はてなキーワード: 血圧とは
・2013年5月までを対象に6つのデータベースで検索できた無作為化比較試験7報について検討したメタ分析において、ビタミンDの摂取は、抑うつ症状 (7報) に影響は与えず、抑うつ症状のある患者 (2報) において、わずかに症状の減少と関連が認められたが、試験によるばらつきが大きく、さらなる検証が必要である (PMID:24632894) 。
・2013年4月までを対象に6つのデータベース、6月までを対象に1つのデータベース、7月までを対象に2つの会議録で検索できた無作為化プラセボ比較試験6報について検討したメタ分析において、ビタミンDの摂取は、うつの評価スコア (6報) や発症リスク (2報) に影響を与えなかったが、試験のバラツキが大きかった (PMID:24423304) 。
・2012年10月までを対象に4つのデータベースで検索できた無作為化比較試験4報について検討したメタ分析において、試験内容に問題のない2報ではビタミンDの摂取はうつ病症状の改善と関連が認められたが、生物学的問題 (ビタミンDを摂取させていない、ビタミンDを摂取させても25-OH-Dが増加していない、減少している、ベースラインの25-OH-D値を測定していないなど) を含む2報では症状の悪化と関連が認められた (PMID:24732019) 。
RCT
・70歳以上の女性 2,258名 (試験群1,131名、オーストラリア) を対象とした二重盲検プラセボ比較試験の二次解析において、コレカルシフェロール500,000 IU (10錠) を毎年1回、秋期から冬期の同じ日 (前後2週間以内) に、3~5年間摂取させたところ、精神状態 (SF-12、GHQ-12、PGI-I、WHO幸福度指数) に影響は認められなかった (PMID:21525520) 。
・季節性情動障害の医療従事者43名 (試験群22名、平均44.2±11.5歳、デンマーク) を対象とした二重盲検無作為化プラセボ比較試験において、ビタミンD70μg/日を冬期に3ヶ月間摂取させたところ、うつ症状の評価 (SIGH-SAD) 、精神健康状態 (WHO-5) 、体重、ウエスト径、血圧、欠勤日数に影響は認められなかった (PMID:25125215) 。
・健康な若年成人128名 (試験群63名、平均21.45±2.96歳、オーストラリア) を対象とした二重盲検無作為化プラセボ比較試験において、コレカルシフェロール5,000 IU/日を6週間摂取させたところ、認識機能や気分に影響は認められなかった (PMID:22073146) 。
出典元:国立健康・栄養研究所「健康食品の安全性・有効性情報」http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail44.html
ノバルティスファーマのディオバンなんかすごい効き目だもんね。
ジェネリックに比べて。
10万人単位の臨床試験を京都府立医科大ほか各病院で採取して、それで顕著に効くのが「ディオバン」って高血圧専門医のお墨付き
これはジェネリックより先発薬って思う人が増えるのはしゃーない。
捏造だったけどね。
こんな話増田じゃなきゃできないけど大事なことだから聞いて欲しい。
昨日は昼間のストレスがたたって少しお酒が多く入っていたのは事実だ。
さらにそのストレスを解消しようと、スマホゲームを持ち込んで長湯したのも良くなかった。
長湯に慣れていなかったのでいつもどおり立ち上がると急な立ちくらみに襲われた。
やばいとおもいすぐにしゃがみこんだので転んで頭を打つようなことはなかった。
ここまでは良かった。
少し落ち着いたと同時に突然の尿意に襲われたのだ。
普段は風呂で用など足すことはないのだが、お酒もあったせいで再び立ち上がると用を足し始めた。
朝からこんな話でごめん。
でも、やばかったのはその後だ。
再び強い立ちくらみに襲われて、今度は全く立ってられなくなってしまったのだ。
膝から崩れるようにしゃがみ込むと、今度は耳がどんどんと遠くなっていく。
助けを呼ぼうとドアに手をかけたところで気を失って、次に気づいたときは10分ほど経過した後だった。
横では尿を流すために出していたシャワーが流れっぱなしだった。
もし助けを呼ぼうとドアを開けていたら、体温が下がってやばかったかもしれない。
何より転んで頭を打っていたらそれこそどうなっていたかわからない。
何が言いたいかと言うと、放尿は場合によっては極端に血圧を下げる危険性があるかもしれないということだ。
尿を押し出そうとするとき、明らかに下腹部に血流が集中していくのがわかった。
用を足したときに全身がぶるりと震える理由は実のところ解明されていないらしい。
思うに、尿から熱量が逃げるからではなく、放尿のために全身の血圧が下がって寒気と感じるからではないだろうか。
そういえばひどい風邪のときも、一度トイレで倒れたことがある。
もしかしたら似たような状況だったのかもしれない。
お風呂で命を落とした人の中で、実は放尿が原因だった人は意外と多いのではないだろうか。
実を言うと、自分は体にも気を使っている方で、運動もかかさずに行っている。
体重も筋肉量も30代前半のそれと同じだし、髪もふさふさだから大半の場合は年齢よりも若く見られる。
それだけに、まさかこんな身近に死ぬかもしれない危険性があるだなんて思ってもなくてただただ恐怖だった。
