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はてなキーワード: 弁別とは

2020-04-07

anond:20200407233406

物の弁別というか区別というか、あまり発達した目がない奴なのはもう分かり切ってるから、指摘したくないなあ

2020-02-16

anond:20200216141132

このシリーズ個人的に辛かったのは以下の事柄

テレビ

テレビが何かわからない。いや、わかるんだけど、例えば古いテレビと今のテレビ全然形違うじゃん。

昔のテレビの足はなぜ四つ足ですらっと長いのか? 昔の真空管や配電の機械ってとっても重い。それをすらっとした木製の四つ足で支える意味がわからないし、薄型で軽量になった今こそ細い足で支えるべきなのに、実際にはどっしりとしている。

そして大抵テレビというと番組付属する。「テレビ見る」はテレビを見るという意味ではない。テレビ番組を見るということだ。そしたらテレビテレビではない。ではテレビはなんなのか? そして、今はパソコンスマホテレビ番組見るんだが、私たち営為としては「テレビを見る」という営みと質的差異はない、あるいは少ない。わけがからなくなって俺はテレビ朝日を見る、とかネットフリックスを見る、永谷園CMを見るとか、かならず具体的なものをさすように言語表現するようになった。

手書き

これの意味がわからない。手で書く、という意味はわかる。一般的には印刷を用いないで書くことだろう。

ところが、たとえば砂浜に尖った流木で書くのは手書きか? 指で砂に字を書くのは手書きか? と考えるとわからなくなってくる。この二つ、似てるけど営みとしては異なる。

前者は流木書きで後者手書き(あるいは指書きといってもいいかも)とするべきで、そしたら鉛筆ペン文字を書くことはは手書きじゃないんじゃないのか。より手で書きうる手段があるのに手書きってのはおかしいんじゃないのか。

筆で書くことを手書きというか? 多分いう。文字だったら。抽象的な前衛書画は?

パソコンは手で打っているか手書きじゃないのか。この文字は俺の手で書いてる。

もう手書きという日本語は全く信用ならなくなってしまい、仕事では、手筆を以ってする、ゲルインクで書いた書類atok作成した文章みたいな日本語表現している。

印刷物の校正は頭がスッキリする。手書き校正メモ、と、印刷された本文、とは意味合いとしてスッキリ弁別されている。仕事がわかりやすい。ずっとやっていたい仕事だ。

2020-01-11

anond:20200111200125

みんな話し合い大切教の信者なんだよ。

でもその中に、例えば「自分に不利な状況だ」と「自分被害者だ」の弁別ができる奴が実際どんだけいるかね?

賢くてフェアな人間同士のカップルしかありえない贅沢なんだよ、問題を話し合いで解決なんてのは。凡夫凡婦には無理無理

2019-11-15

冷笑的」は怒れる馬鹿の決まり文句

こういう人たちの呼び方ってありますか?

anond:20191115102850




1.「冷笑的」という非難に中身はある?

左翼思想でも右翼思想でもなく、かといってなにか確固たる信念があるわけでもなくて、ただただ極端な思想の人たちを冷笑し続けるだけの人

なにかの議論を見ていて、どちらかから冷笑的」という言葉が発せられたら末期だなと感じます

これは具体性が無い非難からです。


相手冷笑であると言い出す人は別に相手が冷たく笑っているのを視たわけではなくて、

要するに自分の主張に賛同してくれない人を「冷笑的」と言っています


あなたの主張にはこれこれこのような問題があるのでは?」という反論質問を受け取ったのに、

きちんとした再反論説明が出来ず、代わりに「冷笑的な態度だ!」と言って怒りだしたり。



2.矛盾を指摘されるのは恨むべき仕打ち

別に偉そうにするわけじゃないか一見実害がなさそうなんだけど、議論に首を突っ込んできてその都度矛盾点を指摘しては進行を遅らせるだけ遅れさせておいて、かといって自分意見を求めても何かを言うわけでもない。

矛盾点を指摘されて、何故不機嫌になるのでしょうか、


矛盾のある議論

まり論理が壊れてるとか前提が嘘ソースであるとかの議論はそのまま進めても有害無益なので、

矛盾点を指摘してもらったなら喜ぶべきです。

その矛盾を解消する中で議論内容を再検討して、

改めてその議論ブラッシュアップするなり放棄するなりできるでしょう。

そこでただ不貞腐れた顔になるというのは恐るべき低知能仕草です。


3.政治クラスタって責任を負う人達なの?

共通して言えることはとにかく責任を負わない。責任を負うようなことをしない。

ネットで延々政治議論してるような連中のうち誰が責任を追うような仕事をしてるというのでしょうか。

まず、彼等の御政道談義なんぞ誰にも顧みられないので政治に影響を与えません。

また、彼等は自分発言についてすら責任を持ちません。

主張はすれども説明から逃げ、議論を避ける人間が多いのは反論を受けて立つのが怖いからです。

自説の矛盾を指摘されることにすら憤慨するあなたもその手合いではないですか?


4.「生き生きしている」からダメ

でも人の間違いは生き生きとあげつらうというところ。

相手が生き生きしているというのはあなた主観可能性が高い。

・じゃあ人の間違いを指摘するときは死んだような顔でやればオッケーなの?それはマナー的な話? 


相手の生き生き加減を問題にすること自体どうかしています

そんなこと気にしてる暇があるなら自分の主張の矛盾チェックでもしてなよ。


5.ネトウヨパヨクは役に立つ人たち?

恐らくある程度頭の良い人なのだと思うけど、結局なんの役にも立ってないんだよね。

要するにネトウヨパヨクの両方を小馬鹿にして自分では何もしない人のことなんだけど、

まるでネトウヨパヨクが何かの役に立っているような!

驚愕認識です。


最近勢力を拡大してきてる気がして。

エビデンスを付けて発言をする癖をつけましょう。


6.新しい敵の名前必要

ネトウヨはその人をパヨクだと思いこんでいて、パヨクはその人をネトウヨだと思いこんでるみたいなんだけど、そうじゃない第三勢力ですよっていうことを教えてあげたいので名前をつけてあげてほしい。

どうせあの頭あったか人達自分らに反対する奴・賛成しない奴は全部敵でまとめて変なレッテル認識するわけでしょ。

その内訳がどの勢力かなんてどうでもいいじゃないですか。

彼等自身がそれを分別する能力意志も持ち合わせません。


って書いてるうちにまさにそういうブコメがもう有るんだけど

自称中立」かなあ。ただこういう人、言動を追ってくと基本的人権概念現代先進国レベルから大きく乖離してることが多く、それを考えるとネトウヨ弁別する必要性はあまり感じない。

2019/11/15

ほらね?

