はてなキーワード: 宝石箱とは
会社の先輩から育児漫画を紹介された。かわいいほのぼの系の漫画や、シュールなやつ、ハック系に近いやつ、よくわからんけど、色々。
口では『どれも癒されますね〜!』とか適当に言っといたけど、そういう類の漫画がマジでマジで嫌い。youtubeの宣伝にでてくる『テポドンのなんちゃらかんちゃら発射〜』って逝っちゃってる歌を歌ってる歌手と同じくらい嫌い。
これを言うと、同性として信じられないて顔されたりするから絶対言えないけど。嫌いなんだわ。
子供は好き。他人の子供も可愛いと思うし自分に子供が生まれてもきっと可愛いと思う。
どっちかというとそれをひけらかす親の顕示欲が気持ち悪く感じてしまうのだ。
一生懸命子育てやってます!夫婦でてんてこ舞いです!でも幸せです!うちの子が世界一!ドヤァッ
ってさ。
そもそも他人の子供のエピソードに全く興味がない。自分の子供のエピソードを面白く興味深いかたちに編集して漫画(っぽい落書き)にして公開する神経がわからん。
どの漫画も似たようなこと描いてあるし、それこそ掃いて捨てるほどあるのになんでみんな描いて公開したがるわけ?
バズりたいわけ?有名になって本出して稼ぐつもりなわけ?運良くバズったら瀕死状態の出版社が素人たぶらかして出させるだけで売り上げなんてないようなもんでしょ。
単なる思い出の記録としてっていうんならなんで公開するの?やっぱいいねが、承認欲求が満たされるものがほしいんだよね?生物としての最大の幸せをみんなにアピールしたいんだよね?
子育てなんて、なんら珍しくないエピソードの連続じゃん。でもその当たり前が、宝石箱に閉じ込めておきたいくらいのもんじゃないの?しまってていいじゃん。ひけらかすな。いいもんなのは、わかるから。
あと地味に気になるのが、子供が大きくなったら、そういう漫画書いてる人らはどうするんだろ?ぱったり描くのをやめるのか。
もしくは、自分のプライベートを切り売りする素材をまた見つけるのかな。
ワーママ日誌
息子が不登校になりまして
〜自由人の息子と泣き笑い365日〜
的な?あほらしッッ!
晴れ
朝起きたくらいは寒かったけどどんどんあったかくなってきた
水位低い
カモなし
コサギ4
川の端から真ん中あたりにかけて大きな半円を描くような感じで一定の距離感を保ちながら佇んでた
パーソナルスペースじゃないけどエサさがしするにあたっての暗黙のルールみたいなもんがありそう
4もいるのは珍しい
甲羅干しの亀7、と思いきや8
死角にもう1匹いた
なんてやつだといつも思うけど、下敷きの方もなぜいつもなされるがままなんだろうか
それとも自分は先にいくらか甲羅干しできてるからまあよかろうという寛大な精神なのか
ただ動いて振り払うことができないだけなのか
今日はたくさん生き物いたから、「これはまるで生き物の玉手箱・・・玉手箱・・・?・・・宝石箱やー!」という言葉が脳裏に浮かんだ
なんかうれしい
ギターをしてる人なら知ってるかもしれないが、エフェクターというのはエレキギターの音を変える箱みたいな機械のことです。
エレキギターを買えば色んな音が出せるかといえばそういうものではなくて、アンプとギターをつなぐケーブルの間にエフェクターを差し込むことで色んな音を出します。
歪んだロックのような音、コーラスの掛かったゴージャスな音、リバーブをかけた気持ち良い音。無限の音たち。
自分が求める音にするためにこのエフェクターを使ったりして表現するのです。
色んなことを1つでやってのけるマルチエフェクターというのもあるのですが、だいたいはこの音を出したいがためにマルチはあまり使いません。
だから色んなものを集めたくてすごーくお金を使ってしまいます。1つだいたい1万くらいですかね。今では、中国の安いやつもありますし、やっぱりいい音がするブランドの高いやつ2、3万のものや12万くらいするケンタウルスっていうエフェクターもあったりします。
初めて買ったのは、高校生のころですかね。歪みのエフェクターを御茶ノ水で買いました。新品のやつではなく中古で買って、8000円くらいの歪みしたかね。すごく嬉しかったな。すごいギターらしい音になってかっこよすぎって、最強だなって。
そこからマルチエフェクターも買ってみたり。色んなエフェクターを買ったり。エフェクターを運ぶケースを買ったり。スイッチャーを買ったり。ケーブルを自作してみたり。
ケースをあけると僕の大切なエフェクター色んな色や形で宝石箱みたいなんです、本当に。
僕だけの宝石箱。色んな思いが詰まって僕を表現する音が出てくる。
なんとかっこいい音なのだろう。
モノとして気に入ってたり、思い入れがあったりする。
婚約指輪やスイートテンの指輪は、贈られたモノというより自分の歴史だとも思う。
モノには罪はないから気にせず身に着けたらいいと思う。
でもけっきょく何年も着けてない。
友達とランチしてたら、昔付き合ってた人からもらったリングやネックレスを売ったという話題になった。
私はあれも、これも、まだそのまま持ってる。
