はてなキーワード: 底なしとは
男――きみはマスダで何も書かなかった。何も。
女――わたしはすべてを書いた。すべてを。
だってホッテントリを、あれを、わたしは見た。それは確かなこと。
はてブにはホッテントリがあるから。どうしてそれを見ずにいられるでしょう。
男――きみははてブのホッテントリを見なかった。きみはマスダで何も見なかった。
女――四回も、マスダに……
男――マスダの、どのエントリ?
女――四回も、マスダに行った。人びとがブコメを打っているのを見たわ。あのひとたちは考えこみながら、いろいろな記事や、なにかを再現する体験談や、だってほかには何にもないのだから、いろいろな記事、また別の記事や、なにかを再現する体験談や、だって他に何もないのだから、他の人のブコメや、そんなもののあいだを、ゆっくりと眺めていった。だって他に何もないのだから。
四回も、マスダに行った。
ブクマカたちを眺めた。わたし自身も、考え込みながら、炎上を眺めた。焼け焦げたジェンダー問題。打ち砕かれた非モテ。実在しているかのように傷つきやすくなった処女の心。ブクマ数をあらわす数字が真っ赤に燃え盛るのも見た。まるで死人花。そんなこと、誰が思いつくでしょう? ふわふわになって、まだ生きているような、苦しみの生々しさに耐えているtwitterのアカウント。いろいろなSNS。焼け焦げたアカウント。粉々にされた発言。
マスダたちが朝、目覚めたときに、ごっそり漏らしていたという、誰のものかわからぬクソの山。
ホッテントリで、わたしは熱かった。ホッテントリは1000usersを記録した。そのことをわたしは知っている。ホッテントリにあったのは、太陽の温度。そのことを知らないなんて言える?……ブクマカなんてたしかに半分は単純なボットだから……
男――きみはマスダで何も見なかった。何も。
女――ねえ、聞いて。あなたと同じに、わかっているの。政治というものが。
女――あなたと同じに、わたしも思考する力はもっている。わかっているの、政治というものが。
男――いや、君に思考する力はない。
女――わたしはわたしなりに闘った、その日その日、力のかぎり、戦わなければいけない理由すっかり失うことの恐ろしさに負けぬよう闘った、あなたと同じに、忘れてしまったの……?
ブクマ数は10000usersを超えるでしょう。 一万個の太陽のよう、と人は言うでしょう。インターネットアーカイブスは焼失するでしょう。
底なしの大混乱があたりを覆うでしょう。ひとつのまとめサイトが、匿名の大衆にもちあげられて落下し灰になるでしょう……。
ライターも運営者も読者も批判者も、いっしょに仲良く死んで伝説になるのを待っている……。
あなたのことを思い出す。
あなたは誰?
とってもいい気持。
想像もしなかった、この匿名ブログが、愛にぴったりの大きさにつくられていたなんて。
想像もしなかった、あなたが、わたしのアナルにぴったりの大きさにつくられていたなんて。
あなたが気に入ってるの。なんて思いがけないことかしら。あなたが気に入ってるの。
不意に訪れる、なんともいえぬ緩やかさ。微温さ。
なんともいえぬ甘やかさ。
あなたには、わかりっこない。
とってもいい気持。
とってもいい気持。
時間はあるの。
お願い。
わたしを食べ尽くして。
もみくしゃにして、醜くなるほどに。
あなたであってもいい。
あなたであってもいい、このマスダで、この夜に、いくたびもあった昔のはてなの夜に戻ったみたい、そう間違えるほど、そっくりだもの。
お願い……
前回の記事(http://anond.hatelabo.jp/20150602010807)を書いたちょうどその日,ガチマッチが解禁された。
ナワバリバトルが楽園に見えるほど苛烈なバトルが繰り広げられてるここで,クソザコの自分なぞ介入できる余地なんてあるのか?と思っていたが,それでも自分のチームを勝たせる(足を引っ張らない)立ち回りみたいなのはおぼろげながら見えてきたのでまとめてみたい。ちなみにこれはせいぜいBー~Bランクまでの話な。B+ランクやAとかいう天上界の話はもっとうまい人がまとめてくれる。
自分の体内には敵色のインクが詰まっている。
ガチエリア内でキルされるとそれだけで敵に貢献してしまう。自分の被弾が原因でカウントストップしたり,まして敵のガチエリア確保が決まってしまうと,申し訳なさ無限大だ。とにかくエイムに自信がなければガチエリアにはなるべく入らず,外や上から塗るべきだろう。
ありがちなのが,エリア確保されてあわてて取り戻そうとガチエリアを塗り戻そうとする行為。あれはやめたほうがいい。絶対敵が潜んでいて返り討ちにされる。敵の残りカウントが差し迫ってるならまだしも,敵に長時間ガチエリアを確保されても取り返せたときの敵側ペナルティが大きくなる(敵の精神ダメージ大)ので取らせておけば良い。攻勢は味方が集合してからかけよう。
2.エリア周辺を固める
ガチエリア内攻防はエイムの上手い方に任せるとして,クソザコの自分はとにかく周囲を塗って,味方の行動範囲の拡大に努める。このとき,ただ焦って撃っているだけだと簡単に位置バレして簡単にキルされるので,たとえば「3秒以上連続で撃たない」とか決めておく。
自分の場合は,3秒撃ったら潜って周囲を360°確認。問題なさそうなら,作業を進めてる。もし敵に気づかれてたり前方に死角があればボムなどのサブウェポンで牽制。ボムに気を取られてるその間に,別の味方が別角度から急襲してくれれば最高。おそらくガチマッチはナワバリバトル以上にサブウェポンの使い方が重要になってくるはずだ。頻繁に潜っていればインク切れの危険は防げる。頭は下げておいた方が良い。
3.キル数を増やすんじゃなくてデス数を減らす
ガチマッチで相手のカウントを大幅に下げさせてしまう要因は2つある。
1つは数の暴力。同じ方向から単騎で突っこみ,返り討ちに遭う。これを延々味方全員が繰り返すパターン。
これを防ぐにはガチエリア周辺のホットゾーンに突っ込む前にゲームパッドを確認しておくことか。有利な立ち位置になったと判断してから攻めていこう。
