はてなキーワード: 貨幣経済とは
俺は日本史大好き人間だが、普段日本史で得た知識が即座に役立つことはめったにない。
……のだが、このニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20190617/k10011954891000.html
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190617/k10011954891000.html
「出挙」、日本史Bの古代で出てきたと思います。普通覚えてねーと思うけど。あと、進学校じゃないと触れないかも。
「すいこ」って読む。
農民に春に種子を貸し付けて、収穫の際に利子をつけて返済させる仕組みだ。
ここから中世には貨幣経済の進展とともに私たちのイメージしやすい貸借が一般化していく。
古代から中世にかけて、農民たちは生活が不安定ゆえに、種を借り受けなくてはならない。あるいは、身分ゆえに、半強制的に貸付を受けなくてはならない。
その分、秋には利息付けて返さなくてはならない。富む者は益々富む。
冷害などがあったらどうなるか。借金が膨らむばかりだ。そうして農村は天災だけでなく人的要因により疲弊したりする。
話を現代に戻そう。ブクマ諸賢は「手数料」が実質的な利息であると見抜いているし、さらには私がこのあと述べたい隷属状態に陥りやすい構造に触れているブコメもある。
「手数料」はペイミーに支払われる。この実質的な利息にまず目が行きがちだが、前述の通りもう一つ隷属の問題があるのだ。このあたり突っ込んで考えてみよう。
それは、先に支払われた分、ちゃんと働かなければならないと言うことだ。先にカネをもらうと言うことはそういうこと。
二つのパターンが想定される。まずは労働者の側が困窮に喘ぎこのシステムを頼らざるを得ないパターン。
もう一つは、ひとつめのパターンと連動して、上から半強制的にこの仕組みを利用せざるをえなくするパターン。
給与であるにもかかわらず、前払いは借金の性質を帯びる。前払いは前借りに他ならない。
一回だけと思っても、どこかで金銭的な窮地があり前払いが当たり前になってしまうかもしれない。
そうして、雇い主に対する隷属が強まる。
具体的にどうなるのかというと、無理なシフトや出勤を頼まれた時、断りにくくなることが想定できるだろう。「借り」があるからだ。
ペイミーと企業なんか連動しているに決まっている。アルバイトを前払いで支配しうる(賃金を少なく抑えて支配しうる)構造にあるのだ。
出挙は国家も私人も行なった。古代国家も、有力な田堵なんかも。人に課す税金のようなものだ。そして、その人を雁字搦めにして隷属し支配する。
東証では2008年から2〜3年毎にサーキットブレーカーが発動してたけど、今調べたら最後に発動したのは2016年2月、長いこと発動してないんだね。
国際情勢は良くも悪くも均衡してるし、アメリカはトランプ大統領でボーナスステージ状態。
日本もじゃぶじゃぶ金余りで、平成バブル以上の就職売り手市場。
あれだけ少子高齢化・人口減少で日本経済は縮小するしかないといってたのに、結局、金さえ回れば景気・経済なんてどうとでもなるもいうことが実証された。
ここ40年の不安定な時期を経て、貨幣の役割も政府の役割も銀行の役割も徐々に変わって、恐らく、世界規模で貨幣経済そのものが変革のフェイズに来たんだろうな。
ゼロ金利やマイナス金利に対する懸念が言われてるけど、結果銀行は生きてるわけだし、金利を調整するという古典的に景気対策に頼らなくても、いくらでもやり方があるということがこの10年でみんなわかってしまった。
もう日銀が買える国債がないとか言われてもいたけど、それだって、パンがなければケーキを食べればいいということがわかった。
そういう諸々の要因が、この景気の安定・株価の安定につながってる。
ん? 流石にそこはある程度貨幣経済の基本を押さえてれば理解できるのでは。
セクシー貨幣ゆうて一人の女性から単純に無限にセクシー貨幣を産み出せるわけではない。また、セクシー貨幣は市場に流通したとしても有効期限が切れるとそこそこ価値を喪失する。
だから、一人の人が産み出せるセクシー貨幣(セクシーサービス)を他の貨幣(リアル円)によって購入されることはそのものセクシー財の消費を示す。