でも、そういうのを家に置いておくのはよくない気もずっとしてる。
ものすごく辛かったけど、何年も経つと元ダンなりに愛してくれてたこともわかる。
いつか、いい想い出だけになって、きらきら光るダイアの入っている宝石箱を開けてしみじみしたりするかもしれない。
結婚と比べると恋人というのは儚く不安な関係だ。口にすると壊れてしまいそうで怖い。
私はほとんど誰にもそういうことは話していない。
捨てんかい! 話はリングやネックレスに戻って、友人にこんこんと説教された。
そんなものを置いている家にその人を呼ぶのは失礼だ、
だいたい過去を振り返ってどうする。
失礼というのが効いた。
帰宅してまず目に付く大きなモノ、洋服をゴミ袋に放り込んだ。これで買ってもらった洋服はなくなった。
バッグはないと困るので買い替えよう。
その次の日アクセサリーを整理した。一つ一つに想い出があって、きつかった。
離婚したけど、心のどこかでちゃんと離婚できていなかったのだと思った。
その勢いで宝石の付いていないのを地金買い取りに出した。
そうして片づけてたら元ダンの厄年に母がもらってきたお札が出てきたので、次の日に返しに行った。
3日連続頑張って、1つ区切りが付いたと思ったらクラクラしてきた。
次の日、眠くて眠くてずっと寝ていた。
全部売ったら、もう元ダンから贈られたものは何もかもなくなる。
追記
ピコピコ音とかが好きっていうのもあるけど演出?っていったらいいのかな?
バックサウンドの装飾の選択肢がロックとかクラシックとかより圧倒的に自由度あるじゃない?
もう使えるやつは何でも編集して使っちまえ感がすごい、音の宝石箱やぁ~!!!
とにかく新しい曲は聴いてて次は何が待っているんだろうかとワクワク感がすごい
邪道とか何とか言われるかもしれないが、そこだけは譲らないプレイヤーとしての真剣さが伝わってくる
クソアーティストが作るネタ系のヒップホップみたいに斜に構えてティーンズにウケ狙いのような曲もテクノやニューウェイブにもあるかもしれないけど
基本的にそういうのはこのジャンルでは売れないかちょっとヒットして時期が過ぎると終わりで長期的に売れないので主流じゃない
アドレナリンが出て興奮しているのが分かる
それに比べてフォークソングとかクラシックとかはもう前後の曲調が分かりすぎていて
どれだけ音が綺麗だとしても全く感動がない、全部予定調和の中に納まってる
「え!え!え!そこそうなっちゃうの?う、うおお…うおお…俺をどこに連れていくつもりだ…」みたいな感想には絶対ならない
綺麗かもしれないけどそこに感動がない、未知の体験がもはやそこにはない
ジャズとかカッコつけていて動きが激しいのかと思ったら単にテンポが速いだけで他はド安定の曲調だった
アレはまるで冒険性がなかった、ダンスの練習したおっさんが忘年会でダンス披露するくらいの冒険
クラシックでも同じような感動を味わえればいいんだけど自分からテンポをぶっ壊したりできないし
音源にしたって使える楽器は限られてるだろうから独自性を出すのとか難しいんだろうなと思う
だってこれらのジャンルの曲の目指すところって期待の上を行くとかじゃなくて「上手く演奏する」でしょ?
昔は音楽ってだけで無条件で楽しませていたかもしれないけど今は音楽なんてそこらへんにあるしいくらでも上手い演奏を何回でも再生できるわけで
文化的にも小奇麗にまとまるのを目指すから何かいかに正確に演奏できるかの名人勝負としか見れない
というか複数の奏者からの多重奏で作る音の厚みが強みだって分かってんなら奏者100名規模でのコンサートとかも企画したらいいのに
もちろんライブのような体全体での体感型アミューズメント空間のコンテンツ的価値は認めるけどあれにしたって上手い演奏を聴きに来ているのとはまた違うわけで
観終わった最初の感想は、漫画『聲の形』が映像化されないことを確信したショックだ。
まず先に断わっておくが私が言いたいことは原作を崇めて原作未読者や映画を馬鹿にするといった内容ではない。
映画製作に携わる人間が『聲の形』をどういったつもりで再構成したのか、
そのせいで映画『聲の形』(以下、映画)しか漫画『聲の形』(以下、漫画)に触れていない多くの人に誤解させてしまったということ、
そしてこの世で漫画『聲の形』が漫画『聲の形』という作品でしか伝えられなかった、他のラブストーリーや青春物語ではできなかったこと…映画からは外されてしまったことについて触れる。
この日記を読んで少しでも漫画に興味を抱いたのなら、漫画にて『聲の形』というコンテンツを全て消化すべきであり、
本当の答えを噛みしめ、確認しなければ作品『聲の形』には全く触れないで人生を終えるといっても過言ではないと言っておこう。
これはステマではない。
なお漫画のネタバレになりかねないよう、これから漫画を読む人間にとって害にならない程度に極力抑えるつもりだ。
これはステマではない(繰り返し)。
そしてあくまでも日記なので読みづらさや誤字脱字などは勘弁してもらいたい。
単純に2時間半に収めるには物理的な無理があったため、大幅にカット、再構成されている。
