はてなキーワード: 道徳心とは
生まれた時から特定の宗教を信仰してる人は多かれ少なかれそれを土台にした性格形成をされてると思う。
でも信仰を持たない日本人が寺社仏閣を訪れるのは他の信仰をすでに持ってる外国人が観光で訪れるのと感覚的に似てる。
むしろ自分の神を持ってる人らのほうがよその神への敬意は深そうに見える。
葬式等のイベントにしてもみんながやってるからやらないと立場が悪くなりそうだからやってる。
宗教を持ってる人の信仰心って、宗教アレルギー的な刷り込みを受けてきた信仰を持たない日本人とは温度差がすごすぎるんだよ。別に狂信者とかじゃなくてもね。
「神様っていると思う?」って聞かれて「どーかなわかんない」って流したらめっちゃ驚愕されて説明されまくったり、「日本人は○○教の教育を受けてないから道徳心が無い」とか普通に言われたり、何かというと常にその宗教の教えが会話の中に出てきたり、そういうのを目の当たりにすると信仰を持たない日本人がやってる宗教的な行いは、特定の宗教を信仰してる人のやってるやつとは全然違うなと思ってしまう。
道徳心・共感性・親切さは、足が速い遅いと同じ個性のひとつでしかない
道徳心・共感性が低くてもアインシュタインみたいな偉大な科学者とかいるからね
いろんな人がいていい
子どもが『親切じゃない人だと思われるのは嫌(思いやりのある人物だと思われないと損をする)』って考えるようになったら、
その子どもの社会化は成功してると思うし、社会で問題なくやっていけると思う
・持ち得る道徳心にも大小があるのだろう。
学ばせることができるのは○○したら自分が損するということだけ
でも○○したら自分が損するさえ子どもが学べれば社会ではやっていける
そのことを真摯に見つめないと不幸なことになる
CU特性とは?
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-23659359/23659359seika.pdf
「CU特性」とは,ニューオーリンズ大学のフリック博士が提唱しているCallous-Unemotional Traits の日本語訳です.フリック博士によれば,CU特性はサイコパスとも関連のある特性で反社会的行動を表す児童に特徴的なものだとしています.また,注意欠如多動症(Attention Deficit / Hyperactivity Disorder; ADHD)との関連も報告されています.
赤ちゃんには道徳心も仲間意識(差別意識)もあるぞ
科学読み物やTVで取り上げられた有名なのはこれ。イェール大学のヤツ
下記はイェール大学の乳児認知センターで公開している実験の動画
[Yale University] The Infant Cognition Center: Research in Action
他に科学読み物で取り上げられてたのはワシントン大学のこんなのとか
- 赤ちゃんは公平さを好むが、自分たちがより利益を得る場合には、公平さはそれほど重要視しない
- 白人乳幼児40名に研究者2名がおもちゃを配った。1名はおもちゃを公平に、もう1名は不公平に分配した。
その結果、70%の乳幼児はおもちゃを公平に分けた研究者をより好んだ- 実験対象にアジア人と白人の乳幼児を混ぜ、その中の何人かの白人乳幼児に、より多くおもちゃを配るという実験をした。
その結果、前の実験結果とは異なり、白人の乳幼児は「自分たち」をひいきする「不公平な」研究者をより好んだ[Frontiers in Psychology] I“I pick you”: the impact of fairness and race on infants’ selection of social partners
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2014.00093/full
○ その親切な行動、50%が遺伝!?
