はてなキーワード: 視覚とは
俺昔WAISを受けたことがあるんだけど、そのとき心理士さんに言われたの。
「言葉、数字、音、形。それぞれを入出力する脳の部位は別のとこ」
「読めても書けない、書けても聞き取れない、そういうのはよくあること」
「いくら計算問題が得意な人でも、読み上げ算だけは苦手、とかもあるよ」
とのこと……。
俺は読み上げた文字を紙に書きとる(聴覚入力→視覚と触覚で出力)は人並みにできたが、
左右盲って「えっと、右がお箸を持つ方だから、こっちが右で……」みたいなプロセス踏むんでしょ?
俺は「次の交差点を右折して」って言われて「ァィョ!」って返事して左折するタイプなんだけど、どっちが右がどっちが左かは言語情報と視覚情報を通せばすぐ理解できんのよ。
ただ、反射的に動くと右と左入れ替わるんだけど俺左右盲なのか?
ちなみに北と南の区別は着くんだけど、西と東の区別が未だに悩むので、頭の中で「北(↑)南(↓)西(←)東(→)」と詠唱しながら指で印を結ぶ(ガキのころからこれのリズムと指の動きをルーチン化してる)で「うーん、西!www」「うーん、東!www」と出力するので、左右に比べて多く処理時間がかかる
叩かれ覚悟で記す。といいつつ同じような行動をしているやつなんぞザラにいるとは思うが。
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彼女が出来て、3ヶ月程。互いに性欲も旺盛で、身体の相性もちょうどいい。
しかしながら、俺は一抹のモヤモヤ、もといムラムラを抱えていた。
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彼女は絶壁の持ち主だ。
会うときは大きめのパッドを身に着けた上で、俺の前に現れる。
デートコースをこなし、ご飯も食べ、いよいよ気分も盛り上がって、ホテルへと向かう。
気持ちも高まって、ハグとキスを重ね、一つずつ丁寧に脱がしていく。
すると、先程まで彼女に胸元に存在していた丸みは姿を消し、そこにあるのはただの絶壁。
とはいえ、そこで気分が下がることはない。むしろ興奮はエスカレートしていく。
さらにハグとキスを重ね、互いを刺激し、ついぞ一つになる。そしてひと通りの幸せと共に、果てる。
賢者になることもない。たとえそこで一度終わったとして、醒めた気持ちにもならない。
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一緒にいるときは決してそういう衝動には陥らない。一緒にいないとき、ひとりでいるときに、そいつはやってくるのだ。
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大きなおっぱいに、我が息子を包んでもらいてぇ。
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今日はとても暇だった。現在求職活動中のおれは、朝から履歴書や職務経歴書は書いたものの、面接は夜に控えていて、時間に余裕があった。
そういうときに、例の衝動というのは訪れてきて、独り身時代に懇意にしていた風俗店のページを覗いてしまっていた。
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調べてみると、
「Gカップ」
な女の子がいるではないか。しかもかわいい。しかもGカップ!これはいい!
いや、Gカップの表記の女の子は大抵、自称ぽっちゃり、実はタダのデブだ。
分かっている。分かっている。デブだ。ただのデブだ。顔も修正している。写メ日記はお腹周りが映っていない。デブだ。間違いなくデブだ……。
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気がつけば俺は、風俗店に電話をかけ、件の女の子を80分コースで指名し、ATMでお金をおろし、電車に乗っていたのだった。
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風俗店に着く。料金を払い、番号札をもらって待合室に向かう。
スタッフが俺を呼ぶ。荷物と番号札を持って立ち上がる。そしてご対面。
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デブだった。
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いや予め決められていた約束なのだ。既定路線なのだ。クソ定期なのだ。予想通りなのだ。運命は残酷なのだ。
うん、顔はかわいい。頬の周りに肉がついてるけど。
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服を脱がしてもらう。脱ぐのは自分でやるらしい。色気のない服。こういうのは、デザインよりも脱ぎやすさだ。ましてやデブにはそれが何よりも優先だろう。
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プレイはまあ、悪くなかった。
おっぱいは柔らかい。いや、柔らかすぎるぐらいだった。多少は弾力がある方が今後の展望としては望ましい。
舌遣いはやはりプロ。思わず下半身がひくひくし、声も出てしまう。次に彼女に会うときはこういう感じでやってもらおうと思った。