もう1つは全滅。一瞬でもエリア近辺に誰もいないという瞬間があると,味方がスーパージャンプができず,一気にエリア確保までもっていかれる。
これを防ぐには誰か一人でもエリア周辺に居続けることが大事。そのためには死なないことがとにかく重要。
数的不利の際に,敵に気づかれたら牽制しつつ逃げよう。自分自身がガチエリア近くの安置にいるだけでも有意義なんだ(味方のジャンプ先的な意味で)。逃げよう。逃げればまた来られるから(味方が)。
敵をキルできる可能性が高いのは,敵を背後や側面から撃てるとき。お互い視界は狭いので,正面以外の角度からの攻撃には簡単には対応できない。というかまずどこから撃たれたのか分からない。
こんな感じで進めていけば,Bランクくらいまでなら上げられるはずだ。ただここから先の暗黒大陸は人類の戻る場所じゃない。
こいつらどうにかしろ。もう知らん。
おれは小さい頃から何でも皿回しにするたちだった。
皿以外のことからはとことん逃げて、でも結局逃げ切れなくて、最後の最後に痛い目を見る。
夏休みの最終日、徹夜で宿題やるあれだ。右手腱鞘炎になるくらいに皿回して、つらくて、次はちゃんとしようっていつも誓うんだ。
いま大学4年になったけど、その傾向は改善されるどころか、よりひどくなっている。
授業休んでも大丈夫だって、単位来るって、どっかで安心してんだよな。
学校もバイトも適当に休んできた。4年になってから授業ほとんど出てない。
でも結局家にいても皿回してるだけで何の生産性もない。
家でゲーム回したり、マンガ回したりしてたら1日なんてあっという間に過ぎてる。
わかってても回しちまう。そんで、もういよいよやばいってなったら動き出すんだよ。
単位は留年はしないくらいにはとってるし、変な余裕があるのかもしれない。
就活もなんかわからんけど、とりあえず内定でた。まだ続けるつもりではあるけども、そこ入ってもいいかなと思ってる。
でも皿回しにしても、結局どこかでそのことがひっかかって、何も楽しめないんだよな。
生ぬるい底なし沼にはまったみたいで抜け出せなくなる。
おれは皿回し癖のせいで、人に迷惑をかけたこともあるし、失敗したこともある。
でも、おれの人生や人の人生が台無しになるようなすごい大事にはいままでなったことがないんだ。
甘えだといわれると思うし、自己中乙って感じだと思う。
でも、結局帳尻合わせられるってどっかで思ってんだよ。
誰か皿回し癖の治し方教えてください。
おれは小さい頃から何でも後回しにするたちだった。
やりたくないことからはとことん逃げて、でも結局逃げ切れなくて、最後の最後に痛い目を見る。
夏休みの最終日、徹夜で宿題やるあれだ。右手腱鞘炎になるくらいに書いて、つらくて、次はちゃんとしようっていつも誓うんだ。
いま大学4年になったけど、その傾向は改善されるどころか、よりひどくなっている。
授業休んでも大丈夫だって、単位来るって、どっかで安心してんだよな。
学校もバイトも適当に休んできた。4年になってから授業ほとんど出てない。
家でゲームしたり、マンガ読んだりしてたら1日なんてあっという間に過ぎてる。
わかってても休んじまう。そんで、もういよいよやばいってなったら動き出すんだよ。
単位は留年はしないくらいにはとってるし、変な余裕があるのかもしれない。
就活もなんかわからんけど、とりあえず内定でた。まだ続けるつもりではあるけども、そこ入ってもいいかなと思ってる。
でも後回しにしてることがあると、結局どこかでそのことがひっかかって、何も楽しめないんだよな。
生ぬるい底なし沼にはまったみたいで抜け出せなくなる。
おれは後回し癖のせいで、人に迷惑をかけたこともあるし、失敗したこともある。
でも、おれの人生や人の人生が台無しになるようなすごい大事にはいままでなったことがないんだ。
甘えだといわれると思うし、自己中乙って感じだと思う。
でも、結局帳尻合わせられるってどっかで思ってんだよ。
誰か後回し癖の治し方教えてください。
なんでもいいから書くといいよと精神科の先生にいわれたので書いてみる。
いままで「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメはたくさんあった。たとえば絶賛放送中の『アルドノア・ゼロ』もそうだ。『アルドノア・ゼロ』は間違いなく今期最大のヒット作になるだろう。虚淵玄はドイツではゲーテ以来の天才詩人といわれ、フランスではデリダの精神的後継者といわれ、ロシアではプーシキンの再来といわれ、アメリカではリアルホイットマンとたたえられ、日本では村上春樹をしのぐノーベル文学賞最有力候補だと一部ではいわれている。だがわれわれはあえて『残響のテロル』に注目している。なぜなら『残響のテロル』は「すべての過去をアニメにする」神アニメだからだ。「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメというのは「すべて」というところからわかるように、それ自体自己言及的になっている。したがって「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメというのはすべてのアニメを過去にした瞬間に、それ自身も自己言及的に自己自身によって過去に追いやられてしまう。すべてのアニメを過去にした偉大な新時代のアニメがその誕生と同時にすでに死んでいるというアイロニカルな構造になっているのだ。このアイロニーから逃れられないのが「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメなのであり、従来の傑作アニメというのは生み出されたときにはすでに陳腐化しているというアイロニーから逃れることができないでいた。「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメはそれ自体の内に過去を含んでいるのだ。真に創造的な作品だから未来志向にも見えるのだが、じつは過去という底なし沼から伸びてきた腐食した手にからめ取られて引きずり込まれてしまう。