あなたはどのくらいバスで席を譲ったり、募金をしてますか?「親切さ」にも様々ありますが、今回ご紹介するのは見ず知らずの人に対しての親切さ(利他的行動)です。
バスでお年寄りや妊婦さんに率先して席を譲る人もいれば、寝たふりをしてしまう人もいますよね。
見ず知らずの人にどのくらい親切に振る舞うのかには、大きな個人差があります。これは、生まれもったものなのでしょうか?それとも、成長の過程で身に着けるものなのでしょうか。
研究によると、見ず知らずの人に対する親切さは、50%が遺伝要因による先天的なもの、50%が環境要因による後天的なもので形成されているそうです。
他人に対する考えや行動も遺伝するの!?と驚くかもしれません。しかし、他にも「他人に共感する(empathy) 」は、70%が遺伝要因によるという報告があります。
研究の結果、ドーパミンの代謝に関わる「COMT遺伝子」のrs4680というSNPが「G」である人は、「A」である人よりも、自分が持っている金額に対して高い割合の金額を募金する、つまりより親切に振る舞うと分かりました。
というSNPにはGG,GA,AAの遺伝子型がありますが、日本人平均と比べると
[mycode]
(当たり前の例)
[Psychology] Anxiolytic Treatment Impairs Helping Behavior in Rats
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2016.00850/full
[Current Biology] Harm to Others Acts as a Negative Reinforcer in Rats
https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(20)30017-8
日本語記事:「誰かを助ける」のに理由はいらない(哺乳類なら):研究結果 (WIRED)
https://wired.jp/2016/07/01/rats-empathy/
>なぜ、私がキサマなどの道徳心や満足のために文章を曲げねばならんのだ。
だが一方、書き手の目的が、より多くの読者、より多くの収入、より多くの高評価であるならば、読み手の満足のために文章を曲げることになぜもクソも無くなる。
理想としては、お前は「いーやお前もこいつが裁かれないほうが最終的に満足すると思うね!」と断言すべきだと思ったわ。
読者の満足なんか知るか、ではなくてね。
俺も自分でそうなるようにする。
もう随分時間が経ったのだけど、かつて『プラネテス』のロックスミスというキャラが行動の報いを受けないことが納得いかない。もっと報いを受けるべきではないか、と主張する人がいた。
私は当時、発言者に対してバカではあるまいかと思ったことを記憶している。
そして、今。
私は一応、小説など書いている。
一応、作品をなろうやカクヨムでも掲載している。宣伝手段としてだが。
そうなると、時々「なぜ、あのキャラはむごたらしく死なないのか」「報いを受けないなんて信じられない!」みたいなことを言ってくる輩が沸く。私のような泡しぶきの様な作家にもだ。
その都度、無視して内心で馬鹿じゃあるまいかと思うのだけど、もう一歩進んで、寄り添って答えるなら以下の言葉に集約される。
「自分で書け」
なぜ、私がキサマなどの道徳心や満足のために文章を曲げねばならんのだ。
品行方正がよければ書けばよく、勧善懲悪がよければ書けばよいのだ。
子どもに「自分がされて・言われて嫌なことは他人にしない・言わない」的なことを言ったり、自分が言われたりって経験は多くの人があるとは思うのだけど、これができなかったり、そもそもその概念がない人が結構いる事に少し驚いた。
本人の道徳心だったり、アスペルガー(ASD)特性だったりと色々な事情はあるので、安易に原因を決めつけることはよくないが、
1. 自分がこれをされたら・言われたら嫌
2. 他人もこれをされたら・言われたら嫌かもしれない
3. それなら、相手が嫌になる可能性を考えて、これをする・言うのはやめておこう
ってプロセスに対して、2. から先に進まない人がいる。1.はさすがに感情のある人間ならほぼ持ち合わせているだろう。自分が遭遇した人の範囲では、1.から2.に繋がらない人と、2. から3.に繋がらない人のパターンがある。
二つに共通するのは、「自分がこれをしたい・言いたい」の抑止力として、2.も3.も効かない点である。
