はてなキーワード: マゾヒストとは
藤沢数希は「出来るだけ沢山のいい女の膣に射精することがオスとしての勝利」
二村ヒトシは「性的な相性のいい相手と最高のセックスをすることが人間の喜び」
と主張しているように見えて、最終目的地が余りにも違うから話が噛み合わないんだと思う。
これはもう、どっちが正しい間違ってるという話じゃなくて、セックスの趣味の話なんじゃないか?
コンプレックスというか、もっと切実な問題ですよね。とにかく目の前に、セックスできないという切実な問題があって、それをどう解決するか、みたいな。
二村さんは恋愛を語るにあたって、「自分とはなにか」「愛とはなにか」といった部分で悩まれていますよね。それが僕にはよくわからないんです。だって、お腹が空いたら食べ物を探しに行くじゃないですか。それと同じで、恋愛って、性欲が満たされなかったから、満たされるように活動する、というだけの話ではないでしょうか?
二村は昔から女性の主体性に固執していたが、藤沢にとって女は食品に近い。
食品が承認欲求ではなく食欲を充たすものであるように、女も承認欲求ではなく性欲を充たすものなのだろう。
『ぼく愛』を書くうえで、似たようなジャンルの本を調べていて、男性向けの恋愛マニュアル本もかなり読みました。すると、ほとんどが、女性と喋ることもできないし彼女なんて夢のまた夢みたいな人を想定読者とか、物語の主人公にしていて、この本に書いてあるテクを使えば、童貞が爆発的にモテるようになるという書き方をしているんですよね。
ヒットしたスポ根作品の主人公って、地力があるし才能もある、というキャラクターばかりなんですよ。『スラムダンク』でもなんでもそう。野球漫画だったら、主人公は、最初は粗削りで下手くそだけど、キャッチボールはできるし、もちろん野球のルールも知っている。それなのに男性向け恋愛マニュアルだと、「コミュニケーション能力が普通にある人のためのモテ本」というのが少ない。まあ、そういう経緯があって、『ぼく愛』の主人公であるわたなべも、設定が、童貞ではなかったわけなんです(笑)。恋愛マニュアルは完全に非モテのためのもの、という思い込みが世の中にはあるのかもしれませんが、「普通の人がモテるようになる」作品があったっていいはずです。
たしかに所得が高く異性にも不自由せず生きてきた男性にとって、コミュ力が破綻した貧乏ブサイク男性との接触頻度は低い。
学生時代の友人も、同僚たちも、そこそこの容姿と収入とコミュ力を持つ。だから彼女持ちの弁理士を「普通」としたのだろうが。
恋愛工学は、要領が悪くてスペックの割に損している男性を持ち上げるノウハウであって、スペックが死んでいる人には使えない。
二村はスペックが死んでいる人にも何かしらの希望を提示したいのかもしれないが、藤沢は無関心なのではないかと思う。
より上を目指す、より「いい女」を得るっていうだけではない、横道にそれた「いい恋愛」「いいセックス」の探し方も人それぞれあると僕は思うんですよ。ていうか僕はそっちのほうが人を幸せにすると思う。これは女性に関しても言えることなんですけど。女性向けの成人コンテンツも増加しているし、女性の世界にも男性の世界と同じことが起きてきていますよね。僕はもっと女性の性欲についても考えたいですね。
女性の場合、男性の視界に入らないのは下位のせいぜい2〜3割だと思うんですが、確かに、性欲を持て余している女性も多いかもしれませんね。
いや、そういう“階級”の話じゃないし、モテる男になって抱いてやればすむという問題でもない。僕が「人妻との五反田でのセックスは関係が対等だから、藤沢さんの小説の中で唯一エロい」、つまり、それ以外の場面はセクシーじゃないと言ったのは、セクシーさというのはコントロールが不能で、おたがい支配できないのに波長が合ったときだけ匂う空気だからです。
藤沢は、階級と勝ち負けにしか関心が無いのではないかと思う。ビジネスには向いた性質だ。
女の価値を、「自分にとっての良さ」ではなく、容姿のランクにして定量化するのもビジネス的だ。そこでは「誰もが理解できる価値」が重要になる。
もちろん藤沢は、男もランク付けされるものと思っていて、ランクが上がるよう努力しろという人間だ。そこが負け組ミソジニストと違う点。
負け組ミソジニストは自分の未来より女に関心があり女を傷つけようとするが、藤沢は女に関心が無く自分の未来に関心があるため、
二村は「自分にとっての幸せ」を重視しており、マゾヒスト男性などのマイノリティに関心があるからこそそうなるのだろう。
趣味がマジョリティであればあるほどスペック重視になり、マイノリティであればスペックよりも性的な相性がピッタリであることが重要になる。
藤沢は変態の真逆なのではないか。セックスの内容に微塵も興味が無いのではないか。
藤沢にとっては「やれた」という達成感が重要で、それは仕事における達成感と同じものであり、
次はもっと良い仕事をするぞ!のノリで、もっと良い女を抱くぞ!となっている、あまりにも天然で無邪気な男なのではないか。
とにかく二人のエロ観が全く違うのだ。
ここまで違われると同じ「男」と括って、「男とは~」と語るのもバカらしい。
ある程度生活は落ち着いてきたが最近どうもフラストレーションが溜まる、大声で叫んだり走ったりしたくてたまらない。
彼は物静かな人で自分から何かを求めたりはしてこないので、自分のことを必要としているのかがわからず、それがまた日常のストレスとして積み上がる。
それがここ数週間の気分だった。
昨日霊感占いをしてくれるという人と出会い、診てもらう機会があった。
彼と結婚できるか見てくれ、と頼んだのだが戻ってきた回答が結婚どうこうよりも私自身について言及される内容だった。
人からよく見られたい、お行儀よくいたい、嫌われたくない、そんな気持ちが積み重なって自分の本来の欲望が圧迫されている。
それは必要があって被ってきた仮面だし、これはこれでうまく行っているので、このまま仮面は綺麗に被ってしまいましょう。
彼との恋愛、結婚もきれいな世界の出来事として続けていっても問題ありません。
その代わり、自分のための世界、自分がノーといえる世界、自分にイエスと言える世界を作ってください。
なんだろう、本質を言い当てられた気分だった。
結婚しなくてはいけない、人からよくみられたい、普通の人はこうは言わない、こうしない、というのが自分を雁字搦めに縛っていた事を思い知らされた。
親から結婚しろと言われているプレッシャー、相手の親に恥ずかしくないようにきちんとした仕事をしなくてはいけないという気持ち、彼が恥をかかないように出来るだけ上品にしていなくてはいけない。