そしてその暗黒の沼に自己自身を見る(その手ははるか昔に、生まれる前にすでに死んでいた自分の手だったのだ。死産した胎児の声なき叫びだ)。「すべてのアニメを過去にする」アニメはそれ自身を過去にし、過去は更なる過去へとひきずりこまれ、原初の過去へと向かい、宇宙開闢の瞬間へ向かおうとする意志を持つ。すべては過去になる。すべては過ぎ去る。そして無へと潰れる。だから傑作アニメには一種の悲哀がともなう。そこには悲観しかない。われわれはわかってはいたのだ。傑作アニメを見たとき、それはすでに未来によって乗り越えられているということが。われわれはわかってはいたのだ。結局われわれは無を愛撫していたにすぎないということが。なにもかも過ぎ去って、すでに終わっていた。時間は凍結し、空間から熱が引いていった。だがわれわれの前に『残響のテロル』が現れた! ついに現れたのだ! 『残響のテロル』にはすべての過去が含まれている。便所飯はなにを意味するだろうか。それは食事と排泄の同時性だ。われわれはまだ口と肛門を区別していない。そうだ。これは生命の誕生なのだ。きわめて創造性の高い、無垢なる、自由な、永遠の意志、無限の未来への飛翔! 二元論の生じる前のカオスのカオス、混濁した幻覚的な性感帯のおそるべき幸福な絶頂感のみがみなぎった世界。なぜテロリストはアヒル口なのか。アヒルという牧歌的存在にこそ破滅の種がやどっているからだ。戦士は戦士によっては倒されない。戦士が死ぬのは娼婦の前でだけなのだ。これは歴史が証明してきたことだ。アヒル口テロリストは歴史に巣食ってきた処女性に含まれた亀裂、多産性と引き換えに失った平和の象徴である。射精的安楽こそ世界の火種なのだ。「すべての過去をアニメにする」神アニメはすべてをアニメとして書き換えていく、外部へと環境へと働きかける力を持つ。すべてをアニメにしていく、そしてそのアニメがさらなるアニメをうみだしていく。アニメはアニメによって置き換えられ、アニメがアニメに繋がることによって、それは永遠に進んでいく。アニメの無限行進。アニメの爆発的連鎖。それはアニメ時空ともいうべきものを作り上げるだろう。それ自体でのびつづけるアニメの網だ。それはもう冷える宇宙ではないだろう。次元を超えた愛だろう。絶頂を越えた世界でわれわれは天使になるだろう。耐えなければならないその圧倒的幸福に人間のままでいることは許されないのだ。『残響のテロル』はすべてをアニメにするだろう。なぜ都庁爆破があんなに簡単にできたのか。それはアニメだからだ。そしてそれは過去のアニメ的出来事、つまり主として911の余韻があるわけだが、まさにそのことによって、アニメ的出来事が現実ととけあい(911はたしかにいままでは現実として語られがちだったのだ)、その境界はここにいたって不分明になり、アニメ時空が現実に侵食してくることになるのだ。すべてはアニメ的になるだろう。幼稚さという狂気。短絡的な世界崩壊。理性の不発。それは『魔法少女まどか☆マギカ』によって予告されていた悪夢でもあった(Gen Urobuchiは惜しいところまでいっていた。だがかれにはまだ愛が足りなかった。かれは健全すぎたのだ、良識的すぎたのだ、大人すぎたのだ、成熟しすぎていたのだ)。鋭敏な鮮烈な想像力は退化して、茫洋とした曖昧模糊とした神話を呼び寄せる。そこに召喚されたアニメ時空が境界を侵犯して現実に襲い掛かってくるだろう。すべては妄想によって形成され、妄想はすべてとなるだろう。きみはやがて逆立ちして排泄するようになるだろう。もちろんわれわれにも恋人ができるようになるだろう! われわれはひとつの体験をすることになる。それは存在のあり方を変えてしまう圧倒的な体験だ。これを見てしまったらもとのままの自分ではいられないだろう。なぜならわれわれはひとつの真理を悟ることになるのだから。二次元的妄想によって書き換えられた世界はどこに行くのだろう。すべてはギャグの様相を呈してきている。われわれはいつも嘆いている。やれやれ子供だましなアニメだな子供向けというのは子供だましということではないのであってうんぬんかんぬん。だがしかし現実のほうがアニメ的であり、アニメ時空的であり、アニメなのではないか。だれがこんな世界にしたのだ。どうして美少女は空から降ってこないのか。いやそれこそアニメではないことの証拠ではないか、いやいや、むしろ美少女が空から降ってこないのは非現実的なのだ。ああとわれわれはさらに嘆く。きみは美少女が空から降ってきたところを見たことがないのか。もちろん『残響のテロル』では美少女が空から降ってくる。ヒロインはジャンプしたと見せかけて空から降ったのだ、まさにすべての過去を、すべての飛び降りた美少女たちの意志をアニメにするために。美少女が空から降ってくるという古典的アニメ表現は『残響のテロル』にいたって、ついにアニメと現実の境界をまたいでしまった。これまでアニメ表現はアニメ表現でしかなかったが、いま彼女が飛び降りたことによってすべてはアニメ的現実になった。それはたんなる表現ではないのだ、もはや現実なのだ、アニメなのだ。これまでにうまれた数々の傑作によってすべてが過ぎ去ってしまったが、ついにすべての過去をアニメにするアニメが生まれた。アニメ的表現がついに次元の壁を越えたのだ。すべてはアニメになるだろう。太陽の死の後、人類が生き残るにはもうアニメになるしかないのだ。われわれは新しい太陽を作ることはできない、だが、新しい太陽をアニメにすることはできる。銀河という足枷からわれわれが羽ばたくにはアニメの力がどうしても必要だったのだ。人類はついにアニメを本当の意味で獲得した。と同時に、われわれはアニメになった。われわれの想像力は現在の認知のありかたをテロリストのように破壊して、すべてをアニメにするだろう。人類はいまやっと白内障から脱して、真に世界を見ることになったのだ。諸君、世界は美しいか。
胸張って言えることではないし後ろめたさもあるけど
今この瞬間は働こうと決めて動いてるのにニート期間があるだけで落とされる
それなのに世の中はニートを働かせようとしてるなんて話を聞くと納得がいかない
人の手が足りてないんじゃないの?
