らは毎日ネットに入り浸るうちに中毒になり、炎上が目的化する。
ニコニコ黎明期のようにクリエイティブな方向で承認を求めていれば平和だったのだが、今のニコ生はDQNのほうが受けやすい。
はじめしゃちょーやヒカキンみたいな発想力とパフォーマンスを持っているわけでもない人たちは、過激な毒のショッキングさで目立つしかない。
これはネットの言論空間にも言えることで、有吉や張本みたいに「きっつい毒舌」「鋭いお叱り」を出来る人間が承認されやすい。
熱心な語りもいらない。消化しにくいからだ。
つまり、ワンフレーズで響き、嘲笑と「俺たち情強だよな」といった満足感を生むネガティブな言論をしたがり、見たがるようになっているのだ。
問題は、そういった平日昼間の言論が「ネットの声」「ネットの常識」とされて一般層へ輸出され、ネットの文化となり、新たな放火魔を教育してしまうことだ。
本来ただの過激派、愉快犯にすぎない言論が、いつの間にか「民主主義」になってしまう。
現実でも起きうる/起きているかもしれない事態が、ネットではものすごい勢いで波及している。
誰かが火を消さなければいけないのではないか、誰かが防火壁を作らなければいけないのではないか。
ホッブスによれば自由とは混沌であり、万人の万人に対する闘争だなのだ。ネットはそちらに向かいつつある。
東浩紀はネットにルソー的社会を求めたが、あんなものは絵空事である。
「私達には関係ないこと」と高みの見物を気取る人たちは、いつか自分たちが悪意の生贄にされるかもしれない未来を予期していない。
自分のところまで悪意が登ってくる可能性を考えていないのだろう。しかしすぐとなりをよく見てみると良い。
シェルターの中にいる隣人が、悪意の炎を瞳の奥に隠しているかもしれない。
大人たちが壊れてしまう空間なのに、子供にリテラシーとかいう頼りない防御策を教えて何とかなると?
ネットの治安を維持するための善意の言論を発信していくべきだろう。強硬的な手段ではなく、新しいモラルを共有できる仕組みを考える段階に来ている。
それと同時に平日昼間勢の心を癒やす必要がある。彼らの本当の問題はネットではなく現実にある。現実が変わらなければ彼らは変わらないだろう。
ネットと現実はリンクしており、ネットは日本の未来の実験室である。このまま手をこまねいて見ていれば、現実社会も今よりさらに厳しいものになっていくだろう。
ひょうきん族と全員集合だったら、全員集合ばかりを見ていた。
ひょうきん族で、たけしが若手の軍団員に殴る蹴るのむちゃくちゃする絵は相当気分の悪いものだった。
小学生の当時、自分は帰国子女でクラスの中で明らかに浮いていて
「奇妙な側」の人間だった。日本的なコミュニケーションが取れなければ
当然のように弄って良い人と扱われ、ひどい虐めを受けた。
実際は仲の良い感じや5人がそれぞれの特異性を尊重して
作ってる笑いという感じがして楽しく見る事ができた。
幼少期を過ぎても、とんねるずの石橋やダウンタウンの浜ちゃん、
ロンブーの淳など乱暴を振るう笑いは、常に苦手だった。
どれもこれも、強い奴が見た目や言動が変わった奴、
弱い奴にむちゃくちゃをやって、それを周りが見て笑う構図は最悪だと思った。
何が面白いのか全く理解できないだけでなく、うっかり見ると気分が悪くなった。
その手の番組は、減ってきたようには思う。
それに台頭するようにマツコデラックスや有吉がテレビに引っ張りだこになった。
二人の番組を全て見ているわけでないが、時々見る
「怒り心頭」や「マツコの知らない世界」はとても楽しく感じていたので、
石橋貴明の最近の笑いは冒険しないから面白くないという記事に、
「石橋貴明が楽しかったと言ってる昔のバカ番組より今のマツコや有吉のほうが、ずっと面白いと思う。誰かを虐めて笑い取るみたいな番組が人気を失っているのは、たいへん良い傾向。」と書いたら、
いや、「マツコ有吉も結局は人を虐めて笑いとってるじゃん。」
でも、自分はそう感じるんだよなーと思ったので、なにが違うか自分の発言の裏を分析をしてみた。
彼らは元々「気持ち悪いオカマ」「干された芸人」という出自にもかかわらず、今は人気を掴んでいる。
奇妙な人が奇妙なまま人気を得たり、一度落ちぶれた人が再起する姿は、
かつて虐められっ子であった自分が夢を掴んだ感じがして、単純に好感を持ってしまう。