彼より頭が良くてはいけない、彼が離れない為にNOはなるべく言わない。
そんな事を考えていた。それが行き過ぎて逆流してしまい、感情のコントロールができなくなった事も良くあった。
好きでいなくてはいけない、一途でいなくてはいけないとも考えてたな。
他の男の人に優しくされるのは嫌いじゃない。とても楽しい。
自分がマゾヒストだとも思っていたけど、サディストの要素もありそうだというのが冷静になって自分と向き合った時の自分への感想だ。
裏の顔とか、自分の城を持ってもいいのかもしれない。
どこに自分の城をもとうかなあと思うと少し楽しくなってきた。
こういうタイトルではなかったけれど、似たようなタイトルで『業界』について語っておられるブログがあった。有野課長がリツイートしており、そこに「これを読んで、諦めて欲しい。」とコメントされてあった。
その真意はわからないにせよ。そのブログの内容を掻い摘んで説明すると
「『業界』を目指すことはハイリスク・ローリターンだ。その職業で食っていける人は一握りも居ないんだから」という昨今増えた意見に
「ごもっともです。この『業界』を目指す人間はとても多い、しかしその中で本気で目指している人間はその中の30分の一くらいだ。それを踏まえると一握りから一クラスに一人くらいの確立には上がります。また、ハイリスク・ローリターンというのはお金の部分の話ではそうでしょうが、精神的な面でのハイリターンはとても大きい仕事と言えます」と答えておられた。
まぁもっと砕けた書き方、自己啓発本みたいな区切り方もされていたけれど。
「本気の奴等が一クラスおって1人だけかい!」とか「結局稼がれへんねやないかい!」みたいな部分は垣間見えますけれども、まぁそういう商売だから仕方ないわね。
ずっと笑顔で居なきゃならんなら普段から良い奴でいればいいんだし、でも本性みたいなのは見抜かれやすいから、本音で良い奴だと思わせることが出来る人ほど生き残れたりするんでしょう。まぁ気分が悪いもの見せられたって嫌だしね。
だからやる気が感じられない人はすぐに省かれる。大多数が見抜けるレベルのものならすぐに。
だからやる気が無いならすぐ別の事やったほうがいいわね。しがらみやらなにやらは忘れて、あ、これやるか。って奴をババーッと。すぐにやって、やる気無くなったらやめる。みたいなの。
周囲なんか意識してやる気も無いのにやり続けるのなんてのはそんなもん経験やら人生勉強じゃないからね。ただの長い苦痛だからね。
自分が楽しんで覚える仕事ならまだしも。茨みたいに締め付けられて物が覚えられる、他で応用できるなんてのはマゾヒストだからね。
やりたくないことはやらないに越した事は無い。どうしてもやらなきゃいけないなら次からはやってもらおうだなんて絶対に思わせないようにしよう。
じゃあ逆に自分がやりたいかどうかわからなかった場合はどうすりゃいいかって?そりゃチャンスをやる方も仕事をやる方もやらないに越したことは無いだろ。
自分のカラダに自信があるって、いいことだと思う。オトコノコであろうとオンナノコであろうと。
肉体美って言うの? そういうの、私は全然自信ないから。ほんと、他人様に見せられるようなもんじゃないってわかってるから。だから自分のカラダを誰かに見せてもいいって思えるのは、すごいことだと思うの。
でもさ、せめて特定の相手、たとえば恋人限定とかにしとこうよ。
友人のYに「脱いでもいいかな」って言われた時、思った。
Y「あのさ。脱いでもいいかな」
私「? 着替えるの? どーぞ」
漫画(JOJOの第3部。エジプト、行ってみたいな)を読み耽っていた私は、どっこいしょと身体の向きを変えてYに背を向ける。
Y「じゃなくて……違うんだ」
私「?」
Y「俺のカラダを、見て欲しい」
今、何て?
今、何て?
パードゥン??
えっと、ここあなたの家ですよね。ストリップクラブとかじゃないですよね。
あと私、あなたの友達ですよね。純粋な。彼女どころかセフレでもなく、至極ピュアでノーマルなフレンドですよね。
あなたの裸体を、私に拝めと?
何で私だよとかいろいろ思うことはあったよ、そりゃ。見てどうしろっつーんだとか。それって楽しいのか、とか。
でもYが「楽しいかどうかはやったことがないからわからない。けど、やってみたい」と堂々と言い放つので、仕方が無い。私も付き合ってみることにした。
まずパーカーを脱ぐ。ネイビーの、ごく普通の、多分ユニクロの。
もはやこの時点で動きがじれったい。つーかねちっこい。いやいやパーカーくらいスルッと脱げやと思うのね、別にそこに性的ニュアンスをめいっぱい含めなくてもいいじゃんかと。
でももう始まってる、と言うか、何かスイッチ入ってる。多分、マゾヒストのスイッチが。
見られることって快感なんだろうか。Yの頬がほんのり赤くて見てるこっちが恥ずかしい。あれっもしかしてコレ私が辱められてるの?
さて次は、どっちだろうと思った。
正直どっちが先でも嫌だ。正直心の準備ができてない。って言うか別にあと何時間待ってもそんな心の準備はできそうにない。
うわぁどっちだ、どっちなんだと心臓が喚く。
Yの両手は迷っているのか、お腹あたりのTシャツをきゅっと握りしめている。
「どっちが、先がいい?」とは、言われなかった。言われなかったけど、目が言ってた。
無言で動揺している私を見透かしたように、挑発する目付きだった。
Yの手が動く。
水色のTシャツの裾を交差した手で掴み、こう、昔の体操着を脱ぐ時の要領で脱いでいく(あれだと服が裏表逆になるから、脱いだ後面倒なんだよね)。
緩慢な腕の動き。腰が見える、おへそが見える、うっすらと腹筋が見える、薄い皮の下の肋骨が見える、脇毛が見える、二の腕が見える。
下から順番に眺めていたら、もう脱いでた。
ぱっと、指を開く。
水色の布が、ぱさっと音を立ててフローリングの床に落ちる。その音が、やけに大きい。
多分、無意識で息を止めてた。
ふと浅く溜め息が漏れて、慌てて口を閉じた。
こっちを見ないで脱いでたYが、そんな私に気付いてちらりと視線を寄越す。
一瞬だけ、笑う。
あー、楽しそうだなこいつ、と悔しくなる。まぁ、Yが楽しんでるんなら、いいけど。
外ではベルトを付けるけど、家では苦しいから付けない派のYは、今度はジーンズのボタンに指をかける。
銀色のボタンは、触るだけでカチャリと小さく音がする(酷く性的な音に聞こえるのが腹立たしい)。
ゆっくり、丁寧に外す。
今度はジッパーに手をかける。
親指と人差し指でジッパーの先っちょをつまんで、チチチチ……と開いていく。
うわぁあああ聞きたくない聞きたくない! 恥ずかしさで顔を覆ってしまいたい! 耳栓! ギブミー耳栓!!