その点だけでも漫画と映画は全くの別物と言っても差し支えない。
しかしこれは映画1本に収めるという制約上仕方のないことで、これに関しては特に言及するつもりはない。
要は、漫画が伝えたかった要素をコンパクトにして映画で伝えられたらいいだけだからだ。
つまり、私が問題にしているということはその再構成で漫画が伝えなければいけなかったことを大部分が外されているからだ。
制作スタッフは映画を見に来た観客にできるだけ「負の感情」を強く抱かせないように気を使って再構成している。
分かりやすく言うと「なんだよこのクソ鬱映画!!」みたいな感想にならないよう、できるだけイライラ不愉快になるような要素や、
生々しい要素をオミットしている…その商業的にも負になりかねない要素たちだけ、
この映画への梯子が外されて下に蹴落とされている…といったイメージだ。
漫画では読者の心をえぐってくるような要素が宝石箱のように詰め込まれている。
主人公・石田にともすれば殺意を抱かせるだけの強いクズの描写がされており、
小学生時代の石田を無条件に悪だと読者は強く確信でき、そこに同情の余地もなければクラスの手のひら返しにも憤慨するだろう。
映画ではかなりあっさりと流されていて、このせいで不快な思いをだいぶ軽減されているが、
石田の「俺は清算して死ぬべきだ」という気持ちが映画視聴者に軽く受け取られやすくなってしまった、薄っぺらく見られやすくなってしまっている。
漫画の特色として、読者の暗い感情をこういった不快ないじめや生々しい描写で刺激しつつ、
当事者である石田がどうやってそれを乗り越え、まともに生きることはできない、けれど死ぬこともできなくなったところを出発点に歩き出した、
というのが最初の石田と西宮の出会いで、だからこそいじめた本人である自分が友達になろうとするという不条理を進まなければならなくなったという経緯がある。
つまり、最初の死への渇望とその道を閉ざされた石田の心理描写を読者に刷り込ませるためには、
石田の所業が到底擁護できないくらい行き過ぎた描写であることが『聲の形』という作品には不可欠なのだ。
それを見た読者の底にドロドロと横たわりだした感情を燃料にして、出会いが種火となり燃えながら、時には火が消えかけながら、それでも何とか大きくなろうとする炎の様子が、本当の『聲の形』の姿だ。
作品として、「読者(視聴者)の負の感情」が必要なのだが、これは前述したとおり耐性のある人間を選んでしまうため商業的に足かせともなりかねない、
と判断され軽減・外した、というのが制作スタッフが再構成で行ったことだ。
ピンと来ないなら激辛だと食べれないから中辛にした、ということだと思って欲しい。
そのおかげで結果として極力不快要素を外し京アニの作画力とキャラの可愛さで万人が食べれる作品へと変化し、
映画『聲の形』は売れることに邪魔になる重りを捨て去り新品のランニングシューズを履いて走り抜けた。
でもそれは漫画が這いつくばってたどり着いたところとは違うゴールであり、
その漫画がたどったコースとゴールは今後二度と映像化され現実化されないということを確信し、制作の手腕の勝利も同時に確信し、私はショックを受けた。
帰ってレビューに目を通すと、やはり石田の心理描写が把握しきれていなかったり、
障碍者としての西宮の葛藤や苦悩もかなりあっさりされているので重いテーマだったという感想はありつつも、
そこから広がりを感じるような形としての感想が出てこず、実は何も考えさせられてないというのが観察できた。
西宮がなぜ笑い続けなければいけなかったのか、西宮がなぜ思い詰めてしまったのか、
石田も同様になぜ最初に思い詰めて、それでも西宮と違い諦めなかったのかということに説得感を出すためには、
やはり前述した「読者の中に生まれたドロドロとした暗いもの」を燃料にするための不快要素がオミットされたことが原因である。
聾唖の人たちからの意見も、この不快要素オミットのために発生した説明不足、その他ところどころに出てきてしまった脈絡のないように見える行動もこのオミット行為の副作用となっている。
ただ、それは商業的な成功には必要なかったし、事実それで勝利を収めてしまった。
これは作品の特色であってもビジネス上で不利益とみなされたものは無かったことにしていいという資本主義思想に対する芸術・創作の完全敗北と言い換えてもいい。
とにかく大多数に対して理解されやすければ、消化しやすいコンテンツであるならばいくらでも特色を消してしまっていいという姿勢だ。
それに深く静かな絶望を覚えたのは、漫画既読組には少なからずいただろう。
家に帰ったあとそれは視聴した沢山の人のレビューを読んで感じているかもしれない、私みたいに。
一体、映画を見た人の何割が石田と自分を重ねることができたのだろうか。
嫌な汗はかくことができただろうか。
漫画の『聲の形』は、一度死を望んだ石田が自分が行ったことを思い知らされ、なおかつ死ぬという逃げ道すら断たれたことで、
前を向いて、半ば仕方なく、半ばやけくそで行動する・西宮の友達になるというスタートで物語が始まる。