彼らが、こんなにも人気が出ているのは日本人の大多数が「虐められた」過去を持ってるからではないかなとも思う。
次に、彼らの小馬鹿にする芸風は陰湿な虐めじゃないかという指摘。
確かにそうなのかもしれないが、彼らは基本暴力を振るわない。
そして、有吉は自分より目上の立場が強い人間にも平気で悪口いうので、弱いものだけを虐めてる感じがあまりしないし、
すこしビビりながら言ってやったぞという感じも嫌いじゃなかった。
マツコも素人や地方弄りするけど「私も気持ち悪いけど、あんたも気持ち悪いよ」というスタンスなので、
「そんなことねーよ。あいつら酷いよ!」
また、自分は見たことがなかったが「有吉の壁」「有吉ベース」では
若手の後輩に熱湯を有吉がかけたりしてるらしく、
そういうのは、嫌いな笑いであることは間違いないので、
多分一生見ることはないと思うし、何かの拍子に見たら有吉の評価は変わるかもしれない。
あくまでも、「体育会系の暴力に根ざした乱暴な笑い」が嫌いなだけ
いうことは補足しておきたい。
だいぶ長くなってしまったが、
「石橋貴明の笑いは嫌いで、マツコ有吉は虐めてないからいい傾向」
と思った理由を綴ってみた。
http://b.hatena.ne.jp/entry/kyoumoe.hatenablog.com/entry/20161003/1475486386
単に有吉は波乱万丈の経歴の末に、パワハラ芸・セクハラ芸をしても視聴者に嫌われにくいという稀有なポジションを得ただけじゃないか。本当に誰も傷つかないキレイなお笑いが好きなら石橋だけでなく有吉もボコボコに殴りなさい。
有吉は「目上の人間にもあだ名を付けた」からとあるけれど、あれだって見方によっては文句の言えない立場の人に悪口を言って笑いをとってるようなものじゃんか。視聴者の圧倒的支持を受けた芸人っていうのはもはや俳優やアイドルよりもよっぽど芸能界ヒエラルキーのトップなんだよ。
俺のスペックは30代前半、年収750万くらい。都内に一人暮らし。職業は詳しく言えないが、特技を活かして物作って売って細々暮らしている。
炎上中の18歳については他人事なので今後どうなろうと知ったことではないが、彼と彼の周りについて色々学んだことがある。
彼を一言で表すとバカでも叩き所が理解できる「分かりやすい馬鹿」。
こんなの放っといてもすぐにダメになるからマトモな人は放っとくんだろうけど、バカでも叩ける分かりやすさがあるが故に
有吉はブレイクすることを「バカに見つかること」と表現したが、彼はまさに「バカに見つかった」状態。
ネット上ではまだ何も成し遂げていなくても炎上することでブレイクしてしまうので馬鹿でもバカに見つかってしまう。
はてブで一生懸命説教している輩には「てかお前こそこんな馬鹿に説教してるヒマなんか無いだろw」としか思わないが、
他人を叩くことでしかしみったれた自分の人生を慰めることが出来ない進歩の止まった連中は、もはや他人には手のつけようがない。
どうにかバカと関わらないように細心の注意を払うのみ。
「共感性羞恥」とはドラマや映画、バラエティなどで登場人物や出演者が失敗するシーンを
共感性羞恥を持っている人間はそのような番組では視聴に支障をきたすほどで、
この「共感性羞恥」という言葉は「怒り新党」というマツコと有吉の両名(敬称略)が司会をする番組で取り上げられ広まることとなった。
いやいや待て待て。「わかるわかる、俺もそれだわー。辛くて観れないわー」じゃねえよ。
そもそもこの「共感性羞恥」とかいう単語を検索してもヒットするのは番組で放映されてネットで話題にみたいなのばっかりじゃねえか。
http://anond.hatelabo.jp/20160603124331でテレビの字幕にクレームをつけた者です。
5、6年ぶりにテレビを見て驚いたことは他にもある。前に見た時からバラエティの出演者がほぼ変わっていないことだ。何だあの旧態依然とした体制は?若手の有望なお笑い芸人はいないのか?有吉以来新しい芸人はいないのか?これじゃ、10代がテレビを見ようとは思わないだろ。
後、昨日やっていたフジテレビのIPPONがとにかくひどかった。お題に対する回答をおっさんたちが必死こいて考えて、その答えが糞つまらないものばかりだから見苦しくて見苦しくて仕方がない。どーなってんだテレビのバラエティは?スマホが使えない40代以降向けの番組になってんのか?
