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はてなキーワード: 近代国家とは

2015-01-24

http://anond.hatelabo.jp/20150124152015

なるほど、このへんの近代国家原則みたいのはよく知らなかったか勉強になった。

もう少しつっこんでみたいんだけど、日本のように億の人がいるような場合は全員の行動を細かく監視なんかしていられないから有事の際は結果に対してのみ対処しなければならないようなケースがあると思う。

例えば、常岡・中田に関しては事前に動きを察知できたので、上の原則に基づき行動を制限することで自己責任私戦なんかを食い止められたけど、後藤に関してはそうはいかなかった。それ以前の湯川もつかまるまでは監視しようがない。

こういうケースに関しては、国民としてその自己責任剥奪されていることを放棄した、というふうに見れたりしないのかな。

http://anond.hatelabo.jp/20150124152822

俺は

近代国家世界中からみなされなくなる

という考えが幻想だと言っているだけなんだが

これは政府に言いたいこともあるが

今は増田に言っている

http://anond.hatelabo.jp/20150124142851

近代国家世界中からみなされなくなるよ、日本

そういう周りの目を気にする態度が付け込まれてるんだけどね

主に欧米諸国にね

国連分担金とかね

他国家はもっと傍若無人だよ

2015-01-23

http://anond.hatelabo.jp/20150123143911

中世価値観から脱して近代国家へ脱皮すべきだ」という考えを批准しているくせにやってることは中世のままの日本

中世に生まれイスラムの教えに忠実に行動すべきだ」と主張し実際にそのとおりに行動しているIS。

前者は理屈に合ってないし、後者には一理があるだろ。

2014-10-04

従軍慰安婦”の給料を同時期の公務員比較する理由

強制連行だったのかどうかという話はここでは置いておくが、強制連行だったにせよ自由意志での志願だったにせよ『無給ではなく、給料が出ていた』という事実については衆目一致するところである

ではその給料はどの程度のものだったのか、という比較についてよく用いられるのは小学校教師か巡査初任給である

「なぜ公務員とばかり比較するのか不明である」と某所で書かれていた(そして実は、その『某所』がどこか忘れた)ので、その理由を書こう。

1.当時の日本で最も多いのは農民自営業者である、が……

 農民自営業者収入というのは天候や景気による変動が相当に多い上、必要経費などについて家内で処理される部分が多く、実態が把握しづらい。これは現在でも同じである

そういう理由で、『当時の一般的農民収入比較』というのは難しいのだ。出来れば、『毎月決まった給料を受け取る人』が良い。

2.”大卒”の価値が違う

 じゃあ大卒サラリーマン比較すればいいか、と言うとそれも違う。いやまあ、現在経済情勢で大卒正社員になれる人は少数で非正規雇用の方が多いだろう、という話は抜きにしてもだ。

人口の5割弱が大学に進学する現在と、人口の5%しか高等教育機関に進学していない戦前(旧制高校[現在大学前半の2年間]、実業専門学校などを含む)では

大卒サラリーマン価値比較にならない。戦前大卒というのは多くが公務員(現在の一種に相当するあたり)への就職が中心で、残りも三井三菱などの財閥本社に勤務するような、本当のエリートだった。

3.『定額の給料で働く人』『戦前でも戦後でも、相当の人数が必要だった職』は何か?

 となると、事務方ではなく現業公務員適当になってくる。それも、福祉国家化に伴って増えたような職ではなく、本当に近代国家ならある程度の人数を必要とするような職は何か?

となると……。結論としてはやはり、「小学校教師」もしくは「巡査」になる。何せ全国にたくさんの人数が必要なので『エリートしか採用しません』では人数不足になるから

社会でも『平均よりは若干上かもしれないが、エリートとまでは行かない』位置づけになるという点で戦前でも戦後でもおおむね共通している。なお、戦前日本小学校進学率は日露戦争後の1907年には99%となっている。

(ちなみに戦前小学校教師になる方法制度に多少の変遷はあるが、おおむね尋常小学校→高等小学校師範学校という進学ルートになる)

まあ、軍票で払われていて戦後紙くずになったとかそういう部分は別として、『額面を比較する上では』公務員比較するのはある程度妥当だ。

4.実際に換算してみた

http://chigasakiws.web.fc2.com/ima-ikura.html

http://www.geocities.jp/wiz_emerald/bukka.top.htm

上記リンクの上によると、昭和6年には小学校教員初任給50円であったという。現在だと地方による差もあるがおおむね22万円だろうから、とりあえず昭和初期の1円=現在の5000円として換算してみると

[サービス関係]

散髪代:40銭(2000円) 週刊朝日12銭(600円) 山手線の初乗り:5銭(250円) 地下鉄上野浅草10銭(500円) ハガキ:1銭5厘(75円) 新聞定期購読一月:1円(5000円) 上野動物園:大人10銭(500円)、子供5銭(250円)

[食品]

三等米を一斗(≒15kg):45銭(2250円) 盛りそば1杯:10銭(500円) 二等酒を一升(1.8L):1円80銭(9000円) 小麦粉100匁(375g):7銭(350円) 赤味噌100匁:7銭(350円)

[家賃宿泊]

東京での4畳半一間+2食付きの下宿代:16円50銭(82,500円)  東京府による簡易住宅(6畳間+4.5畳間の2間)の家賃:6円~9円50銭(30,000~47,500円)  湘南旅館宿泊料・1泊2食:5円~10円(25,000円~50,000円)

