はてなキーワード: 貨幣経済とは
その先輩と私は同じ学部で、サークルも一緒だった。専攻は、とある文系の学問とだけしておく。
私がサークルを辞めると同時にその先輩とは疎遠になったのだが、その後数年を経て、FBで友達になった。
サークルをやめてからその先輩とは疎遠になっていたので、その後の足取りを私は知らない。だが、先輩のFBでの活動は見ててとてもつらかった。
原発絡みのデマ記事をシェアして、師事していた教授から「それはデマだよ」とツッコミを受ける。
「どうしてお金なんてあるんだろう」と貨幣経済を否定するつぶやきをして、やはり師事していた教授から「経済学をイチから勉強したらいいよ」とツッコミを受ける。
ワクチンを全否定する記事をシェアするも、友人っぽい人からは内容にほとんど触れられずに「最近元気してる?」とコメントがつく。
最近では、明治維新は陰謀だと主張している。何を言っているのか最初本当にわからなくて調べてみたが、BLACK LAGOONのファビオラ曰く「タブロイド誌のバカ記事」にでもなりそうな内容だった。
その先輩が次に何を言ってくるのかワクワクしている反面、次から次へとデマや陰謀やニセ科学を信じてシェアする姿は、見ていて痛々しいものがあった。
私個人としては、別に政治的な信条などはどうでもいいのだけれど、とりあえず先輩に言いたいのは、「デマや陰謀を信じるのはやめようよ」ってことである。そういうのに騙されないために、我々も、学生も、大学で勉強をやってきたのではないのだろうか。誰か止める人はいなかったのだろうか。このままいくのとどうなるのだろうか。知り合った時とはまるで違う先輩の姿に、戸惑いとともにある種の喪失感のようなものを覚えた。
自分を発信するのが苦手だ。
昔、と言ってもいつまでかは詳しく覚えていないのだけど、人から注目してほしかったり、人に認められたいと思っていた時期があった。
ツイッターでは何を食べたか、どこへ行ったか、どういう出来事があったか、どう感じたか、そんなことを飽きもせずにツイートしていた。
自分はこういう人間なんだ、これが好きだ、これは嫌いだというのを主張して自分を知って欲しい、分かって欲しいと思っていた。
会話をすれば相手のことを理解できるし、相手にも理解してもらえた気持ちになった。
そういう意味で会話は素晴らしいコミュニケーション方法だし「人を理解する」ことは可能だと思っていた。浅はかで幼稚な考え方をしていたと言わざるを得ない。
自分を理解してもらうことはできないし、相手を理解することもできないのだと理解した。
自分から見た自分らしさとは単なる思い込みで、他人から見た自分らしさとはただの誤解でしかない。
ただ、それでもコミュニケーションをとって生きていかなければいけない。
どうせ相手に理解されることは無いのならば、少なくとも相手にとって価値のあることを話せる人間になりたいと思った。
しかし価値なんて時代によって異なるし、人それぞれが感じる価値もちがう。等しいと思われているのは通貨くらいのものだけど、それも思い込まされているだけで、貨幣経済から脱出してしまう人もいるし、万人にとって価値のあることなんて無いのかもしれない。
知識であればほとんど誰にも価値があるのかと思ったけど、知識がほしいのであれば本を読めばいい話で「自分が言う必要」はない。
あいてにとってそこにいるのが自分である必要。それは経験なのかもしれない。
最近発表された実験結果に自分語りはセックスと同じ快感があるという言い方がされていた。
toyokeizai.net
「自分のことを話すとき、それが会話であろうと、ソーシャルメディア上であろうと、人はお金や食べ物、セックスと同じような快楽を感じる」。ハーバード大学の神経学者が、こんな驚きの調査を発表した。
約200人の脳をMRI(機能的磁気共鳴画像診断装置)で調べたところ、被験者が自分のことを話している時、脳内の側坐核、さらに、腹側被蓋野と呼ばれる領域の動きが活発化するのが確認された。これらの領域は、神経伝達物質、ドーパミン放出に関係があるとされる箇所で、ドーパミンは快楽物質とも呼ばれ、食事やセックス、お金等の報酬やドラッグによって分泌されるものだ。
なるほど、twitterやFacebookで自分語りを誰もが喜んでやっていたのは”気持ちいいから”なのか。
とすればだれも好き好んで他人の自己満足なんか見たいのか?極端に言えば他人のセックスを鑑賞していることにならないのか?という疑問は産まれる。
でも、結局自分が生きていくというのは自分を満足させるということで、それは結局オナニーであり、一生をかけてオナニーしているだけなのだろう。
それに、ブログなんていうのは見たい人は見るし、見たくない人は見ない。ただ単にそれだけのものだから、自分が書きたいことを書く。それだけでいいのかもしれないと思った。少なくとも今、ここではそう思っている。
その信用ってのは最終的に生産物=誰かの労働の成果によって払い戻されるだろ?