それから。ジーンズ素材ってね、多分、摩擦係数大きいんですよ。
こすれるの。肌と。
衣擦れの音が半端じゃない。
「あーコレあかん音ー情事の音だよージョージのサウンドですよコレはー」って頭の中で馬鹿っぽく呟いてみても気を紛らわせないくらい、やっぱえっちぃの。音が。
何と表現したらいいかわかんないから、皆さんお持ちのジーンズを脱いだりして気分だけでも味わってください。
座ったまま、途中腰を少しだけ浮かして、ジーンズを脱ぎ取る。そっちは結構乱暴にぽいっとベッドの上に放り投げてた。
後、何が残ってるって?
正解! パンツでーす!
ブリーフ派とトランクス派? 男同士の派閥のことなんて、わたくし存じ上げません。ともあれYが着用してたのは、黒が基調のトランクスでした。
でもね、ぴったり密着してない方のトランクスでもね、わかるの。
勃起してやがるなって。
目算で、私とYの距離、1.5メートル。そう近いわけでもないし、細部をまじまじと見れる距離ではない。
あーどうしよ。これどうしよ。どう収拾付ければいいの。
脱いだら着ればいいじゃない! 時を巻き戻せ! ほらほら一人でお着替えできるかなー? まずはYくんがポイしちゃったジーパンをねー、んしょんしょって履いてみよっかー。
ごめんこれ以上は無理です私がパンクします、って言いかけたその時。
Y「ごめん、ちょい無理」
え?
と、Yを見れば、何か涙目で、でもこの上なく嬉しそうな、いやむしろ恍惚とした表情みたいな、あんた何その顔、って思ったら。
Yはダッシュでお風呂場に駆け込んでいった。
え、ちょ、Y? Yさん? 何事?
急展開に頭がついていかない。混乱して立ち上がりかけた私の耳に、聞こえてくる微かな声。
押し殺した声が、それでもお風呂場という反響しやすい空間のせいで漏れてくる。オォウ兄さん艶っぽい声出しやがって……そんなに辛抱たまらんかったのかい……?
なーんて下衆な部分が反応するけど、ものすっごくホッとしてた。終わった。あの呼吸すらままならない張り詰めた緊張の糸が、切れた。
数分後、Yは満足そうな笑みを浮かべて戻ってきた。パンツ一丁で。
脱いだ時のまどろっこさは何だったんだってくらい事務的に、スピーディに服を着ていく。
すっかり元通りのYに、「どうだった?」とにんまり笑いながら訊かれる。
「……淫猥」とかろうじてコメントを出すと、その響きが気に入ったのか、その日はずっと「いんわい。いんわいかー」と繰り返し口にして御満悦だった。
友人のYは、ちょっと危ないなとは思ってた。仲間内の中でも「あいつはきっとホンモノのマゾヒストだ」って密かに噂されてた。
けど、さすがに「ちょっと布団で巻いて欲しいんだけど」と真剣に頼まれた時は、頭の中で盛大にパトランプが回ったよね。(これは! ガチで! ヤバいやつ!!)って。
私「え……何……布団……?」
Y「そう。それで俺をくるんで、縛って欲しい」
私「しば……?」
Y「ああ、何で縛ればいいんだろう……あ、延長コードとかでいいかな?」
私「え、私が? Yを? 縛るの?」
余程怪訝な顔をしてたと思う、いや、して当然だと思う。
いろはすをガブガブ飲んでいたYは、私の珍妙な顔を見てキョトンと返す。
Y「いや、何も本格的に筵(むしろ)でくるんでくれとは言ってないじゃん?」
私(え、簀巻きって筵でやるのが正式なの?)
断っておくけど、Yはただの友達だ。彼のプレイに協力する義理も必要も、一切無い。
気を付けの姿勢で横たわるY(ちなみに、暑いだろうからという理由でパンツ一丁だ)の首から下をくるんと布団で巻く。出来るだけ圧迫してくれと本人が強く希望するので、胸部・膝付近の二ヶ所を延長コードで強く縛る。ごわごわしてやりづらいし、女一人の力では足りない気がする。人を簀巻きにするのがあんなに大変だとは思わなかった。
延長コードはYが用意していた結束バンドとやらで固定した。あれ、便利だね。まさか人を巻く為に使うはめになるとは思わなかったけど。って言うか何で常備してるんだろう。
ジャジャーン。Yの簀巻き、一丁上がりー。
見るも無残な簀巻きっぷり! 手も足も出ないとはこのこと!
ひょっこり頭だけ布団から飛び出してて、かえって無力感が増してる。
私「で、後はどうするの?」
Y「何もしなくていい」
私「うぇ?」
Y「今から、そうだな……2時間。俺の上に座って、漫画でも読んでてくれればいい」
えっ、この簀巻き状態で放置プレイを敢行? しかも私を参加させるつもり?