宿泊費と酒は高いが家賃は安い目。あとは現代の我々と比べても、数割はともかく桁が違うような誤差にはなっていないと思う。

2014-09-20

[]キリスト紀元

参考人(鷹司信輔君) 私は神社本庁の鷹司として参りましたので、神社神道のものの考えといたしましてこの点を申上げたいと思います

 この問題につきましては、是非日本の伝統を保有して行きたいと考えております。併し私共は決してキリスト紀元排斥するものではございません。キリスト紀元の便利なところもございますので、現在のように元号式の年代表示法と、キリスト紀元法とを適宜に併用して行くのがよいと考えております日本元号は千三百何年の長い伝伝統を持つておりますのでありまして、それは国民象徴と仰ぐ陛下の御名によりまして常に公布せられました。これは決して天皇主権などというような権力関係のものとは思われません。朝廷から兵馬の権も政治権力も全く消え失せた時代にありましても、日本人元号だけは朝廷公布せられましたところに従つております。官公文書はもとより私人の往復文書、日記等何にでも元号を用いておりました。神社人も仏教徒も又キリスト教徒もこれを用いて怪しまなかつたのでございます国民のあらゆる党派、教派の人々が如何なる対立関係に立つた場合でも、多くは元号だけは同一のものを用いておりました。このあたりに国民統合象徴というような意義も感ぜられるのでございます英国におきましては、公文書エドワード七世第何年とかジヨージ六世三年とかいうように、君主の在位年限を以て年代を表示する方法が用いられておるようでございます法学書や歴史文献におきましても、そのような年代表示法がキリスト紀元と併用されて用いられておる例が決して少くありません。その一般的な普及程度においては、大小の差こそあれ、これは日本の現行の一世一元の制本質的には同様のものであろうと思われるのであります英国では外交的文書や條約文書等は勿論キリスト紀元一本で君主年号を用いないのでありますが、日本におきましても同様でよいと思います外交文書には現在でも公式キリスト紀元が用いられておりますキリスト紀元採用せねばならんからといつて必ずしも日本式元号を廃止せねばならんとは考えられないのでございます

 我々神道人といたしましては、キリスト紀元による年代表示の方法外交文書で用いられようと、学校教科書や年表で用いられようと決してこれに反対するものではありません。我々の間におきましても年表的な場所では大いに利用しておるのでございますが、あらゆる場合キリスト紀元一本に統一されて強制されるということは到底承服しがたいのでございますキリスト紀元一本になるという法案は、必ずしも政教分離憲法に反するものではないという理論は、理論としては成立ち得ると思います政教分離米国におきましてもキリスト紀元を用いております。又キリスト教に対してはむしろ反抗的でさえあつたナチスドイツでもキリスト紀元を用いておりましたし、又反宗教無神論者指導下にあるソ連邦においてさえもキリスト紀元を用いられておるのであります元号とか紀元というものは、少くとも近代国家においては政治的主権というような問題には直接的な関係を持つものではないと申せます。併しながら我が日本国民感情を考えますと、決してドイツソ連と同様には行かないと思うのでありますドイツソ連では、過去におきまして長いキリスト教文化伝統がありましたので、国民キリスト紀元を用いても、それがキリスト教という一宗教特殊関係を持つておるということを全く感じない程までになつておるのでございます。非キリスト教的な宗教教派が別段に存在しないからでありましよう。ところが我が日本におきましては、国民圧倒的多数神道仏教に属しておりますキリスト教徒全日本人口のうちの僅々百分の一に過ぎんのでございます。ここで今後は一切キリスト紀元を用いる。少くとも公式文書ではキリスト紀元以外のものを用いてはならんということになると、神道人や仏教徒は何んだか、国家特にキリスト教を支持しておるように感ずるでありましよう。これは法理論的に申すのではございません。感情問題と申すべきでございましようが、政教分離憲法の円滑なる連用という点から考えますと、このような感情問題も極めて愼重を要することと存じます

 今日では国家公式文書に用いられるのと同様の元号が、神道人、仏教徒キリスト教徒のいずれによりましても用いられておりますが、国家キリスト紀元一本で行くことになりますと、神道仏教では自然国家と別の年代表示法を持つことになりましよう。神社の祝祠などにキリスト紀元を用いたり、仏教寺院の墓碑銘にキリスト紀元を用いることは、我々宗教人として想像し得ないことでございます。現にこの問題新聞紙上に報道せられますと、全国の神社人や氏子、崇敬者から随分と熱心な反対意見を申し送つて参つております過去東京新聞社の世論調査でも、現在のままの元号を存置するがいいという意見が、キリスト紀元一本の意見よりも二倍以上も多いということを報道しております。これはキリスト教文化伝統が浅く、神道仏教徒の多い日本世論としては当然のことであろうと存じます元号キリスト紀元の便利、不便利の問題や法理上の問題議論は多いここと存じますが、私は全国の神社神道人を代表する宗教人立場といたしまして、神道人も仏教徒キリスト教徒も、如何なる敵宗派に属する人も極めて自然に受入れることのできる元号を存続させて頂きたいと切に希望するものでございます日本人のあらゆる政派、教宗派の人々がひとしく国民統合象徴として仰いで来た皇室と縁りの深い元号が将来も尚用いられて行くことを我々は希望するものであります。右のような考えを持つております

第007回国会 文部委員会 第8号

昭和二十五年三月二日(木曜日

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/007/0804/00703020804008c.html

2014-08-12

戦争悲惨から止めようとすると、戦争になる。

お盆の時期は、思い出したように原爆の話題や戦争の話題が増える。

でも、戦争悲惨さ、被害の甚大さを訴える話題は「だから鬼畜アメリカ製品を棄てよ」とはならない。

「こんな悲惨な状況を生む戦争を、二度と起こしてはならない」と締める。

逆なんだといつも思う。

広島平和記念資料館にあるような、熱線で焼けただれ血みどろになって廃墟の中を逃げ回るような悲惨な状況になったとしても、

絶対に戦争をしない、拳を振り上げないという覚悟必要なんだと思う。

同じじゃないんだ。

悲惨から戦争をしない、じゃない。

悲惨なことになったとしても、戦争をしない。

アメリカ宣戦布告をしてきて、再度広島長崎原爆を落とすと通告してきても、国権の発動たる戦争は起こさない。武力は行使しない。

国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」というのは、相手が殴りかかってきても対話でこれを解決するという宣言なわけだ。