まだまだ寒い日が続くので気をつけて欲しい。
私の舌は受け入れ範囲が広い。
きっと、足りない物質は舌が補っているのではないだろうか。
思い返せば、「くっそまずい」っていうご飯を余り食べたことが無い。
焦がしすぎて苦いものとかならマズイと思うし
味が薄すぎる場合は「うーん?」とは思う。
でも「メチャクチャマズイ!」「不味くて食べれない!」ってのは特にない。
私の舌が良い子でよかった。幸せだ。
人が「不味い」と言ったものも美味しく感じられることがあるし
人が「美味しい」って言ったものも美味しく感じられる。
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ざっくり追記してく。
⇒鼻や舌、耳 すべて正常だよ。
●「分かりみが強い。ただし手料理を披露するとき我々の種族は最弱になる 」
他の人が「美味しい」ってものを食べ続けると
「他の人が美味しいと思うのはこの味付けだな」って分かってくる。大丈夫だ、問題ない。
⇒その通り。
セブンイレブンのカルビ牛丼美味しい。なぜあんなに値上がりしてしまったのだろうか。
(ごめん、これ書いたら「あれは美味しくない」って美食家が言うかもしらん)
そして、最近はセブンの冷凍食品コーナーに出てきたんだけど、毎回売り切れてて悲しい。
●「値段見て不味いと認知する舌の持ち主もいるようなので、その状態が最も不幸かと。
⇒わかる。そういう人居たなぁ。
前に、そういう人の為にチェーン店料理を「1000円だ」と言って盛り付け変えて出したら
「美味い!」って言って食べだしたから笑った。
別日に「チェーン店のだよ」って言って出したら「まずい!こんなもんお前食うのか!?バカだな!!」って言う。
●「私もそう思っていたがな、イギリスやアメリカ行って自分も神レベルの舌を持っていることがわかって、長期滞在がつらいのじゃ 」
さくらんぼ味?の綿菓子とか、シャンプーみたいな味のするゼリー?グミ?みたいなのあったよ。
「面白いな」って思って食べた。イギリスはまだないなー。 日本調味料をAmazonさんとかで頼むのだ!
●「俺、○○も△△も食べたけど、やっぱり吉牛と豚汁が一番だわ、ってドヤ顔できる○○も△△も食べていない 」
⇒食べ比べできるほどに舌が持続してくれるか疑問。
ってか近所に3店舗ないよねw
●「「貧乏舌だから?」つっていちいちエクスキューズ入れるのやめてくれる? 」
⇒えっと、はてなを抜けってことかな?
●「ふつーじゃないのかね。情報で喰ってるバカは脇に置いておけ。 」
⇒たまに居るんだよね、「まっず」って声に出して言う人とかさ。悲しいなって思う。
●「謎のチェーン店信仰。コンビニ、安いお総菜、冷凍食品、チェーンの外食等から一度離れ久しぶりに食べた時、味の濃さと旨み・出汁の薄さに愕然とするぞ。万人向けの味ではなく、販売価格と原価第一だろうに。 」
私の舌は強化されたからか、どちらも美味しいと感じるよ。
味の濃さは確かに違ったけどね。
●「幸せの許容範囲が広いって最高だと思う。お金や物質的充足度と幸せとの関係全般に言えること。」
⇒ほんとうに、幸せだと思う。 何事も一回は挑戦してみるべきだよね(?)
●「一度ステーキガストのカットステーキ食べ放題行ってみなよ」
私もパートナーも噛み応えのある肉が好きなんだよね。前世犬だったのかも。
別な話だけど、柔らかくて溶ける、甘い肉汁を出すA5ランクのサーロインを食べたことがあるけど
肉の脂が出すぎてすぐにおなかいっぱいになったよ。あれは甘いね。
●「自分自身の幸せ供給力と、幸せ感度の話。贅沢を知れば感度は鈍くなり、供給力を高める必要に駆られる。感度を高いままに留めるのは重要なライフハック。 」
⇒声に出して「美味しい」っていうこと。笑って食べること。そして環境が大事。
楽しい、笑いたくなるような環境で食べるとご飯も美味しいよね!
20くらいまで、ピーマン苦手、しいたけ苦手、ブラックコーヒー苦手だったけど
社会人になってから普通に食べれるようになったし、美味しいと思えるようになった。
挑戦することって大事だね。
喉越しを楽しむものらしいけど怖くてグビグビいけないのが問題だと思ってる。
●「セブンイレブン大概なんでもウマい!(幸せ) 少ない!(悲しみ) 」
⇒わかるww
●「 ほんとに最下層の舌のやつに高くてうまいもん食わせると、変な味っていうことがある。数万のディナーと最新コンビニお菓子、両方美味しく感じられるのが幸せ。 」
⇒あー、私はそこまでの最下層では無かったということかな。
●「ウチの家内食はカチカチに乾燥して冷え切ったご飯とか、冷凍庫で何日も保存したご飯に、おかずは納豆だけとか出てくるので、我が舌を持ってしてもまったくもってフォロー不可能な地獄。」
冷凍3日くらいは美味しく食べれると思うんだけど、何日目なんだろう?
●「そんな幸せ物の増田が意識他界ラーメンを食べたときの感想をコウカイしてみてほしいの。 」
⇒読み返して誤字に気づいて修正しちゃった!ごめんね!
東京にあったりするかな?あるなら行ってみようと思う。
●「何でもかんでも不味いで済ませる貧相な語彙のほうが問題だよな 」
⇒まぁ、そうだよね。
●「美味しい物を食べる=幸せ、ってのはテレビの洗脳だよ。味よりも健康な体を維持する方が重要。 」
⇒そうかな? 美味しいものを食べているときに幸せな気持ちになったりしない?