何も週休二日、高給な手取りやボーナスを求めてるわけじゃないよ
自分の能力に見合った待遇でよいし、ニート期間を怪しんでるのなら
チャンスがほしいだけ
ニートっていっても、いろんな種類がいて底なしの体力がある人もいれば技術を持ってる人もいる
それぞれが見合った仕事をしたいだけなんだよ
年齢だってそうだ
もし、これがアスリートならうなずける
世界でトップを決める戦いの中、年齢は体力や集中力に直結するからほんの1年でも大きくかわるだろう
だけどニートは、ただ働きたいだけなんだ
必要なら年下の上司に頭を下げることだってできるし新しい業務を覚えるために
頭を柔らかくすることだってできる
せっかく入ってきた人間を育成するなら若い方が良いという割には即、辞められて困ってる企業も多いじゃん
幸運にもこれが人事のあなたの目に止まったらならニート期間を攻撃するのではなく
「今なにができるか」「これからなにができるか」
真っ正面から向き合ってほしい
そうやって対話した上で意にそぐわないのであれば不採用とすればいい
オバマ帰った?
ttp://anond.hatelabo.jp/20140413020052
これ読んだの。
なんか偉そうとかオナニーキモいとかプリン食ったのだ誰だとかタケノコ派の陰謀だとかブコメではけちょんけちょんですけど、元増田の言ってることはわかる。
でも僕もちょっと乱暴だなぁと思うの。
例えば車を勧める時に、日産にしろとか、アウディにしろとか、ルノーはやめとけとか言うなら、そのメリットを同時に提示しないと人は納得しないと思うの。
おまえ車の知識ひけらかしたいだけだろとかすぐ言われるの。
増田はベーシックな商品を推す理由をもっと丁寧に説明するべきだと思います。
んでじゃあ僕はっていうと、この増田の言ってることは大枠では正しいと思ってるんだけど、僕なりにベーシック商品を推す理由を書くっす。
おまえ誰やねんて話でしょうけども。何様?ねぇ何様なの?って話でしょうけどもちょっと聞いて。
こっちきて。
てかこれしかないんだよね。
家具でもなんでも、シンプルなものって、どんな部屋にも合うじゃない。
でもゴシック調の飾りのついた猫脚のキャストは、どんなに価値があっても部屋を選ぶじゃない。
軽井沢のバンガローには合わないじゃない。明けない夜はないじゃない。
無印のキャストなら、まぁ、100点では絶対ないけど50点以下にはならないじゃない。
でもさ、でもだよ?
ちみたちはアレでしょ?モテ=オシャレでしょ?んでオシャレ=デザイン性っていう筋肉直結バカ右脳でしょ?
オシャレ=デザインじゃないよってことを今日は思い出して帰って欲しいな先生は。
君たちはできる子だから、そんなのわかってると思うの。
これ読んで、何を今更wwwとかプックスしてるとおもうの。
普段そんなデザイン性高い文具とか、食器とか選ばないはずなの。
でも洋服屋さんに行くと、ついついカッコ良さげなギミックとか、カラフルな切り替えとか、可愛らしいフリルとか、ちょっと捻りのきいた柄物を、これくらいならいけるかなー?って選んじゃうの。迷子なの。子羊なの。知ってる。神様は見てる。
じゃあもういい。
知ってるから。どんなに言っても、君たちがそういう服選んじゃうの知ってるから。
オシャレ心が君たちを殺してるの見てきたから。モテ目線で言うならね。
じゃあ、今日連れて帰ってきちゃったそのエッジのきいたちょっと派手目なパーカー、何に合わせんのって、その臭そうなクローゼットを覗いて見て欲しい。
先生は、UNIQLOのTシャツや無印のデニムと合わせたらよくね?って思います。
元増田が言うような、ベーシックアイテムの追求ってのはその先にあると思うの。一歩先。
でもその一歩先は底なしの探求コースなの。エンドレス。一周回ってオシャレなの。
んでみんなも薄々そんなことはわかってるから、元増田のエントリーの端々から感じ取れるから、ムリ!ってなっちゃうと思う。
でも優秀なのは認めないといけないと思う。
おかんに、シマムラよりUNIQLOで買いなよって、僕なら言う。
尊敬するデザイナー秋田道夫氏の言葉で「機能を増やすには技術がいるが、機能を減らすには哲学がいる」という言葉があります。
哲学を持って完成されたシンプルさには、必ず美が宿っていると思っています。
僕の文章は一向にシンプルになりませんけども。
対人スキルが高いかまってちゃんの新しい環境で友達を作るスピードは異常だ。
なんだかんだでかまってちゃんという人種は多数存在する(大抵レベルの高いかまってちゃんはかまってあげるちゃんを兼ねている)らしく、当事者同士需要と供給が一致すれば当然距離が縮まるのも早い。
そんなエリートかまってちゃん達を見ながら最初は立派な特技を持っていて羨ましいと思っていたが、自分がかまってちゃん当人と少し親密になってみてわかったのは、あくまである程度の距離まで近づくスキルが高いだけであって、その後の信頼関係を構築する段階になると急に頼りなくなるということだった。
要するにかまってちゃんは、そのある程度の距離(一般的にはかなり仲が良いとまで認識されそうな距離)にまで近づく相手は「誰でも良い」ので、かまってちゃんととても仲良くなったように思えても実は個人としては認識されていないままなのであった。
「かまわれたがってるからかまってあげてる」「かまってあげることでかまわれたい」そんな言葉を口にする。おそろしいほどに徹底されたギブアンドテイクの世界がそこにあった。「あなたが好きだからかまいたい」わけではないのだ。
この手紙をどうはじめたらいいだろうと蝉の鳴き声もかまびすしい夏からずっと考えていましたが(伝えるって本当に難しいです)、結局気の利いたすばらしい挨拶が見つかりません。ですから、はじめまして、小鳥さん、とだけわたしはいいたいと思います。あなたに伝えたいことがあって今回このお手紙を書くことにしました。突然のことで申しわけありません。
*
あなたはまず思ったことでしょう。お気に入りの自転車のかごに放り投げられた、飲み口にまだ内容物のこびりついている中途半端につぶされた空き缶みたいな不躾で無礼なこの恋文を送りつけてくるわたしが誰なのか。