最大の目的である、挟まれる、ことについてだが、包まれている視覚効果は大きいのだが、危惧していた通り、柔らかすぎて、刺激がダイレクトに伝わらない。潤滑にコトを進めるための潤滑油を塗りたぐっていたのだが、その時感じていた刺激はそちらが由来なのではないかと感じた。
そしてラストシーンに移る訳だが、よもや賢者と化していた。ひと通りこなし、終了。
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やはり後悔は大きかった。
金銭的な損失、彼女を裏切ったという事実、何より愛のないセックスは楽しくないということの再認識。
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いとしさと切なさと心強さを持ったセックスは、彼女としか出来ないのだ。
絶壁が何だ。結局は相性じゃないか。
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おれはそう決意した。
面白い着眼点だと思ったので詳しくないけど自分なりにしらべてみたよ
錐体細胞の応答する波長には幅があり青錐体は人間の視覚の短波長の下限の紫までをカバーしている
太陽光は、波長の短い方から順番に、紫、青、緑、黄、オレンジ、赤の光を含んでいる。晴天時には波長の短い光が強調されるが、一番短い紫色の光は空の高いところで散乱されてしまうため、2番目の青色が現れる。一方、夕方になると、波長の長いオレンジの光が多く地上に届くことになる。
https://www.huffingtonpost.jp/2018/10/10/purple-sky_a_23557444/
日中の青空と夕陽の赤とを波長の違いで説明するのはよく見るが、紫が上層でまっさきに散らされてるなんて知らなかった
・紫色の空
魔法のような色の空はなぜ見える?薄明はくめい・マジックアワーのナゾ
SNS上でどんな意見にもやたらと切れ散らかしている人がかなりの数視覚化されていると思うのだけど、最近ではそういう人たちを「SNSの白兎」と呼ぶようにしている。
要するにいつも皮を剥がれた状態で、軽く肩をぽんと叩いたつもりでもその人にとっては激痛に感じられてしまい、殴り返すことの口実にしてくるような人のことだ。
そういう人に限って、自らが他人以上に痛みに敏感になっていることに気づかないふりをして、人混みや海に飛び込もうとする。
一見、何事に対しても攻撃的なだけの人に見えるが、本人にしてみればそれは現実に痛みであり、自分には反撃の正当性があると思いこんでいる。
普通の人にしてみれば何でもないような相手の運転も、すでに傷がえぐれている状態であれば激痛に感じることは十分にありえる。
その傷は一日でできるものではなく、ときに低温やけどのようにゆっくりとそれでいて確実に傷をえぐり続けることもある。
そんな人に正論を向けても無意味で、触れただけでも本人には激痛なのだから、普通のコミュニケーションは無理だと諦めて近づかないことが一番だ。
もちろん、相手の反撃を押さえつけるくらいに強い迎撃ができるなら挑むことも一つの手段だ。
しかし、ほとんどの場合は無傷で済むわけがなく、結局は損害をこうむるだけのことのほうが多いのも確かだ。
自らに不利益しかもたらさないような相手に、わざわざ自分から近づいていく必要はない。
動物園の動物よろしく、檻の外から安全に眺めているくらいがちょうどいい距離感と言える。
もちろんこれは自戒にも使える概念で、今、自分はどれくらい痛みに過敏になっているのか、周囲の反応と見比べながら自己診断をしておくべきだろう。
一つの刺激に対して、全ての人間が同じ反応を返すわけではない。
言いかえれば、自らの意見や行動に対して、同じ反応を期待すること自体が間違いなのだ。
正の行動をして正の反応が返ってくれば関係を築き上げていけばよいし、負の反応を返すような人とは距離を離すようにすればいい。
負の反応に負の反応を返し続けていれば、気づいたときには自分が白兎になってしまっているかもしれない。
実際のコミュニケーションでも、相手の白兎レベルを考えるようになってから、無用なトラブルが随分と少なくなった。
それ以上に、自分のメンタルが随分と健全に保てるようになった。
望んでもないような相手とも無理やり接点を作られてしまうSNS時代だからこそ、紛れ込んだ白兎とは距離を保てるようにしたいよね。
本当はもっといろんなことに思うところがあるからそれも増田に投稿したいんだけどなあ。どう書けば伝わるのか分からないから諦めるってことが多い。
ということで、もう言語化できてるものを分かりやすくするという段階じゃなくて、言語化(分節化)の段階における比重の話なんよ。
内言(ないげん)自体があやふやで、しかし確かに言いたいことはあるんだけどそれを成形できてない状態って感じかな。それを言語化できずに諦めること多し。
視覚優位で映像で思考してるタイプの人はその内言の役割すらも頭の中で想起される映像が担っているから、最終地点の言語との距離が大きく文字通りより大きなギャップを持っていると思う。
例えば交通安全ポスターは交通安全のためのものであって男女共同参画社会のためのものじゃねえよ。
男女共同参画社会を推進したいんだったらそのためのポスターを発注しろよ。他のポスターにただ乗りするんじゃねえよ。
数ある社会問題の中で男女共同参画社会の実現に常に配慮しなければならないのか分からねえよ。
可能性がありますってなんだよ?そんなことでクリエイターが考えたポスターのインパクトや訴求力といった視覚的効果を削がせるの?