口振りからいってこの人はおそらくパヨク側ですが、

「味方かネトウヨか」と言うシンプル世界観を持っている。


こういう人にはなるべく単純な構造が嬉しいし、

自分の主張に賛成しない奴はみんなネトウヨパヨク)」なら自分反省しなくてすみます


賛同されなかった→あいつはネトウヨパヨク)だから気にすることなし。

批判された→あいつはネトウヨパヨク)だから気にすることなし。

ね?ネトウヨパヨクって何の責任感も思考力も無くても出来るでしょ。



7.いつもイライラしているのは誰か

ある程度頭がいいか思想依存する必要はなくて、

思想依存する人は頭が悪いですが(元はよい頭脳でもダメになるため)、

頭の悪い人が全員思想依存するわけではないです。

そういうもの依存する理由は頭の悪さより性格のだらしなさにあります


でも自分では何もしないから現状が改善していかなくて、それを周りにいるバカのせいにして気がつくとフラストレーションの塊になってるから

客観的に周りを観察してください(その冷静さがあるうちに)。

言うことが凶暴でいつもフラストレーションの塊なのは政治思想に深入りしている人です。

対照的に例えば趣味仕事に打ち込んで集中している人は幸福ですが

そういう幸福クリエイター業の人でもネトウヨパヨクになったとたん

攻撃的なtweetが増え、いつも政治のことで怒っている不幸そうな人に変貌してしまます


あの人達は起きている間ずっとネトウヨパヨクや気に入らない国や政治家のことを考えており、憎んで憎んでイライラする。

党派の敵を人間扱いしないほど見下して罵り倒すのは当然で、

自分同調してくれないだけの第三者のことすら「冷笑派」と言って恨みだすほどです。




8.まとめ

そんでもって結局糞の役にもたってないってことを自覚させて成仏させたい。

役に立つ人というのは自分生活をきちんと送っている人のことです。

日々自分なりの勤めを果たし、その時々の仕事に集中し、自分や周りを疎かにせず生きる人のことです。

政治思想で頭をおかしくしてネット憎悪合戦をしている人のことではありません


ネトウヨパヨクというのは

自分思考力以上のことに取り組んだ結果

必然的に「悪い奴をやっつけろ!」という単純なアウトプットになってしまった哀れな馬鹿の群れです。

馬鹿の癖に等身大馬鹿として生きる人生を受け入れられなかった。

人類の大多数は馬鹿なのに。

身の丈超えた偉大なものになりたくて政治思想ごっこした結果の常にイライラする役立たず人生です。


失うことを恐れて何かを得る活動をしなければ失うものがなくなるのは当たり前だよねってこと。

馬鹿の考え休むに似たりという言葉を贈ります

 


ネトウヨパヨクは何かの勇気があるからあい活動をしているのではなく

自分実存に向き合い続ける勇気がなくてああいうことをしています

2019-01-13

「男体への恐怖」を正当化する差別主義者多すぎやばい

https://anond.hatelabo.jp/20190112150155

SRSして戸籍も変更、基本的に埋没して男性結婚しているMtFですが、一番最初の「トランス女性への根源的恐怖感はスルーされていいわけ?」(https://anond.hatelabo.jp/20190110110456)の人も、心情的にはわかります。ただ、恐怖を理由にしたら何でも言えてしまうわけで、「怖いからやめてください!」を振りかざされるのには、それこそ恐怖を感じてしまます

わたしはオペ前に公衆浴場に入るなどということは考えたこともないですし、現在でも基本的公衆浴場温泉は利用しません。使ったことはありますが、裸になってジロジロ見られれば骨格その他でわかる可能性はあるわけで、それに対して不快感を覚える人がいたら嫌だからです。これは単に「他人迷惑をかけたくない」ということもありますが、それ以上に「恐怖の対象」のように見られてしまうことに「恐怖」を感じますし、また尊厳を傷つけられるからです。

当然ながら、こちらとしては積極的に恐怖を与えるつもりはないですし、シス女性やそれ以外の方の大勢もそうでしょう。そういう「普通の人」が、他人から「うわーこわーい、逃げろー」みたいに扱われたら、酷く尊厳を損なわれるし、悲しい気持ちになるでしょう。シス女性の一部はあまりそういう状況を想像したことがないのかもしれませんが、大抵の人は「うわーこわーい」と言われたら悲しいと思います

恐怖の対象として扱われるのも嫌ですし、「仲良くしてやってやる」と上から見られるのも不快ですから、どうしても人との距離は離れめになってしまます。まあこの辺はわたし個人性格によるもので、似た立場の人でも人懐こい方はたくさんいらっしゃいます

上の「『男体への恐怖』を正当化する差別主義者多すぎやばい」の方は、ちょっと口調がキツすぎてかえって反感を買ってしまうのではないか心配しますが、筋道としては概ね同意します。一方で、心情的には「恐怖」の人の気持ちもわかるわけで、またあまりにかたくなな態度をとってかえって攻撃を煽っても嫌ですから当事者としては心情は複雑です。

と、とりとめがなくてすいません。

当然ながら、これはわたし個人経験見解であって、似た立場の人を代表するものではまったくありません。「似た人たち」を十把一絡げにすることこそが差別だと思っています。だからわたしは「LGBT」とかいう恐ろしく大雑把な言葉も嫌いです(が、とりあえず術語としてそうした言葉が便利に使えるというのはわかりますし、またこういうわかりやすい=不正確なワードを広めることで薄く広い「理解」を進められている、という利点は大いに認めますが)。

ついでに言えば「トランスジェンダー」という言葉にも少しモヤモヤしてしまます。昔は「トランスセクシュアル」という言葉などとセットや対比をもって使われていた気もするのですが、最近はその辺、随分大雑把になりましたね。もちろん、身体的特徴でもって弁別するような考え方が薄まったということな肯定的に捉えるべきかもしれませんが、SRS程度で社会的生存を許されるならお安い御用、というか、それくらいは当事者責任として頑張ろうよ!という気持ちもあり、これも複雑です(保険適応にも反対でした)。

筋道としての正しさと、社会的共感を生んで平和裏に共存するための努力というのは、分けて考えるべきなのかもしれません。

結論がなくてすいません。

2018-07-16

anond:20180716151021

ここで最初に戻るけど、

故意か不可避かの弁別って、俺の意見が通るんじゃなくてそれを見てた女の主観で決まるんだろうが

正直関わりたくねえんだよ

実際にセックスしてる関わってる奴が言う発言にしてはおかしいよな〜。

だとしたら正直関わりたくねえんだよって言い方にはならないよな〜。

anond:20180716144923

故意か不可避かの弁別って、俺の意見が通るんじゃなくてそれを見てた女の主観で決まるんだろうが 正直関わりたくねえんだよ

と言っておきながらセックスはしたいか口約束は交わすという増田支離滅裂世界観をお楽しみください。

anond:20180716142135

故意か不可避かの弁別って、俺の意見が通るんじゃなくてそれを見てた女の主観で決まるんだろうが

正直関わりたくねえんだよ

女の方もそんな奴には関わりたくないだろうからWin-Winじゃん、何グダグダ言ってんの?