簀巻きのYは当然身動きもロクに取れず、ただ力無くフローリングの床に転がるだけ。更に漬物石(=私)を上に乗せて2時間を茫漠と過ごすって、それ何が楽しいのよ。
丸太にまたがる時の要領で、友人である(はずの)Yを布団で巻いた何かにまたがる。胴の辺り。
Yの妹が愛読していると言う『君に届け』が揃っていたので、とりあえず手に取る。
『君に届け』がなかなかどうして面白くて、しばらくはYの上にまたがっていることを忘れて読んだ。
Yはすごく大人しくて、実に優秀な簀巻きだった。呼吸による微弱な動きも、モコモコな布団に吸収されるのかあまりこちらに伝わってこない。
3巻を読み終わりそうな頃だから、30分くらいかな。だんだんモゾモゾが目立つようになってきた。
そりゃあね、身動き一つするなって言われたって、生きてるんだもの。するよ。身体のどこかが痒くなったり、居心地悪く感じたり、絶対にする。動かしたくなる。
でもYは動けない。
Yの簀巻きが不快そうにモゾモゾ動く。「……んん」みたいな、吐息めいた声が微かに漏れ始める。ああ、気持ち悪くなってきたんだなって思った。でも私は何も言わないし、どいてもあげない。
2時間のゲームが始まる前、Yに念を押されたことが1つだけあった。
どういう意味かは後々よーくわかった。
モゾモゾが目立つようになってきて、7巻を読み出す頃、Yが明確な言葉を発した。
Y「ね、ちょっと解いて」
来たか、と思った。試されている。
私は「んー」とあからさまに上の空で答えた。
Y「脚がさ、痺れてきてて」
私「あー」
Y「攣りそうなんだよ、ほんとに」
私「そりゃ大変だ」
私「もうちょっと頑張ってみよっかー」
何してんだろ、私。とは思った。
脚が痺れてきたのはきっと嘘じゃないんだろう。1時間も重石を乗せて同じポーズでいたら、そりゃ身体のどこかしらが悲鳴を上げる。
彼がマゾヒズムを味わいたいと言うのなら、私はサディズムを発揮しなければならないのだ。目覚めよ、私の内なるサディストよ!
Yは聞いているこっちが可哀相になるほど、憐れな声を上げ始めた。おずおずとしたお願いが、徐々に鬼気迫ると言うか、迫真の嘆願へと変わっていく。
まるで本当に筵にくるまれて東京湾に落とされる寸前みたいなテンションで「解いてくれ!」って言ってくるから、(えっマジなの? マジでヤバいの?)ってヒヤヒヤしっぱなし。『君に届け』ってこんなに冷や汗が噴き出すようなホラーな漫画でしたっけ?
Y「漏れる」
私は戦慄した。そして唐突な記憶のフラッシュバックが脳裏を襲った。
まさかこれも計算なのか? 事前の水分摂取により、簀巻きプレイ中に圧倒的尿意を催すことを計算していたのか? そうまでして自分を限界へと追い込みたかったのか?
二十代男子が「おしっこ漏らす」のって、もう人としてアウトだろ。人として。
そこまでスレスレの状況を楽しめるのかこいつは、と私は心底愕然としていた。それとも私が知らないだけで、放尿プレイとかが紳士淑女の貞淑なお遊戯の一つとして流行ってたりするの?
漏れそうなYはモゾモゾどころか牡牛の如くのたうち回り始めて、上にまたがるどころではない。私はロデオなんて嗜んでないんだよ、悪かったな。
呆気なく振り落とされたカウボーイの私は、Yが苦悶の表情で「漏れる」「もう」「だめだ」と言った断片的なワードを唸るのを茫然と見ていた。あと15分もこれを観戦してろって言うのか。苦行かよ。
ハサミでパチンと結束バンドを切断し、布団から脱皮したYは酸欠なのだろう(そうだと思いたい)、紅潮した顔でぼーっとしていた。
早くトイレに、と言いかけたが、もうその必要は無くなっていた。
名誉の為に言っておくけど、彼は簀巻きにされている間、尿意に耐え続けた。人間である為に、ひたすら我慢して我慢して我慢した。
だから、簀巻き状態から解かれた瞬間に気が弛んだとしても、まぁ、何も可笑しい話じゃないのだ。
痛みや苦しみがあってこそ、本当の価値がある。
これだけ選択肢に溢れた時代にわざわざ茨の道を往くなんて効率悪いしただのマゾヒストでしょ。
そりゃあそうでもしないと辿り着けないような場所ならいいよ?
でもさ、楽な道と過酷な道どっちも選べるんなら、過酷な道を選ぶメリットがないじゃん。
てめえが経験するわけでもない激痛を、それも無意味な激痛を女に強いるって馬鹿でしょ。
じゃあお腹痛めるどころか悪阻すら経験してないてめえらは子供を愛せないんだね。
うちの母は、お産の時聞いてたより楽だったって言ってたよ。
それでも立派に愛情注いでくれたよ。
自分をむやみに責める。そうしたところで現実はいい方向へ行くはずもないのに。
きっと、自分を責めて、苦しい気持ちになったり、虚しい感じになったりするのが、どこか心地いいんだ。
メランコリー親和型だとか、誰かが言ってた。
憂鬱な雰囲気が、落ち込んでる自分が、「苦しくてかわいそうな」自分が、好きなんだ。
うじうじめそめそしている人を見て、よくあるシーンとして、
「なにうじうじしてんだよ!」的なのがある。それはきっと、そういう、憂鬱な雰囲気に耽溺して満足してしまっている様子がその人には透けて見えて、気持ち悪いんだろうと思う。
もしくは、「これ以上傷つかないための予防線」としての自責もあろうと思う。
こういうことを言うことで、本当に傷つきたくない所を隠す。本当にツッコまれたくない所を隠す。
こんな風に、自責している自分をさらにメタに見ることで、さらなる自責の余地が生まれる。
「苦しい自分に酔っちゃってる自分、気持ちわりい」、「つらい・限界、とか言いながら、本当に痛いところを守ってる自分、ださい」等。
でも、本文では何を書こうとしているかというと、自責している自分をさらに自責するとかではなく、
「ああ、俺はそういう、溺れるのをどこか楽しんでるふしがあるんだなあ」と気付いたので、それならそうと、それを肯定して、もっともっと憂鬱になって、もっともっとこじらせてはまり込んで、楽しんでやればいい。ということが書きたかった。