例えば有名な「I want you for u.s. army」のポスターを性別に配慮して2人、人種に配慮して5人に言わせる構図にしたら何のインパクトもなくなるだろ。
人物の面積が半分になれば目立たなくなるのは可能性の話じゃなくて確実な話だ。
追加料金払って男バージョンと女バージョンの2つ作ってもらうとかしろよ。絶対にケチるなよ。
それと曖昧な根拠で要望しているんだから、クリエイターに説明責任を負わせるなよ。
そりゃ勿論ちんこを持ってるってところですよ。
いや大真面目に。
幾つか良さを語っていくので、世の男性諸君はそうかぁちんこってやっぱ良いよな~~と思う契機にしてください。
興奮すると勃起する、単純ながら実によくできた仕組みだと思う。非常にわかりやすい。
一応女も濡れるっていう印があるっちゃあるんだけど、勃起に比べるとかなりわかりにくい。
自分は今結構冷静なはずだ...と思ってても脱いでみたら思ったよりめちゃめちゃ濡れてたりして、うっかりそうなってしまった場合は下着を手洗いする羽目になる。
まぁおりものシートとかしてればいい話なんだけどね。でも濡れるかも...と思って予めシートしとくのって不可能じゃないか?
濡れるかもと思った時には既に濡れているのであって毎回後手に回っている。洗濯がめんどいんじゃい!
もっと今濡れてますよ!みたいなわかりやすい通知がほしいんだよな。
自分が今めちゃめちゃ興奮してることがわかると自慰にも身が入るってもんですよ。
外についてるものと中にあるものを触るんじゃ断然外の方が心理的ハードルが低いわけ。
中に指入れるのはこう...腰を据えて自慰をするか...という覚悟がいる。
エロ漫画読んでるとかわいい女の子が頬を染めて背徳感に浸りつつゆっくりと指を挿れてたりして、見る分にはエロくていいんだけど実際自分でやるとなると話が違ってくる。
普通に怖いし。触りかた間違えるとかなり痛いし。
挿れたら即気持ちいいとかじゃなくて、圧迫感や挿入の恐怖に耐えつつ良い所を良い感じに触る訓練が必要なんだよね。
検索すると『女性が中でイくのは難しい!オナニートレーニングで心地よい快感を』みたいなページいっぱい出てくるけど、
トレーニングなんかしたくないんだよ~~~!!!もっと気軽にうわ気持ちいいなにこれ!!って感じのやつをやりたいわけ!!!!
その点男性はとにもかくにもしごいてればある程度の快感は保証されてるわけで、そこは心の底から羨ましいです。
クリ触れよって話だけど、でもやっぱここが一番気持ちいいとされるところに辿り着けないのはなんか負けた気がするだろうが......
やっぱりこの点は欠かせないですね。
気持ちいいだけじゃなくて射精した後は萎えるのではい、自慰が一区切りつきましたよというメリハリがある。
女の場合イく前後で見た目は何ひとつ変わらないのでちょっと面白みがない。
女の方がイく快感が持続するのは良い点かもしれないけど、でも男はやろうと思って練習すればメスイキができるじゃんね。
男はメスイキに到達できるけど女は射精に到達できない......悔しい。射精してみたいよ~~~
禁じた分だけ射精量も増えるだろうし、達成感半端なさそう。やりたい。
これも若干上で書いた外と中の心理的ハードルの話になっちゃうけど、女性の自慰グッズの1位としてイメージされるものってやっぱりバイブなんだよね。
どこを見てもバイブは売ってるけど、バイブはもう既に形がかなり性のイメージ。
一発で挿れるやつだ!!ってわかる形をしてるので、エロい気分じゃない時に目に入るとうーん...っていう気持ちになってしまう。
あと個性を出そうとするとどうしても独特な形(長かったり突起が生えたり)に進化しがちで、エロさよりも痛そう!の方が勝ってしまう。
今TENGAのHP見てみたけど物凄く良い。おしゃれ。全然アダルトグッズ感がない。かっけ~~~!