後者は、自分のしたい・言いたいを我慢できないということだけど、前者は他人の感情に想像力が働かないパターンと、自分を根拠に他人もこう感じるに決まってるって決めつけるパターンの人がいるようにみえる。
どうにもできない。 組織での問題なら、「徹底したルール化」で、嫌だらうがなんだろうがルールに背かなければ問題ないという価値観を共有するくらいだけど、家族とかの間では正直解決できないのでは。
アイドルや芸能人が炎上し、オタクがお気持ち表明し、それを見た人が「期待しすぎw」「理想を押し付けすぎw」と嘲笑する
という流れをここ数年よく見た。
応援していた対象のスキャンダルを受けてファンがショックを受けるなんて、勝手に理想化してただけのくせに『そんなことする人だと思わなかった』と怒りファンをやめるだなんて、あまりに愚かで勝手すぎる、
そういう意見も一理ある。
でも炎上きっかけでファンをやめることを「勝手に期待していたから」というのは安直すぎるのではないか。
例えば男性アイドルが未成年の女の子と飲酒しお持ち帰りをした、というニュースを見て出る「そんなことをする人だと思わなかった」という気持ち。
もちろん「見損なった」という意味で言う人もいるだろう。そういう人達は揶揄される通りに勝手に自分の理想の人物像をアイドルに押し付け、妄想し、本当はそれに当てはまらないという事実に勝手に裏切られた気持ちになっているかもしれない。
しかし、裏切られたとか憤る気持ちもなく、ただシンプルに、「そんなことをする人だと思わなかった」と思う人もいるはずだ。
私個人の話になるが、私は誰かのファンになる時、その人の表に出ない良くない部分を想像する。
恋人がいるかもしれない、恋人とSNSで匂わせに勤しんでいるかもしれない、ファンレターをオタクキモいと笑いながら読んでいるかもしれない、ヘビースモーカーかもしれない、
毎晩飲み歩いているかもしれない、酔って暴れたことがあるかもしれない、共演者を食い荒らしているかもしれない、違法薬物の経験があるかもしれない。
見えていない部分は「無い」のではなくて、「見えていないから実態はわからないけど、何かある」と思っておく。
想像じゃなくても、良くない部分が見えることもある。遅刻魔で、先輩に敬語が使えなくて、漢字にめっぽう弱い、など。
良くない部分を見ても、想像しても、自分がそれを「許容できるな」と思うくらいその人を魅力的に思えたら、私はその人のファンであると自覚する。
そしたら私は「推しがそんなことをするとは思わなかったな」と思う。
単純に「私の想像の範疇を超えていた」「そのパターンは想像していなかった」というだけの話だ。
「未成年の女の子と派手にお酒を飲んで飲ませてセックスをするなんて絶対しないような、紳士で、倫理観のある人だと思っていた」ということではないのだ。
応援している対象が自分の想像を超えた行動をした、それがわかった後でもファンを続けられるか。
私は推しが未成年とお酒を飲んでセックスしていても合意であるなら「なるほどそんなこともあるのか」と飲み込んでファンを続けられるだろうが、これが暴行しての強制性交なら絶対に応援を続けられない。
見えていなかったものが見えてしまった、見えたものが私の正義と相反した、私は私の正義が許せないものを支持できないから離れる。
もちろん生きていて良いに決まっている
言葉に過敏、あるいは道徳心が強く、“死ね” などの強い言葉を使わない人も
「ムカつく」「許せない」「ムカつく自分自身が許せない」と言いがち
たとえば、これなんか典型的。スゲーいいヤツなのに、周りも自分自身もなぜか許せない
物が落ちていたら、片付けたり・あるべき場所に戻している
物を捨てたり・落としたり・棚に戻さない人たちが許せないし、
危ないかもしれないし、邪魔かもしれないし、片付けるのは良いことだと思うが、
とにかく自分自身にやたらめったら厳しい
XXXじゃないといいヤツじゃないという非常に厳格なルールがあり、
自分の良いヤツぶりに注目して俺っていいヤツが出来ない
科学読み物やTVで取り上げられた有名なのはこれ。イェール大学のヤツ
下記はイェール大学の乳児認知センターで公開している実験の動画
[Yale University] The Infant Cognition Center: Research in Action
他に科学読み物で取り上げられてたのはワシントン大学のこんなのとか
- 赤ちゃんは公平さを好むが、自分たちがより利益を得る場合には、公平さはそれほど重要視しない
- 白人乳幼児40名に研究者2名がおもちゃを配った。1名はおもちゃを公平に、もう1名は不公平に分配した。