水が低いところへ流れるように、人の欲望も低いところ、もとい、その人にとって楽な方へ流れる。
いつも気づけば憂鬱で虚しく、今ここにいる自分の存在がうらめしくてしょうがなくなるのは、もしかしたら、それが自分にとって最も好ましいからなんじゃないか。
漫画やなんかで、「いつまでもうじうじめそめそしやがって・・・ そんなにうじうじめそめそしたいなら一生そうしとけ!」みたいなのがあったりするが、そういわれた主人公は、奮起するのではなく、もしかしたら、指摘通りにするのがいいのかもしれない。
確かに、憂鬱な状態は、体感として、実際に、「しんどい」。これは間違いない。楽ではない。精神はガス欠で、体も思うように動かない。だけど、それを、「己が本能的に・無意識的に欲しているんだ」ととらえれば、幾分ましになりそうな気がする。受動的だった責苦が、まるでマゾヒストの行いのように、能動的なものになる。それを意識することができれば、「好きでやっているんだ」「体が欲しているんだ」と思うことができれば、楽にはならないが、ましになる。たぶん。
きっとこんなことを書いたところで、来週には忘れていて、ただ単にいつも通りのしんどい感じになっているんだろうなあ。ブラックホールに落ちたのならば、とことん落ちて、ホワイトホールから異世界へ出るくらいにとことん落ちてやろう。今はそう思ってます。
最近海外ベンチャーとかがやってる無人の野菜工場や家畜場を見てて思ったんだけど
例えば配達ドライバーなんかは、荷物の積み下ろしだけ売り手と買い手がやれば現状でも特に問題ないレベル。
食べ物はまだちょっと難しいかもしれないけど簡単な冷凍食品位なら現状でも作れるし、
レシピ通り切ったり混ぜたりできるロボットアームみたいなのあれば料理人も不要になるかも。
そういう全自動化された中でチョット面倒くさい事してくれる人にはインセンティブを与えればいいだけの話だよ。
例えば皆に配られる食べ物よりちょっと美味しい物が食べられる権利とかさ。
砂漠か空に次々世代の太陽光パネルでも敷き詰めれば今世紀と来世紀位ならエネルギー問題はカバーできるでしょ。
自分は国内の事しかわからないけど、少なくとも今の日本って仕事のための仕事作ってそれをこねくり回して少ない給料得て満足してるマゾヒストばっかりだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20140717223331の増田です。
たくさんの人に見てもらえるとやっぱり嬉しいですね。
埼玉のおっさんではありませんが、九州のアラフォーおばさんです。
胸糞悪くなるって書いてたのに見てくれて、しかもトラバやブクマをくれるなんて!
はてなには優しい人がたくさんいるんですね。
先日、大学生の彼に数年ぶりに会ったと書きましたが、あの後、一連のことを改めて思い返してみたのです。
ある意味サディストな私は赤の他人に気持ちの悪い自分語りをすることでその心を少しでもざわつかせてみたいと思ったのです。
しかしある意味ではマゾヒストな私はこれを投稿し見知らぬ他人様から罵詈雑言を投げつけられ、蔑まれてみたいとも思ったのです。
なので、ブコメ等で「胸糞悪い」、「気持ち悪い」、「一回死ね」と言われて非常に安心いたしました。ありがとうございます。
ご指摘どおり偏差値の意味については誤解しておりました。申し訳ありません。
ネット上では結構可愛い子が顔面偏差値30とか書かれておりましたので、単純にじゃあもっと下だな、と思って20としました。
1000人に1人のブスか?と言われるとよく分かりませんが、幼少の頃より親にブスだブスだと罵られ、学生時代はクラスで一番ブスな女子ランキングで常に1位に君臨しておりました。見えるところで結果発表するなよ、と。子供って無邪気に残酷ですね。
なので私は自分のことを自他共に認めるブスだと思っております。
ブスでも料理がそこそこ出来て、運が良いと結婚できるようです。
好きでは意味が広すぎる。恋をしたとするには羞恥を覚える。よって懸想、と書きました。
あれを美しい思い出に仕立てあげたい欲望の現われだと思っていただければ。
カレンダー通りにお仕事をされている方々は明日から三連休ですね。
私自身はヌルオタでありオタクに特別な嫌悪感を覚えている人種ではないが、また一人称が「私」だからって女だというわけではないのだが(笑)、
前々から1つオタク共に問い詰めたいほどの疑問を感じる所があった。異様にMが多いのである。日本男児情けないぞと言われてはやウン十年であるが、ちょっとそれとこれとは事情が違う。
一般人におけるドM男児の占める割合など比べものにならぬくらい、オタク男性の中でM属性を持つと判断される言動をとる人間が多いのである。
あまりにも顕著な社会現象であるためこの主張に異を唱える人も居ないだろう。それくらい多い。これは何故なのか。本当に何故なのか。
ところで、俺自身の性的嗜好(性癖という言葉は間違った日本語なので注意されたい)はどちらかというとサディストであり、古き良きSM文化にシンパシーを感じる人間でもあり、
努力家をドM扱いしたり安直な攻撃性をドS扱いしたりして茶化すやうな昨今の軽々しいSM文化には金太郎飴のように苦り切った顔をすることの連続である。
また、人間誰しも両面性を持つのだという人間観の持ち主でもあるから、特定の人間がSかMかの判断は簡単には行えないことも弁えているつもりだ。
しかしながら、基本的には男性は公衆の場ではSのほうがジェンダーとして自然であって、M男性を全否定までしないけど、
あまりそんな性的嗜好を前面に出すのはダサいし気持ち悪いから、プライベートなプレイとしてこっそりやっててくれないかなと思っているような偏った思想の持ち主でもあるので、