また広島原爆が落とされ、この世に地獄が現れても、戦争はしない。

また長崎原爆が落とされても、紛争解決の手段として武力は用いない。

悲惨から戦争を止めようというのは、「悲惨な状況が起こるのが目に見えているなら、止めるべきだ」と表裏一体だ。

そして、悲惨な状況が目に見えるから、それを守る、それを起こさないとなる。

感情論経済論と結びつき、容易に「正義」に形を変える。

日本人を守れ、同盟国を守れ、そして「日清戦争が始まり日本は勝った」。

国家主権プライドも、損得勘定も、感情論も、等しく全て「戦争」に結びつく危険がある。

どんなに恥辱に塗れようとも、果てしない損失と機会喪失があっても、凄まじく悲惨な被害があっても、全て無視して一切の武力を行使しない。

これは「悲惨なことになるから、武力を行使するな」とは、真逆意志だ。

「武力を行使しない結果、悲惨なことになっても、受け入れろ」という強い意志だ。

グローバルスタンダードに乗ろうとした、明治維新日本近代国家化。

経済的政治的に、西洋列強からの干渉を防ぎ自国を守ろうとした外交政策

外交から同盟国の「悲惨な状況を防ぐために」日清戦争が起こり、日本は守りきった。

三国干渉を受けながらも空前の好景気を迎え、世の中は良くなった。

そして、「またも悲惨な状況を防ぐために」日露戦争が起こり、同じく日本は守りきった。

そのたびに景気は良くなり、西洋化は進み、戦争をせずに外交努力経済的な進出によって日本は発展、

人種的差別撤廃提案」という正義の法案を廃案にし「移民全面禁止」に踏み切るような狭量な国家は、

暗黒の木曜日」を引き起こし世界恐慌の引き金を引いたにも関わらず、自分たちだけを守ろうとブロック経済を敷く。

その後、日本周辺諸国安全平和の為に絶対に必要石油の全面禁輸に踏み切ったその国は、「米国」と言う。

悲惨な状況を起こさないように対話努力は続ける必要がある。

だが、いついかなるときも、守ろうとする理屈感情正義経済もクソくらえだ。

あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争しょうがないと思いますか?

http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/c45f9793732aa7e8116d123f503b3dd9

「焼き場に立つ少年」が発生しそうになっても、決然と無視する。

「焼き場に立つ少年」がまた発生しても、しょうがないと諦める。

どんなに「焼き場に立つ少年」が繰り返し発生しても、絶対に武力は行使しない。

例え世界中から無責任だと非難されたとしても、武力は行使しない。

侵略戦争放棄した国は100を越えるが、まだ国連平和維持活動を行っている。

全ての国家戦争放棄するまで意志を貫くことが、先の大戦で得た教訓となって欲しいと思う。

2014-07-19

http://anond.hatelabo.jp/20140719185707

という増田が書いたような事実を、隠蔽しようというようなやり方が近代国家創世記にはあったってこと。

もちろん現代では新しいステージが来てるのか、変わりつつあるんだけど。

中国のやり方もその辺の揺れ幅が残ってるような形ではある。彼ら(中国を発展させようとしてる人)は本当は本音を言えば普通語押し付けたいんだよ。でも広すぎるしっていう。

集団幻想

アメリカはともかくとして近代国家(という幻想)というのが血筋(という幻想)の問題リンクして作られたっていう生い立ちがあるからね。

から中国なんかだと「中華民族」という民族があるんだっていうことにしようとしている。これはちゃんと歴史を調べた奴が、近代国家として成立させるにはどうすればいいかってのを計算してやってる。

やっぱり中国はその辺ちゃんと調べてやってるよ。ピンイン表記とか簡体字とかも、書き文字の簡易化という近代国家の基本をちゃんと調べて、先進国より少し遅れたけどちゃんとやろうとしてる。

英語だと国家ネーションステートと言って、ネーション民族からね。でも民族というのも幻想だけどね。家族とかも含めて「族」という結びつきは全て幻想

分類上の切り口の1つという程度の意味はある。まあ切り口なんてどういう切り口でも作れるからね。世界の全ての人を身長175センチ以上と以下に分類する、とかでも可能だし。その分類をわざわざする必要性はないが。

戦後戦勝国植民地独立運動をするわけだけど、そのときも「民族自決」という幻想性が必要だったからね。

まり幻想ってパソコンにおけるOSみたいなもの。そのOSパソコンって別にセットじゃなくてもいいんだけど、OSがないと動かないっていう。

人間幻想がないと存続できない、というか世界認識できない。なぜなら全ての幻想を剥ぎ取ったとき生命の存続しなければならない理由などどこにもないからだ。絶滅しても問題ないのだ。人間地球上の生命も全て。人間もの認識するとき重要ものだけ見えて、重要でないものフィルターにかかってあまり見えない、聞こえないようにできている。この区別がなくなるのだ。

ただ絶滅は「しなければならない」というものではなく「別にしてもいいよ」程度のものなので、絶滅しなくても問題ない。この世にこうでならないといけないことなど何もない。

から別に幻想でもいいのだ。幻想でなくてもいいのだ。どうでもいいのだ。したいようにすればいい。なるようにしかならない。

だったら俺はこの世界でこうする!