セクシー財をより多く生産してより多くの人もしくはより高く他の貨幣と交換することがセクシー業者の使命となるわけだが、そこに外部からセクシー財と似た代替材としてイマジナリーセクシー財(エロラノベ)が発生してしまったら、本来セクシー財に消費されるべき貨幣が代替財の方に行っちまうよねって言う。
もっと分かり易く言うと、アルコール度数9%の酒として「獺祭」と「ストロングゼロ」があったら、多くの人はストロングゼロを選ぶよね? そういうこったで。
募金やボランティアをやる人が、もっと増えるといいのに、と思う。
日本人の社会貢献の意識が薄いのは、単純に「周りのみんながやっていないから」だろう。
人は、みんながやっていることは簡単にやるのに、みんながやらないことは簡単に出来ない。当たり前だけど。
これはやるべきか否かという選択を自分の手から離して、集団に任せてしまった方が基本的に楽だからだ。この判断は善悪とは全く関係がない。
例えば、「殺人を犯すべきではない」というのは、”一般的に人は人を殺さないから、自分も他人を殺さない”そんなマインドが実は根底にある。
逆に言えば、それが犯罪であっても、周りの人がみんなやっていれば、多くの人は流されてやるのだ。そんなことが膨らんで起きた凄惨な事件がたくさんあったことは言うまでもない。
個人の自我は人が想像するよりもずっと弱くて、その選択は多くの場で集団に左右される。だからこそ、社会的な空気が変われば、きっともっと皆が自然に募金やボランティアをして、遠い他人を支援するのが当たり前の世界にもなるのにな、と思う。
そういえばたまに、「偽善である」という理由だけでボランティアを全否定する人がいるけれど、「偽善であるからやらない」というのは理屈としてはおかしい。
感情として、”私は私のためだけに生きていきたいから、他人にお金や労力なんて割かないよ”というのであれば、「私には時間とお金がありません」で良いのだ。つまり、偽善であるからやめなさい、とはならない。
しかし実際はそうではなくて、おそらく偽善者嫌いの人たちは、「自分は格好をつけない正直ものである」と言いたいのだろう。だけど実際人って気づかないところでたくさん見栄を切っているのではないか。
それが人間なのだから、仮にボランティアという行為に格好をつけた部分があるとしても、いずれにしても放っておけばいい、のに。
そもそも募金やボランティアというのは、基本的には「弱者支援」だ。それは皆が受けてきたもの、受けるであろうものであることを忘れている人も多い。
どういうことか。
最初から大人だった人はいない。人間は誰しも最初は子どもからスタートする。
子どもは弱者の典型だ。誰かが衣食住を与えなければ、大人にはならない。子育てとは一般的に、親から子に無償で与えられる支援のことを指すのだ。
また運が良くおじいさんおばあさんまで生きられた人は、言わずもがな介護を受ける。これも多くの人が「弱者支援」の当事者になる可能性を持っている。
「介護が貨幣を介しているなら、支援ではなくサービスだろう」と、そんなことを言うのであれば、その人はインフラにも同じことを言えるのか、と思う。
お金で今の生活が全部手に入ると思ったら大間違いだ。お金で何でも手に入るようになったのは、今の生活基盤、経済システムが作り上げられたおかげだろう。
支援や贈与というのは、貨幣経済の前提にある概念であり、否定対立するものではない。
なんでも貨幣で解決する、というのは大きな間違いだろう。人はスマホがなくても生きられるけれど、水がなくては生きられないし。
そういう点で、「弱者支援」は根本的に私たちの生活を持続させる上で欠かせないものなのだ。
弱い人を切り捨てていく集団は、最後の独りになるまでそれを許せない。このあたり内田樹先生が確か良く言っていたな。
ちょっと大きな話になってきたけれど、今現在必要な支援をギリギリで支えている(支えられていないところもある)のが公的なセーフティネットであり、それを動かすための税金だ。
ところが大抵の人にとって納税は「メシの食い上げ」であり、節税はやれる分だけやる方が良いものだ。だから皆故郷でも無い自治体に納税をして、税金の無駄遣いという言葉に異常に反応をする。
実際に税金が遣われている大部分は、目に見えないもの、実感を持ちづらいものだ。その必要の是非は検討すべきことだけれど、そもそも税金の無駄遣いと、自分が納税をする、という問題は別である。