このドMオタクの問題をまこともって由々しき問題と捉えているわけだ。
それはそうと、このようにS嗜好をカミングアウトすると、即座に次のような典型的なツッコミが入れられるのが我が国のネット社会では通例となっている。
すなわち、「女性に対する苦手意識、ならびに男性としてのコンプレックスがあって、また現実に女性からまともに相手にされなかったり、酷い仕打ちを受けたトラウマ体験があったり
するから、なんとか優位に立ちたくてS妄想を繰り広げているのではないか?また、世の男性どもにSを期待するのも、女性へのいわば報復の一環ではないのか?」。
とまあこのような反応はごく自然である。というのも、トラウマと報復、苦手意識と正当化といった心理構造自体は、S男性という枠組みに限定されることなく、社会の至る所で見られ猛威を振るっており、
その暴力装置にびくびくと震えながら、疑心暗鬼に過ごしているのが現代人の諸相だからだ。したがって、安直にそのような認定をする気持ちはよく分かっているつもりだ。
しかしまあ、結局のところ性的嗜好は公に理解されるべきものではないし、理解を求めるものでもないと思うので、拙者は正当化することなくただS嗜好であると事実を述べるのみでござる。
とまあ今の話は余談であるが、本論と関係した部分もあって、基本的に性的嗜好はプライベートな性格を持つべきものであるが、
その性的嗜好とある程度関わりのあるジェンダーというシロモノは、これは公的な性質を持っておる。ここに矛盾が生じるわけである。
つまり、安易にお前はSだのMだの認定したり、くだらないSM談義でもりあがったりし、挙句の果てには俺はSまたはMなんだぜとばかりに公共の場で言動をとる。
そのようなことがジェンダー文化という名のもとに正当化されている気持ち悪い現代社会だなあ、とニヒルな顔で斜に構えながら厨二的に思うわけである。
でだ。オタクは空気が読めないと言われてきたが、それは一般人と価値観の異なる部分があるため、どうしてもわかり合えない部分があるのだ、という類いの擁護を繰り出すことはできた。
しかしながら、公共の場でドM自慢と言えるほどのアピールをしてしまうことには、ちょっと擁護をしかねる。
これと関連してバカ自慢、無知自慢という現象も昨今急速に広がりを見せている。バカや無知のフリをすれば批判されにくく、一定のある種の社交性を獲得することができる。
厳しいアスファルトジャングルにおけるその生存戦略は分からないでもない。しかしそこまでするかという話である。
元来女性社会においてはそのような文化があった。周知のとおり、女が女に言う可愛いは建前である。水面下では激戦が繰り広げられているのだが、表面上は謙遜して譲り合う。それが日常だった。
男性社会ではそのような文化は考えにくかった。男性は見栄と強がりの文化と言える。面と向かって相手を論難し、俺のほうが強いぜと威張る。結局大人になっても50歳になっても、形を変えるだけでその本質は変わらない。
孔子も60歳を耳順とした。これはどう考えても学問どうこうの話ではなく男性特有の一般的性質である。
それがどうよ。今では男性でもオタクに限定すればありえないくらい卑屈なのが多い。そう、卑屈なのである。
近年誤解が右肩上がりに蔓延しているが、本来的にはマゾヒズムと卑屈さはさほど関係がない。卑屈さというのは性格の問題であって、本人がどう足掻こうと常に卑屈なわけである。一朝一夕には変わらないし誤魔化せない。
しかしマゾヒズムやサディズムというのはあくまでプライベートな嗜好であって、外面的な性質(社会的性格や容姿)からそのような嗜好が形成されるケースはあるにせよ、さほど直接的な関係がないのである。
偉そうな社長で秘書にもブイブイ当たってるからってSであるとか、痩せていてクリクリした目をした男だから気弱そうに見えるだけなのにそれだけでMであるとか、
そういう安直な扱い加減は、もはや本来のサディズムやマゾヒズムとは全くの別物だということを理解してほしい。
そこで俺は本来のSMのことはサディズム、マゾヒズムと専門的に言い回し、現代の国際社会に蔓延る本来のSMとは似て非なるSMのことは世間と同じようにS、Mと呼んでいる。
この用法に従うと、極度に卑屈だからってマゾヒスト認定するのは抱腹絶倒のナンセンスなことであるが、ドM認定するのは全然オッケーということになる。
これでもう分かったと思う、オタク男性にドMが気持ち悪いくらい多い理由が。これはもう文化大革命と言えるほどの逆らいがたいIT社会のビッグウェーブなのである。
ジョン・タイターも2000年問題に挙げ、クレイ研究所も事態の深刻さを鑑みてミレニアム問題として提起した。それほど、事態は深刻なのである。
今じゃ3年どころか3か月ないし1週間未満で辞めてるのが普通だし、3年も働いてるのに辞めるって意味じゃよっぽど会社に愛着ないと出来んだろ
入社して速攻辞めない理由として、今は雇用流動化つまり非正規社員で溢れてるから無暗やたらに即辞めますって新卒が少ないことを言いたいのだろうけど、
実際の所は分からん。
だって、昔守られていた終身雇用制度は今はないし、サビ残休出もオールOKだし、すぐ首切るしでそんな会社に新卒が愛着持って3年も出来るかといった当然の疑問に多分答えられてない。
尤も3年以内離職率であればデータとして信頼できると考える人が、中高年に多いからそいつらの目安でこの離職率が図られ一般化してるんだろう。
今の経営者の殆どが昔の恩恵を享受してたからこそだから、とも言える。
でなければ、今の新卒社員がそんなごく一般的な恩恵を与えられずに、3年以内に辞めてるって事が今の常識で見て信用できるかどうかって事よな。
そんな奴、中々いないでしょ。
社内イジメ、セクハラ、上司の無理難題叱咤に達成困難のノルマ……、これを3年も耐えられるマゾヒストが新卒でなくても普通の社畜にもごく少数過ぎると普通考えないか?