資産ってのもストックされた生産物(あるいは間接的に、生産物と交換可能な何か)にすぎないんだし。
必要な生産物が労働しないでも誰にでも好きなだけ得られるようになったら貨幣経済は成り立たないんじゃない? 実際、生産物の複製が限りなくタダに近くかつ生産量に上限が無い場合は贈与経済が成立する (エリック・レイモンド参照)。贈与経済で得られる評判は交換不可能だ。
もっとも、たとえ物質的に不足が無くなったとしても、他人のアテンションみたいなものは有限だから、アテンションの争奪でもって交換経済が残るのかもしれないけれど…
お金がなければ恋愛できない社会。 http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20141015/p1
これ的を射てるなぁと思ったんだけど、シロクマ先生だからか、テーマの個別性が強くて「俺にも言わせろ」感を喚起するからか、ブコメが色々散り散りで面白い。
個人的には、「お金がなきゃ恋愛ができないと思っちゃってるバブルの残骸のような人」が未だにいる、ということは、コトの本質ではなくて、あくまでも些末現象であって、
恋愛とか家庭とか子供とか、そういう、本来であれば「究極のパーソナル体験」で、類比することができなかったはずの体験が、等価交換化してるというか
以前ちきりん女史が、
「成人病予備軍に、成人病治療に投入される社会的コスト(=税金)を可視化して提示したら、
予備軍が健康に留意するようになった」と言うネタを投入してた。
「全ての社会サービスについて、投入税額を可視化したら、受益者側も節制するようになるのでは?」とちきりんは提案。
自分もちきりんの「社会サービス受益者に、投入税額を可視化提示する」のには賛成だが、
そうなると一番問題なのは「保育所利用者に、投入税額を可視化表示」だろうな。
保育所利用者は、自らが支払う保育所利用料の数倍の税金が投入されてることを知らない
自分は「自分の小学生の子供の、毎月の税金投入額(=本来なら授業料になるべき金額)」を知りたい、という風変わりな保護者だ
仮に授業日数を250日と仮定すると、「1回あたりの授業料」は、小学校で3,400円、中学校で4,000円にもなる。
果たして、この金額を意識する保護者、そして児童生徒はどれくらいいるのだろうか?
小学生に対して、「この授業は、君たちの月額お小遣いの10倍ものお金が、毎日税金から投入されています」と、絶対に教育すべきだと思う
一般的に「人口の高齢化は望ましくない、どんどん子供を増やすべきだ」と議論される。
しかしそういう論者は、
「義務教育に年間1人当たり100万円、義務教育課程で900万円がコストとして嵩む」ことを織り込んで議論しているのだろうか?
因みに「日本全国平均で、小学生は3,400円/日、義務教育に嵩む」という話であり、
「山中の分校で、生徒一人先生一人」なんて場合、間違いなく10,000円/日を超えている。
義務教育コストを可視化したら、間違いなく「増田リスト自治体(消滅自治体)の教育コスト」は
思考実験。
義務教育保護者に「教育バウチャー、年間100万円分」を手渡して、公立私立国立なんでも選択できるようにすれば、どうなるだろう?
一人当たり義務教育コストを、平成23年85万円⇒24年83万円⇒25年81万円⇒26年79万円と「カイゼン」していく、と思うのだが。
逆に言えば、投入金額を年間85万円でフィックスしているのなら、教育効果は対前年比1%づつ、20年で20%は改善していないとオカシイ
ところが、実態は、年によって「ゆとり教育」として一気に改悪したりしている。
義務教育バウチャー以上に、未就学児育児バウチャー制度の方が効果的かも。
未就学児を抱えた家庭に、一律月20万円を配布。その代わり保育園への税金投入を停止。
保育園に預けたい人は、月額20万円程度に値上がった保育料を負担しながら、保育園に入れる
明治33年の小学校令までは、義務教育でも(尋常小学校でも)授業料取ってたんだな。
思考実験。
「教育は義務だ、でも公立小学校通学に授業料年間85万円払え」
と保護者に請求したら、就学率はどうなるだろうか?
義務教育保護者に「年間85万円支払え」と要求したならば、保護者の側も
「だから、授業料を85万円⇒80万円⇒75万円にしろ」、と。
教育バウチャー制度は小学校経営を「合理化」する効果があると思う。
「江戸時代、農民はコメ経済ではあったが貨幣経済じゃなかった。
明治になり、尋常小学校授業料という「貨幣で支払わなきゃならないもの」が
押し付けられたせいで、農村は無理やり貨幣経済化を強いられた」
と経済史の解説して、目ウロコだった
「崩せば良いだけ」って、絵に描いたモチは食えませんよー
無理に決まってんじゃないですか
出来たら苦労ないってお話ですよね
仮にものすごい奇跡が起きて、それが出来たとしても更に悲惨な未来しか待ってないしねー
妄想って簡単だよねー
金持ちの金持ちによる金持ちのための資本主義はそうそう崩れないっすよ
大体その、ブルジョワジー憎しの思想だって一世代前のバカどもの劣化コピーじゃないですか
マルクスすら読んでないだけ、もうあの時代のバカどもより更にゴミじゃないですか
そんなんでなにをしようっていうのかねー
まぁ、資本主義が崩れることを祈って一生を終えるってのも良いと思いますよ
カネの稼ぎ方を考えてもどうせ無駄なんだし、どうせそれくらいしか出来ないしね!