わたしは現在36歳、独身、職歴なし(アルバイト歴はあります)、童貞、アニオタ、精神のほうをわずらっており、精神障害2級、まったくありがたいことに障害基礎年金も受給させていただいており(2級。786,500円/年)、日々社会復帰に向けて努力している(作業所で時給200円で働いております。内職系の作業です)日本に確実に数%は存在するありがちな中年男性です。若いころのあだ名は塩昆布です。キモオタAAを想像していただければおわかりになると思いますが、この世の悪意を集中的に浴びてきたせいか皮膚が月面のクレーターのようになってしまっており、細身という点ではまだ社会的に許容されうる生物なのかと思ってはおりますが、実際かなりの醜男です。野良猫に般若の面をかぶせて火をつけてみれば、野良猫はおそらく面を残してなに食わぬ顔で逃げていきますが、ちりちり灼かれていくその面に残った放火魔の殺意と怨念と哄笑こそがわたしの顔からにじみ出ているといってもよく、わたしはそのような人間とは正反対の人見知りでおとなしい男であるにもかかわらず、買い物先のイトーヨーカドーで出会った幼児には顔を見るたびになにか恐ろしいものでも見たかのようにびくっと反応され、かならず泣かれてしまうのです。
小学生のころから容姿をからかわれいじめられてきたわたしは他人に自分の姿を見られるのが恐ろしく、友人も恋人も作らず、いや、作れずといったほうが正確でしょうか、人生に絶望し、引きこもり、勇気を出して面接に行っては人事担当にお祈りされ、ついに自殺未遂をしたあとでは、家族にもうなにもするなといわれ、こうやって小鳥さんのことを考えて毎日すごしています。小鳥さんの腋を見ると、わたしのあのひからびてしまった棒状の物体(その先は言う必要ないですよね)も突如として復活し、さらさらとしたそれでいて粘性のある透明な液体が山奥の新鮮なわき水のようにちょろちょろとあふれてきて止まりません。そんなしょうもない中年のわたしですが、小鳥さんは「わたしでしていいよ(・ω<)」といって顔をほんのり赤らめほほえんでくれます。ああ、なんて天使なんだ!
「小鳥のやつはさ」と鉄男さんは眠たげに足を組むと、たばこに火をつけていいます。「遊馬のことが好きなんだ。だけど遊馬のやつはED(勃起障害)でさ。超越論的跳躍(かっとビング)しすぎた副作用らしいけど。小鳥も酬われないよな」
「わたしは遊馬のことが許せませんよ。小鳥さんを情熱的に愛撫すべき立場にいながら、なめらかな肌といやらしい声と絶妙なチラリズムの天使を無視して、蜜蜂のように扱ってはしっしっと追い払ってしまう」
「そこなんだよ。たしかに処女膜から声は出ていないが、間違いなくあいつは処女だぜ。でも遊馬はEDなんだよ。詰みだよ、詰み。チェックメイト。E、N、D」
「EDになってから幽霊(アストラル)が見えるようになったとか」
「霊感商法ってやつだよ」
「まったくひどい!」
「その通り」鉄男さんはそういうと、たばこを排水溝にはじき飛ばして立ち上がり、ふうとため息をつきました。その背中がとても男らしかったです。
鉄男さんは遊馬と親友という噂でしたが、実はそれほどでもなく、微妙な距離感を保っているらしいですね。ちなみに鉄男さんには璃緒さんという統合失調症の未来の恋人がいるらしいので、小鳥さんには興味がないということでした。よかった!
*
わたしは小鳥さんの魅力を語りたいのです。
*
まずは腋です。小鳥さんはことあるごとに片手を突き上げてその美しい腋を全世界に全宇宙に見せつけています。小鳥さんの腋のくぼみ方はミケランジェロも参考にしたといわれるほどの芸術的な曲線美で、腋汗が溜まりやすく、舐めると南国の風の爽やかさとやや辛めの塩味が感じられてとても美味です。安い発泡酒を飲みながらちびちび舐めるのがとくに好きで(まずい酒のほうが腋汗のうまさが引き立つ)、まるで食べて応援することによって日本社会が皮肉っぽくも明るくなるように、わたしの鬱々とした気持ちも小鳥さんの腋汗によって応援されるようなのです。鬱病患者に「頑張って」は禁句だと世間はいいますが、それは世間のしょうもないオッサン、オバハンからの善意という名の嫌がらせについていうものであり、火星の砂粒やミトコンドリアすら愛するような天使からの励ましはわたしを勇気づけてくれます。「増田くん、頑張って!」「いいですとも(`・ω・´)」
鉄男さんは小鳥さんの腋について以前こうおっしゃっていました。
「小鳥の腋はすげえよ。おれが小鳥に決闘(デュエル)で勝てないのはあれのせいなんだ……」
「というと?」
「見たらわかるだろう? あの肉感的な陰翳、くぼみに渦巻く官能的な黒い風。あの腋が生み出す磁場はファルスを屹立させる特殊効果を持っているんだ。おれは決闘に集中できなくて、それでどこに意識を集中してるかっていったら……」鉄男さんはちっと舌打ちすると、それにつづくことばをためらっているようでした。
「なるほど。でも鉄男さんは璃緒さん押しなんですよね」
「もちろんそうさ。璃緒さまは小鳥とは違うよ。璃緒さまは性的なものを超越していらっしゃるからな。でも小鳥はやばい」
「ですね」
「小学生のころ、夢のなかに小鳥が出てきてさ、『鉄男くーん』とかいって頭の上で手を振ってるんだよ。まだ毛も生えてこない腋がちらちら見えてな。そしてあの磁場がおれのファルスにとりついて、シェイクスピアの生み出したあの世紀のアホ、リア王とでも比べればいいのか、情けないことにおれは下着を濡らしてしまった! とんだ娼婦だよ、あの女は!」
「でも、その……、よかったんでしょう?」
「まあな」鉄男さんはそういって照れくさそうにくすくす笑うと去っていきました。こちらを振り返らずにあばよと手を振ってよこしたのが夕陽の逆光のなかで見えました。
おそらく小鳥さんの腋からはなんらかのフィールド魔法が自己言及的に発動していると思われます。腋が下半身に絡み付いてくる、ちょうど異星人の触手が美少女戦士をしめあげて離さないように。そこでわたしは腋地獄という概念を提唱しました。小鳥さんの腋はバウムクーヘンのように七層構造になっていて、そのそれぞれが自律的に動いています。そして腋全体も螺旋状に回転していて、ちょうどウロボロスの蛇のように、リビドーが第七層の腋まで達すると今度は第一層の腋に連結され、循環され反復されることによって小鳥さんの腋地獄はさらに磁力を増すのです。もがけばもがくほど深みにはまる底なし沼、負ければ負けるほどやめられないギャンブル、呑めば呑むほど呑みこまれるアルコール。そうです、小鳥さんの腋とはあらゆる依存症のメタファーなのです。小鳥さんの腋はやめられない。前立腺の指圧師! 快楽の大銀河!