その結果、70%の乳幼児はおもちゃを公平に分けた研究者をより好んだ- 実験対象にアジア人と白人の乳幼児を混ぜ、その中の何人かの白人乳幼児に、より多くおもちゃを配るという実験をした。
その結果、前の実験結果とは異なり、白人の乳幼児は「自分たち」をひいきする「不公平な」研究者をより好んだ[Frontiers in Psychology] I“I pick you”: the impact of fairness and race on infants’ selection of social partners
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2014.00093/full
「あんな酷い仕打ち受けたんだから、神様がそのぶんの罰をあいつらに与えないのは、自分に果報を授けてくれないのはおかしい」
こういう風な、道徳心や信仰心に根ざした見えざる手による調整への期待を心の深いところで持ってたんだけど、それがまずかった。
無職期間長引いたり、生きててとにかく辛かったりしたのはこの「神の眼差しへの期待」が原因だったと今振り返って思う。
上司から親を中傷されたり、先輩から事故の濡衣着せられたり、フロアのみんなの前で直立不動で人格攻撃食らって絶叫謝罪を強いられたり……そういう酷い経験も「こうなったら仕方がない」と受け入れて自分で行動しないと浮き上がってこれないのがこの世の仕組みだとわかった。残酷だけどね。
俺に酷いことしてきた人たちは悪行の報いを受けずに、仕事も順調、家族円満、生き生きと日々暮らし続けているとしても「そういうもんだから仕方ない。神なんていないから、寓話的な展開など発生するかもしれないし、しないかもしれない」と割り切って行動するしかない。
最近お気持ちツイートやブログを見かけることが多いので自分に整理をつけるためにもここに書き記す。文章を書くのに長けていないため乱文であることはお察し願いたい。
私はとあるジャンルのA×Bが好きなロム専だった。ABには素敵な絵師さんや文字書きさんがたくさんいて、さらにありがたいことに公式からの供給も多くABがCPとして盛り上がっていた。これはいちオタクとして本当にありがたいことだ。
しかしながらある時、界隈でよく自カプの発言をする人達が騒ぎ始めた。それもただの発言ではない。自カプを攻撃するような所が多々見受けられる発言だった。私はそのグループを「過激派」だと感じた。
始まりは5桁フォロワーがいる大手の何気ない発言だったように思う。Bに新衣装(ここではB’とする。当ジャンルはシリーズ毎の衣装がIF作品としてよく使われる)が来て「B’はA×Bの子供みたい!」と、界隈全体と言っても差し支えないほど皆んなが盛り上がっていたときに、大手は「ABの子供系苦手なんだよね」とTLで発言した。何せフォロワーが5桁もいるのだ、その発言を受けた界隈の絵師と文字書きは皆んな途端に口を閉ざした。新しい供給で騒いでいた界隈が静まり返った。ここで私は「わざわざ界隈に水を刺すことを言う必要はあったのか」と疑問に思ったが、もちろん思うだけに留まった。だって別に苦手だと発言することは止められるべきことではないのだ。個人がそう思ったとしても何ら不思議ではない。(界隈に水を刺すような大手という認識が生まれたが。)
しかし大手のこれを機に何かと不平不満を漏らす過激派大手だらけのグループができてしまった。その過激派グループの内輪と界隈には溝ができ始めていた。
ここで私が使っている「過激派」とは固定厨であり(グループの中には雑食もいるが)尚且つ自カプ界隈を攻撃するグループを総じて過激派と呼んでいる。
私もロム専なりに自カプABに対して解釈を持っていたが、過激派は中でも生粋の解釈厨で
「〇〇なAっていう解釈するやつは頭悪いの?」
「××なAじゃないとAじゃない。〇〇なAが解釈違いすぎる」
「解釈違うやつは虫と同じ。みんな視界に入れたくないよね?」
「ABで検索したんだけど解釈違いで発狂してブロックしまくってる」
というような発言を大勢の目の前で言ってしまうような人々が集うグループであった。(もともと逆カプに対しても死ねや殺すと言ってしまうような人達であったので当然だったのかもしれないが…)
もちろんABの二次創作には「〇〇なA」という解釈が作品として確立していた。話が戻ってしまうが、5桁フォロワーの大手が苦手だと言った「ABの子供系」という作品も少なからず存在する。これらの呟きを図らずも見てしまった(表垢でわざわざ見えるように発言するのが過激派グループだ)絵師や文字書き、〇〇なAを好きだった人は萎縮した。そういう作品を上げていた絵師さんたちはABの話をしなくなった。そしてフェードアウトするかのように何も言わずに黙ってこの界隈から去っていった。