祈って祈って祈りまくれば金の鎖と女の子が降ってくるかもね!
答えを求めてるっぽい感じでもないけど。適当に答えとく。
神に祈りを捧げる際、大昔は金じゃなくて神への供物をそのまま用意していた。
それが金納める形に変わったのは貨幣経済が発達したからとも言えるし、近代化の過程において供物をダイレクトに用意するのが難しくなったからともいえる。
まあ今でも鶏だの牛だの鹿だの馬だのを金に添えてお供えとして用意するところはあるから、そういう名残が各地に残されてはいるけどな。
神主が捧げる祝詞は古文。中学高校で習うような内容だからまあ聞いてても分かるだろう。
現代語で表した願いをそのまま古文に訳して奏上しているようなもんだ。
〉・マスターベーションの回数を減らすと、体内に保持される精液の量が増える
〉・体内に保持される精液の量が増えると、性欲が維持・強化される
「精液のストック量を適正に保つことが身体的健康を左右する」という性欲観・精液観自体は、
貝原益軒の養生訓(接して漏らさず)に代表されるように昔っからあったけど、こういうふうに
性欲の強度を精液の貯蔵量に直接結びつけた性欲理解が浸透するのは、わりと近代的な現象だよね!
この「オナ禁」を含めて、現代日本の男性性欲表象には貨幣経済のメタファーが強く入ってきてると思うよ。
実際にはさまざまな多様性を持ちうるであろう男性の性欲が、「射精」という行為に切り詰められる。
んで、性欲の強度が、精液の量という一次的指標に数値化される。
マスターベーションをしない非-性的時間に〈蓄積〉され、性的時間に〈消費〉されたトータルの精液量で、
その性行為のなかで得られた快楽の量が客観的に「計測」できる。
…というようなことを、昔AV紹介雑誌で「ヌキどころ」を紹介する記事を読んでて思ったんだよね。
こういうふうに、貯蓄→消費過程で〈交換〉する精液貨幣の量によって
性欲と快楽を定量化する男性性欲観は、近代の性欲論が医学的・教育的観点から
オナニー禁止(cf.赤川学『セクシュアリティの歴史社会学』)を主張してきた語彙の中に、
すでに埋め込まれてたんじゃないかと思ってるんだけどね。
仕事しよ。
先日、太平洋戦争の最後の帰還兵の小野田氏が亡くなったそうだ。まっさきに大きく取り上げたマスメディアは、東京新聞とワシントン・ポストだった。
その小野田氏であるが、上官から任を解かれてその「30年戦争」を終えて帰国した時、日本社会はすっかり様変わりしていた。良く言えば復興と経済成長だけれども。悪く言えば、アメリカナイズだ。
小野田氏が若者だった頃の日本は戦前・戦時中だったわけで、当時の日本社会はまた別の意味で異常だった。だがその戦時中の異様な雰囲気とはまた正反対なのが現代日本の姿だろう。「30年戦争」をしていなくたって、戦争経験者の多くが、戦争が終わった途端に価値観がひっくり返ったと述べている。
要は「拝金主義」だ。
以前に堀江貴文氏が「拝金主義者だ」と非難されていたことがあったが、非難する側の人間もやはり拝金主義者だ。つまりは、自分が拝金主義者であるという自覚がないか、もしくは、薄々勘づいてはいるが、その気に食わなさを他人にぶつけているわけだろう。つまりは、自分の汚点を他人に投影しているのだ。
まったく、「バカって言う奴がバカだ」っていうガキの喧嘩みたいな話だが、まったくもってそのとおりで、目くそ鼻くそ、五十歩百歩なのだろう。
正直に言って、人間はみんなバカだ。もちろん私もバカだ。ただ、バカの自覚がある奴とそうでない奴がいる。バカの自覚がない奴は救いようがない。
この資本主義・市場経済・貨幣経済社会のなかでは、ほとんどのものごとがカネの理屈で動いている。だから、カネに対して一切関わらずに清廉潔白でいる人はほとんどいないだろう。だが、批判的に自己洞察をして己をただすように努めなければ、救いようのない拝金主義者になってしまう。現に、いまの日本社会は、なにが大切なのかもわかっていない、カネのほうが偉い社会になっているように、私にはみえる。
例えば、原発だとか、オリンピックだとか、「おもてなし」だとか、AKB48とかいうのも、やっぱり、拝金主義じゃないのか? そう言われると嫌悪感をもつひともいるだろうけれども正直に言って、拝金主義なんだと私は思う。私には、例えば、「おもてなし」だとか強調しているのをキモいと感じるし(電通などと、マスメディアと、自民党や省庁が、絶妙に癒着しているわけです、拝金主義のもとに)。
http://anond.hatelabo.jp/20131203122311