「無駄遣いされる税金なら払わない!」という発想はごく簡単に「自分だけ得したい」に変わり、「自分が使わないサービスはいらない」という発想になる。
具体的には、自分の納めた税によって自分のために何がなされたか、ではなく、社会のために何がなされたか、という視点で考えると、納税感も少し変わるのではないか。
話が転じてきたけれど、つまり納税も社会貢献である、ということを多くの人は忘れているのではないか。納税は、政府にただ取られる、無駄遣いされるお金ではなく、社会を持続可能性を少しでも上げるためのお金だと冷静にとらえ直すべきだろう。その点は、多く納税をしている人は誇りに思ったっていいはずだ。
ここまで何がいいたいか、というと、自分のために100中100の意識を持つのではなくて、1でもいいから弱者や社会のために意識を向ける、それが当たり前になればいいのにな、ということだ。
0と1の差は、私の感覚では1と100の差である99よりも大きい。なぜなら、1が100人いれば100になるからだ。
人は1人では生きられないんだな、という気持ちがあると、生きていくのも少しずつ楽になっていくだろうに。
さぁ帰りにコンビニでお釣りを募金するか、街頭でおっさんからビッグイシューを買うか、次の連休をどうするか、知らん人のために何が出来るか考えるか、
棒
首長族ってのがある。首を伸ばすためにリングを首に着ける部族だ。聞いたことくらいはあるだろう?
それと同じだと思う。
人間なんて、宗教なり部族のしきたりとかが無いとうまく文化として形成されない。
勿論、高学歴に越したことはないが。
小中だけでも、「俺たちは掛け算を習ったことがあるぜ?」っていうのをお互い理解している。
何を学んでいないのかもわからない手探りだ。
更に言うと、「大卒」というコミュニティーもさらに上位コミュニティとしてある。
あのダラダラした空間や、希薄な人間の付き合い、就職活動への不安などは経験した人はわかっている。
そういうものでも、またコミュニケーション、人種の選別が起こっており。
付き合いやすいもの同士がコミュニティを作ってガラパゴス化することが可能だ。
それだけ。
学んだことは、別に国語算数理化社会でも、音楽そろばん絵画プログラム将棋でも、なんでもいい。
お互いが何を経験したかをあるていど知っているもの同士の集団じゃないと、コミュニケーションにエネルギーが消費されすぎてしまう。
物々交換から貨幣経済に以降したことで、ずいぶん物のやり取りが楽になり分業化したように。
コミュニティも分業化し、エネルギー消費が抑えられているって感じ。
まあ、そんなことを考えた理由だが。
目の前でJKが『速読英単語』を読んでたんだよ。俺もそれを使って勉強していた。
俺の知ってる知識が、そのJKの脳みそにザクザクと刻まれてるのを目の前で見た。
この興奮を感じられたので、上記のように考えた。
金が無尽蔵にあったら何をするか。
無限に金があったら全世界に無限に配りまくれば貧富の差のないユートピアが生まれるかと一瞬思ったが、それは貨幣経済の破綻を生むだけで何の意味のないことに気づいた。
つまり自分(とせいぜい自分の選んだ相手)のみ無限に金をもっているから優位性が生まれるというわけだ。
そうなると金をもっていない人間からは自分が最高級の誘拐・恐喝・拉致監禁ターゲットとなる。
よって、無尽蔵に金があったらまずは自分のセキュリティを最高級に高めねば即死である。
自分に無尽蔵に金をわけてもらえる者たちは自分に雇われ従う選択をするものも多くなることだろう。
つまり全世界が自分に無限に金をもらえる陣営と、自分を服従させて無限に金をださせようとする陣営にわかれる。
しかしここであらためて考えてみると、無尽蔵に金があるとはどういう状態をさすのだろう。
仮にATH、銀行口座から金を無限にひきだしたり振り込んだりできる状態だとしよう。
そのような金の動きも額が大きくなればすぐ国税庁の目につくことだろう。
すると自分に金が無尽蔵にあるという状態はすぐに国の知ることとなる。
これはすなわり日本銀行がもっている貨幣発行権を自分という個人が所持して乱発していることとなるが、
とはいえ合法でも日本経済を大きく混乱させる危険因子であるため国としては何らかの口実をつけてコントロールせねばならなくなり、