●「分かる!そんな私の口ぐせは「普通に美味い」 」⇒わかる。
●「高いものしか美味しく感じられない人の方が偉そうにしてるよね。 」⇒わかる。
●「たまに一人で牛丼屋に行くのが幸せな私が通りますよ。目当ては松屋のネギ玉牛めしかカレーである。」
⇒美味しいやつや…
●「チェーン店の味噌汁って味を誤魔化すために馬鹿みたいにしょっぱくしてるんで、あれが美味いと感じるなら高血圧に注意した方がいいと思うよ。 」
●「強いて不便なことは、あそこは美味い、ここは不味いって話題に乗れないことか 」
⇒「ここは不味い」っていう話には参加しないなぁ。
●「土の味のオランジーナとはなんだったのか 」⇒なんだったんだろう。飲む前に砂ペロってしたかな?
●「私は違いがわからないくて、ちょっと寂しい。 」⇒区別がはっきりしている人とご飯食べに行くと良く分かるよ!
●「幸福のしきい値を低くすると世界に『幸福を感じることが出来る物』が増えるので幸せになりやすいと思う。」
⇒それね。みんな小さな幸せを見ようともしないのよ。そもそも食べれることが幸せ。
●「こういうのが洗脳なんだろうな 安いもので済ませるってのは本来経済的に安価にみえる牛丼やカップ麺食う事(実は高い)じゃなくて、面倒だが素材買って家で作って食べることだからな 」
⇒洗脳? 安いもので済ませる=チェーン店に行く ってことはしてないよ!
基本自炊だよ~
●「味覚の主な役目は「飲み込むとヤバげな毒物」の検出で、美味いもん検出じゃないからな…。食うと美味いもの検出は視覚と嗅覚の役目。人間は視覚全振り生物なので結局見た目重要。 」
⇒だよね~! 見た目の美意識が高いのかな?
●「うんうん、馬鹿にしてくるやつは幸せになってる奴を妬んでるんだよ?。 」
⇒馬鹿舌って言われても気にならない! そう言ってくる人より幸せな自信あるよ!
●「なら、本当においしいものを食べるともっと幸せになれる。他人の財布なら余計に。 」
⇒もう、何倍にもなって美味しいよね。もう幸せすぎてほっぺた落ちるよね。
●「好き/嫌いでなく、おいしい/まずいという客観的な判断が下せる人ってすごいと思う。自分が好きな味でも「おいしい」という絶対的な判断を下す自身がオレにはない 」
⇒「(自分的には)おいしい」で良いんじゃないかな? そもそも、そういう味覚判断って客観的なもの?
人に対して「美味しいよ!」とは自信をもったものしか薦めないし。
長くなりすぎちゃった。
朝に弱過ぎる私の半生について語りたい。
幼稚園時代
朝に弱い傾向は覚えてないが、この頃から超面倒臭がり屋。
確か、年長くらいまで母に着替えさせてもらっていたと思う。
母に、「こんな年になってお母さんに着替えさせてもらってるのなんてあなたくらいよ」と言われるけど、平均的な園児の平均的な着替えのスピードなどは分からない。
小学校時代
基本的に間に合わない、起きれない。
小学1年生頃くらいまではまだちゃんと登校班に間に合うように行っていた気がするが、学校が好きではない事もあり、徐々に「登校」に燃え尽きていく。小学6年生になる頃には、半分以上登校班に間に合わなかった。そういう時は、1人で走って学校へ行った。夏休みの朝のラジオ体操は、2回くらいしか行ったことがない。毎日行っていたという人がいるが、私とは全く別の種の人間だと思う。
中学校時代
ギリギリ登校。遅刻をする人がクラスメイトから悪口言われているのを見て、頑張って登校するが、やはりギリギリ。早く起きれないから、女子で仲良く登校しているグループに入れなかった。
無理やり身体を起こして、半分寝ぼけたような顔で学校に来るから、よく笑われた。髪とかも、ボサボサでみっともない事が多かったと思う。体力がなくて部活は辞めてしまった。夏休み、冬休みの部活の練習も、行く気になれなかった。中3になり、受験で塾に行くが、せっかく授業料払っているのに疲れて寝てしまう。勉強したいのに、身体がついていかない。ここら辺から、学校に行けないことが増えて行く。遅刻も増える。このあたりでうつ病っぽくなってしまった。志望校には受かったものの、おそらくこの時期に大きく心と身体を損ねてしまったと思う。
高校時代
眠い。授業に全く集中できなくなった。登校は、良くてギリギリでほぼ毎日遅刻。遅刻する自分が嫌で、遅刻する事に何か言われるのも嫌で、自己嫌悪もひどくなっていくし、登校日数すら危うい。学校生活に支障を来していたので、この頃から心療内科に通う。夜眠れる薬をもらったが、効きすぎて翌日さらに眠かったり、元気を出す薬も効きすぎて躁転したりした。本で発達障害のことを読んで、私はADHDではないかと医者に言ってみたら、やはりADHDだった。しかし、当時はリタリンが規制されてしまった時期で、ADHDの私の症状に処方する薬はなかった。
死にそうになりながら、受験シーズンがきて、やはり塾に通う。先延ばし傾向の強い自分は、塾に行かなければ勉強しないと思った。しかし、やはり言われたことをできない。夏期講習も、参加して勉強したいのに、起きれない。勉強のできる男子が、私のことを批判して、本当に辛かった。詳しくは書かないが、彼の言動は何年もトラウマになり、私を苦しめた。結局学校自体の成績も悪く、偏差値も伸びず、私は浪人してしまった。
浪人時代
