はてなキーワード: 物心とは
アラサーが近づいてきて、というかもう完全にアラサーになってしまい、そうすると同年代がちょいちょいガキをこさえてたりするんだけど、そのガキの写真とか見せられても、心がまったく動かなくてワロタ
例えるなら、「その辺にいくらでもあるような、なんの特徴もない山(標高100mとか)の写真」「オレンジ色のチリトリの写真」「トランプのハートの4の写真」こういうものを見せられたのと同じくらい、何も感じないんですよねえ
というか、むしろ、急に意味わかんねーチリトリの写真とか見せられた方が、えっなんなんスかこれ、どういう意図なんですか?!つって、楽しくコミュニケーションできそう
ガキの写真見て言えることって、「かわいいっすねえ!」「何歳でしたっけ?」「子育てってやっぱ大変でもあるんですか?」「保育園とかどこ行く予定なんですか?」「なんか習い事とか予定してるんですか?」
このくらいしかない
このくらいのカードをひとしきり切ったら、マジでもう、可愛いっすねえ連呼するしかない
おおー、いいっすねえ、程度で凌ぐこともある
ガキの写真見せてくるヤツのガキって大抵まだ物心ついてないくらいで、俺にとってそのくらいの年齢のガキって「器」でしかないんだよな
まだ何も入ってないじゃん
器は無理だ
いい器ですね、何を盛る予定なんですか、という話に持っていって、親の方の考えを聞くしかない
親の考えにも興味ねえけどよお!
水晶の洞窟の話とか、飛行機の形の都市・ブラジリアの話とか、巨大海洋生物の話とか、地底湖で死ぬことについてとか、ケムトレイルの話(俺は飛行機が出てくるホラーが好きです)とか、そういう話をしたいじゃん
いやまあ、ソーワットとか言い出すと、すべてソーワットなんですけどね
やっぱ子育てってあくまで当事者にとってだけシグニフィカンスが高いモンであって、部外者からしてみればホントーにマジでどうでもいいんだよな
俺はぜってえガキの話ばっかするマンにはならない
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外見上は幼い頃から世話を焼いていた教え子に殺された。
五条悟は「六眼」を持って産まれたため産まれた瞬間から特別だった。
その危険は五条悟自身に対しても、その周囲の人間に対しても及んでいたと推察される。
それゆえに五条悟は「大事なもの」を意図的に持たず、作らずいたのではないだろうか。
(夏油傑(本物)に関しては自分と同様「最強」なので、「親友」でいられたのではないか。)
呪術廻戦の公式ファンブックには、既婚者について作者である芥見下々氏が回答を載せているが、五条悟は既婚者に挙げられていない。
つまり、ジョジョのスピードワゴンと同じく、五条悟も生涯独身でこの世を去った。
五条悟が未婚だったのは呪術師ゆえの忙しさもあるだろうが、元担任である夜蛾正道はバツイチと婚姻歴があるため、それだけではないと思う。
前述した推察の「大事なもの」をあえて作らない、というところにあるのではないだろうか。
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突然だが、私は五条悟が好きだ。
だからこそ、今回の五条悟死亡を受けて、五条悟には普通の結婚をしてほしかったと強く思った。
家柄的にお見合いだったかもしれない。たまたま通っていたカフェの店員だっていい。
付き合って1年か2年くらいでプロポーズをして、チャペル併設の結婚式場で婚姻届出してから半年くらいで結婚式を挙げてほしい。
参列者には今まで担任してきた生徒たちを呼んで、元担任であり元上司である夜蛾正道(この世界線では生きている)が男泣きのスピーチをして、それを見て馬鹿笑いしていてほしい。
2年後くらいには子供を設けていてほしい。男の子でも女の子でも。
女の子だと扱いに慣れてなくて雑に扱って配偶者に怒られてほしい。
忙しさ故に配偶者ともめてしまって仲直りの方法を伊地知潔高に相談したりしてほしい。
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産まれたときから「特別」だったせいでずっと気を張っていただろう五条悟に普通の生活を経験してほしかった。
初めてちゃんと仲間と出会えた高専生時代でもたくさんの仲間の死を経験して、そこから「最強」になってしまった五条悟の人生に、普通のことを添えてほしかった。
30年にも満たない人生のほとんどを人のために過ごしてきた五条悟に自分のためだけの平凡な人生をすごしてほしかった。
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年をとり自分の両親が死んでしまった後に思うのは母のことばかりである。