結果として監視下のもと神社を通っただけで参拝などの正当な理由がないのに神社に入ったとして建造物侵入で逮捕、などの微罪逮捕されてしまうだろう。
などと考えると金が無尽蔵にあっても命がけの何かをしたいと思うまでは金が無尽蔵にない現状と同じ生活をすることとなり、あまり何もかわらない。
命がけで稼いでもいない無尽蔵の金をひきだそうとするのはどのようなときだろうか。
などだろう。
ある程度以上、まっとうで合法的な収入があれば、無尽蔵の金などあったらあったで非常手段にはなってもリスキーなだけで、そう別に夢のある話でもないという結論になった。
http://anond.hatelabo.jp/20161003130854
80年代から90年代にかけて、日本は経済的に豊かになった。生活が大雑把に言って誰にとってもよくなったし、多くの人が下層から中流へと引き上げられていったのだと思う。増田自身がそうだというのではなくて、この考え方がどこかにわだかまっているのを感じ取って書いているのだと思うけど、この「『景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい』ってのは非常に傲慢で気が狂った意見に思えるんだけど、どうだろう?」という発想は、そうやって引き上げられて適応できなかった人たちの言葉なんじゃないだろうか。
人類の歴史のうち、記録に残っているのは紀元前精々数千年だけれど、その間でテクノロジーの進歩が止まったことはなかったはずだ。ヒトは消費を拡大し、経済を拡張し、産業を発展させて、生存をより確かなものにし続けてきた。文明、経済や文化の発展とはエネルギー消費の拡大でもあるけれど、生存をより確かなものにするためのものでもあった。
「景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい」というのは、この認識に対する挑戦だと思う。つまり景気は「上昇しすぎた」ので、「おかしい」が、「おかしくなかった」水準があり、そこまで下降することが現状よりも良い、という意見だ。おそらく経済学を学んだ人なら教科書の最初の章で学びでもすることなんだろう ―― そこにはもっと簡潔で示唆に富んだ言い方で書いてあるのだろうけれど、景気は上昇しなければおかしいし、景気を支えるのは景気だ。経済は静的な系ではない。常に動的で、一時的な、その裏にある人間の日常生活を調停するメカニズムに過ぎない。
彼らの語る"適切な規模の経済"には、いつもどこかから富が湧き出てくることになっている。財やサービスが社会システムによって無から自動的に生み出され、それを絞ることで持続性を確保することになっている。そこに規模の経済などもちろんないし、需要と供給の関係もない。代わりにあるのは、供給と受け入れ可能量だ。大衆は受け入れ可能量をもち、与えられた賃金の中で供給を仕方なく消化するが、受け入れ可能量の伸びには限度がある。だから供給は低く押さえることが望ましい、というモデルだ。
景気の爆発によって、多くの人が経済や社会を自分の認識する世界と切り離して考えるようになってしまった。あるいはそういう人が新たにたくさん発言力を得た。株式市場というのは一部の人が遊ぶゲームで、経済政策は美麗字句を書いた文書に過ぎない。小さな好景気や不景気は《降って》くるもので、仕事場と帰りに寄るスーパーと自宅の外のことは、そういった仮想世界での事件とは何ら関係なく、「おかしくなかった」水準で永遠に続いていく。これらの人々は胡蝶の夢のごとくそう思い込んで、「仮想世界にのめり込むのはやめよう」と言っているようにも聞こえる。増田の意見、そしてそれに類する意見を見るたび、そういう違和感を覚える。"現実世界"から"仮想世界"のものを排除して、きれいで質素で、自分が必要だと思ったものは無から湧き出ることで変わらず存在していて、必要がないと思ったものはきちんと栓を閉めたのでどこを探しても残っていない、そういう過不足のない世界を作るんだという幻想がそこに見える。
でも、うまく言えないけど、そんな"仮想世界"はないんだ。全国で毎年数百人しか使っていない制度を廃止すると、増田の5親等先から悲鳴が聞こえてくる。平均株価が何ポイント落ちると、コンビニのジュースが何円上がる。コンビニは贅沢か。それなら上水道でもいいかもしれない。飲み水に上水道は贅沢だろうか。