と突っ込まれるのを避けるために

増田くんの子ども産みたいなー」とか言ってくる奴

子種だけは出してやるから、お前らが金を稼いでお前らで勝手に育てろやと言いたい

こんな悲しい嘘をつかざるを得ない、ミソジニー増田不憫

2017-12-22

はあちゅうヨッピーナチスドイツ経験主義』というトンデモ記事への反論

こんにちはエルサレムアイヒマン警察です。上司インフルエンザで休んで暇なので、大好評炎上中のはあちゅうセクハラ告発について調べてたら id:plagmaticjam 氏の「はあちゅうとヨッピーとナチスドイツと経験主義~ハンナ・アーレントは何を語ったのか~ - メロンダウト」という記事発見

タイトルからし地雷臭がヤバイと思ってたら案の定トンデモだったので、おうちにあった『エルサレムアイヒマン 新板』を読み返しつつ反論したいと思います

炎上の経緯はハゲ大先生 id:hagex のまとめが鬼詳しいのでこっちを読んでください。→はあちゅうのセクハラ告発大炎上まとめ(追記あり) - Hagex-day info

 

件の記事ブログ筆者は、アイヒマンはあちゅう類似性を下記のように定義しています

はあちゅう氏=「自分被害者になったら告発する。いっぽうネットで実際に被害者が見えないなら加害者になれる凡人」

「凡人は無自覚悪人であること。」

アイヒマン命令によって思考行為を切り離し悪人になれたように、はあちゅうネットをかませ被害者特定しないことによって思考を切り離しているように見える。」

ヨッピー童貞いじりが誰を傷つけているのか、と擁護していたが「誰がわからない」から傷つけてもいい、なんてアイヒマンが「名前を知らない」から業務的に虐殺したのと構造的に同じだ。」

「何もはあちゅうだけに限った話ではない。ネット思考行為を切り離す。凡人が容易に悪人になりうる構造を持っている。」

ブログ筆者は「思考行為を切り離すがゆえに、無自覚悪人になる」構造があるとし、類似性を下記のように指摘しています

ブログ筆者が考える構造類似性

アイヒマン:「命令」によって思考行為を切り離す

はあちゅうヨッピー:「ネット」によって思考行為を切り離す

ですが、前提にしているアーレントの読みがそもそも間違っています

アーレントが指摘したのは「アイヒマンが何も考えていない=無思想性」ということでした。

「俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことなのか全然わかっていなかった。」

「彼は愚かではなかった。完全な無思想性−−これは愚かさとは決して同じではない−−、それが彼があの時代の最大の犯罪者の1人になる素因だったのだ」(p.221)

アイヒマン相手匿名から虐殺したわけではありません。知っているユダヤ人も知らないユダヤ人も等しく虐殺しました。

彼は「善悪弁別する能力をまったく欠いている」(p.20)のであり、「彼は自分義務を行った。命令に従っただけではなく、法律にも従った」(p.107)のです。

アイヒマンの特徴は「自分思想がなく、善悪区別がつかず、ただ義務命令法律に忠実な男」であり「自分よりも権威のある立場の人が『正しい』と言ったなら盲目的に従う男」であるということです。

アイヒマンには、反ユダヤ主義思想教育もなかった、とアーレントは指摘しています

好き嫌いがあるゆえに行動するのではなく、一切の好き嫌いがないからこそ、自分より高い立場権威から命令されたことをマシーンのごとく忠実に実行しました。

実際、アイヒマンは「良心問題については、命ぜられたこと(筆者注:虐殺)をしなかった場合にのみ疚しさを感じた」(p.20)と述べています

 

アイヒマンのような「無思想で、法律義務命令に忠実である」人は、平和時代であれば、上司の言うことを忠実にこなす「優秀なサラリーマン」、法律など絶対に破らない「良き市民」として一生涯をまっとうしたでしょう。

アイヒマンはあまりにも「普通おっさんであるという事実について、アーレントは<悪の凡庸さ>と指摘しました。

アイヒマンはきわめて凡庸一般人であるというアーレント見解は、「ナチスは、ユダヤ人絶滅したくてたまらない極悪人狂人」という世間見解とはまったく違うものだったので、多くの反発を招きました。

 

一言でまとめると、アーレントが語る「悪の凡庸さ」とは、「平和時代ならあまりにも普通おっさん、ただし無思想善悪判断がつかないから、彼が従う権威や法が狂えばなにも考えずに極悪人になれる」ということです。

以上の経緯から見ると、ブログが「悪の凡庸さ」を誤用していることがわかると思います。もう一度、ブログ言及されていた構造をおさらいしてみましょう。

ブログ筆者が考える構造類似性

アイヒマン:「命令」によって思考行為を切り離す

はあちゅうヨッピー:「ネット」によって思考行為を切り離す

思考」と「行為」が個別にあり、それらの連結を切り離す「X」があるという前提です。

しかし、アイヒマンそもそも思想」がありません。だから自分に注入される命令義務を己のものとして実行します。

ブログ筆者が考える構造: A(思想)=X(切り離すもの命令ネット)=B(行為

アーレントが指摘したアイヒマン構造: X(命令義務法律)→B(行為

構造がなにひとつかすっていないことがわかると思います

 

そもそもはあちゅう氏はアイヒマンのような「無思想」ではありません。むしろ自己主張が強く、自分を良く見せたいタイプだと思います

善悪判断力はわかりかねますが、盲目的に命令権威に従うタイプではありません。

はあちゅうは凡人」と言うとなんとなく納得感ありそうなんですが、アーレントが言った「凡庸な悪」とは意味が違います

ネット」とか「不特定多数他人」とかも、アイヒマンにはまったく関係ありません。

 

凡庸な悪」というパワーフレーズはすさまじいものがありますし、引用したくなる気持ちもよくわかります

しかし、なんとなくキャッチー単語フレーズだけを使って独自理論を展開するのは、引用源にも読者にもどちらに対しても失礼ですし、誤解を与えます

名著や歴史的パワーワード換骨奪胎して持論を展開するのはやめてほしいです

ぜんぜん引用源を正しく参照してない記事内で、ナチスドイツという激烈ヤバイもの名前を同列に並べられたはあちゅう氏とヨッピー氏、さすがに流れ弾すぎるだろ…と思います。あとブログ言及されてる「経験主義」も「違うだろ…」て感じなんですが、続きは経験主義警察の方々にお譲りします。

 

参考文献:ハンナ・アーレント大久保和郎・山田正行訳『エルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告 新版』(みすず書房2017年

エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】:Amazon.co.jp:本

(所要時間:45分)

 

※もちろん「書籍を読む」行為に、明確な正解はありません。私の読解もまたひとつ意見にすぎませんから、別のハンナ・アーレント警察の方から「違う!」とおしかりの言葉を受けるかもしれません。とはいえ、いくらなんでも適当すぎる読みだと思うんで反論を書きました。

2017-12-19

セクハラパワハラ問題の件で

非モテ気持ち悪い言動により不快感を覚えた女性非モテ全体に敵愾心を抱くというのは分かるけど

なんでウェイというかモテる層のモテるがゆえの行動に不快感を覚えた女性の恨みもまた非モテに向くのかよくわからん

非モテが嫌い」と「モテるから攻撃を受けた」を弁別せずに直結しているようにも感じるし、もっと言えばただの八つ当たりでは?