大阪の四天王子高校を卒業して京大に進学してハワイへ留学後に大学を卒業。
2男1女を出産した。
どの息子も両親に及ばない学歴でぱっとしない。
勿論、就職先もぱっとしないw
そして、誰も結婚しなかった。いや、出来なった。
すくなくとも私が結婚できないのは女に騙されるようなちょろい男だからだろう。
母は
職場恋愛で結婚して寿退社して専業主婦となり家庭を支える母親となったわけだ。
父親は会社で部長まで出世したがその後、丸紅傘下の子会社に出向してサラリーマン人生を終える。
母親は父が無くなった数年後に認知症になり息子たちに老人ホームに入所させらてその生涯を終える。
いつも父親をたてて何かをするにも全て父親の許可がないとできないという家だった。
母親は結婚するまでに様々な 資格や礼儀作法、裁縫、着付け、日本舞踊、ピアノ等身につけていたのだが
結婚して育児と父親の世話に従事して、他の全てをやらなくなった。いや、父親がやらせなかったのではないかと今は疑ってる。
個人的には、凄く優秀だった母親なのに結婚して全てを失ったように感じるのだ。
私には京大なんて絶対いける気がしないし、丸紅入社も不可能だ。
あまりに哀れだ。
そんなことを思う。
年をとり自分の両親が死んでしまった後に思うのは母のことばかりである。
大阪の四天王子高校を卒業して京大に進学してハワイへ留学後に大学を卒業。
2男1女を出産した。
どの息子も両親に及ばない学歴でぱっとしない。
勿論、就職先もぱっとしないw
そして、誰も結婚しなかった。いや、出来なった。
すくなくとも私が結婚できないのは女に騙されるようなちょろい男だからだろう。
母は
職場恋愛で結構して寿退社して専業主婦となり家庭を支える母親となったわけだ。
父親は会社で部長まで出世したがその後、丸紅傘下の子会社に出向してサラリーマン人生を終える。
母親は父が無くなった数年後に認知症になり息子たちに老人ホームに入所させらてその生涯を終える。
いつも父親をたてて何かをするにも全て父親の許可がないとできないという家だった。
母親は結婚するまでに様々な 資格や礼儀作法、裁縫、着付け、日本舞踊、ピアノ等身につけていたのだが
結婚して育児と父親の世話に従事して、他の全てをやらなくなった。いや、父親がやらせなかったのではないかと今は疑ってる。
個人的には、凄く優秀だった母親なのに結婚して全てを失ったように感じるのだ。
私には京大なんて絶対いける気がしないし、丸紅入社も不可能だ。
あまりに哀れだ。
そんなことを思う。
オナラをするたび夫に「も~!汚い!」と言われる。
他人に屁をこかれるのも、他人の前で屁をこくのも嫌だけど、家族なら別によくない?というのが私の考え。自分の家でくらい自由にオナラをしたい。
人前でオナラをすべきではないことは物心ついた頃には理解していたし、両親は私に家の中では好き勝手屁をこかせてくれていた。
あまりにも豪快な屁を5連発くらいすると苦笑いされたが、過剰に反応されたことはなかった。私以外の家族も自由に屁をこいていた。
母はさすがに私ほど好き勝手ブゥブゥ言わせてなかったが、それでもぷすぅ~くらいの控えめな屁をしている姿はよく見かけた。父も兄弟も特に悪びれることなく気持ちよく放屁していた。犬も時々オナラをしてはその音に自分でびっくりしていた。猫はあんまりオナラをしなかった。
今の夫となる人と付き合い始めた頃、当然最初のうちはオナラなどしなかった。
彼も「君の前でオナラするの恥ずかしい…」と初心ぶって屁は控えていた。
まあそれも半年もしないうちに徐々に彼がオナラを解禁していったので、私もいいか~と自由放屁運動の流れに乗じた。
私は夫が目の前でオナラをしても特に反応はしない。とんでもなく臭ければ「臭い~!」と言ったりはするが、夫自身の方が「臭い臭い」と騒ぎ立てて換気したりする。
夫は自分のこく屁にもうるさいが、私がこく屁には毎回「もー!汚い!臭い~!」といちいち反応する。
屁というものはそんなに毎度毎度筆舌に尽くしがたいほど臭いわけではない。無臭の屁もあろう。大して臭くない時でも「汚い!」と騒ぐ。
私の下半身が分厚い布団に入っている状態で屁をこいて、ほとんど匂いは漏れてこないはずなのに、夫はわざっわざ距離を取ってあまつさえ扇風機までまわしはじめる。(夫は同じ布団には入っておらず隣にいるだけなので、布団の中で私の屁と同梱されているわけでもない)
夫も屁をするなと禁止してくるわけでもないし、怒るといってもおふざけ程度の言い方ではあるのだが、こうも毎回反応されると正直面倒くさい。屁だけに。