海は陸地よりも大きいのでは?という心配だが、本当の海と陸地ならそのとおりだが、富と貧困に関して言えば、富が過去数千年の間に増え続けているのに対し、貧困は減り続けており、現在もこの傾向はますます顕著になっているので、ほぼ心配はないといっていいと思う。
あなたは富める者の自己犠牲によってい貧しい者を救うというイメージを持っているよね。自己犠牲の結果富が薄まって薄まりすぎてみんなが不幸になるじゃん?みたいな。
もちろん自己犠牲行為も寄付、ボランティア、ODA、各種NGOやNPOという形で存在するんだけど、それは貧困撲滅のごく一部の手段に過ぎず、大部分は「投資」という手段でもって世界の貧困は減少しつづけている。
貧困フロンティアは農業、医療、産業、社会の発展により有史以来一貫して後退を続けているが、特に産業革命以降の欧米で貨幣経済が発達したことによりそのスピードが飛躍的にアップした。多額の投資マネーは瞬く間に欧米から貧困を駆逐し、中産階級が形成された。
途中、投資活動の副作用として帝国主義による二度の大戦という悲劇を経験したがそれでも勢いは衰えず、欧米と同じことが続けて日本で起こり、さらには日本以外の東アジア、インド、ロシア、南米、東南アジア・・・・と、かなり乱暴かつ駆け足でまとめではあるが、おおむねこんな感じの順番で、貧困フロンティアが後退した。
貧困フロンティアが後退するところというのは例外なく猛烈な勢いで多額の投資マネーが流れ込んでいるところだね。
あなたもそうかもしれないが、自己犠牲による弱者救済こそ是とする風潮というのは少なからず世の中には存在していて、そのような人からみるとこのような話は面白くないかもしれない。
投資を媒介とした貧困の減少というのは「富める者が自分の富をもっと増やしたい」といういわば我欲がモチベーションになってるからね。
ともすれば汚いとか真の貧困層は救われないとか批判を受けがちだ。
でもそんなことはない。
もちろん、途上国の人間がすべて同時に貧困を脱出できるわけじゃなく、特権階級だったり、有能だったり、ずるかったりする奴らが先に豊かになることは避けられない。プロセスは決して平等でもないし人道的でもないんだが、それでもその先には必ず貧困層が中産階級へとランクアップするという現象が待っている。
なぜなら中産階級が分厚くなったほうが金持ちにとっても都合がいいからだ。中産階級が増えることは、自分の会社の商品を買える人間が増える(市場が拡大する)ということだし、金を持てばそれを失いたくないので犯罪は減り治安がよくなる。差別もマイノリティの問題も富めるものにとってはリスク要因でしかないので、差別に反対しマイノリティの人権を保護する社会を志向するようになる。我欲といってしまえばそれまでだが、豊かになった結果心に余裕がうまれ「みんなで仲良くやろーぜ」という気持ちがうまれた思えば悪いことではない。
親にとっても子どもは稼ぎ手ではなくなるので少子化が進むが、子の幸せな将来のために教育に金をかけるのでそこにも市場が生まれるし、そうやって教育を施された子どもたちがその国をさらに豊かにしていき、やがては次の貧困フロンティアに投資するようになる(念の為に言っておくと給料を銀行に預金するだけでも間接的に投資していることになるからね)。
今、目下の貧困フロンティアはアジアからアフリカへ移っている最中で、中国がアフリカに積極的に投資しているのも、上の話があるとすんなり腑に落ちるんじゃないかと思う。ただし中東は宗教とオイルマネーの問題、アフリカはそもそも投資を受け入れるだけの社会制度が整っておらず部族や宗教の対立も激しくて苦戦している。日本で売買できる投資信託でも中東、アフリカに関するものは限られている。まだまだ一般には投資不適格というわけだね。アフリカが貨幣経済ベースに乗るまでは、ボランティアベースの支援活動が大きな役割を果たさざるを得ないだろう(余談だが俺はそのような考えから国境なき医師団に毎月自動寄付をしている)。
それに先進国だって、少子化とか労働需要の海外移転による失業問題とか格差とか高齢化による社会保障費の増大とか問題がないわけではない。
このような問題はあれど、長期的かつ全般的にみれば世界は「みんなが幸せ」の方向に向かって進んでいるよ。今の日本に住んでいるととてもそうは思えないが(笑)これは間違いのないことだ。
大事なのは世界の富の総量は一定でもゼロサムでもなく増え続けてるってこと。貨幣経済が破綻してしまうとこの限りではないかもしれないが、少なくともあなたが心配するように「豊かなものが貧しい物へ分配することでみんなが不幸になる」なんてことはないから安心していい。