結局のところ、伝統的な閉鎖社会のごく一般的なイデオロギーに集約されたのが、俗に『3年以内離職率』なわけで、現代のトレンドに合わないのは、
単純にその考え方が古くなっているだけの事。そんな古臭い考えに固執するから、未だに3年以内離職率を当てにしたがるわけだろうさ。
したがって、今の時代に合ってないのは当然。
http://anond.hatelabo.jp/20130822113352
「首都圏痛勤ナンバーワン路線で、かつ高年収ゾーンでもある田都沿線住民が、
職住近接に否定的」という皮肉な結果が出ている。
田都住民は、
「年収的には、都心のタワーマンションを買える経済力があるにもかかわらず、
『敢えて』痛勤路線である田都沿線を選んでいる」という人種で、
「勤務先が丸の内や港区から、二子玉川ライズとかに近づくことを、有りがたがらない」人種らしい。
また、三浦展氏は
「女性の大卒比率はかなり低い(=短大卒、高卒の専業主婦が多い)」として
・ダンナが丸の内や港区などの「ブランドエリア」に勤務していることをステイタスに感じていて、
・ダンナが「痛勤」していることについては、「大変ね」とも思ってない、
むしろ「ダンナの『家族への自己犠牲』を確認できるモノサシ、象徴」とすら感じている
はてぶの欄が足りないので覚書だよ。横レスですらないよ。
「40歳で未婚。子供は無理だけどいらないしアニメと漫画があればいいや」って人もいるし。
「18歳で就職20歳で結婚、30歳まで子供3~4人もうけるも、気付けば旦那さん浮気しててあれー?」って人もいるし。
いやそもそも本当の幸せってなんなんだろう。
例に挙げたような個人の幸せじゃなくて、「女性」とか「人類」とか、さまざまな個性を持つ個の集合体にとっての幸せって。
たとえば、痛い思いをしないで済む、というのは全人類共通の幸せかな、と思うけど、たぶんマゾヒストの人にとってはそうではないだろうし。
となると「痛い思いをしたい人は殴られることができるし、痛い思いをしたくない人は殴られることのない世界」ってとこに落ち着くだろうか。
だとすると、13歳で子供を産むことができるし、40歳まで子供を産まないこともできる世界。ってのが理想か。よくわからん。
文化は生き物だと思うんだよな。
振袖は未婚の少女の着物で、当時は「未婚で少女じゃない女性」っていう存在を想定してなかった(実際いたとは思うけど)
だから20代後半とか30代で振袖ってなるとやれ「おかしい。振袖は20代前半まで」とか「未婚なんだから振袖でいい」「色留袖で」とかいろいろ意見が出る。まだ正解はない。
いやさ、幼女誘拐犯がプリキュア好きって報道に対してアニメ関係ねぇって突っ込みがあって
まぁそれはその通りなんだけど仮にあの犯人が在日だったときに「これだから朝鮮人は」みたいな話に対して
じゃああの人たちは批判するかっていうとまぁそんなことは考えられないし
犯人がはてサだったら「やっぱりサヨクwww」とかみんな言うわけでしょ
アニメの時だけ守らなきゃってハッスルするからアニオタはきもいって馬鹿にされるんじゃないのと思うけど
心の底ではマゾヒストな人たちだから実のところ望み通りでウルトラハッピーだったりするのかな
いや一見矛盾しているようで「あいつらと俺は違うんだ」と自己防衛の切断作業を一貫して行ってる
ってのは理解してるつもりですけどね、お前らが日頃バカにしてる先代オタクたちが宮崎勤を程度差はあれ
自分の問題として受け止めていたのに比べるとまぁ情けない人たちだなーとしか言いようがないわな
参考
http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20120906-1012383.html
空き部屋だった隣の部屋に今月半ば男の人が越してきた。
この隣人は、引越しの挨拶もなく、初日から友達を深夜まで話し声がうるさかった。
自分の部屋はマンションの1階で、隣は角部屋なのでベランダが逆L字型に接している。
自分はその隣の部屋側の、壁の柱の横にpcデスクを置いていて、そこはベランダの通風孔の真上なので、窓を閉めていても煙たい。
隣人はDQN?っぽい若い人みたいで、ベランダで彼女らしき人と2人でタバコを吸っているのを見た。
最初は夜遅くまでいろいろうるさかったのもあって、ムカついて部屋で吸えよと思っていたが、よくよく考えると、
部屋が黄色くヤニ臭くなるし、隣人もベランダでタバコを吸うつもりで契約したのだろうから、仕方ないとも思った。
1階だと吸いやすいのかもしれない。前の住人も吸っていたことがある。今の人より少ない頻度だったが。
タバコを吸うのは、個人の自由とか権利だと思うし、その分税金も払っているのだから、理性的にはアリ。
ただでさえ若者が搾取されているのに、値上がりしたタバコを続ける意味がわからない。
喫煙者全般に思うが、彼らはマゾヒストなのだろうか。税金を払っているのに、警告文がついた商品を買うことに不満を覚えないのか。
喫煙者のデモとかもあまり聞いたことがない。外国ではあるのかもしれないが、外国のほうがタバコの値段も高く、パッケージの表記も厳しいし。
だいたい、タバコを吸ったってハイになるわけじゃないのに。よっぽど大麻やドラッグのほうが理解できる。
それにカップルでタバコを吸う利点がない。性欲が減退するし、口は臭くなるし、結婚したとき妊娠に影響がでるかもしれない。
>ひはん 0 【批判】
>(1)物事の可否に検討を加え、評価判定すること。
>「学説―」「―を仰ぐ」
>(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。
1.当然あることとして
創作物を公表すれば批判はあるものである。その際の定型的な文句としては「批判されるのが嫌なら公開するな」と言う言論。これは正当であるし、創作側は批判を覚悟しておくべきだと私は考える。しかし、それは批判をすることの良し悪しとは関係がない。「鍵を締めていなければ泥棒に入られる」「裸の女が歩いていればモラルなんて吹っ飛ぶ」「無防備国家は侵略される」、これは当然起こりうることとして考えなくてはいけないが、泥棒もレイプも良いことではない、当たり前だが私が考えるには悪いことだ。鍵を開けて外に出る家主は泥棒を覚悟すべきだが、泥棒は鍵を開いていることを理由に盗みを働いて良い理由には成らない。同じように創作物を公開すれば批判されるのは当然あることとして創作者は覚悟すべきだが、だからといって批判して良いという物ではないのではないか。
2.批判という手法
創作行為に対して批判をする理由は幾つもある、個人個人で様々であり一概に藻言えない、その中で創作者への好意的な理由として用いられると私が考えるのが「改善させるため」と言う物がある。確かに欠点は指摘されなければ気付かない事もあり、またその指摘が強い物であればより強く受け取ると言える。しかし、改善させるためならば、リクエストとアドバイスという方法もある。「こういう風な方が好きだ」「こうなったら面白そう」そう伝えることにより創作者に道行を示すことも出来る、また「こうした方が良いのではないか」「ここをこうするというやり方もある」そういった提案をすることによって改善を促すことも出来る。これは、どの手法が良いという物ではなく、様々な手法とそのメリットデメリット、中でどの手法を選び、その必要性と優位性。それを考えることが出来るということだ。