2014-05-18

http://anond.hatelabo.jp/20140517230300

(1)「国益にかなう戦争」の実例を一つあげてみてくれ。

(2)「国益にかなう戦争」以外の戦争をしてない国(または、少なくとも「戦争」によって儲かってる国)の実例を一つあげてみてくれ。


オレは個人的に、近代国家にとって、「戦争」は必ず長期的には赤字になる外交負債だと思っている。だからこそ、「愛国心」とか「勇気」とか「正義」とか、そういうお題目を唱えないと国民戦争に駆り立てることができないのだと考えているが、そうでない実例があるというならぜひ伺いたい。

2014-04-21

近代国家プリントカルチャー

マクルーハンは、中世合理化した近代プリントカルチャー印刷文化)に集約された、と言っています。とにかく何でも印刷して分類して読み込まないと理解できない。中世の写本の時代には、その人特有の書き癖もあるし読み上げる声の力、聴き取る力が必要だった。そうした声による情報伝達が印刷文化に置き換わることで近代国家が生まれた。だが、近代になって一度は捨てられた中世的なものが、電子時代になると復活する、というのです。ポスト近代になれば、国家による中央集権フラット情報社会に置き換わり、国家が中心なのではなく個人が中心になる。天動説ガリレオ・ガリレイ地動説は再びひっくり返るのかもしれないし、例えば「ナルニア国物語」なんて、まさにそういう中世世界観の復活のように読めなくもない。

2014-02-22

なぜ行動履歴の収集が気持ち悪いかそろそろひとこと言っておくか

Suicaの事例NC特集 - 「Suica履歴販売」は何を誤ったのか:ITproJRの顔識別実験顔認識を使って人物を追跡する実験、大阪駅の駅ビルで4月よりスタート | スラッシュドット・ジャパン YROへの反応からも分かるように近年行動履歴界隈が大変騒がしくまた盛況な様子です。

そして出てきた Yahoo! 別所氏の発言がなかなかかぐわしい香りを放っており各所から鬨の声が上がっております。(やまもといちろうのマネ)

http://www.huffingtonpost.jp/2014/01/21/bigdata-yahoo_n_4635623.html

http://www3.nhk.or.jp/news/business_tokushu/2014_0219.html

企業利用者のことを、いちばん真剣に考えている主体です。』

に至ってはナニ寝言抜かしてんねん意外に言うことはないわけですが。

『「気持ち悪い」という利用者感情的な問題だ。』

プライバシーフリーク

という発言から分かる通り、利活用を求める人々はデータ収集に反対する人々の『気持ち悪い』という感情をあたかも身勝手で不当なものであるかのようにとらえているようです。

んで学部レベルの半可通な状態だけれども、誰も言わないからこの辺に書いておく

なぜ”気持ち悪い”か

率直に言えば、他人に自分情報を与えることは、ほとんどの場合不利益しかならないから

まず個人対個人の場合

PASMOデータを用いて社員ストーカー行為を働いていた例がある

http://matome.naver.jp/odai/2133463494276014401

法律職務規定でくぎを刺しておくべきものなのだが、データを渡さなければ職務規定が本当に機能しているかどうかを気にする必要もないわけで、データを渡すことは”見込みの不利益”を増大させることでしかない。

次は巨大な企業が一個人のデータを利用するケースについて

ここからはもう想像するしかないのだけれども(企業情報出すの嫌いだよね)、Amazon在庫数や閲覧数でもって値段を調節していると言われている。

http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20130307/1047958/

ここで”Web 閲覧履歴、購買履歴、アクセス履歴から、ある人がある商品をとても欲しがっていることを判定し、その人がアクセスした場合、100円高く値段を表示する”ことは可能か不可能か。

ポイントカード情報を用いて、この地域では雨の日に XX を買う人は少々高くても XX を購入する。雨が降ったら XX の価格を上げよう。という戦略は可能か。

ビッグデータ未来を感じている人ほど可能と考えるはずだし、実際可能な筈で既にやられているかもしれない。


そして今、通常価格より高く商品を買った人がいたとして、このシステム利益だろうか不利益だろうか。

(こういうことを言うと必ず「自分が100円多く払うことでお気に入り通販サイトや店が維持できるのだから利益になると思います^^」と言う天邪鬼がいるけれども言ってて空しくなんないのか。そんなに利他的聖人様は稼いだ金は生活必要な分だけ残して全部 Wikipedia かどっか好きなところに寄付したらいいと思うよ。)


以上のように自分情報を与えることは本人にとって不利益しかならない。

これは人間人間となる以前からの真理であったので(体調が悪いという時にその情報を隠さなサルボスと隠すサルボス、どっちが地位を追われやすいか、と考えたら自明だよね)、遺伝子レベルで刷り込まれてしまっている。

例えるならば、腐ったもの自分にとって不利益となるもの)の臭い不快に感じるのと同じことであり

情報をとられて「気持ち悪い」なんて感情的な問題で嫌がるな”という主張は”ウンコを鼻先に突き付けられて「クサい」と言うな”という主張と同質なわけだ。

こう書くと理不尽キチガイかどちらだね。


ところで法的には”理不尽であったとしても認められるべきこと”がある。

それは理不尽によって侵されるものより優先される権利

例えば生活保護。ここで侵されるのは社会全体のリソースで、対するのは生活保護受給者の生存権になる。生存権日本国でも最も重要権利の一つとされており、守ることが人類国家全体の利益になると考えられている。だから生活保護は維持される。

さて”企業が個人の行動履歴をとり利用すること”が侵すものは何だろうか。

平穏生活する権利、通信の自由、移動の自由といったところだろうか。

対するのは企業の”経済活動の自由”。近代国家では前者の方がおそらく優先されされるだろう。

よって理不尽であっても認められる例外とはされないと考える。

言いたいことは以上なんだけども、履歴利活用推進派の人たちには”当然に気持ち悪い”、という認識でいろいろ語っていただけたらいいなと思う。

2014-01-26

http://anond.hatelabo.jp/20140126134352

愚痴を言うのを辞めろというのは、言論の自由弾圧である。もちろん、「愚痴を言うのを辞めろ」という意見もまた、言論の自由観点から、言うのは自由である。ただし、近代国家において支持される意見ではないだろう。ヒトラースターリン毛沢東のような独裁者は好きそうだけど。

2013-12-20

http://anond.hatelabo.jp/20131220191336

おやおや近代国家を諦めましたか。ミンシュシュギとか言ってたのどこに消えたのかなあ。まあいいけどw

封建制郡県制は秦の始皇帝の頃だから紀元前260年くらいの国家論な。参勤交代制の話を付け加えてもいいぜ?