うーん、なんか、これ、出資金詐欺だって言ってBitCoinをdisってるけど単に乗り遅れて嘆いてるだけにしか見えない。。。
最後に、これは違法じゃないのだ。。。みたいに残念がられても。
バーナードの史上最大んお詐欺に次ぐような詐欺だ、とか言ってるけど、そうい詐欺と違うのは、根本的に出資のやりくりが明らかなとこなんだけどな。
どっかで胴元が全部搾取してるわけじゃないし、だから詐欺とは言えないだろ、現状は。(実際にはどっかで胴元が居たらゴメン、俺が無知なだけだということで。)
てか、見てりゃ途中で書いてること、「金」とは何か、と言う話になって、市場で交換されて価値をえるものだとか
お金その物は投資物じゃない、とか色々定義してるけど、笑えるんだけど、そのまま現在の「金」その物がそういう対象では、、、って話で。
むしろBitCoinを肯定しちゃってる、か、もしくは現在の貨幣経済を徹底的に批判してる、だけの記事になってるようにすら見えるんだけど。
もしかして、これ、高度な釣りなのかな?(このサイト自体よく知らないから雰囲気がどういうものかよくわからないんだけど)
簡単に言うと、「金」その物が詐欺だよね、って話だよね、結局。
TOKIOのダッシュ村みたいなことが好きで、楽しめるスペースがあるとお金に換算できない価値が生まれる。
・余分に作物ができる→人にあげる→お礼に何かもらう
・干したり、漬けたりする→余分を人にあげる→お礼に何かもらう
ような感じ。
燃料を使う農機具が増えると貨幣経済に片足を突っ込むので楽しさが半減する点は注意。
(都会発のコンテンツを楽しむのも貨幣経済に深入りする感じでしょうかね)
地方でも県庁所在地のアパートとか便利ところだとそんなスペースはないので、暮らしぶりが東京の密集地と変わらなくなる。
田舎の新興住宅地もそんなスペースは用意されていないことが多いので、都会の豊かさ的なものを求めると田舎のメリットがなくなる。
田舎で家を建てるとき、中古住宅を買うとき、賃貸を探すときは、日当たりのよい畑スペースと保管に使える納屋を重視で。
買うにしても、借りるにしてもお金がいる。賃貸を借りれば、大家さんがその建物の持ち主で、ローンで買えば、銀行が大家だ。
界隈で喧しく「生産性の概念欠如」が取り沙汰されている。曰く、日本の企業や社会には生産性という概念が欠如しており、これが経済の停滞や労働搾取をもたらしている、
というものだ。多くは企業者の立場からのもので、日本企業の文化的・制度的な生産性軽視を論じている。そうした「文化的背景」や「企業の人事制度」という点は今後も
議論されるべきであろう。、、、だがこのエントリーで論じたいのは、他エントリーで多くなされている下記のような主張が「本当だろうか?」というものだ。すなわち
>生産性を向上させれば、同一のアウトプットに対しより少ないインプットで済む
>従って、生産性の向上は「アウトプット量の拡大…よりよい商品提供」か、「インプット量の減少…余暇の拡大」を生む
>かくして、生産性の向上により、社会の富や厚生の拡大がなされるのだ!
という主張である。一見正しいように思えるし、うん、実際の所間違いではない。
だが筆者は、多くの論で曖昧に付されている点があると考える。それが何かといえば、「インプットは労働力=時間だけど、アウトプットはお金なの?それともモノなの?」
という点だ。生産性の問題を経済の問題として考えるのであれば、そして個々の企業ではなく将来に渡る社会全体の変化を取り扱うのであれば、それが「名目」なのか「実質」
なのかという点を明確にしなければならない。そして実際、この点を明確することでより有益な論点が摘出できる。
そこでひとつ、明確に「生産性」と区別して論じられるべき概念を提案しようと思う。「生産力」だ。
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本論では下記のように用語の定義を行いたい。
・「生産性」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「金額」の増加分
・「生産力」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「モノの量」や「モノの質」の増加分
簡易な例を提示しよう。
皆さんが田んぼを耕して農業生産を行うとする。一定面積の土地に対し、100の労働を投下し、100kgのコメを生産し、それを100万円で売っている。いまここで新たな技術が
開発され、80の労働で100kgのコメが生産できるようになった。するとどうなるだろうか?