特大ホームランを放った時だけスクープしてくれればいいのに、バントでもいちいち号外を出されてる気分だ。野球知らんけど。
何故夫はここまで屁に過敏に反応するのかを知るべく、
夫の生家では家族の放屁活動はどのように行われていたのかを聞いた。
父親と夫は自由にオナラをしていたが母親と妹の放屁音は聞いたことがないという。また、父親や夫がオナラをするたび母親に注意されたらしい。
放屁の自由がない家庭で育ったがために夫は屁に不寛容になり過敏に反応するわけだ。
夫自身も母親に注意されるたび、「オナラくらいで」と思っていたのに、いざ自分で家庭を築き、そこに屁を取り締まる人物がいないと不安になってしまっての放屁注意委員会だったと言うわけか。そう言えば私も「鏡は表向きに放置してはいけない!」と実家で母に注意されるたびめんどくせぇ〜と思っていたが、実家を出てからは自主的に鏡は裏向きに置くよう心がけるようになったな。
更には夫の生家では女性で屁をする者はいないため、私に強く当たっているというのもあるのだろう。
だからこそ私は強く、自分の家庭内での男女放屁均衡法を訴えていく決意をした。
皆さんはご家庭でどのように屁をしてお過ごしでしょうか。
一時期離れたことはありつつも、物心ついた時からジャニーズのアイドルが大好きで、いい大人になった今もたくさん元気と癒しを頂いている身としては、現状とても不安
SNSはリアルな友達や知り合いもいるので、ポジティブな投稿を心がけてるが、ここでは不安な気持ちを吐露させてくれ。
既に何社かCMの契約を打ち切ると表明したり、マスコミや一部海外メディアがこぞって事務所を、タレントを叩き出して、手の平返し本当に恐い。
ジャニー喜多川氏がしたことは犯罪で、許されることではないけれど、それに対する補償を求めるなら、きちんと司法の場で審議されるべきではないかと。
そして、所属タレントが矢面に立たされてつらい思いをしなきゃいけないのが心苦しい。ワイドショーに出演すれば、何かコメントをしなければいけないし、触れなければそれも叩かれる。
まず最初に謝っておくとあんまり某事務所関係ない、個人の感情の吐き捨て場です
釣られた人はごめんな、他に良い言い方思いつかなくて…
要約するとクソみたいな自分語り
しかもリアル知人の誰にも言えね〜って感情を吐いてるだけなので支離滅裂だと思う、その上長い。読みにくくってごめんな
最近巷で話題の某芸能事務所の元社長(故人)が少年にセクハラ、というよりかは性的暴行を加えてたって話
私は小学一年生の頃にFF7の主人公、クラウド・ストライフに初恋を奪われてっきり
専ら2次元の美形に首ったけだった人間なので、ファンでも何でもなく
正直ゴシップ記事でそういう噂をよく聞くよね〜くらいの認識だった
性的暴行があったと一人の勇気あるタレントさんが告白して、ニュースが騒ぎ立て始めた位の時も私はまだ何処か他人事というか
事実だったら余りに酷い、大人が子供にしていいことじゃないだろ…とか、いい年にした大人の正常な感覚として思ってたけど
けどそんな酷いことする大人がいるのね、あんまりだねってニュースやネット記事が目に入るうち、本当に突然フッと思い出した。
私も子供の頃に大人に性的なことされていた、そのうえ相手は実父だった。
正確には忘れてなかったので思い出したというよりかは「あれはそうだったのでは??」という気づきを得た。
幸いにもと言っていいのか、私が受けた被害というのはそこまで深刻ではなかった
いやこういう事に深刻じゃないも何もないけど、所謂最後まで、というのは思い出す限りされてないし男性器をどうこうしろみたいなのも無かったと思う
ただ身体を触られてた、もっと正確に言うならお尻と性器を重点的に撫で回されてた。
親子なのだし、微笑ましいコミュニケーションの一環として子供の頃に一緒にお風呂に入るというのは割と一般的だと思う、その際に身体を洗ってもらうのも。
あと遊んでる最中に頭を撫でられたり抱き上げてもらったり。
私にも父とそうした記憶がある。
そういうことの延長線上に、私の場合1組の布団に一緒に入って身体を撫で回されることがあった、割と日常的に。
当時の私は4歳から7歳くらいで、それが性的な何かということは知らず
頭を撫でられたりお風呂で身体洗われたりするのとの違いも分からなかったし
なんならそれはごくごく普通の親子のスキンシップなんだろ、と思ってた
少なくとも嫌!って思ってた記憶は無い
「なんかすごいこの辺触ってくるな…」とは感じてたけど、わざわざ母親に相談したり周りの人に言ったりする事でもなかったし、そんな知識も無かった
そして私が8歳とかになると父親が身体を撫で回すことも無くなったので、自分の中で掘り返すような記憶でも無くなっていた