再び、眠い。勉強しようにも、様々なトラウマが蘇る。しかし、週2で予備校に通っていたものの、週5回毎朝起きて、学校に通うという習慣がなくなったのは良かった。予備校は夕方だったから。元々面倒くさがりな私が浪人で勉強するわけもなく、よくネットをやっていたので、家族からも批判された。しかし、座ることさえ苦痛になった私が、せめて熱中できるのが、ネットと本だった。
英語の音読はとりあえずやっていたが、私が早稲田や慶応、マーチにも受からないことは明らかだった。そもそも、この状態では社会人にとしてやっていけるかさえ危うい。「社会人になったら大変だよ」「社会に出たらそんな事は許されない」みんな言う。今でさえ大変なのに、これからもっと大変なのか。私は、本を読んだり、知識を頭に入れることが好きだ。だから、大学には行きたい。しかし、その先、働いたとしても、上手くいかないのではないか。
いつでもベットと本があった浪人生活。こんな風に、生きていけたらなあ。
昔は大学を卒業して無職で家にいる女性は「家事手伝い」と呼ばれ、それなりにいたらしいが、今の世の中だとそれでは「ニート」だし、聞こえも悪い。家族も私の将来を心配するだろう。
もう一つ、大学卒業後「家でゆっくりする」生活を手に入れるとしたら、それは専業主婦になることだ。そして当時、婚活、という言葉が流行り始めた。結婚できない女性が増えているらしい。そして、奥さんが専業主婦できるくらいの年収の男性も減っているらしい。ならば、早いうちに準備しなければ。稼げて、かつ、生涯を共にしてもいいと思えるほど愛せる人など、きっと何年かに一度しか会えない。私は、こんな私をバカにし、理解しない家族や、嫌な思い出のつまった家を早く出たい。新しい家族が欲しい。幸い、私はまだ若く、容姿も良い。私の最大の武器。
志望校は、早稲田や慶応も受けたが、もちろん撃沈し、あとは男ウケの良さそうな女子大を受けて、その中の一つに合格する。この頃から婚活を意識して志望校を選んでいた。(本当は高学歴の学校に受かるのが一番良い。優秀な男にたくさん出会えるから。)
受かった女子大は家から遠く、やはり朝がキツかった。2限より前の授業に遅刻せずにいけたことなんて、数えるほどしかないと思う。お嬢様で育ちの良い女子大生たちは、ほとんど授業をサボらず、皆真面目だった。服も髪もメイクも、本当にみんな綺麗。その中で遅刻しがちで、寝ぼけた顔で大学に行くのが嫌だった。相変わらず、どうしようもなく朝が苦手だった。もう、遅刻することとか、何か色々言われるのが嫌で、大学ではほとんど友達を作らなかった。
サークルには入った。音楽が好きなので、軽音サークルでボーカルとギターをやった。先輩になってくると、バンドを組んで、バンドリーダーという立場にもなった。歌とギターが上手くなりたくて色々頑張ったこと、人前で大きな声で歌ったこと、ギターソロができるようになったことは自分の中で大きなプラスの経験になった。ここで、念願の優秀な彼氏もできた。男子校育ちでモサかったので、そこは私が磨いた。彼氏にもメンタル的に支えてもらい、いろんな事に挑戦するようになった。飲食店のバイト。ギターを習う。ボランティア。読書会。浪人してしまったが、やはり大学には行って本当に良かったと思った。
就活
大学3年生の終わり、就活の時期がやってくる。ここでまた、私の朝の弱さと先延ばし傾向が炸裂した。
まず、ESが書けない。面倒くさい。要領の良い人は、「一応受けとく」レベルの会社でも、さーっと書いてさっと出す。私は、書けない。やりたくない。夜、書こうと思ってPC開いたは良いものの、書きたくなさすぎて朝になる。会社説明会は4割くらい遅刻。自己嫌悪で自信がなくなり、また受からなくなる、できなくなる。
結婚の話もちょくちょく出ていた彼氏は、やはり私が就職しない、というのは嫌らしい。旦那の親から見ても、優秀な息子の彼女が就職できず無職というのは、今の時代恥ずかしいのではないか。優秀な彼氏にふさわしい妻になる彼女として、どうしてもどこかに内定をもらい、就職しなくてはいけない。
自分が、社会に対して何ができるのか。今まで、私が褒められた事を思い出す。私は容姿が良く、友達は少ないものの、コミュ力には問題ない。元気で礼儀正しいと言われたこともある。ブラック低賃金と名高いが、販売職で明るく物を売ることならばできるのではないか。椅子に座ることが苦手だから、事務職は視野に入れなかった。
確かに、彼氏もこの世の中、彼女が一度も社会人経験なく専業主婦になる、というのも不安だろう。ある程度社会を知ってから結婚した方が良さそうだ。
最後の方は一ヶ月に一回、会社を受けるというペースで、私はなんとか販売職に内定をもらった。
販売職時代
数年前炎上したブログに、「社会の底辺の人とは関わってはいけません」https://ameblo.jp/akky-0829/entry-12188216276.htmlというのがあったけど、販売職はまさにこういう世界だった。いや、このブログはさすがに極端すぎるけど、残念ながら、大方賛同できてしまう。私はここで、巷で噂される「若くて可愛い子に嫉妬して悪口を言うおばさん」を初めてみた。一日中、イライラしている大人を初めて見た。それでも、人が足りないからと言う理由で彼らは雇われているのである。私は遅番が多く、昼から出勤が多かったから、朝の弱さは軽減された。しかし、基本的にギリギリ出勤ではあった。基本、先輩よりも遅く来た。出勤が昼とはいえ、30分も早く売り場にいることが生理的に無理だった。ある日、私の評価をつける人が、「店の準備」の評価項目にCをつけた。毎日商品の埃を払ってフロスなどを熱心にかけているのに、なぜここがCなのか。上司に聞いてみると、ギリギリ出勤だからだと言う。おいおい、そういう準備も、規定の就業時間の中に入っているんじゃないのか。ギリギリでも、時間内に来てるんだから、せめてBでしょ。会社に、強く不審感を抱いた。