・「生産力」は、100kg / 100労働 だったのが 100kg / 80労働 となった。1労働に対する生産「量」でいうと、1.25倍となったわけだ。
・「生産性」は、100万 / 100労働 だったのが 100万 / 80労働 となった。これも「生産力」と同じ、1.25倍となっている。
かくして我々は 「いままでと同じ量働き、1.25倍の所得を得る」か「いままでと同じ所得で、80%働き、20%を余暇に充てる」という選択肢を選ることになる。
、、、だがここには重要な大前提が存在する。生産力と生産性がおなじ動きをするのは、「コメの価格が変わらない場合に限る」のだ。
ではモノの価格を決定するのは何であろうか?
もし「生産力」の拡大が個々の企業のみで起こったのであれば、その企業が他社に比べて競争優位を持つにとどまる。つまりその企業が「今より低い価格でも戦える」ように
なるだけで、価格はその企業の戦略によるだろう。だが検討するべきは、こうした「生産力」向上が社会全体で実現した場合、つまり我々の望む「日本社会の生産性拡大」が
実現しようとした場合だ。
社会全体でみた商品の価格決定は、極めて単純に「需要量と供給量のバランス」によって決まる。つまり「足りなければ高く」「過剰なら安く」だ。そして、、、賢明な読者の
方ならお気付きの通り、「生産力」の向上は「供給量」の増加をもたらし、その供給量に「需要量」が追いつかないのであれば、、、価格は下落し、「生産性」は向上しない。
労働に対する貨幣的評価が変わらなければ、給料(名目賃金)は、上がらない。
もちろん、価格が下がれば需要が増える場合もある。つまり「欲しいけど価格が高くて買えなかった」製品の生産力が向上した場合、価格の下落が需要の上昇を呼び、全体として
収益が拡大、生産性の向上をもたらす。これは成長産業のモデルであり、企業間の厳しい競争と市場の拡大が循環している場合、生産力=生産性の拡大は至上命題となるだろう。
例えば例に挙げた「コメ」。食べ物という商品は、いくら価格が安くなっても食べる量がそんなに増えるわけではない(かと言って不足すると大問題)。コメにしろ野菜にしろ
、需要量に対して供給量が10%上回っただけで、価格は20~30%下落したりする商品だ。つまり農業の「生産力」向上は「生産性」を減少させる。(蛇足となるが、TPPの議論
などで「農業の生産性を上げれば万事上手くいく」と言っている論者には、量と価格の関係を厳密に区別できていない方が多い)
さらに、「需要」が拡大しない産業における「生産力」拡大は、単純に失業者を増やす。なぜかといえば100の固定需要に対し、それを満たす供給量の生産に必要な労働力が減る
からだ。生産力が向上しているから、より多い生産が不要なら、「働く人が過剰になる」。こうした「特定産業における過剰人口」は、本来であれば成長産業に仕向けられる。
成長産業はその需要が満たされるまで労働力を吸収し、その需要が満たされるよう生産力の向上を図る。つまりよく言う「生産性の低い産業から、生産性の高い産業へ労働人口が
移行」するのだ。、、、だがいま見てきたとおり、「生産性の低い産業」とは単に「需要が満たされており」「且つ生産力向上を図り」「過剰人口が発生した」産業も含まれる。
必ずしも努力や工夫の足りない・低レベルな産業ではないということを留意するべきだろう。
さて、今までのところを整理しよう。
1.「生産力」の拡大が「生産性」の拡大をもたらすのは、価格が変わらない場合
2.「需要」が頭打ちの環境下では、「生産力」拡大は「生産性」の縮小をもたらす
3. 社会全体で需要=成長産業がない場合、「生産力」拡大は失業をもたらす
多くの方がお気づきと思うが、今の日本は完全にデフレ経済=需要不足だ。そうした環境下での「生産力」向上がなにをもたらしたのかは想像に難くない。産業の多くが内需に頼る
この国で、デフレ経済を15年ほども続ければ、企業内での「生産力」向上への意欲が毀損されているのは驚くに値しない。むしろ、厳しい雇用規制により失業者が街に溢れかえる
ような状況が避けられていると考えるべきであろう。(もっとも、雇用規制が新たな成長産業の誕生を阻害しているという論者もいるわけで、循環的な問題を紐解くのは一筋縄では
いかないということか。紐を解くのに縄では足らぬとは皮肉なことだ)
また、アウトプットの量が給与に評価されないというのもご納得いただけるのではないだろうか。これは必ずしも労働者だけの問題ではなく、企業自体が「生産力」向上=「生産性」
縮小というジレンマを抱えているのであり、作ったものが貨幣として実現しないという社会全体の問題を内包していると見るべきだろう。
、、、そして、こうした「モノやサービスの実体的生産」が「貨幣としての生産」に結びつかないという問題は、一国の経済においてより根本的な問題として取り扱われる領域でもある。
http://sencha77.blog.fc2.com/blog-entry-338.html
さて、筆者もこの国の根本的問題は少子化にあると考えているし、少子化に限らずいかに「人間の活動」を活発にするかが社会に幸福に直結すると考えている考えている。しかし
これまでの議論を踏まえると、ひとつの疑問が生ずる。
上で「生産性」を金額による評価基準と定義した。しかし子育てはカネを生むだろうか?残念ながらノーだ。いやノーであるどころか、、、子育てはカネを生み出さずむしろ消費する。
つまり「生産性」で見ればマイナスだ。実際我々はそう感じているのではないだろうか?子供を産み育てれば、それだけお金が必要になるではないか、子育てにかかる金額と子供を持つ
ことによる幸福とはどちらが大きいだろうか、と。いや、子育てに限った話ではない。今や恋愛も、結婚も、はたまた地域へのボランティア活動すら、「カネを費やす消費活動」と
化しているのではないか?