それから数年経って、尻だの胸だの性器だのは他人に気軽に触らせる場所じゃ無いと知っても
私がぼんやりした性分だからなのか、その時のことが普通じゃないって気が付かず
なんて言うんだろうな、親とエロを繋げる意識がまず無かったんだろうな
でも中学生くらいになって、セクハラとか痴漢とかがどこかの遠い国くらい遠い出来事じゃなくなって
例えば電車の中でお尻を触ってくる人が居る、みたいな話を聞くと「最悪の変態がいたもんだな」って吐き捨てる気持ちになったし
実の子供に性的に手を出す親が居ると知ると「とんでもないロリコン、最低な親だな」って認識してた
恐らく自分がされてたことを知り合いの誰かが同じようにされてたら「それって異常だよ!性的な虐待じゃないの?」って(相手の感情を慮らなければ)言ってすらいた筈で
社会通念でいうセクハラとか性的虐待の認識は割とちゃんとあった、と思う
ただ自分がされてたって認識が全く無くて、それを今の今まで気が付かなかった。
そしてあれから20年近く経って、今気がついた、あれは異常なことだった。
見ないふりをしてきた、とかでは無く本当に今まで気が付かなかった。
そして今漸く気がついた私の心境について。
今まで私はドラマや小説なんかで子供の頃に実父に性的なことをされていた過去の場面や設定を見て
万が一にも自分がそういう目にあったならそれはさぞ強い怒りや憎しみが湧くのだろうと思っていた
しかし実際にはそんな事は無かった。
勿論全ての人がこうじゃないだろう
そういう人達の方が余程健全だし、私の親しい人たちがもし同じ目にあったならそうあって欲しい、そして二度とそんな目に合わせた人間に近寄らず生きていってほしいと思う
ただ私の場合は、最初に先ず動揺して混乱して、それからずっと困っている。
もう怒る相手がこの世に居ない。
もしまだ父が健在で、のうのうと私の良き父のような顔をしていたのならもっと違ったかもしれないが、父はもう物言わぬ骨になっている
そのうえ私は未だに父にされた事が普通のスキンシップでは無いのだとちゃんと正しく理解出来ていない様に思う
例えば他の家庭で同じことが起きたと聞いたら「虐待に決まってんだろ、子供から離れて二度と会うなよ!」と言えるのに、自分と父親とになると途端に「虐…虐待……って程のこと……かな??いや、嬉しかった訳じゃないし、同意もクソもなかったけども…………」みたいな歯切れの悪い、どこか言い訳したいような感情になる
自分が虐待を受けた、というのがどうにもすんなり受け入れられない
でもじゃあそんなこともあったけど私は元気です!!オールオッケー!と割り切って全てを許せるのかと言えばそうも出来ない、どこかで許せないなとも思う
子供が何も知らないのをいい事に大人が性的な意図でもって触れる事を許してしまえる社会は嫌だな、とも。
もし私の父が性的な触れ方をする以外にも暴力を振るったり金遣いが荒かったりする、どうしようもない父親なら
そうしたら私はきっともっと簡単に恨めたし「クソ親父」と口汚く罵り、彼の墓に狼藉も働けただろう
けど、確かに物心もつかない年頃の娘の性器を撫で回し、目の前でエロ動画を見て
母親に浮気を見て見ぬふりしてもらうようなどうしようも無いドスケベ親父だったけど
それでも陽気で楽しい父親だったと思っている、思いたい自分が居る、未だに。
長距離トラック乗りだったから一緒に過ごした時間はそれ程多くないけど、クソオタクの娘にも理解のある
娘の手作りとも呼べないような卵焼きで1日機嫌が良くなるような
自慢でも無いけど悪し様に罵るほどでは無いそんな父親だったのだと。
生きていれば、一言「とんでもないことをしてくれたな」と吐き捨てられたなら、こうも複雑な気持ちにならずに済んだのだろうか
それとももっと苦しんだんだろうか
想像してみるけれど、やっぱりまだよく分からず、気持ちの置き場に困っている。
いつかハッキリスッキリ、私の中で答えが出る日がくるんだろうか、来ない気がするな。
某芸能事務所のタレントさん達はどうしてもっと早くに被害を訴えなかったのかという声を聞くと
きっとそれぞれの立場や考え、いろんな要因は多々あれど、その中には私のように自分がされたことをどこかで正しく認識できない人もいるのでは無いかな、なんて愚考したりする。
子供は大人のことを、決して間違えない生き物だと思っている節があって
自分に近しい大人であればあるだけ、自分を傷つけるわけが無いのだと信じたい
だから何か酷いことをされても「無かった」ことにしたい、あるいは本当に「無かった」のだと思い込む