石田のやったことがどれだけ許されないことなのか、また当時の登場人物たちが流され、無力で、愚かで、間違えてきたことが心をえぐられる程度に描かれている。
この最初の導入でしつこいまでに鬱要素をぶっこむことで読者は自分が過去やってしまった罪の意識を思い出し、無意識に石田に重ねる、石田は読者の暗い過去だ。
今風にいうと黒歴史を人物化したキャラクターとしてこれで形作られる。
過去が黒ければ黒いと形をはっきりしてくるキャラクターだ、それは視聴者の闇の色と同じ色をしているからだ。
それをやらなかった映画が石田に対する感情移入がバラバラなのは、つまりは、その黒歴史へのアクセスが不十分になってしまったからだ。
普通、そこまで思い返すほどのトラウマや黒歴史を持つ人間は少ないので、
その場合は石田に代行させて罪の意識を増幅させるためにも石田のやったことは大きく描写されていた方が感情移入のためのパイプを築ける。
そして、死ぬことを閉ざされた石田が、つまりは黒歴史から目を背けずに、常に意識して生きなければいけなくなった「あなた」は、
どうやって生きていけばいいのか、どう周りと接していけばいいのか、取り返しがつかない過去と石田・あなたはどう向き合っていけばいいのか。
石田が黒歴史を貼りつけながら歩き続けるプレイヤーとなり、読者は過去が脅かすことに石田と共にドキドキしながら、辛さを共有しながら、
最初は不快感を感じていたはずの石田・自分に、いつしか何とかしようと奔走する石田を応援しだす。
けれどこれからの西宮・未来は泣かせないように行動することができる。
過去の追跡がどれだけ辛く暗いものなのかが、このテーマを重く受け止めるために必要な手順だ。
ところが、何度もいうがこれをオブラートに包むか削除してしまったため、このテーマが盛大にぼやけてしまった。
漫画では西宮の家庭環境や小学校の教師との再会や映画作り、いてもいなくても一緒だった真柴のちゃんとした存在意義など、
この暗さと前向きにもがく様を描くための要素が何度も繰り返されている。
その最後の結末が、読者のこれからの背中を押す形で終わっている。
生き続ける石田と現実に生きる私たちへの、エールへと繋げられている。
そしてそれが他のラブストーリーにできなかったことで、『聲の形』だけができたことだった。
他のラブストーリーに、何とかしようとして上手くいかずに古傷をえぐらせるような真似をして、
それでも読まざるを得ないという状況にもっていけるだけの能力がない。
「これはどうなってしまうのか?(他人事とは思えない感想)」と思わせるのがこの作品の面白さでもある。
◆
『聲の形』にとって障碍者という要素はいじめの歴史を作るためのただの道具の1つに過ぎず、それが本質ではない。
本質は、変えられない過去と変えられる未来、そして過去を受け入れるというこの3つの要素だ。
消極的に変わらざるを得なかった石田が変えられない西宮を救い、
一緒に変わっていこう、と2人とも前向きになるという完全に内面の話なのだ。
そして変わりたいけど変われなかったという気持ちの重さ、辛さ、ドロドロした暗い時間の積み重ねを描き切ったのが漫画だ。
読んでいる人間が石田の状況に嫌な汗をかき、そして小さくホッとする作品なのだ。
大ヒットをしている。
そう、思った。
映画館で聲の形から心をえぐられることに2時間半耐えられるか悩んだからだった。
ところが実際は、別のことでえぐられるとはそのとき私は思いもしなかった…
文豪ストレイドッグスとかネトゲ嫁は出遅れて数話しか見てない。2クール物含む。
クリスマス(2017)だしもう別れたんでこっそり復活させとくわ
まさか三十路を越えた童貞の俺に恋人ができるなんて思わなかった。
インターネットでリア充を気取る輩どもも、非モテをこじらせてリア充をうらやむ芸風の輩どもも、俺は気にくわなかった。
だから、そういう話で場が盛り上がる度に「そんなことより聞いてくれよ、うちのオカンがさ!」と、だれも聞いていないオカンネタをツイートしてどうにか居場所を確保していた。
おかげでオカンは毎朝起きるとアルミホイルをシャクシャク噛みながら口笛でダイアルアップをしてインターネット株取引にいそしむ化け物になってしまった。この場を借りて深くお詫びしたい。
だが、インターネットでしずかにこじらせていた俺にも好意をむけてくれる奇特な女子が現れたのである。
快活でやさしくてユーモアと好奇心を兼ね備えた年下の才女であり、たいへんかわいらしい。性格カタログと化した往年のエロゲでもなかなかここまでストライクなものはないだろうという高級物件である。
もちろん、俺は三十路童貞よろしく魔法使いとしての矜持をたずさえ、しずかにはげしくこじらせていた。
これはもう確実に騙されているに違いない。
三十路超えの売れないふぁぼられないブクマもつかない顔も目と鼻と口と耳がワンセットついているだけでたいしたことはなく、悪いことに肉は最近落ちなくなってきたうらさびれたインターネット芸人崩れを好きになるわけがない。
そうだろ?