血縁地縁から切り離すこと無しに強固な国家なんか作れないんだよ。

2013-11-05

http://anond.hatelabo.jp/20131105153554

エキサイト翻訳してみた

東京オリンピックは今でも"合法的に"中断に陥れる。 それを皆の協力が必要だ。

日本には"パチンコ"は'不法賭博'が蔓延しているということを世界に知らせるようにその上にIOCに抗議することだ。

"不法賭博を堂々と営業する日本法治国家ではない!" "近代国家だと呼ぶことはできない情けない国だ!"

風紀に非常に厳格なIOCは全世界で抗議を受ければ必ず動く。

パチンコ私たち重要な財源だが、警察政府にさしかかった同胞によって厳格に守られている。 びくともしない。 全く問題ない。

ただし安倍総理が恥さらしを当てられた日本が信頼を失うことだ。

そしてオリンピックが中断されて、日本世界孤立されるだろう! 私たちの手でそれをすることができて! !

2013-10-23

http://anond.hatelabo.jp/20131020232700

国家の「成熟」というのは、文化の違いを超えてあらゆる近代国家は同じ発展の仕方をする、ということが前提なのかね。物理的に発生する課題なんかは、確かにある程度似てくるだろう。だが、社会制度や人々の労働観などまで同じになるという期待は、文化の違いを一切無視した極論ではないかな。だとしたら、有権者企業も「ついてこない」ような制度を導入した小泉改革が、どうして「正しい」と言えるのか、疑問。

まあ、日本人は、結局、職業であれ性別であれ、とにかく何らかの「身分差別制度」を求めているんじゃないかね。それは、単に信仰かいう問題じゃなくて、もっと根深いところでそうなんじゃないか

たとえば、日本人は、キリスト教徒ですら、どこかで「全ての人は平等だ」という概念を理解していないんじゃない? 牧師神父のように、「より真面目な」信徒は「より神に愛された」存在であって「偉い」……とどこかで思ってるフシがあるんだけど、どうかね。「懺悔」とか「告悔」というシステムを心から納得しているんだろうか。罪を悔い改めた罪人は、等しく神に愛された存在であって、「ずっと正しく生きてきた信徒」と同じように救われる存在だ、という感覚が本当に持てているの? どこかで、昔から仏教のような感覚で、「より修行をした僧は、より仏に近い」「偉い」存在だ、という感覚がありはしないか

これって、別のツリーで話題になってる「自尊心」の問題と同根だと思う。「日本人ほど自尊心が低い人が多いように見える社会はない」というのは、「平等」を押し付けてくる近代社会制度への無意識の反発が、「いやいや私ごときなんて、そんな、皆さまと平等な偉い存在じゃないんですよ」という謙遜風自虐と、その裏返しとしてのある種の「無神経な図々しさ」(ちっぽけな存在である私ですから、多少不作法だったり公益に無関心だったりしてもお目こぼし願いますよ、ヘッヘッヘッ、的な)となって表れているような気がするね。


身分制度って、一面「ラク」な社会なんだよね。身分社会的に規定され、それ以上のものは求められない、という点で。みんなが「身の丈」で暮らす社会と考えれば、『選択的身分制社会』なんてアリじゃねーのとも思うが、どうなんだろうね。まあ、イノベーションのない社会は国際的競争力を失うことは必然から、長期的には「今ある財産を食いつぶす」「ますますhentai国家化が進む」結果になるとは思うけどさ。逆にその方が、社会的な「生きづらさ」は減ると思うんだが、どうだろう。



まあ、単なる妄想なんですけどね。

2013-09-05

婚外子差別の件って、根っこは「ご落胤」だよね

まず婚外子問題の前提知識は、↓がよくまとまってる

[コラム]「婚外子相続差別違憲判断について小町脳的Q&A

http://topisyu.tumblr.com/post/60289597573/q-a

ポイントになるのは実は3つで

  1. 父親が認知した婚外子が、相続権を持つ
  2. 認知は、戸籍上届け出るか、遺言のどちらか
  3. 遺言とは、本人が死んだ時の遺産の処分に関するもの

ぶっちゃけて言えば、親父が庶子に無茶な財産継がせないように、婚外子の但し書きが入ってる。

庶子って言葉が暗に示す通り、こりゃイイトコの旦那が外に囲った女(庶民)に産ませた子供って意味だあな。

島耕作シリーズ読め。

部長なり社長ってのの、イイカンジのエピーソド扱いで、その手のネタが出てくるから

んで、島耕作シリーズの憧憬みたいなモンは、現実にもありうる。

「愛した女の子供に、良くしてやれなかった……せめて遺産くらいは」

みたいなのが爆発すっと困るから、ってことだ。

ほれ、あんまり最近聞かねえけど、結婚ってイエを結びつけるもんだから

家柄だ何だって話になるっだろ。

まりは、「別にイエの結びつきだし、本人同士は生理的に無理でなきゃアリだろ」って話。

んだから、「家庭はあるが、愛した女は別」とかそういう昭和な話になる。

明治期はそれこそまさにお殿様のようなお大臣しか話題にならなかった庶子が、

島耕作シリーズに載る社長部長の話になって、という、そういう流れよ。

からまあ、時代の流れじゃねえの?