いつか正しく事実を認識することがあっても、与えられたものが苦痛だけじゃないと憎みきれなくてでも無かったことにして許しきれるわけもなくて、どうしたらいいのか分からないままずっと苦しむ。
スマスマの最終回に「さよならじゃないよな?」とSMAPにCMを通してコメントをくれたSoftBankのCMに中居くんが帰ってきた。
SMAPで使ってたマイクの写真をプロフィールに載せたTwitterアカウントも出来た。
「解散から一度も踊ってない。エンタメの扉は心の奥深くに鍵をかけて閉じ込めたからやらない」と言っていた彼が、CMでリズムを取るだけではあるけども踊ってくれた。
これはSMAP復活に一歩近付くのか?!と浮ついた気持ちになったがそれぞれ皆自分の道を歩いているし、昨年大病を患ったからファンの為に夢を見せる為にやってくれてるだけで復活では無いんだろうか。
親と姉が好きで物心ついた頃からSMAPは側に居ていつの間にかいない事にも慣れていたけどやっぱり帰って来てくれるなら来てほしい
Xを眺めていたら、マガポケで連載が始まった「阿武ノーマル」なる漫画の宣伝ポストが目に留まった。
1話が全文読めるようになっていたので、なんとなく気になって読んでみた。マジギレした。
キレすぎてお気持ち長文を書かずにはいられない気持ちになったので、マガポケアプリに登録・課金して2話(最新話)も読んだ(良いお客さん)。
その結果、マジギレするのは第1話のみにとどめることにした。
ここからお気持ちを語っていきたいと思う。ネタバレしかないので、よかったらXなりなんなりで検索して第1話を読んでみてほしい(これが炎上マーケティングなのか?)
まず結論から言うと、「主人公・阿武を明確に発達障害者(自閉症スペクトラム障害・ASDの特性を持った人物)として設定した上で、彼女を不気味で不可解な『アブノーマル』のように描く作劇に、発達障害者として気分を害した」ということである。
作中で「普通」代表のように描かれる阿武の先輩・相田は、学生時代の阿武を次のように表現する。
「阿武英子は単純構造だ/ぶっきらぼう/思った事をすぐ口に出す/人の事を全く考えない/要するに阿武英子は空っぽ人間だ」
ひどいdisられようである。まあdisの内容はASDあるあるだから置いておくとしても、「要するに」の後が全く要せてない気がする。
上記のdisの内容は端的に言えば「コミュニケーション力に欠ける」という点に集約されるのだが、つまり「コミュ障は空っぽ人間」ということになる。
本当にそうだろうか? 私にはそうは思えない。コミュニケーションが取れずに相手に何も伝わらなければ空っぽも同じという意味なのだろうか?
同様に、大人になった阿武が相田に就職先の斡旋を頼むシーンでは、相田は阿武のASD的な行動パターン(感情を無視して問題解決のみを意識する、情緒的な交流ができない)を「思想がない」と指摘する。
これも解せない。相田にとって「思想」とは、なんらかの理念や行動原理を意味する単語ではなく「感情を伴う対人交流によって育まれるコンテクスト」程度の意味合いのワードなのだろうか? だとすれば私の考える「思想」との乖離がかなり大きい。
(もっとも、第2話を読んだ後は、相田のこのような価値観もまた一つの「アブノーマル」として相対化される可能性はあるのかもしれない、と感じている。もしかしたら今作は、色々な登場人物の「アブノーマルさ」を戯画化しつつ「普通」という概念を相対化していく、いわば「普通じゃないは普通だよ」的な方向に進むのかもしれない。とはいえ、無料で読める第1話だけが拡散されていく可能性は高いと思うので、本稿では1話のみに絞ってマジギレしていく)。
そして、セリフでの表現以上に腹立たしかったのが、阿武の「偽物訓練」に端を発した「普通」になるための行動の描かれ方(演出)だ。
「書き物の殺人鬼」のような笑顔しか作れなかった阿武は、「普通のOL」を演じるために、同僚の榊原と相田の会話を録音して分析し、コミュニケーションのパターンを学習しようとしている。また、「変わってる」と言われたことで「何がどう変わっているのか」を確認するため榊原に矢継ぎ早に質問する(はたから見れば詰問だったが)。
これらは漫画的に誇張された行動ではあるが、私を含めたASD者は大なり小なり阿武と同じような方法で「普通」になろうとしている。
他者の会話を聞いてパターンを覚え、それを真似することで「当たり障りのないコミュニケーション」のストックを増やそうとすることも、曖昧な指摘が分からず詳しく具体的に説明してもらおうとする(そうして欲しいなと思う)ことも、私からしてみれば「当たり前の生存戦略」であり、決して「サイコな行動」ではないのだ。