ウェイ層のセクハラパワハラ文化自分も大っ嫌いだが、それで批判されるべきなのはまさにウェイ層ではないのか?


非対称性があるといわれればそれまでかもしれんが、男が強者女性強者ゆえの過大な自信による不適切言動で傷ついた際に、その怒りをに不当に弱者女性に向けるなんてやってたらとんでもないひどいやつだとみなされ得ると思うんだが。特に、ここでいう強者というのがモテるとかモテナイとか、あと容姿の話であった場合特に

2017-11-27

ポリネシア諸語をカナで書いてみる

音節が無いらしいので仮名で書きやすいかもしれないと思って書いてみた。テキストはその言語で書かれた国歌使用

フィジー語 (フィジーに幸あれ)

メンダ・ンダウ・ンドカ・カ・ヴィナカタ・ナ・ヴァヌア
エ・ラ・サ・ンダウ・チコ・キナ・ナ・サヴァサヴァ
ラワ・トゥ・ナ・ガウナ・ニ・サウトゥ・ナ・ヴェイロマ
ンビウ・ナ・イ・トヴォ・タワ・サヴァサヴァ

メ・ブラ・ガ・コ・ヴィチ
カ・メ・トロ・ガ・キ・リウ
メ・ラ・トゥラガ・ヴィナカ・コ・イラ・ナ・イ・リウリウ
メ・ラ・リウタキ・ナ・タマ
エ・ナ・ヴェイカ・ヴィナカ
メ・オチ・キナ・ナ・イ・トヴォ・ザ

メンダ・ンダウ・ンドカ・カ・ヴィナカタ・ナ・ヴァヌア
エ・ラ・サ・ンダウ・チコ・キナ・ナ・サヴァサヴァ
ラワ・トゥ・ナ・ガウナ・ニ・サウトゥ・ナ・ヴェイロマ
メ・サ・ンビウ・ナ・イ・トヴォ・タワ・ヤガ

バレ・ガ・ヴェイ・ケムニ・ナ・ザウラヴォウ・エ・ヴィチ
ニ・ヤヴァラ・メ・サヴァサヴァ・ナ・ヴァヌア
ニ・カクア・ニ・ヴォソタ・ナ・ンドゥカンドゥカリ
カ・メ・ダ・サ・ンガイ・ンビウタ・ヴァカンドゥア

トンガ語 (トンガ諸島の王の歌)

ッエ・ッオトゥア・マーフィマフィ
コ・ホマウ・ッエイキ・コエ
コ・コエ・コ・エ・ファララアンガ
モ・エ・ッオファ・キ・トンガ

ッアフィオ・ヒフォ・ッエマウ・ロト
ッアイア・ッオク・マウ・ファイ・ニ
モ・ケ・タリ・ホマウ・ロト
ッオ・マルッイ・ッア・トゥポウ。

  • 「ンガ」は軟口蓋鼻音。「ッア」は声門破裂音。

ニウエ語 (天の主)

コ・エ・イキ・ヘ・ラギ
クア・ファカアロファ・マイ
キ・ニウエ・ネイ、キ・ニウエ・ネイ
クア・プレ・トトヌ
エ・パトゥイキ・コアトゥ
クア・プレ・オコオコ・キ・ニウエ・ネイ

キ・ニウエ・ネイ、キ・ニウエ・ネイ
キ・ニウエ・ネイ、キ・ニウエ・ネイ
キ・ニウエ・ネイ、キ・ニウエ・ネイ
キ・ニウエ・ネイ

クア・プレ・オコオコ・キ・ニウエ・ネイ
クア・プレ・キ・ニウエ・ネイ

サモア語 (自由の旗)

サモア、トゥラッイ・マ・シシ・イア・ラウ・フッア、ロウパレレア!
サモア、トゥラッイ・マ・シシ・イア・ラウ・フッア、ロウパレレア!
ヴァアイ・ッイ・ナ・フェトゥ・オ・ロッウ・ア・アギアギア・アイ:
レ・ファアイロガ・レア・オ・イエス、ナ・マリウ・アイ・モ・サモア
オイ、サモア・エ、ウッウ・マウ・ラウ・プレ・イア・ファアヴァヴァウ。
ッアウア・エ・テ・フェフェ; オ・レ・アトゥア・ロ・タ・ファッアヴァエ、オ・ロタ・サッオロトガ。
サモア、トゥラッイ: ッウア・アギアギア・ラウ・フッア、ロウパレレア!

ツバル語 (全能の神のためのツバル)

トゥヴァル・モ・テ・アトゥア」 / コ・テ・ファカヴァエ・シリ、
コ・テ・アル・フォキ・テナ、/ オ・テ・マヌイア・カトア;
ロト・ラシ・オ・ファイ、 / トウ・マロ・サオロト;
フゥシ・アケ・カトア / キ・テ・ロト・アロファ;
カエ・アモ・ファカタシ / アテ・アトゥ・フェヌア.
トゥヴァル・モ・テ・アトゥア」 / キ・テ・セ・ガタ・マイ!

トゥク・アトゥ・タウ・プレガ / キ・テ・プレ・マイ・ルガ、
キロ・トヌ・キ・オウ・ムア / メ・コ・イア・エ・タウタイ
「プレ・タシ・モ・イア」 / キ・テ・セ・ガタ・マイ、
コ・テナ・マナ / コ・トウ・マロシ・テナ。
ティリマ・カエ・カラガ / ウルフォヌ・キ・テ・トゥプ。
トゥヴァル・コ・トゥ・サオロト」 / キ・テ・セ・ガタ・マイ。

  • 「ガ」は軟口蓋鼻音。「フゥ」は/fu/。

ハワイ語 (ハワイ・ポノイ)

ハワイッイ・ポノッイー / ナーナー・イ・コウ、モーッイー
ラニ・アリッイ / ケ・アリッイ
マクア・ラニ・エー / カメハメハ・エー
ナー・カウア・エ・パレ / メ・カ・イヘ

ハワイッイ・ポノッイー / ナーナー・イ・ナー・アリッイ
ナー・プア・ムリ・コウ / ナー・ポーキッイ
ハワイッイ・ポノッイー / エ・カ・ラーフイ・エ
ッオ・カーウ・ハナ・ヌイ / エ・ウッイ・エ

  • 「ッア」は声門破裂音。

タヒチ語 (イア・オラ・オ・タヒチ・ヌイ)

ッウア・ラフ・テ・アトゥア・イ・トーッウ・ッアーイッア
ホノ・ノッアノッア・オ・テ・モトゥ・ラウ
ヘイヘイ・イ・テ・プア・リッイ・アウ・エー
エ・フィリ・ナペ・モーロヒ・ッオレ
ッオ・ターッウ・イーア・エ・ファッアテニテニ・ネイ
テー・トゥーオロ・ネイ・テ・レオ・ヘレ
オ・テ・フイア
ッア・ヒッイ・イ・トーアロハ
ッイア・オラ・ッオ・タヒティ・ヌイ・エー