親父が死んで遺言状開いたら弁護士が青ざめてよ、

「俺の愛した女はマサミだけだ。その子であるタカシを遅ればせながら認知して、財産を全て与える」

とかって、聞いたことねえ名前が出てきて家族騒然、みたいな話にゃ、もはやならんだろ。

馬鹿家督からイエを守るための法律ってのを無くすのも、近代国家にゃ必要だろうよ。

2013-09-01

http://anond.hatelabo.jp/20130831232631

お返事ありがとう。おおむねこちらの書き込みの趣旨を取っていただいたようで、特に追加はない。南京事件に関しては、その前からずっと中国が「戦争」をしていたこと、その延長線上で日本軍南京市を早期に攻略する必要があったこと、そして、軍として必要兵站が不十分で軍規統制が取りにくくなっていたこと、さらに、よく言われる「中国便衣兵民間人に紛れ込む兵士)」の問題など、様々な不幸な条件があったことから普通以上に「(無抵抗の)民間人に対する攻撃」が過剰になった面があったことを考慮する必要があると思うし、そういった意味からも、あなたの論の例としては適切ではないと思う。

ただ、歴史を見れば、「軍による無辜市民虐殺」というのは、他にもいくらでもあるからあなたが「非武装でも殺戮は止まらない」と考えるのがおかしいとは思わない。ただ、どちらが被害が少ないのか、という議論になると、それはやはり分からいね。たとえばあなたは今の日本で「武装した強盗に殺される危険を考えれば市民は武装すべき」という意見は適切だと思う? あるいは「各自が武装したら、相手ももっと武装するわけだから、そんな物騒な競争はじめるより、銃自体を不保持に(取り締まれ)」という意見は、楽天的現実的?

これ、考え方の正しい/間違い、じゃないと思うんだよ。あくまで実際の場や状況下での適切さの問題であって。

自分が言いたかったことは、「武器を取るもの武器により滅ぶ」という、古くから格言趣旨と同じです。武器戦闘の手段であって、停戦のための手段としては使えても平和の手段にはなりえない。(そこは同意して貰えるのではないだろうか。あなた別に好んで戦争したいという風には見えないので。)平和を実現したければ、武器に依らずそれを構築するための努力をする必要がある。そうでなければ、今後も人類永遠に血みどろの争いを続けるか、もしくは破滅するか、いずれかを選ぶしかない。武器の急速な進歩を考えれば、おそらく後者の可能性が高い。それが、二度の世界大戦を経た現在世界外交における、だいたいの前提となっているのではないか

それを踏まえて、一点。

非武装や無抵抗について国家としてそれがとれないのは、自己否定といった国体にかかわる側面から国家が主体となってとれないのではなく、リスクの面からとり得ないということだと思います

うーん。ある国家が「非武装。無抵抗」を標榜したら、それはもう近代現代的な意味で「国家」とはなり得ないと思うんだけど、どうでしょう領土侵犯されても、自国民誘拐され殺されても、我々は特に何もしません、という近代国家政府が、果たして成立し得るのか、という。「単にリスク(すなわち未来)の問題であって、リスクさえ適切に解消できれば政策として取り得る」のか?と考えてみると、やはりそれは疑問です。

から、現状では「国家」は「軍」を手放せない。だが、それこそが、人類にとっては大きなリスクなのではないか? 「国家」による安全保障には限界が…というのが、25年前のマンガ沈黙の艦隊」(かわぐちかいじ講談社)のテーマで、一種21世紀テロ時代を先取りしたマンガだったわけなんだけど、まあそういう考え方というのはあるよね、という話。

参考:松岡正剛の千夜千冊「沈黙の艦隊http://1000ya.isis.ne.jp/1485.html

私は、とりあえずあなたの言う「サヨク」な人たちが唱える非武装論というのは、現実の政策論ではなく一つの理想的なものの考え方・視点と考えれば理解できると思うんだけど、どうだろう。だとすれば、今の現実政治がそうなっていなくても、いつかはそこにたどり着こうという目標として、飾っておく必要はあるんじゃないかな。遠い未来目標がなければ、「今」を生き抜くときにも方向性が決まらないでしょう?

2013-08-03

著作権をなくそ

著作権による保護は本を普及させず逆に「消失」させている

って記事。何を今更言っているのかと。当たり前やん。

著作権百害あって一利なし近代国家にはこんなものあってはならない。

2013-05-28

正直言って本を読まない人を見下している

本を読まない人って、ツマラナイ人間が多いです。正直見下しています

話がツマラナイ、語彙が少ない、「〜だ」と断定するのがクセ、それなのに話の裏付けがない。こんなヤツと一緒に働きたくなんかありません。その上、文章を書かせても全くダメ。報告書もまともに書けない。

本を読まない人の特徴として、私が最も問題だと思うのは、彼ら彼女らはモノの見方が1つじゃないことが分かっていないのです。世の中には、色々な考え方があって、人の立場や状況によってモノの見方が変わるということを理解できないことが多いです。おそらく想像力の欠如が主な原因でしょう。

言い方を変えれば、価値観の相違を認めない人が多い。

国際化が進む社会において、価値観の相違を認めるということは、コミュニケーションの基礎です。それが出来ないのだから、正直言ってバカとしか思えません。

最近ネットを見ていると、批判されている人は本を読む人。批判している人は、本を読まないバカ。そんな構図が多いような気がします。

批判といっても建設的なものならいいけれど(それは色々なモノの見方があることが分かっている人がすること)、誹謗中傷の類をしているのは確実に本を読まないバカ。「自分が正しい、こいつが間違っている」そう思い込んでいるんでしょうね。

こんなことを書くとステマとか言われるけれど、ちきりんイケダハヤトも本を読んで自分なりの理論を作り上げているのだからすごいと思います。でも、本を読めばあれくらいのことは誰にでもできるのです。