だから当然の帰結として、生身の人間に触れずにオッサンが考えた二次元の女子の一挙手一投足に日夜情欲を昂ぶらせていた自分であるがゆえに、生身の女子がくれる好意の質を勘違いしてとらえているのだろうと手前勝手に得心した。
さもなくば、その好意に乗せられて暴走する俺をどこかで観察してあざ笑っている集団がいるのだろうと考えた。
そういう面白い催しがあるのならば、どうせなら観察する側にいたいものだ。
三十路半ばで人生に対するそれなりのあきらめを身につけた俺は、半ば自嘲とともにイグアスの滝にノーロープで飛び込む芸人になったつもりで好意に乗った。
手もつながずにデートは終わった。中学生男子よろしくゆだった頭がその重要さに気づいたのはデートが終わった後だった。
好意を向けられた相手にデートに誘わせたあげくなにもしなかった俺に、相手は失望しただろう。したはずである。
なにもなかったということは、さすがにかけるコストとして俺が笑いものにされている可能性は低い。
というかそもそも俺は罠にかけて笑いものにされて面白いようなキャラクターではなかった。
こうして浮かれて血迷った頭が人に決断の時を誤認させるのだなあと深夜の公園で砂山に頭をうずめて泣いた。
ふがいなさが、自責の念となり俺を毎夜責め立てるようになった。釣り逃した魚は大きいのであるし、俺はこうしてこの失敗を人生における最大の失敗として二月に一度くらいの頻度で悪夢に見ながら死ぬまで一人であることを責められ続けるのだろうなと覚悟を決めた。
いい夢を見たのだと思って、宝石箱にしまって生きよう。そう思っていたらまたデートに誘われた。
あるデートの時、意を決して家に呼んだ。
向けられていた好意につきあってみたような気持ちでいたはずなのに、いつしか呼吸ができなくなっていた。
胸は本当に苦しくなるのだと知った。右室ブロックの気があるらしいです。ヤバい。
さすがにこの頃になると、お互いにお友達同士のおつきあいではなく異性として認識しているに違いない。
何度となく繰り返された三十路のくたびれたオッサンの咲きかけの恋と葛藤、不完全燃焼のデートの度に膨らんではしぼんでいるのである。
他人事としてみるとこんなに気色悪いものはないのだが、明らかに相手も俺のアタックを待っているのである。
恋に狂った本能はそうだと断じている。しかし、「騙されるな、社会性を失うな」とこじれた理性もまたささやくのである。
「貴様の薄汚い下半身由来の欲求がそういう自分に都合のいい思考を招いているのである。一緒に居て楽しい女子と二人でいられるだけで身に余る幸福だというのに、お前は自分からその幸福を靴で踏みにじろうとしているのだ」
と大脳皮質に棲む天使(メイド服)と悪魔(ブレザー)がドルビーサラウンドでささやく、最近二人の意見が食い違うことがなくなってきた。
いやいや、とはいっても、女の子家によんで、お茶とお菓子だけ飲んでおしゃべりだけして帰るわけないでしょ、平成何年だと思ってんの。
二一世紀に生まれた若造どもが青い性欲をもてあまして図書館トイレ駐輪場でよろしくやってるんですよ中学生じゃないんだからそんな――
――手も、つながずに、デートは終わった。
待ってください、みなさん。ウンコを投げないでください。座布団を持って行かないでください。
みなさんのおしかりはごもっともです、自分でも、こんなに恋愛に向いてないとは思わなかった。
ふがいない右手を切り落としたい衝動を押さえつけて、メールで謝罪文を打ち、その勢いでおつきあいをお願いした。
リンゴが地面に落ちるがごとくオッケーがでた。
客観的に見るとなんなのこのウブなネンネちゃんとしか思えないし、実際そうだ。
相手もここまでつきあってくれるというのは相当の変人か暇人だし、この際もうちょっと押していこう。
ここにきてようやっと足が動きはじめて恋人的な段階が進んでいくわけです。
話が長くなってきたんでノロケはこの辺にしまして、タイトルの伏線を回収したいと思います。
途中段階はとばしますけど初行為をするべくホテルに行ったわけです。
泡の出る風呂とか照明とかで遊んで、テレビをつけて、AVはやめようってんでNHKにしといたんですよ。
あとは存分にイチャイチャして、照明を落として、消毒剤の臭いがするシーツの上に彼女の身体を横たえて、服はうまく脱がせなかったけど、ブラのホックは一発で外せて。いざや鎌倉うちてしやまんって時テレビの音が耳に入るわけです。
非常に耳慣れたBGM。そう、俺はこのBGMをよく知っている……荘厳で重厚で、悲哀をたたえた力尽くで精神をゆさぶってくる力強い音楽……!