それにバリエーションも中がふわふわだとかスクリュー型だとか、なんだそれ...気持ちよさそう...触ってみたい...と好奇心が刺激される。
モノを受け入れるのとモノに突っ込むのとではやりやすさも違うしね。いいな~~オナホ。
ざっとこんな感じ。
実際の男性におかれてはそんないいもんじゃない、めんどくさいという意見もあるのかもしれないけど、ちんこっていいな~~という気持ちが抑えられなかったので書きました。
性転換したいわけじゃないよ。
背が高い人ってかっこよくて憧れるな~視界よさそうだし似合う服多いだろうな~~って感じ。
なんでロストジャッジメントは現実の俳優をモデルにしてるのにたとえばキムタクとかCG感ありありなの?
ディープフェイクみたいなの見ても視覚的には現実にその人がそうしてるのと区別できなくて、言ってる内容からはじめて「この人はこんなこという人じゃない」という感じでこれはフェイクと分かるぐらいディープフェイクの方の「見た目のを現実に寄せる」精度は上がってるよね。
住んでいる家から歩いて15分ぐらいのところに砂浜がある。晴れでも曇り空でも、海を見ているとまったく印象は異なるのにどこか気持ちが楽になるので、他にやることも特にないし、暇さえあれば行っている。
今日は台風一過の晴天がまだ続いていて、朝10時ぐらいに浜に着いたら、俺と同じような地元民がけっこう遊びに来ていた。盛夏のような密集した感じではなかったけども、犬を散歩させている人だとか、少年団の水泳教室みたいのとか、俺と同じようなぼんやりした中年みたいな人とかが浜辺に適当に散らかっていて、活況という雰囲気だった。
…
波打ち際で、歩き始めたばっかりという感じの小さい子供とお母さんらしき女性の二人組が遊んでいた。幼児がえっちらおっちら、やじろべえのように左右にバランスを取りながら、右足で地面を踏んだエネルギーを体の左側に、今度は左足で踏んだエネルギーを右側にやるのが見えるようで、そうやって濡れた砂の上を歩いていて、すげーな、と思った。
歩きながら、ちゃんと(というとおかしいが)海の方に向かっていく。
何かしら、原始的に引き寄せられるものがあるんだろうか。まあ、「○○ちゃん、海に行こうか」といって家を出てきたのだろうからはじめからそういう意識なんだろうけど、一つの生命として何か惹かれるものがあるんだとしたら面白いな、と思った。
風が吹いて、水泳教室用に砂浜に積まれていたビート板が舞い上がった。真っ青なビート板が何枚も、白っぽく濡れた砂浜と対比をつくりながら、陽の光を浴びて波打っている海を背景にして幼児の前を舞って流れていった。
子どもは歩くのをやめて、その光景に見入っているように見えた。
もしかするとびっくりして恐怖で固まっていたのかもしれないが、美しいと感じたのかもしれないし、実際、鮮やかな出来事だった。
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そうなんだよ、世界にはこういうことが起きるんだよ、と俺は思う。
俺は30過ぎて世界という言葉の意味が国際的な意味合いでも形而上的にもよくわからないし、それは中年の中でもとりわけぼんやりしている俺自身にも問題があるが、会話がたいして成立しないはずの子どもに向けて語るときだけ、この言葉の正確な部分の一端をつかんだような錯覚を覚える。
それはおおよそのところ、幼稚さをこじらせて自分がよくわからなくなったおっさんのたわ言だが、あえて他の理由を言えば、俺も子どもだったからわかるのだと思う。社会情勢も人間心理のこともわからないが、俺も同じ子どもだったから、ここが美しく印象的なことが起きる場所だということはなんとなくわかる(ということにしている)。
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ちなみに、1~2歳ごろの子ども視力は0.2相当らしい。また、以前、ある絵本の批評を読んでいたら「微妙な色づかいが多すぎて子どもの視覚には伝わらない」というようなことが書いてあった。
こういう具合で、幼児の視界というのは大人が想像するのとは、それこそまるで別世界の可能性がある。ま、そう考えるとやっぱり、上でくどくど書いたことはファンタジーかもしれないな…。
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乾くのを待ってる間、『ジェイコブス・ラダー』という映画を観たら元気がなくなったので寝た。トータルでは良い休日だったと思う。🦑