ある時は、グループの中でも1番と言っていい過激派のXがTLに流れてきたとある絵師さんのイラストに対して直接文句をつけ始めた。
「〇〇なAとかどうしたらそうなるの?Aは高等な教育を受けていて教養が身についてますけど。朝から変なものを見た最悪」
流れてきた地雷イラストを無視するのではなくわざわざ口に出して言ってしまう。それに賛同する信者の数も一定数いる。このような雰囲気が何ヶ月も続きついに界隈は大炎上した。
炎上したきっかけは私と同じとあるロム専の人のお気持ちツイートだった。
「界隈内でこの解釈が無理だのこれは読めませんだの自分の界隈の身内の書き手以外を攻撃してくのおかしい。こんな界隈見たことない。」
このツイートにはロム垢とは思えないくらいたくさんのRTといいねがついた。これに賛同する絵師さん文字書きさんも多く、過激派グループに属していない大手絵師さんたちの一部もお気持ち表明ツイートをした。かなり安易に「大手」という言葉使っているがフォロワーが4桁以上の人を私はそう呼んでいる。実際にお気持ちツイートした人は3000人また5000人ものフォロワーがいる人であり、このお気持ちツイートは界隈の末端の発言であるとは言い難いものである。
しかしながら過激派グループは腐っても過激派なのだ。比較的過激派ではなかったYに「あなたも過激派グループの1人ですか?」「自分たちのことを過激派だという認識はないのですか」という内容のマシュマロが届いた結果、グループ全体で逆ギレし始めた。
「別に名指ししてるわけじゃないでしょ」
「どっちが界隈を廃れさせてるのかわからないの?」
「好きなことだけ呟けばいいよ…」
ここでまず疑問に思うのが過激派グループは揃って「名指ししてないよ」と言っている点だ。たしかに「名」指しはしていないが本当に指してないのか?そんなわけがないだろう。
〇〇なAが嫌いだという結論に至るのは〇〇なAという作品がありそれを認知しているからである。ABが好きな界隈の人であれば、どのような作品を示唆しているのか、果てはどの絵師さん文字書きさんを言っているのかがわかってしまった。その結果、絵師さん文字書きさんが悲しんでこの界隈を去って行ったのである。そしてこの「どちらが界隈を廃れさせてるのか」「好きなことだけ呟けばいいよ」というお気持ちツイート。5桁フォロワーの大手が言っていたものもあり、いずれにせよ、過激派グループが言える立場にあるのか、甚だ疑問に思う。
当事者である過激派グループと界隈の一部を除いて皆んなが見て見ぬふりという態度をとったため数日後には炎上はおさまっていた。しかし過激派グループとそれ以外の溝は確実に深まっていた。根本的な解決には至っていないのである。水面下で皆が皆、不安を抱えて過ごしているように感じてしまう。
もともと過激派グループの声が大きくなってきた頃から、AB界隈は他B受け界隈から「怖い」という印象を持たれている界隈だった。自カプを攻撃するようなグループが中心に居座っているのだからこれは当然のことであろう。そしてこの炎上以降「界隈が怖い」という呟きをするひとがぽつりぽつりと増えた。
その結果、ぼや騒ぎが常に起きているかのような界隈になってしまった。いちロム専としてこんな悲しいことはない。
だが過激派グループは「界隈が怖い」と言われることに憤怒しているようなのだ。逆ギレしたようなお気持ちツイートもたまに見かける。そして何より恐ろしいのが「怖い」と呟いた人に対して「そのツイートは界隈のためにならないので消してください」という旨のご意見DMが届いたというのを耳にした。自分がそのようなDMをもらうと考えると怖い。これを怖いと言わずしてどうしろというのか。消せ、と言われた人はやはり悲しみながら萎縮してしまっていた。
このような環境が長いこと続く界隈である。過激派グループ以外の絵師さん文字書きさんは、
「人気のある人たちだから嫌われると怖い」
「気軽にRTできない」
「ABを書きづらい」
「ABをかくこと自体が怖くてできない」
と言った具合の心境らしい。らしい、というのはあくまでも私がロム専に留まっているからである。
怖くて「何も」発言できないのである。発言をした人は過激派グループから除け者扱いされる。恐らく過激派グループはこれを末端の声程度にしか思っていないのだろうが、きっとそうではない。