本質的に我々の社会を豊かにするのは「生産力」のはずだ。モノを作り、サービスを生み出し、それを社会の成員と分かち合うことで世の中が豊かになる。しかしそういった「生産活動」
の中には、「貨幣経済」を基に置くものとそうでないものとがある。「貨幣経済」に基を置く活動、一般に我々が「仕事」と呼ぶものは、すべからく貨幣=金額によって評価され、その
評価によってより効率的な生産を志向し、新たな生産物を生み出し、社会全体に流通する。一方で「非貨幣経済」貨幣によって評価をされない活動、例えば家事や、友人との交歓や、
恋愛から結婚まで、お金にはならないが社会に欠かすべからざる活動が行われている。
「貨幣経済」(あるいは市場経済・資本主義)は、あくまで「生産力の発揮」をより効率的に行うのに資する存在であって、それ以上でもそれ以下でもない。事実これまで見てきたように、
社会全体として需要がある限り「生産力」向上が図られてきた。、、、では「非貨幣経済」の効率性はどうだろう?結論を言えば上昇した。家事を例に取ればわかりやすいが、すべて
手作業でやっていた時代から、炊飯器・洗濯機・システムキッチンなどなど「生産力」の向上は著しい。しかし、しかしだ、こうした「非貨幣経済」の活動を支える機械や設備が増加した
ということは、それの購入や維持により多くのカネがかかるということだ。しかし「非貨幣経済」の生産活動自体はカネを産まない。
つまり、「非貨幣経済」においても、「生産力」の拡大は「生産性」の縮小、、、というよりマイナスへの増進を意味する。そして「貨幣経済」においては失業者が生み出されたが、
こちら「非貨幣経済」においては、マイナスとなったカネの補填が絶たれるが最後、単純にその活動自体が萎縮し、消滅する。
さて、話が随分と大きいところに来てしまった。
上記のような問題を如何に解決するか?については意見がないことはないが、本来の話題から外れるのでここでは省略しよう。ここで主張したいのは、「生産性」を考える上では「カネ」と
「モノ」を厳密に区別するべきということだ。そして「モノ」の生産は必ずしも「カネ」として実現しない。それは「貨幣経済」においては「需要」(…同じく「モノ」単位としても観測
されるべき)との関わりのため。そして「非貨幣経済」においてはもともと「カネ」でその活動を評価していないためだ。従っていかに社会を豊かにするかを考えるときは、まず「モノ」的な
個人的には、貨幣経済がなくなることはないだろうし、資本主義に限界が来たとも思っていない。しかし、それらはあくまで社会全体の機能の一部として位置づけられるべきものであり、
その一部にすぎないセクターの「カネ」という評価基準をありとあらゆる部面に適応させるのは、おそらく「非貨幣経済」の縮小で見たとおり、我々の生活を徒に貧しくするだけに終わる
だろうと思うのだ。
なるべく短く、平易にまとめたため、こうした分野を専門に取り扱っている人なら「なんて適当な内容なんだ」と思われること請け合いの論となっている。例えば価格下落は実質賃金の上昇を
もたらすとか、失業者の増加は人件費を引き下げ新たな均衡をもたらすとか、はたまた供給は需要を作るから需要不足は社会的に起こりえないとか?