経済は永遠に拡大していくという言い回し、永遠に消費は増え物価は下がっていくというモデルが今一つ心に響かないよ、という気持ちはわかる。しかしそれを理解してほしい。経済は褒めれば伸びる。ときどき発振する。抑えれば、フィードバックがかかってどんどんと落ち込んでいく。スタグフレーションは実在するんだ。支出を抑えて賃金を下げても、誰かの所得が増えるわけじゃない。金の額面は貯めこめても価値は貯め込めない。それは増田も貯金の価値が不変ではないと認めている通りだ。価値は、作らなければ、自然に風化して消えて行ってしまうんだ。
コントロールされた縮小をすれば一定量の幸福を長く保てるなんていうのは幻想なんだ。自分が理解できない経済のメカニズムをぶち壊しても、美徳や気持ちで金銭を置き換えても、その実態は通貨の名前を変えた貨幣経済だ。どうかそれに気付いてほしい。
少なくとも現在の貨幣経済の日本社会においては、歳を重ねたというだけで自動的に力が得られる訳ではありません(途上国の自給自足体制ならばまた別なのかもしれませんが)。寧ろ就職における新卒至上主義や女性の恋愛・結婚至上においての若さの価値を鑑みるに、年齢が若ければ若い程有利であり子供である事は特権階級にいると言えます。若さは力であり老いはハンデなのです。日本においては23歳以上は既に高齢者にさしかかっていると言えます。
私は子供の頃、大人になるのが嫌だったし怖かったです。大人になるという事は力を失う事だから。
日本社会において大人になる事とは、経験値を得てレベルが上がれば上がる程にHPやMPが減って行くRPGのようなものではないですか。満足な職歴を積めなかった氷河期世代のニートや非正規労働者は特になんの力もありません、ただ保護の対象外になっているだけ。
大人は弱者、子供は強者。そっちの方が現実に即してはいませんか?未就学児童ならまだしも小学校高学年ともなれば体力的にも十分高いです。碌に運動もしない中高年よりもよっぽど強いでしょう。そんな彼等を子供というだけで特別に保護する必要があるのですか?
日本における年齢差別は異常だと思いますし、そんな社会においてさらに子供を守れと連呼する理由が意味不明。結婚も出来ない子供も持てない底辺労働者に、年齢が大人だというだけでそんな事を強要されても困ります。親が自分の子供を守れば十分じゃないですか。
寧ろ大人の権利こそ守るべきだと思うんですが。有形無形のあらゆる面での年齢差別を何とかすべきだと思います。若さを好むのは生き物の本能であるとしても、そんな本能を抑える理性こそが人間としての特長だと思いますから。
その先輩と私は同じ学部で、サークルも一緒だった。専攻は、とある文系の学問とだけしておく。
私がサークルを辞めると同時にその先輩とは疎遠になったのだが、その後数年を経て、FBで友達になった。
サークルをやめてからその先輩とは疎遠になっていたので、その後の足取りを私は知らない。だが、先輩のFBでの活動は見ててとてもつらかった。
原発絡みのデマ記事をシェアして、師事していた教授から「それはデマだよ」とツッコミを受ける。
「どうしてお金なんてあるんだろう」と貨幣経済を否定するつぶやきをして、やはり師事していた教授から「経済学をイチから勉強したらいいよ」とツッコミを受ける。
ワクチンを全否定する記事をシェアするも、友人っぽい人からは内容にほとんど触れられずに「最近元気してる?」とコメントがつく。
最近では、明治維新は陰謀だと主張している。何を言っているのか最初本当にわからなくて調べてみたが、BLACK LAGOONのファビオラ曰く「タブロイド誌のバカ記事」にでもなりそうな内容だった。
その先輩が次に何を言ってくるのかワクワクしている反面、次から次へとデマや陰謀やニセ科学を信じてシェアする姿は、見ていて痛々しいものがあった。
私個人としては、別に政治的な信条などはどうでもいいのだけれど、とりあえず先輩に言いたいのは、「デマや陰謀を信じるのはやめようよ」ってことである。そういうのに騙されないために、我々も、学生も、大学で勉強をやってきたのではないのだろうか。誰か止める人はいなかったのだろうか。このままいくのとどうなるのだろうか。知り合った時とはまるで違う先輩の姿に、戸惑いとともにある種の喪失感のようなものを覚えた。