彼女の肌の色がまぶしくて目をつぶるだけで経験したはずもない二〇世紀中盤の白黒映像が走馬燈のように流れ去っていく……。
『映像の世紀』
この文字列見るだけであのテーマソング「巴里は燃えているか」が耳に蘇る方多いんじゃないでしょうか。
わかりますよチャンネル変えるとか、音量下げるとかすればいいんですよ。そんなことはわかってるんですよ。
でも壮大な音楽と、うすっぐらいナレーションをバックに慣れない愛撫とかしてるんですよ、背中にファスナー付いてないかとか、カメラがしかけられてるんじゃないかとか、この反応は演技ではないのか、とかそういうことを考えるのに三十路半ばおじさんは必死なんですよ!! チョビ髭の男が演説してる中、ゴムを付け替える俺の身にもなってくださいよ!! ていうか早くしないとこのままだとあのシーンになってしまうじゃないですか!! だが焦るほどになにもかもうまくいかない!! 東京が焦土に!!
なかばやけになってテーマソングのリズムに沿って腰を動かしてたら、新型爆弾が落ちました。
人間としていろいろ申し訳なくなります。この映像とBGMが強力すぎて、俺は今後彼女と肌を重ねる度に「巴里燃え」が自動的にかかる身体に改造されてしまったわけです。
ちょっとした背徳感は恋のエッセンスとかそいういうおためごかしをすっとばして不謹慎きわまりない初体験です。ヒンズー教徒だった前世の俺が牛肉でも食ったのかと言わんばかりの仕打ちに心折れつつも、焦土となった都市の映像に負けない励起状態を維持しようとしている俺に、彼女がようやく口をひらいてくれます。
そう! 俺はずっときみの一言を待っていたいまからでも遅くない助かった! このいまいましいテレビ消そう! 消そうと言ってくれ! この状況がちょっと面白いのはわかるが俺のチキンハートはもう耐えられないんだ!
枕元にあるリモコンをたぐってなんでもいいからチャンネルを変えてくれ――! はやく!
このままでは俺の爆弾が――――
「ん、――不発弾?」
イケませんでした!
(最後の部分をオチ補正のため追記しました、わかりにくくてすみません)
(まだわかりにくいですよ)
(オチがなくて無理やり付け足すからこういうことになるんですね、わかります)
(うるせ-!)
でたよ
女性はとっくに”動物的価値観”の受益者かつ大規模な主体じゃん
話してて確認できたけどあんた自身もその価値観を内面化済みの信奉者だよね
そういう目線で男性を値踏みし、そういう市場で値踏みを受けて自分を売ってきたわけでしょ
なのにこういう話になった時だけ
かっこわる
文盲でなければ「女性だけが動物」なんて書いてないのはわかる筈
ただし生得的に若さとヴァギナをもって生まれてくる「基本全員エントリー権」の女性のほうが
”動物的価値観”に疑問なく安住出来るし全てのものさしに出来る側で、
出来るのであればそれをするのが人間
誰になんの文句を言ってるんだよ
”動物的価値観”に乗ってそれで人を値踏みしたり受益したりした時点で織り込んでたはずのことじゃないの?
遅刻はあたりまえだけど、ついに無断欠席しても何も言われない、のに契約更新されるまでになった。
その前に色々あって、バカとは働きたくないから更新しませんと派遣元に言うも、
もう更新しちゃったから。あと3ヶ月は働いて。は、まあしょうがないか。契約内は働こうと思ってたけど、
ダメな自分を処分しない会社にムカついて、他にもムカつく原因の宝石箱みたいな上場会社で(いじめと称して派遣の俺に仕事させないとか)。
仕事中に勝手に家に帰って寝てやった。さすがにその日で契約は気になって楽だった。
派遣社員って、雇用形態が違うだけと思ってたけどカーストなんだね。俺が派遣社員だからと俺の正解を間違いだと皆の前で言われて、
こいつ大丈夫かよと心配してしまった。そこまでして何を守るんだろう。契約切ればいいじゃん、嫌いなら。
採用するときは優秀な人間を求めながらばかにするのってなんなの?
ある程度の技術職の派遣社員なら、経験の多さからスペックは高くて当たり前なのに。
熟してないトマトなんて生では食えん
だが、煮るとうまいよね
あれ、玉ねぎの甘さがなくなるとクソマズイから注意ね。キャベツもないとダメ。ニンニクで香り出して炒めるとか最初の手順を手を抜くな。
トマトをつぶしてジュースにして塩入れた人は天才だね。塩とトマトは運命の出会いだよ。そこのコショウをガリガリしてちょっと入れるのさ。とんでもないうまさだよ。
カンで飲むときはマイナス10度の気温の中0度の部屋でちょうどよく冷やしたトマトジュースがうまいのだよ。ためしてみてくれ。
だけど、飲みすぎるとウンコが赤くなる。だから気の弱い人は1日1杯とかそんなんにしとけ。
塩?トマトのカリウムで相殺するし、トマトジュースを飲めないくらいなら、健康なんてくそくらえだ。どっちでもいい。健康のために飲んでるんじゃない。うまいから飲んでるんだ。
てかスリムボトル?なんなのあれ?ケンカ売ってんの?バカじゃないの?誰が喜ぶの?