にもかかわらず、上記のシーンは非常にホラー的な演出でもって描かれている。阿武の「アブノーマルさ」を浮き彫りにしようとする意図が感じられ、ASD者としては自分が必死にやっていることを「あなたたちの行動はこんなにホラーなんですよw」と茶化されている気分になってしまった。
(ちなみに、これらの行動が、作中冒頭の「死んだ金魚を食べてみる」描写と同列に扱われているのも極めて遺憾だ。一方で、後から読み返すと「どんなに『普通』を演じても、どうしても定型発達者とは異なる発想になってしまう」という悲哀が感じられるシーンでもあるような気もする)
そして、私が本編以上にキレているのが、この作品の「売り出し方」というかパッケージングの仕方?である。
「阿武英子、29歳、独身、彼氏なし。ものごとの価値基準は「普通」か否か。「普通」に固執するあまり、彼女を取り巻く人間関係が綻び始める。「普通」とは何か、「異常」とは何か、人の倫理を問う戦慄&衝撃の新感覚サイコ・サスペンス、開幕!!」
とある。
先述の通り、第2話、第3話以降の展開によっては、これは単にさまざまな「アブノーマル」なキャラクターによる群像劇ですよ、くらいの意味合いの表現なのかもしれないが、1話時点だと「阿武がいかにサイコな人間か」が焦点になっていると読まれても仕方ない書きぶりだと思う。阿武のような発達障害(の特性を持つ)人間が「普通」になる≒社会に適応するために散々努力していることを「サイコ・サスペンス」扱いされてはたまったものではない。
また、「「普通」に固執する」ということに関しても一言言いたい。これはASDの特性の一つ「こだわりの強さ」で説明できる部分ではあると思うが、私はそれ以上の意味を見出してしまった。あえてクソデカ主語で言うが、発達障害者にとって「普通」という概念は「喉から手が出るほど欲しいけど、決して手に入らないもの」だからだ。
転職する(≒社会に適応する)ために、相田から「普通」に溶け込む方法を学び始めた時から、阿武にとって「普通」になることは至上命題になっている。「普通」でなければ社会には適応できない、というメッセージを、現代日本社会に生きる私たちは物心つく前から嫌というほど浴び続けている。だが、発達障害のそもそもの定義が「脳の発達の偏り方が非定型的(=普通じゃない)」である以上、発達障害者は「普通ではない」。だから社会に適応するのが難しい。頑張って「普通」を演じることができても、素の自分は決して「普通」にはなれないし、少し気を抜いただけで「アブノーマル」な本性が漏れてしまう。
少なくとも私にとっては、「普通」になりたいと願うのは至極当たり前のことだし、そのために自分なりに努力している阿武に共感こそすれ「サイコw w w w」などと嗤うことは絶対できない。できないし、そういう感想を見ると少し悲しくなってしまう(これは私が勝手に悲しくなってるだけなのでそういう感想を書くなという話ではないです)。
以上、本当に長々とお気持ちを表明してしまった。こういうことをしてしまう時点で私が「アブノーマル」なのは証明されていると思うが、それでも書かずにはいられなかった。対戦ありがとうございました。
「この前吉本新喜劇を見に行ったけど何度も同じことをしていて全く面白さが分からない。なにが面白いのか」という意見をいただいたので、生まれも育ちも大阪の増田から、これに対する回答を書いてみたい。
結論から言うと「吉本新喜劇は面白いか面白くないかを判定しに行く場所ではなく、みんなで同じノリを共有し、楽しむ場所である。吉本新喜劇の価値は、関西圏内に住んでいる人間であれば老若男女誰でもわかるボケとツッコミのセットを発信し続け、それを文化として確立させているところにある。」と増田は考えている。
まず増田は生まれも育ちも大阪であるが、関西の人間が吉本新喜劇を見て笑い転げ、毎週楽しみに見ているかと言えば全くそんなことはない。最後に見たのが何年前か分からないし、なんなら見慣れてオチも全て分かっているのでテレビで一人で見るときなんかは普通に真顔である。
関東の知人が言う「何回も同じことをしていて面白くない」については、たしかに同意できるところはある。
たとえば「邪魔するで〜」「邪魔するなら帰って」「はいよ〜」の流れを知らない関西人はいないのではないだろうか。この流れのセットは増田が物心ついたときから、今現在いい大人になるまで最低でも約20年くらいは吉本新喜劇内で繰り返されている。
この流れを知らない関西人がいないということはつまり、老若男女関西人のほぼ全員が「邪魔するで〜」がボケだとわかり、「邪魔するなら帰って」がそれに対するツッコミ(ボケか?)とわかり、笑いが生まれるということである。
これって結構すごいことではないだろうか?