増田は適当に思いつきで書いた短文も拾われやすく、悩み相談の面白さにはピンからキリまであるが、しかし、世の中には悩み相談をコンテンツとして提供している場所もある。
雑誌やラジオ、テレビでしばしば一般人から送られてきた悩み相談が取り上げられるが、それらはやはり厳選されているためか悩み相談としてのクオリティが高い。
例えば、先日たまたま見たマツコ・デラックスと有吉がやっているテレビ番組で取り上げられていた「面接で社長とふたりきりで出張できるかと言われた」というものは、増田に書かれていたら、100ブクマを軽く超えていたように思う。
もちろん本当に送られてきたものなのか、そもそも実際にあったことかは疑問符がつくかもしれないが、コンテンツとして十分面白いので、私はあまり気にしない。
見返してみると、増田でブクマが多くついた悩み相談はクオリティが高いものが多い。
悩み相談なんて回答次第でどれも大して変わらないだろうと思っていたが、案外そうでもないんだと気づいた。
気が付いたら何してたかもわからないくらい何の価値もなくただただ落ち込んだ気分で月曜日を迎えていたんです。
何の話かって、はてな界のニュー・オーダーのせいでブルー・マンデーだったっていう話なんですよ。
つまらぬものを切っても切れなかったんですよ。むしろ自分がつまらぬものになってしまったんですよ。わかってくださいよ。
わたくし、べつに村民とかそういう者ではございませんが、でもこのはてなっていう会社のサービスが大好きで気に入ってただ淡々と使っていたんです。
それでですね、先週ほら、また盛り上がってたじゃないですか……例の。あまりわたくしのようなニワカが口にするのは恐ろしい恐ろしいなのでその名には触れませんが。
いや、ここ1年半くらいなんだか居心地が悪いなーとはずっと思っていたのですけども、最近特定層の人たちの記事が大量にホッテントリに上がってくるじゃないですか。
それがわたくし個人としては正直うざくて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて仕方なかったんですけども、でもサービスをどう使うかはある程度自由ですし、運営の視点で見てもこの先生きのこるためにはある程度アメーバ化していくのもやむなしじゃないかとも思うわけなので、一、フアンとしてはひっそりと身を引くくらいしかできないのかしら、とも思っていたのですよ。
ところがですね、最近この層の方々から発射された流れ弾が外の別のSNSでも着弾することとかも出てきまして、こりゃもうたまんないなと感じまして。
そんなときでした。Androidのアプリでもユーザ非表示設定ができるようになったって言うじゃないですか。
今まで、宗教上の理由によりユーザ非表示って使ったことが無かったんですよ。それに、本当はユーザ非表示じゃなくてNGサイト登録のほうがありがたいのですけれども、これははてな社のビッジネースのことを考えたら望み薄いのかもと思いまして、何もしないよりは、とポチポチ非表示を登録し始めてみたんですよ。ワナビーなブコメや明らかなスパムが目に入らないだけでも精神衛生上よろしいかと思いまして。ええ、GOJOいアカウントを思いつく限り片っ端から。
そうしたらですね、もうこれはまさにGOJOの奇妙な冒険が始まってしまったわけなんですよ。
最初はね、20人くらい登録すれば良いのだと簡単に考えていたんです。
それで、金曜日の深夜に上がっていたGOJOい記事から順に見ていきまして、非表示に登録していったんです。
そうしたらですね、これが結構手間暇が掛かるものなのですね。そして人間くだらないもので、だんだん躍起にやってしまうんですね。あれよあれよと気がついたら、もう朝方。この瞬間、自分はスタンド使いどころか波紋でやられてしまう吸血鬼程度に成り下がってしまっているわけですね。ミイラ取りがミイラってやつですね。
疲れたし、目は痛いし予定は潰れるしで昼まで寝て起きて、だるくて外出もできずスプラトゥーンしてたら夜になってしまってですね。
そして止せばいいのに、夜またも奇妙な冒険に出てしまったんですね。ユーザ非表示をいくらやったって弓と矢にはなり得ないんですけどね。