いつだって私はトマトジュースのボトルをわくわくしながら買ってくるのにさ、がっかりしちゃうよ。
普段のストレスのおかげで、胃の上のなんとか門が閉まらないので、トマトジュース飲んでうっかり上体を傾けるとそのまま私がトマトジュースサーバーになる。まぁ二度おいしいと言えなくもない。
私はカゴメのトマトジュースが一番うまいわ。塩がちょうどいい。
次がナガノトマト。カンのトマトジュースのがうまい。ハコ買いしちゃう。
その次は100歩譲ってデルモンテ、デルモンテって味もうちょっと調整できないのかなぁ。
地ビールみたいなかんじで、地トマトジュースって売ってるけど、高級だけど、普通に手が出ないし別にどうでもいい。
私にはカゴメさんとナガノさんがいるもんね。(デルモンテは非常食)
でもさぁ、甘いトマトのトマトジュースってなめてんの?薄いんだよ。ドロっとした感じをなくしましただ?ばかじゃねーの、美味しさまで激減だろ。
でもトマトの漬けたのはうまい。あれはすごい。ありがとうありがとう。漬けてくれてありがとう。宝石箱だよ。いや心の底から。たからものだ。大事にします。
調合にもよるけど、トマトのゼリーもうまいね。マズイのはマズイけど、マジ美味い。
生のトマトにかけるなら、私も長い事迷走して、長らく醤油とトマトの両方の風味を味わう野路はまってたけど
どうしてもスーパーで買うなら醤油とはちみつのダブルにすると、売ってるような普通の(?)完熟トマトも食えるようになる。
ではおやすみ
俺はアナルは宝石みたいなもんだと思っている。そしてケツは宝石箱だ。
だからケツを広げるのはたまらんのだが、すぐにアナルを舐める男優がいる。
お前アナル舐めてんのか!!っていつもAV見ながら怒るんだけど。
アナルってのは広げたり閉じたり、アップにしたりして十分見せつけてから舐めるもんだろう。
舐めてツバがつくと、アナルの色艶やシワのより具合も分かりにくくなるんだ。男優なら分かれよな。
ローションをたらすのもNGだ。理由はツバと同じ。そこにエロさは感じない。
あとは広げ方だな。男優の広げ方が酷過ぎる。アナルの広げ方分かってんのか?
両手の親指で横に広げるのが主流になっているが、これだと筋肉のつきかたからして女優が少し力をいれればうまく広がらない。広がったとしても横に潰れる。
アナルは両手の親指&人差し指を可能なかぎり穴の近くにまで持っていき、×を描くように広げるんだ。そうしないとぱっくり広がらない。
あとアナルFUCKってなんだ?汚ねーチン○なんかツッコんでんじゃねーよ!アナルがけがれる。
アナルは出すとこバイブもNGだ。アレが出てくるところだからいいんだよ!ま、アナルFUCK後の残糞まじりのザーメンを絞り出すところは好きなんだけど、あのぽっかり広がった穴は俺の知ってるアナルじゃねーな。
ただし指でほじるのはOKだ。美女が肛門をほじられてると思うだけでもう発狂しそうになる。しかしたいていモザイクがかかるので逆にしらけるが…
俺はxvideoなんか見ない。理由はアナルが鮮明に映らないから。シワも見えんじゃないか。俺には何の価値もない。
だからわざわざDVD買って見ている。しかしこれも思うんだがなんで片面一層にするんだ。アナルがぼやけるだろ。
一時期2時間だけど片面2層のAVがあった。アナル鮮明だったなぁ。あれはよかった。
気に入ったアナルDVDがあればブルーレイを買う。すごく鮮明だ。マジ感動する!
先日なんかの尻もののAVのレビューで「アナルのアップなんかいらない。見たいのは女優の恥ずかしがる表情だ」なんてふざけたこと書いてるやつがいた。
こんなやつがいるからアナルの扱いが酷くなるんだ。表情も確かに重要だ。まったく恥ずかしいそぶりを見せなかったら空しくなるしな。
でも表情は言って見れば調味料。調味料がいくらおいしくたって肝心の肉が不味かったら不味いだろ。
「AVみたいなモザイクがあるの見て楽しいのか?」とよく聞かれる。楽しいさ、そこにアナルがあるならな。
マン○ってそんな興味ない。これも調味料だ。なくても支障ない。他にも調味料はたくさんあるから。
おっぱいや腰のくびれのラインとかがアナルの美しさを強調する。これらの調味料が複雑に絡まってアナルのおいしさを引き立てる。
あとAVにフェラとカラミはいらない。前戯でアナル見せてれば十分。まあここまで要求するのは贅沢というものか。
27歳、彼女いない暦=年齢。
恋愛経験は片思いだけで、10回程度振られ、もうあきらめつつあった。
いま、気になってる人がいる。
気がつけば目で追ってる。
隅々まで観察してようやく欠点といえなくもない小さな欠点がみえる程度の完璧な容姿。
素材の良さも、ファッションも化粧も、振舞い方も、俺を、というか男性を虜にするツボを全て突いてる。
ただまあ、容姿で人を好きになるのってどうなんだろうと思う。
僕は、彼女のなにも知らない。
一度、女2男1で偶然飲んだことがある。
わかったことは、たぶん彼女は、いわゆるコンプレックスってものがないんだろうなと。
痛い目は見てるだろうし、苦労はしたことはあると思う。
でも、華やかなオーラ、小さな顔に長い手足、透き通るような肌、彫りの深い端正な顔立ち、しなやかな黒髪、洋服や小物のセンス、それらを兼ね備えた彼女は、勉強なんか出来なくたって自分の馬鹿さに死にたくなったりしないと思う。(たとえ話で、実際は馬鹿じゃない。)
運動なんて出来なくたって、世界の底辺であるような気分にならないと思う。(スポーツも得意っぽいが)
その、負のオーラを感じさせない輝かしさが、眩しくて、眩しくて。
かつて僕は、どうして世の中にはこんなに女の人が溢れているのに、僕を好きになってくれる人は一人もいないのだろう。と一方的に愛してもらいたいと渇望していた。
他人を愛する気持ちなんかこれっぽっちもないくせに、愛してもらいたいと一方的に。
でも、彼女は、あれだけのものを持った彼女は、まず愛されるところからはじまれているはずなのだ。
憧れと嫉妬とが入り混じった説明できない気持ちが一杯だ。
輝く彼女の、その輝いていた過去を、そしてこれからもちやほやされるであろう人生を、切り取って、宝石箱にしまいたいような、人生を交換したいような。
この気持ちは、恋なんだろうかね?