  • 「ッア」は声門破裂音。

ロトンガ語 (全能なる神よ)

テ・アトゥア・モウ・エー / コ・コエ・ラーイ・テ・プー / オ・テ・パー・ッエヌア・エー
アカロンゴ・マイ / イ・トー・マートウ・ネイ・レオ / テー・カーピキ・アトゥ・ネイ
パールル・マイ / イ・ア・マートウ・ネイ / ッオマイ・テ・コロナ・モウ
キア・ンガーテイテイ / キア・ヴァイ・ラーイ・テ・アロッア / オ・テ・パー・ッエヌア・エー

  • 「ンガ」は軟口蓋鼻音。「ッア」は声門破裂音。

マオリ語 (アオテアロア)

エ・イホワー・アトゥア、/ オ・ンガー・イウィ・マートウ・ラー
アータ・ファカランゴナ; / メ・アロハノア
キア・フア・コ・テ・パイ; / キア・タウ・トー・アタファイ;
マナキティア・マイ / アオテアロア

オナ・マノ・ターンガタ / キリ・フェロ、キリ・マー
イウィ・マーオリ、パーケハー / ルーペケ・カトア
ネイ・カ・トノ・コ・ンガー・ヘー / マーウ・エ・ファカアフ・ケー
キア・オラ・マーリレ / アオテアロア

トーナ・マナ・キア・トゥー! / トーナ・カハ・キア・ウー;
トーナ・ロンゴ・ヘイ・パクー / キ・テ・アオ・カトア
アウア・ラワ・ンガー・ファファイ / ンガー・トゥトゥー・エ・タタ・マイ;
キア・トゥプ・ヌイ・アイ / アオテアロア

ワイホ・トナ・タキワー / コ・テ・アオ・マーラマ;
キア・フィティトーナ・ラー / タイアーフィオノア
コ・テ・ハエ・メ・テ・ンガンガウ / メインガ・キア・コレ・カウ;
ワイホ・イ・テ・ロンゴ・マウ / アオテアロア

トーナ・パイ・メ・トイトゥー / ティカ・ラワ、ポノ・プー;
トーナ・ノホ、ターナ・トゥー; / イウィ・ノー・イホワー。
カウア・モーナ・ファカマー; / キア・ハウ・テ・インゴア;
キア・トゥー・ヘイ・タウイラ; / アオテアロア

  • 「ンガ」は軟口蓋鼻音。

2017-04-27

弥勒 (僧)

曖昧さ回避 この項目では、宗教家について説明しています。その他の用法については「弥勒 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

弥勒 (マイトレーヤナータ、マイトレーヤ)[1]

270年頃-350年頃[2]または350年頃-430年頃[1]

Asanga.JPG

著作

瑜伽師地論』[1][2]

分別瑜伽論』[1][2]

大乗荘厳経論』[1][2]

『弁中辺論頌』(『中辺分別論』)[1][2]

金剛般若波羅蜜経論頌』(『金剛般若経論頌』)[1][2]

『法法性分別論』(『法法性弁別論頌』)[1][2]

『現観荘厳論』[1][2]

『究竟一乗宝性論』[1][2]

弥勒(みろく、マイトレーヤナータ〈梵: Maitreyanātha〉、またはマイトレーヤ〈梵: Maitreya〉[1]、慈氏[1]、270年頃-350年頃[2])は、インドの僧。大乗仏教の学派のひとつ瑜伽行唯識学派開祖[2]。

2017-02-25

http://anond.hatelabo.jp/20170225161743

せろん、よろんの弁別書き言葉には現れてこないので

検索しようが無駄

というか、その検索機能を持ってしてそれなりのデータアクセスできない時点で民主的に言ってお前は無能である

2016-11-09

http://anond.hatelabo.jp/20161108235300

なんだろ。

絶対100%無理、発音できる人は存在しない、って主張だと思ったのかな。

からロシア語とか、ネイティブが正しい舌使いとは限らないだとか、音韻的に見て弁別できる発声だとか、いい始めたのかな。

そんな話はしてないよね。

教えて練習させればできるだろうよ。

そもそもの元増田に「フランス人はできる」って書いてあるじゃんね。

2016-11-08

http://anond.hatelabo.jp/20161108233242

英語力ないかネイティブがいつも正しい舌づかいしか発音しないと思ってるのね…。

言語学的には舌の位置がどこにあるかは重要じゃない。音韻的に見て弁別できる発声をしたかどうかなのよ。

だいたい「英語物理的」ってなんじゃらほい。英語しゃべると舌が物理的に動かなくなるとでも?

いかげん、まことしやかにことばについてルールを語るのはやめてほしい http://anond.hatelabo.jp/20161108134523

http://anond.hatelabo.jp/20161108134523

(1) 日本語の「リャ・リュ・リョ」がそもそも英語存在しない問題

『舌を巻く"R"の発音で「リャ・リュ・リョ」は物理的に発音できない』ために英語存在しないんですが、

からそれはでたらめ。ロシア語では「ряа(=[rya])」・・・などの表記と音が存在する。物理的に 発音できないなどということはありえない。「英語では物理的に発音できない」という主張だとしても「なんで言語によって物理法則が変わるんだ」ということになるから、その問題提起はあきらかにおかしい。また、だとすると「日本語では平安時代物理的に"ぴゃ"という発音はできなかった」という意味のわからない主張が正しいことになる。

そもそも、

ということと

ということは同じではない。

英語ネイティブの人でも気づかないだけで[rya]という音は発声している。ただ、それが音韻として用いられていなかったり、あるいは弁別性を有しなかったりするだけ。あなたの言っていることはそもそも文字と音声言語混同してるんだよ。

そもそも「ラリルレロ」は"L"か?"R"か?"L"の方が近いのでは?

どちらでもない。みんな大好きWikipediaから引用

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ら行

頭子音の音声学上の実際の発音は、「り」を除く「ら」行音の場合一般的に、語頭や、撥音(ん)の後では歯茎側面はじき音 [ɺ] 、そり舌側面接近音 [ɭ] または有声そり舌破裂音 [ɖ] に発音され、撥音(ん)の後を除く語中、語尾では歯茎はじき音 [ɾ] またはそり舌はじき音 [ɽ] に発音される。「り」の場合は他の「ら」行音に比較して頭子音が硬口蓋化するため、語頭や、撥音(ん)の後では歯茎硬口蓋側面はじき音 [ɺʲ] 、硬口蓋側面接近音 [ʎ] または有声硬口蓋破裂音 [ɟ] に発音され、撥音(ん)の後を除く語中、語尾では歯茎硬口蓋はじき音 [ɾʲ] または硬口蓋はじき音 [ɟ̆] に発音される。

まりコンテキストによって r や l どころかまったく違う音になっている。話者は音韻として「ら行」に分類しているだけ。ここ、ブクマでもトラバでも「おれ英語知ってるしー。ら行はRじゃないよねー」とか物知り顔で言ってる人多いが恥ずかしいだけだぞ。

「リャ・リュ・リョ」の英語表記において、"L"か"R"の2択でなぜ"Rya,Ryu,Ryo"が発音できない"R"を選んだのか?