わたくし、甘く見ていたんですよ。敵は20人じゃなかった。確認して、実際にコメントを見て、場合によってはわざわざアフィ記事踏んで確認して非表示へ……
なんということだ。この街はもう自分には住めない街になってしまったのかもしれない。頭の中でバイオハザードをプレイしている光景が浮かんでは消えるわけですよ。まさに、ゾンビ取りがゾンビっていうわけですね。
一日体も動かさずスタンドバトル(クソゲー)とスプラトゥーンしかやっていませんので真夜中に目が覚めてしまい、またこの絶望的なポチポチ登録を始めてしまい、気がついたら日曜日の昼。ループ2周目が始まって、だるくて外出もできずスプラトゥーンしてたら夜になってしまってですね。
この時点でもう、わたくしは敗北してるわけです、この世界から。
なんということでしょう。今朝方未明、また夜中に目が覚めてしまい、眠れなくてまたスマホを開いて青いアイコンをタップ。もう病気ですね。もういい休め!って自分の中でもざわざわしてるわけなんですけど、止まらないんですよ。
そう、もうこれやっててもきりが無い感じなんですよね。こうなってくると、もはや自分のほうがマイノリティでメンヘルになってしまっている気がしてくるのですね(いや実際そうなんですけども)。見ていくと確かに、例のGOJOい一団は数十人なのですが、そこにブログでお小遣い稼ぎをしたいアフィいフォロワーがすでにその何倍かついて絡んでいるんですよね。そこに、キャンピングカー大学生経由の若者の一団とかも絡み合ってきていて、もう読み解いていくだけで深淵の泥沼に嵌ってしまうんですよね。
しかも、読みたくないものをわざわざ徹底的に読み込んで調べて学習しているわけじゃないですか。わたくしは馬鹿なんですか。そうですね。
もう、精神はズタボロですよ。心にダメージを負い、睡眠不足になり、情緒不安定になりスプラトゥーンは負けまくってB+まで落ちてしまったじゃないですか。
馬鹿ですね。あるいは病気だったのかもしれませんね。頭を冷やして、もう辞めよう、と思いましたね。
というわけでもう今さらではありますが、おかげでブコメ欄はだいぶスッキリしました。相変わらず興味の無いホッテントリはたくさんぷかぷかと漂っていますが、そういうエントリはお気に入りのアイコンがひとつも付かず、コメント欄も大概謎の空欄になったので、判別しやくなって多少は快適であります。
こういうことを書いているとよく、「古参が『昔は良かった』とボヤいてるだけ」などとアフィい方が仲間内でやり取りしているのが見たくもないのに目に付いては、「違う、そうじゃない」と心の中でツッコミを入れていたのです。そうじゃないんですよ、少なくともわたくしの中では。わたくしはただ、ソーシャル・ブックマークサービスを個人用ブックマック+情報収集&シェアツールとして楽しく利用させていただいていただけなのです。そのことを『昔は良かったとぼやく老害』と言われてしまってはもう敵わないなあと思うわけなのですが、逆にこの方々こそこれはこれでやっぱり新・ムラ社会なのかもしれませんね。
ちなみにですけど、最近よくホッテントリに上がる新しめのブログが十把一絡げにイカンとか言ってるわけじゃないですよ。個人の趣味もありますが、公平に見て中にはこの人はやいのやいの言われてもセーフだろうと思うブログもちらほらあります。自分の体験や自分の好きなものを自分の言葉で日記にしたためている感じがするブログは好きなんですよ。
同世代ブログ間の交流とかはあるかもしれませんが、そういうブログは記事の作りもアフィい一団とは一線を画して実際面白い記事もあり、よく読んでたりします。
やっぱりこりゃキツイなあと感じるのは、特定の一団とそのフォロワーなんですよね、今のところは、ですが。キャズム超えなんていう言葉もありますし、かつて有吉が「ブレイクするっていうのは~」なんて毒舌を吐いていたことも思い出すのですが、特定の一団がマジョリティになったとき、ここも腐海、もしくはアメーバに沈むのでしょう。それが良いことなのかどうか、一、ユーザにはよくわかりませんが、「スパムで無い限りは」ブログは自由です。はてな社にとっては好ましいことなのかもしれませんし、「スパムで無い限りは」どうこう言っても個人ユーザの利用方法を責められるものではないことは理解しております。ただただ、一、フアンとしては、「衆愚化してつまらなくなって廃れていく」というインターネッツのテンプレートをなぞることが無いことを願い応援しております。