竈門炭治郎は嗅覚が、我妻善逸は聴覚が、嘴平伊之助は触覚が優れているが、この3つの感覚の組み合わせについて書かれた文章を、何処かで読んだ記憶が有った。それが判明したのでメモしておく。
男と女の愛の語らいは、昔から夜中に行なうのが一般的であった。言い換えれば、愛とは、第一次的に視覚に依存するものではなく、香り(嗅覚)や声・物音(聴覚)あるいは肌触り(触覚)のなかから豊かに創り出されるイメージの、想像力による夢幻の世界における営みであった。そして、日本的女性美の一つは、この視覚的な隔離から発生しているともいえよう。『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」のなかに「鬼と女とは人に見えぬぞよき」とあるが、この言葉が苦しまぎれに吐かれた言葉にせよ、実に見事に女の美のあり方を、愛のあり方を示唆している。
=引用ここまで=
小松和彦『神々の精神史』「屍愛譚をめぐってーーー伊弉諾・伊弉冉の冥界譚を中心に」より
念の為に言うと、作者のネタ元がこの本・論文であると断定しようというのではない。
私が門外漢だから詳しく知らなかっただけで、国文学の世界では、それに明るい人たちにとって「夜の世界と嗅覚・聴覚・触覚の結び付き」という認識が共有されているらしく、そのことを私が上の本で知ったというだけの話である。
『鬼滅の刃』の作者は、和の文学や文化をかなり学んだと推測される(コメントの数々を読むと、非常に活字に親しんでいるように推測される)ので「夜と3つの感覚の関係」も何らかの文献などで学んでいたのだろう。
男性向けだとVRカノジョみたいなVRエロゲは山ほど出てるのに女性向けのエロゲは全然聞いたことない
女性向けシチュエーションボイスもいいけど、視覚でも楽しみたいんだよなー
誰か開発してくれないかな
音がよく響いて食べている感がある 聴覚的な満足
温度が良くわかる 触覚的な満足
それらを複合した 味覚的な満足
食べすぎを防ぐ期待も
デメリットは人前では行儀が悪いこと
君がそこまで会話に拘る理由が全くわからない。どちらでもいいと他のツリーでも書いたはずだ。
忘れちゃった?
そうやって俺がどちらかの立場、と決めつけるから会話が成り立たない
元増田が「会話力の方が重要」と馬鹿みたいに言ってるだけで、おれは「はいそうですか。別にどっちが良いと思わないけどね」としか言ってない
視覚優位をたてたのは単におれがそこまで配慮しなかっただけだ。聴覚優位な人にとっては会話力は重要視される、というならまあそれもそうだねとしか思えないが。
文章でやり取りしてきた歴史より会話の方が長いってのは確かにそのとおりだろうね。じゃーその歴史があるから会話の方が大事かってことをいったら、現代はもはや文字上でのチャットも新聞広告も小説も漫画も映画もyoutubeもいっぱいあって、だいたい全部に文章力と会話力が含まれている。
ようは識字力がそれほど高くなかった時代と現代を比べる意義ってどこにあるのかってことだ。
そもそも元増田の主題である「会話力と文章力」が何を意味しているのか。図書館や本を例にとっても、音読を会話力とするのか、本を読むこととリアルタイムでチャットをやり取りするのが同じ文章力による物なのか判別が付かない。だから図書館の例を出してきたのは良いけど、じゃーそれが文章力の例として理にかなっているのか?と疑問を呈したらどうなんだろうね。
本は文章の塊だけど、ならば本を例に出しておいて「文章力より会話力だ」っていうのは無理筋でしょ。
だってだよ、会話って相手と話すことを意味するよね。会食って言葉と同じで相手が存在することが重要なんだ。おや?図書館で音読することは会話なの?相手がいなくても音読していれば会話なの?
本は音読が基本で次第に黙読に移った、という話は面白い。が、いま話題にしているものとはちょっと違うんじゃない?本当に無理矢理でしょ
さっき視覚がどうたらこうたら言ってた気がするけどそれこそお前がそうってだけ。俺のことをお前の主観だとか言われる筋合いはない。
つまりはお前が視覚優位の脳だからそういう価値観で凝り固まってしまってるだけの話だ。聴覚優位の奴もいる。どちらが多いかは「人それぞれ」だろう。
でも人間の歴史の中で文字の歴史は浅い。口頭でやり取りしてきた期間の方が圧倒的に長い。
図書館も書籍館(しょじゃくかん)と呼ばれていた頃は皆音読で本を読んでいた。うるさくてあったもんじゃないということで黙読という文化がそこではじめてできた。
つまりまあ基本的には本を読むときすら音に直すのが当たり前だったわけで、最近になって黙読という形で文字を文字として理解する方向にやっと適合していってる段階に過ぎないんだよね。これでも会話より文章の方が重要というのか?