一方で、私は働く楽しさも感じていた。私は、よく売れる販売員となったからだ。それは、私の容姿や愛嬌、コミュ力のおかげだ。また、商品提案のための勉強も進んでした。そして、若い私は男性社員からも気に入られた。しかしそこがまた、先輩から気に入られなかった要因でもあった。いじりとしても、先輩からのキツイ言動が増えた。その頃からまた、私は心療内科に通うようになった。当初の予定通り、専業主婦になって辞めればよかったが、人手不足の中、辞めて良いものかわからなくなっていた。まだ若い私は、色々なことが経験不足で、判断がつかなかった。
色々あって、ああ、もう、キツイなと思った時、退職を考えた。このころあたりに、結婚した。職場に行くのもキツくなったときに、休職し、傷病手当をもらって辞めた。旦那に養われながら、傷病手当をもらいながら、ゆっくり休むことにした。この頃、ストレスでガリガリになっていたが、念願の専業主婦になる夢がやっと叶った。
専業主婦時代
本を読む。RPGのゲームをする。ジムに行って、身体を鍛える。ギターを弾く。散歩する。
ささやかな、やりたいことを色々やった。この頃あった友人に、「なんか綺麗になったね」と言われた。
しかし、念願の専業主婦になったにも関わらず、私の中にはある思いがあった。
「このまま、20代半ばにして専業主婦で過ごしていて良いものか」
他の同年代はみんな働いている。そして、私はどうも、仕事ができない方じゃない。子供を産んだら、子育て中心の人生だ。それで良いのか。私は、働けばお金になるのに。
そこで、転職活動を始めた。しかし、職歴販売職のみ20代半ば既婚、いつ妊娠するか分からない私はなかなか良い職に受からない。しかもここでまた朝弱いが発動、面接もしばしば遅刻してしまう。
やっぱり私はダメなのかな。
そう思った矢先、親戚の保険のおばちゃんに声を掛けられた。正直、保険の営業に良いイメージはなかったので断った。しかし、給料も販売よりずっとよく、女性が働きやすい環境で、福利厚生もしっかりしているという。とりあえず、面接だけは受けてみないか。そう言われ、とりあえずで受けに行くと、トントン拍子で面接が進み、あっさり合格。保険の営業には抵抗があったが、他に受けた企業よりは条件が非常によかったため、挑戦してみることにした。
保険屋時代
最初は、毎日16時帰りで研修をした。保険についての授業を受ける。保険を売るための試験に受かったら(みんな受かる)いよいよ営業活動である。
相変わらずのギリギリ出勤だが、このころ、やっと安定して朝9時の出勤時間に間に合うようになる。20代も後半に差し掛かり、やっと。
しかし、本格的に営業が始まると、やはり体力的にキツかった。荷物も重い。大抵の保険屋の女の人は、バッグを二つ持っている。一つは財布やポーチなどを入れるバッグ、一つは資料やお客様の提案書など、書類を入れるバッグだ。自分が保険屋になると、他の保険屋が分かるようになる。保険屋さんって、いっぱいいるんだなあ。
1週間のうち1日は、出勤だけして、疲れて何もできない日があった。そう言う時は、カフェや図書館で時間を潰して、適当に報告書を書いて一日が終わった。情けないけど、この一日があったから、私は今まで続けられたと思っている。
数字の方だが、私は順調な方であった。しかし、その順調な数字も、多少無理して働いた結果であった。週1日は休む日を作っているとはいえ、疲労でキツイ日も多かった。それでも、1年は続けようと思った。保険営業でやっていけたら、他のこと何でもできるような気がした。自信がつくと思った。確かに1年は、私は頑張った。しかし、段々とまた、身体が弱っていった。風邪を引きやすくなったり、頭痛や腹痛も増えた。
私は愛嬌で保険を売っていたと思う。愛嬌で近づき、仲良くなり、アポをとり、上司が提案する。しかし保険の知識があるかと言われると、あんまりだ。形が見えない商品は、イメージがしづらく、正直あんまり興味が持てない。飛び込みも、営業先の企業で知らない人を呼び止め名前と生年月日聞くのもキツくなってきた。
この仕事を続けて2年。同じ時期に入った同僚が半分以下になる中、私はよく頑張ったと思う。
最近は会社も休みがちになってしまい、今日も会社を休んでこの増田を書いていた。
私が今、会社を休みがちになってしまったのは、朝弱いにも関わらず、無理矢理にでも9時に出勤し続ける生活をして、また壊れかけてしまったのだろうなと思っている。
私はいつだって、他の人とは違うと言うコンプレックスに苛まされていた。普通になりたい、普通になりたいともがき続けた。一日中、寝っ転がって本を読むような生活だってしたかった。でも、誰かの役にも立ちたかった。いろんな思いがグルグル回って、色々やり続けた。
私は今、27歳。昔よりは色々落ち着いて、大人になった。自分のこともよく分かった。
ひとつ、これはもう辞めようと思ったことがある。それは、週5のフルタイム労働だ。体力的にキツイし、学校でも、会社でも、週5で何かして良い結果を残したものはない。幸い、旦那が高収入だから、基本的には週5でフルタイムで働くことはなさそうだ。しかし、人生何があるか分からないから、お金を稼ぐ手段は手に入れたいと思っている。