というわけで、自分のこの週末を振り返って一行にまとめますと、タイトルのとおりであります。
皮肉なことに、この話題と主要プレーヤーについてめちゃくちゃ詳しくなってしまいました。虚しい。
もう自分が疲れてるな、視野狭窄になっているなと感じることができたので、わたくしはそっとここを去って運動と瞑想をして過ごすことにします。
※ところで書いてて思ったのですけれども、id:xevra先生のような濃ゆいユーザがこの村を見限って去った時こそ、実はいよいよ終わりがやってくるのかもしれませんね。5,6年くらい前まではこの人はbotなのだろうか、非表示にしたほうが良いのだろうかと考えては思い留まって今に至るわけなのですが、今まで生き残ってみると、年々人間味が出てくるし優しいことも言っちゃったりするし、GOJOい人達からも人気みたいですし、実は彼こそがもっともフラットで平等なユーザーなのではないかという気がしてきました。わたくしが知らずのうちに村の毒に冒されているせいかもしれませんが。
というわけで、じゃあ磯野、また明日な。
件の互助会言い訳ブログを読んだ時の気持ち悪さがようやく自分の中でまとまった。
「包丁が売っていた。元々の目的とかみんなが何に使っているとかわからないけれどこれで人を刺したら殺せると思ったのでみんなで包丁を買って人を殺しまくっています」と。
こういうと「極論ダー」というアホが湧くのでもう一つだけマイルドな例を書くと、例えばビーチでの水着はOKだ。ビーチから細い県道を渡ったコンビニも水着入店はOKだろう。さすがに駅前の飲食店はTシャツを着てサンダルを履いて入店するものだし、同じ駅前とは言え老舗の海鮮丼屋にはいくらTシャツを着てても湿った水着や砂まみれの浮き輪を持っては入れない。そんなビーチリゾート都市にやっていて「オラ、コンビニは水着でOKやろ?そこの店はTシャツ着てればええ言うたで。海鮮問屋はんも文句ありまへんわなあ」と謎の関西っぽい言葉で攻め立ててるようなもんですよ。
しかもまあ恥ずかしげもなく被害者ぶったブログ書いてまったく知性とか品性とかないのでしょうかね。
「お前ら互助会が仕組みを悪用して適当やりくさるからこちらは迷惑してますよ。仕組みとして可能だからと言って何でもやっていい訳じゃないし、それを排除するために規制を強化するのも手間だし既存住人にもとばっちりが行くんです」と教えてあげたいがああいう面の皮の厚いおバカさんにはわからないのだろう。
はてブも、芸人の有吉の言葉とされる「バカに発見された」フェーズに入ってしまったのでしょう。残念だけどそういうことなのだと思うことにする。
意識高い系を馬鹿にする風潮は、これを履き違えた意識低い人が、別に他人にあれこれ言わない本当に意識が高い人をも馬鹿にする現象を生み出していることにはあまり触れられない。
それを見て頑張り(もしくは頑張ろうとしてたのを)を断念してしまった人は、確実に、そして考えられているより多くいる。表には出てこないけど。
そんなんでを頑張らなくなる人は所詮そこまでという言い方もあるかもしれないが、少なくとも努力をしなくなってしまうという点では、全体の利益からするとマイナス
こういう性格の人はおそらく特に日本では多いだろうし、みんなが努力するべきとは言わないが、その人たちはそのような風潮やバカにする光景を見なければ努力を続ける人であったはずだろうから、やはり全体の利益を考えるとマイナス
そうでなくともいちいち馬鹿にされるかもと他人の目を気にしながら頑張るのはあまりいい影響はないと思う
全く他人の目を気にしない意識高い人はいるけどそれ以上に、他人の目を気にしてしまう意識高い人もいると思うんだよね。
まぁ本来の「系」を馬鹿にする人達はそんな「乱用」なんてしったこっちゃないだろうし、別にそれを批判する気はないけど。
例えば有吉辺りが「系」をずばずば斬っていくのはわかるけれども、そうではなくて、この風潮が人のがんばりをあざ笑い何とか全体を押し下げようとする人の隠れ蓑になってる気がしないでもない。