だれしも生きていれば色んなコミュニティに属し、コミュニティ内での定番のノリなどがあると思うが、コミュニティ内の人間にしか通じなく、例えばコミュニティ外の人が同席していた場合、その人間はポカンとなってしまう。
はたまた、お笑い芸人の定番のツッコミなんかが流行ることもあるが(最近だと千鳥の「シンプルに口がくせぇ」とかだろうか。最近ではないね)、ほぼ一年単位で入れ替わり、かつなかなか老若男女全員か知ってるとは言いづらく、若者間で通用しても中年以降は全く知らないといったことも普通にある。
それに対し、吉本新喜劇内で行われているボケ、ツッコミは、老若男女、知人初対面関係なく通用するノリなのだ。
吉本新喜劇は劇を通し、その定番と言われるボケ、ツッコミの流れを数十年にわたり発信し続け、関西圏内に定着させ、それを文化として確立させている。
ちなみに関西人のノリの良さや、あらゆる場でも笑いを作る貪欲さみたいなのも、この誰しもが共有できる笑いがあることが起因しているのではないかと考えている。
吉本新喜劇はいわゆる漫才のように、新しいネタを期待し、面白いか面白くないかの判断をする場ではなく、老若男女関係なくみんなで同じノリを共有する場。それを文化としてきちんと確立させているところに価値がある。
この投稿を読んで、関西に無縁だった方々にも吉本新喜劇を楽しんでもらえると、さらには関西を好きになってもらえると、増田としてはとても嬉しい。
物心ついた頃にダイエーがなくなってたくらいの世代としては百貨店って細かいブランドのテナントがモールみたいにたくさん入った店って認識なんだが、逆に昔の百貨店ってどういう店だったんだろう
小学生の頃、私のクラスでは誰がどれだけ忘れ物したかが可視化されていた。
クラス全員の名前が書かれた表があって、一回忘れ物をしたら赤いシールが一枚貼られるというシステム。
シールがいっぱいになったら、赤の上から青いシールを貼られた。
他のクラスメートが多くても青で一年を終えるのに、私は赤→青→紫→ピンクと表を4周していた。
帰宅後すぐに翌日の用意をして、夜寝る前と朝起きてから再度確認するようにしても減らなかった。
遅刻癖がなかなか治らなかった。
余裕を持って準備をしていたはずなのに、いつも家を出るのはギリギリの時間になった。
原因がわからなくて、「だらしない」と言われるのが本当に恥ずかしかった。
ADHDという診断をもらって、原因がわかったことでいくらでも対策を立てられるようになった。
モバイルバッテリーをいくつか買って、バッグの中にたえず充電満タンのものが一つあるという状況を作るようにした。
何かの準備をする時はまず自分で必要なものを手書きでメモし、声に出しながら支度をすることで忘れ物が激減した。
昼近くに出勤できる仕事を選び、始業時間の2時間前に会社近くに来るようにタイムスケジュールを組んだら遅刻がなくなった。
どうすれば他の人に迷惑をかけずにすむか、かかりつけ医に相談したり周りの人に協力をお願いしたりして、何とか生活を送れている。
正確には、送れていた。
少し前、12時出勤だったのに13時出勤だと勤務表を見間違っていた日があった。
今の職場に勤めはじめて7年、初めてのことだ。
前述のとおり2時間前には近くにいるので、連絡を受けてすぐ出勤した。
確か着いたのは12時5分のことだったと思う。
遅れてしまい申し訳ありませんと上司・同僚に謝罪した時、同僚のAさんが言った。
頭が真っ白になった。
Aさんは、あるスポーツのテレビ中継が深夜にある翌日は必ず遅刻していた。
職場の中でもそう認知されていて、「Aさん来ないね」「昨日オリンピックだったから」みたいなやり取りがあるような人だった。
「社会人としてどうなんですか」と苦言を呈する後輩がいても、「そんなこと言ったらダメだよ」と庇われるのがAさんだった。
でもAさんに言われた時、私を庇ってくれたのは前述の後輩だけだった。
「Aさんの遅刻は許されるのに私さんの遅刻は許されないのはおかしくないですか」と後輩が言った時、Aさんは「だって私さんはADHDだもの、許されちゃいけないんだよ」と返した。