いや、それにしても、私は生きてきた。思うに、色々やっていれば、人の能力は年々高まって行くものらしい。朝9時出勤も、ずいぶんできるようになったし、寝つきの悪さもかなり改善した。仕事終わりにササっと美味しい手料理を作り上げた日など、旦那からはあまりの変わりように「お前は誰だ」と言われたものだ。
欠点があっても何とか色々頑張ろうとがむしゃらに生きた結果、今があるのだと思う。
誰がこの増田を読んでいるか分からないけど、読んでくれた人、ありがとう。
【追記】
書いた当初、自分としては力作に関わらずあんまり反応がなかったので、残念な気持ちになっていたのですが、昨日夜見たら色々反応があって嬉しかったです。
反応をいただくのは何でも嬉しいですが、「読んでよかった」「人の半生は面白い」「頑張ったね」などの言葉は特に嬉しかったです。
ありがとうございます。普通の人が普通にやっている事が私にはとても辛く、例えできたとしても世間では「当たり前」ですから、自分が頑張っていることが認められていない気がしていたのです。本当に、ありがとうございます。
・元増田が能力が高い、勝ち組、若くて容姿の良い女はイージーモードだと言う声について
まずは、ご意見ありがとうございます。
あの記事は、また会社を休みがちになってしまい内面的にもグダグダになり、誰かに自分がADHDであり、朝が弱く、辛い人生を送ってきたと言うことを誰かに急に吐き出したくなり、衝動的に書いてしまったものです。
匿名ダイアリーだからこそ、自分は実は発達障害で〜などと秘密にしていることも話せるように、「私は若くて容姿が良い」など、現実世界ではちょっと言えないようなことも吐き出すことができます。普段人に言えないようなことがかけるからこそ、魂の叫びのような記事を読めるのも、増田の醍醐味だと思います。
知り合いには誰にも見せない日記だから、私の良いところも、悪いところも正直に書きました。日本は謙遜する文化だから、はっきりと「私は容姿が良い」などかくと、自慢に聞こえてしまったかもしれませんが、私の人生を語る上で、これは重要なファクターでした。
正直、私は発達障害者にしては恵まれている方だと思います。しかし、これはあくまで「発達障害の中では」と言う話であり、やはり人一倍辛い人生を送ってきました。
この記事のコメントにも死にたい、とありましたが、死にたい、と思って死ねる人なんてほぼいないと思うのです。私は小学校低学年の時から死にたかったですが、結局、人間苦しくてもよっぽどのことがあっても死ねないのです。死ねなかったら、生きるしかないじゃないですか。それも、なるべく苦しくないように。
だから、私は自分が持っているものを、最大限使おうと思いました。その事実を書きました。
自慢したかったのではなくて、「そうやって生きてきた」と言いたかったのです。
あと、ちなみにイージーモードではありません。
それに、遅刻はするわ色々ミスするわなのに、「可愛いから」もしくは「イケメンだから」という理由でモテてたり、かわいがられる同性の同僚がいたら、ちょっと嫌じゃないですか?なんか悪口言いたくなりませんか?私だって、そんな人が周りにいたら、少し黒い感情が湧きます。容姿の良さが仇となることもあるのです。
血圧は十代のころから低めでしたが、目立って低い訳ではありませんでした。
大人になって、疲れやすいと言うことで甲状腺の病気を疑い、検査したりしたのですが、結果は到って健康でした。正直、体のどこも悪くないのです。
むしろ今の会社の上司が、女性の営業職10年と言うことでかなりバリバリ働く人なのですが、健康診断の数値で低血圧で引っかかっています。しかし、普通にバリバリ働いています。本人曰く「気合い」だそうです。体の色々な数値よりも、結局「気」と言いますか、生命エネルギーのようなものの方が大事そうです。私には、それが足りないようにも思います。
起立性調節障害については確かに、十代の頃、親が調べてくれればよかったな。。。肝心の母は私が朝全然起きれないことを母の母(つまりおばあちゃん)に愚痴ってた。。。私が発達障害な事もあんまり認められない感じだったし。父母共に優等生だった故か。もう過ぎた事だけど、書いてて悲しくなってきたわ。もうフルタイムでは働かないって決めたから、もう治療する気もないけど、子供の時に親がもっと色々やってくれればと言う思いは確かにある。学校が辛くても、せめて家庭だけでも私を受け入れてくれたら。子供の時の記憶は、悲しい事ばかりです。
・朝の時間を守ることを以上に重要視するせいで道を踏み外す人が結構いると思う
私もそう思います。そもそも人には色々リズムがある訳で、全員朝9時出勤と言うのも無理があると言うのも同意です。遅刻する人に対する嫌悪も、「自分は周りに合わせてこの時間に来ているのにお前はゆっくりしやがって」という嫉妬なのかもしれません。
あと、大学の授業でやったのですが、日本人はとても均等性を重視するのだそうです。なので、その観点からも、遅刻をする人は「均等を乱す」ため、好かれないのもしれません。
・朝起きれないのは自己肯定感の低さが原因だった
自己肯定感が低いと、全てにおいてレベルが下がりますよね・・・私も、旦那と暮らしてから急速に成長したように思います。これから私はしばらく子供も作らず好きに生きる予定ですが、それは自分の自己肯定感を上げるために、必要な期間であるように思います。