また私個人としても、未だ考えのまとまっていない領域が多くある。「質」の向上は「生産性」に結びつくか?社会的に見て「余暇」と「失業」は何が違う?海外貿易による影響は?貨幣に
とはいえ、一般の方々へ思考の枠組みとして「生産性」と「生産力」の区別とその必要性は明快に提示できたと思う。また、単一企業視点にとらわれず、マクロレベルで「生産力」と「需要」を
見なければ、我々が抱く本質的な課題には接近できないこともご理解いただけると思う。筆者個人としては、後半の「貨幣経済によらない生産活動」というところをもう少し掘り下げたいが、
私的にまとまっていないこともあり、簡易に付した。当論がネット界隈の皆様方にとって有益であればありがたい限りであるし、私個人としても皆様の様々なご意見・反論を得たいという気持ちに
溢れているということをご提示し、筆を置きたいと思う。
http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2013/10/18/141915
読んだ。面白かった。冒頭かなりエコに対して正しくあろうと配慮した記述が続くんだけど、すごく惜しくてモヤモヤしたので思わず書く
おばあさんが松とココヤシをブレンドした天然由来の洗剤で洗濯をしておりますと、大きな無農薬の桃がドンブラコとも言わず無音で流れてきたのでおばあさん以外の近隣住民は何一つ不快な思いをしませんでした。
おばあさんの使ってる洗剤ってたぶん違うと思う。
これ書いてる人、ホントに「芝刈」だと思ってるのかな。思ってるんだろうなあ。
だってこれ「柴狩り」だと知ってたら、こんだけ話広げられる人ならエコに絡めないはずないよね
柴狩りは主に燃料用の枯れ枝を集める行為だけど、もう少し広めに日用の材木の調達も含むかもしれない
昔は炊事、風呂、暖房、全部薪を燃やしてまかなっていたので結構量がいるし
拾った柴を乾燥させてサイズを揃えて燃料用の薪に仕上げるのは手間がかかる
この「柴狩り」の実態がイマイチ伝わらずに、洗濯しているおばあさんに比べて
おじいさんは山で遊びほうけていると理不尽にDisられているのを見るのは心が痛い
ただ、おじいさんもおばあさんも柴狩りと洗濯では生産活動に一切従事していないので
どうやって日々の糧を手に入れていたのかについては既に色々な説があるだろう
個人的には、山の世話や薪の対価に隣人から食料を貰っていた説だと思ってる
「正しい」納税ゼロ生活も可能だと思われるので、その辺は詳しい方が
シミュレートしてくれたら読みたいところです
さて、つまり「柴狩り」とはエネルギー調達行為であり、それは「エコ」なのだろうか。
木材の燃焼はCO2排出はもちろん、煤や有毒ガスも出るので一見エコとは程遠いが
有限の化石燃料や、放射性物質から電気を作り消費することと比べて
山林保全の立場も絡めればそれなりに多様な論点のあるトピックだと思う
その辺りを現代的価値観から「正しく」配慮した記述があれば個人的に面白かったねという話
自分がその辺「正しい柴狩り」が書ければいいんだけど、ごめんね
あ、忘れてた。おばあさんの洗剤
たぶん、薪を燃やした灰汁とか米糠とか使ってたんじゃないかなあ
純粋にね、国防とか飢えに備えるためならば、主食はトウモロコシ。寒冷地ではジャガイモ。
北朝鮮はそれをやってる。
そもそもさ、米を選択する理由ってなんだと思う?
(土地の特性)×(その作物の収率)×(その作物の売価)
日本のほとんどの地域で、これを最大にさせるものが、コメだった。
収率がいいのは認める。
土地あたりどれだけのカロリーのある作物を生産できるかといえば、トウモロコシの出現を待つまでコメはトップだった。
しかし、それぞれの土地の特性を考慮しても、その収量面で魅力的な作物だったかといえば、そうではないと思う。
江戸時代の中頃までは、寒冷地は稗粟蕎麦を作っていたし、小麦だってかなりあった。
やはり、売価だ。
税の歴史を各国で比べると、ほとんどの国で税の最初は物納だった。
貨幣経済が発達するにしたがって、物納だった税金を、貨幣に変えた。
おそるべしコメ本位制。
コメ価格の高騰と下落を防ぐために、幕府が買いオペ、売りオペまでやるという徹底ぶり。
そりゃコメを作るよ。
俺だって、日本銀行券を自宅で印刷していいってんなら刷るもん。
明治以降、水田一辺倒だったのが、工業用地に転向していくし、新しく開墾した土地を桑畑けにしたり、水田面積は減りはしないものの、新しい土地は違う使い方を始めたりして相対的に水田率は減る。
農家一件あたりの面積は平均で1ヘクタール(わかりやすくいえば100m四方)
そりゃ悪いだろ。
世間知らずって言うのを翻訳すると、「お前は仕事できないな」っていう意味だよ。
在宅でもの作っててクリエイティブって言うんだったら、その作ったものを換金すべきではないんだ。社会からなにかを買うべきではない。
現代において貨幣経済はもはや社会と不可分なほど基幹になった。貨幣経済に参加している以上社会に参加していてその恩恵にあずかってるんだ。
社会に参加して恩恵にあずかりながらそこのしきたりに無知で、しかもそれを開き直るってのは、ただのフリーライダーだろ。
絵描きだ、作家だ、音楽家だって言うクリエイティブな仕事であろうと、創作は仕事の半分で、残りの仕事は社会とのコミットに費やされるんだよ。
そんな事当たり前だから世間知らず=仕事できないなんだ。でも「お前は仕事できないな」って30に言うのはかわいそうだから言葉を丸めてくれてんだよ。