ローマ字表記」は「英語表記」ではありません。

ローマ字表記ラテン文字圏向けに26文字アルファベット日本語表記する方法として考え出されたものです。英語表記するためのものではないです(なお「ラテン語表記」でもないです。いまの時代ラテン語新語表記なんかできるかボケ)。

「そんなの細かい違いでしょ」と言い出しそうだが大問題。たとえば国語表記アルファベットを使っているベトナム語も「英語表記なんだから英語発音考慮せよ」ということになってしまう。

nước Cộng hòa Xã hội chủ nghĩa Việt Nam

こんなんね。「えー! アルファベットじゃないじゃーん!」とか不平言ってもダメ。これはアルファベットダイアクリティカルマーク足してるだけ。ダイアクリティカルマークアルファベットじゃないと言い出すとウムラウト打ってるöドイツ語アルファベット使ってないということになる。

英語しかものごと考えないくせついてるからそういう変な発想になるのよ。

ここも若干厄介な問題が絡んでいて、英語とは"value"を「バリュー」と読むくせに"Lue"は「ルー」と読む言語なんですね。

すなわち、表記と読みが一対一対応していない、ということです。

それも間違いです。英語表記は「その単語英語文化移入された時点では表記と読みが一致していた」んです。ただ、英語場合ノルマンコンケストとかいろいろな文化交流があったせいでさまざまな表記が残ってしまった。結果として音声・表記不一致になっているように見えるだけ。実際には歴史的背景を知っていればスペリングから発音推定できるようになっています中学高校でちゃんと習ってるはずだけどhttp://bit.ly/2eRDbuy:ノルマンコンケスト]についてはWikipediaでも読んで。

ただし、"Rya,Ryu,Ryo"だと読みを慣例化していく以前に、「原理的に発音できない問題」が出てしまい、不適切だと思います

うん。だから誰にとって原理的に発音できない」のか明らかにして。

(3) 日本語の「ラリルレロ」ってそもそも"L"なのか問題

この件に関しては私が無知であり、"R"よりも"L"の方が日本語に近いと勘違いしていました。

音声学だったり色んな経緯があって"R"になったようですね。

先にも書きましたがLでもRでもありません。また、音声学的背景で決まったものでもありません。そもそも /l/ と /r/ は「流音」と言って似たような音の仲間です。

ヨーロッパのことばの中でも「単語の中の-rolor-って部分、時代が移り変わるうちに -lorol- って間違って巷間に流布しちゃった。テヘペロ」などということがふつうにあるレベルです(ポルトガル語中世ロシア語の流音交替現象など)。「日本人発音しわけられないし聞き分けられないんだよねーププ」という指摘がよくなされますか、広い視野で見ると「そんなに変わらない音」なんです。

からローマ字で L と R どちらを採用たかは「気分で決めた」以上のなにものでもないです。

(4) そもそもローマ字って英語じゃなくて日本語じゃね問題

本当にそうだと思います

まぁ、どうせ英語ネイティブスピーカーが読む可能性があるのなら、読みやすくて発音が近い方がいいじゃないですか。

なるほど。ではお聞きしますが、


(5) ワープロで"La"が「ぁ」になる問題

xa で打てばいいと思います

2016-03-27

主語が大きい定期などと敢えてコメントをする人はコンテキスト理解できていない、日本語未習熟者であると思われる

増田もそうだが、Twitterなどで断定的な主観的価値観の発露を見て「主語が大きい定期」などとコメントをする人間は、そもそもWebコンテキストすら理解できていない愚か者であるプロテクターガチガチに固めた意見ネットでわざわざいう必要のない、という必然コンテキストを読み取れない人間であり、そもそも論ずるに値しないのだが、まだ彼らは、ネット接続できているのだろうか。主語が大きいのは主観であるかぎり必然であり、弁別精神への涵養はそこには存在しようがない。

2015-03-28

日本現実

被告人が、自己が借り受けて耕作する田の隣地所有者Aと折り合いが悪く、田の草刈りに赴いた折、Aが草刈を止めて昼食の為帰宅しようと被告人の耕作する田付近に登るのを見て、同所の草刈をしていたものと誤信し、日頃の反感が一時に爆発してAの背後から芝刈り鎌で頭部を殴打し、驚いて駆けつけたAの長男Bの頭部等を殴打し、傷害を負わせたことについて、原判決心神耗弱を認めた事案の大審院判決がある。

「案スルニ心神喪失心神耗弱トハ何レモ精神障害態様ニ属スル物ナリト雖モ其程度ヲ異ニスルモノニシテ即チ前者ハ精神ノ障害ニヨリ事物ノ理非善悪ヲ弁識スルノ能力ナク又ハ此ノ弁識ニ従テ行動スル能力ナキ状態ヲ指称シ後者精神ノ障害未タ如上ノ能力ヲ欠如スル程度ニ達セサルモ其能力著シク減退セル状態ヲ指称スルモノナリトス所論鑑定人遠藤義雄ノ鑑定書ニハ被告人犯行当時ニ於ル心身障害ノ程度ノ是非弁別判断能力ノ欠如セル状態ニアリタリトハ認メラレス

精神ヤヤ興奮状態ニアリ妄覚アリテ妄想ニ近キ被害的念慮ヲ懐キ知覚及判断力ノ不十分ノ状態ニア感情刺激性ニシテ瑣事ニ異常ニ反応シテ激昂シ衝動性行動ニ近キ乃至ハ常軌ヲ逸スル行動ニ出ツルカ如キ感情ノ障害ノ症状存シタリトノ趣旨ノ記載アリテ」

これが日本人現実

2014-09-08

http://anond.hatelabo.jp/20140908193158

日本人である証明って、まぁ公的な書類出さんと証明できんからこの場ではムリだろーけど

じゃあ「寄生虫」と「日本人」ってどう弁別するんだ?

寄生」って言葉を使うからには、一方的日本から利益を得ている人間を指すんだろ?

どーいう定義他人寄生虫と呼んでる?

おまえさんが寄生虫と思えば寄生虫ってことか?

その辺はっきりさせてくれると、「なるほどこの人はこういう存在寄生虫と呼ぶんだな」と

理解できて、それに共感できるかどうか考えられるんだけど、

どの辺で線を引いてるの?具体的な弁別方法は?ちょっといまんとこわかんねーんだよなぁ。

2014-05-16

http://anond.hatelabo.jp/20140516145352

まぁ、これまで通り俺は

「役に立つよ!」って言ってカネ貰ってりゃいいわけだな。

つまるところ、カネを引けるかも研究者能力の一つで、

そこに「奴に立つ」って概念あんまり関係ないんだよね。

そもそも、役人に将来的に見返りを生み出す研究弁別する能力

あるとでも思ってんの?