診断をもらって数年、初めて後悔した。
いくら普通の人と同じになる努力を重ねても、たった一度ミスをしてしまうだけで発達障害は責められるのだと痛感した。
初めて、健常者が「ずるい」と思った。
私は今も同じ職場で働いている。
Aさんも定期的に遅刻してくる。
それでも、Aさんを責める人は誰もいない。
私は「あの人ADHDで忘れっぽいから気をつけてね」と新人に毎回言われるようになった。
ADHDは、それだけで罪らしい。
親は物心つく前に片方死んで、家父長制の権化のような毒祖父に叱られ続けた学生時代。毒祖父のせいで家庭は崩壊してた気がする。
物理的に包丁向け合ってた家なので子供が得るべき基本的な安心感みたいなのは育まれてないと思う。何をするにも劣等感にまみれてたし、運動音痴だし、友達は少ない。インターネットに救いを求めてた。当然ブスでオタク。承認欲求だけが育ち、当たり前だがスクールカーストで地を這う。田舎でむくむくと恨みを育て続けた。自分を取り囲む環境の全てに復讐したかった。
で、まずは大学受験をしたけれども経済力と偏差値が足りず県内進学。私は頭の出来も普通に悪かったようだ。死にたい。ただし、国立だったので地元では「頭の良い学生」になれた。ギリギリ自尊心が壊れずに済んだ。ついでに目の上に線を足す整形もした。
だがカスみたいな地元で上位層になっても仕方ないので「地元で結婚して子供を産みなさい」という大人たちを振り切って上京し企業就職した。
希望の業界だった。まあまあの大きな企業。唯一、業界内で貰えた内定。
希望の職種ではなかったが、こんな自分なんぞが業界に入れただけで誇らしかった。あとゴミみたいな地元からも足を洗えて最高だった。このままコネ作れば希望の職種に就けたりして、と妄想してた。第二の人生始まると思ってた。
が、同業界で希望の職種に就いてる人間を見ていると圧倒的すぎる。
「東大卒です」
「センター利用でMARCHは受かってたのでそこから大学選んだよ」
「実家に家賃として毎月3万円納めないといけなくて大変なんだよ」
「同業界の最大手に受かってたけど、弊社の方が雰囲気良さそうだったから選んだんだ!」
ふざけんな。
こんなに恵まれてる奴らと同じ職種を目指してたのがバカすぎる。同じ土俵で戦える訳あるか。家柄、経済、学歴、容姿、すべて最初から持ってる奴らに勝てる訳ねえ。初期条件が違いすぎる。
ところで、こうしてやいのやいの言ってる自分の職種だが、先輩には高卒の方がいる。仕事ができる人というのは分かるし尊敬もしてる。ただ、なんか色々頑張ったけど東京に住む高卒=地方Fラン国立大卒は同じレベルの仕事をやらされるんだなと思いやりきれなくなった。そもそも最終学歴や出身地にこだわってる自分がゴミすぎるしな。あーマジで何だこれ。
自分がそんな愚かなクソボケだと認めたくなくて足掻いている。頑張ってることしか取り柄がないので、この頑張りを諦めてしまったら○ぬしかない。
自分が首を括るか、希望の職種に転職できるか、幼少期の環境全てが爆発するか、そのどれかでしか報われない気がする。助けてくれ。
「食べ物を残してはいけない」という価値観が社会に蔓延っている。
自分が快と感じる範囲を超えて食べ物を貪るのは不幸になる道以外に無い。
もしそれが他人から与えられたものであれば、食べ物を与える者の言いなりになる奴隷精神につながる。
もしそれが自分が得たものであるなら、自分が食べられる量を間違えて計算したことになる。しかしそれは残してはいけない理由にはならない。間違いを許さない不寛容な精神につながるものである。
しかし問題なのは自分を含め多くの人がこの価値観をすっかり内面化していることである。
まだ皿におかずが残っていればもったいなく思い、残す人を見れば品が無く不快な人間だと判断してしまう。
であるならば、物心つかないうちから教育を行なってこの内面化を防ぎ、次の世代での考えを変えなければならない。
そのためには
・食べ物を残するのを非とする漫画や小説を子供に見せない。また、そんなシーンがある作品には抗議を行う