*
つぎに太ももについてです。これについても新概念を導入しましょう。それは不可視のパンティです。あるとき鉄男さんはつぶやくようにいいました。
「なあ、増田ちゃん」
「なんです、鉄男さん」
「お前、見えてるパンツをどう思う?」
「どうってどういうことです?」
「いやな、おれくらいになると見えてるパンチラに興奮しないんだよ。わかるかな。見えてるパンツはただの布だよ、増田ちゃん」
「メモっておきます」わたしはあわててオタク風の黒いリュックサックから黒い手帳と黒ボールペンを取り出しました。「でも、パンチラとは見えるからチラなのでは?」
「そこなんだよ、増田ちゃん」鉄男さんは少々呆れたように笑います。「パンチラとはいうが、チラってしまえばパンチラではないんだ。パンチラとは一種のパラドクスのことなんだよ。パンチラとは非パンチラのことだ。おれたちはその見える“かもしれない”という可能性に人生をかけているのであって、布に人生をかけているわけではないのだ。見えそうで見えない、でもよく見ると見えているかも、いや、見えていない。それがパンチラというものだ。わかるかい、増田ちゃん」
「うーむ。なるほど。あ、すみません、鉄男さん。このボールペン、インクが出ないのでメモれません」
「書けないボールペンとな!」そういって鉄男さんはぼくの手からボールペンを引ったくると大事そうにズボンのポケットにしまいました。「見えないパンティこそ美しい。書けないボールペンを使えば時空の果てでも恋文が書ける。そして璃緒さんはうるわしい!」
わたしは小鳥さんのパンティを見たことがありません。あ、どうか勘違いしないでください。わたしは見たいと言っているのではありません(それでは変態さんですね)。見えそうな状況でも見えないということが小鳥さんの魅力だといいたいのです(しかし絶対に見えていないともいいきれません)。小鳥さんはパンティを見せないことによって、自分の存在が布へと矮小化されてしまうことを一種のヒロイン的生存本能によって防いでいるのです。布ならば手に取りじっくり見て分析し解釈し考察することもできますが、小鳥さんはそのような研究対象から逸脱した、科学的な尺度によっては測ることのできない超越者だということなのです。小鳥さんの太ももには慈悲があり永遠の平和がある。そこにわたしは神を見たのです。
*
小鳥さんはとても明るく元気でまるで熱帯雨林のように表情豊かな方です。明るい陽射しのなか丘の上に立ってこっちに手を振って鈴蘭のように笑っている顔も、土砂降りのなか服をびしょびしょに濡らして蒼白になって泣いている顔も、誰かさんのテストの点数のように真っ赤になって恥ずかしがっている顔も、遊馬を心配している顔も、感じている顔もすべて素敵です。そしてその表情のすべてが一回きりのもので、ふたたび同じ表情が現れることはありません。小鳥さんの表情は数によって大小を示せるようなものではなく無限そのものなのです。これは誇張でもメタファーでもありません。小鳥さんの顔は見ていて飽きません。
「増田、おい増田」誰かと思って振り向くと雑居ビルの影から鉄男さんが呼んでいました。
「鉄男さん、どうしたんですか。てか、そんなところでなにやってるんですか」鉄男さんの首にはひもがかかり、その先端にカメラがぶらさがっています。
「いいからこっちこいって」あの穏やかで紳士な鉄男さんがいつになく興奮しています。
雑居ビルの影に隠れると、わたしは十数枚の写真を渡されました。そこには璃緒さんが写っていました。
「美しいだろう?」
「きれいなひとですね。で、なにやってるんですか」
「これから璃緒さまが病院に行くんだ。ここはその通り道になってるってことだ」渡された写真をよく見てみると、どの写真も雑居ビルの薄汚れた壁と特徴的なお掃除ロボットが写っていて、まさにこの場所だとわたしにもわかりました。璃緒さんは写真ごとに異なった服装です。
「璃緒さま、今日はどんなお洋服なんだろうな」
「鉄男さん、これってストーカーってやつでは?」
「おれには愛がある!」
璃緒さんの無尽蔵の洋服が鉄男さんのコレクター魂を刺激し惑わせ堕落させたように、わたしも小鳥さんの表情に吸い寄せられ離れられなくなってしまいました。でもこれは愛なのです。
*
小鳥さんの声はわたしの敏感な部分に海底トンネルのようによく響きます。よくあるきんきんした味気ないテンプレート的萌え声ではなく、ロリであるにもかかわらずエロいという特徴があって、少女として見ると大人っぽく、大人として見ると幼女っぽいという絶妙なバランスとなっております。尿検査では中間尿を採取しますが、それと同じようにわたしたちが最も注目すべきなのは、少女でもなく大人でもない、その境界線を肉付きのいい脚でまたぎ、ふくらみかけの乳房を突き出しながら居心地悪そうに立っている半熟の女の子なのです。小鳥さんの声はまさにその時期を繊細に表現しているいってもよく、この世でもっとも貴重な声のひとつであるとわたしは断言いたします。
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最近の女子は料理が作れなくなってきたといわれています。そんな現代社会ですが、小鳥さんは決闘飯(デュエルめし)を作ることができるとても家庭的な素敵女子なのです。小鳥さんの体液、通称小鳥汁がしみ込んだ決闘飯とはいったいどんな味がするのでしょう。鉄男さんによれば、小鳥さんの決闘飯は「バイアグラの味」だそうです。