逆にこの文章のママってことは会話力も低いんじゃね。まあここでは増田の文章力とかは主題ではないのでどうでもいいけど。
外国語がわかりやすいけど、会話の方が習得が容易で書き言葉は後になる傾向がある。会話が習得しやすいのは、多少内容に不備があったり発声に問題があっても意味が通じることが多く寛容なため。外国人が日本語を下手くそに話していてもある程度意味が通じれば問題ないと思える。けれど例えば行政文書などでおかしな日本を使っていれば違和感が勝ってしまう。これは会話というのが1対1を基本に相互でやり取りする物であるため、お互いに不足分を補ったりすることが多いから。一方で文章は基本的にいってこいである。目に付いた人の数だけ読まれるため会話のように相互に補完し合う事も少ない。だから文章力は比較的厳しい目で見られやすい。文章には「ごめん、いま言い間違えた」は通じない。
とはいっても、会話による伝達の方が重要視されるのでは、という意見には疑問だ。元増田が文章力低い、と思ったのはそういう疑問の根幹部分がなくて小学生の疑問並みだったから。
例えば他のツリーでは「普通に暮らしていれば」「常識」「自明」などとしているが、俺にとっては別に会話の方が量は多いけど重要視されるものとはあまり思わない。先に述べたように会話は相互で補完が可能であり一発勝負ではない。人間は聴覚より視覚を重視するから目に残りやすい文章をより重きを置く、という考えの方が自然であり常識に通ずる物があり自明ではないだろうか。
逆なのかな?
この仮説は多分正しくて、統計のやり方によってはこれ一本でこの話は終わるだろう。
ハンバーガーを食べ過ぎた次の日のウンコは消化しきれなかった動物性脂肪と科学的な調味物質が組み合わさった独特のマクドナルド臭がウンコから漂ってくるものだ。
それと同じように、日本人が日常的にご飯を摂取することで、日本人のウンコからはご飯の匂いが立ち上りやすいだけなのだと結論づけることは出来る。
が、ハンバーガーウンコを出した直後にハンバーガーを食べても「ウンコと同じ匂いじゃね?」と感じることはあっても「この匂いはウンコの匂いだ」と感じることはない。
日本人の脳に「ウンコ」として刷り込まれ学習された匂いと、ある種のご飯が醸し出すベチャベチャとして湿っぽくもどこかすえて炊きあがったような匂い、その両者の一致はあまりにも親しすぎるのだ。
そもそも人間が感じ取れる匂いの種類ってどれぐらいあるんだろう。
ただ間違いなく言えるのはご飯はたまにウンコの匂いがするってことだ。
匂いのやたら強い割り箸だったり、金属臭のキツイスプーンと組み合わされることでウンコとして完成する感じはある。
つまりはご飯がウンコ臭いとき、ご飯が担当しているのは「水気」「香ばしさ」「食品臭」などのいわば「負のシズル感」とも言える部分であり、それに食器が放つ「非食品臭」が混ざることでウンコが誕生するのだろうか?
水分と温度を伴った空間の中で物質の状態を変化させ、それらを強烈な蒸気と共に完成させる。
その結果として作り出される高温で高エネルギーな物質は雑菌たちにとって格好の繁殖地となり、毎秒毎秒生命活動を繰り返すことで雑菌は排泄物としてゲオスミン臭などを残していく。
人間のウンコとは人体に住まう小さな命の作り出したウンコの集合体でもあるのだ。
そしてご飯もまた、その表面上に置いて無数の細菌達が毎秒毎秒刻一刻とその数を増やしながらウンコを繰り返している。
いわば全ての食品は雑菌のウンコまみれであり、人糞との違いはそのウンコの濃度の違いでしかないとも言える。
音を表現するデシベルが対数刻みなのは人体が感じ取る感覚が対数刻みだからであるからだが、それは視覚や嗅覚でも同じである。
それはある匂い物質のある濃度に対して人間が感じる匂いを1とするとき、100分の1の匂い物質に対して人間が感じる臭さは100分の1よりも大きいということだ。
ご飯や割り箸の表面に集った微生物たちの微生物ウンコの密度が人間のウンコの何万分の1まで下がれば人体はその匂いを感じ取らずに済むのだろうか?
その答は「食品の匂いがウンコから遠ざかればそっちにかき消されることが出来る」と結論付けられるのではないだろうか?
つまる所、ある種のご飯からウンコの匂いがするのはやはり「そのご飯はウンコの匂いがするので、全ての食品が必然的に纏ってしまうウンコっぽい匂いを自分の匂いでかき消すことが出来ない」ということなのではないだろうか?