3.対人問題と芸術への問題
創作物への批判の良し悪しを考えるときに2つに分けて考える必要があると私は考える。言う相手との人と人と付き合いとして批判することの良し悪しと、批判が創作活動に対して及ぼす良し悪しだ。
対人問題として良し悪しを考えるときに、やはり相手の嫌なことを故意的に行うことを良いとは私は判断しづらい。相手にもよるが、殴られたってマゾヒスト以外喜ばないし、マゾヒストだって誰から殴られたって良い物でもなく、叱られるのであっても親から教師から友人から間柄があってこそ感謝が出来る。無遠慮に見ず知らずの人が乗り込んで嫌なことをしても良くはないと私は感じる。誰にでも良い物ではなく、相手を良く知った上でその人その人に合わせて批判と言う手法が適切であるか考えなくてはいけないのではないか。批判という手法は基本的には良くないと個人的には考える。
創作活動に批判が良い影響を与えるか悪い影響を与えるか。メリットと言えば、よりよき物が生み出される可能性や創作者の欠点が改善される可能性。デメリットで言えば、創作者の意欲が落ちる可能性や創作活動をやめてしまう可能性。メリットに奮起してやる気が上がる可能性もあるが、もちろんデメリットに間違った方向に進んでいく可能性があるが、そういうものは希な物として私は考えている。さて問題なのは創作活動が落ち込むほどに指摘することが、そのデメリットを覆す程にメリットがあるかどうかだ。上に記したように、アドバイスやリクエストという手段がある。より活動を落とさない手法があるのに、批判という手法をとるメリットは無いように私は感じる。
もちろん、受取手は創作物に感想を持つことは当然の権利であり、またその感想を口に出すことにも権利がある。そして、その口に出す感想をどこまでも発信する権利が創作者がそうしたようにある。しかし良し悪しとはまた別にあり、その中で考えなくてはいけないのは口に出す感想をどこまで伝えるのかという問題だ。まず受けて独り言を出すのに何も問題はなく悪いはずがない。次に仲間内で話す、ここで問題になるのは仲間の中に好意的な感想を持っている人を嫌な気持ちにさせる可能性がある、それを意識的に行って良いかどうかは、その仲間内の人と人との関係である。さて創作者に向かって伝える、ネットや出版社が間に入ってることもあるが、例えば目の前に作者が居て「お前の作品は駄目だ」と伝える、蹴っても良いよね。軽く軽く。次に、公に向かって発信する、これは創作物であり、他人を公然とあげつらって良いとは私は言えない。
個人でならともかくとして、他人が関わってくる時には行為が他人に与える力を考えなくてはいけない。嫌な気持ちにさせることを何の状況判断もなしに行うのは浅慮と言える。権利を有していても、その行為をすることが悪いことはあり、行為は時と場所を考えて行わなくてはいけない。
5.出来ることと出来ないことの間に
ネットではとにかくとして、出来ることと出来ないことが判断の基準になっていることを私は多く見る、その次に法律と各々のサイトのルール。「出来るんだからやらせろよ」「やらせたくないなら出来ないようにしろよ」「法律にないじゃん」。語調は私が書きやすい語調であり他意はない。単純に言えば「ウェッブルールもクソ喰らえ」「無断リンク禁止」問題か。可能不可能で言えば、プリントアウトしても無断でリンクしても問題はない。しかし相手を嫌がらせていることが消えるわけでもなく、嫌がっていることを故意的に行う人間性を良いとは個人的には言えない。悪し様に文句を言ったウェッブの人も無断リンクの人達も問題はある。
パソコン通信からインターネットになり、企業や国の公的なサイトと個人サイトやブログがある。個人対個人であり、公人でなく私人であることが最近は特に多くなってきた。インターネットに存在する物は全て公的な存在として考えるべきかどうかは社会学者に任せるとして、個人対個人の場合というのはやはり人付き合いなのだと私は考える。
ネチケットやネットマナーというは基本的に気持ちが悪く一笑に付される存在である。技術も変わり環境もたえず変わりネットには新しい人が絶えず足を踏み込み、共通の感覚というのが未だ成熟していない。自分と相手の間に、どこまで足を踏み込んで良い物なのかおっかなびっくりである。直接出会う人ならばどうするかといえば試行錯誤をしながら足を踏み入れていくところだ。さて創作者とはどうか。ネットにより、以前より際だって創作者と受取手が直接交流することになった。しかし、ニコニコ動画やぴくしぶは、それまでの出版社やプロダクションなどに属していた状況と違い、より個人対個人の交流に成ってきた。それはテレビの前でぶつくさ言ったり、手紙を出すのとは違い、モニターと言うテーブルを挟んだ座談会だ。それを今までと同じように感想を述べて良いか、これは先ほど書いたように時と場合が違うことを思い出さなくてはいけない。ネットマナーやネチケットは分からないが、人と人との付き合い方ぐらいは分かっているものではないのだろうか。
6.駄サイクル(ださいくる)
漫画家、石黒正数先生の作品より。身内で、作る→褒められる→見る→褒める→作る→褒められる、を繰り返すださい駄目なサイクルの事である。これを見るに、批判は必要なように思えてくるが、駄サイクルの問題は閉じた世界で満足していることであり、開いた世界で褒められるならばそれは傑作である。そして無理に批判をしなくても褒めないという手もある。
7.個人的な結論として
創作して公表すれば批判されるものだ。創作者は、それを排除してはいけない。しかしそれは創作者の態度である。受け手の態度はまた別である。創作物を受けたときに批判という手法は良いのかどうなのか。私は積極的にはとるべき態度ではないと考える。さて、しかし、上で記したアドバイスと批判というのは実は曖昧な物である。アドバイスと思っても創作者は不快に思うかも知れないし、どこからどこまでが批判とも言えない。そこで重要なのは受取手の感情で、嫌がらせる目的でやらないことなのだろう。
そして、批判をする側が「制作者はかくあるべき」と言うことを言い訳にしないこと。その言い訳は自身の行為を正当とはしない。ただ独り自身の行為として良し悪しを自身の倫理で考えるべきであるとして、私の考えを締める。
生活保護の人を叩く記事を見て思うこと。
それはなんつーか生活保護が悪いんじゃなくて、どうみてもそれ以下の生活を強いる状況の方が悪いわけで。自分の方が我慢してるとかマゾヒストの自慢大会かよ。
とりあえず生活保護以下の給料でやってる奴は最低賃金とかそういうのを加味した上で、企業に金寄越せ給料上げろ運動をしたほうがいいんじゃないのか。それやると労組だのオルグだの古の亡霊がうざいからさ、とりあえず、労働基準局真面目に仕事しろ方向で。正社員をあれだけ保護してるのはそうしないとどんだけ企業が横暴になるかって話であり、とりあえず簡単なのは派遣労働者を正社員と同待遇とする、と労働法で一文入れりゃいい。誰が出す金だって?んなもん、年収一千万も貰ってる社長どもが考えろよ。頭いいんだろ?
昔「ただで働く労働者が欲しい」とほざいて三十万の靴はいてたバカ社長がいた。なに考えて生きてるのか、旨い分だけ脳みそはウニの方がましだ。ウニの味噌は内臓だというつっこみはともかくとして。
あと、自分は自分の貰ってる金の分しか働かない、というのを大概徹底したほうがいい。1000円の労働できる奴が800円で働いちゃいけない。