本を読まない人が、イケダハヤト信者ちきりん信者になったり、誹謗中傷をする人になるのです。

本を読む人は、イケダハヤトちきりんの言っていることを批判的に見て、いいところだけを自分の中に取り入れていけるでしょう。


まり信者誹謗中傷している人は、本を読め。ただし、ちきりんが勧めている本を読むだけなら、それはちきりんを読んでいるだけだ。みんなが読んでいるから読むのではなく、読みたい本を読んで、自分なりの考えをまとめるクセを持ち、想像力を豊かにしていくことで、価値観の相違への理解もできるようになる。

逆説的ですが、自分の考えがある人は、価値観の相違への理解が深いです。

本を読め。

こんなことを書くと、本を読まない人はダメみたいな言い方をするのだからモノの見方が1つではないことが分かっていないとの批判を受けると思います。私もそう思います。ですが、本を読む以外にいい方法が見つかりません。なにかい方法があれば、教えてください。

では今日はこの辺りで、ほなさいなら。

追記

誤解されているようなので追記します。

もちろん私は、本を読まない人を理解しようとしていますし、本を読まない人との価値観の相違についても理解を深めようとしています

しかし、次の点について誰か説明してほしいのですよ。

「本を読む以外にどう学ぶのか」

ということを。

私が思うに、学ぶ方法は、本を読む、人の話を聞く、旅をするの3つしかないと思います。ちなみに、実践するは、学ぶの次の段階だと思います

この中で、人の話を聞くと旅をするは限界がありますしかし本なら、物理的な制約も、時間的な制約も受けずに学ぶことができます。最高の学びじゃないですか。

その最高の学びを放棄していることを実感しているのでしょうか?

私は、本を読まない人がこの点についてどう思うのか知りたいです。本を読まない人の価値観を知りたいのです。

その説明がないので、見下しています。正直言ってね。

ほな、さいなら。

追記2

そうだ、ひとつ忘れてた。

自分のアタマで考えようね。そんじゃーね

追記3

遊んですみません。本当の追記です。

「じゃあ、何を読めばいいの?」「あなたは何を読んでいるの?」との質問が多いので、お答えいたします。

そもそもこの質問を一度に答えることはできません。つまり、私が読んでいる本はあなたが読むべき本とは限らないのです。

あなたが読むべき本とは、あなたが読みたい本です。何でもいいと思います。好きな本を読みましょう。

一例として、私が今日読み終えた本は、『逝きし世の面影 』というものです。その理由は、外国人日本をどう見ているのか、またはどう見ていたのかということに非常に興味があるからです。

ですので、私はここ最近ドナルド・キーンさんの本や『菊と刀』『日本における近代国家の成立』などを読みました。

少し前は、日本文化についての本を読みあさりました。その結果、禅についての理解が必要だと感じたため、それについての本を読みました。禅について知ると、仏教全体や他の宗教についても知りたくなったので、それに関する本を読みました。その後は、イスラム教に興味を持ち、何冊かそれに関する本を読みました。そして、次はまた日本に戻って来たわけです。

私は、ニーチェを読めとか、プラトンを読めなんて言うつもりもありません。読みたければ読めばいいと思います

みなさんも興味のある分野があるはずです。例えば、ニュースを聞いていてアベノミクスについて気になったなら、それに関する本を読めばいいと思います。その上で、経済学について興味が出てきたら、更に掘り下げていけばいいと思います

そんじゃーね

正直言って課金ゲームにハマる人を見下している

正直言って新興宗教にハマる人を見下している

2013-04-23

http://anond.hatelabo.jp/20130423130743

靖国神社国民洗脳に使われてるのは明らかなんですが、

要出典

国家神道という宗教自体がもともと政宗一致なんで問題なんですよ。

要出典

天皇制ももともと近代国家矛盾してる。

要出典



相手が自分と違う考えの持ち主だとわかってて話しかけるときすら

客観的な出典や根拠もなく自分の中の”既定事実”を喚くだけで、それで説得や対話だと思ってる。

結局君達の脳の問題なんですよ。

2013-04-05

http://critic5.exblog.jp/20243840/

長谷部恭男作為 - 「リベラルデモクラシー」の欺瞞

http://critic5.exblog.jp/20243840/

ブログコメント欄に書き込もうとしても弾かれるのでここに書く。

"「立憲主義から憲法を概論するという場面に遭遇したことがない。ロックルソー自然法思想と社会契約フランス人権宣言、ワイマール憲法平和主義という歴史的流れで日本国憲法が説明されるのが一般論だった。"

個人の人権を擁護保障することにより国家権力を制限するというのが「立憲主義」なわけであり、「ロックルソー自然法思想と社会契約フランス人権宣言、ワイマール憲法平和主義という歴史的流れで日本国憲法が説明される」≒「「立憲主義から憲法を概論する」ということなので、上の引用部分はおかし記述ですね。

"近代国家憲法を基礎づける思想は三つで、立憲主義ファシズム共産主義だと言うのであり、冷戦共産主義が敗北し、立憲主義が勝ち残ったと言う。"

一般的な理解では、「近代国家憲法を基礎づける思想」には「ファシズム共産主義」は含まれず、立憲主義がありますね。明治憲法伊藤博文立憲主義憲法理解を示していましたが、権力を縛るには不十分であったためアジア太平洋戦争という結果に至り、改めて立憲的意味での憲法として制定されたのが日本国憲法ですね。

"長谷部恭男立憲主義を説明するとき、何度も「多様な価値観を互いに認め合う社会」の重要性を繰り返し、小林節枝野幸男が唱えて言論空間を席巻したところの「国家を縛るもの」の契機が二の次になっているので、"