*
ああ、どうしましょう、くだらないことを書いてしまいました。申し訳ありません。わたしはどうしたらいいのでしょう。生きているとつらいことばかりです。すべてがむなしいです。幼女を見てもかわいそうだと思うようになってしまいました。こんな不完全な世界の重圧をその春風のような無垢なほほえみで受け止めなければならないなんて。世界はグロテスクで悪臭を放っていますが、迷信のごとき科学技術や洗練された(!)法治主義社会がたくみに見せかけの清潔さで覆い隠してしまいます。それは合成着色料のようで、すべてはフォトショップ的ともいえる一種の嘘で塗り固められていて、どこにも真実はなく、しかし虚偽すらなく、ただひたすら軽薄で浅薄で希薄で、原初の一点から湧き出たあの宇宙的エネルギーはどこにいってしまったんだと、この時代の無意味さ、無価値についてわたしは考えるわけですが、わたしのそんな行為ともいえない似非行為すらまったく意味のないことで、わたしが死ねばすべてはどうでもよくなるのだと思ったりもするのです。
しかし自殺しようかなと思ったときに毎日小鳥さんがわたしにほほえみかけてくれます。「増田くん、超越論的跳躍(かっとビング)よ!」なるほど、たしかにわたしの眠っていた愚息は雪融けのように感動的な反応を見せ、天上の世界(アストラル界)を目指してぐんぐん伸びていきます、蛇玉さながらに。そしてわたしは今日も生きようと思うのです。EDになるまでは。小鳥さん、あなたが存在していてくれてありがとうございます!
彼らの情報商材に中身は無い。少なくとも対価の1/1000の価値も無い。
にもかかわらず「必ず儲かる」といったようなキーワードで宣伝ができるのはなぜだろう?
「利率50%保障」や「必ず幸運が手に入る!」という表記は詐欺罪や景品表示法違反でしょっぴかれる。
彼らはなぜ捕まらないのだろう。
このあたりに彼らの巧妙さがある。
彼らが売る商材は「情報」であり、これを使えば儲かるという。
ただし、「この情報を上手く使いこなせればね」という前段がつく。
場合によっては、この「方法」とやらを、やはりセミナーやコンサルティングと称して売る。
いったん数十万はたいて商材を買った人は、元をとりたい。だからそれらを追加で買う。そして気づいたら底なし沼にどっぷり...。
中身ペラペラのゴミを大枚はたいて買い、半信半疑でセミナーを受けるも具体性が無いか実現不可能な話ばかり...。
「詐欺だ!」と訴えようとすると彼らはこう切り返す。
「それはあなたのやり方が悪いんですよ、現に○○さんは稼いでいるじゃないですか。もっと頑張って下さいよ...」
教材に否は無い。サポートも完璧。なぜなら、それで儲けている人がいるでしょ?目の前に。
こうやられると、判断力が鈍っている(またはもともと鈍い)カモは反撃できない。
そもそも彼らが売っている情報とは何だろう?
たとえば、「お店のはじめ方」という本があったとして、中に書かれているのは土地選びや届出など実務的なことばかりだとする。
この本が「(上手くやれば)絶対もうかる方法」と称して売っていたら...、どうだろう。
確かに、嘘ではない。
上手くお店をやれれば、確かにもうかる。
問題はそれがとてつもなく難しいということだ。
で、彼らの情報商材もこれと同じだったりする。
中身はサイトの開設方法やSNSでの宣伝方法など、ごくごく常識的な手順ことばかり。それをSNSとかブランディングとかの飾りで覆っているだけだ。
そもそも「上手くやる」才がある人はこんなマニュアルは必要が無い。
たとえば、借金して適当なサイトを作り、そこに高級車をのりまわす自分の姿をアップし、やはり借りた金でガンガン広告を出し、「こうなりたければこのマニュアルを買いましょう」と広めて集まってきた情弱にクズ情報を売るなんて商売を思いつく天才には、全く必要が無いんだな。
底なしの恐怖がずっと付きまとう。
子供も底なしの恐怖がずっと付きまとうかもしれない人生を歩むかもしれないよ。
なので、底なしの恐怖を紛らわせる為に子供を作るというのは鬼畜の所行とも言えるでしょう。
元来子供に興味が無かったので作らないと言うこと前提で去年結婚した。
夫は子供好きだから申し訳ない気持ちはあったけれど産んで育てる事が嫌になったらそれこそ一大事なので何度も話し合ってそう決めた。
私は30歳半ば、そもそも子供を産むにもタイムリミットが近い。
それなのにふと昨晩自分が死ぬ時の事を考えて怖くて仕方なくなってしまった。
私には夫以外に身寄りがない。
夫が先に死んだら私は天涯孤独になるだろう。
ひとりで生きていく事はいつまで出来るのだろう。
たとえばそこに子供の存在があったら、何か変わるのではないだろうか。
一人悶々と考えて気づけば朝になっていた。
産むならばもう決断をしなければならない、夫はきっと喜ぶだろう、けれど経済面で様々な不安があるし、そもそも子供に興味の無い私が産み育てられるのか。
高齢出産は色々なリスクもある、たとえば障害のある子供だったらどうなる?