被害者にも問題があるという考え方を突き詰めていくと、加害者だけでなく必ず被害者側も悪いということになってしまいますが、そういう話ではないですよね?
どうして「必ず」になる? どれほど対策していたところで防げない例はあるだろう。厳重に宝石箱を守っていても重機で壁ごと破壊されてしまってはかなわない。対策と被害可能性とのコストバランスの問題もあるだろう。そこは否定していない(そう読める文がどこかにあった? なら謝るが)。そうではなく,被害者に落ち度が認められる場合について「被害者は悪くない」と主張することの是非を論じているんじゃないか。
多いかどうかはまったく述べていない。全ての事件において被害者側に帰責性があるとも言っていない。ただ被害者側がもっと注意していれば被害を防げた事例はあると思っている。全称命題と存在命題な。
じゃあどの程度なら「高くない」と思う? はてな界隈でこれが話題になったのはたしか,深夜2時に米兵2人に誘われて相手宅にあがったケースだったよね。これを差し控えることは被害者にとってそんなに高い負担だったか。
あのな。君たちは望んで「奪われる性」に生まれついたわけじゃない。可能なら性器をとってしまいたいと思う人もいるだろう。女だというだけでコスト負担を強いられる。その理不尽さには同情する。でも現実にその性を与えられている以上,対策は「すべき」なんだよ。
結構言わないだけで、好きな人多いと思いますよ。
憧れというよりも、素敵なキラキラしているものを見るのが好きなんだろうと思います。宝石箱や宝箱を覗いている感覚というか、自分とは違う世界なものを眺めている感じでしょうか。それか着せ替え人形なのかもしれない(水着や性的なポーズをさせているのより、普通の服を着ているのを見るのが好きだから。素敵な人って基本的になに着ても似合うよ)。
彼女たちの表面が好きなんだと思います(職業に対する拘りやプライドを感じられればもっと好きになるけど)。
だから、プライベートで誰と付き合ってようが平気。ただ、幸せになってほしいなあとは思うけど。私を楽しませてくれるのに、不幸せにはなってほしくない。リア充であってほしいし、いろんな経験してくれればいいな。
才能なのか生まれ育った環境かわからないけど、努力して努力してやっとこ満足な文が書けるって人は、
むしろ自分の好きな分野の「ライター」を目指したほうが大成すると思う。
「うまい・・・感じちゃうっ・・・!」って文章がうまい文章かなw
シリーズものの作者だと、既に醸成されている世界観や登場人物の力を借りつつ
「読者どもッ!これが俺の書いた物語だッ!WRRRRRRRRRYYYYYYYYYYYYY!!!!」
ってやることができる。(もっともそれだけ懐の深い「設定」を産み出せるのは並じゃない)
でもそんな、いわば外部の力を借りることなく凄みのある文章を練り上げるのは・・・
中島らも御大のエッセイ(空からぎろちん)に「私の文章の書き方」ってのがある。
「うまい文章」を書く、ということを、まず初手から僕は諦めている
中略
ところが、ある日翻訳ものから目を転じて泉鏡花を読んだ。知らずに宝石箱をあけてしまったような感動だった。
世の中にこんな芳醇な、古酒のごとき文章があると知って、それから明治大正期の作家を読み始めた。
藤村、白秋、荷風、谷崎潤一郎に三島由紀夫ときて、文章に酔う喜びもさることながら、
「あ、こりゃだめだ」
と、気付いた。これだけの文章を書く人たちがきら星のようにいる以上、うまい文章を書こうという自分の望みは、
むしろこっけいに思えるのだった。逆立ちしようが百年千年練習しようが、自分には不可能であることに遅まきながら気付いたのだ。
何冊も売れた人でもこう言うんだからw
「あ、こりゃだめだ」って感覚に俺は耐えることができなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20070424143311
音楽の宝石箱とはいい例えですね。でもハズレ曲がないのはすごいと思う。どの歌もキャッチーで覚えやすいし。
で、わんぱーくせんせいは?