つまり、やはり「ご飯は時折うんこっぽい」というのは是なのだ。
白米至上主義の日本国民としては非常に悲しい結論だが、この現実から逃げていては日本食に発展の未来はないだろう。
受け入れよう。
4ヶ月前、僕は合同誌の誘いを受けた。
内容はSさん原作のアンソロジー本、ようは「うちの子二次創作合同」だ。少しイヤミっぽい書き方だが作品名をボカす為、何卒容赦いただきたい。
「うちの子」とは大抵の場合その人が創った一次創作キャラクターの事である。それの二次創作本を原作者主催で作るのだから公式アンソロジーと呼べるかも知れない。
かなり内輪ネタ感はあるがSさんとリプライを交わしたこともない自分に声がかかったのは意外だったし嬉しかった。
数年前にHPにあったイラスト、ショートストーリーに強く惹かれ何枚かファンアートを書いたことがある。それを見て招待してくれたのだという。
自分の作品が見られ評価されるというのは創作者にとって一種の麻薬である。僕は気分が高揚するのを感じながら了承の旨を伝えた。
自分で言うのは変だが僕は二次創作が得意だ。真骨頂と言ってもいい。
映画、小説、漫画、動画、あらゆるコンテンツを見ても一番最初に考えるのは「自分ならどんなストーリーを作るか」だ。
原作者が組み上げた土台の上で自分の思うがままにストーリーを展開させるという楽しみ方。オリキャラを出すわけではないのでメアリースーとは違うと思う。
子供の頃から日常的にやっていた事だが、多種多様な作品を見てネタの引き出しもバラエティに富んだ今、考え出すと止まらなくなる。
久しぶりに物語を読み返し、設定を思い出したところで僕の頭の中では無数のアイデアが浮かんでいた。
シリアス系、ギャグ系、まったり系……どれも捨てがたいが一番得意としているギャグで行く事にした。
構成を整える為、メモ帳に思いついたネタを書き出していったのだが珍しく指が止まった。
僕はネタ出しの際、とにかく頭の中のものを全て出し切ってから取捨選択を行うので何故この段階で固まっているのか自分でも分からなかった。
最後に入力した行を見返した時、自分の異常さに無意識のうちに反応したのだと理解した。
ニュアンス的には銀河鉄道999のメーテルが「行くわよネジ!」と言っているようなネタだった。
Sさんの作品は人の生き死にが関わってくるシリアス系の作品だ。こういった作風に対する二次創作ではブラックユーモアや軽いノリを入れるのが僕の好みだった。
商業で展開してる作品(同人だが東方Projectも含む)の二次創作を行っていたときは気にしていなかったが、ここで初めて原作者の存在を思い出した。
このネタを見たとき、Sさんはどう思うのだろう。怒るだろうか悲しむだろうか。
自分が原作で主催の合同誌だ。載っている作品は全て見るだろうし、第三者からしても「Sさんはこの人の作品を認知している」という事になる。
それは僕にとって非常に不都合だ。
今までやってきた二次創作は原作が手の届かない大手だったからこそ自由にやれていたのだ。
少々グレーではあるが二次創作者は同人即売会などでひっそりと本を出し、原作サイドは見て見ぬふりをする。この暗黙のルールに僕は守られていた。
だが今回は違う。原作者に認知され、認知されたことも認知される。同人であって同人ではないのだ。
二次創作ということに変わりはないが僕がやっていた二次創作とは全く異なるものである。
咲の天江衣が手足を折られている絵も描いた。東方のミスティアローレライが呪歌を歌う本も描いた。
原作ファンから嫌悪感を抱いたコメントをもらった際は「嫌なら見るな」のAAと同じポーズをして全く気に留めなかった。
何故なら悪意を持って絵を描いているわけではないからだ。後ろめたさや罪悪感は微塵も無い。
ただ思いついたから描いただけ。絵のメッセージ性を考察するだけ無駄だ。何も考えてなどいないのだから。
思い返すと僕は一次創作をやった事がない。だから一次創作者、原作者の考えが分からない。
以前エヴァンゲリオンの最終章を観に行ったが映画館を出て考えたのは二次創作のことだ。
作品が織り成す表現、意図、メッセージは頭になかった。ただボケっと観ていただけで精々CGのクオリティにビックリしただけだ。
その後暫くするとYouTubeに考察動画がアップされ、それを観て理解した気になった。作品の深みが分からないまま。
一次創作において一番大変なのは世界観、キャラクターの設定だと思う。優れた設定さえあればほぼ自動的に物語が出来ていくというのを作家の誰かが言っていた気がする。
Twitterで見たのは複数のキャラクターを何もない部屋に閉じ込めた時、どういった反応を示すかが瞬間的に思いつく作品は優れているというものだ。
自分の好きな作品をいくつか試してみたところ面白いようにキャラクターが動き出す。個性豊かで磐石な設定が築かれている証拠だ。