そもそもそんなこと誰に出来るのかね…。

2014-04-26

http://anond.hatelabo.jp/20140426034710

もちろん、誰かを差別主義者だと断定したことがイコールあなた発達障害を疑う要因というわけではありません。

そして申し訳ないですが、今のところアスペルガー境界性知能かを見分けることは出来ていません。

インターネット上では難しいかと思いますエピソードひとつも無い状態では断定は不可能です。

その辺、どうしても論旨がぶれがちになるのはご容赦ください。

この手の話は、一つの結果に対していくつもの可能性があります

言語がそもそも理解出来ていない結果なのか、他者コンテクストの共有が出来ていない結果なのか

あるいはある種の価値観を絶対視している結果なのか、それは私如きの能力では判別がつきません。

私が「病気ネタ」を始めたのは、コンテキスト上の接続が(少なくとも説明を受けない限りは)全く無いパロディ

その後、強烈に他者を「電波」等の言葉狂気と断定する行動を続けたという二点からです。

他者と文脈が食い違う、背景となる知識の共有が出来ないというのはよくあることに過ぎません。

問題は、それを他者狂気、ないしは問題と一足飛びに判断している部分が大きいです。

もちろん、私の知識も経験も絶対ではないので間違いはありえます、当てにしない方が良いとも思います。そこは正直に申し上げます

しかし、あなたの取ったこの行動は先述した発達障害を持つ方のテンプレにピッタリ嵌った行動なんです。

コロコロ変える、というご意見は非常に理解出来ます申し訳ない。

しかし、境界性知能、アスペルガー、強力なオルグ教条主義価値観を形成してしまった方

これらをエピソード無しで弁別することは少なくとも私には不可能です。原因は違えど、ほとんど同じ結果として顕在化するからです。

いずれにせよ、「他者コンテクストの共有が出来ない」という結果をもたらします。

現在、私は左派的なイデオロギーとの親和性が高いところを鑑みて、どの可能性もありえると思っています

そこに関しては自分からお話を振っておいて本当に申し訳ない。

尚、私は先ほどお話しましたとおり、ジュディス・バトラー思想共感する人間です。「ジェンダートラブル」は読みました。

左派であろうとフェミニストであろうと、それは一切問題にならないことだと思います

2013-12-28

idコールってどうやるの…記法しておけば良いと信じてとりあえず記法だけしておく。

id:blueboy

どうかどうか、間違って別人に届いたりしませんように。

ロボット擬人化したときロボット女性人間女性区別ができなくなったことによる混同。比喩比喩でなくそのまんまに受け取るようなもの。/女性差別というのは事実だが、悪くはない。相手がロボットならば。

スタンスがよくわからないんですがとりあえずツッコミどころはふたつ。ひとつは「ロボット人間及び比喩比喩の外をいかにして区別するか問題」であり、もうひとつは「『すべて色情を懷きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり』問題」であります

前者について、例のイラストではそもそもロボット人間積極的区別が描かれていない。

ケーブルがエクスキューズ役割果たしていることを除けば両者を弁別する術はない。単に外見上の問題だけでなく文脈的にもそう。

このことから、アレを「比喩」として受け取るのならば、描かれている主題は「女性のようなロボット」ではなくむしろ「(従順な被使役者、被支配者としての)ロボットのような女性であるという解釈はごく自然に成立してしまう。

比喩比喩でなくそのまんま受け取っているほうが「ケーブルがついてるから女性ロボット」と単純に納得して終われるのであり、比喩として受け取っているからこそ「あれは『女性のようなロボット』が描かれた絵ではなく、従順可憐で世話をやいてくれる、まるでそのために作られたロボットのように都合のいい女性像をケーブルひとつで『これは実際にロボットである』と装って描いている」という見方が可能になる。

後者について、相手がロボットならば女性差別悪事でないというのは意味不明で、女性差別なら差別されるのは女性だしロボット相手の差別ロボット差別であると思うんですがそれは置く。えーと、ロボット相手ならば女性差別は悪ではないというのは要するに被害者が居なければ悪事悪事でないということでありあくまで脳内妄想にとどめ続けるのならば女を使役しようと虐待しようと犯そうと殺そうと罪に問われることはないという考え方だと思っていますが、顔にも出さなレベルならまだしも学会機関誌のしかも表紙に出ちゃったら非難は免れ得ません。ましてロボット差別でなくあくまで女性差別ときてはもはや「悪ではない」理由がわからないレベルぬいぐるみを殴っているか暴力ではないというのは詭弁であろうというのが当方見解です。

2012-11-23

http://anond.hatelabo.jp/20121123003130

自分意志の弱さをナマポ問題にすり替えてるだけだろ、これって。ナマポ問題はそれはネット叩きの格好の材料呼び水になるんだけど、この医師も決して一人の力医者になれた訳じゃないんだから、それはそれで周囲の人々がこの医師に今までつぎ込んできた有形無形の資本はどうやって取り返すの?って問題もある。この医師に投下されて来た資本はもちろん公的なもの、公的補助を受けたものもあるはずだ。別にこの医師個人一人を責めたって解決するわけではないが、はてさてナマポ問題がこの問題の要因なのか、医師個人の資質の問題なのかは、慎重に弁別を要するだろね。

2012-09-29

ペット家畜のちがい、あるいは教育の失敗

面白い2chまとめ記事を見つけた。いわゆる命の大切さを自覚させる教育についてのもの

「豚を殺して食べる授業ってあったじゃん?あれってやり方が悪いよな」

http://oryouri.2chblog.jp/archives/7471447.html

元記事では「ブタがいた教室

http://goo.gl/DV423)(Wikipedia

http://goo.gl/D07Pw)(amazon

という映像作品が焦点になっている。これは生徒たちに生きているものを食べるという意味を考えさせるという目的で、1年間「食べる約束」でPちゃんと名づけられた子ブタ飼育する児童の活動の記録だ。容易に予想される通り、殺すべきか殺すべきでないかを巡って児童らは激論を闘わすことになる。以下、この作品における子供たちと家畜(あるいはペット)としてのブタとの関係について少し考えてみようと思う。なお、児童の下した最終的な決断がどのようなものであったかはここでは重要ではない。

とくに考えてみなくとも、この教育方法愛玩動物家畜意図的に混同させてしまっている点で偏向していることはすぐ看て取れる。牧場屠殺場の労働者と異なって、児童たちにとって家畜を殺す選択とは生活上の要請や主体的な投企ではないし、それらに束縛された社会的な半義務から解放されている。かれらは「ブタとともにいる今のこの経験」をまったく外部から与えられた教育機会として甘受しているにとどまるため、必然的に(屠殺という)未来との緊張的な関係はほどかれてしまう。つまりブタは形式的には家畜として存在していても、児童たちにとっては犬や猫のようなペットとなんら変わらないし、その素朴な誤認が改められることもない。