・小規模な会社なら増田の働けるところがあるかも
そうですね・・しかし、周りの人たちに聞きますと、大企業より中小企業の方がブラックなところが多いようで、就職先として探すのは尻込みしてしまいます。コメントをくれた方は人を雇う立場なんてすごいですね。何かのご縁があり、あなたのように寛容な人の元で何かしら活躍できればそれはとても素晴らしいことだと思います。
09:30
今朝起きたらまた鮮血のおしるしが出ていた。
前駆陣痛も続いていたから、「がんばっていたんだね。残りはお母さんやみんなでサポートするからね」という気持ちで家を出発。
快晴でとてもいい日。
10:00
到着後の内診でかなり子宮口を強くかき回して刺激され、その刺激で破水。
周りのスタッフさんが若干わたわたする中当人は「ああ、これが破水なんだ……」と思っていた。
そこから、部屋に移動して促進剤投与を始めた。
促進剤は、それによって産まれる、という効能ではなく、子宮を柔らかくして子宮口を緩めてそこから陣痛を呼び込むためのものだそうで、20からstart、120まで上げても進まない人もいるよー、と。
とにかく無事に産まれられれば、と、「何でもいいからお産に繋がりますように」という気持ちでどんどん追加されていく促進剤の値を見ながら過ごしていた。
11:00
胎児の心拍が落ちることが何度かあり、酸素マスクをつけて深呼吸をする時はさすがに緊張した。
でもまた数値が戻ったのを見て安心して「私がリラックスしなきゃ子宮も柔らかくならない」と過ごしていた。
15:00
100あたりまでは前駆陣痛の痛みとあまり変わらなかったけど、そこからは前駆陣痛は越えた痛みが始まった。
17:00
看護師さんに「今日は一旦終わりにして様子を見て明日またやって、経過によっては帝王切開で産んであげることになるかもね」と言われて投与は一旦stopした。
投与してもあまり変わらず、「私が堅いことで子宮口が開かないんだ」「私がリラックスできないから入院の日が増えてお金をかけさせてしまうんだ」と「私のせいだ」の思考が一時止まらなくなって涙が出た。
胎児の心拍が落ちること、胎便が羊水にかなり混じっていること、心拍が急に上がること、陣痛がこないこと、いろんな焦りや不安に対して「母の私が◯◯しないからだ」という思考が出てしまったけど、そんな中でも夫が一緒にいて笑ってくれていることに本当に救われて、いろんな不安もあったけれど1日過ごすことができた。
20:00
母が夫を迎えにきて帰宅。体勢変えたりしながら、落ち着いてから21時過ぎに寝る体勢に。
21:08
何人も看護師さんが入ってきて再度酸素マスクをつけ、内診をしてもらい、「もう赤ちゃんの負担が大きい」ということで、クリニックの先生にも診てもらった上で、緊急帝王切開をして胎児を出してあげることに。
21:32
酸素マスクをつけて深呼吸をして「帝王切開になります、急いでパパを呼んで」と言われ、さすがに焦りすぐさま夫に電話をして来てもらい。
色々なリスクの説明も受けたが、もう皆どうでもよくて、ただただ「無事に産まれられればそれ以外は私の子宮やら体やら命やらどうなってもいいから」という気持ちで、早く外に出してあげてほしくて、急ぎ足でope室に入って横になった。
22:00
何かの数値に対して先生やスタッフの方々が緊張した面持ちで観察して指示を出したり動いたりしていたが、あれはなんだったんだろう。
バタバタが続いてすぐには開始しないことに不安を感じつつ、その間に落ち着いて来て「もうすぐ会えるんだ」「やっと会える、がんばろうね、大丈夫だよ」と幸せな気持ちが高まり、ope開始後も私はずっと笑顔で耳を澄ませ。
麻酔が効いてくると血圧の変化によるのか、頭もぼーっとしてきた。目を瞑ることに吸い込まれるような。
コッヘル、クーパー、などの機械出しの指示でなんとなく何を切開しているのか把握しつつ、足から胸にかけての感覚はもうないのに何か自分の中を弄られているような感触に奇怪な感じを抱きつつ。
22:57
胎児を取り出す時になると胴体を中から大きく揺さぶられ(感覚はないけど子宮を直接揺らされているのはすごくわかった)、少し泣き声が聞こえたのと同時に「おめでとうございます〜!男の子ですよ!」と。
その瞬間ザーッと涙が出そうになったものの、最初の一瞬の後に全く泣き声が続かないので瞬時に不安感に襲われ、産まれた喜びを味わいつつもそれだけの気持ちは束の間、取り上げられてもしばらく泣かない赤ちゃんが心配で気が気でなくなった。
自分からは布で隠れて見えないけど、向こう側で明らかにスタッフさんたちが焦って赤ちゃんの背中を叩いて刺激していたり懸命に気管内の吸引をしていたりしている。
先生も、取り上げた後はすぐに私の縫合に取り掛かりつつも、赤ちゃんを見て緊迫した声色と口調で指示を続ける。
「サチュレーション反応しません」「小さい方に切り替えて」「小さい方反応ありました」「こっちはどう!?」「◯◯じゃないよ、そっちを◯◯して」「◯◯さんこっちきて!」と何人ものスタッフさんが赤ちゃんの方から私の頭上まで動き回る。その間も赤ちゃんは泣き声ほとんどなく、たまに「ふぇっ」と聞こえるか聞こえないかくらい。
赤ちゃんが泣かない。泣かない=呼吸ができない。呼吸ができない=酸素がいかない。酸素がいかない=死んでしまう。