個人の感性が関わってくるので同じ作品でも結果が異なるのは当然だがキャラクターの性格上ありそうなアクションを起こすはずだ。
何もない部屋ですらちょっとした物語が始まるのだから二次創作というバーリトゥードでは無限に話を広げられるだろう。
二次創作しかしてこなかった僕は一次創作における土台の作り方を知らない。コツなどではなく根本的なものから知らなかった。
やっと絞り出した設定を見返しても有名作品の劣化コピーか、足して割ったような歪なキメラで作品としてのまとまりが無い。
他人の作品を利用して楽な工程だけやっていたから至極当然の結果と言える。
僕は感受性、0から創りだす発想力に乏しいのかもしれない。曲がりなりにも長いこと創作活動を行っていた人間が創作に向いていないとは皮肉なものだ。
つい最近ニコニコ動画で面白い作品を見つけた。『【クッキー☆ボイスドラマ】魔理沙とアリスの自己矛盾☆』という動画だ。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm36353098
例のアレ、と呼ばれるジャンルのクッキー✩という作品をテーマにしているらしい。
時が流れるにつれ変化していく界隈や情勢を風刺したドラマ、だと思う。
元ネタの名前こそ聞いたことはあるものの、詳細は知らないので内容に関してはあまり理解できなかった。
ただ主人公の女の子が二次創作ならではの悩みと葛藤するシーンに少し共感を覚えた。
元々一次創作を行っていた女の子が、甘い誘惑に誘われ二次創作に手を出すところから物語は始まる。
作品の看板を借りるだけで今まで伸び悩んでいた絵の閲覧数が増えたことに気を良くした主人公はどんどんと沼に嵌っていき、二次創作に依存していく。
ある日描いた絵を見返すのだが「本当の自分が描いた絵」が一つも無いことに絶望し二次創作からの脱却を図る…という話。
特に主人公が序盤で一次創作をしていた時は左利き(ペンを左手で持っている)だったのに、二次創作を行うようになってからは右利きになり、
クライマックスでの本当の自分を取り戻したシーンでは左利き(マイクを左手で持っている)に戻ったりと主人公の心情が視覚的な対比として描かれていたのが印象的だった。
動画は立ち絵を手や足などの細かいパーツに分割し動かす切り絵アニメーションをメインで使っているようだ。
小規模の制作グループで45分以上あるアニメを作るなら確かに合理的である。それでも膨大な手間暇がかかっていることに違いはないが。
今まで見てきた作品とは違い、鑑賞後は何も考えられなかった。ある意味生まれて初めて心の底から作品を楽しめたのかもしれない。
コメントを見る限り様々な小ネタが含まれているようで理解できなかったことが一層悔しく思う。知っていれば多角的に楽しめるのかもしれないが今の僕には十分面白かった。
作品の表現、演出一挙一動に注目し、感想が出てきた事に自分でも驚いたのを覚えている。僕にとってそれくらい強烈な体験だった。
これまで僕がやってきたのは作中の言葉を借りるならば「安易な二次創作」に該当するだろう。中身がなくハリボテみたいな創作だ。
話を戻すがSさんの合同誌の誘いは断ることにした。昨日謝罪のメッセージを送信し納得してもらった。自分の無責任さと幼稚さで迷惑をかけてしまったこの事は二度と忘れないだろう。
僕なりに考えたが健全な創作には感情が必要なのだと思う。嫉妬、欲望、勿論熱意でもいい。プラスでもマイナスでも構わないから感情という名の原動力がいる。
問題はそれが狂気的でなければならないことだ。中途半端な嫉妬心、欲、熱意では筆を折ってしまうだろう。イカれてるくらいがちょうどいいかも知れない。
そして健全な二次創作には矛盾が付きまとう。原作設定との矛盾、創作においての矛盾、先程挙げたコミケの暗黙のルールだって本来は矛盾している。
その矛盾を上手くコントロールしバランスを取らなければ良い結果には繋がらない。狂気がエンジンで矛盾がアクセルブレーキ、どちらも故障したらダメだ。
狂気と矛盾、この二つを安定させられる人間はほんの一部しかいないと思う。筆を置いて時間が経たないとやる気が出ない人がほとんどだ。
僕はRTやいいね数はどうでもいいと思っているし、フォロワー数が数万人の絵師に対して特に何も思わない。原作は二次創作のツールとしか思ってないし考えなしに描きまくった。
だから失敗した。こうなってしまった。自分が創作活動で過ごした日々は空白だったのだ。
あなたの二次創作はコピーペーストを繰り返したパロディまみれになってませんか?成人向けなら自分が好きな性癖を詰め込めていますか?本当に創りたいものが創れていますか?
二次創作には二次創作だけにしか味わえない面白さ、奥深さがある。創作に携わる人間なら知っているはずだ。
ただ楽しいからといって自分を見失ってはいけない。思考を止めてはいけない。創作者としての軸を保ち続けなければならない。