多様な価値観を互いに認め合えるよう国家に自由を保障させることそのもの国家を縛ることですから二の次になっているというのは全くの誤解ですね。

"政治方面から改憲論(自民党)には消極的であり、保守的護憲論とも言える立場なので、"

"憲法学アカデミーの主流が護憲であったなら、これほど反動的で反憲法的な政策や法律判決が溢れるのはおかしいではないか。"

憲法学者憲法学者であるし、立憲主義者は立憲主義者であり、改憲論者でも護憲論者でもないです。日本国憲法主義者が他者にも日本国憲法主義者であってほしいと言ってるだけの記述ですね。

"憲法改正論のところでも奇妙な記述がある。「憲法9条の改正論についても同じことがあてはまる。従来の政府解釈で認められている自衛のための実力の保持を明記しようというだけであれば、何の『意味』もない改正である」(P.21)。"

憲法改正前と後で国家権力のできることに変わりはないので当然の記述であり奇妙ではないですね。

"この憲法平和主義原理を基本として制定されたものであり、300万人の犠牲の上で戦争放棄と戦力不保持が宣誓されていることが考慮されていない。日本国憲法は、立憲主義よりもはるか平和主義憲法である。「憲法とは何か」と題を立て、読者・学生日本国憲法を説明するなら、何より平和主義から説明しなくてはいけないのではないか。前文を見よ。半分は平和主義が語られている。「多様な価値観を認める」などとは書いていない。この憲法戦争肯定論者の価値観を認めてはいない"

日本国憲法に規定された国民の自由や人権を保障する上で自衛隊警察のような実力組織必要ですよね。「立憲主義よりもはるか平和主義立憲主義国家権力を制限し個人の自由や人権を守るという考えであって、その上で平和希求があるものですよね。もちろん今の政府議会平和希求・実現の努力が充分であるということではないです。

"本当は、他先進国憲法よりもずっとラディカルな理念を持ち、現実社会にラディカルな民主主義要請する憲法を、その性格を剝ぎ取り、脱色させ、すなわち憲法の牙を抜く言説が、長谷部恭男立憲主義リベラルデモクラシーなのだ日本国憲法は、リベラルデモクラシーではなくラディカル・デモクラシー憲法である"

「ラディカル・デモクラシー」を理想とするのは結構ですが、「ラディカル・デモクラシー」が日本で実現されているわけではないし、日本国憲法は当然 絶対民主主義憲法ではなく(というより「絶対民主主義憲法」はそれはもはや「憲法」ではないが)、「民主権力であっても暴走することがあるため、憲法により縛る」という立憲民主主義憲法である日本国憲法なんですよね。

6、7段落は全く意味不明ですね。

終わり

2012-12-14

はてサ歴史をしらない

このはてブ

http://b.hatena.ne.jp/entry?mode=more&url=http%3A%2F%2Fwww.asahi.com%2Fpolitics%2Fupdate%2F1213%2FTKY201212130803.html

元記事の

http://www.asahi.com/politics/update/1213/TKY201212130803.html

日本人けが近世になって有色人種でたった一つだけ、近代国家を作った」

に誰一人20世紀までに近代化を成し遂げた植民地、植民国家でない非欧米国家を一つも反例を上げて反論してないあたり、

はてサらしいとおもった。

歴史クラスタはてサが嫌われているのもココらへんに原因があるのだと思った。

2012-12-09

人権を廃して近代国家を維持する道標

人権というものを語るとき、必ずといっていいほどまで言われることがいくつかある。

たとえば、「人権というもの近代国家を満たす要件のひとつだ」というぐあいだ。

ホッブズ社会契約説として自然権を考えたが、彼の見据えた先は絶対君主制であり、巷で言われるような近代国家とはまた異なる。

ロックは間接民主制を見据えていたので、これはさら民主主義を推し進めたという意味でより近代である。すなわち、近代国家というのは民主であるというのも大事なのだ

他に言われることとしては、「障害者人権がなかったら、虐殺される」というものや「お前みたいなクズが生きていられるのも人権のおかげだ」というたぐいのものだ。

常識的に考えてみて欲しいのだが、人権の有無と虐殺の有無は異なる。人権がなかろうと人を殺せば刑法に触れるのであり、ふつう虐殺など起こらない。人権がない、すなわち無法地帯というわけではないのだ。後者に至っては発言者ゲス具合が遺憾なく発揮されており、恫喝以外の何物でもないと考える。

さて、憲法改正議論にあたって基本的人権の尊重などというのが槍玉に上がっている。これを廃することは、近代国家の否定だという人が思ったよりいる。

少しシミュレートして欲しいのだが、この国から人権を廃して、何か変わるだろうか?

警察対応杜撰になる?そんなことはない、もとから人権など顧みない杜撰組織だ。

国家国民や他国の人間を守らなくなる?そんなことはない、人権等より実質的国家的相互監視によって、そんなことは許されないし、軽微なものならこれまでも無視されている。

自由が奪われて息苦しい時代になる?そんなことはない、それはある程度は景気の問題であって、人権があるかどうかと自由があるかどうかは関係ない。人権があろうとなかろうとわれわれはこれまでも「公益及び福祉のため」にこれを実践してきたし、人権の有無にかかわらず公共の福祉のために衝突があれば調停してきた。

ここまできてわかっただろう。この国に人権などいらないのだ。人権などいらないと言いのけても矛盾ないほどまでに杜撰国家杜撰国民杜撰社会だと言うのもいいし、人権などいらないと言うまでに自律的かつ他律的な国家国民社会なのだ、と言うのもいい。

いずれにしても、民主手続きで人権を放擲するならそれは最大限尊重されてしかるべきだし、今回の改憲が実現したとして人権がきれいさっぱり憲法からなくなるというわけでもないのだから、反対派にしても良かったじゃあないか

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