一瞬でそんな考えが脳内を駆け巡り、「私はお腹開いた母でも放っておいていいからみんな赤ちゃんを早く助けて下さい!」と叫びたい気持ちを抑えながらこわくて仕方がなくて、「赤ちゃんは大丈夫ですか」と何度か聞いた以外ただただその場を見守っていた。
そのうちになんだか意識が遠のいていくような感覚から強い吐き気が出て何度か嘔吐し、そこからは遠目に赤ちゃんの様子を見つつぼーっと手術の終わりを待つしかなかった。
私の腹部縫合中、赤ちゃんの泣き声が聞こえない時間。きっと数十分あったかなかったかくらいだったろうけれど、この時間がこの1日の中で一番長く感じられた。私には何時間も縫合されているように感じられた。
私の腹部縫合が全て終わり、ope室を出る時にスタッフさんがぱっと赤ちゃんのお顔を私の方に向けて見せてくれた。
むちむちでまあるくて髪がフサフサでかわいい。濃い顔じゃなくて私似?なんて思いながらope室を離れる。
外では夫と母が待っていたけど、熱発もあったからかとにかく頭がぼーっとして「目を閉じたい、でも赤ちゃんが気がかりだ、でも目を開けていられない」というぼやけた意識で過ごしていた。
時系列はきちんと記憶できてないが、部屋に戻ってから夫と母が荷物を運びつつ座っていてくれて、赤ちゃんの顔の話などをした気がする。
自分で何を話したかよくて思い出せないけど、夫が深く呼吸して緊張していたことはすごく覚えている。
今思うと、私は赤ちゃんのことも考えつつ意識がぼやけていたので、その場を冷静に見れていた夫は本当に不安だっただろう。
術後は姿勢の不快さが強く、度々左右に体位交換をしてもらった。
赤ちゃんを救急搬送することに決まったと先生から話を受け、夫たちは救急車より早く出て向かってあちらで対応すると。
お腹を切った身と言えど、この状況で動けず何もできずに横になっているのが悔しかった。
無駄だとは分かりながらも、麻酔で動かない・司令の伝わらない脚先を動かそうと何度もやってみたけど全く足は動かなかった。私の分まで夫に託して手を握ってお願いした。
夫と母を見送ったら一気に意識が遠のいて来て、そのあとまた夫が来たような来なかったような……
そんな中、救急車に赤ちゃんを乗せる直前に助産師さん(看護師さん?)が赤ちゃんを抱っこして私に会わせに来てくれた。
移動前に目の前で会えるなんて思ってもいなかったから歓喜して一瞬で意識が戻り、赤ちゃんをぎゅっとしてちゅーして「がんばろうね!」とほっぺを撫でて送り出した。
涙が止まらなかった。
24:30
サイレンの音の位置が赤ちゃんと私の距離を表しているから、サイレンが遠のいていくと赤ちゃんとの距離を感じて、ただただ「がんばれ!お父さんもお母さんもいるからね」と祈ることしかできなかった。
25:00
その後また意識がぼーっとして、何度か看護師さんが巡回に来てくれたのもあまり覚えていない……
2時台にiPhoneが遠くに移されたのでLINEを確認できずそわそわ。
体位交換をお願いしたりしながらいつの間にか寝ていた。2時間ほど寝ただろうか。
起きてから夫からのLINEに気づき、赤ちゃんが無事なことを確認して本当にほっとした。
こんなに遅くまで夫と母が対応してくれているとは。本当におつかれさま、ありがとう、それしか出て来なかった。
夫から送られて来た赤ちゃんの写真がかわいすぎて、うるうるしながらしばらくずっと見ていた。
かわいすぎていくら見ても見飽きない。早速待ち受け画面に設定した。
夫がもう帰路にあると分かって安心して私もまた休憩。
でも頭が冴えてしまってもう眠れず……
29:00
巡回の夜勤の看護師さん&助産師さん達が検温や創部の観察をしに来つつ何度も話しかけてくれて、明るく笑わせてくれて元気付けてくれた。
もう麻酔は切れていたので、「どんどん回復して赤ちゃんに会いに行こう!」と勝手にベッド上でリハビリ開始。足の指先から、体幹部から、痛み・貧血・血圧を観察しながら進めた。
外が明るくなって落ち着いて来ると、赤ちゃんが無事に産まれてきたことの安堵感、今生きているのかどうかという不安感が一気に現実味を帯びて心に流れて来て、赤ちゃんの写真を見ながら唇を噛み締めて泣いていた。
それに気づいた看護師さんが私のそばに寄り添ってくれ、スタッフのみなさんが赤ちゃんをその後も気にかけてくれていたこと、その方もお子さんが苦しい状態で産まれて来たこと、昨夜赤ちゃんの直後にもう一人赤ちゃんが病院で産まれて、そのあと陣痛の人が来て不思議とお産が重なったことなどを明るく優しく温かく話してくれた。
「泣きたい時は泣いていいんだから。心配だよね、泣いていいんだよ。」と言ってくれて一気に号泣して、話をして落ち着いた。
日勤に交代する時間帯、夜勤の助産師さんが何人か来てくれて赤ちゃんの写真を見て「母そっくりよね!」「かわいい〜❤️」「がんばるしかないね、赤ちゃんくん!」と声をかけてくれた。それと一緒に絶対安心する温かい言葉もかけてくれる。その度にうるんでしまった。
私は術後あまり痛みを感じず動くのが得意なようで、夜中に自分でクッションを動かして体位交換したり足を動かす練習を始めたりしているのを褒められた。
どんどん動いて行くぞ。
https://anond.hatelabo.jp/20171121162134の増田です。
嫁も出産当日(大半は思い起こしながら翌日)に日記を残していたとのことで。