内輪と界隈の溝を全く理解していない。新規参入さんにはわからないかもしれないが、長いことABを推していた人はその威圧感をひしひしと感じ取っている。主語をでかくするななどと言われるだろうが、過激派グループとその信者を除いて、界隈の多くが思っていることである。近い将来また炎上しそうなことなんて誰の目にもわかり切っている。
どちらが界隈を廃れさせてるのかだなんて少し考えてみれば一目瞭然ではないだろうか。これは価値観の違いではなく単に道徳心の程度の差だ。良識のある無しとも言えるだろう。
いっそのこと界隈の皆んながおパ中みたいな人だったら楽しそうと思ってしまうくらいには疲れてしまった。同じABというCPを推している者同士、こんな内戦が起こらなくても良いではないか。その界隈の作品に対して全肯定botなおパ中がいるような界隈が羨ましい。
うん。そうした方がいいと思う。産み分けというスタートの地点を変えるのではなくて、生まれてきた男の子に、真っ当な教育をしてあげるというのがいいと思う。人の脳は柔らかいから、もしその内に凶悪性を秘めていたとしても(秘めてないと思うけど)それを道徳心や克己心で抑えることができる。人間にはそれだけの力があると思う。
歴史的にも産み分けというか、優秀な人の子供だけを残そうという優生学的な動きがあった。だけど結果として、統計的に(うろ覚えだけど)、その子供たちのIQは平均すると高くなったけどバラツキも大きくなったと聞く。つまり、IQが高い子と小さい子の差が大きくなった。それは望んでいた結果ではないだろう。なので、人為的な操作というのは、思いもよらない副作用を起こす危険性があると言える。そういう意味でも男女の産み分けというのはよくないことだと思う。
https://togetter.com/li/1361169
自分は可能な限り犯罪は犯したくないです。それこそ飢えて死にそうになった時に目の前に食べ物があったらそれを盗まずにいられるか、みたいな話になってくると正直そんな事態に直面でもしたらわかりませんが、少なくとも日常生活を送っていて犯罪なんかしようとは思いません。
じゃあなんで嫌なの?って聞かれた時に、ふんわりとした「悪いことはしちゃいけない」みたいな感覚、ここで言われる道徳心でしょうか、そういうものもありますし、犯罪だから捕まるのは嫌だという実利的な側面も当然あります。法を犯す人間を法が守ってくれるのか、法に守られたいなら法を守るべきだろうなんていう保身感情もありますね。家族が悲しむ姿もよぎります。
「損得感情で犯罪を犯すかどうかを決めるとはなんて倫理観のないやつなんだ!」と言われたら、「犯罪を犯して悪いことしちゃったなーって嫌な気分になるのって「損」ですよね?つまり道徳心から犯罪を犯すのを躊躇うことは倫理観が欠如しているってことですか?変わった感性をお持ちなんですね」って思うんですよ。
犯罪を犯すということは私の道徳的価値観に反しているので、そんなことをすれば当然心に負荷がかかります。損失を与えてくるんです。そんな「損」をしたくないから犯罪は犯しません、っていったら道徳心のないやつになってしまうんでしょうか?
もちろん犯罪を躊躇う理由は前述の通り道徳心のみが理由ではありません。ありませんが、他の理由が道徳心に劣る理由だとは思いません。結局のところどの理由も突き詰めれば自分の損に繋がるから抑止力になるんです。
道徳心を理由に犯罪を躊躇うことは損をしたくないから犯罪を躊躇うことであり、それはゲームができなくなるから犯罪を躊躇うことと本質的には変わりはないんじゃないですかね。
だから自分はゲームが理由だろうが道徳心が理由だろうがそこは問題ではないと思います。問題があるとすれば(彼らがそうであるという話ではなく、犯罪を犯さない理由に何かしら問題があるケースがあるとするなら)何であれ理由が「その1つしかないこと」でしょう。
理由が複数あれば何かの理由で価値観が変わった時にも他の理由から踏み止まることができますが、1つしかなければその1つの価値観が切り替わればアウトだからです。その危うさはゲームも道徳心もなんら変わらないと思います。「しつけ」という道徳心からくるDVは客観的に見て単なる犯罪です。
このまとめに出てくる人たちが犯罪を犯さない理由はまとめられていた理由以外にも存在するのか、それともたった1つの危うい柱に支えられているのか、それはこんなわずかな発言だけでは判断できませんのでそのあたりは自分は判断しません。
ただし、犯罪を躊躇う理由に優劣をつけることはそれこそ最近流行りのポリコレには抵触しそうだなあとは思いますし、個人的にはこわちかとしか思わないです。