そもそも、子供が好き、欲しい、と思っていないのに、ただひとりぼっちになるのが怖いという気持ちで子供を産むことはとても罪深い事ではないか。
考えてみても正解はわからない。
底なしの恐怖がずっと付きまとう。
昨日、とあるおじさんが語ってくれた。
それは、おじさんが幼い一人息子をアメリカの高額な幼稚園に通わせていた時の話だった。その息子さんは私よりもかなり年上なので、相当に昔の出来事になるだろう。
ある日、おじさんはふと思い立って幼稚園での息子の様子を見に行った。探してみると、息子は部屋の片隅にポツンと蹲り、板切れを叩いていた。傍には先生が一人付き添っているだけ。そこでおじさんは父親として先生に相談した。「息子にもう少し別のことを学ばせてもらえないでしょうか?何と言っても、ここの保育料はあれだけ高いのだし、板切れ遊びをさせておくのではいくらなんでも…あまりに…」先生の説明はこうだった。「ここではただ2つの事を取り扱っております。一つは子供達の安全を保証すること。もう一つは、子供達に自分の好きなことをさせて、それから励ますことです。よく出来ました!と。こうして子供達に自信を持たせてこそはじめて、子供達のその後の人生はしっかり充電されたようになり、原動力に満ち満ちたものになるのです」
この話を聞いて、突如、私に足りないものが何であったのかに気付いた。これまでの人生の長い時間を何が何だか分からないまま、孤独と憂鬱の中に費やしてきたのは、私の人生には充電が無かったからだ。無いどころか、それと真逆のマイナスなものを持っているのが私だ。
裕福な家の子供が良質な教育で人生の加護を受けている時、私達が幼稚園で先生に言われたのは背筋をピンと張って座っていることだった。余計な動作はしないよう両手は膝の上で、ちょっとでも他の動きをしたらすぐに怒られた。小さい頃の私は毎日毎日、どんな事でも先生に家庭へ報告されてしまい、何処に行っても何処からも歓迎されていないようだった。
また一方で、裕福な家庭では決してないけれど、よく気を配った両親に育てられた子供達もいる。彼らは成長していく中で、良い方向を向き、良い導きを受ける。おそらく小さな頃にはこの違いがはっきりと表れることはない。けれども、ひとたび二十歳くらいにもなれば、鮮明に痛快に現れ出してくる。キラキラ輝き始めた人生の中で、子供の頃に受けた導きこそが、すなわち、その人の力の源泉なのだ。
そんな「充電されたことがある」人達は、真面目で継続的な努力家で、自分が何をしようとしているのか分かっている。それが私のように「負のエネルギー」に満ちている人間であれば、もちろん私は極端なケースなのだろうが、迷って困って、心配で不安で、疲労困憊で生きている。私の両親は、私がどう思っているのかを気に留めたりは全くもってしない人達だった。父親は隣の家のおじさんと何ら変らず、よそよそしい存在だった。母親は気分次第で私の成績に介入したり、娘の健康に気づけなかったりだった。私が病気にかかると居ても立ってもいられなくなるものの、普段は何の躊躇いもなくジャンクフードを食べさせていた。昔から今日までずっと、母親は私の事に何でも手を出して支配したがっている。だから私は彼女に握らせ、彼女の好きにやらせる。私がどう思うのか、私の心を彼女は見落とし無視する一方で、取るに足らない些細な事は自分が握って操るのが大好きなのだ。私が病院に行くときは、必ず付いてきたがり、医師に向かって病状を丁寧に詳述し、一瞬たりともその口が閉じられることはない。だからこれまで私は自分で話さず、母親が話すに任せてきた。小学生時代の記憶でも、母親はちょっとでも忙しくなると、すぐに癇癪を起こし態度や感情が激しく変わった。そういう人なのだ。私がまだかなり小さかった頃、母親が自作のお話をしてくれることもあった。私は母親の作ったお話を聴くのが好きだった。けれども、そんな幸せな事は小学校に入学すると、どれもこれも終わりを告げた。まるで、最初から何も起こりはしなかったかのように終わってしまった。もしもそれを証明する母親直筆の手紙がなかったら、そういう幸せな出来事があったなんて私には信じられなかっただろう。実際、私は母親の手紙を読みがら想像するのだ。存在しない幸せの思い出が、実は現実に存在していた出来事かのように。
毎日、私が時間の約60%を費やすのは、怖れ、不安、苦しみ、理由もない悲しみ。私は自分を咎めるばかりで、その後、現実逃避な世界を隠れ家にする。ドラマ、映画、二次小説。今だって相変わらずこんな逃避をしていて、その上、更にまた時間を大量に使っては自分の過ちを悔い改めねばとくよくよしている。かつて幼かったあの頃、私はあたかも養鶏場で飼育されているヒヨコのようで、爪と嘴を切り落とされ、均質な大集団と一緒に狭苦しいゲージの中に閉じ込められていた。互いに足を踏みつけあい、押し合い圧し合い振り向くことすらできない。食べさせられるのは成長ホルモンと抗生物質。こんな画面が頭の中で鮮明になればなるほど、私の気分は少しマシになる。これは多分、ある種の自己憐憫であり悲しい自己陶酔なのだ。成年になれた私が如何に足掻こうとも足掻こうとも、結局は私もまた嘴を切り落とされたニワトリでしかない。
でも、誰にも心の中の思いを打ち明けられない。永久に。例え両親がそばに居たとしても、下の方に底なしの孤独が存在していると感じる。私の居る下の方では、深淵の底は覗き切れない。
とても苦しい、だが、こんなのは駄目あれじゃないと駄目とは言わない。両親や環境の意味を責めたりもしない。もし心のなかに重い苦しみがなければ、こんな風に均衡を失った憂鬱の表情を絵筆で描けなくなる。生涯一文無しでも私は困りもしない。この苦痛に浸されきった精神をただ背負っているだけ。
夢とか憧れには重みがあるから下手に抱いたらぺっちゃんこになって自殺しちゃうことがある。
青年あるあるだね。
目標というのはただ存在するだけでは無意味で、大事なのは確かな道程があること。
スタートとゴールが繋がっていない双六だなんてやりたくないよね。サイコロ振る気にすらなれない。
どうすればいいかなんて自分で考えなさいっていうありきたりの批判は、言われなくても出来る。
だけど考えなくても分からないものは分からないし、むしろ考えるだけ泥沼に嵌る類なのかもしれない。
思考は泥沼の底なし沼で、運悪くそれに片足突っ込んだら終わり。あとはもがき苦しむのだけれども、溺れている当の本人にはその溺れていることにすら気づかない。気づいた時には時既に遅し。