農家で働く人々のなかには、家畜愛称で呼んで慈しみながら育てる者もおそらいるかもしれない。だが、衛生管理、給餌、畜舎環境整備、精神状態への配慮、成長の仕方への注視といった諸々の世話は、家畜を取り扱う職務というひとつ社会的役割の枠の中で分化した業務である。したがって、それが職務である限りにおいて動物との関係は尊重されるのであり、家畜への愛情とはひとつひとつ労働の只中から立ち現れるものだ。だからペットのように対象を没入的に愛玩することが先行しているわけではないし、そうした依存は成立しようがない。この意味で、公共的領域に属する家畜は私的領域人間を慰めることに専念するペットと同一視することはできない。

この教育が欠陥を抱えているのはまさにそこで、生物を食べるということの意味を考えさせるはずが、ペット家畜として扱う行為の是非がそれ以前に立ち現れてくる羽目になることだ。あるいは、「教育機会として与えられたブタを、教育目的として屠殺すること」という奇妙な倫理問題が登場してくることになるのだ。だからブタの形式的な存在よりもむしろブタとの実質的な関係を重んずる児童ならば、きっと殺すことに猛反対することになるだろう。それも、生命の尊さという観点からではなく、先ほどまでは愛玩していた動物教育用だからという理由で屠殺することの倫理的な疑問からである

生命を奪って食物をいただくことは非常にありがたいことなのだ屠殺はやむを得ないのだ)」という結論に子供たちが至ると教師が期待していたのならば、その教師は教育権力子供の阿りにあまり幻想を抱いていると言わねばならない。なぜならば、当座の問題として、子供たちにとって「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタである必要は一切ないのだから感情に束縛された反対者がこのことに気づくかどうかは別として、この葛藤は両者を厳密に区別さえすれば解決する話ではある。我々が生活的・社会的意味から屠殺要請されているのは家畜用のブタという一般的な対象であって、Pちゃんという特定的に指示された一匹のブタではないだろう。

こうなると初期の教育目的から大きく外れた論理子供たちを支配するようになっているのが理解できるだろう。屠殺がそれ自体として容認されるべきか否か、また、容認されるとして我々はそのことをいかに受け止めるべきなのかという課題は置き去りにされる。うってかわって幅をきかすのは、「それが屠殺から回避されるべきペットであるか否か」という二択問題でしかない。

つまるところ児童の躊躇と反発は、動物一般を屠殺することにではなく、愛情を受けるに値するペット屠殺することに向けられることになる。もし教師がこの洞察の対象を臆面もなく「命の尊さ」と名づけ、児童らがそれを真に受けるとしたら、それは教育的にも、児童感覚を支配する論理から言っても、致命的な取り違えを犯すことになる。なぜなら、そこで問われている生命価値とは、その動物が与えられている人間愛情という尺度によって一律に測られるものにすぎないからだ。この錯誤は一部の動物愛護団体も陥っている、言うまでもなく極めて未熟な人間原理である

屠殺に賛成する児童にしても、その意見後ろ盾となっているのはそのブタ屠殺されなければならない社会的制約にあるのではない。先にも述べたように、「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタである必然性に欠けているため、それを論拠とすることはできない。代わりにあるのは、教師やクラスの皆と「食べる約束」で育てたのだから言葉通り(あるいは教師や学校の期待通り)食べるべきだという自閉的な教条主義しかない。そうした子供たちを支えているのは、ブタは一時的にはペットであったかもしれないが、家畜という名目は残っているのだから今や再び家畜に戻るべきだという同一性への信念である。したがって、生活的・社会的要請という家畜の意義はやはりかれらの目には隠されたままだ。

こうした事態はなぜ起こるのだろうか。まだ児童ペット家畜の類別がつかないからでは決してない。生活上の要求や社会的責務と切り離された、教育という特殊な環境によって本来の弁別がゆがめられてしまったところに原因はある。一般的に家畜ペット存在は公共的・私的という形ではっきりとした線引きがなされており、特に家畜に関してはその取り扱いに恣意性がはたらく余地はない。ところが、社会的要請という文脈から切り離してこれを教育という場に持ち込んだ途端に、垣根は崩されて恣意性が生まれることになる。つまり、そのブタ家畜になることもできるし、ペットになることもできる。その不安定さがすでに本来の家畜とは別物である以上、当然「生きているものを食べる」という普遍的な行為考察する可能性から遠く離れることになる。

結論として、この教育が「命の価値」や「生きているものを食べる」ことについて考えることを目指しているとしたなら、それは完全な失敗だと思う。教育の目指すところが悪いのではない。学校の一クラスの中に一匹の家畜を持ち込んで、なお家畜意味が無条件に保たれると思いこんだ教育者の甘い認識こそが問題なのだ。それは単に牧場見学職場体験を学校の内側で再現することではない。家畜は数え切れないほどの社会的紐帯繋ぎとめられた動物である限りで家畜と呼び習わされるのであって、周りを取りまく環境との避けがたい関わりを黙殺したところで家畜の理解にたどり着けるわけがない。

2012-07-05

ひとつとっても育児母親仕事であることはよく分かるな

実家で飼っている雄猫が近所の野良猫子供を産ませたらしい。

家の軒下に母猫と子猫たちがいついてしまって、結局親族と協力して雄猫と併せて飼うことになった。

3匹のうち2匹は母猫と同じ真っ白な猫で残り一匹が黒い猫。

飼っている雄猫は黒と灰色の鯖トラだから、やはりうちの猫が生ませた子供たちではないかということだった。

授乳している光景が大変ほほえましい。

子猫に近づこうとすると母猫が威嚇するという。

父猫は子供たちの面倒を見ることはしないでもっぱら母猫が子猫たちといつも一緒にいる。

つの間にか他所のはちわれ野良子猫が紛れ込んできて、母猫はこの他の猫の子供にも授乳して世話をするようになった。


本能のままに行動する動物の姿を見ていると、やはり人間が知恵や理性で以て男女共同参画とか制度を作ったところで、

子供を育てるのは雌の役割で雄の仕事は種付けなのだなあと今更ながら実感させられる。

多くの動物の雄は餌を運ぶ仕事すらしないのだから

一応制度的に餌を提供する義務を負っている人間の男はまだ誠実なほうではないのか。

大抵の動物の雄はやり逃げして終わりなんだろうから

まあ雄にとってはどんな子供自分の子である決定的な証拠はないのだから自分資源犠牲にしてまで子供投資する気にはならんのだろうな。

人間の男が責任果たさずやり逃げしたがるのもこういう動物本能から来る自然な行動原理なのかもしれん。


ちょっと驚いたのは、母猫が自分が生んだわけでもない子供にも授乳して実子同然に育てるということ。

人間社会だったら滅多にないのではないか

自分遺伝子が入っていない子供でも、赤子なら自然母性本能が湧いて育てようとするのか。

自分の子供と他人の子供を弁別するだけの個体識別能力動物は持っているのだろうか、どれぐらい識別できるのか、識別したとして実子とよその子との間に扱いに差は生じるのだろうか。


人間は下手に賢くなった分母性とか父性とかを出し惜しみするようになって、

結果として種族全体としての存続にとってはその知性がマイナスに働いているのかもしれない。

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